2012年5月14日 (月)

南進英雄譚《神本利男とマレーのハリマオ》

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 戦前、東洋のマタハリだ、マレーのハリマオだと官製プロパガンダに乗って巷間を騒がせた"英雄"たち。東洋のマタハリこと川島芳子は、清王朝の血脈をうけつぐ満州=日本のスパイとして活躍した"男装の麗人"だけど、やはりあくまで清王朝再建という時代錯誤な悲願の実現が眼目で、日本軍がそれをあくまで口実に中国=大陸の植民地支配を謀らんでいるのがどうにも誤魔化せなくなった頃から離反し始めたようだ。方や南方の、タイ南部からマレー半島一帯を荒らし回っていた強盗団=匪賊の頭目・ハリマオは、日・英開戦後幾らもしない内に公称"マラリアで病死"してしまった。

 邪魔になって関東軍(あるいはひょっとして甘粕)が、川島の元愛人山家亨に川島芳子殺害を命じたものの、山家も当初の王道楽土的理想から大きく外れた満州帝国のありように不快の念を抱いてもいたらしく、それを拒んだようだ。その報復か、あれこれ因縁をつけられた挙げ句、山家は軍法会議にかけられ投獄されてしまう。
 ハリマオも、日本軍にとっては、"マレー侵攻作戦"がスムーズに進行できたからには、もう早速に"不要"というより、むしろ無用な長物、マレー占領後の植民地化に際して、逆に(反日的)な抵抗勢力に転じかねない"邪魔者"でしかなかった。"マラリア死"が真実であれどうあれ、谷豊=ハリマオは、どっちにしろ抹殺されるべき存在であったろう。決して十分とはいえない資料の量と質ではあるけれど、かなり直情型の性格であるようで、屈折した心理・コンプレックスを巧みに衝いて籠絡するぐらい手練れのF機関の藤原岩市少佐や神本たちにとって朝飯前だったろう。

 有名な割にはハリマオ=谷豊に関するデータって本当に少なくて、これはちょっと詳しそうだとネット経由で入手してみたこの1996年刊の《神本利男とマレーのハリマオ》、肝心のハリマオはおざなりで、むしろ、著者と同学(拓大)の神本に重点がおかれている。拓殖大学自体や神本が大学時代に在籍していたボート部でのことなんかを、いかにも意味ありげに、針小棒大に喧伝したりで、自らの母校への想い込みは勝手だけど、平衡感覚を疑ってしまう。

 それ故にか、神本とハリマオとの実際の関わりが不鮮明で、フィクションなのか史実なのか定かでない。著者自身、マレーシア在住のイスラム教徒らしいが、それがうまく活かされたとは到底いえず、かえって"現地"ならではの制約となっているのではと穿ち視すらしてしまう。 ハリマオとその一党の資料の元々の僅少さを、神本に関する記述で補おうとしているとしか思えない。否、ハリマオは人寄せのキャッチ・フレーズで、神本と拓大の宣揚が著者の本旨と断じられても文句は言えないくらいだ。

 只、この著作こそが、現在の水準あるいはブログなどで流布しているハリマオに関する記述の基本的資料となっているようで、その逆ではないのだろうから、やはりそれなりの努力・成果は認めざるを得ないのだろう。つまり、基本的データ・研究が余りに少な過ぎるということに尽きる。ハリマオの死の後、神本も赴任先のビルマで"マラリア"に罹って衰弱し、ペナンから潜水艦で帰国の途中撃沈され戦死したという。もし、ハリマオ=谷豊が病死せず、元気に生き延びていたとしたら、一番近しかった神本あたりに、ハリマオ殺害の指示が出ていたかも知れない。

 因みに、神本は日本国内では郷里の北海道で警察に入り、後、満州国治安部に移り、更に本土に戻って初期のスパイ養成学校たる"中野学校"で訓練を受け、あの甘粕正彦から呼ばれ、満州の治安公署から甘粕の組織のハルピン分室へと移動。そして、昭和十六年初頭、陸軍の指示で件のタイ南部へと赴くこととなったらしい。甘粕ってのが何とも胡散臭い。

