2018年1月20日 (土)

七彩のアジア的幻視 ? 《 シャンバラの道 》 ニコライ・レーリッヒ

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 シャンバラ関係の定番とも謂うべきニコライ・レーリッヒの《 シャンバラの道 》(1996年)、眼を通してみると、シャンバラの探求書というより、1920年代( 大正後期~昭和初期 )のチベット=東洋文明に関するレーリッヒの著作を集めたアンソロジーってとこで、シャンバラに言及したのは一部。どころか、レーリッヒ、当時のチベット仏教の現状にかなり辛辣な言及をしていて、それはそれでリアルで興味深い。
 

 レーリッヒとその家族がチベット=アジアを旅したのは1920年代で、英国(インド)・ロシア・中国・米国・日本等の列強がそれぞれの己が利益と侵略的野望のためにチベットを篭絡し浸蝕し、ダライ・ラマ13世、パンチェン・ラマ ( タシ・ラマ ) 9世たちが遁走・奔走に明け暮れる正に混沌の坩堝。
 いやでも命がけの、否、何人もの犠牲者すら出しての過酷なチベット=シャンバラ探求行となってしまった。厳しい自然的環境の故というより、専ら当時のチベットに蔓延していた頽廃と政治的な無能・悪辣の故。
 実際にチベットに入ってレーリッヒが何よりも一番驚いたのが、チベット僧( =ラマ僧 )たちの無能と堕落だったようだ。

 
「 あるラマは雪雲を阻んで、雪を解かしてやろうと申し出た。この気象上の現象がごく手ごろな値段で手に入るという ── すべてひっくるめて二アメリカ・ドルだ。わたしたちはそれをのんだ。ラマは骨の笛を吹き、まじないの言葉を大声で叫んだ。が、彼はなかなかの商売人で、私たちにその二ドル分のご大層な領収書をよこした。私たちはまたとない好奇心でそれを取っておいた。雪は降りつづき、さらに寒さが厳しくなっていたが、それはどうでもよいことだった。このタントラ行者はくじけなかった。彼は自分の黒い天幕の上に紙の風車のようなものを取り付けて、ひと晩中、人間の骨でできたらっぱを吹き鳴らしていた・・・。」


 「 ダライ・ラマから特別な信任を得ているあるラマ僧の外交官は、私たちがある僧院に灯明の油代として一〇〇ナルサンを寄進したことを聞いて、にわかに怒り出した。彼は言った。『 いいですか、ここの僧侶はあなた方の金を自分で着服してしまい、けっして灯明に火をともすなんてことはしませんよ。聖像に明かりを供えたいのでしたら、この私から油をお買いなさい』」
 

 「 中央チベット、シェーカル地方で、数人のラマが近づいてくるが、そこで聞かれるのは祈りではなく、市場(バザール)を訪ねたことがある者にはおなじみのあの言葉だ。驚くなかれ、市場の乞食の『 バクシーシ(お恵みを)』という言葉をきわめてはっきりと聞き取ることができる。このラマの口から聞かれる『 バクシーシ』という言葉には、何ともがっかりさせられる。こういった大勢の役立たずやろくでなしは、いったいどこからやって来るのだろうか?」


 「 というわけで、すべての有害で無知な条件を排除したときに、チベットにおいてはより高い教えへの意識ある崇敬は、その多くが人里離れた場所で隠遁生活を送る、少数の人びとによってなされいることがわかる。チベット人たち自身が、仏陀の光明の教えは、チベットでは浄化される必要があると言っている。
 ・・・・・ダライ・ラマの命令が、ラマの城壁を越えても大いに価値があるのだと考えるなら、それは間違っている。私たちはこれ見よがしな、何もかもひっくるめた、ダライ・ラマの政府が発行した旅券を持っていたが、まさに私たちの目の前で、人びとは自分たちの支配者の命令を実行することを拒絶した。『 私たちはデワシュン(政府)のことは知らないのですよ』と長老は言った。そして各地のゾン(注:チベットの行政的宗教的及び軍事的拠点ともいうべき城砦 : シガツェのが有名らしいが最近再建されたもので、むしろブータンに本来の姿で残っているという)の官史たちは、自分たちが恥ずかしげもなく要求した袖の下がどれだけ気前よく払われたかに応じて、それぞれがその旅券の内容を勝手に解釈する方法を編み出しているにすぎない。」


 「 ・・・・・・チベット高地の部族ホル人は、自分たちをラサのチベット人といっしょにしないでほしいと私たちに頼んだものだった。アムド出身の人びとやカムに住む人たちは、つねに自分たちはラサの人間と違うのだと強調する。
 ・・・・・ラサ以外の、これらすべての人たちは、きわめてあからさまにラサの官史に対立したことを語る。シャンバラからの新たな支配者が、数えきれないほどの兵士を引き連れてやって来て、ラサを打ち破り、その城塞の内部に正義を確立するという予言を、彼らは引き合いに出す。これも同じ人々から聞かされたことだが、タンジェリンの僧院に端を発する予言によれば、現在のダライ・ラマは十三世にして最後の支配者と呼ばれているということだ。また、ほかのいくつかの僧院から流された予言では、真の教えはチベットを離れて、その発祥の地であるボーディガヤに再び戻るということだ。」


