2017年10月15日 (日)

エイリアン : コヴェナント( 聖約 )  一つの存在論的な巨大な実験( =フラスコ )としての人類創生、それとも技術論的な開発としての人類繁殖? 

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 前作の《 プロメテウス 》(2012年)が、この《 エイリアン 》シリーズの新たな、それも本源的展開だったということで、今回、それなりに期待はしていたのが、スルリとかわされてしまった。
 製作者側の企図としては、今回の《 エイリアン : コヴェナント 》は、前回の《 プロメテウス 》の続編だけど、次回作《 エイリアン : アウェイクニング 》こそが、《 プロメテウス 》の直後にくる続編ってことで、今回のはその《 エイリアン : アウェイクニング 》の後に続く三つ目の物語らしい。

 そんなややこしい作りにしたためか、この《 エイリアン : コヴェナント 》、些か説明的に過ぎ、《 プロメテウス 》の未知の異世界を一歩一歩踏みしめてゆくスリリングさも薄れ、如何なる都合・技術的な問題があっての末の一つ飛ばし、あるいは結末の先取りか知らないけど、蠱惑的な謎というより思わせぶりな中途半端な代物に堕してしまった。続編を前提とした作品が往々にして陥る陥穽。  
 

 そもそもが、前作《 プロメテウス 》が、オリジナルの《 エイリアン 》(1979年)の前日譚として作られたもので、オリジナルの《 エイリアン 》の宇宙輸送船ノストロモ号が鉱物資源を積んで地球への帰途の途中、知的生命体らしき信号を発している小惑星へ会社命令による進路変更したことによる未知との遭遇=エイリアン禍に見舞われたのが西暦2122年、惑星探査船プロメテウス号が種の起源を解き明かす鍵となる惑星LV-223に降り立ったのが西暦2093年。

 つまりリプリー達が降り立った惑星LV-426で不気味に佇む巨大な宇宙船と化石化した異星人の姿に遭遇した年から29年も前に、既に同じ企業のプロメテウス号が別の惑星で異星人とその宇宙船、エイリアンとの遭遇を経験しその情報を得ていたということ。

 そして、今回の《 エイリアン : コヴェナント 》では、植民船コヴェナントが2,000人の入植者を目指す惑星オリガエ6に運んでゆく途中、ニュートリノの衝撃波を受けて故障し右往左往している最中、近くの、とある太陽系の第4惑星から知的生命体らしき信号が発信されているのを確認し、地球に近い環境故にとりあえずの探査が行われるのが、前回のプロメテウス号から11年後の2104年。
 そして、次回作、《 エイリアン : アウェイクニング 》が、その11年間の間の何処かって訳で、これだけ見ても何とも煩雑でややこしい。


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 オリジナルのエイリアン・シリーズの頃は、普通にSFホラー・スリラー映画ってとこだったのが、《 プロメテウス 》以降の新シリーズじゃ、人類の起源はじめ本源的なアプローチに西洋的神学を加味し、中々興味深い設定で、とりわけ今回は神学的ニュアンスが強くなっていよいよ面白くなってくるはずだったんだけど・・・。
 

 《 プロメテウス 》で、人類を作った異星人( =エンジニアとこの映画では呼ばれている )が、あたかもノアの大洪水での人類絶滅やソドムとゴモラを殲滅した神ヤハウェの如く、惑星LV-223から人類=地球の殲滅・破壊を企図していたのを、今回の《 エイリアン : コヴェナント 》では、彼等エンジニアの遺棄宇宙船に乗って、彼等の居住する惑星に赴き、上空から彼等エンジニア達が作った生物兵器をぶち撒いて住民たちを最後の一人まで殲滅し尽くしてしまったエピソードを、両作品に登場するアンドロイドのデヴィッドが回想するシーンがある。
 それが、かつて古代の死の都と化したソドムとゴモラもこうだったかと想わせる彼等が降り立ったその第四惑星の黒々と石化した無数の人型の遺物の意味だったという訳だけど、その辺の詳細が、次回作《 エイリアン : アウェイクニング 》で明かされるという流れなんだろう。


