黒石的七彩境界を探して 長崎外海・出津 

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 以前、《 大泉黒石(私)研究 》に掲載された大泉黒石のスケッチ《 睡れる少女の顔 》で、中学の頃、大浦湾に面した鯨漁( むしろ加工・運輸の方だったようだ )の小さな漁村・時津(とぎつ)の静かな景観と雰囲気が好きで度々スケッチブック片手に赴いていて、偶々訪れた「海に面した小奇麗な茶店」、駄菓子屋も兼業の店でラムネを飲んでいると、店番の娘がうたた寝をはじめ、その愛らしい横顔に魅せられ思わず描いてしまったという経緯。
 
 今改めてそのスケッチを眺めてみると、どうにも日本人とは思われない西洋人的相貌で、勿論実際には色んな血の混じった東の涯の日本列島住民であるんだから、様々な骨格・相貌があっても違和はない。けど、余りに西洋風にあり過ぎてて、これはむしろ黒石が自分に寄せてディフォルメした美意識的変容の産物じゃ、と断じたくなってくる。黒石の中学の友人たる彼女の親戚も、同様に鼻梁の高い西洋人っぽい風貌だったのだろうか。
 あるいは、ひょっとして彼女は当時まだ存在していたろう南山手の異人館あるいは稲佐のロシア系のラシャメンの子孫だった可能性もあり得る。

 

「 私の幼年時代の記憶の中で、一番色彩の濃いのは、この漁村である。」
 

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 ( 出津文化村バス亭 長崎駅前からの直通は少ない。途中乗換えもそこそこ。隣村・黒崎は歩けなくはない距離で、当方は時間とエナジー切れで諦めたが、時間があればアプローチした方が面白い。フェンスの向こうに東シナ海が拡がっている。)

 

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( バス亭から眼下に覗けた出津漁港。小さな漁港で、春の陽光の下、のんびりした雰囲気。)

 

 黒石の心の奥底にゆらめく原風景としての時津。
幼年時代の記憶とあるからには、中学生以前に遡るものだろうけど、十キロ以上の距離を小学生がスケッチブック片手に散歩するってのは些か無理があって、おそらく大人に車か何かに乗っけられての同道だったに違いない。彼の乳母の郷里でもあったという。
 それは又、《 長崎夜話 》( 大正九年の《 中央公論 》に掲載 )中、主人公・黒助の乳母だった女性の実家が、近郷の農村で鯨商を生業としていたという設定にも連なってきて、首からECCE HOMEの刺繍のある黒羅紗の札を吊るした老婆・お島と、首からアルミのマリア像をさげた娘・おふじの二人が、毎回鯨肉を手土産に黒助宅を訪れていたのが、次第に鯨肉が小さくなってきたのを疎ましく思い始めた四面楚歌の黒助だった。
 その二人、つまり乳母の母親と娘に厄介者扱いにされていた老爺・佐太郎が、浜に教会が建てられてから、浄土宗から耶蘇教に帰依したとあって、明治維新以降の新キリスト教徒には違いない。黒助はその教会の神父に恐れと確執を抱いてて、佐太郎の葬儀の際、愈々妖気漂う異界空間も極まってしまうのだけど、そもそも時津には戦前、キリスト教会はなく、戦後も大部過ってから建てられたものがあるだけという。

 

 

 長崎から時津の倍の距離、東シナ海・五島灘に面した外海(そとめ)と呼ばれる断崖が続くエリアの一角に、出津(しつ)の小さな漁港があり、そこには、明治15年( 1882年 )にフランス人宣教師ド・ロ神父によって建てられたカトリック教会が建てられていた。けど、二十キロも離れているので気軽にスケッチブック片手じゃ余りに無理過ぎ。
 つまり、黒石がこの出津を念頭において時津に組み込んだのか、あるいはもっと創作的に、佐太郎の告別式の七彩的妖気漂う伴天連的牙城として何としても教会が欲しかったのか。

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( 出津漁港、昼間だったのもあるが、人影はほとんどない。左の旧い木造家屋は朽ちていた。ここは山側も海側も石垣作りが多い。一年を通して強風が東シナ海・五島灘から吹きつけてくるのもあるのだろう。)

 