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 首都ラサはあたかも頽落した伏魔殿の様相すら呈していたかの如く。けれど、更にレーリッヒの癇に障ったのが、チベットに仏教以前からあった土着の宗教といわれていた《 ボン教 》であった。


 「 しかし、民衆のかなりの部分が、仏陀をまったく拒絶し、完全に独自な守護者と導き手を主張するボン・ポ、『 黒教 』に属していることを忘れてはならない。彼らは公然とすべての仏教徒たちを敵とみなし、ダライ・ラマを宗教的な力を持たないたんなる世俗の支配者としてしか認めていない。これらの人びとはきわめて強情であり、仏教徒もラマ教徒も自分たちの寺院に入ることを許さない。彼らの儀式では、あらゆるものが逆向きにされる。
 ・・・・・・彼らの間では、もっとも低いたぐいのシャーマン教、黒魔術などが実践されている。まるで中世にいるような錯覚に陥る。」


 当方も以前、ダライ・ラマと亡命政府の居地ダラムサラに滞在した折、ボン教徒を自認する学生に遭ったことがあった。他のチベット仏教徒の学生たちと一緒に、これからのチベットのありようを模索していた普通に明るい人見知りしないタイプの学生で、ボン教はチベット仏教と共存している口吻だったけど、後にも先にも当方が実際に接した唯一のボン教徒であった。
 レーリッヒが訪れた当時は、まだ、チベット文化一般、いわんやチベットの宗教の研究レベルなんて低く、時代的制約というべきレーリッヒのボン教観であって、ボン教自体は結構その始原は古く、古代中央アジアってことらしく、チベット仏教の最古二ンマ派とも互いに影響し合っていたともいい、幾年も滞在していた訳でもない所詮一外人旅行者に過ぎないレーリッヒたちが、アニミズム的所作の毒々しさに幻惑させられ、チベット僧=役人たちの低劣な行状に辟易し、あげくレーリッヒ一行は彼等のために幾人もの犠牲者すら出さされてしまっていたという状況故に、勢い厭わしいものに観えてしまったのだろう。そんな悪しきアニミズム的産物を一刀両断に一蹴し、創造的進化=シャンバラの御旗を高々と掲げてみせる。


 「 仏陀の誓約を守ることには高い責任が課せられる。迫りくる啓発されしマイトレーヤ( 弥勒菩薩 )の再来の予言のなかに、創造的進化に向けた足がかりを見ることができる。シャンバラの偉大な概念は、人に間断ない知識の蓄積を求め、啓発された労働、そして広範な理解力を求める。この気高い理解のどこに、最下位のシャーマニズムや呪物崇拝が入り込む余地があるだろうか? 」


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 シャンバラ自体に触れているのは、「 ラマよ、シャンバラについて教えてください!」から始まる表題作の第一章《 輝きを放つシャンバラ 》だけど、もはや流布したシャンバラを語る上での定番と化したエピソード・言説のオリジナルの出所がここなので、逆倒した表現をすれば、特に目新しさはない。
 

 「 私は高き魂が、すでに準備が整えられているならば、シャンバラへと呼び招く声である『 カリギヤ 』の叫びを聞くことを知っています。私たちはどのタシ・ラマ( パンチェン・ラマ =ダライ・ラマと並ぶチベット仏教指導者 : この時代に既に中国権力との係わりが強かったようだ )がシャンバラを訪れたのかを知っています。私たちは大僧正タイシャンの『 シャンバラへの赤き道』という本のことを知っています。・・・・・・」


 そのレーリッヒの問に、ラマはこう答える。


 「 大シャンバラは海を越えたはるか彼方にある。それは広大なる天上的な領域だ。私たちのいる地上とはまったくかかわっていない。何ゆえに、どうしてこの世の人びとがそれに興味を持たねばならないのか?・・・・・・」


 「 ラマ、私たちは偉大なるシャンバラのことを知っています。私たちはそれが実際には言葉にできない領域であることを知っています。が、私たちはまた実在する地上のシャンバラについても知っているのです。身分の高いラマがシャンバラに行った話や、その途中では、まさしくこの世の風景を目にしたという話も聞いています。
 ・・・・・それどころか、私たち自身が、シャンバラの三つの前哨地のひとつである白い国境哨所を見たのです。ですから、どうか私に天なるシャンバラについてだけでなく、地上のそれについてもお聞かせください。」
 
 更に、

 「 ラマよ、いまだに地上のシャンバラが、旅人たちによって発見されないでいるのはどうしてなんでしょうか ? 地図の上にはすでに多くの探検家の足跡がしるされています。すべての高みはすでに征服されて、すべての渓谷や川は踏査されてしまったように思われます。」


 「 まことに、地中には多くの黄金があり、山々には多くのダイヤモンドやルビーがあり、あらゆる者がそれらを喉から手が出るほど欲しがっている ! じつに多くの人びとが、それらを見つけようとしている !
 ・・・・・・多くの者たちが、呼ばれてもいないのに、シャンバラに至達しようとした。彼らのうちの多くが永遠にこの世から消えてしまった。ごくわずかな者だけが、神聖な土地に到着したが、それはほかならぬ彼らにカルマの用意ができていたからだ 」


