2017年4月 8日 (土)

大相撲から見えてくるニッポンイズム

Photo


 先だって、日本列島を、呆然でもなく、震撼でもなく、人によっては感涙に噎ぶほどに感動させたらしい横綱・稀勢の里と大関・照ノ富士の優勝のかかった一番。
 勿論、前日、大関復帰がかかった琴奨菊との一番で、横に体をかわし“変化”したってことで大阪府立体育会館の観客に罵倒され唾棄されたらしい(当方はその場面は観ていたなかった)照ノ富士じゃなく、前々日受けた肩か胸の負傷を押して出場した稀勢の里に対する声援と熱狂。
 
 
 本割り(普通の対戦)と優勝決定戦の両方の勝負を観た。
 で、対戦はというと、のっけから、“横綱”稀勢の里、変化した。
 と、どういう訳か、すぐ仕切り直しとなった。
 別段両者とも立ち会いに特に問題があったと思われないのだけど・・・
 そして、満を持しての再度の仕切り・・・
 と、稀勢の里、またもや変化した。
 結局、その一番は、大方の予想を裏切って、負傷した稀勢の里が嫌にすんなりと勝ってしまった。前日の、横綱・鶴竜に理の当然の如く簡単に敗けてしまった一番とまるで真逆。
 たった一日でこうも回復してしまえるのか?
 そういえば、照ノ富士、好成績をあげてきた割には、何故かこの土俵での動きが妙に覚束なかった。
 ふと、その時、その日の午前中だったかに見たネットニュースを思い出した。
 確か照の富士だと思うのだけど、朝の稽古もそこそこに足を引きずるように引きあげていったって消息。2週間近くの相撲で、元々痛めていた膝がいよいよ悪くなってきてしまったのか。
 
 
 次の優勝決定戦。
 館内は沸きに沸いていた。
 前日、稀勢の里と対戦した鶴竜が、対戦した際の稀勢の里が「当たった瞬間に力が抜けていた」と、動態の下での対戦相手の身体の状態を体感できたのと同様、照の富士の脚下の覚束なさから膝の負傷の悪化を悟ったかのような勝算のほくそ笑み=余裕すら、その時稀勢の里の表情から読み取ろうとするのは考え過ぎだろうか。
 そして、最後の仕切り立ち会い・・・
 が、本割りじゃ見せなかった稀勢の里の十八番芸、当方は“ニッポン相撲”と呼んでいるが、要するにまともに立ち会おうせず、相手の勝負に賭けた気勢(集中力だけじゃないそれ以上のもの)を削ぐ所作=手口が早速顔を出した。
 稀勢の里と栃煌山をその双頭的頂点として、同様の手口を常套する力士たちを、その殆どが何故か日本人力士ばかり(外人力士にはまず居なかったのが、もう長く“常態化”している故にか、最近は外人力士にも少しづつ増えてきている。その一人が、誰あろうこの照ノ富士だった。但し、先述した双頭的頂点たる二人の日本人力士の厚顔無恥なまでの執拗さに較べたら可愛いいもの)なので、“ニッポン力士”と命名した次第。
 普通、蹲踞(そんきょ)の姿勢から仕切りにはいるため、双方同時に一度立ち上がるのだけど、照ノ富士が立ち上がっても、稀勢の里、蹲踞の姿勢のまままんじりともしない。
 何としても、

  “優勝!”

