わたしと共に磔刑を覚悟する者はいないか ! 古海卓二《 九州の百姓一揆 》

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 ( 八十年前の、文庫本より一回り小さなサイズ。ネットで結構出回っているけど、皆一様に使用感・経年劣化が強い。終戦直後は皆活字に飢えていたという。こんな120数ペ-ジの小冊子でも、それなりに売れたのかも知れない。「木の葉叢書」と銘打ってるけど、すぐに潰れたらしく、数冊ぐらい出して廃刊になったようだ。)

 
 1930年、主演・市川右太衞門のシリ-ズ第一作、《 旗本退屈男 》 オリジナルを監督した古海卓二、大正時代の浅草演劇から活躍したある種希代の反逆児だったが、時代風潮がいよいよ澎湃として侵略主義と閉鎖的排外主義的鬱々暗々としたものになりはじめ、唾棄するようにメガホンを叩きつけ、さっさと北九州・黒崎の実家に戻ってしまった。
 戦時中《 麦と兵隊 》で有名になった地元の火野葦平達のグル-プに加わり、執筆に活路を見出していたようで、福岡日日新聞( 現・西日本新聞 )に小説《 日本剣客伝 》を連載したりしていた。
 戦後いち早く、九州書房なる地方出版社を主催し、文庫本体裁の“木の葉叢書(2)”と銘打った《 九州の百姓一揆 》を出版。奥付に、配給が「日本出版配給統制株式会社」となっている。敗戦翌年の昭和21年6月発行だから、まだまだ焼跡があちこちに残ったままの紙事情だったんだろう。

 

 

 昭和21年といえば敗戦の翌年、前年進駐した米軍トップのマッカ-サ-元帥が新年早々、極東国際軍事裁判所の設置を命じ、二月には戦前の封建主義的土地所有を廃止する農地改革が実施されたり、フィリピンで山下奉文元陸軍大将が絞首刑に処され、東京で極東国際軍事裁判所が開廷されたりの旧制度が時代の波に崩れ落ちながらも尚もしがみつこうとする軋轢・拮抗=変転的時代であった。
 
 
 大正・昭和初期まで、古海は大杉栄なんかと係わりをもつアナキズム系的な立場だったのが、昭和4年5月にモスクワで開催された《 日本映画博覧会 》に招聘され、かなりの歓待を受け、以前浅草時代に《 どん底 》を発表したこともあったそのオリジナルの作家ゴ-リキ-とも会えたこともあってか、帰国後はすっかりマルクス主義の信奉者に変わっていたという。
 当時のロシア( ソ連 )は、1917年のロシア革命からレ-ニン→スタ-リンと政権が推移し、この昭和4年(1929年)は正に悪名高いスタ-リン主義体制が確立された年でもあったのだけど、同様に悪名高い上からの強制的集団農業制も正に彼が滞在していた頃に確立された。一介の外国人映画関係者なぞに、そんなリアルな革命的変容・圧政的光景を見せる訳もなく、海外からの客人対応モ-ドに単純に乗っけられたに過ぎなかった。
 当時の日本でも、すでに大杉栄が、ボルシェヴィキ=ロシア共産党に叛旗を翻すウクライナの反強権主義的革命運動を展開していたマフノ運動に言及していたにもかかわらず、少なからずのアナキスト達が、マルクス主義=日本共産党に走っていた。

 

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 ( 中扉。)

 

 古海、帰国しての監督第一作が、御大・市川右太衛門主演の《 日光の円蔵 》であった。
 
  「 この俺がいい御手本だ、支配階級の横暴と、悲惨な百姓の生活を見兼ねて、侍という特権を捨てて、農民解放の真っ先に立ったが・・・」

 

 世界恐慌の荒波が押し寄せ始めた時代に束の間流行った傾向映画ではあるが、あの市川御大が、大画面で、啖呵ならぬ、一大プロパガンダ的アジテ-ションをやってのけてるのが、いかにも古海らしい一途さであろう。勿論、こんなセリフ検閲が許すわけもなく、当然にカットされた場面。( 戦後、竹中労がシナリオから拾い出して明らかになった。 )
 ここで扱われたのが百姓( 農民 )一揆。
 竹槍や鎌なんかの場面もカットになってたらしいけど、官製的作為に粉塗されたロシア革命的現実であっても、その真っ只中の人々の蒼貌や息吹に彼なりに触発され感得したものが、フツフツと滾り溢れての制作だったに違いない。
 