 そもそも何ゆえに、人類を作ったはずの異星人エンジニア達が、人類を絶滅することを選んだのだろうか。
 それは、前作《 プロメテウス 》の最後の方で、主人公の考古学者エリザベスの問、地球への帰還を拒絶し彼等エンジニア達の母星に進路をとった際に、アンドロイドのデヴィッドに零したセリフでもあった。てっきり、今作でその謎解きがなされるものと決めつけていたら、完全に肩透かしを喰らってしまったのだけど、この“何故に”( 人類殲滅 )ってのは、はっきり言って為にする類で、昨今の人間達の行状からして幾らでも推測がつく代物。

 要は、それが神=万能の唯一神であってようやく、何故に万能のはずの絶対神がそんな齟齬・矛盾の極みの破綻を来たす挙に出てしまったのか? という疑義も呈されるけど、それが異星人・宇宙人ならば、多少の程度の差こそあれ、所詮横並びの同じ生物ってことで、単なる試行錯誤的な恣意性を出るものじゃないという了解性の上での、デヴィッドの報復(?)あるいは人類絶滅の阻止としての先制攻撃だったのだろう。只、実際のところは、次作を待つ他はない。そう単純に推測されるような作りにはしない監督リドリー・スコットってところなんだろうから

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2017年10月 2日 (月)

昭和16年 開戦前夜の映画状況

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 昨今、すっかりAMAZONばかりで、めったに訪れることのなくなった古本屋、たまたま降り立った駅に設けられた古書の特設コーナーの棚に、思いがけず戦前の映画雑誌を見つけ、一冊買ってしまった。

 《 映画之友 》昭和16年5月号( 映画日本社 )定価:50銭

 どちらかといえば、“通”の方の《 キネマ旬報 》と違って、一般向けの《 映画之友 》、戦後だろうが評論家の故・淀川長治が編集長をやっていたという。
 表紙がにっこり笑った原節子で、多年の色焼けはあるものの破損やひどい汚れもなく比較的小綺麗な状態で、定価千円。これって、果たして安いのか高いのか。
 それでも、ページをめくる指先に、ザラつき、ヒリヒリとした異物抗体反応を覚えさせる。七十年以上もの歳月の間、ページを繰った先人たちの悲喜こもごも、一切合切が堆積し凝固した澱(おり)の感触。
 
 昭和十六年( 1941年 )といえば、その年の暮れ、米国との戦端が開かれた年。
 ページのあっちこちに、いよいよ子供から年寄りまで駆り立てる総力戦態勢的な決意表明のシュピレヒコール=フレーズが喧しい。
 戦前、とくに戦中の現実=生活空間的イメージって、も一つ概念的で、リアルなものとして把握できてなくて、例えば、かの漂泊的ダダイスト・辻潤の、この時代閉塞の真っただ中で、如何様にクダをまき、餓死していったのかなんて、“歴史”の向こう側に朦朧とゆらめくばかり。とっくに投げられた戦争の賽(さい)のいよいよのっぴきならぬ、クライマックスへとひた走りつづける時代の傾斜、その仄昏い薄膜を少しでも明かす手がかりなればとページを繰ってみた。


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 この昭和16年早々、陸軍大臣・東条英機が《 戦陣訓 》を通達した。
 悪名高い東条と同じくらいに悪評芬々たる《 戦陣訓 》、東条以前から編纂されてきたものらしいけれど、最高責任者として、陸軍大臣として通達したのだから、やはり東条の責任は免れない。
 いわゆる“ 生きて虜囚の辱めを受けず ”って奴だ。
 この戦陣訓、軍部だけに通達されただけじゃなく ( 警視庁も早々と翌月には《 警察訓 》を出した )、一般国民にも種々様々な出版物やあげく《 戦陣訓の歌 》として各レコード会社競ってレコードまで出して、軍人から民間人の隅々まで至らしめようする正に総力戦態勢の精神的要として軍部=権力が提示したもの。二年後にはアッツ島はじめ各前線での玉砕命令に使われはじめたという。