 で、今回、念願のその出津に行ってみた。
 久しぶりの長崎駅は、まだ駅ビル外で工事中。その外側にローカル・バス停留所があって、11時5分の西海バス( 100番 )に乗った。桜の里バスターミナルで乗り換えせずに済む出津( 出津文化村 )直行便。 さすがに過疎エリアらしく2×1の座席も乗客も少ない。出津は元々貧困エリアであったらしく、明治前期にやって来たド・ロ神父もその余りの貧しさを目の当たりにして、自身の財産を注ぎ込んで救済に奔走したという。貧しさ故の産業育成や施設、小さな診療所そして教会建立。彼は貴族の出で、それなりの財産があったようだ。マカロニやソーメン、パン、織物等、女性達の生活的自立を助けるための施設は現在でも文化財として残っている。

 

 

 一時間ちょっとのバス旅は混むことがないので満喫できた。
 途中までは時津と同じルートだったけど、次第に山道に入ってゆき五島灘に向かって屹立した断崖とちょっと開けた小さな漁港が点々と下方に覗ける高台を縫ってゆく。ようやく海に面した道路に出たと思ったら、もう出津文化村、眼下に張り付くように蝟集した小さな出津港が見下ろせた。青々とした遙か向こうまで東シナ海に居たる水平線が拡がっていた。かつては大きく帆を張り白波を蹴立てた異国船が行き交っていたのだろう。しばし、ガードレールに身を寄せ、往事も吹いていたろう冷んやりした五島灘の風が、陽光の下、心地よかった。
 

 出津の村は小さな村だけど、地図で見てたのと違って、バス亭のすぐ前に漁港が開けているんじゃなくて、急勾配の坂道を下ってゆかねばならない。漁港の両側にはもう断崖がそそり立っている。
 もうすっかり整備されている出津の文化村は、それでも、やっぱり長崎って感じで坂道が縦横に走ってて、ゆっくりと歩き回るにはもってこいの規模。
 目的の出津教会はすぐに見つかった。
 丘上に長細い瓦と漆喰塗りの白壁の低い屋根の、ド・ロ神父と村民達が建てた教会が、春陽の下、のんびりと横たわっていた。傍に近づくと、入口上の設えられた塔の先に塑像なのか淡色のマリア像が眼に入った。
 白地に腰の水色の帯がアクセントになってて、ド・ロ神父がフランスから運んできた像ということで、彼好みの、教会ともども余り飾気のない淡いマリア像に違いない。
 その本堂と少し離れた場所に、もうそれだけのために建てられた風の塔の上に、呼応するように大きく両手を広げたイエスの白像があって、どう考えても、後から立てられたもので、やはりカトリックは聖母が主なのか。聖母マリア(像)って観音菩薩(像)と似たとこがあるからか、隠れキリシタン達の隠れ蓑としてマリア観音像なんて流布していたという。華美とは無縁の質素な飾気希薄な佇まいは、赤貧洗うが如くの貧しい人々の欣求的癒しの場とし相応しいものだったろう。

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( 出津教会。瓦と漆喰壁が簡素だけど、なかなかの風合いと雰囲気。玄関上に伸びた尖塔の先にマリア観音像。向こうの小さな登場にキリスト像。夏はコンクリや石が焼けてともかく暑そう。)

 

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( 石段上から見下ろした教会玄関。マリア像がよく見える。この石段上は一休みするにも持参の弁当広げるにもベスト・ポジション。)

 

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 ド・ロ神父は、慶応4年( 1868年 )に、所属していたカトリック・パリ外国宣教会から長崎に派遣され、横浜にしばらく滞在した後、明治11年( 1878年 )、出津の教会主任司祭として赴任。明治15年に出津教会を建て、翌明治16年に女性のための授産施設《 出津救助院 》を設立。最初、無知な当方は、授産を出産関係かと感じ違いしたが、これは貧困対策としての産業的技術の授業ってことだった。
 彼は隣村黒崎村の教区も兼任していて、大正に完成が延びたものの出津教会とは全く別様の赤レンガ造りの立派な教会をも立て、大正初期に体調不良で戻っていた浦上天主堂に付属した大主教館工事中に斃れたという。

 

 

 教会を少し下った坂道に黒瓦拭きの何軒か蝟集した建物《 出津救助院 》があって、いずれも歴史的遺構で料金を払えば見学できる。門の中に入ると、正面に昔風の民家の佇まいの土産物屋宜しく小さな売店があり、カトリック尼僧の衣装をまとった女性が出てきた。片側の奥深い建物がかつての工場で、売店の建物がかつての医療室だったらしい。尼さんの話だと、この辺り一帯は風が強く、強風の吹き荒ぶ時は大変という。教会も風対策として、ド・ロ神父が低い屋根に設計したようだ。