 

 約80年前の、文庫本より一回り小さいそれでも所謂仙花紙のような薄っぺらい頼りない紙質ではないものの、すっかり茶色に変色し素手で触るとヒリヒリするぺ-ジを繰ってゆくと、前がきの冒頭にこうある。

 

 

 「 封建社会に於ては、一揆発頭を極刑に処したのが通例であった。梟首とか刎首とかにされ、罪は一家の者にまで及ぶことすらあった。このような極刑に処されたにも拘らず、一身一家を捨てて、一揆発頭をしなければならなかった百姓の環境は悲惨であり、封建制度は残虐無道であった。」

 

 発頭(ほっとう)=首謀者  刎首(ふんしゅ)=刎頸と同意。首をはねること。梟首は、さらし首。

 

 封建社会=徳川幕藩体制を打倒し新社会建設のはずの明治維新の、例えばその典型的な元基形態ともいえる、城を自焼し小倉藩主達が逃亡した後に入ってきた維新当体の長州軍が、既存の庄屋達と結託して不当不正に走り、憤った小倉藩=企救半島の百姓(農民)達が決起した庄屋・村役人達の屋敷を打壊し焼払って長州軍本営のあった城下まで迫った企救一揆。その首謀者・発頭と目された新道寺村の原口九右衛門は、その罪を問わないという言質を長州軍の代表が確しての和議だったにも拘わらず、大分・日田の河原で絞首刑に処されてしまった。
 明治2年の維新早々、後の明治維新政府・体制の強権主義的な不実・背信に満ちた正体を証して余りあるものであった。
そもそも、その河原は、徳川時代から地元日田近辺の百姓一揆・叛乱の首謀者達が、あるいは梟首され、あるいは絞首される刑場であった。

 

 

 「 百姓一揆蜂起の原因を大別すると、凶作飢饉によるもの、財政的なもの、租税の重課、独占専売反対、幣制の紊乱にもとづくもの等である。
 百姓一揆はそのどれもが、殆んど突発的な騒動ではない。要因に基いて、種種の準備行動が行われるのが普通である。一揆の要因となる様々の事件が発生して、百姓の生活が困難の度を益すと、百姓達は寄々集合して対策を講じる。しかし、尋常一様の対策では、困難を克服できないと見透しがつくと、まづ愁訴が計画されるのが普通である。愁訴はもとより禁制である。」

 

 

 「 愁願書は、幾人もの役人が、次から次へ、上へ上へと順次に差し上げて行くものであるから、なかなかの手数と日時を要する。殊に、貢租の苛斂誅求を緩和するための愁願書などは、役人が自分の失策を蔽わんとして、中途に握り潰してしまうことが屡々ある。
 予備行動としての愁訴が駄目となってから、一揆が計画されるのが普通の順序であるが、必ずしも、順序通りにやるという訳ではない。」
 

 

 「 徳川時代に這入ってからの百姓一揆は、根本的に武士の支配から脱却しようとするような、積極的なものは殆どなかった。ただ、百姓が被支配階級として生活的に受くる、それは或場合には精神的なものであったり、また或場合は、物質的な圧迫苦痛を軽減するために起こされた、消極的反抗運動として、集団の力によって、『 願のすじ 』を強訴する行動であった。」

 

 
 畢竟、徳川幕藩体制下の百姓一揆は、体制内改革以上に出るもんじゃなく、体制を根本から覆す一大変革運動に発展する契機を孕むものとは言い難い、という前衛主義的な当時の発想を古海は提示し断じているのだけど、確かに、明治維新直後・翌年の企救郡百姓一揆なんかじゃ、まだまだ当事者の百姓達が既存の封建主義的発想を越える契機を持っていたとは思えない。あくまでその枠内での一揆だったけれど、しかし、四民平等の新社会の御旗を掲げた維新・長州軍相手だったってことは、むしろ、その矛盾を衝く契機を内包していたともいえよう。
 