 「 法を侮ってはいけない ! 熱烈な労働のなかで、シャンバラの使者があなたのもとを訪れるのを待つがよい。彼が絶えざる達成のただ中に現れるのを。力強い声が『 カリギヤ ! 』と叫ぶのを待つことだ。そのときは安全に、このすばらしい事柄のなかへと入ってゆけるだろう。むなしい好奇心は誠実な学習へと、高き原理を日々の生活に適用してゆくことへと変容されなければならない」


 「 カーラチャクラに明らかにされているものとは何か ? そこには禁忌というものがあるのだろうか ? いいや、高雅な教えは建設的なことしか示さない。そういったものなのだ。この高き力がすべての人類に差し出されている。元素の自然力を人類のために使う方法が、きわめて科学的に説き明かされている。『 最短の道はシャンバラにある、カーラチャクラにある』と言われているが、それは勝ち取られるものが達成不可能な理想なのではなく、誠実で勤勉な努力によって、ここで、このまさに地上で、このまさに生において達成されうるものであることを意味している。これがシャンバラの教えだ。まことに、だれもがそれを達成しうる。まことに、だれもが『 カリギヤ ! 』の叫びを耳にすることができる。」


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 もはや、現ダライ・ラマ14世ですら、シャンバラってこの世に実在するものではなく、あくまで方便と公言する時代であってみれば、残るのは我が内なるシャンバラ探求あるいは嘗てのもはや失われた理想郷跡の考古学的探求ってところだろうか。そもそも、このレーリッヒもそうだけど既存のシャンバラ志向って、基本賢人政治。その本質はファッシズム=全体主義。そんなものは御免こうむりたいものだ。
 むしろいっそ樹立されるべき人類的理想郷として探求・建設してゆくものとしてのシャンバラ、それこそが今日的な在りようではなかろうか。 
 かつて尊師・麻原彰晃率いる《 オーム真理教 》もシャンバラに言及していたけれど、如何なる現実的力学によってか、インドからチベットに仏教をもたらしたといわれる蓮華生パドマ・サンバヴァの“ ボア ”の概念やミラレパ的カルマを援用したような所謂《 ハルマゲドン 》( 世界最終戦争 )の果てに幻視した彼らの王国とは、果たして、七彩に輝くものだったろうか。

共にダライ・ラマ十三世( 現在のは十四世 )と係りがあったらしい同時代人の同じロシア(アルメニア)出身の神秘主義的思想家グルジエフとは、神秘主義的思想活動の他に、グルジエフが舞踏・作曲、レーリッヒが絵画・音楽舞台美術に特異性を発揮してて、随分と肌合いが違う。只、レーリッヒの方が、ノーベル平和賞候補に挙げられたり、ソ連からロシアに変転する頃活躍した大統領ゴルバチョフにも高く評価されたりの紛う方ないエスタブリッシュメント的存在だったのは意外。でも、考えてみれば、既に1913年、ニジンスキーが振付けをしたストラビンスキーの《 春の祭典 》のパリ初演の際、舞台美術を任されるほどの著名人だったのだから、別に不思議なことではないだろう。 


 学研版の田中真知の《 理想郷シャンバラ 》(1984年)のリファレンス的ポジションは、尚も不動のままってところのようだけど、30年以上も過ぎているのに中々これを越える《 シャンバラ 》論の決定版って出てこないってのも残念。そもそも学研の、ジュニア世代を対象とした“ ムー・シリーズ ”の一冊なんだから、いくら田中真知がかっちり作った労作であったしても、こうも越えるものが出現しないってのも情けない情況には違いない。


 《 シャンバラの道 》ニコライ・レーリッヒ
           訳 : 澤西康史 ( 中央アート出版 )1996年

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2017年12月31日 (日)

 ラビットの誘う不気味な世界 《 魔女 》The Witch

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 1620年、英国プリマスから、英国・国教会に否を唱え、自分達の宗教世界を実現せんと清教徒ピューリタン一行が、草創期の米国植民地に到着してから十年後、1630年の、とある東海岸北部のニューイングランドの入植地にある集会所での会衆シーンから映画は始まる。
 その入植共同体の責任者から、正に、その教団=共同体からの追放の宣告を受けようとする一家の家長は、尚も頑なに神の摂理に沿わない旨を根拠にその教団=共同体を指弾した。
 解る人たちにはその場面のあれこれで了解できてしまうのだろうけれど、英国キリスト教なんぞにてんで知識のない当方には、単純に画面でこれ見よがしに描かれたもの以上の理解は不可で、そもそも、その共同体がピューリタンのものなのかどうなのかも定かでなく、もしそうだったらその一家は体制内改革派のピューリタンを批判する分離派ってことになるけど、ひょっとしてその共同体の方が分離派で一家はピューリタンだったってこともあり得る。あるいはもっと別様の異端派なのか。その辺のところが特に明示されてないので甚だ曖昧なまま、しかし、物語はどんどん進行してゆく。
 結局、一家は追放されてしまう。
 やがて、こんもりと茂った森と対峙するように彼らの家があった。
 一見、前途洋洋、漸く手に入れた自分達だけの新たな生活に浮かれているようにさえ見えてしまう。が、自給自足の、他に助けてくれる者もない自分達の力だけで一切を作り出し賄ってゆかねばならない生活に、やがて疲れと焦り=不安めいたものにじわじわと捕らわれ始めてゆく。メイフラワー号には、ピューリタンとは別個に植民地建設に必要な経験と力量を備えた男達が乗り込んでいたけれど、そもそも追放された一家は一般の信者家族でしかなく、ゼロからの開拓をそれも一家族でだけで完成できるほどの力量も経験も乏しかった。さっそくその破綻があっちこっちで燻り始めていた。


