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2007年10月の42件の記事

2007年10月31日 (水)

ココシリ 可可西里

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   暗く果てしない曠野と白雪に蔽われた山塊、標高五千メートルのチベット高原、その一角に位置するココシリと呼ばれる広大な禁猟区。
 
 そこに嘗ては百万頭も生息していたチベット・カモシカが、乱獲・密猟のためにたった一万頭に激減してしまい、絶滅の危機に陥ってしまった。その改革開放的惨事に敢然と起ち上がったチベット(少数ながら漢族も居たらしい)人自治巡回隊と密猟者達との死闘。
 
 こんな環境保護団体的言辞を並べ立てると、何とも詰まらぬ、文部省選定の駄品と決めつけられかねないが、映画自体は、実在のモデルを元に作られたものらしく、正に極限世界の男達の文字通りの「死闘」が展開されている。

 このパトロール隊が結成されたのは、1990年代に入ってからという。僕等が呑気(まあ、これを云うと切りがないが)に中国やまだ限定されたものではあったがチベットを旅している時、チベット高原の一角では、そんな暗闘が繰り拡げられていたのだ。僕はそのことに些かショックを覚えた。
 中国政府のチベット弾圧は知っていても、そんな密猟者達との死闘は知らなかったから。
 密猟者の多くは貧困が原因という。劇中老爺が零す、業者に安い賃金で雇われているに過ぎない、と。

 如何にもしょぼくれた感じの老爺も捨て難いが、やっぱり主演の隊長リータイ(日泰)役のド・ブジェが何とも雰囲気が好い。洗練されたカン・パって感じと謂ったところだろうか。

 あんな五千メートルの高原世界を密猟者達を追って突っ走るシーンがあった。隊員の一人が肺気腫になってしまうが、大部標高の下がるラサのポタラ宮前の短い坂道を昇った時ですら、可成りしんどいかった、と日記に認めてあったのを思い出した。同行の青年も、他のチベタン達すらも。

 リータイの前の二代の隊長達も殺されていて、三人目のリータイも最後に射殺されてしまう。そんな犠牲の上で漸く二万頭ぐらいに回復したらしいけど、何しろ「改革開放」とは「資本主義化」なので、何でも有り。西側からの需要は常に有り続けるだろうから、はてさて・・・。

 可可西里、是天堂、是地獄、還是見証生命与信仰的聖地?

 リータイ(日泰): デュオ・ブジェ 
 ガ イ     : チャン・レイ
 リ ウ          : キィ・リャン
 ロンシェ    : チャオ・シュエジェン
 
 監督 : 陸 川
 制作 : 王中軍
 脚本 : 陸 川
 
  制作 華誼兄弟太合影視投資有限公司
    コロンビア映画(アジア)               2004年作品

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2007年10月26日 (金)

シャリマール 甲斐大策 : 旅先の本

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 旅先で読んで、その本乃至は作家のファンになるということは頻(よ)くあることだろう。一人だけ、僕にも居た。
 それはもはやバック・パッカー史に刻印され、無くなってしまったパキスタン・ペシャワールの新市街と呼ばれる一角に、有名なグリーン・ホテルと同じ並びに在った《カイバル・ホテル》のドミトリーに、お決まりの「深夜特急」や「大菩薩峠」と一緒にテーブルの上に積まれていた。
 
 甲斐大策《シャリマール》という唐草模様の装幀の施されたハード・カバーの短編集であった。そのドミに居た娘が、「あれ読みましたー、何か凄いですよねー」と苦笑しながら推奨して呉れた。

 《グリスタン 花園》というタイトルの短編の一つで、タジク族のムザッファルという身寄りのないカバーブ作りの巧い少年が、カブールから北のあっちこっちのチャイ屋を遍歴しながら腕を磨いてゆき、 ある日、ソーサンと云う名の女乞食と出遭う。
 次第に恋情が芽生え、互いに惹かれ合うようになってゆく。その女は、マジュザムとかコリーとか呼ばれる癩者だった。ムザッファル自身も幼い頃の記憶の断片から自身も同じマジュザムかも知れないと長い間疑っていた。
 そんな冬の近づいてきた砂塵を舞挙げる強風のある日、チャイ屋でカバーブの焜炉の準備をしている時、ひょんな事から自分の手が焼けているのに気付かず、傍に居た見習いの少年に危うく助けられてしまう。感覚の麻痺が始まっていたのだ。
 やはり、マジュザムであったことを悟り、直ちにそこを退ち、ソーサンとその幼児、驢馬と犬と伴に長い当処もない流浪の旅に出る。
 正に、巡礼の旅であった。聖地から聖地へ。
 やがてソーサンの病状が末期に至り、とある大きな水溜りに浸かったソーサンが辛うじて呟く。
 「グ リ ス タ ン」(花園) 
 折から降り出した霰が周りの樹木の白い小さな花共々に、あたかも純白の花の咲き乱れた花園の如く映じたのであった。ムザッフアルはその水溜りの中で、初めて彼女と交合した。熱い、全てが熔解してしまう灼熱の一瞬。

