2020年1月 7日 (火)

長崎異人少年不幸物語、あるいは明治・長崎怨恨譚 大泉黒石「代官屋敷」

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 ( 春徳寺の背後の墓地。背後にはそもそも長崎のオリジンたる豪族・長崎小太郎の城の古址が佇んでいるという。 )

 

 この短編《 代官屋敷 》は、大正9年2年の《 中央公論 》の【 創作欄 】に掲載されたらしい。
 所謂芥川龍之介や佐藤春夫たちが黒石や村松梢風等大衆小説=【 説苑欄 】作家たちと自分たちの純文学=【 創作欄 】と同一に扱ったことでプライドを著しく傷つけられたと編集部に猛烈な抗議をした事件の因となった作品だったのだろうか。
 抒情的な黒石的少年期的憧憬ともいうべき作品で、僕は好きな作品だけど、純粋芸術と自負しているらしい芥川等からみれば許しがたいのか。あるいはもっとリアルに感情的な越境的越権としての不快感から発したものかも知れない。
 ( 翌年再び《 中央公論 》の【 創作欄 】に、由良君美に駄作と断じられた《 妾の番人 》、《 煙れる心臓 》が相次いで掲載されたようで、ひょっとしてこっちの方で芥川たちが激怒したのかも知れない。因みに由良はこの《 代官屋敷 》は傑作と評価している。恐らく生活優先でせっかくの編集者・樗陰の好意にもかかわらず書き飛ばしたに違いない。)
 純文学的エリートたちにとって、なかずく黒石の如く、長身で声も大きくついこの間まで喰わんがため牛の鮮血に塗れながらの屠殺業に従事していたそれもロシア人的異貌の持ち主であって、その上当時の文壇関係にはまだ僅少だったらしいロシア語に堪能ならば尚のこと、更に単なるベスト・セラーじゃなく一大ベスト・セラーの新進的寵児作家だった故に違和感とその嫉妬と侮蔑の反感はかなりのものであったのだろう。黒石的には、彼が長崎で生ま出てからというもの日常的について回った“あいの子”という差別的一切合切の延長線上に新たな災厄が一つ上増したに過ぎないのかも知れない。しかし、それじゃ余りに救いがなさ過ぎるが、つくづく黒石この国の閉鎖性・卑屈な権威拝跪に辟易したことだろう。

 

 

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 ( 長崎駅前の路面電車駅。日曜祭日は観光客でびっしり混む。 )

 

 

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 ( 混む時間を外すとけっこう空いている。)

 

 

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 ( 料金は現在130円。ついこの間120円になったと思ってたら・・・けど何処まで乗っても一律料金。)

 

 

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 ( かつての全国の路面電車車両が走っているらしい。)

 

 

 黒石の遠縁にあたる三輪子 ( 実際には、先で京都で結婚・駆け落ちをする幼馴染の美代子 ) の父親が蒸発し母親は東京に出稼ぎ行ってしまい黒石と盲目の祖母二人の家に預けられるところから物語は始まる。
 少年黒石九歳、三輪子七歳。
 長崎の何処を少年黒石たちの住処に舞台設定しているのか韜晦的傾向の強い黒石であってみれば曖昧模糊として不確かで、せいぜい少年黒石が毎朝渡って通学していたという石橋=阿弥陀橋が空間的ネックになるくらい。
 後で触れるが、タイトルの代官屋敷ではいよいよ曖昧朦朧としてくる。
 
 何代にも渡って権勢を欲しいままにしてきた長崎代官 ( 長崎奉行とは別組織 ) も明治維新以降すっかり凋落し、糊口をつなぐために就いた神官職、嫁も息子も青白い痩身にうらぶれていた。
 そんな荒廃した屋敷と隣合わせの黒石一家の間の石垣の真ん中に大きな一本の老楠が屋根の上まで枝を伸ばし、その葉叢の隙間から遠く長崎湾が覗けていた。
 ある日少年黒石が老楠の上に登って隣の草深い代官屋敷をしげしげと眺めていると、ふと古ぼけた井戸の囲いの上に白い紙包みが乗っかっているのが見えた。
 老楠の下で楠の実を拾っていた三輪子を呼んだ。
 

 

 「 三輪さん、ちょっとここへ登ってみないか。奇妙な物があるばい」

 