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 そんな矢先、庭先で、長女トマシンが乳児をあやしている内、忽然と乳児が姿を消してしまった。ほんの一瞬間のタイム・ラグの間隙を衝くように。
 トマシンは、すぐ真ん前に拡がった森の中を必死に捜し廻った。
 ( 乳児は森の奥深く隠れ住む魔女にさらわれ、殺害され、魔女はその血を自分の裸体(からだ)中に塗りたくった。)
  
 夜半、経済的に窮してトマシンを出てきた共同体のある家に奉公に出そうと両親が相談しているのを盗み聞きしたトマシンと弟のケイレブが、ひょっとして森に仕掛けた罠にかかっているかも知れない獲物を採りに向かう。もし獲物がかかっていればそれを食料にするか売るかして家計の助けになるから。そして、獲物がどんどん獲れるようになってゆけば・・・。ところがトマシンとはぐれてしまったケイレブが、件の魔女の手管にかかってしまう。
 物語の終わり近くで初潮を迎えるトマシンが15才、姉のトマシンのふくらみ始めた胸元が妙に気になってしまうケイレブが12才くらいの思春の頃。この森の魔女に、というよりも、トマシンとは相違して大きく成熟しはちきれんばかりの魔女の胸のふくらみに吸い寄せられるように、若いケイレブに舌なめずりして瞳を輝かせた魔女の肉厚な唇に簡単に絡め獲られてしまう。中近世のキリスト教と異教世界、暴力とエロス=処女って世界、ふとベルイマンの《 処女の泉 》を想起してしまった。

 やがて素っ裸のままのケイレブが転がり戻って来た。

 土間に寝かされたケイレブ、うわ言の果てにのけぞって法悦の笑みを浮かべ死んでしまう。夭逝を悼んで皆で祈りを捧げようとすると、小さな双子達が聖句を唱えるのを忌むように騒ぎ立てはじめ、あげく、乳児が居なくなったのもケイレブが失踪しこんな無残な死に至ったのもトマシンが魔女だからよ、と彼女を指弾する。トマシンも負けじと、二人は飼っている黒い雄山羊といつも話しをしているとか、乳児が居なくなった際も女が連れ去ってゆくのを見えたという訳で、双子達こそが魔女と言い返す。
 が、次第に、状況はトマシンに魔女の烙印を押すことに。
 父親は双子と一緒にトマシンを納屋に閉じ込める。


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 翌朝、外に出た父親は、壊された納屋の下の二匹の白山羊の屍と起き出したばかりのトマシンの姿に呆然とする。と、突然、黒山羊の大きな角が彼の腹部を激しく突き刺した。更に再び、とどめを刺すように突進し、父親は積み上げた薪の下に倒れこみ二度と起き上がることはなかった。父親の様子を間近で確かめようとしたトマシンを、今度は長男ケイレブを失ったことで平衡感覚を失った母親が襲い掛かる。堪えられなくなって、トマシン、傍にあった小鉈で馬乗りになった母親に反撃する。
 二回、三回。
 トマシンの顔や胸に母親の頭から流れ落ちた血が滴り落ちる。

 ラスト・・・森の奥の、裸体の魔女たちの供宴(サバト)に、一糸まとわないトマシンも加わってゆく。やがて、頭上高く飛び回り始めた魔女達に少し遅れて、トマシンもゆっくりと昇りだす。・・・


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 当時、魔女や悪魔崇拝者達が、幼児を喰ったり、“洗礼前の子供の脂肪”を身体に塗ると飛行能力がつくとかいう風説が流布していたようだ。事ある毎に現れる黒ウサギや大きな角を生やした雄山羊も、キリスト教以前の異教の匂いをプンプンさせたアンチ・キリスト的な悪魔の化身の如く登場していて、《 不思議の国のアリス 》的な“不可思議な世界”って訳で面白いのだけど、意外とあっさりとした描き方をしている。
 “ニュー”ならぬオリジナルのイングランドの森ならば、異教的森羅万象ってことなんだろうが、何しろ、遙か大西洋を二カ月以上もかけて渡ってきた新大陸、つまり先住民=ネイティヴ・アメリカン達の森って訳で、果たしてあの森の中に棲んでいた魔女は何者なんだろうか。ネイティヴ達(あるいは先祖の霊)の呪いにかかってしまったのか、それとも、本国の異端的因縁すらも帆船で運んできたのだろうか。
 