 この《 映画之友 》五月号にも、《 戦陣訓 》がらみの記事が網羅されていた。
 74頁に《 三社競作“ 戦陣訓 ”を訊く 》のタイトルの下に3ページに渡り、レコード同様、大都《 母と兵隊 》、日活《 神風槍騎兵 》、松竹《 戦陣訓 》等の映画の方の戦陣訓ものの競作についてそれぞれの関係者の言葉を借りて紹介がなされている。サブタイトル代わりのキャチコピーが、

 “ 戦陣訓は昭和論語である。これは軍人のみならず戦時下一億国民の銘すべき皇民訓でもある。”
 

 45頁の本文巻頭、太文字で、“ 臣道実践 職域奉公 ”のプロパガンダ・フレーズが掲げられ、興味深い記事が続いている。
 “ 巨匠連の沈黙を嘆く ”では、《 芸道一大男 》、《 戸田家の兄妹 》を撮り終えた溝口健二、小津安二郎両監督が、その後制作活動に入ることもなく、日活の内田吐夢、田坂具隆、倉田文人等は相変わらずの沈黙。衣笠貞之助然りと嘆いている。どの監督もそれぞれに葛藤・わだかまりがトグロをまいていたのだろう。
 
 それと関連して、“ 国策映画に積極的たれ ”では、
 「 昨年は、松竹の《 西住戦車長伝 》、東宝の《 燃ゆる大空 》の二作が、辛うじて国策映画としての面目を保って市場に現れました。その他に、東発の《 大日方村 》と、日活の《 沃土萬里 》と、たったこれだけです。日本中の映画会社が寄って作ったのが、僅かこの四本です。勿論、時局便乗映画は、いくらでもあるでしょうが、日本の国策に対して、正々堂々と名乗りを挙げたのは、以上の作品に尽きています。映画の国策的使命の云々されている今日、これはいささか貧弱です。」
 
 “ 日本映画の南進 ”では、日本国家と共に、映画も亦南進し、仏印( インドシナ )へ、泰国への進出の後は、ハノイやハイフォンに遠からず日本映画専門の小屋(=映画館)ができるという噂とある。


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 120頁には、《 映画界非常時辞典 》なる旧体制から革新的新体制( 挙国一致国民総力戦態勢 )に脱皮するための項目辞典が編集部によって掲載されている。
 華美なセットや衣装、内容すら禁止され事前検閲を受ける[贅沢禁止令]はじめ、結局一社一本興行を余儀なくされた[製作一元化]、更に[電力節約]、[徹夜禁止令]、他の映画会社のを廃し、日本映画ニュース社の一本のみの上映とする[ニュース映画統制]、大政翼賛運動に於ける映画利用は翼賛会宣伝部、同文化部の手によって着々実践化されている、という[翼賛運動と映画]、そして[輸出映画]では、戦争状態( 第二次世界大戦 )の故に仏印(インドシナ)・蘭印(インドネシア)では仏・蘭本国からの新作の輸入が途絶えたために、その間隙をついて、南方映画政策が、南方映画協会を基点として積極的に、ニュースや文化映画の次に一般の劇映画もそれぞれの現地語版を再編集して輸出することに決定したという。第1回は、《 暖流 》と《 西住戦車長伝 》。それとは別に軍事映画三作をナチス総統ヒットラーと宣伝相ゲッペルスに送る決定も。