 甘粕といえば、かの有名な大正末の関東大震災のドサクサに紛れた軍部の謀った"無政府主義者・大杉栄、その妻・伊藤野枝さらに六歳児の甥"虐殺事件の主犯だが、実際大杉と野枝は殴る蹴るなどの暴行の果てに絞殺、つまりリンチ殺人の類で、あげく幼子まで絞殺した悪逆極まりない犯行であった。それでも、公判中は、かなり甘粕やその配下の者たちによるぬすくり合いの様相を呈したようでもあったらしい。で、三人も殺しておいて、死刑でも無期でもなく、たった十年の懲役。それもほんの三年で仮出獄し、結婚してさっさとフランスへ洋行。全く呆れ果てた司法と権力。やりたい放題。

 この著者も、そんな甘粕を擁護し美化しようと、本当は手を下してなくて「軍部の犠牲になり罪を一心に背負った」と、予じめ用意されていたように僅か三年で仮出獄し、結婚し渡仏の運びとなった事をその証拠としてあげている。しかし、それは悪逆・卑劣という世間のレッテルと引き替えに得た"報酬"あるいは"対価"以前の、単なる当初からの青写真的プロセスでしかない。渡仏以降が正に対価ともいうべき"報酬"のコースなのだろう。やがて満州の陰の帝王として君臨することができたポストまで。それに実際に六歳の幼子まで、誰が手を下し絞殺したかどうかなんて、"軍事作戦"で果たして意味なんかあるだろうか。たまたま彼がその虐殺事件の実行犯たちの中で最高責任者たるポジションに居たから"責任"を問われ、三年という子供だましのような刑期を務めさせられたに過ぎない。それも、他の実行犯たちが得られなかった花のパリ遊行やその後のおいしい待遇などの褒美が待っていたのだから、"犠牲"は些か違和感あるのではなかろうか。

 そんな胡散臭い甘粕のいわば"秘蔵っ子"と言えなくもない神本って、やはり何としても怪しいし、その疑念を払拭するに足る資料・説明なりが見られない。神本が甘粕の配下だったとはこの本で初めて知って、あらためてその疑念は深まった。
   
 《神本利男とマレーのハリマオ》  著・土生良樹 (展転社)1996年
 

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2012年5月 5日 (土)

デンマークのSFホラーパロディー 《 パラサイトX 》

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 このデンマークの デンマークのSF=ホラー映画《 パラサイトX 》Vikaren(2007年)、一言で言えば、どのシーンもデティールも皆どこかで観た覚えのあるものばかりの寄せ木細工的なパロディーってところ。只、安っぽいコミカル物に堕すことなく、スピルバーグの《 宇宙戦争 》と相似したイントロ(とエピローグ)のナレーション後のプロローグが中々映像的にもSF=ホラーの蠱惑的な、未知との遭遇的な期待感を十分に抱かせるほどに面白く、続く学校シーンも、何しろ使われる言葉が、英語ともドイツ語とも違う語感のデンマーク語だと分かった後も、杳(よう)として馴染まぬ妙な違和感が相乗効果をあげ、北欧の小六の少年少女たちの姿態ともどもに異空間に遭遇でもしたかのような想持ちに囚われてしまう。異境をさまようブルー・バス的緊張と愉悦。
 子供たちが主人公のSF=ホラーって、近年ではスピルバークの十八番で、かつては今じゃすっかりクラッシック的金字塔としていぶし銀に輝く《 光る眼 》(1960年英)なんてものもあり、続編や90年代にはJ・カーペンターによってリメイクもされている。オリジナルはモノクロ(白黒)故に一層オドロオドロしさが際だった結構面白い小品であった。

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 空一面渦巻く暗雲の間から突如降り立ち巨大なサイロのある養鶏場にエイリアンが忍び寄るシーンに始まり、同じ養鶏場で寄生(パラサイト)された養鶏場の女房=女教師が文字通り粉砕され消滅し、光る羽虫=エイリアンに戻って逃げ去ってゆくシーンで終わる。その光る羽虫の空から降りてきた乗り物がバレー・ボール大の球体で、一見ステンレス・スチール風。これは、同じ少年が主人公だった米国映画《ファンタズム》の殺人ボールを彷彿とさせる。
 しかし、寄生された女教師、実は代用教師だが、彼女の正体を知った生徒たちが女教師を悪魔だエイリアンだと指弾したのを小児的妄想と断じた学校側と親たちが、生徒たちと女教師の関係を修復するために取り持った生徒たちも参加した父兄会の会場の無人の一角で、女教師の持参した球体から、何と文部大臣のダミーが作り出されたりもする機能も備えている。
 これだと、やはり、J・カーペンター監督の《 スターマン 》で、人工衛星ボイジャーが発した"ユア・ウェルカム"という言葉を真に受け地球を訪れたエイリアンたるジェフ・ブリッジスが手にしていた、掌から浮き上がり発光して飛び回ったりする小さな球体と相似で、人類に何らかの興味と期待を抱いて遙々やって来たエイリアンとい点でも同様。そもそも巨大に屹立したサイロってのも、《 エイリアン 》だったかどこかで似た映像を観た覚えがあるけど、逐一挙げていたら切りがない。

