2017年12月16日 (土)

 長崎パノラマ綺談 大泉黒石《 血と霊 》のカルマ的痕跡を巡って

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 ( 唐人屋敷跡に佇む土神堂。福徳正神ともいうらしく、土地の守護神。)


 本当は平日の方が良かったのだけど、諸般の事情で、やっぱり日曜日ってことになって、絵に描いたように、初めての長崎の路面電車に乗り込んだら、びっしりな密度で押し合いへし合い。その上、ネットで事前にチェックしておいた、どこまで乗っても一律100円が、乗ってから120円に値上がってるのに気づき、おまけに両替不可のニュアンスの張り紙までしてあって、ポケットにゃきっかり100円玉1枚。慌ててしまったが、普通に運転席の脇の料金箱に両替機が併設してあって、難なく下車できた。そもそもが長崎駅前の幅の狭い路面電車ホームが既に満員でルートマップなんて確かめる暇もなく、それでも歩ける距離内って観念があったので、ともかく二、三駅先で降りることにした。

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 ( 長崎JR駅前。人口比な小じんまりとした駅舎。隣接した商業コンプレックス・ビル"アミュ・プラザ"の一階のフロアーの大半を占めているファースト・フード屋やスターバックスは、日曜のせいで超満員。外にはレストランの類はあっても、喫茶店を捜すのも一苦労。その一階に全部が集約されているようだ。)


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  ( 路面電車停車場"西浜町アーケード前" 向側が築町、川の手前が浜町。ゆったり乗ってみたかったが、日曜だったので混んでてそれもならず。ここは日本中のかつての電車両が走っててユニーク。)


 大泉黒石+溝口健二の日活映画《 血と霊 》(大正12年)の原作の舞台となった篭町が先ず第一の目的地で、まっすぐ出島の旧オランダ商館跡の高い塀沿いに歩いてゆくと、中国人観光客ばかりが蝟集した一角の前に、派手な色彩の中国人街が一本奥まで伸びていた。さすがもう少し、周辺にも中国商店でも並んでいるだろうとの期待はきっぱり断ち切られ、その一本の中華街だけ。まあ、人口比でいけばそんなものだろう。中華料理屋と数軒の中国雑貨店が両側に立ち並んでいるのだけど、客の殆どが中国人、わざわざ海を越えてやってきた中国観光客が自国の料理や物産(意外と彼等には珍しいものもあるみたいだったけど)などに今更どうしようというのだろうと思ってしまうが・・・当方、こんなところで中華料理を、まさか中国の巷間の砂鍋米線なんかがある訳もなく、食べようなんて気毛頭なく、さっそく中国雑貨店を物色してみた。どうにも皆一様に狭く大した品もなく、安価なパッキングされた中華饅頭を五、六種購入。
 そこを通り抜け、福建通り=唐人屋敷通りと南下してゆくと、片側に唐人屋敷跡の看板のある脇に《 土神堂 》が小さく静かに横たわっていて、中は猫が一匹心地よさそうに昼寝している以外人影もなく、京都の辻裏の薄暗がりにポツンと佇む小さな祠(ほこら)と似た雰囲気が気に入った。門を入ってすぐ石橋があり、その奥にはもう祠堂が立ち塞がっていて、実に簡素。かつて、中国から渡って来た人々が普請して建てたものを、原爆後、市が再建したという。


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 ( 新町の中華街は本当にこの一本の通りだけ。黒石の頃の中国人街としての賑わいと比べようもないのだろう。二月の灯会ランタンフェスティバルぐらいしか中国情緒を感じられないのだろうか。まぁ、人によっては結構満足できるのだろうが。当日は、日本人客より中国人観光客の方が圧倒的に多かった。)


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 ( 何軒かある中国雑貨と安手の中国菓子を売っている店。"人民幣"レンミンビーも使えるような声も聞こえた。久し振りに聞いたフレーズ。中国人のおばさん達があれこれ固まって駄弁りながら物色していた。若い中国娘達は、そんなに大声で喋ったりせず、普通。)


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 ( 中華街の通りから少し離れた唐人街跡にポツンと佇んだ土神堂。奥の祠堂から入口門の方を望む。両側に僅かだけど茂った樹木のせいもあって、昼尚静謐な佇まい。)

 その土神堂の唐人屋敷通りを隔てたまん前に、《 あっ、チャンポン 》なる長崎名物の大きなチャンポンの看板を立てた麺屋があった。是非一度本場長崎でチャンポンを食べてみたかったのでさっそく入ってみた。
 中は普通の麺屋の佇まい。
 もちろん、レギュラーの“チャンポン”だけの注文。皿の真ん中に具材がこんもりと盛り上げてあって、小さくカットした海鮮・野菜がいっぱい。味は悪くない。700円。
 只、当方としては、かつて喰ったことのあるリンガーハット以来の食べ易いチャンポンとは別種の生皮のつきのままのエビの、エグイくらいに強い風味が記憶にあって、あれこそ本来のワイルドな本場長崎の味と勝手に決め込んでいたこともあって、本来の野趣を、都会的な口当たりの良さで封じ込んでしまってる感も否めず、も一つ納得できぬまま。
本当の幻の長崎チャンポンになってしまった。
 後でネットで調べてみたら、この店は、元々博多で流行っている店のようで、それが故郷の長崎に戻って来ての比較的最近の出店という。写真確かめてみると、ちゃんと“長崎店”と記してあって、余生を生まれ育った長崎で店をやりながら過ごそうというのだろう。篭町の方向を店の女性に尋ねた際、わざわざ厨房から姿を現した親父さんは人の好さの現れた衒った感じのない年配の人だった。


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 ( 土神堂をすぐ脇のフルーツ屋の角を折れた路地にある銭湯。三星って、福星・禄星・寿星、つまり道教的至福の三要素のことらしい。華美とはいかないけど、中国的異国情緒って訳で悪くはない。これは男湯の方で、女湯の方には、万年善徳為良範とある。)


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 ( 中新町の坂道=路地と石段の果ての頂上近くの旧い民家。入り組んだ路地が迷路のように続いていて小旅行にはもってこい。もっと先へ登ってゆくと、車道のある通りに出、ミッション系の海星系列の広い学校敷地が向かい側に佇んでいる。 )


