高杉晋作=東行庵(下関・吉田) 再訪

00

 

 昨秋訪れた際は、暑熱もあって、訪問客疎らで閑散とした佇まいの中、広い池全面に大輪の白蓮が溢れ、その絶景は筆舌に尽くし難いものだったと云えば些か形容過剰だけど、想定外だったこともあって、感動ものだった。
 今回は、連休中日とあって、風こそ少し強く肌寒かったものの小春日和に近く、さすがにそこそこ人出はあった。肝心の池には枯れ萎れた蓮茎が点々とシルエットとなり、つがいらしい雁と紅鯉が一尾悠然と回遊するばかり。
 

 

 市の博物館にはそれなりに揃ってるのかも知れないけど、萩の晋作の居宅も、ここの東行記念館にも晋作がらみの歴史的遺物って僅少。もう少しあってもいいんじゃないか思うんだけど、あっちこっち形見分けしてしまってたんだろうか。あるいは、分散・・・
 今回、上下段に並んだ晋作と愛妾おうの=梅処尼の墓の右手奥に並んだ奇兵隊士たちの墓列の方にも足を伸ばし、一つ一つ確かめてみた。当然、奇兵隊の大まかな顛末は了解してるものの、個々逐一は殆ど未詳で、実際は、只刻まれた時代を確認するぐらい。それほど朽ちた風でもないにもかかわらず判別しにくい。
 奇兵隊創立して幾らもしない内に亡くなった隊士や明治も大分過ってからのもあった。昭和になってからここへ改葬したのも少なくない。死してからの様々な帰趨転変。如何にも時代の波に、切り開いたはずが翻弄されることとなった奇兵隊の命運ってとこだろうか。

21_20260326110301

 

21_20260326110302

 ( 昨秋は一面大輪の白蓮が咲き誇っていたけど、今は枯茎のみ。) 

 

21_20260326110303

 

 ずらり瞥見して気づいたのは、本来なら維新新政府と抗い拮抗角逐した奇兵隊士=諸隊脱退隊士たちの墓も並んでいたことだった。元々この地は、新政府本道とも謂える、晋作の盟友・山形狂介(有朋)の所有地だったのを、晋作の遺言に従って晋作を葬り、おうのに東行庵として譲渡したものだった。それでも、官制じゃなく、あくまで私的なものってとこで、かかる運びとなったのだろう。

 

 

 明治2年6月、版籍奉還で、長州→山口藩知事・毛利元徳は、11月、いわゆる精選を実施し常備軍結成のため、諸隊約5000名の内、3000名を、論功行賞も無く解雇した。それに激怒し、異議を申し立てた奇兵隊はじめ振武隊、鋭武隊等旧諸隊士が脱隊騒動を起こした。
 

 

「奇兵隊之儀ハ、有志之者相集候義ニ付、藩士・陪臣・軽率不撰、同様ニ相交り、専ら力量を 尊ひ、堅固之隊相調可申ト奉存候」

 

 

 そもそも、晋作が提起した理念、出身・身分を問わない志のある者たちの、平等に協同し、もっぱらその力量だけが問われるはずの奇兵隊だった。ところが実際には、その初期から、厳然とした身分的な差別があり、最後まで払拭されることはなかった。あまつさえ、諸処での戦で死傷した隊士たちはいかほどの補償すらして貰えなかったという。
 帝都・東京から木戸孝允(桂小五郎)が鎮圧のため帰藩、一進一退の末、壊滅し鎮圧した。木戸は、脱退隊士たちと折から長州藩中に沸き起こった農民一揆が結びつき、新政府の存立を脅かす全国的波及を恐れたという。
 正にそのごときというべきか、処刑( 斬首 )された隊士の半数以上が農民出身だったという。

 

21_20260326110401

 

21_20260326110501

 ( 高杉晋作=東行の墓。晋作の像や山形狂介の像が別の場所に立てられている。)

 

21_20260326110601

 ( おうの=梅処尼の墓。晋作墓の下の段にある。)

 

21_20260326110602

 

21_20260326110701

 (それぞれの物語を秘めた隊士の墓石が、昼尚仄昏い林陰に静かに佇んでいる。)

 