 
 《 暖流 》(松竹) 監督・吉村 公三郎 主演・高峰三枝子、佐分利信。 
《 西住戦車長伝 》(松竹) 監督・吉村 公三郎 主演・上原謙。 


 130頁の《 そこが知りたい 》というコラムに、“ 李香蘭は大船で何を撮るか?”の記事があって、同年二月に東京・日劇で行われた李香蘭のショウに大勢の観客が外まで溢れ、警察が出動する騒ぎになって人気のほどが知れようものだけど、その彼女が今度は大船映画に出演する運びとなったのが、この編集部では大船の一特色として“不発弾企画”とまで、その頃厳しくなった俳優登録の問題もからめてその成否に疑念を呈している。
 「 帰還勇士で大船のホープたる佐野周二と今を時めく李香蘭との組合せは蓋し圧倒的な人気映画となることは必定である。・・・原作ともなるべきストーリーの執筆を、松竹では大佛次郎氏に依頼し同氏に既にその執筆を開始したとのことだ。・・・日支親善をテーマとする民族的スペクタクル映画で仮題《 中華の女 》とのみ。」

 映画はその年に実現。
《 蘇州の夜 》(昭和16年)監督・野村浩将。主演・李香蘭、佐野周二。(松竹)


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 前後するが、43ページに《 対談 》とあって、“ 赫々たる武勲に輝く岡譲二少尉と、佐野周二軍曹が、軍服をぬいで、映画を語り、舞台を語る。これは両帰還俳優の、得難き戦線土産なのである。さあ、元気で語ろうよ!”
 戦地から帰還した二人の人気俳優の対談ってことなのだが、関口宏の父親の佐野周二は知ってるものの、岡の方はよく知らない。無声映画の頃からのベテラン俳優らしく、戦後も60年代中頃まで活躍していたようだ。中々に歯切れのいいトークで、後輩の佐野をリードしている。当時の雰囲気がよく表れているので、少し長いが引用させてもらう。

[ こんな映画を作ってくれ ]という見出しのところ。
岡 嘘ばかりの戦争映画を作ったら嗤(わら)われちゃう。自分で行って知って居る癖に何んだと言われて・・・

佐野 僕は帰ったら、きっと本当の映画をつくりますよと、現地で皆(兵隊)に約束して来ていますからね。

岡 その意味でも可笑(おか)しな映画には出たくない。

記者 今の支那の大衆を教育するのは矢張り映画なんか一番近道でしょうね。

岡 それで、一番最初にそれを狙ったのですがね。

佐野 銃後と戦線ですね。これの中継ぎも映画じゃないですか。

岡 それの一番具体的な方法としては、所謂日本人の本(脚本)を、支那人でいくら撮っても駄目ですよ。結局買収された一つの奸漢としか思われないですからね。それには佐野君が見て来たような、陳雲裳とか胡蝶とか、向うの大女優がいますね、そういうのをどうにかしてつかまえて来るのですね、曾ての支那に於ける田中絹代であり、支那に於ける入江たか子であり、支那に於ける川崎弘子であると云うような人気女優を、実際に於て日本の俳優と共演せしめて、そうして『 中国民よ目覚めよ』という防共親日ですか、和平親日の映画を撮って、民衆に見せるんですよ、結局自分達の憧れであり、自分の好きな女優であれば、非常に大衆をリード出来ると思うのです。それで帰って来て一番最初に小林さんに提言したのですよ、そうしたら小林さんはそういう大きいことが好きだから、よし、汪精衛氏に話して、汪精衛氏から胡蝶というのを一つこっちへ引っ張るようにさせようじゃないか、という事を言って乗り気になったのです。ところがそのうち大臣になって、お忙しくなって駄目になったのてすがね。 