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 巨大なサイロのある養鶏場に侵入してきたエイリアンは人類の"愛"を求めて遙々地球を訪れたらしい。人類に独特の属性として備わった"愛"に好奇心を持ち、人間をサンプルとして拉致(アブダクション)するためにわざわざ訪れたのだ。それで選ばれたのが、件のデンマークのとある小学校の少年少女たちであった。"無垢"な存在としての子供たちなのか、成人や老人と等と同様にそれぞれの一つのカテゴリーとしての子供だったのかは定かでない。
 話はちょっとそれるが、所謂"愛"ってのはむしろ動物一般の属性というべき共属的親密性であって決して人類・人間に特有なものではなく、観念としての"愛"はキリスト教あたりから派生した独善的偽善的なイデオロギーに過ぎないというべきではなかろうか。人間って、喰い、排泄しそしてまぐわう本能的な姿をリアルに直視すれば、それこそ動物的な、余りにも動物的過ぎる存在であって、人間だけが本質的に他の動物・生物一般と乖離した遙かに高尚な存在だなんてどこから出てくるのだろう。何故、他の動物と同じ一動物種じゃ悪いのだろうか。

 女教師ウーラ役のパプリカ・スティーン、八面六臂の熱演だけど、要は、寄生され変容したウーラと、最近母親が事故で亡くなってその死を受け入れられず鬱々とした日々を送っていた少年カールとの一騎打ち。これも頻(よ)く使われ手法だが、その傷心したカールの心の葛藤・克服(プロセス)劇を基本軸に据えドラマ全体が展開されてゆく。つまり、ようやく辿り着いた結末の直後、   "本当は、すべては傷心の少年カールの作り出した妄想でした!"   って、"どんでん返し"あるいは"煙に巻く"式の青天の霹靂的反転が仕掛けられているって寸法だけど、実際にはそれはなく、もっぱら伏線として秘されたまま。つまり、制作者の都合でどうにも変えられる程度の緊密度。この映画、全体的にゆるく、《 光る眼 》のような緊張度は薄い。またコミカル風なのであろうが、今ひとつ面白味がってものが感じられない。映像的には、とくにプロローグは、悪くはないのだけど。

         
監督  オーレ・ボールネダル 
脚本  オーレ・ボールネダル 
   ヘンリク・プリップ 
撮影  ダン・ローストセン
                    2007年作品(デンマーク)

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2012年4月29日 (日)

 太古の残影 ﹤マレナード物語﹥

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 もうかれこれ二十年近く前、インド人作家サルマン・ラシュディーの書いた《悪魔の詩》が、イスラムを冒涜しているとして非難され、イランの指導者ホメイニ師が暗殺指令まで出し、ラシュディーが生命を狙われ英国に亡命までした事件があった。元々インドでも、もっと以前の彼の《真夜中の子供たち》がインドのエスタブリッシュメントに批判的だったため逆恨みされていたらしく、正に孤立無援の四面楚歌。刺客を恐れ遠い英国に亡命をする他なかったのであろう。ところが、そのとばっちりで、邦訳をした筑波大の五十嵐一教授が筑波大構内で刃物で殺害されるという前代未聞の事件が起こり、その上あろうことかこの国の司法・警察は、すっかり知らぬ半ベエを決め込み、迷宮の闇に葬ってしまうオマケまで付いてしまった。

 この南インド・カルナータカの作家K.P.プールナ・チャンドラ・テージャスウィーのカンナダ語小説《 マレナード物語 》も、そのラシュディー事件のとばっちりを受け、本来もう少し批判的(シニカル?)であったらしい部分をかなり出版社の意向で削除・改変したという。カースト・宗教・権力批判はやはりインドでも容易ではないようだ。やたら怒りっぽく設定してある作者の化身らしい主人公の作家(小説が映画にもなっている)と素朴な隣人たちのやりとりがコミカルに演出されてはいるものの、もう一つ面白味に欠けているのは、そんなところに起因しているのかもしれない。