 この東行庵隣接の奇兵隊士の墓列に並んでいる佐々木祥一郎は、ある種、諸藩脱退の象徴的な存在で、晋作と同じ上級武士の出身。事態の成り行きで、脱退組の指導的立場に祭り上げられたようだけど、出自のせいもあってか、藩主の鎮撫( 当初は、藩主・毛利公直々に対応していた )を踏みにじる挙には出難たかったようで、武力じゃなく、極力話し合いでの解決を意図してたらしい。
 結局、壊滅し、捕縛され、刑場に引き立てられる途中で、突然暴れ出したという。武士の最後のプライドとして切腹を求めた、という話もある。その際、刑吏に鉄棒でさんざ撃ちのめされ、血塗れのまま斬首されたようだ。彼の憤激・慟哭は、後年新政府を脅かした士族反乱の、先駆けともいえよう。
 因みに、彼の亡骸は家族が密かに一族とは別に埋葬し、やがて行方不明になっていたのが、戦後になって発見され、現在地に改葬されたという。
 

 

21_20260326111001 

 ( 叛乱分子扱いなんだろう墓石を横に向けたまま。時代的制約はもう解いていいはずが、史跡重視って訳か。)

 

21_20260326110901

21_20260326110802

 (下関の豪商・白石正一郎のとこで働いていた奈良屋源兵衛、封建主義的身分的角逐ともいうべき教法寺事件に巻き込まれ惨死。)

 

 もう一つ、奈良屋源兵衛、元々は晋作や坂本龍馬も支援を受けていた商人・白石正一郎の下で働いていたのが、奇兵隊に入隊。
 1863年(文久)8月、いわゆる《 教法寺事件 》に巻き込まれてしまった。当時、下関の前田砲台(奇兵隊)と壇ノ浦砲台(先鋒隊)を、毛利定広が閲兵するってんで、それぞれの隊が興奮混じりに期待に胸を膨らませていた。が、先に赴いた奇兵隊の駐屯する前田砲台であれこれ丁寧に見回ったのか、時間を喰い過ぎ、壇ノ浦砲台を省略して帰ってしまった。問題は、壇ノ浦砲台の先鋒隊が、一般募集の奇兵隊と相違して、全員、藩士たちで構成されていた、つまり長州藩正規軍だったってことで、その頃既に下関・長州界隈で流布していた、

 

 麦の黒ん穂と先鋒隊はせいを揃えて出るばかり
 
という戯歌、先の関門海峡で四国連合艦隊と一戦交え、前時代的な鎧兜の出立ちで蜘蛛の子を散らす如く逃げ惑い、あげくフランス軍に砲台まで占拠された屈辱的事件を揶揄したもので、その当事者がれっきとした藩士たちだけで作られた先鋒隊だった。
 そのいわば出身身分を嵩に着たエリート意識ばかり強い先鋒隊が、藩主直々閲兵の名誉ある瞬間を鼻先で藩主踵をかえすというあり得ないな事態、それもよりによって、大半が百姓ばかりの奇兵隊に妨げられたというこれ以上ない屈辱と怒りの爆発が、しかし起こるべきして起こった角逐的顛末。奈良屋源兵衛、そんな騒動には無縁な場所にいたにもかかわらず、憤った先鋒隊にひっつかまり、惨殺されてしまったという。何とも哀れ。墓の脇に立った表札には、はっきり“リンチ”と記されている。晋作も当時現場に居たようで、責任を取らされ、奇兵隊総監を罷免されてしまった。たった三ヶ月の就任であった。

 

 

 昨今、高杉晋作神話も、奇兵隊神話も崩れつつあって、いよいよ本格的にその実像に迫まれる時節に至ったということなんだろうか。
 奇兵隊はじめとする旧隊脱退勢力と農民一揆との結びつきってテーマ、現在研究者の間じゃ錯綜してるようだけど、対岸の小倉藩・企救半島農民一揆との絡みで興味は尽きない。

 

21_20260326111101

 

21_20260326111201

21jpegjpg

 

2026年3月18日 (水)

黒石ブログ的近況 《 笑うべからず 》同類異種的島田清次郎への接近

A1_20260318113401 

 