 って、シフトなんだろう。
 照ノ富士がしゃがむのをしっかと確認してから、おもむろに横綱・稀勢の里、ゆっくりと立ち上がり、そしてしゃがむ。普通、互いに立ち上がってしゃがみ、立ち会いに向けて一切を集中するってのが定式だったはずなのだけど・・・。
 そして、立ち会い。
 照ノ富士、さっと立ち上がり踏み込んだ。
 が、稀勢の里、まるで立ち上がる気配もなく、悠然と照ノ富士を見遣るばかり。
 すかさず、行事が止めに入り、仕切り直しになってしまった。
 はやった照ノ富士が一方的に突っかけたって訳でもなかった。
 普通に考えれば、敢えて稀勢の里が、自分の不利を悟って立ち上がらなかったってところだろう。( 勿論、ニッポン相撲の“雄”故に、意図的な“かわし”の可能性も排除できない。心理戦って訳だ。)
 つまり、事実上の“横綱”稀勢の里の “待った!”。
 この辺の判定の恣意性って、大概にゃ古くから指摘されていたにもかかわらずの、ニッポン相撲協会の無能と怠慢、無責任さの典型的産物。
 普通なら、そのまま、立ち会いを続けさせられることもザラ。
 だから、その時点で、行事が止めに入らなければ、確実に照ノ富士が勝っていた。
 

 それとは別に、照ノ富士、この時、自分を見失っていたようで、あたかも自分で“つっかけた”かのようにペコリと審判員の誰かに頭を下げてしまった。( まさか、その審判員が何か土俵上の照ノ富士にインネンでもつけたのだろうか? 稀勢の里はじめニッポン力士達なんて常習なのに、彼等がそれで土俵下から審判員たちに叱責・注意受けるなんて、本当に稀でしかない。)
 そもそもが、蹲踞して見合った後、照ノ富士が、稀勢の里の動きを確かめることもなく、あっさり立ち上がったってこと自体が彼のいつものやり方を崩しているのだから。直前の本割で、簡単に敗けてしまって、後がないってことの焦りの故なのか。
 この後、稀勢の里、ようやくまともに仕切り直し、立ち会って、簡単に勝ってしまった。
 まともな立ち会いをやろうと思えばやれたって訳だけど、もうその時は、照ノ富士、焦りとリズム・集中力を毀され、こう言って良ければ、完全に稀勢の里の術中に嵌ってしまっていた。

 
 この二人の対戦で分かったことは、やっぱし、相撲って、上半身よりも下半身の負傷の方が圧倒的に致命的ということだ。だから、本当は、損傷の致命傷度は、稀勢の里なんよりも、むしろ照ノ富士の方が高かったってことだろう。


 元々、照ノ富士が膝の負傷をしていなければ、とっくに横綱になっていたのは余りにはっきりしていたし、致命的な膝の損傷だった故に、さっさと一場所でも、二場所でも休んで完治してからでも、充分に横綱になれたのも又当時の定説的評価であった。
 もし照ノ富士が横綱になっていれば、稀勢の里が横綱になる目なんて先ずあり得なかったろう。否、優勝すらあり得なかったに違いないのだから。
 ところが、現実には、常識を覆しての、照ノ富士の強行出場だった。
 周囲の猛反対にあいながら、“頑な”って言葉を粉砕するほどの“異常”行動だった。
 自分から、自分の目前数十センチ先に、もう掴まれることをばかり待っていた横綱の地位を、一体何を思ったのか( あるいは、ひょっとして、誰かがそれを求めたのか? )、遠ざけてしまったのだから。否、力士生命すら危ぶまれる暴挙だったにもかかわらず。

 これは完全に不可解なんて域を越えた、もう《 謎 》の領域だろう。

 普通にまず思い至るのが、“大相撲を舐めていた”故に、という仮説だけど、だったら、その後の一、二場所で、その不可能性を悟り、やっぱし完全休場しかないと納得する他なく正解ではない。ところが、実際には、もうそれ以上の場所数を踏んでいながら、照ノ富士は、一向にそんな理に適った挙にでることもなく、只いたずらにダラダラと愚挙を繰り返すばかり。
 この異常性には、いやでも、昨今の様々なこの国を取り巻く状況から、色んな疑念・猜疑が、果ては陰謀論の類まで頭をもたげてきてしまいかねない。
 何しろ、ニッポン相撲協会が、ともかく如何しようもないほど種手様々な悪弊・トラブルの元凶と化して久しいからだ。
 かつて柔道が国際化された頃から既に大部時間が過っているにもかかわらず、最近になってもまだ、あたかも自分たちだけには如何なる責任もない、ひたすら一切は外国の審判や・その組織にあるていわんばかりに喧しく騒ぎ立てている国内の柔道界を見るにつけ、その徹頭徹尾の自分たちの都合と論理ばかりのお粗末な体質に、ニッポン相撲協会の底なし加減も了解できてしまう。