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( 教会堂の裏。フランスの宣教師らしく、ルルド。)

 

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 佐太郎の告別式が催された七彩の妖気漂う異界空間=教会堂って、それなりの規模のステンド・グラスを前提とするけど、この出津教会堂の内側は、外形と同様飾気を排した質素な作りになっていて、浦上天主堂なんかの長崎市内の教会の内部をイメージしたんだろうか。境界世界的悪夢の舞台に設定するには、この東シナ海から時折強風の吹きつける出津の質素な教会は、余りに不向き。
 むしろ、隣村の黒崎教会にこそ、信徒達が一個一個積み上げていった赤煉瓦造りで天井高く、七彩の光に満ち溢れるだろうステンド・グラスが張り巡らされている。尤も、時間の関係で当方は未見。大正九年に完成したとある。《 長崎夜話 》が月刊《 中央公論 》に掲載された年と同年。それだと、可能性は低い。

 

 年間を通して東シナ海からの強風に晒される外海、断崖多い地形から如何にも厳しい自然条件って先入観が先にたってしまう。実際その通りのようで、風が強いと転覆する漁船も多く、残された女・子供が呻吟してたってことでのド・ロ神父=教会・救助院の成りゆき。現在でも住民の半数近くがカトリック( 切支丹 )教徒という。隣町黒崎近くの高台に遠藤周作文学館があったりで、当日も、何処かのミッション系なのか女子高生達の一団がゾロゾロと教会を訪れ、靴箱に履物を預けて中へ入っていった。薄っらと雲のかかった青空から照りつける陽光に、尖塔上で両手を合わせた淡い聖母マリアが一層眩しく佇んでいるばかり。
 黒石の見まえることのなかった母ケイや、黄廛来の刑死した若き母親や李桂花の如く。

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( 出津の救助院。ド・ロ神父肝いりの授産施設。彼は建築から農業まで幅広い知識と技術を有した正に献身的使徒のようだ。)

 

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2026年3月31日 (火)

高杉晋作=東行庵(下関・吉田) 再訪

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 昨秋訪れた際は、暑熱もあって、訪問客疎らで閑散とした佇まいの中、広い池全面に大輪の白蓮が溢れ、その絶景は筆舌に尽くし難いものだったと云えば些か形容過剰だけど、想定外だったこともあって、感動ものだった。
 今回は、連休中日とあって、風こそ少し強く肌寒かったものの小春日和に近く、さすがにそこそこ人出はあった。肝心の池には枯れ萎れた蓮茎が点々とシルエットとなり、つがいらしい雁と紅鯉が一尾悠然と回遊するばかり。
 

 

 市の博物館にはそれなりに揃ってるのかも知れないけど、萩の晋作の居宅も、ここの東行記念館にも晋作がらみの歴史的遺物って僅少。もう少しあってもいいんじゃないか思うんだけど、あっちこっち形見分けしてしまってたんだろうか。あるいは、分散・・・
 今回、上下段に並んだ晋作と愛妾おうの=梅処尼の墓の右手奥に並んだ奇兵隊士たちの墓列の方にも足を伸ばし、一つ一つ確かめてみた。当然、奇兵隊の大まかな顛末は了解してるものの、個々逐一は殆ど未詳で、実際は、只刻まれた時代を確認するぐらい。それほど朽ちた風でもないにもかかわらず判別しにくい。
 奇兵隊創立して幾らもしない内に亡くなった隊士や明治も大分過ってからのもあった。昭和になってからここへ改葬したのも少なくない。死してからの様々な帰趨転変。如何にも時代の波に、切り開いたはずが翻弄されることとなった奇兵隊の命運ってとこだろうか。

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 ( 昨秋は一面大輪の白蓮が咲き誇っていたけど、今は枯茎のみ。) 

 

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 ずらり瞥見して気づいたのは、本来なら維新新政府と抗い拮抗角逐した奇兵隊士=諸隊脱退隊士たちの墓も並んでいたことだった。元々この地は、新政府本道とも謂える、晋作の盟友・山形狂介(有朋)の所有地だったのを、晋作の遺言に従って晋作を葬り、おうのに東行庵として譲渡したものだった。それでも、官制じゃなく、あくまで私的なものってとこで、かかる運びとなったのだろう。