 2025年6月、イランの高官・科学者まで殺害、軍・核基地を中心に爆弾やトマホーク等で攻撃した米国・イスラエル、それに対してイランの側もドロ-ンや弾道ミサイル等で反撃した《 十二日間戦争 》が勃発し、その八ヶ月後、今度はイランの最高指導者ハメネイ大統領を家族もろとも殺害し、もっと徹底した攻撃をイスラエル・米国が敢行。

 

 虫の息なのかと思われたイラン、さすが米国本土に報復に値する攻撃をする意志はないようで、基本、せいぜいイスラエルと湾岸諸国に対する攻撃に終始しているようだ。ハネメイ一家殺害はイスラエルが強行したというトランプ米国のスタンスらしいけど、それにしても、イランって一方的にネタニヤフ・イスラエル当局から籠絡されるばかりで、基本、一指だにできてない。
 先は長いのか短いのか、エシュロン以外にも世界的監視システムはあるのだろうから、イラン一国だけじゃ、同等のものをイランが所有してない限り甚だ難しい。それ故に〈 核 〉に執着するイランや北朝鮮なんだろう。
 米国・イスラエルともども、碌な建国じゃない札付き侵略虐殺国家。 その米国の傀儡パ-レビを追い出したのは良かったけれど、その後が、イスラム原理主義的ファシズム国家じゃ、イラン人達も、あたかも台湾の人々が、日本軍去ったと思ったら、大陸から追い出された蒋介石・国民党の腐敗ファシスト達が雪崩をうって遣ってきて、悪辣極まりない苛政を押しつけてきた果ての迷惑極まりない現在って図式と相似。
 

 

 ハメネイ家族もろとも殺害って、同じことを、イランがトランプ一家もろともドロ-ン攻撃でやらかしたとしたら、欧米どころか、世界中が騒ぎ立て、恐るべき犯行と罵り呪詛し、世界中が喪に服し、仕舞いにゃ結託して“ Down with IRAN ! ”のシュプレヒコ-ルを連呼し、イラク侵攻の時同様、多国籍軍として猛攻撃しかねないといった図式の上で成り立った戦前以来の帝国主義列強的世界。
 一般論として、まるで、この世界には、反省って観念が皆無って風だ。

 

 

 戦前、そんなウンザリするような帝国主義植民地争奪戦以外の何物でも無い戦争、不可抗的に鬼畜英米と対決せざるを得なくなって、大日本帝国の盲動に、目が点になった辻潤とおそらく同様に己のが耳目を疑った我が大泉黒石、森閑とした暗夜、二人で酌み交わした酒は、飲めども飲めどもさめざめと白けるばかり、あるいはやがてこの列島に展開されるであろう阿鼻叫喚のきな臭い予感に苛まれ、悪酔いの淵に沈んでゆく泥酒だったろうか。

 

A2_20260318113501

 
 昨年は色々身辺騒がしく黒石に集中できず、不如意なまま了ってしまった。今年も、もう三月、そろそろ着手したく、まずネットで、四方田犬彦《 大泉黒石 わが故郷は世界文学 》以降少しは増しな状況になってきてるはずと、些かの期待をもって検索してみた。
 が、如何せん、相も変わらず、大半が《 大泉黒石 わが故郷は世界文学 》の営業ブログばかり。時折、児玉司の《 大泉黒石(私)研究 》が出てくるだけで、以前と基本的には殆ど変わりはない。
 そんな旧態依然とした閑散の中に、わずかに一点、あさき主宰の《 NOTE 》に全文復刻掲載された《 笑うべからず 》( 《 改造 》大正14年7巻2号 )があり、初見なので一読させて貰った。如何にも黒石然として黒石節全開の止めどなさに久しぶりに舌を巻いてしまった。

 

 

 黒石が満州に旅してる留守に、あろうことか、嫁の美代の腹が膨れ、スワッ ! 亭主の居ぬ間の不倫か?という読売新聞の記事に端を発した黒石近辺の人間模様の黒石的饒舌的展開。
 その美代の膨れた腹の中に居たのが誰あろう、後年映画俳優になる大泉滉なのだが、それはともかく、黒石一家が居を構えていた場所を、村と呼び、おそらく北豊島郡長崎村が比定されるんだろうが、「うまくもない十五銭のカツやコロッケを撓(たゆ)まず飽かず夫婦掛け合いで食ってやるので」すっかりお馴染みになった「村に古くからある田甫道の酒場」《 開化楼 》の女給・船子と、彼女がサ-ビスのつもりで置いていった《 醜婦の友 》( おそらく、主婦の友 )十二月号のぺ-ジに偶然覗けたゴシップ記事の当事者の島田清次郎。この二人を中心に、長広舌が延々展開されるのだ。