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 ( 中新町の坂の上の通り。大袈裟に言えば、尾根の上の通りからの市内の俯瞰。反対側の海側を一望する場所も近くにあったが今回は端折って次回に持ち越し。)


 その後、さっさと大徳寺(跡)に向かわず、唐人屋敷通りから、十人町の路地に分け入ってしまい、トボトボと十年来でガタのきたデジカメ片手に長崎の地形的特性たる坂路をあてどなく辿りつづけた。石段に継ぐ石段。比較的新しい建物から旧式民家、列島中瀰漫しつづける朽ちた空家・廃屋。中国臭を漂わせた民家って殆ど見かけなかった。一体どのくらいの中国系の人々が住んでいるのだろう。大半が、神戸・横浜に移っていったのだろうか。丘の上まで至ると、中新町の表示があった。左手下方に海が覗け、右側に上って来た篭町はじめ長崎市内が俯瞰できた。
 70年以上前、その500メートル上空で原爆の閃光と圧倒的なきのこ雲が上空高く盛り上がり、遠く九州の真反対の大分県の海沿の町からも、阿蘇山越しにだろうそのきのこ雲が目撃されたという。
 つまり、基本、市内の多くの旧い建物は大半が廃されてしまったということで、当然、明治・大正の頃の姿をしか前提としてない黒石の作品世界、とりわけ大正時代の《 血と霊 》に描かれた長崎の街の雰囲気なんて望むべくもないってことは前提であっても、やはりその頃の痕跡を何処か一片でも確認できればってのが人の性ってところだろう。


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 ( 思案橋方面から大徳寺(跡)下の通りを坂上に向かう。人通りもまばらな静かな坂路。杉貞子もこの通りを、未だ鳳雲泰との数奇な出遇いが待ち構えているとは露知らず、紅い耳飾りを持って、篭町へ向かったのだろう。)


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 ( 坂上から大徳寺下の通りをのぞむ。石垣下に、楠稲荷神社へと昇る石段が覗けている。)

 
 「 すると、乳母は目を丸くして『 滅相もないことを仰有る、あなたさま、この夜ふけに、それだけはおやめになりませんと、途中で、又どんな奴に出会わないとも限りません。』と言いながら、主人( 杉貞子 )の無鉄砲を叱るように押し止めました。で、その夜のことはそれで、翌る朝早く耳環をもって、宝石屋とか細工商の多い籠町と云う支那人街に近い巷に出かけるつもりなのが、訪問者のために妨げられ、昼間近になって、やっと外に出られたのでした。行きがけ、一寸、魚町の展覧会へ顔を出し、そこから電車で、山の口と云う終点まで行くと、大徳寺の下を、一丁ほど歩けば、西洋人や支那人が、いつも賑やかに往来している港一の、繁華な通りに出るのです。その辺一帯が籠街なのでした。
 ・・・杉貞子が訪ねた宝石屋は、そこから五六軒目の、大徳寺坂下にあった。」


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 ( 石垣上の楠稲荷神社へ至る途中。左上に大きく曲ねった大楠の枝が見える。石段を登り切った向うに老舗《 菊水 》のくすんだ佇まいが。)

 

 母親から受け継いだ禍々しい血、宝石に対する狂的なまでの異常な執着に如何とも抗し難く自らの自滅の路をひた走りつづける宝石商・鳳雲泰とは露知らぬ画家・杉貞子が、雲泰の弟子・牛島秀夫から自宅に届けられた“楊妃の瞳”と呼ばれる紅いダイアモンドの耳飾りを、“貰う理由がない”と持ち主を捜し出し返却しようと籠町に向かう途中の道筋を、実際は如何なる雰囲気と佇まいなのかを、辿ることによって、当時黒石がイメージしていたものの幾許かでも体感してみようと思い立った長崎行なんだけど、ちょっと気負い過ぎた割には、のっけからルート外の中新町までの路地徘徊で些か疲労気味。
 それでも、路面電車の“思案橋”駅から下ってきた十字路の福砂屋本店横の路地をまっすぐ行くと、片側が石垣の 崖(当時だとひょっとして両側が上からと下からの崖かも)になっていて、確かに大正の頃だと夜にはガス灯の街燈の仄暗い明かりぐらいだろうから、物寂しさなんて通り越して、自分の影にすら怯えかねない怖い怖い坂路だったに違いない。片側の崖上に、地名の故(もと)である大徳寺の境内が拡がっているはずなのだけど、実際には、大正の当時も、黒石の生まれ育った頃も、とっくに明治維新の頃の、恐らく廃仏毀釈によってだろう廃寺となっていたらしく、既に現在と同様、“跡”であった。当然、維新政府がやらかした天皇制的策動なので、全国の少なからずの寺院が神社にすげ替えられてしまっていて、ここも現在、樹齢800年の楠の大木が聳える神社と公園になっている。
 その楠、“ 大徳寺の大楠 ”の名で現地じゃ流布しているらしく、その崖上の崖に面した一角に一軒旧い佇まいの木造民家があって、それが当地の老舗《 菊水 》。明治の創業というから黒石の生まれ育った時分にも商いをしていたはず。“大徳寺焼餅”という福岡・大宰府の名物らしい梅ヶ枝餅と同系の焼餅を作り売っていて、そこを中心に下側から大徳寺=大楠神社に昇る石段の上に覆い被さっている大楠と、《 菊水 》からも一つ上に石段を登った公園に大きく聳えた大楠って、後で帰宅してネットを見て気づいたのだけど、どうも両方とも“樹齢800年”と銘打っていて、一本だけじゃなく、大徳寺(跡)の境内に聳えている複数の大楠の総称として“大徳寺の大楠”って訳のようだ。
 さっそく、その老夫婦が金属プレートで1個づつ焼いている大徳寺焼餅を、一人前4個=700円なので2個=350円買い、かつて黒石もその境内で舌鼓をうったのかも知れないすぐ脇の神社公園のベンチに坐り、大きく伸びた大楠を見上げながら食べてみた。普通の饅頭より一回り大きく、白い薄皮の下にびっしりと甘さを適度に抑えたこし餡が詰まっていて、2個とも平らげてしまった。