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 前書き以降、九州の主立った百姓一揆の概括をずらり並べ紹介してみせてるけど、当方が一番驚かされたのは、例えば、亨保13年久留米藩で勃発した筑後一揆。
 その一揆蜂起した百姓( 農民 )側総勢16万人( 6万人の説も )の装備中の“ 鉄砲1万3800挺 ”って箇所。
 勿論、猟師達が所有してる鉄砲の数なんか高が知れてて、況んや百姓なんかに鉄砲など所有させる訳もなく、この一揆のために、事前に、藩役人に、猪・鹿が田畑を荒らし難渋している旨申し立て、確保したものであったという。
 それにしても物凄い数だ。
 久留米藩って、百姓にこれだけの数の鉄砲を貸し出せるってことは、相当に鉄砲を備えていたってことを意味する。
 文化8年の豊後(大分)・岡藩の豊後一揆でも、一揆勢が、町外れの河原で黎明の藍空に向け“ 数百挺の鉄砲 ”を撃ちっぱなして気勢を挙げたという。
 只、この両一揆とも、実際には使用された風は見られないので、あくまで威嚇のため?必要とあらば発砲って含みもなのか・・・否、当時は決死の覚悟の一揆故に躊躇うことはなかったであろう。企救郡一揆じゃ、猟師達の鉄砲ぐらいだったから、それも明治維新以降だったこともあって、統制にうるさかった幕藩体制下の方の量の多さが異様に映ってしまう。これで、藩兵と真っ向銃撃戦突入なんてことになったら、かなりの死傷者が出、嫌でも徳川幕府の知るとことなり、藩の存亡にも係わってくることになるのは必定。

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( 昭和4年、革命ロシアから帰国後撮影。主演・市川右太衛門『日光の円蔵』。検閲でかなりカットされた傾向映画。是非観てみたい一作。)

 

 九州の一揆のハイライトは、やはり維新後、明治6年6月の福岡本庁まで襲った筑前の竹槍一揆。
 福岡県のど真ん中に位置する嘉麻周辺から蜂起した一揆勢、総勢30万( 10万という説も )人叛乱農民が、途中の庄屋・豪商・役人宅を叩壊し焼払いしながら、福岡県庁のある博多の町へ押し寄せ、天神・中州・呉服町をも蹂躙し、官舎すら焼き払った。抜刀隊と銃・大砲を装備した鎮圧部隊の総攻撃を受け、さすがに竹槍一揆と謂われるだけの竹槍や鎌だけの武装で敵うわけもなく、次第にじりじりと後退し、隣の熊本からも鎮圧軍が到来し、博多の町から一揆衆は引き上げていった。
 打壊し・焼討ちにあった家屋4500戸。
 一揆農民側、それぞれ万単位で笞刑・杖刑に処され、何人かは絞罪・斬罪に。官憲側の責任者の幾人かは責任を取って割腹自殺し、県トップは罷免。
 この筑前の場合、鉄砲のことは記されていない。
 この古海の本以外のネット見ても、当時の記録に、博多より遠方の村々からどんどん雪だるま式に人数を増やし福岡県庁目指し、途中の庄屋・豪商の屋敷を打壊し・焼討ちしながらの進行先に、待ち伏せしていた福岡藩士達が、銃を撃ちかけてきたという。恐怖に駆られて一部の一揆衆は逃げ出したものの、一揆衆の誰かが撃たれ死傷したという噂聞いたことなく、威嚇のための空砲なのが分かって、身を隠してやり過ごした、とある。
 これは維新政府・県庁派遣の鎮圧部隊側の銃撃隊の話だけど、それに対応・応戦して一揆側が鉄砲を発砲したという記述はない。つまり、計画的に練られたものじゃなく、文字通りの自然発生的・付和雷同的な一揆の性格が強いってことなんだろう。
 だから、県庁での大砲( 無論空砲 )と抜刀隊(50人前後)の攻撃に次々と斬り倒され後退せざるを得なかったのだろう。石礫という飛道具も多数で行使すれば抜刀隊も威力半減、そのまま整列しての多重の竹槍陣形で進撃すれば十分に対応できたのでは、と素人考えにもこの時の一揆衆の戦術の無さ加減に呆れるばかり。
 古海は、その辺りのところも不満のようだ。
 最後に、この著作の17年前に撮った《 日光の円蔵 》で゛、御大・右太衛門に、こう叫ばせた。

 

 

 「 日光だけの問題ではない、すべての農民、無産の民のためだ、わたしと共に磔刑を覚悟する者はいないか 」

 

 

                         
《 九州の百姓一揆 》古海卓二( 九州書房 )昭和21年6月5日発行
 
   ※ ネットの古本屋でオリジナルが入手可。 

 

2026年2月 7日 (土)