 “ニッポン相撲” ・・・ むろん、これは相撲評論家やファンが使っている訳じゃなく、専ら当方が、昨今のこの国の趨勢に因んで命名した概念に過ぎないけど、先述の双頭的力士たち以前から延々と続けられてきた所作で、立ち会いの仕切りは、双方が呼吸を合わせ、同時に起きあがって始まる取組を、その立ち会いの仕切りの時点であれこれ意図的な工作を弄して、相手の集中力・気勢を逸らしたり乱れさせたりする悪弊だ。
 “真の相撲ファン”達や評論家、ニッポン相撲協会の趨勢は、世間向けのゴタク(=詐術)はともかく、実質的には、これをむしろ肯定的に相撲的“駆け引き”として、
 「何が悪いんだ?」
とばかり黙認・許してきた。
 それ故に跳梁跋扈し蔓延してきたのだ。
 しかし、これって、かつて柏鵬時代の一翼を担った横綱・柏戸=鏡山親方が審判(副・長)時代に口騒(うる)さく、目に余る力士には、土俵下からでも大声で怒鳴りつけることしきりだったという有名な逸話=伝説すらあったほど。
 これももう旧い話になるけど、以前《八百長・相撲賭博》事件で角界が震撼とした頃、出所不明のビデオで世間の耳目を集めた、何処かの会場で、居並ぶ大勢の力士や親方衆に向かって、初代若乃花=二子山理事長が、大声で罵声をあげる場面。
 その時、二子山理事長がなじっていたことこそ、件の“立ち会い”問題だったという。

 「一体、お前達は、何時になったらちゃんとやれるようになるんだ!」 

 ってところだろう。
 つまり、そういう問題ということだ。
 だから、横綱・朝青龍や白鵬はじめ外人力士の方が、日本人力士たちのそんな悪弊の野放しに違和や怒りを覚えていたろう。その癖、外人力士の些細な所作やなんかじゃ大騒ぎしてみせる審判員や相撲協会(・横綱審査会)。又、白鵬たちだけじゃなく、日本人力士の中にも、そんなニッポン相撲の常習者=ニッポン力士に怒りを覚え、土俵上で対応的所作をあからさまにやって見せたりしてるのを幾度も眼にしたこともある。(尤も、満身創痍の長老格・安美錦や同じく小柄で長老格の豪風なんかが使う分には誰も文句をつける者はないだろうが。)

 問題は更に、外人力士の間にもそんな風潮が徐々に拡がりはじめているってことだ。正攻法でゆくと損という利益優先的現実主義的対応って奴だろう。 その上での、先だっての“稀勢の里=照ノ富士”戦騒ぎだった。
 正に絵に描いたような、排外主義的ニッポンイズム。
 
 別段、当方、一時期流行った“真の相撲ファン”でもなければ、所謂“通”(平成風に呼ぶとオタク)でもない普通の映像でのみ観たり観なかったりのライトなファンでしかない。
 キックもフルコンタクト空手もK-1も、所詮クリンチ・ボクシングと大差ないので観なくなり、相撲だけは一応フルコンタクト格闘技ってことで、凡戦も多いけど(否むしろ年々益々増えてきている)、それでも他にないので観続けるだろうけれど、何とも鬱々するばかりの今日この頃。

|

2017年3月25日 (土)

小倉=長州・企救郡百姓一揆 ノート (4)