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 ( 明治創業の“大徳寺焼餅”の老舗《 菊水 》。老夫婦が忙しそうに、数は少ないものの切れ目なく現れる客の注文に応じて金属プレートで焼き続けていた。色々主人も工夫しているんだろうけど、やはり昨今の妙に作ったのとは別様の純朴な昔風味が芳醇さすらを感じさせる。黒石も少年時代には食べたのだろうが、さすがに貞子や鳳雲泰の処を飛び出した牛島が空腹を紛らわせるために一つの焼餅わ貪るってシーンは描かれていなかった。)


 大徳寺(跡)=神社から崖下の細い通りに降りる石段があり、細い通りはそのまま真っすぐ行くと崖になったカーブを曲がって現在ではマンションで行き止まりのようだが、その神社への参道の石段をその件の細い通りから更に下ると、崖下一帯に拡がる篭町に至る。貞子が最初に訪れた宝石屋もその辺りってことになる。
 そして、その辺から50メートルほど先には銅座川が流れていて、川向うは銅座町。鳳雲泰の宝石店と細工場が在ったのはその一角に違いない。


 「 (鳳雲泰の)店の裏は、あの濁った銅座河岸です。河岸の道路に面して、焼杉の黒塀がございますでしょう? あれが表口から庭つづきになった細工場で、そこには支那人の職人が仕事をしています ── 亀甲を磨いたり、石を切ったり、金を熔かして ── 奇妙な生活は細工場の中に始まったのです。」


 
 魚町の美術クラブの絵画展覧室に立ち寄った杉貞子に、そのクラブの頭目たる老画家が声を掛け、懐から夕刊を取り出して昨夜の連続殺人事件の記事の部分を指し示した。


 「 昨夜も、下町の天満宮と裁判所のある石垣の下で演ぜられました。石垣と云うよりも城壁と云った方が適当かも知れない。そこは百年も前に、南蛮の行政を司る役所があった。その時の建物が今そっくり裁判所となっています。昼間は、その近くの公設市場に荷を運ぶ百姓達や買い出し人で雑鬧( ざっとう )するが、日がくれると、奇妙に森閑となる場所でした。その城壁の下に、一人の若い女が、心臓を刳りぬかれ、沙( すな )を掴んで俯向けに倒れていた事や、それもやはり例の殺人狂の仕業だろうと云うことなどが毒々しい文句で新聞の半面を埋めていました。」


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 ( かつての裁判所のあった現在も法務省関係の建物が頭上に聳えている石垣下の通り。築町・賑町の市場等が軒を連ねている。 )

 
 現在も、銅座から中島川を越えると市場なんかの並ぶ築(つき)町のすぐ向うに、高い石垣の上に法務省関係のビルが建ち並んでいだ万才町が連なっている。天満宮(注1)の方は戦後すぐ近くの賑(にぎわい)町に移っている。法務関係の敷地とその天満宮跡地(現在は法務関係敷地)の間に、かつて色々な事件の舞台にもなったらしい“大音寺坂” ( 天満坂 ) と呼ばれる些か広目の石段があって、“喧嘩坂”とも呼ばれる由縁を記した案内ボードも立っている。築町・賑町の辺りは市場なんかが並んだ長崎市の台所とすら称されている一帯らしいけど、残念ながら、その日は日曜だったので殆どシャッターが降りていてその雑踏は確認できなかった。


「 ただ、彼女は心の中に、不思議な耳環の行きかがりから、彼等が潔白である事実を掴みとることさえ出来るならば、と、それを願うのでした。裁判所は、前にもお話したように、下町の石垣の上にあります。杉貞子は、中川べりから車を駆りました。会わせてくれるかどうかと心配していたが、幸いに、彼女の社会的な名声を知っている係りの役人は、彼女の願いを聞き届けてくれました。杉貞子は暗い部屋の中で単独に、そして初めて、不思議な男と会いました。」


 この石垣崖下の狭い通りはかなり寂れた感じで、夜になると当時と同様に森閑としてしまうのかも知れない。
 夜も更け静まり返ったその通りで、ある若い女性が鳳雲泰の鋭利な刃物で殺害され、その崖上の裁判所施設に、犯人と間違われ捕らわれた雲泰の愛弟子・牛島秀夫が幽閉されるという随分とメリハリが利いた成り行きだけど、その面会室で、貞子は、牛島の驚くべき隠された秘密を滔々と明かされることとなる。
 殺害された鳳雲泰が、母親の宝石に対する異常な執着性の血を受け継ぎ、客が買った宝石を取り戻すため夜な夜な殺人行に直(ひた)走り続け、とうとう白人の客から返り討ちに合って斃れてしまったという血塗られた物語であった。
 この母親の血は、しかし、作者・黒石に拠ると、代々の遺伝子的にというよりも、彼女の美意識が次第に研ぎ澄まされた果ての、夫によって殺害されるという衝撃で、まだ幼かった雲泰に憑依し、血の中に溶け込んでいったという胎内感応の敷衍というイマジネーティブな発想と論理によって構築されたカルマ的怪奇譚。


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 ( 築町の角にある老舗の海産物問屋・小野原本店。安政六年=1691年の創業で、大正時代に現在地に移り火災に強いらしい現在の建物を建て、原爆にも堪えて今に至っているという。)


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 ( 芸者で有名な丸山。現在もその名残が点々と残っている。当然、坂道・石段の路地ってのが風情。)