 

 

 「 何の気なしに頁をペラペラ繰ると、島田清次郎なる若年小説家の顔が現われた。
 見ると奴さん、往来の真ん中で突然発狂して巡査に取ッ捕まり、巣鴨の保養院へ叩き込まれて暗い独房でワイワイ泣いているという大袈裟な見出しの記事があるのだ。」
 
   
 大正十三年七月、おりから青山墓地で爆弾事件が起こって警視庁総力を挙げての一大取締まり作戦の真っ只中、巣鴨・白山通りの路上を人力車に乗ってたのだけど、よりによって赤い血痕に点々と染まった浴衣をまとっていたものだから、早速引っ捕えられてしまった。
 尤も、巣鴨署に拘引した後、吉野作造博士宅に押し入っての一悶着や海軍少将の娘の誘拐・監禁事件で既に有名になっていた新進作家・島田清次郎と分かってからは、すっかり持て余し者状態だったようで、翌日早々、巣鴨の保養院( 主に精神病施設 )に引き渡されてしまった。
 その件の爆弾事件、かのひょっとして黒石も一度面識があったかも知れない大杉栄の労働運動社に出入りしていた浜鉄が、大阪府警にリャクで逮捕され、関東大震災時に虐殺された大杉栄達の復讐と浜鉄の奪還を目論んだ古田大次郎等《 ギロチン社 》残党の爆弾製造の一環としての青山墓地での爆弾試作行為だった。
 

 

 「 好奇半分で読むと、発狂の顛末が如何にも巨細にわたって、いい気味だ、態を見ろと言わぬばかりに書きのめしてある。昔は人間の首を戸塚ッ原の獄門台に晒したが、今日では婦人雑誌がその役目を引き受けたと見え 」

 

A4_20260318113601

 

 週刊誌・月刊誌、つまりマスコミって、戦前からかくの如しって訳だ。
 島田は大正八年に、新潮社から《 地上 地に潜むもの 》を上梓し忽ちベストセラー、全巻売上総数50万部にもなったという。若干二十歳で一躍文壇の寵児となり、あの芥川龍之介にも将来性を嘱望された。
 只、黒石とはまた違った毀誉褒貶の著しい作家だったようで、巣鴨での事件の前年にも、もともと島田のファンだった海軍少将・舟木錬太郎の娘と一緒になろうと些か強引に連れ出し、葉山に住んでいた徳富蘇峰に仲人を頼もうとした矢先、折から皇太子(ヒロヒト)が葉山御用邸行幸で警備中の警官達に怪しまれ逮捕された。
 二度も厳戒中のピリピリ状態の官憲に怪しまれ、有無も言わせられず引っ立てられる不運。その上、父親の海軍少将に、娘を傷物にしたと誘拐・監禁・陵辱等で訴えられてしまう。このスキャンダルが決定的となって、転落の一途を辿り始めることになったようだ。

 

 

 「 若年小説家が三躍しての発狂沙汰は要するに大将、口ばかりで腸(はらわた)がなかったせいもあるが、俗物どもが寄ってたかって酷め過ぎたのは事実だ。島田清次郎とは僕の家で一度、誰かの出版紀念会で一度。会ったきりで時々は消息を寄越すこともあったが、僕はあの人相が気に食わないので交際(つきあい)は遠慮していた。然しこうなっては見ていられない虐待だ。此の際何とか出来るなら何とかするなら僕の性分だ。誰も構わなければ俺が構う。発狂まえに持ち廻って散々断られたという其のボロボロ原稿はどんなもんだか知んが恐らく大将の絶筆だろう。一ツ閲( み )た上で本屋に掛け合い、出版したら屹度喜ぶだろうと考えた。」

 