 

 

 明治2年6月、版籍奉還で、長州→山口藩知事・毛利元徳は、11月、いわゆる精選を実施し常備軍結成のため、諸隊約5000名の内、3000名を、論功行賞も無く解雇した。それに激怒し、異議を申し立てた奇兵隊はじめ振武隊、鋭武隊等旧諸隊士が脱隊騒動を起こした。
 

 

「奇兵隊之儀ハ、有志之者相集候義ニ付、藩士・陪臣・軽率不撰、同様ニ相交り、専ら力量を 尊ひ、堅固之隊相調可申ト奉存候」

 

 

 そもそも、晋作が提起した理念、出身・身分を問わない志のある者たちの、平等に協同し、もっぱらその力量だけが問われるはずの奇兵隊だった。ところが実際には、その初期から、厳然とした身分的な差別があり、最後まで払拭されることはなかった。あまつさえ、諸処での戦で死傷した隊士たちはいかほどの補償すらして貰えなかったという。
 帝都・東京から木戸孝允(桂小五郎)が鎮圧のため帰藩、一進一退の末、壊滅し鎮圧した。木戸は、脱退隊士たちと折から長州藩中に沸き起こった農民一揆が結びつき、新政府の存立を脅かす全国的波及を恐れたという。
 正にそのごときというべきか、処刑( 斬首 )された隊士の半数以上が農民出身だったという。

 

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 ( 高杉晋作=東行の墓。晋作の像や山形狂介の像が別の場所に立てられている。)

 

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 ( おうの=梅処尼の墓。晋作墓の下の段にある。)

 

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 (それぞれの物語を秘めた隊士の墓石が、昼尚仄昏い林陰に静かに佇んでいる。)

 

 この東行庵隣接の奇兵隊士の墓列に並んでいる佐々木祥一郎は、ある種、諸藩脱退の象徴的な存在で、晋作と同じ上級武士の出身。事態の成り行きで、脱退組の指導的立場に祭り上げられたようだけど、出自のせいもあってか、藩主の鎮撫( 当初は、藩主・毛利公直々に対応していた )を踏みにじる挙には出難たかったようで、武力じゃなく、極力話し合いでの解決を意図してたらしい。
 結局、壊滅し、捕縛され、刑場に引き立てられる途中で、突然暴れ出したという。武士の最後のプライドとして切腹を求めた、という話もある。その際、刑吏に鉄棒でさんざ撃ちのめされ、血塗れのまま斬首されたようだ。彼の憤激・慟哭は、後年新政府を脅かした士族反乱の、先駆けともいえよう。
 因みに、彼の亡骸は家族が密かに一族とは別に埋葬し、やがて行方不明になっていたのが、戦後になって発見され、現在地に改葬されたという。
 

 

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 ( 叛乱分子扱いなんだろう墓石を横に向けたまま。時代的制約はもう解いていいはずが、史跡重視って訳か。)

 

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 (下関の豪商・白石正一郎のとこで働いていた奈良屋源兵衛、封建主義的身分的角逐ともいうべき教法寺事件に巻き込まれ惨死。)

 

 もう一つ、奈良屋源兵衛、元々は晋作や坂本龍馬も支援を受けていた商人・白石正一郎の下で働いていたのが、奇兵隊に入隊。
 1863年(文久)8月、いわゆる《 教法寺事件 》に巻き込まれてしまった。当時、下関の前田砲台(奇兵隊)と壇ノ浦砲台(先鋒隊)を、毛利定広が閲兵するってんで、それぞれの隊が興奮混じりに期待に胸を膨らませていた。が、先に赴いた奇兵隊の駐屯する前田砲台であれこれ丁寧に見回ったのか、時間を喰い過ぎ、壇ノ浦砲台を省略して帰ってしまった。問題は、壇ノ浦砲台の先鋒隊が、一般募集の奇兵隊と相違して、全員、藩士たちで構成されていた、つまり長州藩正規軍だったってことで、その頃既に下関・長州界隈で流布していた、

 

