久しぶりに門司港の「古民家チャイ・ハナ」グルシェン・カフェでランチを食べた。
ぞろりとした中央アジア風の衣装をまとった女性オーナー、作家・画家の甲斐大策の事となると、俄然甲斐大策博物館の文芸員宜しく丁々発止に饒舌になるのだけど、生前から大策とは手紙のやり取りしてたようだ。というより、大策自身が、ともかく誰にでも手紙を書きまくってたらしい所謂人たらし的な性向だった・・・否、むしろ自己表出衝動の口実としての手紙だったのだろう。
今回久しぶりに訪れてみると、以前片側の壁にずらり並んだ大判の油絵・アクリル画などがほとんど姿を消し、小さな白黒の小品が一面に掲げられていて、テーブルの上には、紙粘土細工のミニ・アフガン泥雛が七彩の大団円を決め込んでいた。大策手製という。自分の幼い娘のためだったようだ。この店のオーナー女性は大策や彼の娘さんとも親しかったようで、だからこその常設大策絵画画廊なんだろう。この小品群、皆初めて見るものばかり。
亡くなってもう七年。
かつて藤原新也の指定中華料理館だった《 萬龍 》と同じ横丁にあるこの《 グルシェン・カフェ 》の、一ブロック先の商店街近辺で、当の大策の黒ずくめの姿を見かけたことがあったけど、そういえば、カメラ手にした新也爺も何度か見かけた。場所は違うが、いつもアシスタントか秘書か定かならぬ若い女性と連れ立っていた佐木隆三を見かけなくなって久しい。彼はもっと前に亡くなってたが、見かけるのは決まって門司港駅前だった。最近は、どこでだったか忘れてしまったけど、イラストレーターの黒田征太郎を見かけた。港近くの廃ビルにアトリエを構えているという。
何しろ列島の西端、南西辺境州の小さな港町、港町の常でもあって、様々な人々が行き交い流れ着く。
あるいは旅立ち、あるいは、永遠の旅へと流離厭離する。
驚いたことに、今回、大策のスクラップと銘打った分厚い、彼の両親に旅先から送った大量のエア・メール(書簡)やイラスト集が閲覧可能なものとして陳列してあった。二冊。興味津々に立ち読みしてると、件の女性オーナーが自分のテーブルでご覧になって下さいと声をかけてくれたので、コーヒー茶碗を端によけてちょと読まさせてもらった。少し暗めの照明だったのでびっしり記された小文字を、知らないうちに、両目をそばだてていたのか、オーナーがわざわざ、大策の遺品といって分厚い拡大レンズを持ってきてくれた。
最初、当方と同様の拙字だと、些かの同類的安心の念を覚えたのだけど、裸のままのレンズを通して見直してみると、果たして、小さく書き込むため丁寧じゃないけど、けっこう遊び心も窺えるそれなりに味わいのある字面であることが分かった。一、二枚くらいしか読まなかったけど、ナイロビやウガンダの地名が記されてて、つまり、大策=アフガン・中央アジア始めアジア大陸専門とばかり勝手に決め込んでいたら、なんとアフリカ大陸まで足を延ばしていた。その地での悲喜こもごもをびっしり書簡にしたため、画家である父・巳八郎に送り続けていたのだ。
中々に面白い旅先からの書簡集だけど、オーナーに尋ねてみたら、出版する動きはないという。自分じゃ無理とも。画集も未だ出てないらしい。日の目に触れることもないままのここだけの閲覧資料ってことなんだろうけど、残念。
初めて甲斐大策の短編集を読んだのは、パキスタンは古の古都・ペシャワール、新市街にあったバックパッカーの溜り場《 カイバル・ホテル 》。そこのドミトリーの一角に客が残していった本・雑誌の中に、ポツンと一冊、眼を惹く装丁で手にしたのであった。まだ、ソ連軍がアフガンでイスラムのムジャヒ軍と戦っていた頃だった。
( アフリカ・ケニヤ投函。手描きのエア・メイルも遊び心満点。)
( 部分的マル文字も遊び心の一環だろう。これは女性オーナーもいっていたことだが、大策は戦前の旧かな使いを諸所で使ってて、戦中世代的反骨なのか、それをも踏まえた遊び心なのか。)
( 彼の場合、バックパッカーとは若干異なるけど広義のバックパッカーには違いない。この書簡には、甲斐大策の一人旅人としての宣言ともいうべき行りもあって興味深い。また、旅先での出逢い、「物を感じ、愛し、美しいものを探し、感動を絵にすること・・・」と、芭蕉が俳句でそうだったように、大策も描画を事とする旅でもあったようだ。)