 この原稿は、黒石先生の苦労の甲斐あったのか、それまで《 地上 》を出版していた新潮社から彼の原稿は一切拒絶されていたので、春秋社から、「 我れ世に敗れたり 」のタイトルで出版された。《 地上 》自体が当方には未見だけど、《 地上 》の第六巻に当たるらしい。一躍スタ-ダムに昇り、出版界の寵児となったは良いが、あれこれと毀誉褒貶著しく次第に人気も下降していったって構図は、黒石と島田、相似。また、島田は二度ほど自殺未遂があり、黒石も、当人の弁だと少年期に長崎港の岸壁から飛び込み自殺を図ったってのも共通。
 尤も、島田の場合、正に凋落だけど、黒石の場合は、衰退って形容すべきか。それでも、皆に叩かれ罵られる島田を見るにつけ、自身の面影を投影もしただろうし、憐れみと義憤から一助を買って出たのだろう。
 因みに、島田は同じ保養院で、昭和五年に享年31歳で亡くなった。

A3_20260318113601

 

 この短編じゃ、島田より、むしろ近くの酒場(カフェのことだろうか)《 開化楼 》の女給・船子のエピソードの方が多く、例によって次回続きで筆を置き、尻切れトンボなんだけど、黒石の腐れ縁的畏友・辻潤も、平辻潤平の名を冠されて登場している。船子の玲瓏な声にすっかり魅入られ賛辞を惜しまぬ風の粹客として。

 

 

 「 睫毛の長い愛嬌顔もまんざらでないし、当人御自慢の声は滅法玲瓏たるもので、暇さえあれば、酒場の蓄音機を師匠に、ワルツやオペラの類から流行歌に至るまでの練習で客の度肝を抉えぐるのだ。」

 


この鬘を被った声楽(ボ-カル)嗜好の娘のエピソード、掲載された《 改造 》にじゃなく、《 醜婦の友 》にでもなく、黒石の得意先の観のある《 実業之日本社 》の婦人雑誌『婦人世界』に、受け継がれたようだけど・・・



 「 『婦人世界』7月号から12月号にかけて連載した「鬘娘」は「笑うべからず」(改造7巻2号、1925年)を長篇として書き直したもの 」

 

                           “スランプの持続・過去作品の使い回し”《 大泉黒石(私)研究 》

 

 

 とあって、拡大改編ってとこなんだろう。
 因みに、この船子って女給、実在の人物かどうか当方には定かじゃないけれど、誘拐・監禁に島田が問われた当の少将の娘、後にプレタリア演劇女優になる舟木芳江の“舟”の一字を拝借しての命名なんだろう。
 何よりも、誘拐・監禁事件をそのまま、男一人から二人に変え、とりわけ村役場の馬面の役人が一方的に執拗に船子に求婚を迫るのだから、島田の事件をネタに、コミカルに変容した黒石風刺笑譚ってとこか。
 
 因みに、最近は、YOU TUBEの方が若干、黒石的には賑わっている風で、茗荷谷かぼす氏以降、次々と、もちろん微々たるものじゃあるけれど、自分の黒石的世界の表演ってジャンルが拡がっているようで、これは将来的にも楽しみな流れではある。

 

2026年2月23日 (月)

わたしと共に磔刑を覚悟する者はいないか ! 古海卓二《 九州の百姓一揆 》

Photo_20260222212501

 ( 八十年前の、文庫本より一回り小さなサイズ。ネットで結構出回っているけど、皆一様に使用感・経年劣化が強い。終戦直後は皆活字に飢えていたという。こんな120数ペ-ジの小冊子でも、それなりに売れたのかも知れない。「木の葉叢書」と銘打ってるけど、すぐに潰れたらしく、数冊ぐらい出して廃刊になったようだ。)