 それにしても、巡航ミサイル国産化に呼応するような、最近の“ 日馬富士暴行事件”での、それまで聞いた風な良識的デモクラット的言説・主義を決め込んでいた連中が、まるで申し合わせたかのようなマスコミ総動員の、そんな見せかけをかなぐり捨て、いとも容易に自らの正体を臆面もなく晒しはじめた余りにこれ見よがしな展開の、戦前もこうだったかと想わせる排外主義的熱波って、苦笑することすらできぬ正に亡国的金字塔ってとこだったけれど、“ 神の導いてくれた新大陸 ”の錦の御旗を掲げて、さっそくの先住民達に対する略奪と虐殺の惨劇の上に建てられた神々しいばかりの清教徒的構築物=アメリカ、それがいよいよ底なしに、他の惑星にすらその触手を伸ばそうとしているミレニアム=新時代ってとこなんだろう。


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2017年12月16日 (土)

 長崎パノラマ綺談 大泉黒石《 血と霊 》のカルマ的痕跡を巡って

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 ( 唐人屋敷跡に佇む土神堂。福徳正神ともいうらしく、土地の守護神。)


 本当は平日の方が良かったのだけど、諸般の事情で、やっぱり日曜日ってことになって、絵に描いたように、初めての長崎の路面電車に乗り込んだら、びっしりな密度で押し合いへし合い。その上、ネットで事前にチェックしておいた、どこまで乗っても一律100円が、乗ってから120円に値上がってるのに気づき、おまけに両替不可のニュアンスの張り紙までしてあって、ポケットにゃきっかり100円玉1枚。慌ててしまったが、普通に運転席の脇の料金箱に両替機が併設してあって、難なく下車できた。そもそもが長崎駅前の幅の狭い路面電車ホームが既に満員でルートマップなんて確かめる暇もなく、それでも歩ける距離内って観念があったので、ともかく二、三駅先で降りることにした。

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 ( 長崎JR駅前。人口比な小じんまりとした駅舎。隣接した商業コンプレックス・ビル"アミュ・プラザ"の一階のフロアーの大半を占めているファースト・フード屋やスターバックスは、日曜のせいで超満員。外にはレストランの類はあっても、喫茶店を捜すのも一苦労。その一階に全部が集約されているようだ。)


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  ( 路面電車停車場"西浜町アーケード前" 向側が築町、川の手前が浜町。ゆったり乗ってみたかったが、日曜だったので混んでてそれもならず。ここは日本中のかつての電車両が走っててユニーク。)


 大泉黒石+溝口健二の日活映画《 血と霊 》(大正12年)の原作の舞台となった篭町が先ず第一の目的地で、まっすぐ出島の旧オランダ商館跡の高い塀沿いに歩いてゆくと、中国人観光客ばかりが蝟集した一角の前に、派手な色彩の中国人街が一本奥まで伸びていた。さすがもう少し、周辺にも中国商店でも並んでいるだろうとの期待はきっぱり断ち切られ、その一本の中華街だけ。まあ、人口比でいけばそんなものだろう。中華料理屋と数軒の中国雑貨店が両側に立ち並んでいるのだけど、客の殆どが中国人、わざわざ海を越えてやってきた中国観光客が自国の料理や物産(意外と彼等には珍しいものもあるみたいだったけど)などに今更どうしようというのだろうと思ってしまうが・・・当方、こんなところで中華料理を、まさか中国の巷間の砂鍋米線なんかがある訳もなく、食べようなんて気毛頭なく、さっそく中国雑貨店を物色してみた。どうにも皆一様に狭く大した品もなく、安価なパッキングされた中華饅頭を五、六種購入。
 そこを通り抜け、福建通り=唐人屋敷通りと南下してゆくと、片側に唐人屋敷跡の看板のある脇に《 土神堂 》が小さく静かに横たわっていて、中は猫が一匹心地よさそうに昼寝している以外人影もなく、京都の辻裏の薄暗がりにポツンと佇む小さな祠(ほこら)と似た雰囲気が気に入った。門を入ってすぐ石橋があり、その奥にはもう祠堂が立ち塞がっていて、実に簡素。かつて、中国から渡って来た人々が普請して建てたものを、原爆後、市が再建したという。


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 ( 新町の中華街は本当にこの一本の通りだけ。黒石の頃の中国人街としての賑わいと比べようもないのだろう。二月の灯会ランタンフェスティバルぐらいしか中国情緒を感じられないのだろうか。まぁ、人によっては結構満足できるのだろうが。当日は、日本人客より中国人観光客の方が圧倒的に多かった。)


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 ( 何軒かある中国雑貨と安手の中国菓子を売っている店。"人民幣"レンミンビーも使えるような声も聞こえた。久し振りに聞いたフレーズ。中国人のおばさん達があれこれ固まって駄弁りながら物色していた。若い中国娘達は、そんなに大声で喋ったりせず、普通。)


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 ( 中華街の通りから少し離れた唐人街跡にポツンと佇んだ土神堂。奥の祠堂から入口門の方を望む。両側に僅かだけど茂った樹木のせいもあって、昼尚静謐な佇まい。)