 

 二人は老楠の枝から一メートル位の石垣を乗り越えて、代官屋敷の庭に降り立った。雑草茂り蕗が一面伸び、広々とした庭の片隅の廃屋と見間違いかねない神官の小さな棲家がポツンと覗けていた。古井戸まで幾らもなかった。井桁の上に小さな捻じり紙が
乗っていた。
 

 

 「 紙の中を開けて見ようか」

 

 

 ためらう少年黒石を、後ろから三輪子が急かした。

 

 

 「 水神様、水神様。この包みの中を見せてくださいと言うて、---早く開けないと、人に見つかるがの」

 

 

 恐る恐る開けて見ると、果たして玩具の小猫のような菓子「 沖の石」と砂糖菓子の「 水仙花 」だった。

 

 

少年黒石は驚いてしまった。
あんな落魄の極みのような神官の、それも古井戸なんかに、そんな高価な菓子が供えていたからだ。
と、突然、罵声が響きわたり、神官の腕が伸びてきて少年黒石の腕を掴んだ。面食らって三輪子は逃げ去った。そのまま、ぐるりと門から少年黒石は家の玄関まで引きづられた。 
 

 

  「 異人の子 ! 貴様は町内で一番悪い子だ 」

 

 

 と罵られ、出てきた祖母に前に突き出された。

 

 

 「 おい、婆さん。俺が今朝上げたばかりの井戸のお供物を、お前の子が盗ったぞい。お前は盲目だから、自分の子が他所で、どげんな悪戯をしているか解るまいがの、此奴、とても一通りの下童じゃなか。」


 散々悪態をついて去って行った神官の後ろ姿を見送るように、祖母は拳を固めて打つまねをしながら棄き捨てた。

 

 

 「 恐ろしい人間もあるもんじゃな 」

 

  そして少年黒石に、お供え物の菓子を食べたのかどうか確認をとって、中身を見ただけの言質を得ると、紙屋町の福齋屋に同じものを買ってくるようにと十銭銀貨を渡した。
起き上がりざま、祖母は憎々しげにこう呟いて苦笑した。

 

 「 着物の着せ方が可笑しいと言うて笑うし、汚れていると言うては笑うし、馬鹿馬鹿しか。誰が井戸のお供えを拾って食べるかのし。うるさい憎まれ口を利いて回るから、先祖代々の代官屋敷も潰れるぞい、ひがみ屋奴 !」

 

 
 十町ばかりの紙屋町・福齋屋( カステラで有名な福砂屋=船大工町だろう )へ行く途中には、いつも彼が通るとかならず走り寄って来て背後から石を投げつけてくる中学生やカツアゲする小僧がトグロを巻いていて、少年黒石は一目散に駈け抜けていった。
 祖母は買ってきたその菓子を隣家に持って行き、むっつりとして戻って来た。
 その夜、祖母の針仕事を手伝っていると、今まで姿の見えなかった三輪子がのっそり現れ、耳ざとい祖母に呼ばれた。

 

 

 「 お前は女子の癖に色々な悪戯をするのし。楠の木に登れと言うたのも、学校に時計を持って行けと言うたのも、お前じゃろがのし。お前が、何でも先に立って、して見せるけ」

 

 

 そして少年黒石の頬を思いっきりつねったように、三輪子が膝の上にきちんと揃えて乗せている両の手の片方を憎らしそうにつねった。逃げるように部屋を出てゆく三輪子を可哀そうに思った少年黒石に、祖母は尚も零した。

 

 

  「 今日は、お前が意地汚い真似をしたんで、顔から火の出るような目に逢って来たぞい。高木の奴、妾(わたし)に向かって、お前は娘を売ったんじゃろと言うた。畜生、あんな人間はなかろ。これから代官屋敷へ一歩でも踏み込んで見ろ。お前は家に入れないから。よう覚えて置くんぞ 」

 

 

 「 祖母の言った事が一々胸にこたえた。口惜しそうな祖母の顔を見ていると、いつの間にか、分別を忘れて直ぐさま復讐をしようと思った。」

 

 