A_3


 
 幕末・慶応二年(1866年)六月十七日早朝、長州軍(奇兵隊・報国隊)が関門海峡を越え、小倉藩・幕府合同軍が手ぐすねひく小倉藩領=田野浦・大久保に艦砲射撃とともに上陸した所謂“小倉口の戦”(“豊長戦争”あるいは“長倉戦争”とも呼ばれる)で、幾らもしない内に、幕府合同軍に逃げられ見捨てられた小倉藩、自らの城を焼き払い、内陸奥の香春まで逃走・退却を余儀なくされ、結局、小倉藩領=企救半島を長州軍に占領・支配されてしまう。
 ところが、明治二年六月に“版籍奉還”発布され、企救半島=六郷は政府直轄地となって日田県の管轄なってしまったにもかかわらず、長州軍そのまま支配者として居座り続けた。そのあげくと言うべきか、とうとうその年の十一月、その長州占領下の企救半島において、燎原の火のごとく、農民一揆が席巻するこことなった。

 《 企救農民(百姓)一揆 》と呼ばれるこの、基本無血一揆にもかかわらず、それも長州藩・維新政府側が、“その罪を問わず”と明言しての解散・収束的妥協だったにもかかわらず、新道寺の原口九右衛門・縛首、他数名禁錮刑というその後の維新政府=大日本帝国の不実・背信的本性をその最初期に於いて既に顕わにしていたってことで実に印象的な事件でもあった。


 この一揆、流布している資料・記事から大体の流れは理解できるのだけど、一揆の基本的な部分以外の、それでもそれなりに肝心な部分が意外に曖昧・朦朧としていて、踏み込もうとするればするほどその白靄が濃くなってくる。一市井のトウシロウに過ぎない当方には当然といえば当然なのだけど、それにしてもたった150年くらい前の出来事なのに資料が本当に少ない。やはり農民決起=一揆ってのは、住民の大半であったはずの当の農民達にとっても、やはり秘匿しておくべき事柄多かったってことか。しかし、時代はもう封建領主的苛政からの解放を謳っていたのじゃなかったろうか。やはりこれは、維新を謳った新権力もそれ以前と同様、基本的に下からの民衆運動ってものを厭い疎んじ続けてきたってことの証左であろう。


Photo_8

 ( 小倉城下を流れ関門海峡に注ぐ紫川の向こうに佇む長尾・能行の街並)
 

 
 そもそもこの一揆に関する資料、日付が資料によって異なるという曖昧さがついて回る。
 別段、基本的な問題じゃないので気にするほどのことじゃないんだけど。
 要するに、明治も5年になってから、江戸時代から使っていた太陰暦を西洋に倣って太陽暦に変えたために生じたもので、五年も溯って明治初年からに適応したために、一層ややこしくなってしまった。明治維新の時に一緒に太陽暦に移行してればまだしも、維新以降5年もの間、幕藩体制下同様太陰暦で記述していたものを、あらためて日付を計算し直さねばならなくなってしまった。太陰暦って、閏年どころか閏月なんてものまであって、ともかくややこしい。
 つまり、一揆当時の日記・日誌は太陰暦で記述されているので、新暦・太陽暦で記述した資料・記事にあたる際には、それが変換された日付かそのままの日付なのかはっきり附言されてないのもあるので留意してないと勘違いすることになりかねない。
 因みに、明治二年十一月十九日=西暦1869年12月21日。
 あるいは、西暦1869年11月19日=明治二年十月十六日。


 問題は、日数。
 資料によってその日数に異同がある。
 こりゃ勘弁して欲しい。
 一揆衆が一揆当日の深夜、横代原( 小倉城から4、5キロ南 : 《 義民・九右衛門と企救百姓一揆 》ではもっと手前の2、3キロ南の城野エリア )で、関門海峡沿いの幕府合同軍とりわけ肥後熊本藩精鋭軍( 肥後藩は他の幕藩と相違して、長州軍なみの近代的装備をしていた )と長州軍の血みどろの激戦が行われた赤坂に駐屯していた長州軍=干城隊を率いる大石雄太郎と対峙し、一揆衆の罪は問わず、願いの事は聞き届けるとの言質をもって、一揆衆引き上げ、一揆も収束に向かった・・・という《義民・九右衛門と企救百姓一揆》での件(くだり)は、しかし、他の資料・記事じゃ、些か様相を異にしていた。