 
 1930年、主演・市川右太衞門のシリ-ズ第一作、《 旗本退屈男 》 オリジナルを監督した古海卓二、大正時代の浅草演劇から活躍したある種希代の反逆児だったが、時代風潮がいよいよ澎湃として侵略主義と閉鎖的排外主義的鬱々暗々としたものになりはじめ、唾棄するようにメガホンを叩きつけ、さっさと北九州・黒崎の実家に戻ってしまった。
 戦時中《 麦と兵隊 》で有名になった地元の火野葦平達のグル-プに加わり、執筆に活路を見出していたようで、福岡日日新聞( 現・西日本新聞 )に小説《 日本剣客伝 》を連載したりしていた。
 戦後いち早く、九州書房なる地方出版社を主催し、文庫本体裁の“木の葉叢書(2)”と銘打った《 九州の百姓一揆 》を出版。奥付に、配給が「日本出版配給統制株式会社」となっている。敗戦翌年の昭和21年6月発行だから、まだまだ焼跡があちこちに残ったままの紙事情だったんだろう。

 

 

 昭和21年といえば敗戦の翌年、前年進駐した米軍トップのマッカ-サ-元帥が新年早々、極東国際軍事裁判所の設置を命じ、二月には戦前の封建主義的土地所有を廃止する農地改革が実施されたり、フィリピンで山下奉文元陸軍大将が絞首刑に処され、東京で極東国際軍事裁判所が開廷されたりの旧制度が時代の波に崩れ落ちながらも尚もしがみつこうとする軋轢・拮抗=変転的時代であった。
 
 
 大正・昭和初期まで、古海は大杉栄なんかと係わりをもつアナキズム系的な立場だったのが、昭和4年5月にモスクワで開催された《 日本映画博覧会 》に招聘され、かなりの歓待を受け、以前浅草時代に《 どん底 》を発表したこともあったそのオリジナルの作家ゴ-リキ-とも会えたこともあってか、帰国後はすっかりマルクス主義の信奉者に変わっていたという。
 当時のロシア( ソ連 )は、1917年のロシア革命からレ-ニン→スタ-リンと政権が推移し、この昭和4年(1929年)は正に悪名高いスタ-リン主義体制が確立された年でもあったのだけど、同様に悪名高い上からの強制的集団農業制も正に彼が滞在していた頃に確立された。一介の外国人映画関係者なぞに、そんなリアルな革命的変容・圧政的光景を見せる訳もなく、海外からの客人対応モ-ドに単純に乗っけられたに過ぎなかった。
 当時の日本でも、すでに大杉栄が、ボルシェヴィキ=ロシア共産党に叛旗を翻すウクライナの反強権主義的革命運動を展開していたマフノ運動に言及していたにもかかわらず、少なからずのアナキスト達が、マルクス主義=日本共産党に走っていた。

 

Photo_20260222212601

 ( 中扉。)

 

 古海、帰国しての監督第一作が、御大・市川右太衛門主演の《 日光の円蔵 》であった。
 
  「 この俺がいい御手本だ、支配階級の横暴と、悲惨な百姓の生活を見兼ねて、侍という特権を捨てて、農民解放の真っ先に立ったが・・・」

 

 世界恐慌の荒波が押し寄せ始めた時代に束の間流行った傾向映画ではあるが、あの市川御大が、大画面で、啖呵ならぬ、一大プロパガンダ的アジテ-ションをやってのけてるのが、いかにも古海らしい一途さであろう。勿論、こんなセリフ検閲が許すわけもなく、当然にカットされた場面。( 戦後、竹中労がシナリオから拾い出して明らかになった。 )
 ここで扱われたのが百姓( 農民 )一揆。
 竹槍や鎌なんかの場面もカットになってたらしいけど、官製的作為に粉塗されたロシア革命的現実であっても、その真っ只中の人々の蒼貌や息吹に彼なりに触発され感得したものが、フツフツと滾り溢れての制作だったに違いない。
 

 

 約80年前の、文庫本より一回り小さいそれでも所謂仙花紙のような薄っぺらい頼りない紙質ではないものの、すっかり茶色に変色し素手で触るとヒリヒリするぺ-ジを繰ってゆくと、前がきの冒頭にこうある。

 

 

 「 封建社会に於ては、一揆発頭を極刑に処したのが通例であった。梟首とか刎首とかにされ、罪は一家の者にまで及ぶことすらあった。このような極刑に処されたにも拘らず、一身一家を捨てて、一揆発頭をしなければならなかった百姓の環境は悲惨であり、封建制度は残虐無道であった。」

 

 発頭(ほっとう)=首謀者  刎首(ふんしゅ)=刎頸と同意。首をはねること。梟首は、さらし首。

 