 蛇足だけど、この界隈の立体駐車場で、幾年か前、少年(中一)による、猟奇的というより、屈折した少年期的リビドー的発露とも謂うべき幼児を裸にして刃物で傷つけ最後に屋上から投げ落とし殺害するという陰惨な事件が起きていたのを、ネットを見ていて、改めて思い出した。
 そういえば、長崎で、もっと猟奇的というより社会的閉塞を絵に描いたような病的な女子高生(高一)の事件もあった。典型的なエリート家庭で、睡眠中の父親をバットで殴り、同級生を殺し解剖したってので随分と騒がれた事件だった。元々解剖に興味があったらしいけど、医学部や生物学志望という訳じゃなかったようだ。如何ともし難い哀れさばかりが募る少年・青少年の屈折的蹉跌。
 けれど、この鳳雲泰の殺人衝動を基準にしてみると、この女子高生、それらしき口吻を洩らしてはいなかったはず( だから金輪際無かったとは断じれないのが問題だが )で、もっと端的に、これはネットで再確認しようとしたらもう詳細どころか、事件の存在も意図的に消去されているみたいで、被疑者が精神疾患を疑われていたせいかも知れないけど、1985年(昭和60年)に山口県下関で、“ 宇宙人の声がした”あるいは“ 宇宙人に命令された”と供述した被疑者の農業従事者が、自分の母親を日本刀で殺害し更に通行人に斬りつけたいわゆる無差別殺人事件、記憶が曖昧になって他の同様の事件での被疑者の供述と混同しているかも知れない。
 “宇宙人”じゃなくて“神”だったかも。
 1999年9月29日に下関駅構内で起きた無差別殺人事件とは別で、こっちは被疑者がそんな口吻を洩らしたって話はなかったようだ。
 宇宙人・神の声あるいは命令が、一体、どのくらいの圧倒的な威力をもって、被疑者たちの心身に影響を及ぼしたのか、あるいはもっと直截に云うと、その凶行に走らせたのか、知る由もない当方だけど、その微妙な、もっともリアルなデティールを、司法・警察なんぞがちゃんと追及・精査するって先ず期待できないだろうから、現代の語り部たる作家なんかに、たとえば田中慎弥あたりに期待したいものだ。

 【注1】因みに、天正年間に日本人切支丹によって創建され、切支丹弾圧まで建っていたキリスト教会が壊されて後、大音寺が建立されたものの幾らもしない内に他へ移転し、大部過った享保の頃、その跡に坂上天満宮(坂上神社)が建てられたという。
 

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2017年11月25日 (土)

 アンドロイドは叛乱する? ブレード・ランナー2049

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 映画自体は35年ぶりの続編で、映画の世界じゃ30年後の西暦2049年のロサンジェルスの街って設定なんだけど、海外での商業的評判が今一つ芳しくないって風評、予告編の凡庸さ、更に同じリドリー・スコットの《 エイリアン・コヴェナント 》も今一つだったのもあって、こりゃ余り期待できないのかものモヤモヤをひきずりながら、平日の人影も疎らな回を観てみた。只、平日の割にゃ、珍しく( 恐らく )週末の封切り日と同じだろう箱(劇場)で、十分に映像的・音響的迫力が効いていたのは幸いで、やっぱりスペクタクルものは広い箱じゃないと意味がないなと今更のように思い知らされた。

 結局、《 ブレード・ランナー 》って、近未来世界ってとこでのロスの街のイマジネーティヴな世界の創出ってことに尽きる。そこであってこそ、そんなに遠くない将来の象徴たるロボットより一歩先のアンドロイド(=人造人間 : 映画中での製品名はレプリカント)も活きてくる。1982年に公開されたオリジナル《 ブレード・ランナー 》は、正にそこにおいて世界の耳目を集めたんだけど、果たして、広めの劇場で観ることができたのも幸いしてか、オリジナルを凌駕するようなイマジネイティヴ=クリエーティヴな未来世界構築は見られなかったものの、オリジナルと違和を感じさせない程度の敷衍的光景は悪くはなかった。
 映画の中じゃ30年の月日が過っていて、オリジナルだと街中の巨大なオーロラビジョンに“強力わかもと”を手にした日本髪の女の微笑みが印象的だったの比べ、今回のは主人公に語りかける小さなビルなら跨ぎかねないくらい巨大な全裸のジョイという娘のホログラム的姿態が立体的+エロスってところで進化したのだろう。
 あるいは、老デッカードの隠れていたラスヴェガスの古い建物の中に備わった、遙か以前の遺物として設定されたステージ上のプレスリーやジューク・ボックスの中で歌うシナトラのホログラムともども、近未来性を際立たせるための小道具としては面白い。


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 オリジナルじゃ、宇宙植民地から逃げてきたレプリカント叛乱組織の圧倒的な強さをみせるリーダー、ルトガー・ハウアー扮するロイ・バッティと、逃亡レプリカントを抹殺するロス市警の捜査官リック・デッカード(ハリソン・フォード)との死闘と寿命間近かな人間的な生を求め延命を獲ようと足掻くレプリカント達が漂わせる悲哀が、ヴァンゲリスの奏でるシンセサイダーに増幅され中々に味わい深かかったけど、今回の《 ブレード・ランナー 2049 》じゃ、同じくロス市警の捜査官K(ライアン・ゴズリング)が、自身の記憶に埋め込まれた子供の頃の断片的記憶を機縁にして、ラスベガスの旧い館に隠れているデッカードと精密なレプリカントだったレイチェルとの間に出来た、ひょっとして実の息子かも知れないと想い込む様になってゆくのだけど、遂には、あくまで権力を欺くためのデッカードや叛乱レプリカント達の手の込んだ攪乱策だったことかが明らかになる。こっちは、情緒たっぷりって風情じゃなく、Kの勘違いが独り歩きしてゆく様がもう一つしっくりこないまま展開してゆく。後半になって唐突に現れた叛乱レプリカントの存在が余りに宙ぶらりんなまま、Kのバッティと同様の寿命切れで静かに終焉してしまう態は、いかにも次作を匂わせる。
 ひょっとして、オリジナルの《 ブレード・ランナー 》世界が仮構された来る2019年に、続編が発表がされるのだろうか。

 それにしても、リドリー・スコット、《 エイリアン 》ともども、アンドロイドに随分と執着している。
 "技術の独り歩き"ってすぐれて今日的な命題とともに、人間的な、あまりに人間的なアンドロイドたちの人間の業にも似た転輪し続ける炎によって、逆に人間達の真相をあぶり出すって寸法なのだろう。
 

《 ブレード・ランナー 2049 》(2017年)
 制作 リドリー・スコット  監督 ドゥニ・ビルヌーブ (米国)