甲斐大策的軌跡  古い港町のオアシス・グリシェン・カフェ

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 久しぶりに門司港の「古民家チャイ・ハナ」グルシェン・カフェでランチを食べた。

 ぞろりとした中央アジア風の衣装をまとった女性オーナー、作家・画家の甲斐大策の事となると、俄然甲斐大策博物館の文芸員宜しく丁々発止に饒舌になるのだけど、生前から大策とは手紙のやり取りしてたようだ。というより、大策自身が、ともかく誰にでも手紙を書きまくってたらしい所謂人たらし的な性向だった・・・否、むしろ自己表出衝動の口実としての手紙だったのだろう。

 

 今回久しぶりに訪れてみると、以前片側の壁にずらり並んだ大判の油絵・アクリル画などがほとんど姿を消し、小さな白黒の小品が一面に掲げられていて、テーブルの上には、紙粘土細工のミニ・アフガン泥雛が七彩の大団円を決め込んでいた。大策手製という。自分の幼い娘のためだったようだ。この店のオーナー女性は大策や彼の娘さんとも親しかったようで、だからこその常設大策絵画画廊なんだろう。この小品群、皆初めて見るものばかり。

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 亡くなってもう七年。

 かつて藤原新也の指定中華料理館だった《 萬龍 》と同じ横丁にあるこの《 グルシェン・カフェ 》の、一ブロック先の商店街近辺で、当の大策の黒ずくめの姿を見かけたことがあったけど、そういえば、カメラ手にした新也爺も何度か見かけた。場所は違うが、いつもアシスタントか秘書か定かならぬ若い女性と連れ立っていた佐木隆三を見かけなくなって久しい。彼はもっと前に亡くなってたが、見かけるのは決まって門司港駅前だった。最近は、どこでだったか忘れてしまったけど、イラストレーターの黒田征太郎を見かけた。港近くの廃ビルにアトリエを構えているという。 

 何しろ列島の西端、南西辺境州の小さな港町、港町の常でもあって、様々な人々が行き交い流れ着く。

 あるいは旅立ち、あるいは、永遠の旅へと流離厭離する。

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 驚いたことに、今回、大策のスクラップと銘打った分厚い、彼の両親に旅先から送った大量のエア・メール(書簡)やイラスト集が閲覧可能なものとして陳列してあった。二冊。興味津々に立ち読みしてると、件の女性オーナーが自分のテーブルでご覧になって下さいと声をかけてくれたので、コーヒー茶碗を端によけてちょと読まさせてもらった。少し暗めの照明だったのでびっしり記された小文字を、知らないうちに、両目をそばだてていたのか、オーナーがわざわざ、大策の遺品といって分厚い拡大レンズを持ってきてくれた。

 最初、当方と同様の拙字だと、些かの同類的安心の念を覚えたのだけど、裸のままのレンズを通して見直してみると、果たして、小さく書き込むため丁寧じゃないけど、けっこう遊び心も窺えるそれなりに味わいのある字面であることが分かった。一、二枚くらいしか読まなかったけど、ナイロビやウガンダの地名が記されてて、つまり、大策=アフガン・中央アジア始めアジア大陸専門とばかり勝手に決め込んでいたら、なんとアフリカ大陸まで足を延ばしていた。その地での悲喜こもごもをびっしり書簡にしたため、画家である父・巳八郎に送り続けていたのだ。

 

 

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 中々に面白い旅先からの書簡集だけど、オーナーに尋ねてみたら、出版する動きはないという。自分じゃ無理とも。画集も未だ出てないらしい。日の目に触れることもないままのここだけの閲覧資料ってことなんだろうけど、残念。

 初めて甲斐大策の短編集を読んだのは、パキスタンは古の古都・ペシャワール、新市街にあったバックパッカーの溜り場《 カイバル・ホテル 》。そこのドミトリーの一角に客が残していった本・雑誌の中に、ポツンと一冊、眼を惹く装丁で手にしたのであった。まだ、ソ連軍がアフガンでイスラムのムジャヒ軍と戦っていた頃だった。

 

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 ( アフリカ・ケニヤ投函。手描きのエア・メイルも遊び心満点。)

 

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( 部分的マル文字も遊び心の一環だろう。これは女性オーナーもいっていたことだが、大策は戦前の旧かな使いを諸所で使ってて、戦中世代的反骨なのか、それをも踏まえた遊び心なのか。)

 