 麦の黒ん穂と先鋒隊はせいを揃えて出るばかり
 
という戯歌、先の関門海峡で四国連合艦隊と一戦交え、前時代的な鎧兜の出立ちで蜘蛛の子を散らす如く逃げ惑い、あげくフランス軍に砲台まで占拠された屈辱的事件を揶揄したもので、その当事者がれっきとした藩士たちだけで作られた先鋒隊だった。
 そのいわば出身身分を嵩に着たエリート意識ばかり強い先鋒隊が、藩主直々閲兵の名誉ある瞬間を鼻先で藩主踵をかえすというあり得ないな事態、それもよりによって、大半が百姓ばかりの奇兵隊に妨げられたというこれ以上ない屈辱と怒りの爆発が、しかし起こるべきして起こった角逐的顛末。奈良屋源兵衛、そんな騒動には無縁な場所にいたにもかかわらず、憤った先鋒隊にひっつかまり、惨殺されてしまったという。何とも哀れ。墓の脇に立った表札には、はっきり“リンチ”と記されている。晋作も当時現場に居たようで、責任を取らされ、奇兵隊総監を罷免されてしまった。たった三ヶ月の就任であった。

 

 

 昨今、高杉晋作神話も、奇兵隊神話も崩れつつあって、いよいよ本格的にその実像に迫まれる時節に至ったということなんだろうか。
 奇兵隊はじめとする旧隊脱退勢力と農民一揆との結びつきってテーマ、現在研究者の間じゃ錯綜してるようだけど、対岸の小倉藩・企救半島農民一揆との絡みで興味は尽きない。

 

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2026年3月18日 (水)

黒石ブログ的近況 《 笑うべからず 》同類異種的島田清次郎への接近

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 2025年6月、イランの高官・科学者まで殺害、軍・核基地を中心に爆弾やトマホーク等で攻撃した米国・イスラエル、それに対してイランの側もドロ-ンや弾道ミサイル等で反撃した《 十二日間戦争 》が勃発し、その八ヶ月後、今度はイランの最高指導者ハメネイ大統領を家族もろとも殺害し、もっと徹底した攻撃をイスラエル・米国が敢行。

 

 虫の息なのかと思われたイラン、さすが米国本土に報復に値する攻撃をする意志はないようで、基本、せいぜいイスラエルと湾岸諸国に対する攻撃に終始しているようだ。ハネメイ一家殺害はイスラエルが強行したというトランプ米国のスタンスらしいけど、それにしても、イランって一方的にネタニヤフ・イスラエル当局から籠絡されるばかりで、基本、一指だにできてない。
 先は長いのか短いのか、エシュロン以外にも世界的監視システムはあるのだろうから、イラン一国だけじゃ、同等のものをイランが所有してない限り甚だ難しい。それ故に〈 核 〉に執着するイランや北朝鮮なんだろう。
 米国・イスラエルともども、碌な建国じゃない札付き侵略虐殺国家。 その米国の傀儡パ-レビを追い出したのは良かったけれど、その後が、イスラム原理主義的ファシズム国家じゃ、イラン人達も、あたかも台湾の人々が、日本軍去ったと思ったら、大陸から追い出された蒋介石・国民党の腐敗ファシスト達が雪崩をうって遣ってきて、悪辣極まりない苛政を押しつけてきた果ての迷惑極まりない現在って図式と相似。
 

 

 ハメネイ家族もろとも殺害って、同じことを、イランがトランプ一家もろともドロ-ン攻撃でやらかしたとしたら、欧米どころか、世界中が騒ぎ立て、恐るべき犯行と罵り呪詛し、世界中が喪に服し、仕舞いにゃ結託して“ Down with IRAN ! ”のシュプレヒコ-ルを連呼し、イラク侵攻の時同様、多国籍軍として猛攻撃しかねないといった図式の上で成り立った戦前以来の帝国主義列強的世界。
 一般論として、まるで、この世界には、反省って観念が皆無って風だ。

 

 

 戦前、そんなウンザリするような帝国主義植民地争奪戦以外の何物でも無い戦争、不可抗的に鬼畜英米と対決せざるを得なくなって、大日本帝国の盲動に、目が点になった辻潤とおそらく同様に己のが耳目を疑った我が大泉黒石、森閑とした暗夜、二人で酌み交わした酒は、飲めども飲めどもさめざめと白けるばかり、あるいはやがてこの列島に展開されるであろう阿鼻叫喚のきな臭い予感に苛まれ、悪酔いの淵に沈んでゆく泥酒だったろうか。

 