 その土神堂の唐人屋敷通りを隔てたまん前に、《 あっ、チャンポン 》なる長崎名物の大きなチャンポンの看板を立てた麺屋があった。是非一度本場長崎でチャンポンを食べてみたかったのでさっそく入ってみた。
 中は普通の麺屋の佇まい。
 もちろん、レギュラーの“チャンポン”だけの注文。皿の真ん中に具材がこんもりと盛り上げてあって、小さくカットした海鮮・野菜がいっぱい。味は悪くない。700円。
 只、当方としては、かつて喰ったことのあるリンガーハット以来の食べ易いチャンポンとは別種の生皮のつきのままのエビの、エグイくらいに強い風味が記憶にあって、あれこそ本来のワイルドな本場長崎の味と勝手に決め込んでいたこともあって、本来の野趣を、都会的な口当たりの良さで封じ込んでしまってる感も否めず、も一つ納得できぬまま。
本当の幻の長崎チャンポンになってしまった。
 後でネットで調べてみたら、この店は、元々博多で流行っている店のようで、それが故郷の長崎に戻って来ての比較的最近の出店という。写真確かめてみると、ちゃんと“長崎店”と記してあって、余生を生まれ育った長崎で店をやりながら過ごそうというのだろう。篭町の方向を店の女性に尋ねた際、わざわざ厨房から姿を現した親父さんは人の好さの現れた衒った感じのない年配の人だった。


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 ( 土神堂をすぐ脇のフルーツ屋の角を折れた路地にある銭湯。三星って、福星・禄星・寿星、つまり道教的至福の三要素のことらしい。華美とはいかないけど、中国的異国情緒って訳で悪くはない。これは男湯の方で、女湯の方には、万年善徳為良範とある。)


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 ( 中新町の坂道=路地と石段の果ての頂上近くの旧い民家。入り組んだ路地が迷路のように続いていて小旅行にはもってこい。もっと先へ登ってゆくと、車道のある通りに出、ミッション系の海星系列の広い学校敷地が向かい側に佇んでいる。 )


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 ( 中新町の坂の上の通り。大袈裟に言えば、尾根の上の通りからの市内の俯瞰。反対側の海側を一望する場所も近くにあったが今回は端折って次回に持ち越し。)


 その後、さっさと大徳寺(跡)に向かわず、唐人屋敷通りから、十人町の路地に分け入ってしまい、トボトボと十年来でガタのきたデジカメ片手に長崎の地形的特性たる坂路をあてどなく辿りつづけた。石段に継ぐ石段。比較的新しい建物から旧式民家、列島中瀰漫しつづける朽ちた空家・廃屋。中国臭を漂わせた民家って殆ど見かけなかった。一体どのくらいの中国系の人々が住んでいるのだろう。大半が、神戸・横浜に移っていったのだろうか。丘の上まで至ると、中新町の表示があった。左手下方に海が覗け、右側に上って来た篭町はじめ長崎市内が俯瞰できた。
 70年以上前、その500メートル上空で原爆の閃光と圧倒的なきのこ雲が上空高く盛り上がり、遠く九州の真反対の大分県の海沿の町からも、阿蘇山越しにだろうそのきのこ雲が目撃されたという。
 つまり、基本、市内の多くの旧い建物は大半が廃されてしまったということで、当然、明治・大正の頃の姿をしか前提としてない黒石の作品世界、とりわけ大正時代の《 血と霊 》に描かれた長崎の街の雰囲気なんて望むべくもないってことは前提であっても、やはりその頃の痕跡を何処か一片でも確認できればってのが人の性ってところだろう。


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 ( 思案橋方面から大徳寺(跡)下の通りを坂上に向かう。人通りもまばらな静かな坂路。杉貞子もこの通りを、未だ鳳雲泰との数奇な出遇いが待ち構えているとは露知らず、紅い耳飾りを持って、篭町へ向かったのだろう。)


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 ( 坂上から大徳寺下の通りをのぞむ。石垣下に、楠稲荷神社へと昇る石段が覗けている。)

 
 「 すると、乳母は目を丸くして『 滅相もないことを仰有る、あなたさま、この夜ふけに、それだけはおやめになりませんと、途中で、又どんな奴に出会わないとも限りません。』と言いながら、主人( 杉貞子 )の無鉄砲を叱るように押し止めました。で、その夜のことはそれで、翌る朝早く耳環をもって、宝石屋とか細工商の多い籠町と云う支那人街に近い巷に出かけるつもりなのが、訪問者のために妨げられ、昼間近になって、やっと外に出られたのでした。行きがけ、一寸、魚町の展覧会へ顔を出し、そこから電車で、山の口と云う終点まで行くと、大徳寺の下を、一丁ほど歩けば、西洋人や支那人が、いつも賑やかに往来している港一の、繁華な通りに出るのです。その辺一帯が籠街なのでした。
 ・・・杉貞子が訪ねた宝石屋は、そこから五六軒目の、大徳寺坂下にあった。」


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 ( 石垣上の楠稲荷神社へ至る途中。左上に大きく曲ねった大楠の枝が見える。石段を登り切った向うに老舗《 菊水 》のくすんだ佇まいが。)

 