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 ( 彼の場合、バックパッカーとは若干異なるけど広義のバックパッカーには違いない。この書簡には、甲斐大策の一人旅人としての宣言ともいうべき行りもあって興味深い。また、旅先での出逢い、「物を感じ、愛し、美しいものを探し、感動を絵にすること・・・」と、芭蕉が俳句でそうだったように、大策も描画を事とする旅でもあったようだ。)

 

 

2026年1月24日 (土)

浮遊と舞い上がり

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 ( 30年近く前の西ラッダク。今じゃ随分と変わってしまったろう。国境隣の北パキスタン・フンザもあっという間に変貌してたからな。夜になると、漆黒の闇の向こうに、西ヒマラヤのギザギザした峰々が銀色に輝き、頭上には星々が煌めいている中、何処からともなく、チベット寺院から夜の勤行たる地響きのごとくのホーンとシンバルの響きが、遠いシャンバラを予感させ、雰囲気最高の夜々であった。 )

 

 

  現・総理大臣高市が、米国大統領トランプと共に米空母ジョージ・ワシントンでのスピーチの壇上で、前代未聞に大はしゃぎし舞い上がって見せたのは、まだ記憶に新しい。自分でも抑えられないくらいの喜びの噴出。天にも昇らんばかりってやつだ。

 あれを見て、ふと想い出したことがあった。

 大部以前の出来事だったが、西チベット=ラダックのメインストリートに面した二階の窓から真下のラッダク人や犬・牛・ロバ等がゆったりと行き交う光景を眺めれるアムド・カフェ、中国青海省・アムド出身チベット人が営ってる店で、季節外れのわれわれ日本人滞在者の溜り場と化していた。オーナーは、日本人を見つけると中国語が話せる者もいるのを当てにして話せるかどうか尋ねてくる。でも、その時のメンバーには残念だがいなかった。生まれ育った青海で身についた中国語だから、忘れないためにも会話したかったに違いない。

 その時、男ばかりのパッカーの中に、それこそ紅一点、三十前後のすらりとしたしなやかな女性が混じっていた。

 その女性こそ、この出来事の主人公で、日本じゃ、ヨガのインストラクターをやっているとのことだった。ゆったり落ち着いた物腰が如何にもそれを思わせた。さすがに、どんな話をしたか皆忘れてしまったけど、ただ唯一、話が、当時まだ話題になっていたオウム真理教の尊師・麻原彰晃の空中浮遊におよび、当方は、当時流布していた尊師・麻原が苦悶の表情をたたえ浮遊というよりジャンプに近い仕草の写真を想起していた。

 浮遊というのは、ゆったりと空中に漂うことを指す。

 けど、流布した写真の尊師は、およそそんなたゆたいとは真逆の、むしろ跳ね上がっているようにしか見えなかった。

 大勢はそんなところに帰着したけれど、一人、件のヨガ・インストラクターは、

  「 わたしの兄弟子たるグルは、本当に、空中浮遊できますよ」

 と、微塵の気負いもためらいもなく静かに口にした。

 何よりも、その女性が信頼するに足る雰囲気を湛えていたからこそ、当方もこれは二度と巡り合うことのない絶好のチャンスと、一問一問消去法的に、あいまいさを排除するように質問し確かめていった。と、横合いから、ある学生が、全然別の、何の関係もない話で割って入ってきた。話が佳境に入ってきた正に絶妙のタイミングで、話の腰を折られてしまった。

 一体如何なる様態で空中浮遊はなされるのか・・・・

 その肝心のところを、話の腰を折られ、真実の空中浮揚探求は、頓挫してしまった。

 翌日か翌翌日、そのヨガ・インストラクターは次の目的地に向かった。

 横合いから話の腰を折った学生に、当方の態度が、楽しい会話じゃなく、厳しい「追及」の如く見え、女性に助け舟を出したつもりのようだった。・・・・・。

 確かに、のめりこみ過ぎ、力んでしまったのかも知れない。けれど、又とない千歳一隅のチャンスを逃してしまった。

 今もって、空中浮遊は、だから、当方にとって不明のまま、正に歴史の中空をいまだ漂い続けているのだ。

 

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 ( メインストリートに面したチベッタン・カフェ【amdo cafe】。チッベト僧の姿も偶に見かけたりもする。現在でも営業してるようで、you-tubeに様子がアップされている。窓下に展開される動物やラッダク人、チベット人たちの絵模様はいくら眺めても飽きることがない。)

 

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