 台所の縁の下から取り出した空のインキ壺に灯油を入れ、石垣を乗り越えて、闇の中を手探りしながら古井戸まで忍び寄り、井戸の中へインク壺を放り込んだ。家に逃げ帰ると、灯油の混じった井戸の水を飲んだ高木の苦しむ様が脳裏を巡り出した。いたたまれなくなった途端、はたと思い出した・・・あのインキ壺には確か栓をし、興奮してそのまま投げ込んでしまったのでは。失敗の慚愧の念よりむしろ安堵の念の方が勝って漸く緊張と不安の重圧から解き放たれたと思ったら、今度は一層いまいましさが募って来た。
 戸棚から包丁を一本取り出し、再びスタスタと石垣を越えて代官屋敷に忍び入った。
そして、すくすく伸びていた一面の蕗の茎を、一本残らず、憑かれたように斬り落とした。

 

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 ( 黒石のルーツたる宮地嶽八幡神社。石鳥居の右側に、明治の頃、黒石の家が在ったという。現在も左側に民家が奥まで連なっている。)

 

 

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 ( 八幡神社からすぐの西側。中島川の欄干が覗けている。川を越えて真っすぐ左側に数百メートル行くと件の長崎代官屋敷跡たる桜小学校がある。)

 

 

 そもそもこの《 代官屋敷 》、名前は実在の高木姓を使っていて、江戸中期頃から代々続いた長崎代官・高木作右衛門の子孫ってことだろうけど、明治維新で廃官となり、以前ネットで瞥見した時は政治家に転身したように記されていたと記憶している。黒石の頃だと明治も後期に入った頃だとするとそのも一つ後の代。
 おまけに、彼の出世作《 俺の自叙伝 》では、

 

 

 「幼稚園で俺の組に・・・高木という長崎代官の子と俺が・・・代官の子なんてものは弱いものだ。だから親爺が代官をやめさせられて、目薬を売ったり神主なんぞになるんだと思った。」

 

 

 と、同じクラスの腕白組としてその息子が登場している。
 もし、《 代官屋敷 》の、老楠の枝の上に坐って笛を吹いている高木の青白い痩身の息子が実在する者ならば、春徳寺下の幼稚園で黒石と同じクラスだった高木の息子かあるいは彼の兄弟ってことになる。《 代官屋敷 》の描き方だと、どうもそんなつい数年前までおなじ腕白同士だった親近的ニュアンスは感じられず、精々その兄ってところだろうか。
 勿論あくまで創作もの故、現実的断片を纏っていても所詮仮構的フィクションなのだから、余りその実在的整合性を問うても筋違いってものに違いない。けど、やはりその作品の底にあるものを視ようとするならば、確認ぐらいはしておいても罰はあたるまい。

 

 

 実在の長崎代官・高木家は代々作右衛門を名乗る十三代 (途中二、三の例外はあるようだ) 続いた代官の家柄だけど、明治維新後のことはネット捜しても殆ど情報がなく、凋落し荒廃した高木家とその屋敷の真偽の程は定かではない。
 只、現在この広大な地 (勝山町) は小学校になっていて、比較的最近、統廃合の結果としての新校舎建設の工事中に、かつての代官屋敷の頃やもっと前の秀吉時代のサント・ドミンゴ教会の遺構が発見された。
 このサント・ドミンゴ教会の土地を提供したのが、秀吉時代に端を発する長崎代官の初代・村山等安で、その代官・村山を秀吉に告発し死罪に追いやってその後釜に坐ったのが二代目代官・末次平蔵、その息子の二代目平蔵 (末次家は四代平蔵を名乗る) がトードス・オス・サントス教会跡に春徳寺を現・立山から移築という。

 

 

 この勝山町の桜町小学校、というより旧勝山小学校の前身・向明学校が明治六年、長崎県下で最初の小学校ということで“ 第一小学 ”の名を冠され建てられた。同じ敷地だったら、明治六年には代官屋敷は廃され、向明学校が建てられたということになる。尤も、長崎代官所は多くの人びとが出入りするかなり広大な敷地だったようで、この工事というより実際はその前の考古学的な事前調査の際、高木代官時代の井戸も発見され何と15基も備わっていたのが分かった。( 因みに、桜町小学校として新しく立て直される以前の勝山小学校って、校舎の直線廊下が百メートルもあったという。)
 この物語の中での黒石の描いた代官屋敷って、どうにもそんな広大な敷地って風ではない。それこそ普通の武家屋敷程度の雰囲気しか醸し出していない。帳尻合わせをするなら、大方は長崎で最初の小学校敷地に取られ、残った高木家家族だけが住んでいた敷地のみ残されたのかも知れない。