 母親から受け継いだ禍々しい血、宝石に対する狂的なまでの異常な執着に如何とも抗し難く自らの自滅の路をひた走りつづける宝石商・鳳雲泰とは露知らぬ画家・杉貞子が、雲泰の弟子・牛島秀夫から自宅に届けられた“楊妃の瞳”と呼ばれる紅いダイアモンドの耳飾りを、“貰う理由がない”と持ち主を捜し出し返却しようと籠町に向かう途中の道筋を、実際は如何なる雰囲気と佇まいなのかを、辿ることによって、当時黒石がイメージしていたものの幾許かでも体感してみようと思い立った長崎行なんだけど、ちょっと気負い過ぎた割には、のっけからルート外の中新町までの路地徘徊で些か疲労気味。
 それでも、路面電車の“思案橋”駅から下ってきた十字路の福砂屋本店横の路地をまっすぐ行くと、片側が石垣の 崖(当時だとひょっとして両側が上からと下からの崖かも)になっていて、確かに大正の頃だと夜にはガス灯の街燈の仄暗い明かりぐらいだろうから、物寂しさなんて通り越して、自分の影にすら怯えかねない怖い怖い坂路だったに違いない。片側の崖上に、地名の故(もと)である大徳寺の境内が拡がっているはずなのだけど、実際には、大正の当時も、黒石の生まれ育った頃も、とっくに明治維新の頃の、恐らく廃仏毀釈によってだろう廃寺となっていたらしく、既に現在と同様、“跡”であった。当然、維新政府がやらかした天皇制的策動なので、全国の少なからずの寺院が神社にすげ替えられてしまっていて、ここも現在、樹齢800年の楠の大木が聳える神社と公園になっている。
 その楠、“ 大徳寺の大楠 ”の名で現地じゃ流布しているらしく、その崖上の崖に面した一角に一軒旧い佇まいの木造民家があって、それが当地の老舗《 菊水 》。明治の創業というから黒石の生まれ育った時分にも商いをしていたはず。“大徳寺焼餅”という福岡・大宰府の名物らしい梅ヶ枝餅と同系の焼餅を作り売っていて、そこを中心に下側から大徳寺=大楠神社に昇る石段の上に覆い被さっている大楠と、《 菊水 》からも一つ上に石段を登った公園に大きく聳えた大楠って、後で帰宅してネットを見て気づいたのだけど、どうも両方とも“樹齢800年”と銘打っていて、一本だけじゃなく、大徳寺(跡)の境内に聳えている複数の大楠の総称として“大徳寺の大楠”って訳のようだ。
 さっそく、その老夫婦が金属プレートで1個づつ焼いている大徳寺焼餅を、一人前4個=700円なので2個=350円買い、かつて黒石もその境内で舌鼓をうったのかも知れないすぐ脇の神社公園のベンチに坐り、大きく伸びた大楠を見上げながら食べてみた。普通の饅頭より一回り大きく、白い薄皮の下にびっしりと甘さを適度に抑えたこし餡が詰まっていて、2個とも平らげてしまった。


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 ( 明治創業の“大徳寺焼餅”の老舗《 菊水 》。老夫婦が忙しそうに、数は少ないものの切れ目なく現れる客の注文に応じて金属プレートで焼き続けていた。色々主人も工夫しているんだろうけど、やはり昨今の妙に作ったのとは別様の純朴な昔風味が芳醇さすらを感じさせる。黒石も少年時代には食べたのだろうが、さすがに貞子や鳳雲泰の処を飛び出した牛島が空腹を紛らわせるために一つの焼餅わ貪るってシーンは描かれていなかった。)


 大徳寺(跡)=神社から崖下の細い通りに降りる石段があり、細い通りはそのまま真っすぐ行くと崖になったカーブを曲がって現在ではマンションで行き止まりのようだが、その神社への参道の石段をその件の細い通りから更に下ると、崖下一帯に拡がる篭町に至る。貞子が最初に訪れた宝石屋もその辺りってことになる。
 そして、その辺から50メートルほど先には銅座川が流れていて、川向うは銅座町。鳳雲泰の宝石店と細工場が在ったのはその一角に違いない。


 「 (鳳雲泰の)店の裏は、あの濁った銅座河岸です。河岸の道路に面して、焼杉の黒塀がございますでしょう? あれが表口から庭つづきになった細工場で、そこには支那人の職人が仕事をしています ── 亀甲を磨いたり、石を切ったり、金を熔かして ── 奇妙な生活は細工場の中に始まったのです。」


 
 魚町の美術クラブの絵画展覧室に立ち寄った杉貞子に、そのクラブの頭目たる老画家が声を掛け、懐から夕刊を取り出して昨夜の連続殺人事件の記事の部分を指し示した。


 「 昨夜も、下町の天満宮と裁判所のある石垣の下で演ぜられました。石垣と云うよりも城壁と云った方が適当かも知れない。そこは百年も前に、南蛮の行政を司る役所があった。その時の建物が今そっくり裁判所となっています。昼間は、その近くの公設市場に荷を運ぶ百姓達や買い出し人で雑鬧( ざっとう )するが、日がくれると、奇妙に森閑となる場所でした。その城壁の下に、一人の若い女が、心臓を刳りぬかれ、沙( すな )を掴んで俯向けに倒れていた事や、それもやはり例の殺人狂の仕業だろうと云うことなどが毒々しい文句で新聞の半面を埋めていました。」


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 ( かつての裁判所のあった現在も法務省関係の建物が頭上に聳えている石垣下の通り。築町・賑町の市場等が軒を連ねている。 )

