以前、《 大泉黒石(私)研究 》に掲載された大泉黒石のスケッチ《 睡れる少女の顔 》で、中学の頃、大浦湾に面した鯨漁( むしろ加工・運輸の方だったようだ )の小さな漁村・時津(とぎつ)の静かな景観と雰囲気が好きで度々スケッチブック片手に赴いていて、偶々訪れた「海に面した小奇麗な茶店」、駄菓子屋も兼業の店でラムネを飲んでいると、店番の娘がうたた寝をはじめ、その愛らしい横顔に魅せられ思わず描いてしまったという経緯。
今改めてそのスケッチを眺めてみると、どうにも日本人とは思われない西洋人的相貌で、勿論実際には色んな血の混じった東の涯の日本列島住民であるんだから、様々な骨格・相貌があっても違和はない。けど、余りに西洋風にあり過ぎてて、これはむしろ黒石が自分に寄せてディフォルメした美意識的変容の産物じゃ、と断じたくなってくる。黒石の中学の友人たる彼女の親戚も、同様に鼻梁の高い西洋人っぽい風貌だったのだろうか。
あるいは、ひょっとして彼女は当時まだ存在していたろう南山手の異人館あるいは稲佐のロシア系のラシャメンの子孫だった可能性もあり得る。
「 私の幼年時代の記憶の中で、一番色彩の濃いのは、この漁村である。」
( 出津文化村バス亭 長崎駅前からの直通は少ない。途中乗換えもそこそこ。隣村・黒崎は歩けなくはない距離で、当方は時間とエナジー切れで諦めたが、時間があればアプローチした方が面白い。フェンスの向こうに東シナ海が拡がっている。)
( バス亭から眼下に覗けた出津漁港。小さな漁港で、春の陽光の下、のんびりした雰囲気。)
黒石の心の奥底にゆらめく原風景としての時津。
幼年時代の記憶とあるからには、中学生以前に遡るものだろうけど、十キロ以上の距離を小学生がスケッチブック片手に散歩するってのは些か無理があって、おそらく大人に車か何かに乗っけられての同道だったに違いない。彼の乳母の郷里でもあったという。
それは又、《 長崎夜話 》( 大正九年の《 中央公論 》に掲載 )中、主人公・黒助の乳母だった女性の実家が、近郷の農村で鯨商を生業としていたという設定にも連なってきて、首からECCE HOMEの刺繍のある黒羅紗の札を吊るした老婆・お島と、首からアルミのマリア像をさげた娘・おふじの二人が、毎回鯨肉を手土産に黒助宅を訪れていたのが、次第に鯨肉が小さくなってきたのを疎ましく思い始めた四面楚歌の黒助だった。
その二人、つまり乳母の母親と娘に厄介者扱いにされていた老爺・佐太郎が、浜に教会が建てられてから、浄土宗から耶蘇教に帰依したとあって、明治維新以降の新キリスト教徒には違いない。黒助はその教会の神父に恐れと確執を抱いてて、佐太郎の葬儀の際、愈々妖気漂う異界空間も極まってしまうのだけど、そもそも時津には戦前、キリスト教会はなく、戦後も大部過ってから建てられたものがあるだけという。
長崎から時津の倍の距離、東シナ海・五島灘に面した外海(そとめ)と呼ばれる断崖が続くエリアの一角に、出津(しつ)の小さな漁港があり、そこには、明治15年( 1882年 )にフランス人宣教師ド・ロ神父によって建てられたカトリック教会が建てられていた。けど、二十キロも離れているので気軽にスケッチブック片手じゃ余りに無理過ぎ。
つまり、黒石がこの出津を念頭において時津に組み込んだのか、あるいはもっと創作的に、佐太郎の告別式の七彩的妖気漂う伴天連的牙城として何としても教会が欲しかったのか。
( 出津漁港、昼間だったのもあるが、人影はほとんどない。左の旧い木造家屋は朽ちていた。ここは山側も海側も石垣作りが多い。一年を通して強風が東シナ海・五島灘から吹きつけてくるのもあるのだろう。)
で、今回、念願のその出津に行ってみた。
久しぶりの長崎駅は、まだ駅ビル外で工事中。その外側にローカル・バス停留所があって、11時5分の西海バス( 100番 )に乗った。桜の里バスターミナルで乗り換えせずに済む出津( 出津文化村 )直行便。 さすがに過疎エリアらしく2×1の座席も乗客も少ない。出津は元々貧困エリアであったらしく、明治前期にやって来たド・ロ神父もその余りの貧しさを目の当たりにして、自身の財産を注ぎ込んで救済に奔走したという。貧しさ故の産業育成や施設、小さな診療所そして教会建立。彼は貴族の出で、それなりの財産があったようだ。マカロニやソーメン、パン、織物等、女性達の生活的自立を助けるための施設は現在でも文化財として残っている。
一時間ちょっとのバス旅は混むことがないので満喫できた。
途中までは時津と同じルートだったけど、次第に山道に入ってゆき五島灘に向かって屹立した断崖とちょっと開けた小さな漁港が点々と下方に覗ける高台を縫ってゆく。ようやく海に面した道路に出たと思ったら、もう出津文化村、眼下に張り付くように蝟集した小さな出津港が見下ろせた。青々とした遙か向こうまで東シナ海に居たる水平線が拡がっていた。かつては大きく帆を張り白波を蹴立てた異国船が行き交っていたのだろう。しばし、ガードレールに身を寄せ、往事も吹いていたろう冷んやりした五島灘の風が、陽光の下、心地よかった。