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 昨年は色々身辺騒がしく黒石に集中できず、不如意なまま了ってしまった。今年も、もう三月、そろそろ着手したく、まずネットで、四方田犬彦《 大泉黒石 わが故郷は世界文学 》以降少しは増しな状況になってきてるはずと、些かの期待をもって検索してみた。
 が、如何せん、相も変わらず、大半が《 大泉黒石 わが故郷は世界文学 》の営業ブログばかり。時折、児玉司の《 大泉黒石(私)研究 》が出てくるだけで、以前と基本的には殆ど変わりはない。
 そんな旧態依然とした閑散の中に、わずかに一点、あさき主宰の《 NOTE 》に全文復刻掲載された《 笑うべからず 》( 《 改造 》大正14年7巻2号 )があり、初見なので一読させて貰った。如何にも黒石然として黒石節全開の止めどなさに久しぶりに舌を巻いてしまった。

 

 

 黒石が満州に旅してる留守に、あろうことか、嫁の美代の腹が膨れ、スワッ ! 亭主の居ぬ間の不倫か?という読売新聞の記事に端を発した黒石近辺の人間模様の黒石的饒舌的展開。
 その美代の膨れた腹の中に居たのが誰あろう、後年映画俳優になる大泉滉なのだが、それはともかく、黒石一家が居を構えていた場所を、村と呼び、おそらく北豊島郡長崎村が比定されるんだろうが、「うまくもない十五銭のカツやコロッケを撓(たゆ)まず飽かず夫婦掛け合いで食ってやるので」すっかりお馴染みになった「村に古くからある田甫道の酒場」《 開化楼 》の女給・船子と、彼女がサ-ビスのつもりで置いていった《 醜婦の友 》( おそらく、主婦の友 )十二月号のぺ-ジに偶然覗けたゴシップ記事の当事者の島田清次郎。この二人を中心に、長広舌が延々展開されるのだ。

 

 

 「 何の気なしに頁をペラペラ繰ると、島田清次郎なる若年小説家の顔が現われた。
 見ると奴さん、往来の真ん中で突然発狂して巡査に取ッ捕まり、巣鴨の保養院へ叩き込まれて暗い独房でワイワイ泣いているという大袈裟な見出しの記事があるのだ。」
 
   
 大正十三年七月、おりから青山墓地で爆弾事件が起こって警視庁総力を挙げての一大取締まり作戦の真っ只中、巣鴨・白山通りの路上を人力車に乗ってたのだけど、よりによって赤い血痕に点々と染まった浴衣をまとっていたものだから、早速引っ捕えられてしまった。
 尤も、巣鴨署に拘引した後、吉野作造博士宅に押し入っての一悶着や海軍少将の娘の誘拐・監禁事件で既に有名になっていた新進作家・島田清次郎と分かってからは、すっかり持て余し者状態だったようで、翌日早々、巣鴨の保養院( 主に精神病施設 )に引き渡されてしまった。
 その件の爆弾事件、かのひょっとして黒石も一度面識があったかも知れない大杉栄の労働運動社に出入りしていた浜鉄が、大阪府警にリャクで逮捕され、関東大震災時に虐殺された大杉栄達の復讐と浜鉄の奪還を目論んだ古田大次郎等《 ギロチン社 》残党の爆弾製造の一環としての青山墓地での爆弾試作行為だった。
 

 

 「 好奇半分で読むと、発狂の顛末が如何にも巨細にわたって、いい気味だ、態を見ろと言わぬばかりに書きのめしてある。昔は人間の首を戸塚ッ原の獄門台に晒したが、今日では婦人雑誌がその役目を引き受けたと見え 」

 

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 週刊誌・月刊誌、つまりマスコミって、戦前からかくの如しって訳だ。
 島田は大正八年に、新潮社から《 地上 地に潜むもの 》を上梓し忽ちベストセラー、全巻売上総数50万部にもなったという。若干二十歳で一躍文壇の寵児となり、あの芥川龍之介にも将来性を嘱望された。
 只、黒石とはまた違った毀誉褒貶の著しい作家だったようで、巣鴨での事件の前年にも、もともと島田のファンだった海軍少将・舟木錬太郎の娘と一緒になろうと些か強引に連れ出し、葉山に住んでいた徳富蘇峰に仲人を頼もうとした矢先、折から皇太子(ヒロヒト)が葉山御用邸行幸で警備中の警官達に怪しまれ逮捕された。
 二度も厳戒中のピリピリ状態の官憲に怪しまれ、有無も言わせられず引っ立てられる不運。その上、父親の海軍少将に、娘を傷物にしたと誘拐・監禁・陵辱等で訴えられてしまう。このスキャンダルが決定的となって、転落の一途を辿り始めることになったようだ。