 封建社会=徳川幕藩体制を打倒し新社会建設のはずの明治維新の、例えばその典型的な元基形態ともいえる、城を自焼し小倉藩主達が逃亡した後に入ってきた維新当体の長州軍が、既存の庄屋達と結託して不当不正に走り、憤った小倉藩=企救半島の百姓(農民)達が決起した庄屋・村役人達の屋敷を打壊し焼払って長州軍本営のあった城下まで迫った企救一揆。その首謀者・発頭と目された新道寺村の原口九右衛門は、その罪を問わないという言質を長州軍の代表が確しての和議だったにも拘わらず、大分・日田の河原で絞首刑に処されてしまった。
 明治2年の維新早々、後の明治維新政府・体制の強権主義的な不実・背信に満ちた正体を証して余りあるものであった。
そもそも、その河原は、徳川時代から地元日田近辺の百姓一揆・叛乱の首謀者達が、あるいは梟首され、あるいは絞首される刑場であった。

 

 

 「 百姓一揆蜂起の原因を大別すると、凶作飢饉によるもの、財政的なもの、租税の重課、独占専売反対、幣制の紊乱にもとづくもの等である。
 百姓一揆はそのどれもが、殆んど突発的な騒動ではない。要因に基いて、種種の準備行動が行われるのが普通である。一揆の要因となる様々の事件が発生して、百姓の生活が困難の度を益すと、百姓達は寄々集合して対策を講じる。しかし、尋常一様の対策では、困難を克服できないと見透しがつくと、まづ愁訴が計画されるのが普通である。愁訴はもとより禁制である。」

 

 

 「 愁願書は、幾人もの役人が、次から次へ、上へ上へと順次に差し上げて行くものであるから、なかなかの手数と日時を要する。殊に、貢租の苛斂誅求を緩和するための愁願書などは、役人が自分の失策を蔽わんとして、中途に握り潰してしまうことが屡々ある。
 予備行動としての愁訴が駄目となってから、一揆が計画されるのが普通の順序であるが、必ずしも、順序通りにやるという訳ではない。」
 

 

 「 徳川時代に這入ってからの百姓一揆は、根本的に武士の支配から脱却しようとするような、積極的なものは殆どなかった。ただ、百姓が被支配階級として生活的に受くる、それは或場合には精神的なものであったり、また或場合は、物質的な圧迫苦痛を軽減するために起こされた、消極的反抗運動として、集団の力によって、『 願のすじ 』を強訴する行動であった。」

 

 
 畢竟、徳川幕藩体制下の百姓一揆は、体制内改革以上に出るもんじゃなく、体制を根本から覆す一大変革運動に発展する契機を孕むものとは言い難い、という前衛主義的な当時の発想を古海は提示し断じているのだけど、確かに、明治維新直後・翌年の企救郡百姓一揆なんかじゃ、まだまだ当事者の百姓達が既存の封建主義的発想を越える契機を持っていたとは思えない。あくまでその枠内での一揆だったけれど、しかし、四民平等の新社会の御旗を掲げた維新・長州軍相手だったってことは、むしろ、その矛盾を衝く契機を内包していたともいえよう。
 

Photo_20260222212701

 

 

 前書き以降、九州の主立った百姓一揆の概括をずらり並べ紹介してみせてるけど、当方が一番驚かされたのは、例えば、亨保13年久留米藩で勃発した筑後一揆。
 その一揆蜂起した百姓( 農民 )側総勢16万人( 6万人の説も )の装備中の“ 鉄砲1万3800挺 ”って箇所。
 勿論、猟師達が所有してる鉄砲の数なんか高が知れてて、況んや百姓なんかに鉄砲など所有させる訳もなく、この一揆のために、事前に、藩役人に、猪・鹿が田畑を荒らし難渋している旨申し立て、確保したものであったという。
 それにしても物凄い数だ。
 久留米藩って、百姓にこれだけの数の鉄砲を貸し出せるってことは、相当に鉄砲を備えていたってことを意味する。
 文化8年の豊後(大分)・岡藩の豊後一揆でも、一揆勢が、町外れの河原で黎明の藍空に向け“ 数百挺の鉄砲 ”を撃ちっぱなして気勢を挙げたという。
 只、この両一揆とも、実際には使用された風は見られないので、あくまで威嚇のため?必要とあらば発砲って含みもなのか・・・否、当時は決死の覚悟の一揆故に躊躇うことはなかったであろう。企救郡一揆じゃ、猟師達の鉄砲ぐらいだったから、それも明治維新以降だったこともあって、統制にうるさかった幕藩体制下の方の量の多さが異様に映ってしまう。これで、藩兵と真っ向銃撃戦突入なんてことになったら、かなりの死傷者が出、嫌でも徳川幕府の知るとことなり、藩の存亡にも係わってくることになるのは必定。