 
 「 ・・・群衆(=一揆衆)も亦之(これ)に服従し、暴行を停止す。されど安否落着する迄は、帰村せず。一同長尾、能行、祇園町に引き揚げ、茲(ここ)に屯在する事拾余日。此の間屡々(しばしば)干城隊より隊長以下、解散宅帰りの説諭に出張す・・・服従して各自帰宅す。」 
                   
   《 企救郡誌 第二項 明治初期の騒擾 : 小倉藩政時状記 内山円治 》


 この“・・・拾余日”、つまり“十数日”。
 干城隊・隊長に説諭され言質を得、そのままその日の内に一揆を解散し自分たちの村に戻っていったのと、所詮、悪辣な役人・庄屋輩の詐術の類かもって訳で、十数日もの間、少し離れた紫川の向こうで、ちゃんとした結果・成果を手中にするまではと待機し続けたってのじゃ、随分と違う。(一説によると、踏ん張った甲斐あってか、半年近く、限定されたものであれ、企救半島の農民たちは自分たちの自由自治的な状態を享受できたらしい。)
 一日二日の相違なら何らかの行き違いに因るものだろうと了解できる範囲だけど、一万人以上の一揆衆が、城下( 実際には城は焼け落ち、周辺の城下町の多くも自焼して焼野ヶ原となっていたものの、長州藩の本陣があった。 )から十キロも離れていない場所で、十日以上もの間ずっと長州藩小倉本陣と対峙し続ける緊迫状況にあったのだから、恣意的な解釈の余地なんて入りようがないだろう。
 この間、幾度も長州藩小倉本陣=撫民局( 民生取捌所 )から役人達が解散・帰村の説得工作に訪れ、農民側と交渉を重ねてようやく、一揆側の罪を問わぬ事と、要求の善処を約して一揆衆の解散・帰村の運びとなった。


Photo
 

 それにしても、一つの同じ事件の重要な局面にもかかわらず、何故にこんな差異が生じてしまったのか。
 普通、十余日間の滞在が、一日(あるいは二日)に縮まることはない。
 原著者の内山円治は、石原町の庄屋であり、この一揆やもう数年前の小倉(幕府合同軍)・長州藩の戦いをもリアル・タイムにその渦中で生きた原口ら一揆衆と同時代人でもあるのだけど、その証言あるいは関係者から聞き取ったものの記録であるはずの“十余日”の方が、最初に干城隊が巡撫に訪れた時のその日の内=当日に一揆解散・帰村説よりも理には適っている。


2


Photo

 
 当日、一揆衆が陣取っていた横代原あるいは城野方面(《 義民・九右衛門と企救百姓一揆 》)から引き揚げたのを、一揆そのものの解散、撤退と勘違いしたのだとすると、当然それは農民側の情報じゃなく、ありえるとするならば庄屋たちの皮相な瞥見的情報というところだろうか。
 実際には、紫川を渡った対岸に一揆衆一万余が様子見のために移動したに過ぎない。
 とは言え、内山翁は、長州・小倉藩(幕府合同軍)の戦いを綴った《 小倉戦史 》の編纂にも携わった人物なので、彼の明記した“拾余日”を、“当日”説の著者たちが知らない訳もなく( 《 義民・九右衛門と企救百姓一揆 》じゃ引用までしているけれど、“拾余日”の箇所には触れてない )、とすれば、単純に誤報あるいは皮相な情報に惑わされたというより、もっと意図的なものと考えられる。
 そこで問題になるのが、長州側に求められ差し出した一揆衆の代表者の一人、原口九右衛門の認めた“訴状”、その最後に九右衛門の署名とともに記された日付。

 “明治二年巳(みのとし)十一月二十日”