 

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 ( 黒石が通っていたという桜馬場小学校=現桜馬場中学正門前の前の昭和風味の店舗のショー・ウインドウ)

 


 勿論実際に元とはいえ代官屋敷のような公的で広大な施設に隣り合わせて普通の民家が垣根越しに並んでいるってのは如何にも考えずらい。地図見ると、かつては一区画丸ごと占めていたのが容易に察せられる。日本で唯一の外国交易の特殊な長崎の特殊性を考えあわせれば尚更。
 只、明治維新以降事情は一変してしまい、小学校に大半の敷地を取られ、現在も学校北側に民家が隣接して並んでいるのから鑑みると、あながち丸ごと否定はできない。当然に、原爆後、既存の様々な様式が崩れてからのことかも知ないけれど、長崎でも珍しいくらいに平地部分らしく、垣根の上にまたがった老楠の枝伝いに垣根の上に降り隣家の庭に至るって構図は妥当なのだろうが、幾ら瓦葺き民家が大半 ( 長崎が他の街と違って昔から洋館等の比較的高い建物が海沿いに林立していた事を度外視しても ) だったろう明治中・後期といえども、垣根のちょっと上位で長崎湾の水面が望めたろうか。それなりに昇ってゆかないとあり得ない眺望ではなかろうか。
 僕的には、どうも物語の雰囲気としっくりしない。
 やっぱし長崎の大半がそうなように丘陵地・斜面に面した場所、僕的には春徳寺界隈。
 春徳寺の門前にも老楠が大きく枝を張っていて、そのすぐ下は石垣の崖。真下から民家が坂状に連なっていて、確かにそこからなら、葉叢の間から、遠く長崎湾の青い水面が覗けている。( 尤も、ちょっと石垣が屹立し過ぎてそこを伝って移動って訳には大人でも不可能。黒石の提示した空間設定とは大きく齟齬をきたしてしまうけど。)
 何よりも、この辺りは、美代子 (=三輪子) の実家のある場所でもあり、少年黒石が八幡神社の家から中島川=阿弥陀橋を渡って足繁く通った美代子と彼女を中心にした地元の遊び仲間の少年たち、例えば春徳寺住職の息子なんかとの少年期的記憶・憧憬の濃い場所に違いない・・・あくまで黒石の書いたものを基準にして考えた場合。
 こう考えてみると、やっぱし、黒石の脳裏に浮かんだ空間的記憶をあれこれ繋ぎ合わせて造形した空間世界ってとこだろうか。あるいは、他所の屋敷に移った後の数十年の頽落であったろうか。

 

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 ( 春徳寺門前。かつてトードス・オス・サントス教会廃棄の後、二代目長崎代官・末次平蔵によって立山町にあったのを移転。)

 

 

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 ( 春徳寺門前の石垣上の石塀と老楠。楠に昇らなくても長崎湾が望める。長崎には老楠が多い。向こうに覗けている白い建物が桜馬場中学=かつての桜馬場小学校 )

 

 

 それにしても何ゆえに黒石、幼なじみですらあったはずの高木少年の代官の末裔=神官である父親を、憎々し気な悪役に仕立てて、長崎異人少年不幸物語を作ったのだろう。
 一つの修辞として、演出として、少年黒石の不幸を際立たせるために、敢えて作り出したキャラクターなのか。
 それとも、実体験的な事件に根差したものなんだろうか。
 代官屋敷のある勝山町は、八幡神社境内の生地から西に五百メートルくらいの場所で、北東の同じくらいの距離に春徳寺があるけど、そもそも勝山町に黒石が住んでいたって寡聞にして聞いたことない。
 神官といえば、生地の八幡神社にも神主が居はしたものの、彼はけっこう黒石一家と付き合いがあったようで、《 俺の自叙伝 》で、幼時、黒石と遠縁の三輪子が許嫁の関係にあったのを、祖母の姉達が邪推したのを三輪子の母親が怒って破談にし、単身大阪( 自叙伝では東京 )に発ってしまったという秘話を京都・南禅寺で黒石に告白するエピソードでこう触れている。