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2017年11月13日 (月)

転向論的ゆらぎ 岩佐作太郎=秋山清  

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 門司港レトロには中国・大連から移築した二十世紀初頭ロシアが建てた東清鉄道汽船会社事務所木造三階建のレプリカ《 日中国際友好図書館 》があって、中国や韓国の書籍や中国語の大判の辞典も揃い重宝していた。初期の頃は、東南アジアの小説も申し訳程度だけど並んでいたのが、数年前に殆ど放出してしまったようで、完全に東アジアに絞った正に“東アジア図書館”。
 幾年か前、二階の奥に、平凡社の“東洋文庫”がずらり並んだ。
 アジアの古資料としては申し分ないだろう。
 最近、その草色のハードカバーを手に取って確かめていると、ふと《 共同研究 転向 》とあった。ページをめくると、見覚えのある名前が出てきた。大正時代のテロリスト集団“ギロチン社”の中浜鉄の生家の隣村生まれ、同じ大正・昭和のアナーキスト詩人・秋山清だった。
 中浜鉄が門司・柄杓田の産で、その隣の同じく漁村・今津が秋山の郷里。
 それも遠戚同士ってことで、何度か面識もあったという。
 因みに、秋山の言だと、中浜の柄杓田より今津の方が明らかに貧しかったってことだった。( 詳細はこのブログの《秋山清『目の記憶』》、《大正テロリスト・ギロチン社》(2014年)を参照 )
 

 戦後、しばらく、戦前の権力・軍部の対外戦争の挙国一致的キャンペーンへの協力およびその思想的変節=“転向”を非難・批判する動きが様々な分野で行われたという。戦前=戦争とその軍国主義体制への反省から発したもののようで、その一つの成果として《共同研究 転向》(思想の科学)編集・鶴見俊輔 があった。てっきり所謂社会主義者たちの思想的・運動的変容を指すのかと思っていたら、自由主義者なんかのもっと広範囲な人々を対象にしていたのでちょっと驚いてしまった。

 軍部統制の全国的挙国一致モードの真っただ中、徴兵されてない人々って、生活の幅も極端に狭くなり、到底意思(おも)うようには活動できなくなって、それでも僅かに例えば映画なんかで成瀬巳喜男のいよいよ戦争も押し迫った1939年(昭和14年)の《はたらく一家》、《まごころ》で挙国一致的記号を羅列はするけど、同時に自分たちの秘教めいた記号を埋め込んだりの一筋縄ではいかない風に作られたものもあった。
 
 映画・文学なんかは、まだ、そんな記号論的な術の余地が残されてはいたろうが、岩佐のような国家権力に対してもっとも先鋭な批判的・敵対的な政治的な運動の象徴的な存在だと、そのもっと早期から、1935年頃にはもう、一般にはあまり知られてないようだけど、日本全国でアナーキスト達数百人が逮捕される“農村青年社事件”と呼ばれた事件があって、権力に完全にその動きを封殺されてしまっていたようだ。
 殆どでっちあげ逮捕らしく、昨今も戦前権力と同質な自民党権力が戦後一貫してその成立を策してきた全体主義体制の常套=治安維持法=“共同謀議”的フレームアップ法体制化にうつつを抜かしているようだ。もっとも、国家権力って、そんな法がなくったって如何様にもデッチあげは出来るし、戦後も一貫してフレームアップ事件を起こし続けてきている。もう、やりたい放題。それでも、ある種の手合い(エスタブリッシュメントとも謂うらしい)は、この国が民主主義国=法治国家だとしたり顔や涼しい顔して喧伝して廻っている。戦前にも腐るほど列島中に跋扈していた類だ。正にバーチャル・デモクラシー世界。


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 岩佐作太郎って、戦前、明治末頃から戦後もしばらく活躍していて、大杉栄と並び称されるもう一方のアナキストの代表的存在だったらしいけど、風雲児・大杉栄に比して実直な岩佐作太郎の情報ってホント僅少。
 若くして米国に渡り、社会主義活動に目覚め、渡米した幸徳秋水とも交流を持ち、16年近く滞在。1910年に勃発した幸徳秋水たちが逮捕され12人が死刑、5人が獄死した《大逆事件》に抗議し、《 日本天皇及び属僚諸卿に与う 》なる公開状を日本政府に送り付けたのでも有名で、帰国後も、中国に渡って中国人アナーキストたちと交流をもったり、戦後も《 日本アナキスト連盟 》の全国委員長を務め、1967年没。
 この《 国家論大綱 》の巻頭に、刊行者の山本勝之助の記した岩佐の略歴がある。
 

 「 明治十二年( 一八七九年 )九月廿五日千葉に生まる。中央大学の前身東京法学院に学び、卒業後、漢学者山井幹六先生の塾に遊ぶ。又故三浦梧楼氏の処に寄食す。その頃、故神鞭知常氏の紹介で故近衛篤麿氏に接近し支那問題に働きかけるべく画策した。後渡米し渡米中のアナーキストとしての活躍は、余りにも有名なものである。日本の某大事件に対するサンフランシスコに於ける反抗演説会の演説は世界に喧伝されたものである。又米国を騒がした所謂「革命事件」の立役者でもあった。帰朝後は大杉、堺、荒畑、山川諸氏と共に社会運動の輝ける巨星であった。後昭和の初め中華民国の元老蔡元培、李石曾氏等の招聘に応じて渡支し、上海労働大学の設立に参画し、そこで革命史を講ず。済南事件後帰国し郷里に引退し今日に及ぶ。」

( 注 ) 三浦梧楼=元長州・騎兵隊出身だけど、山形有朋等の藩閥政治に批判的で、谷干城たちと反主流派を形成した軍人政治家。朝鮮国特命全権公使時代に起きた閔妃暗殺事件に連座したとされ投獄されてもいたようだ。