 
 現在も、銅座から中島川を越えると市場なんかの並ぶ築(つき)町のすぐ向うに、高い石垣の上に法務省関係のビルが建ち並んだ万才町が連なっている。天満宮(注1)の方は戦後すぐ近くの賑(にぎわい)町に移っている。法務関係の敷地とその天満宮跡地(現在は法務関係敷地)の間に、かつて色々な事件の舞台にもなったらしい“大音寺坂” ( 天満坂 ) と呼ばれる些か広目の石段があって、“喧嘩坂”とも呼ばれる由縁を記した案内ボードも立っている。築町・賑町の辺りは市場なんかが並んだ長崎市の台所とすら称されている一帯らしいけど、残念ながら、その日は日曜だったので殆どシャッターが降りていてその雑踏は確認できなかった。


「 ただ、彼女は心の中に、不思議な耳環の行きかがりから、彼等が潔白である事実を掴みとることさえ出来るならば、と、それを願うのでした。裁判所は、前にもお話したように、下町の石垣の上にあります。杉貞子は、中川べりから車を駆りました。会わせてくれるかどうかと心配していたが、幸いに、彼女の社会的な名声を知っている係りの役人は、彼女の願いを聞き届けてくれました。杉貞子は暗い部屋の中で単独に、そして初めて、不思議な男と会いました。」


 この石垣崖下の狭い通りはかなり寂れた感じで、夜になると当時と同様に森閑としてしまうのかも知れない。
 夜も更け静まり返ったその通りで、ある若い女性が鳳雲泰の鋭利な刃物で殺害され、その崖上の裁判所施設に、犯人と間違われ捕らわれた雲泰の愛弟子・牛島秀夫が幽閉されるという随分とメリハリが利いた成り行きだけど、その面会室で、貞子は、牛島の驚くべき隠された秘密を滔々と明かされることとなる。
 殺害された鳳雲泰が、母親の宝石に対する異常な執着性の血を受け継ぎ、客が買った宝石を取り戻すため夜な夜な殺人行に直(ひた)走り続け、とうとう白人の客から返り討ちに合って斃れてしまったという血塗られた物語であった。
 この母親の血は、しかし、作者・黒石に拠ると、代々の遺伝子的にというよりも、彼女の美意識が次第に研ぎ澄まされた果ての、夫によって殺害されるという衝撃で、まだ幼かった雲泰に憑依し、血の中に溶け込んでいったという胎内感応の敷衍というイマジネーティブな発想と論理によって構築されたカルマ的怪奇譚。


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 ( 築町の角にある老舗の海産物問屋・小野原本店。安政六年=1691年の創業で、大正時代に現在地に移り火災に強いらしい現在の建物を建て、原爆にも堪えて今に至っているという。)


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 ( 芸者で有名な丸山。現在もその名残が点々と残っている。当然、坂道・石段の路地ってのが風情。)


 蛇足だけど、この界隈の立体駐車場で、幾年か前、少年(中一)による、猟奇的というより、屈折した少年期的リビドー的発露とも謂うべき幼児を裸にして刃物で傷つけ最後に屋上から投げ落とし殺害するという陰惨な事件が起きていたのを、ネットを見ていて、改めて思い出した。
 そういえば、長崎で、もっと猟奇的というより社会的閉塞を絵に描いたような病的な女子高生(高一)の事件もあった。典型的なエリート家庭で、睡眠中の父親をバットで殴り、同級生を殺し解剖したってので随分と騒がれた事件だった。元々解剖に興味があったらしいけど、医学部や生物学志望という訳じゃなかったようだ。如何ともし難い哀れさばかりが募る少年・青少年の屈折的蹉跌。
 けれど、この鳳雲泰の殺人衝動を基準にしてみると、この女子高生、それらしき口吻を洩らしてはいなかったはず( だから金輪際無かったとは断じれないのが問題だが )で、もっと端的に、これはネットで再確認しようとしたらもう詳細どころか、事件の存在も意図的に消去されているみたいで、被疑者が精神疾患を疑われていたせいかも知れないけど、1985年(昭和60年)に山口県下関で、“ 宇宙人の声がした”あるいは“ 宇宙人に命令された”と供述した被疑者の農業従事者が、自分の母親を日本刀で殺害し更に通行人に斬りつけたいわゆる無差別殺人事件、記憶が曖昧になって他の同様の事件での被疑者の供述と混同しているかも知れない。
 “宇宙人”じゃなくて“神”だったかも。
 1999年9月29日に下関駅構内で起きた無差別殺人事件とは別で、こっちは被疑者がそんな口吻を洩らしたって話はなかったようだ。
 宇宙人・神の声あるいは命令が、一体、どのくらいの圧倒的な威力をもって、被疑者たちの心身に影響を及ぼしたのか、あるいはもっと直截に云うと、その凶行に走らせたのか、知る由もない当方だけど、その微妙な、もっともリアルなデティールを、司法・警察なんぞがちゃんと追及・精査するって先ず期待できないだろうから、現代の語り部たる作家なんかに、たとえば田中慎弥あたりに期待したいものだ。

 【注1】因みに、天正年間に日本人切支丹によって創建され、切支丹弾圧まで建っていたキリスト教会が壊されて後、大音寺が建立されたものの幾らもしない内に他へ移転し、大部過った享保の頃、その跡に坂上天満宮(坂上神社)が建てられたという。
 

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