 

 

 「 お前の祖母様の姉様と、八幡様の松西が、露西亜のお父様の財産が欲しいから、お三輪をあんたにやるんだと言ったから、妾は、そんな浅ましい女じゃない、この話は、こちらから打ち壊すと言って、間もなく大阪へ去って、以来杳然として消息をしなかったんだそうだ。」

 

 

 八幡様=八幡神社神主だろう松西。
 そんなプライベートな事柄にすら、黒石の家族・縁者と干渉できるような関係性からして、少年黒石・祖母に疎まれる筋合いもあり得ようもない。
 もし実際に代官(末裔)=高木と齟齬・軋轢が生じたのであったとすると、彼の子が黒石と同じ幼稚園の悪戯仲間ってところにそれを解く鍵があるのかも知れない。只、残念ながらてんで情報がなく、それ以上追及のしようがない。
 一体、長崎代官 ( の末裔 ) と黒石、如何なる軋轢的事態に陥ったのだろうか。
 

 

 長崎代官といえども維新以降は士族として一括され、明治も後期になると不平士族たちも淘汰・馴致され平民として様々な職業に就いていったようだ。百姓たちが嫌がった酪農業に進んだ士族も多かったようだし、神官職に就いた士族も少なくなかったようで彼等が国家神道を担う中核ともなったらしい。
 “サムライ商法”なんて言葉もさすがに姿を消していたろうが、凋落し没落していった士族の怨嗟・怨念はまだまだ列島のあちこちに残火の如く燻り続けていたろう。“四民平等”を謳い文句にした明治維新国家と国際都市・長崎を背景にした、そんな鬱々とした没落士族の表象としての代官・高木の、もう一つの対極としての“あいの子”=少年黒石との怨恨的相克という単純な図式が、しかし、黒石が意図したものであれ、そうでなかったものであれ、中々に面白く、悲壮が少年(世界)的フィルターを経ることによって悲哀物語となっている。

 

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 ( 春徳寺~シーボルト記念館など名所案内と地図。)

 因みに、福齋屋とは、現・福砂屋( 当時も同じ屋号 )と思われる。
 「 沖の石 」と砂糖菓子の「 水仙花 」が、当時の福砂屋の店頭に並んでいたかどうかは定かでないけれど、「 沖の石 」って現在でも列島中の和菓子屋に色んなバリエーションがあるようだ。基本、海面にヒョコッと頭を現した岩をイメージしたものらしく、宮崎が発祥らしい「破れ饅頭」のように粒餡を薄皮で包んだ饅頭。所々粒餡が薄皮を破るように出っ張らせたりして、ごつごつした岩肌を表現しているみたい。岩より石の方が語感が好いから石ってことか。当時はともかく、現在はいづれも廉価。
砂糖菓子の「 水仙花 」の方は、そもそも実在する菓子名かどうかが先ず定かじゃないのもあって不詳。けど、長崎の砂糖菓子といえば、仏前供物で一般的な「口砂香」か祝物の「金花糖」、茶道の定番菓子「 有平糖 」ってところで、はて、代官屋敷の井戸端に供えられていたのは、あるいは黒石が想定したのはいづれであったろうか。

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2019年12月25日 (水)

1989年の中国初旅

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 1989年8月といえば、その2ヵ月前に北京で起きた《天安門事件》の余韻まだ冷めやらぬ頃で、ソ連圏崩壊の時節でもあって、些かの緊張と初めての海外個人旅行という少なからずの蠱惑的期待感をもって、空路で上海に入った。
 尤も、当時西安やなんかで日本人旅行者が相次いで殺害された事件なんかが報じられてて、すっかり夜の闇に閉ざされ虹橋空港のターミナの外にチカチカ仄暗い灯に照らし出されてびっしり群がったタクシー運転手たちの顔々が一層雲助風味をかきたて、何とも禍々しいばかり。あっちこっちに突っ立った首からIDカードをさげた民警ならぬガイドのおばさん達が、運転手が差し出した免許証か証書を見て確認し、「この運転手は大丈夫 !」とばかりに相槌をうってはじめて不案内な客が彼のタクシー( 出租車 )に乗るようになっていて、僕もさっそくそのやり方に倣って無事ホテルに辿りつけた。