 当時はまだ太陰暦だったので、その年の干支(巳)が付けられている。
 この“訴状”の日付、二十日は、《 義民・九右衛門と企救百姓一揆 》だと、蜂起したのが11月18日、干城隊・大石に説得され言質を得て解散・帰村したのが19日(但し、門司エリアじゃ21日までもめつづけた、と《 豊田日記 》に記されているらしく、門司エリアだけは留保されている。)ってことで、一揆衆がそれぞれの村に辿り着いた翌日の作成という運びとなる。
 つまり、内山翁の明記した“十余日”だと齟齬・矛盾をきたすという懸念から、“訴状”の“十一月二十日”の字義通りに時間軸を設定したってところだろう。情報・資料の僅少さからの不明瞭さと不安が、そのハショリを生じさせ、一見すっきり論理的整合性を保っているように見える体裁を採とろうとしたのは了解できなくもない。その整合化としての、

 「 一日おいての二十日の日、新道寺の九右衛門・治平、石原町の新蔵、長野村の清右衛門、高野村の清蔵、曽根村の荘次郎の六名に、長州藩小倉本陣への出頭命令が出ました。」
   《 義民・九右衛門と企救百姓一揆 》
 
 って記述だろう。
 そして続けて、
 「 ・・・その日のうちに、村人たちの気持ちと、一揆に及んだ事情をからめた訴状を、・・・長州藩本陣に提出しました。」

 その訴状の末尾に、先にあげた日付が記されいるって訳だけど、因みに《 明治初年 百姓一揆 》じゃ末尾に、「宣敷御聞執り成被下度奉願上候」の後、

 「 十一月廿三日」

 と記されている。この20日と23日との2日の差は、どうも太陰暦と太陽暦的齟齬のようで、本質的な問題ではない。
 それはともあれ、この説でいくと、長州藩小倉本陣からの出頭命令→訴状作成→出頭→訴状提出って流れになる。けれど、この訴状って、必ずしも出頭時に認められたって訳じゃない。
 先述の内山翁の記にはこうある。


2_2
 
 ( 人影も殆どないひっそりとした長尾・祇園神社の境内の幕末に建てられた石鳥居。一揆衆、ここにも参集したという。 )

 「 ・・・其(その)後各村人民より出訴したる書面に基き、庄屋の不正行為を事実なりと認むるものは、庄屋を召連れ、官史其村に出張し、庄屋と人民の口頭弁論、又は対話を為さしむる事屡々有るも、其間人民より巨魁(首謀者)として拘束せらるゝ者無く、動揺(一揆)後既に四五ヶ月間経過したる翌明治三年三月、企救郡は日田県管轄となり、同県に引渡り前、俄然新道寺村原口九右衛門、池田治平、大村新蔵三名を召喚拘留し、事務引譲りと同時に、身分は日田県に引渡し、小倉監獄に留置す。其後林権少属(明治初期の太政官制の官位。低級。)係りにて、取調の結果、日田に於て、原口九右衛門は絞罪、池田治平は懲役十年、大村新蔵は同五年に処分となり・・・」

 紫川の向う岸側の長尾、能行、祇園町に待機した十余日後、それぞれの村に戻ってから、何時提出されたかつまびらかじゃないけれど、一揆側各村で提出した訴状を元に長州側が対応したって運び。その訴状提出の期日を明記してないものの、原口九右衛門名の訴状はあくまで新道寺村の代表としてのもので、実際は各村・各地域でそれぞれの代表者が出したようだ。恐らく、紫川対岸で待機していた二十日に原口のは認(したた)められたのだろう。
 勿論、絶対的確証=証拠がある訳じゃない。
 もし存在したなら、こんな日数的齟齬なんて起こりようもなかったろう。
 あくまで、内山翁の記述のリアルな説得性故にそう断じたに過ぎない。
 そして、前述した通り、帰村の後、


 「 一揆蜂起と同時に、庄屋は悉く村を脱走したるを以て、此際用便の為、暫役と名称を下し、庄屋事務取扱人の民選を命じ、人民の選挙したる人物を採用す。」


 この頃、長州藩自身でも、奇兵隊はじめ諸隊の武力紛争や農民一揆が各地で頻発し、その対応に四苦八苦していて、他領でこれ以上のもめ事を増やしたくなかったのもあっての結果的産物としての束の間の人民統治ってところだろうか。
 残念ながら、その詳細は明らかではない。

|

2017年3月 4日 (土)