 マイソールに住む老いた父親のアーユルヴェーダ的養生のために蜂蜜を求め地元の養蜂組合の事務所を訪れるところから物語は始まる。主人公が南インドでは花形産業の"映画"の原作を手がけたのを知り、養蜂家見習いのマンダンナがすっかり有頂天になってあれこれ便宜を図ったりして近しくなってゆく。蜂蜜=ミツバチ=養蜂という何とも日向臭い地味な題材でストーリーは展開されてゆく。場所が南インドの西ゴート山脈周辺だけに違和感はない。近年お決まりの環境破壊も進み反対運動なんかも起こっているという。

 そんな田舎町に、ある日、地方政府の大臣がやって来てセレモニー最中に、マンダンナが叩いた太鼓のせいで蜂たちが暴れ出し参加者たちに襲いかかってしまう。すっかりメンツをつぶされた警察に睨まれたマンダンナ、やがて別の闇酒の嫌疑で逮捕されてしまう。ところが、稲作研究センターに実験室をもつ植物学者兼昆虫学者であるカルヴァーロ博士が、何としてもマンダンナを釈放してもらわないと困ると言い出し、主人公たちを驚かせる。あんな山出しのマンダンナなんかのどこにそんな重要性があるのか誰も理解できないからだ。"生物学者"カルヴァーロにとって、それは冗談ではなく、本当に自分の助手として、それも生物史的大発見のための絶対に必要な存在であった。

 その一大発見とは"空飛ぶトカゲ"、マレナードの森に古代から棲息してきた、進化の過程からはずれた、木から木へ枝から枝へと飛行するカメレオンであった。
 やがて、主人公やカルヴァーロたち一行は、その"空飛ぶトカゲ"探索と捕獲の旅へと赴くこととなる。太古の秘密(クエスト)への珍道中的探求行ってところであろう。森に住む少数民族すら加わっての珍道中のあげく、追いつめられたカメレオンは、切り立った断崖絶壁から、眼下に遙か彼方まで拡がったジャングルへと飛翔し逃げ去って行った。

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 アーサー・ヒル監督の《明日に向かって撃て》で、追っ手に追われたブッチとサンダンス・キッドが断崖から真下の滝壺に飛び降りる有名なシーンはじめ、今では映画で、頻(よ)くラスト・シーンなんかに使われる一つの定番となった感すらある。敵や観客を煙に巻き、生死・帰趨を曖昧にして余韻を残すって手法だが、七、八百メートルの絶壁の下、遙か遠くアラビア海に面した海岸までうち続くジャングルってのも中々に壮大な景観(シーン)ではある。
 何しろ当方映画好きなため、相似した光景にはすぐ映画のシーンが浮かんできてしまうのだが、最初に頭上の巨木の枝に件の空飛ぶカメレオンを見つけた時のシークエンスは妙にリアルな描写で、作者が実際に頭上を幾度も見上げながら書き進めていく姿すら思い浮かんでくる。

 「目の前で飛び移ってくれたからこそ、それが一歩一歩ゆつくりとあがっていくのが目で追えるのだ。樹皮の上を、樹皮と完全に同じ色になって登っているのだから、一度でも目を離したならば、再び見つけるのは不可能だ。ほんのちょっとの間でも視野から離れてしまったらもうおしまいだ。気が気でなくなった時、後ろでザワザワと物音がした。」
 「私は、トカゲを、瞬きもせず、全身を目にして追い続けた。私は今、限りなく神々しい瞬間にいるのだ。瞬きでもしようものなら、時の幕が情け容赦なく降りて時間が移り変わってしまう。このトカゲを見失ってしまう。そうはさせるものかと、固く決意して目を見開いて追い続けた。」
                                                                        このシーンの場合、やはりシュワルネッガー主演の《プレデター》だろう。プレデターは変容ではなく透明だけど、両の眼を皿のようにし、ありったけの神経を集中して、鬱蒼としたジャングルの枝葉を視分けてゆく。グレネード・ランチャーの引き金にしっかと指をかけたままってところが決定的に相違するとはいえ。

 「マレナード物語」 K・P・プールナ・チャンドラ・テージャスウィー

             翻訳・井上恭子 (めこん)

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«旅先の陥穽 《ミッドナイト・エクスプレス》1978年