( 下関・吉田清水山の東行庵。暑熱の九月に訪れた時には、池一面に大輪の蓮花が咲いていた。その清々しさは、暑熱を暫し忘れさせる見事さだった。)
今夏、ふと思い立って、高杉晋作の旧跡を訪ねてみた。
明治維新→大日本帝国→第二次世界大戦
というアジアの果ての遅れて来た帝国主義国家の興亡・自滅史の根幹=明治維新において、やはり早く逝ってしまったとはいえ、高杉晋作の影・存在性は希薄なものじゃなかったろう。何しろ、ミレニアムの、令和の現在まで、小泉・安倍の薩長同盟的無能と悪辣によって、この列島どころか周辺諸国にまで奄々と害悪を及ぼし続けているのには、もう言葉も無い。
功山寺での義挙、源平以来の関門海峡を挟んでの長倉戦争、肺結核で愛人おうのに看病され野村望東尼たちに看取られ逝った終焉の地である下関の、海のそばのJR駅から鈍行に乗った。
ネームバリューは十分すぎる山口県最大の都市・下関の駅のはずが・・・・関門海峡を挟んだ九州からみれば、下関は本州の玄関口だけど、本州から見れば最西端ってわけだからか、ホームこそ三本、六本線もあっても、基本、皆鈍行。唯一例外的に京都行のスペシャル列車はあるものの毎日じゃなく、要するに日常的に急行・特急列車が走ってないのだ。
余りにローカル過ぎるだろ。
ところが、この下関駅、山口県下のどの駅よりも利用者数は断トツで一位という。山口県ってそんなんだったけ・・・・ちなみに、薩・長の鹿児島、鹿児島中央駅はといえば、その倍以上の利用者数。確かに、今春、鹿児島市を訪れた際、商店街( アーケード )の大きさ、シャッターじゃなくそれなりに活況を呈していたのには驚かされたので素直に了解できる。
二両だったと思うが三両編成だったかも知れないそれもかなり旧式の山陽本線列車で、一時間近くかけて新山口駅へ。ここは新幹線と交差し、山口で二番目に利用客が多い。真新しい感じの夏陽にまぶしく照り輝いた駅舎に連結して高速バスターミナルがあって、もろ灼熱に照らし出され、待ち客はエアコンの効いた待合室でじっと待期。水害で、くだんの萩(東萩駅)に繋がっていた線路が流されたきりらしく、新山口から高速バスを利用するしかなくなっている。萩って山口の一番の観光名所のはず。日本列島中、寸断されたままの路線だらけのようだ。
凋落の上の凋落。
もう先が見えはじめた薩長同盟的帰趨ってところなのか。
( 萩城下町の一角にある晋作の生家。入来客は殆どいなかった。否、真昼の碁盤の目の路上自体に人影が疎ら。むしろ、海水浴場の方に比較的多かった。)
交通の要衝って流れで萩駅じゃなく東萩駅が観光の基本。
駅舎の外観も小奇麗。けれど、萩駅も東萩駅も実質無人駅! 東萩駅は、一応観光の基点ということで、JRじゃなく、萩市の委託運営。駅員的業務の一部を担ってるだけで、閑散そのもの。待合室もエアコンは一応備わってたが、この熱中症的猛暑の只中でも、節約ってわけなのか、それとも単にやって来た客の自己責任って論理なのか切ったまま。
帰路、数時間、午后の暑熱真っ盛りの中、ここに居ちゃ確実に熱中症で倒れてしまうこと受け合いと、しかし周辺も開店休業状態の店舗ビルばかり、それでも何とか暑熱の少しでも微少な場所を移動し続けて、ようやく夕刻の涼風が火照り切った身体を撫でる頃、ゆるりと新山口行の高速バスが現れた次第。
別に山口観光局をディスるつもりはないけれど、ちょっとやば過ぎ。
肝心の高杉晋作より、そんな現実的凋落惨憺の記憶の方が強過ぎる城下町萩行になってしまった。
暑熱を憂慮しての早朝行だったのが、結局カンカン照りの熱射に晒され続けての迷走行・・・最初、少年晋作も日毎眺めつづけたであろう白砂も眩しい菊ヶ浜の透明なエメラルドグリーンの海面、沖合に点々と浮かぶ島影の爽快さにテンションも上がった。ところが、その海に面した萩城跡を確かめた後、城下町の店と云えば焼き物屋ばかり迷路に嵌り込み、やっと大した指標・看板もない晋作の実家屋敷跡に辿りついた頃にはぐったり。
気をつけてないと通り過ごしかねない小さな武家屋敷の門戸を潜り抜けると、これまた小さなチケット窓口と案内処を兼ねた窓口があり、係りのおばさんが手持無沙汰にチケットとともに自分の飴玉を二つ呉れた。
小じんまりとした生家で、元々は父・高杉小忠太の居宅。
かつては敷地五百坪だったのが、維新以降大幅に削られたりして現在の規模に至ったようだ。
父の小忠太は萩藩でも上級家臣の地位にあった故の比較的広い邸宅、それ以下の平均的武家屋敷がこんなものなのか、それだと女中部屋すらない小家族ぎりぎりのスペース・・・一見簡素な佇まいに簡素な生活を想像してしまうが、往時は家具・調度もちゃんと揃ってたに違いない。やがて、記念的展示扱いになって皆処分されたのだろう。因みに、江戸時代の高級藩士居宅の平均的な敷地が五百坪~千坪という。
当時の一般侍達の有様を偲ぶには些か心もとない。それでも雰囲気は了解できる。同時代の大分・中津にある下級藩士・福沢諭吉の武家屋敷も似たり寄ったりで、違うのは諭吉の屋敷には隠れ二階部屋みたいな造作があるぐらい。
まあ、こんなものとは最初から分かっていての謂わば確認行、とくに目新しい発見があるわけでもなかった。むしろ、萩城が余りに海に臨んで立っているのを直に見れた方が、藩庁を山口に移した理由を理解するのに大いに参考になったし、
沖合の癸亥丸から萩城めがけての砲撃( 空砲 )による威嚇も了解できた。
そもそも今回の晋作・萩行は、当方のミスで、撮った写真、この生家や萩城のがごっそりが、紛失・・・恐らく自分のパソコン上の手違いで消去してしまったのだろう。秋頃赴いた下関・吉田清水山の墓石で撮った写真も一緒に纏めようとして半分消失し、清水山に至る途中までしか残ってないという正に痛恨のお粗末さ。まあ、そんなに遠隔地という訳じゃないので取り直して来ればいいだけなんだけど、萩はもう勘弁。吉田は逃げ場所のない全くの田舎なので、冬場は遠慮しておくことにした。