 

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 ( 青い羊に乗った老子が現れて教えを説いたという伝説にのっとった道観 )

 

 その初回の海外旅行では日記もつけず、途中の新疆ウイグル自治区の州都・ウルムチ( 烏魯木斉 )の《 新疆崑崙賓館 》備え付けの薄い便箋に認めた日程表だけが手元に残っているだけで、一ヶ月余りの旅の詳細は殆ど忘れてしまった。
 そもそも本来の目的はチベットだった。
 が、《天安門事件》の影響なのか、チベットには入れないという旅行代理店の話で、とりあえず麓近くの四川省・成都へ飛んで少し様子を見ることにしたのだが、どうも駄目のようで、結局シルク・ロード行=新疆・敦煌ルートを巡ることに変更した。列車でウルムチへ行くつもりが、折からの雨で宝鶏baojiあたりで線路が流され鉄道は不通ってことで空路にした。宝鶏周辺は難所らしく景観もなかなかのものらしかったので残念だった。
 
 ウルムチ→トルファン→敦煌→上海

 8月下旬に上海から四川省は古の都・成都へ空路に入り、1週間近く滞在したけれど、何処を廻ったなんかてんで覚えてない。交通飯店だったかの上階に毎日のように下から中国瑶滾(ロック)曲が響いてきたのだけはよく記憶している。
 それと剥き出しの人民厠(公衆トイレ)。
 朝なんてずらり中国人たちが石段の上にズボンを下ろし横一列に並び、それぞれ思い思いの排便的所作を展開しているのを眼の当りにして、最初は思わず後ずさりしたものだったが、次第に馴れてきた。現在も中国はまだあの“人民厠”方式を堅持しているのだろうか?
 

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 ( 諸葛亮孔明の祠。諸葛亮の諡号が武侯 )

 

 以前何処に留まったかの書付が残ってたはずが分からなく、実際に交通飯店に泊まったのかどうかも曖昧で、否、確か宿を途中で、川を挟んだ向かい側の宿に替えたような記憶もあって、最初は少し高めの錦城賓館だったのが他のパッカーたちに聞いて交通飯店に移ったのだろう。
 当時(おそらく当時以上に現在も)、《 九寨溝 》見学ツアーの看板・ポスターがやたら目に付いた。面倒そうなので僕は行かなかったけど、青羊宮や武侯祠なんかの近場の観光地には赴いた。青羊宮は老子を祀った道観(寺院)で武侯祠は諸葛亮孔明の祠。
 これもはっきりとした記憶は残ってなくて、川沿いにだったかずらり並んだ粗末な造りの土産物屋だけは覚えていて、以前何処かで書いた記憶あるけど、ある広い土間の台の上に土産品を並べた店に入ると、一人の小太りした服務員の小姐が佇み小さな声でずっと唄を口ずさんでいたのだけは覚えている。勿論軽快なポップスじゃなく、ゆったりとした歌謡の類で、日本の街角でもかつては幾らでもいたはずが、潮が引くように時代と共に居なくなってしまった。

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( 国際ハイウェイ・バスと銘うっているところが好い。)

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( ウルムチ→トルファンのバス・チケット。料金は7・3元となっている。最近だと45
元ぐらい。えらく値上がったものだ。)

 

 まだ高層ビルの類は殆どなかったけど成都は大都会(現在人口1600万人)でもあって、信号が変わると、朝の広い道路一杯に自転車の群れが怒涛の如く向かって来る様は一見の価値ありもので、あれには本当に圧倒されてしまった。八億だったか十億だったかの正に人民中国そのものの迫力だった。
 成都といえば四川料理の本場、が体調を崩していて、余り辛いものは遠慮させてもらった。街角の店々に担々麺の看板が並んでいて、見るからに辛そうな汁は別になっていて麺の上にかける方式のようだった。そのやり方は最近になってようやく日本でも定着し始めたようだが、僕はといえばもっぱら湯麺の担々麺ばかりで、未だかけ汁方式の方は喰ったことがない。陳家麻婆豆腐も、当時コックのバイトをしていた日本人留学生によると、あの辛さは“ 意地と面子 ”の産物らしい。現在の辛さ追求も一段落した感のある日本のついこの間までの激辛追及も根は同じなんだろうか。

 