 岩佐の《 国家論大綱 》( 昭和12年2月=1937年 )って、たかだか20ページ弱の小冊子で発行所は《 亜細亜政策研究所 》となっている。山本が中心というより音頭をとって作ったのだろう。巻末に《 国策批判会論集 》の近刊予告があって、そこに山本や岩佐の《 支那について( 断想 )》、そして藤岡淳吉や矢部周の論文タイトルと名も連なっている。調べてみると、藤岡は草創期の共産党のメンバーらしく出版関係に拠点を置いていたのが、この頃“ 偽装転向 ”し、東条英機と拮抗したといわれる石原莞爾の本なんかを出版したりしてたのが、戦後は再び共産党に戻って出版事業に専念した人物。
 もう一人の矢部は、大杉栄と同時代の社会主義者から国家社会主義に変転した高畠素之の弟子らしく、この顔ぶれから、当時のエスタブリッシュメント=東条体制に批判的な位置関係にあったのが窺われる。
 因みに、岩佐に接近し、《 国家論大綱 》を書かせたといわれる発行人の山本勝之助も、元アナーキストだったのが、石原莞爾に魅せられて右翼サイドに思想的変転した人物らしい。


 この岩佐の《 国家論大綱 》、それ以前の岩佐が“ アナーキスト ”の頃には社会と国家とを峻別し、あくまで国家(=権力)は社会に寄生する本質的に異なるもの、敵対するものしてときっぱり否定していたのが、まずは社会的動物・社会的人間として、人間世界における社会の優位性を説く。


 「 人は社会的動物なり、社会は人よりも先在者なり」

 「 人々相寄り、相扶(たす)け、共にその自由を享楽し、発展を図ることは、これ本然の性である。この社会性を、集団心理を基調として、国家は生成し、もしくは樹立されたものである。」
 
 「 世に国家なく、法律なくば人々相食み、相殺し、相損い合うが如くいうものあるは大なる誤である。」


 とし、国家には二種あって、自然生成的国家と人為工作的国家があり、自然生成的国家を世界で唯一無二、日本だけの独自的存在性として提示し、他の国々、とりわけ欧米先進国をその典型とする人為工作的国家を対峙させる。
 
 自然生成的国家とは、「 統治者と被統治者との関係が、人間の社会性の、集団心理の上に自然に生成発展したるものであって、かの父と子との関係が自然に生成し、例え天地が転倒し太陽が西から出ることあろうとも、父が子となり、子が父となるが如きなく、その関係が絶対的なものであるように、絶対的であって、天壌と無窮溢れることなき国家を言うのである。」

註]天壌無窮溢(あふ)れることなき=戦前の超国家主義者たちの定型句。天孫降臨の際の天照大神の勅。未来永劫、栄えつづけるの意味。岩佐も、一つの時代的趨勢・皇国史観的体裁を整えるためのラベルとして多用している。


 それに対して、人為工作的国家とは、「 統治者と被統治者の関係が、人為の工作に由って樹立されたもの、詳言すれば、征服とか、契約とか乃至は偽瞞等々に由って人間の社会性の、集団心理の上に樹立された国家である。」
 つまり、「 昨日の統治者必ずしも今の統治者でなく、昨日の被統治者必ずしも今の被統治者でない。」
 「 統治者と被統治者の関係が相対的なるが故に、強は弱を排し、賢は愚に、徳不徳に代る、これ実に、人為工作的国家の常道である。」 


 この日本だけを特殊化した“ 唯一無二 ”等をはじめ当時の趨勢=皇国史観的国粋主義的なラベルを貼りまくって構築した自然生成的国家は、あくまで当時の天皇制国家を実像としていて、統治者と被統治者との関係が「 絶対的なるが故に、賢不賢、徳不徳、強弱等に依って統治者の代わることはない。統治者は千古、万古依然として統治者であり、被統治者は千古、万古被統治者であって、統治者となり得ないことは疑義を挟むことを許さない。」
 
 「 被統治者固(もと)より忠順統治者に絶対的に服従して居るべきが故に、統治者にして賢明、有徳なるに於ては、その国は無上の進化発展を遂げ、人民は鼓腹撃壌みなその徳に浴し、自由を享受することあるべきも、苟も上に立つもの尽忠の心に欠き、頑迷不霊、暴虐無道なるに於ては、その害悪の及ぶところ、人為的国家の比ではなかるべく、実に寒心すべきものがあろう。」


註]鼓腹撃壌( こふくげきじょう )=中国故事。善政がしかれ、太平の世を人民が謳歌する様。

註]苟も=いやしくも。

註]尽忠( じんちゅう )=君主や国家に忠義を尽くす。  

註]頑迷不霊( がんめいふれい )=頑固で道理を悟ることのない無知。


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 「 かかる場合に於ては、人為的国家にあっては湯武あり、クロムエルあるべく、特に人民は革命を以って応ずることがあるであろう。
  然るに、自然生成的国家にあっては、統治者は絶対の存在なるが故に、かゝることは夢想だもされ得ないところであるからである。」


註]湯武( とうぶ )=湯武放伐ともいう。中国の伝説で、夏王朝最後の王=暴君・桀王を殷(いん)の湯王が倒し、殷の暴君・紂(ちゅう)王を周の武王が倒し次の王朝を建てた。有徳の王が天子の座を有徳の者に譲る禅譲と真逆。


 「苟も上に立つもの尽忠の心に欠き」は、統治者=天皇だけど、それじゃ差障りがあるって訳で、権力の代行者としての統治者にすり替えている。すぐ前の“忠順統治者”が“忠順”で切れていれば別だけど、“忠順統治者”と一つの単語に繋がっているならそれであり、もっと後の箇所でその代行権力者を“当路者”(=重要な地位にある者。)としても明示している。
 当時だと、東条達軍部権力だろう。このパンフレットの発行者・山本や実態があったのかどうか定かじゃない《 亜細亜政策研究所 》周辺って、東条達と拮抗していたらしい石原莞爾サイドってことで、正に“君側の奸”=東条一派に対する指弾・批判って構図。
 ( この国家論のパンフレットが発行された前年勃発した《 二・二六事件 》の際、石原は東京警備司令部参謀として反乱軍鎮圧の先頭に立ち、天皇ヒロヒトに昭和6年の石原と板垣が画策した《 満州事変 》もあって訝られながらも一応の評価はされたらしいが、翌当年、つまりこのパンフが出た頃は、倒れた広田内閣の後任に推された穏健派・宇垣陸軍大将の組閣を、あくまで軍部主導の政治を目して流産させることを画策して奔走している最中、私見するところ、所詮石原莞爾も東条等と一つ穴のムジナ。おそらく、岩佐自身も冷めた眼で同様に視ていたろう。)