 

 

 「 若年小説家が三躍しての発狂沙汰は要するに大将、口ばかりで腸(はらわた)がなかったせいもあるが、俗物どもが寄ってたかって酷め過ぎたのは事実だ。島田清次郎とは僕の家で一度、誰かの出版紀念会で一度。会ったきりで時々は消息を寄越すこともあったが、僕はあの人相が気に食わないので交際(つきあい)は遠慮していた。然しこうなっては見ていられない虐待だ。此の際何とか出来るなら何とかするなら僕の性分だ。誰も構わなければ俺が構う。発狂まえに持ち廻って散々断られたという其のボロボロ原稿はどんなもんだか知んが恐らく大将の絶筆だろう。一ツ閲( み )た上で本屋に掛け合い、出版したら屹度喜ぶだろうと考えた。」

 

 この原稿は、黒石先生の苦労の甲斐あったのか、それまで《 地上 》を出版していた新潮社から彼の原稿は一切拒絶されていたので、春秋社から、「 我れ世に敗れたり 」のタイトルで出版された。《 地上 》自体が当方には未見だけど、《 地上 》の第六巻に当たるらしい。一躍スタ-ダムに昇り、出版界の寵児となったは良いが、あれこれと毀誉褒貶著しく次第に人気も下降していったって構図は、黒石と島田、相似。また、島田は二度ほど自殺未遂があり、黒石も、当人の弁だと少年期に長崎港の岸壁から飛び込み自殺を図ったってのも共通。
 尤も、島田の場合、正に凋落だけど、黒石の場合は、衰退って形容すべきか。それでも、皆に叩かれ罵られる島田を見るにつけ、自身の面影を投影もしただろうし、憐れみと義憤から一助を買って出たのだろう。
 因みに、島田は同じ保養院で、昭和五年に享年31歳で亡くなった。

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 この短編じゃ、島田より、むしろ近くの酒場(カフェのことだろうか)《 開化楼 》の女給・船子のエピソードの方が多く、例によって次回続きで筆を置き、尻切れトンボなんだけど、黒石の腐れ縁的畏友・辻潤も、平辻潤平の名を冠されて登場している。船子の玲瓏な声にすっかり魅入られ賛辞を惜しまぬ風の粹客として。

 

 

 「 睫毛の長い愛嬌顔もまんざらでないし、当人御自慢の声は滅法玲瓏たるもので、暇さえあれば、酒場の蓄音機を師匠に、ワルツやオペラの類から流行歌に至るまでの練習で客の度肝を抉えぐるのだ。」

 


この鬘を被った声楽(ボ-カル)嗜好の娘のエピソード、掲載された《 改造 》にじゃなく、《 醜婦の友 》にでもなく、黒石の得意先の観のある《 実業之日本社 》の婦人雑誌『婦人世界』に、受け継がれたようだけど・・・



 「 『婦人世界』7月号から12月号にかけて連載した「鬘娘」は「笑うべからず」(改造7巻2号、1925年)を長篇として書き直したもの 」

 

                           “スランプの持続・過去作品の使い回し”《 大泉黒石(私)研究 》

 

 

 とあって、拡大改編ってとこなんだろう。
 因みに、この船子って女給、実在の人物かどうか当方には定かじゃないけれど、誘拐・監禁に島田が問われた当の少将の娘、後にプレタリア演劇女優になる舟木芳江の“舟”の一字を拝借しての命名なんだろう。
 何よりも、誘拐・監禁事件をそのまま、男一人から二人に変え、とりわけ村役場の馬面の役人が一方的に執拗に船子に求婚を迫るのだから、島田の事件をネタに、コミカルに変容した黒石風刺笑譚ってとこか。
 
 因みに、最近は、YOU TUBEの方が若干、黒石的には賑わっている風で、茗荷谷かぼす氏以降、次々と、もちろん微々たるものじゃあるけれど、自分の黒石的世界の表演ってジャンルが拡がっているようで、これは将来的にも楽しみな流れではある。

 

«わたしと共に磔刑を覚悟する者はいないか ! 古海卓二《 九州の百姓一揆 》

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