出津の村は小さな村だけど、地図で見てたのと違って、バス亭のすぐ前に漁港が開けているんじゃなくて、急勾配の坂道を下ってゆかねばならない。漁港の両側にはもう断崖がそそり立っている。
もうすっかり整備されている出津の文化村は、それでも、やっぱり長崎って感じで坂道が縦横に走ってて、ゆっくりと歩き回るにはもってこいの規模。
目的の出津教会はすぐに見つかった。
丘上に長細い瓦と漆喰塗りの白壁の低い屋根の、ド・ロ神父と村民達が建てた教会が、春陽の下、のんびりと横たわっていた。傍に近づくと、入口上の設えられた塔の先に塑像なのか淡色のマリア像が眼に入った。
白地に腰の水色の帯がアクセントになってて、ド・ロ神父がフランスから運んできた像ということで、彼好みの、教会ともども余り飾気のない淡いマリア像に違いない。
その本堂と少し離れた場所に、もうそれだけのために建てられた風の塔の上に、呼応するように大きく両手を広げたイエスの白像があって、どう考えても、後から立てられたもので、やはりカトリックは聖母が主なのか。聖母マリア(像)って観音菩薩(像)と似たとこがあるからか、隠れキリシタン達の隠れ蓑としてマリア観音像なんて流布していたという。華美とは無縁の質素な飾気希薄な佇まいは、赤貧洗うが如くの貧しい人々の欣求的癒しの場とし相応しいものだったろう。
( 出津教会。瓦と漆喰壁が簡素だけど、なかなかの風合いと雰囲気。玄関上に伸びた尖塔の先にマリア観音像。向こうの小さな登場にキリスト像。夏はコンクリや石が焼けてともかく暑そう。)
( 石段上から見下ろした教会玄関。マリア像がよく見える。この石段上は一休みするにも持参の弁当広げるにもベスト・ポジション。)
ド・ロ神父は、慶応4年( 1868年 )に、所属していたカトリック・パリ外国宣教会から長崎に派遣され、横浜にしばらく滞在した後、明治11年( 1878年 )、出津の教会主任司祭として赴任。明治15年に出津教会を建て、翌明治16年に女性のための授産施設《 出津救助院 》を設立。最初、無知な当方は、授産を出産関係かと感じ違いしたが、これは貧困対策としての産業的技術の授業ってことだった。
彼は隣村黒崎村の教区も兼任していて、大正に完成が延びたものの出津教会とは全く別様の赤レンガ造りの立派な教会をも立て、大正初期に体調不良で戻っていた浦上天主堂に付属した大主教館工事中に斃れたという。
教会を少し下った坂道に黒瓦拭きの何軒か蝟集した建物《 出津救助院 》があって、いずれも歴史的遺構で料金を払えば見学できる。門の中に入ると、正面に昔風の民家の佇まいの土産物屋宜しく小さな売店があり、カトリック尼僧の衣装をまとった女性が出てきた。片側の奥深い建物がかつての工場で、売店の建物がかつての医療室だったらしい。尼さんの話だと、この辺り一帯は風が強く、強風の吹き荒ぶ時は大変という。教会も風対策として、ド・ロ神父が低い屋根に設計したようだ。
( 教会堂の裏。フランスの宣教師らしく、ルルド。)
佐太郎の告別式が催された七彩の妖気漂う異界空間=教会堂って、それなりの規模のステンド・グラスを前提とするけど、この出津教会堂の内側は、外形と同様飾気を排した質素な作りになっていて、浦上天主堂なんかの長崎市内の教会の内部をイメージしたんだろうか。境界世界的悪夢の舞台に設定するには、この東シナ海から時折強風の吹きつける出津の質素な教会は、余りに不向き。
むしろ、隣村の黒崎教会にこそ、信徒達が一個一個積み上げていった赤煉瓦造りで天井高く、七彩の光に満ち溢れるだろうステンド・グラスが張り巡らされている。尤も、時間の関係で当方は未見。大正九年に完成したとある。《 長崎夜話 》が月刊《 中央公論 》に掲載された年と同年。それだと、可能性は低い。
年間を通して東シナ海からの強風に晒される外海、断崖多い地形から如何にも厳しい自然条件って先入観が先にたってしまう。実際その通りのようで、風が強いと転覆する漁船も多く、残された女・子供が呻吟してたってことでのド・ロ神父=教会・救助院の成りゆき。現在でも住民の半数近くがカトリック( 切支丹 )教徒という。隣町黒崎近くの高台に遠藤周作文学館があったりで、当日も、何処かのミッション系なのか女子高生達の一団がゾロゾロと教会を訪れ、靴箱に履物を預けて中へ入っていった。薄っらと雲のかかった青空から照りつける陽光に、尖塔上で両手を合わせた淡い聖母マリアが一層眩しく佇んでいるばかり。
黒石の見まえることのなかった母ケイや、黄廛来の刑死した若き母親や李桂花の如く。
( 出津の救助院。ド・ロ神父肝いりの授産施設。彼は建築から農業まで幅広い知識と技術を有した正に献身的使徒のようだ。)
