関門相克史・後日譚 《 門司港の英国領事館 》

Moji_a1


 以前、このブログの《 関門相克史(新・源平合戦)》で、門司(小倉藩)=下関(長州藩)の狭い関門海峡を挟んでの角逐、その一つとして英国領事館設立に触れたことがあった。
 その明治中葉に下関側設置で決着がついたはずの英国領事館勧誘事件、最近、地元の小さな書店で買った復刻版《 日本國門司港湾案内 》を眺めている内、ふと《 英国領事館 》の表示があるのに気づき驚いた。
 まさか石コロを投げれば届きそうな狭い関門海峡を挟んで、門司=下関両方に《 英国領事館 》が建てられたのかと、思わず自分の眼を疑ってしまった。場所は、山側に近い、現在もある《 門司倶楽部 》の下方。ご叮嚀にも、英国国旗の絵まで記してあるではないか。この《 門司倶楽部 》って、明治36年に、レトロ門司港を象徴するように炭鉱関係や地元の銀行なんかの幹部達の社交場として建てられ、戦後中国料理レストランとなって現在に至ったものらしい。
 
 
 この地図、作成年度が不詳で、添付のパンフレットによると、推定明治40年前後という。有難いことに、件の《 英国領事館 》の項目もあった。
 実は、《 英国領事館 》設置が下関側に決定した後、未練がましくも門司側、尚も英国に領事館設置を具申し続けたのだった。
 そもそもが当時駐日英国公使=アーネスト・サトウが、関門エリアに領事館設置を企画したのが発端らしく、既に時代の流れ的には新興著しかった門司港側が適切だったに違いないのだけど、何しろ維新の軍功めでたい雄藩・長州ってことで、下関側に傾いたのだろう。まさか、下関側が英国に具申した、「 門司の住民の半ばは石炭積込みの労働者及び日本における最下級に属する人物なり・・・」ってところじゃないだろうが。
 

 で、その相克的執拗さで、門司側にも、《 英国領事館 》設置をもたらしたのかと思ったら、そのパンフレットには、“領事館”の明示を、“出張所”と訂(ただ)してあった。
 地図に明示された《 英国領事館 》の何処にも“出張所”の但し書きはない。「対抗意識」と、パンフレット作者は推論してたけど、果たして相克なら正にその通りに違いない。
 下関側設置決定が明治34年(1901年)、建設が5年後の明治39年。
 門司側“出張所”設置は明治36年。
 尤も、パンフレットには「設置が実現した」としか記述されてなく、それが建設をも意味しているのか曖昧なまま。


Moji_b


 
 ところが、《 硯海鼠璞 》(けんかいそはく)なるブログには、昭和初期の門司港地図に触れながら、件の明治40年頃の地図に明示されていた《 英国領事館 》を“出張所”と訂し、「明治36年4月1日開庁式」、「船舶事務」を主に取り扱っていたと附言し、その上で、「場所が違う」と明記してあった。
 えっ? 
庁舎の看板を誇大明示した上に、場所も違う?
 時代的社会的ラッシュとはそんなものなのだろう。
 

 が、同じそのブログ確かめてみたら、ことはそれだけで終わっていなかった。
 第二次世界大戦突入で《 英国領事館 》自体が閉鎖され、米軍による猛爆撃で壊滅的打撃を受けた門司港、戦後もまだ地雷処理に明け暮れしている昭和27年に、急に明治の 《 英国領事館 》争奪戦を思い出したかのように、早速英国にまたぞろ領事館設置を具申したという。結果は不詳だけど、そのまだ残存機雷が浮遊していたらしい関門海峡を挟んだ門司・下関両側のどちらかに《 英国領事館 》なるものがあったという話、寡聞にして聞いたことがない。
 尤も、明治の関門《 英国領事館 》に深く関わってきたらしい、長崎グラバー商会系のホームリンガー商会の現在も門司港にある戦後建てられた建物、あるブログじゃ、そこが戦後のだろう英国領事館の建物と記述しているのだけど・・・


|

«中国武侠映画的覚書