岡 それと一番感じたことは、文部省推薦の国策映画なるものが、必ずしも国策にならない場合があります。例えば日活の《 土 》なんかですね、外国に対しては、日本の内地に於ける国民の生活というものは、非常に高く買わせなければならないのですよ、ところがああいうのを見ると、実に農村の疲弊した汚い情景でしょう。満州国の人が言ってました。あんなものを満州国でやって貰っちゃ困る。内地の人は非常に高度な文化生活をして居ると思っている、そこへ《 土 》みたいなものを出されたら、内地の百姓は自分達と何ら変わりないじゃないか、苦力と変わりない生活じゃないか、という事を思わせるというのです。あれは確か文部省推薦映画でしたね、だから、文芸映画であるが故に、必ずしも国策映画でないし、文部省推薦映画であるが故に、必ずしも国策映画としていいとは言えない。そういうのを支那・満州に見せた場合、日本の国というものは、物質が豊富で且つ高度の文化生活をしていると思っているので、自分達と同じことだ、何んだ日本人は、と安く思われる。そういう点で成るべく日本人の立派な高度の文化生活を映画に撮って、それを支那向きとして出すことがいいと思います。米が足りないとか、物資を節約するところばかりを出す映画ではなく、日本にはこれだけ物資もある、文化設備はこうであるというような、高度の文化を矢張り向うに示す映画も必要じゃないかと思います。ところが、実に不思議なことには、文芸作品、文部省推薦映画というと、必ず土臭いのですよ。

《 胡蝶 》 フー・ディエ。無声映画からの、中国を代表する人気女優。
[苦力] クーリー。主にインド・中国の(出稼・移民)苦役労働者。
《 土 》 現代の中国サイトによると、《 土 》(1939年出品)是日本電影史上的不朽     名作。
     監督・内田吐夢。主演・小杉勇、風見章子。(日活)

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2017年9月13日 (水)

ポスト・ペロン的残影 キリング・ファミリー(2017)

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 比較的最近、中・南米の映画、何本かレンタルで観た。
 残念ながら、特に印象に残ってる作品はなかったけど、この今年度作品になっている《 キリング・ファミリー 》THE LOST BROTHER / El otro hermanoは、始めて観る余り縁のなかった国アルゼンチンの映画で、首都ブエノスアイレスから北へ遠く離れたある小さな町が舞台。
 観てると、ふと、前世紀の70、80年代あたりの物語かと思えるくらいにローカルな雰囲気だけど、携帯電話を普通に使っているんで、比較的最近の設定なんだろう。
 日本のサブタイトルが“殺しあう家族”。
 些か猟奇的ニュアンスを煽り過ぎてるけど、近代のコンキスタドール宜しく近代になって先住民や黒人・ガウチョたちを弾圧・排除して、ヨーロッパから膨大な数の(主にスペイン・イタリア)移民を入れて作りあげた白人国家たるアルゼンチンの、それでもラテン的な濃い家族的絆すら、現実のとめどなく浸蝕してくる物質主義に解体されてゆき、かつては世界でも有数の富裕国だった栄光の凋落がオーバーラップするように、旧く朽ちた木造家屋の仄明るい室内の板壁に刻印されたように黒々と凝血した血飛沫が静かにぬめっていたりする。


 キャッチ・コピーで、“悪”の権化と予め断罪された代理人ドゥアルテは、いかなる成り行きでかある普通の決して裕福じゃない家族( 実際には父親を中心にした二家族 )に接近し、彼の銭儲け=悪行に引き込みどっぷりと漬からせ、ついにはその家族のほとんどを細長い骨壺の中の死灰と化してしまう。
 

 この代理人ドゥアルテ、一体どんな職掌なのか曖昧で、ともかく銭儲けに抜け目なく、アルゼンチンの地方の小さな町の中で、ありとあらゆるチャンスを見出しては貪欲に狡猾にむさぼってゆく。
 最初は、一報を受けてブエノスアイレスからやってきたハビエルに、内縁の夫モリナに射殺された彼の母親と弟が安置された死体安置所に案内するモリナの代理人として現れる。散弾銃にでも射殺されたのか、原形をとどめぬ二人の屍に思わず嘔吐してしまう。手慣れた風のドゥアルテ、屍を見せる前に嘔吐用のバケツを手渡す周到ぶり。
 早速、当たり前のように、ハビエルに二人の死にからめた保険詐欺話を持ちかける。平然とした口調でリスク“ゼロ”をアピールし、まんまとハビエル話に乗せられてしまう。
 一切がビジネス・ライクなのだ。 
 ( 常に大型のオートマチック・ピストルを隠しながら。)