 これが、岩佐のこの国家論の基本構造ともいうべき反語的レトリック。
 先ず国家より社会の優先性・優越性を宣言しておいて、以降、幾ら国家に関して美辞麗句・賞賛宣揚をしてみせても意味を持たせない基本構造。(後出する右翼的農本主義者・権藤成卿の相似なこの論理に対する右翼達による批判は少なくなかった。)
 自然生成的国家の統治者=天皇を、絶対的統治者・天皇≒代行権力者と曖昧化しておいて、堂々と統治者=天皇を、「 賢不賢、徳不徳」、「 頑迷不霊、暴虐無道、その害悪の及ぶところ、人為的国家の比ではなかるべく、実に寒心すべきもの 」であっても金輪際統治者であり続け、被統治者は永遠にその苛政・苛斂誅求に甘んじ従順に堪え続けなければならないのに較べて、欧米等の人為工作的国家は、抑圧された人民達は起ち上がり革命等によって苛政・圧政権力を打ち倒し自分達の新しい社会を樹立すると説く。
 実に簡明な対照的比較論法とでもいうのか、一見欧米諸国( 人為工作的国家 )を否定・批判しているようにみせかけながら、日本=自然生成的国家の方が根本的に破綻し自壊してゆく矛盾・自滅的契機を内に予め孕んだ構造。正に、人民解放の革命へのアジテーションを、堂々とやってのけていたってことだ。
 言葉にすると大げさだけど、実際は驚くくらいに簡単明瞭過ぎて、偽装性の意味があまりあるとは思えず、よくこんなものが出版を許されたもんだと感心してしまう。非主流派であってもまだ石原莞爾が有力であった時節と、そもそもが岩佐に話を持って行った当事者でもあるらしい発行者の山本の政治的手腕の故なんだろうか。


 以上、岩佐作太郎の《 国家論大綱 》の簡単な概要をみてきた。
 次に秋山清のこの《 国家論大綱 》に対する言及・批判に触れてみる。
 

 「 大正の労働運動にアナルコ・サンジカリズムの勢力がある程度伸長した歴史をもっているアナキズム運動の流れの上に、満州事変、日支事変と第二次世界大戦のプログラムが進むにつれて、いち早く、殊にその指導的部分に思想的転向を表明するものの相次いだ事実は、革命思想としてのアナキズムが所謂アナキズムの陣営のなかにおいてさえも、意外に薄弱化にしか浸透していなかったということを示しているもののようである。 この研究は、二、三の著名なアナキストの動向によって、その歴史的必然と人間的必然との重なり合いによって表面化された転向の、よってきたるところをたずねようとするものである。」(p302)

 
 著名なアナキストとは、この《 共同研究 転向 》のアナーキストの章でもう一人取り上げられた詩人の萩原恭二郎や、当時農本主義志向に一層傾いていた石川三四郎等のことだろうが、“革命思想としてのアナキズム”の薄弱的浸透、つまりアナーキズムの根本把握と血肉化の脆弱さ故の、歴史的・人間的な必然的産物との断定。
 萩原と石川は取りあえず置くとして、かつては大杉栄の労働運動社に参画すらしていたもう一方の旗頭の岩佐作太郎にピタリ《 転向者 》としての照準を合わせ、アナーキスト詩人・秋山はこう続ける。

 「 ここで特に注意すべきは、転向した岩佐の国家観および道徳観の集約的表現と見られる『 自然生成的国家』という思考の背後に存在するものが、日本の特殊性、という観点に貫かれていることである。日本を特殊な国家と見ることで天皇の存在を許容し、大陸への侵攻に批判をさし控えるという、これは共産主義者の転向にも用いられた一つのケースである。」( P307 )


 「 岩佐は、これを地理的に、また歴史的に、日本について合理的に説明しようと努力しているようであるが、《 国家論大綱 》のこの理念は、極めて容易に岩佐の内部に、可なりに彼の若い時代から発酵しているかに推量されるものである」( P307 )


 「 いいかえれば、明治三十年代から在米国時代の社会主義活動以来、岩佐の約四十年間( 太平洋戦争まで )の国家権力とのたたかいの活動の歴史のなかに、その底流が見出されるかもしれない」( P308 )


 「 従来の彼の理論の観念的傾向と、《 生成的国家 》の説とが極めて近距離、等質的なものであったためと考えられる 」


 「 『 日本の盛衰は統治者の行蔵の如何にかかわる 』というに至れば、これは民衆の力による下からの革命の拒否である。統治者を天皇と見、天皇以外の支配階級を君側の奸と見ることによって、アナキスト岩佐の、反権力反支配階級との闘争ははそのまま彼の内部に生きつづけるごとき錯覚となり、隣にゆくような気軽さで、アナキスト岩佐は日本国家の称揚者となったのである。」(p319)


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 一見、秋山のこの岩佐の《 国家論 》に対する批判って、岩佐がこの論を発表した戦前当時に、傍から、つまりアナーキスト陣営からの批判として、岩佐の見え見えの“ 偽装転向 ”を手助けするカモフラージュとして認められた一文かと錯覚してしまうぐらい。
 が、実際は、戦後十年以上過ぎての批判論で、秋山も、岩佐のこの《 国家論 》が巧く出来ているとは認めながらも、「 排外的なすなわち日本主義と呼ばれる右翼的思考と全く区別ない主張を展開した 」と、けんもホロロ。
 秋山の、この岩佐に対する硬直というより頑なさは一体何処からきたものなのか。
 それは、例えば秋山のこのくだり。