Photo_20260222212702  

( 昭和4年、革命ロシアから帰国後撮影。主演・市川右太衛門『日光の円蔵』。検閲でかなりカットされた傾向映画。是非観てみたい一作。)

 

 九州の一揆のハイライトは、やはり維新後、明治6年6月の福岡本庁まで襲った筑前の竹槍一揆。
 福岡県のど真ん中に位置する嘉麻周辺から蜂起した一揆勢、総勢30万( 10万という説も )人叛乱農民が、途中の庄屋・豪商・役人宅を叩壊し焼払いしながら、福岡県庁のある博多の町へ押し寄せ、天神・中州・呉服町をも蹂躙し、官舎すら焼き払った。抜刀隊と銃・大砲を装備した鎮圧部隊の総攻撃を受け、さすがに竹槍一揆と謂われるだけの竹槍や鎌だけの武装で敵うわけもなく、次第にじりじりと後退し、隣の熊本からも鎮圧軍が到来し、博多の町から一揆衆は引き上げていった。
 打壊し・焼討ちにあった家屋4500戸。
 一揆農民側、それぞれ万単位で笞刑・杖刑に処され、何人かは絞罪・斬罪に。官憲側の責任者の幾人かは責任を取って割腹自殺し、県トップは罷免。
 この筑前の場合、鉄砲のことは記されていない。
 この古海の本以外のネット見ても、当時の記録に、博多より遠方の村々からどんどん雪だるま式に人数を増やし福岡県庁目指し、途中の庄屋・豪商の屋敷を打壊し・焼討ちしながらの進行先に、待ち伏せしていた福岡藩士達が、銃を撃ちかけてきたという。恐怖に駆られて一部の一揆衆は逃げ出したものの、一揆衆の誰かが撃たれ死傷したという噂聞いたことなく、威嚇のための空砲なのが分かって、身を隠してやり過ごした、とある。
 これは維新政府・県庁派遣の鎮圧部隊側の銃撃隊の話だけど、それに対応・応戦して一揆側が鉄砲を発砲したという記述はない。つまり、計画的に練られたものじゃなく、文字通りの自然発生的・付和雷同的な一揆の性格が強いってことなんだろう。
 だから、県庁での大砲( 無論空砲 )と抜刀隊(50人前後)の攻撃に次々と斬り倒され後退せざるを得なかったのだろう。石礫という飛道具も多数で行使すれば抜刀隊も威力半減、そのまま整列しての多重の竹槍陣形で進撃すれば十分に対応できたのでは、と素人考えにもこの時の一揆衆の戦術の無さ加減に呆れるばかり。
 古海は、その辺りのところも不満のようだ。
 最後に、この著作の17年前に撮った《 日光の円蔵 》で゛、御大・右太衛門に、こう叫ばせた。

 

 

 「 日光だけの問題ではない、すべての農民、無産の民のためだ、わたしと共に磔刑を覚悟する者はいないか 」

 

 

                         
《 九州の百姓一揆 》古海卓二( 九州書房 )昭和21年6月5日発行
 
   ※ ネットの古本屋でオリジナルが入手可。 

 

«甲斐大策的軌跡  古い港町のオアシス・グリシェン・カフェ

2026年4月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ

フォト

  • フォト蔵

昆明・旧市街

逍遙遊片

  • 20070702100005
    三千世界の逍遙遊片
本コンテンツをご覧になるには、Flash Playerプラグインが必要です。FlashのWebサイトよりインストールしてください。

上海の弁護士・公認会計士・税理士