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 ハビエルの見知らぬ彼の母親の内縁の夫モリナも、母親と弟を殺害した後、自宅で自殺したという。モリナの妻と息子がまだ住んでいる家にも、ドゥアルテはハビエルを連れてゆく。モリナの嫁が銃で自殺した際に飛び散った大量の血糊を雑巾で拭いている最中だった。対面した両者に特別な感情的起伏も見られず、むしろ嫁さんが世間話の如く愚痴を漏らすぐらいに淡々とした一場。
 実は、モリナの家族、ドゥアルテを頭目とした営利誘拐に手を染めていたのが次第に明らかになってくるのだけど、映画じゃ描かれてないものの、どうも殺されたハビエルの家族そして自殺したといわれているモリナすらも、ドゥアルテに何らかの理由によって殺害された疑念が浮かび上がってくる。
 つまり、互いに殺しあった家族じゃなくて、代理人ドゥアルテに利用され尽くしたあげく彼の手によって殺された家族って可能性。
 只、最後に、ドゥアルテに命令されながらも、義理の兄であるハビエルを殺すことを拒絶し逆にドゥアルテに銃口を向け撃ったモリナの息子・ダニエルがドゥアルテに首を撃たれ瀕死に喘いでいる時、ハビエルはダニエルを見捨て死なさせてしまう。
 カインとアベルの旧約神話を想起させる。
 兄カインがやがてエデンの東を流浪することとなるように、ハビエルも営利誘拐や保険詐欺で得た血塗られた高額紙幣の束の収まった袋を手に隣国ブラジルに逃避行を決め込む。
 唯一生き残った主人公・ハビエルの前途も、しかし、暗澹として明るい兆しの予感すらないまま終幕。


 それにしても、ラテン・アメリカじゃ、やっぱり現在でも営利誘拐が利幅の大きな犯罪のようで、既に1980年代の政情不安なアルゼンチンで人々の耳目を集めた営利誘拐犯アルキメデス・プッチオ一家事件なんてあったらしい。プッチオ一家の残虐性とドゥアルテの残虐性の相似性。その伝でゆくと、モリナもドゥアルテに強いられたものであっても単なる誘拐どころか残虐な行為にまで手を染めていた可能性も考えられる。
 そういえば、南米最北のコロンビアの切羽詰まった閉塞状況の崩壊寸前の村を舞台にしたエべリオ・ロセーロの小説《 顔のない軍隊 》(作品社)で、村の四囲をすっかり左翼ゲリラや右翼自治組織、麻薬組織、政府軍に包囲され、四面楚歌の定年退職した元学校教師の年金生活者イスマエル爺さんも、自分の長年連れ添った嫁さんを人質誘拐グループに拉致されていた。毎月の年金も滞ることの多いしがない老齢年金生活者なんぞに、間違っても高額な身代金なんて払える訳もないにもかかわらず。
 そんな営利誘拐が日常的に発生しているラテン・アメリカじゃあるが、経済大国・先進国の頂点のはずの米国なんて年間誘拐事件百万件といわれている。その被害者の多くが子供たちというさもしさ。
 ドゥアルテって名前、確か独裁者ペロンの嫁さんエビータの長い本名の中にもあるけど、何か関連でもあるのだろうか。単なる偶然ならともかく、アルゼンチン事情に疎い当方にはさっぱり詳らかじゃない。

 
 《 キリング・ファミリー 》THE LOST BROTHER (2017)
監督・イスラエル・エイドリアン・カエターノ
制作 アルゼンチン・ウルグアイ・スペイン・フランス 

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