 「 岩佐のこのような思想的転回と相伴う現象として、後進のアナキストの多数がこの前後から、全く岩佐と同様の歩調をもって右翼的な国家主義の地点に続々と移行していった事実がある。・・・・・・もっとも尖鋭な無政府主義の思想団体と自ら号し、革命にたいして個人的な創造的暴力を絶対視して革命的なアナルコ・サンジカリズムをさえ、その労働者組織を、権力発生の萌芽なりとして暴力的に排撃した黒色青年連盟員らが、日本の戦時体制に順応して、後には戦火の灰燼の中に“ 必勝革新運動 ”を唱えたり、または明治神宮あるいは二重橋前に早暁の礼拝に憂身( うきみ )をやつすようなみすぼらしい顛落を生じていった原因には、岩佐の転向の与えた刺激が大きかったという責任があるだろう 」(p322)


 「 所謂純正無政府主義を称した人びと、一切の革命のための組織 ── 労働組合、農民組合、あるいはそれらの職業別組合、さらにまた思想文化の団体にまで、反革命としてのその結成に反対しようとした観念的な思想体系は、戦時体制の下では生活の方途にすら混迷せざるを得なかったのである。日常生活に民衆の労働と勤勉を持たなかった人びとは、自主自立を根底とするアナキズムを自己内部からさえ喪失し、喪失したことによって、支配権力の元締めである天皇と天皇制とに、独自の解釈を加えることで、これを容認し、近づこうとしたのである。」(p323)

 
 上記に共通する秋山の思いと感情、それは次の当時の秋山の現実状況の把握に端的に現れている。

 「 第一次世界大戦後の労働組合の発達と社会主義の活性化の中では大杉栄を中心とする《 労働運動社 》の活動が、思想運動、労働運動におけるアナキズムの中心であったが、大杉の事後、大正末期にはギロチン事件等のテロリズムの発生となって、とかく労組等の組織活動を軽視する傾向がつよくなり、アナルコ・サンジカリズムがわが国のアナキズム運動の中心勢力であるという事情は、急速に変化しはじめた。
 昭和になってからはさらに、石川三四郎らも穏健なサンジかリズム的思考を非難されて、黒色青年連盟( 黒連 )や全国労働組合自由連合( 自連 )などの指導的位置には自然と岩佐作太郎が据えられる形となった。この間アナキズムが、労働運動においても文化運動においても影響力を弱めていった・・・」

 秋山は戦前・戦後もいわゆる岩佐達の所謂“ 純正無政府主義 ”と角逐し対峙した“ アナルコ・サンジカリズム ”系のポジションにあり続けたらしく、増々時代が閉塞してゆく中で純正派が、急進的な青年的ヒロイズムと一蹴されかねない切羽詰まった将来的展望の欠如した直接的暴力主義に傾斜してゆく過程で、秋山達アナルコ・サンジカリズム派を誹り排斥したという秋山の裏切られ切り捨てられたようなトラウマと怒り=呪詛の念、正にこの一点に、秋山の純正派の象徴=岩佐作太郎に対する論難は成り立っているように思えてしまう。
 当方、当時の純正=アナルコ・サンジカリストの角逐・争闘の具体的詳細はつまびらかにしないけれど、秋山をして、そこまで執拗に糾弾させた要因・契機が、彼の批判の論の中には他に見出されない。
 

「 世に国家なく、法律なくば人々相食み、相殺し、相損い合うが如くいうものあるは大なる誤である。国家は人間の社会性の、集団心理の上に生成し、もしくは樹立されたものであって、その成員をして人間としての完成を遂げしむることが、その使命である。・・・・・・
 国家が、その使命を閑却し、もしくは私の法を作り、私の欲を逞うし、人民の自由を奪うに於ては、人間社会は、こゝに醜悪、悲惨、残虐な修羅の巷となるであろう。」(《 国家論大綱 》5p)


 先ず国家より社会の優先性・優越性を宣言しておいて、以降、幾ら国家に関して美辞麗句・賞賛宣揚をしてみせても意味を持たせない基本構造。最初にそれを提示してみせるという、しかし、そんな恥ずかしいくらいに見え見えの単純な偽装性であっても、ともかく一応は、山本勝之助の手腕の故なのか検閲の網の目を通過でき出版されたのだけど、今度は欧米型の《 人為工作的国家 》を貶め指弾するように見せかけながら、その実、我が国固有・絶対的なものとして持ち上げた《 自然生成的国家 》を、現実状況をも媒介として、逆照射し、《 自然生成的国家 》=天皇制国家・大日本帝国を根底的に否定し批判するという逆説的手法を臆面もなく延々と展開してゆく。
 繰り言になるが、当方から見ると、よくもあんな石原莞爾すら東条に排斥されてしまうご時世に、かかる鉄面皮な、こう言って良ければ、空前絶後なスケルトン的偽装転向の金字塔《 国家論大綱 》を世に出せたものだとホトホト感心してしまう。

            
 補足すれば、これは秋山も指摘していることだけど、明治・大正・昭和の時代を通じて、所謂“右翼”的サイドに身を置き、“社稷”(しゃしょく=大地に根差した自治的村落共同体)の概念を基準にした“農本主義”を唱え、“五・一五事件”にも影響を及ぼしたといわれる権藤成卿の論に同調・触発されてはいるだろう。
 権藤は、甘粕等陸軍の大杉栄殺害およびそれに対する右翼サイドの同調的言動にかなり不快感を示したり、軍部の言論弾圧に“ファッショ”の語句を使って批判したりの、必ずしも全体主義的超国家主義者じゃなく、例えば、プロシアを規範にした明治国家を次のように批判した。

「社稷を離れたる国は、必ず尊己卑他の国にして、其民衆は権力者の奴隷となる」
 
 そして、岩佐が《 国家論大綱 》で援用した理念が、

 「 土ありて而(しか)る後民人あり、民人ありて而る後君長あり」

 あくまで主役は“民人”なのであって、天皇や権力は、良いとこ、二次的存在に過ぎない。勿論、この論に当時の右翼サイドからも、この理念に異を唱え批判する者も少なくなかったという。ともあれ、権藤の自治的農本主義に、岩佐が必ずしも近代主義一辺倒じゃないアナーキズム的共感を覚えたのは確かだろうし、転向的偽装に好個の論理と意匠を得れたってとこだろう。

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