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( 柳園→上海の列車のチケット。当時、敦煌には鉄道駅がなかったので、100キロ以上離れた柳園にバスで向かっていたけど、2000年頃に柳園から敦煌に名前が変わり、2006年に敦煌から10キロ近くに新しい敦煌駅が出来て、再び柳園駅の名に戻った。敦煌市内にはやはりバスで入るしかないようだ。)

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( 上海の老舗・上海古籍書店で何か買った時のレシート。余りに崩し過ぎた字でなんて書いてあるかさっぱり。老子の解説書か神話の連環画だったろうか。外汇とあるのは外匯で、外国為替=兌換券のことで、当時はFECと呼ばれていた外人専用の通貨。1980年から始まり、1996年に廃止。)

 

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2019年12月19日 (木)

令和の蠢動  海底探査船" たんさ "

 

 

 
 今朝ふと思い至ってレトロ岸壁に赴いてみると、果たして、薄っすらと朝靄でもかかっているのか、プレハブ・カスタムの向こうに妙な具合に何本もの黒い煙突を聳えさせた船舶が係留しているのが覗けた。
 近寄って見るにつれて、今まで見たこともない形をした、客船とはあきらかに異なる種類の、つまり作業船の類だとわかりはじめた。
 地上七、八階建てのビルに相当する高さで、先ず前方にその黒く細身の煙突が大小合わせて八基も連なっているのが意表をついた。船首に《 たんさ 》とだけひらがなで記してあって、まさか時節柄、逆読みの“サンタ”じゃあるまいなと訝ってしまった。
 しかし、妙に広く明るい操舵室ではあるものの、ごっつい船体、様々な設備が所せましと積載してあるのをみるにつけ、如何見ても“探査”の“たんさ”なのは了解でき、丁度カスタムのバリケードの向こうの岸壁のところで、何人かが作業をしているところだった。

 

 

 岸壁と船の上、唐突に船体側面から突き出た作業用のウイングにも白いヘルメットに作業着の乗組員たちも船体と岸壁の境目の、吊り下げられたロープの降りた一点に集中していた。後でそれが離岸のための、船体と岸壁の間のクッション材たる真っ黒く大きな俵型の防舷材引き上げ作業だったのが分かったが。
 大きな船の離接岸ってけっこう作業が大変なようで遅々として時間がかかるのは知っていたので、バリケート沿いに全体を眺め、カスタム岸壁の後方端から後部を確かめてみると、思った以上に幅が広かった。その上はヘリポートになっているようだったけど、船体自体は上部にワイヤーかなんかを通すリールがいっぱい横に並んでいた。てっきり、海底ケーブルを敷設する船と決め込んでしまった。以前、そんな、やっぱりごっつい船体の作業船がつい数か月前に停泊していたからだ。そのケーブル敷設船すら、両側に船体をこえて出っ張った作業用のウイングなんてなかったはず。

 

 
 ところが、家に戻ってネットで確かめてみると、海底の地質構造を立体的に調べる三次元物理探査船という何ともいかめしい名の探査船なのがわかった。後尾からエアガンという機器を流しそれが音波を発して、それとは別に、先述した上側に設えられたリールから海に長々と流されたケーブル(ストリーマーケーブル)のセンサーで海底やもっと下の地層にまで達した音波を受振し、そのデータを採取するという。
 要は、政府肝いりの業界と合同で行う海底資源開発の一環ってところのようだ。
 北海道側は近隣国との合同・共同開発なのが、南の沖縄近辺にはいろいろと様々な地下資源が眠っているようで独占的って皮算用らしい。
 本末転倒的な限りなく無駄を輩出し廃棄物の泰山富士山の連綿をごり押しし尽しての昨今の救いようの無い現況にもかかわらず、他惑星から海底の底まで、一向に反省することもなく私利私欲のためにのみ貪りつづけようとするとっくに破綻し尽した資本主義。
 グレタちゃんが唾棄してみせる由縁。

 

 

 残念ながら、手ぶらで偶々見つけたので、写真は撮れなかったが、ネットにはビデオすらアップされている。
 因みに、この《 たんさ 》号、十月に竣工式を終えたばかりで、このプロジェクトには、日立とともに日本郵船も加わっている由。

 

全長102メートル、幅40メートル、13782トン。

 

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