 倒錯的なまでのロマンチシズムに全編貫かれている。
 
 この《シャリマール》自体は、副題に、「シルクロードをめぐる愛の物語」とある通り、必ずしもアフガニスタンばかりが舞台じゃないけど、それまでに、アフガンを舞台にしたり、アフガン人達を主人公にした小説なんて皆無と謂ってよかった。甲斐大策も他に誰も書いてくれないから自分で書き始めたのだろう。彼の出自の旧満州の曠野がそのまま、アフガニスタンまで連なっているのだ。

 《餃子ロード》のあとがきに次のようにある。

 「ずっとアジアを旅している。
 十一歳の時、北九州の宗像の、玄海に面した福間という小さな町に引き上げてきたのだが、戦争末期までは父に伴なわれ、遼東半島各地や北京とその北を旅していたらしい。
 十代は九州の山々を、二十代は関西を主に本州を歩いた。
・・・三十代に入り、自分の意志でアジアの旅がはじまった。
 アフガニスタンが起点になった。
 その後三十年、大陸の旅はつづいている。というよりはじまった、と思う気持が強い」

 彼の他の著作には、彼自身や画家である父親の巳八郎の挿絵や装幀がアラベスクに描き込まれていて、彼のアフガン等に対する強い思い入れが伝わってくる。
 
 九十年前後に参入したパッカー達にとって、アフガンはイエメンと並んで憧れの聖地だった。ムジャヒディーンは余りに政治的に過ぎ、単純にトルハムやチャマンからアプローチしようとあれこれ試行したりしたものだ。そんな時代の不滅の金字塔であったろう。 

 ◆ 生命の風物語            (トレヴィル)
  ◆ シャリマール
 ◆ ペシャワールの猫
 ◆ 神・泥・人 アフガニスタンの旅から (石風社) 
 ◆ アジア回廊(+甲斐巳八郎)
  ◆ 餃子ロード
  ◆ 聖愚者の物語

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2007年10月24日 (水)

キングダム  憎悪と殺戮の大地

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 男半額というので観てみた。
 ジェイミー・フォックス。トム・クルーズと共演した《コラテラル》が雰囲気が有って面白かったので、ちょっと前、中東だったか、アフリカだったか、彼の主演した米軍侵攻物を観たことがあった。
 やたら宣伝していたアフリカを舞台にした《ブラック・ホーク・ダウン》並のクズ映画だった。あれなら、インター・ネット・ゲームの《カウンター・ストライク》でもやっている方が遙かに増し。それで、この手の物は敬遠していたけど、ポスターに《コラテラル》の監督マイケル・マンの名が有り、あれっと思って一分の可能性を見出し、駄目でも半額。やっぱし半額というのは怖い。

 サウジアラビアの首都リャド郊外で爆弾テロがあった。
 石油関係の外人居留区で、偶然FBI要員も爆死。
 それに憤慨した爆死した男の四人の同僚FBIが、政府の意向に反してまでも強引にサウジに乗り込む。
 最初は地元の警察と行き違いが多かったものの、次第に捜査が進むに連れて意志の疎通も深まってゆき、最後に、サウジ王室に敵対するイスラム原理主義組織アル・ハムザのアジトに突入、首謀者を射殺。
 現地警察の隊長アルガージー大佐は死亡するが、FBIの四人は無事生還。
 
 ラスト・シーン、ジェイミー・フォックスが爆死した同僚の死を嘆く女FBIのジャネットをなだめた時の言葉「必ず犯人輩を皆殺しにしてやる!」が明かされ、それに照応するようにアル・ハムザの首領が家族の前で銃撃され、息をひきとる時小さな孫娘に囁いた言葉「悲しむな、きっと仲間が仇を取ってくれる!」の提示。
 憎悪と暴力の果てしない円環。
それをテーマと謂うより口実にして肉付けをしたって処だけど、その一点で、辛うじてこの映画は、軍産複合体翼賛映画に堕さずに済んだんだろう。

 ストーリーの展開はお決まりの図式以上に出ない。所詮ハリウッド映画だ。でも、アクション・シーンはスリリングでリアルな迫力があって面白い。「トゥモロー・ワールド」や「ブラッド・ダイアモンド」等アクション・シーンがやたらリアリティがあって、臨場感に溢れている映画が最近増えてきた。肩に担いで撃つ対戦車ロケット弾RPGの写し方がネックなのかも知れない。 

 CAST 
 フルーリー  : ジェイミー・フォックス
 ジャネット  : ジェニファー・ガーナー
 グラント   : クリス・クーパー
 アダム    : ジェイソン・ベイトマン
 アガージー大佐: アシュラフ・バルクム

 監督 : ピーター・バーグ
 制作 : マイケル・マン
 脚本 : マシュー・マイケル・カーナハン
 制作 ユニバーサル  2007年作品

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2007年10月19日 (金)

ヒンドゥークシの谷間の異郷 カラシュ族 : パキスタン

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 パキスタン北西辺境州の山間に、アフガンのヌリスターンと連なってカフィリスターン(異教の郷)と呼ばれる地域に、少数民族カラシュ族が細々と棲んでいる。嘗ては宏大な地域に自らの国を持っていたらしいが、日本のアイヌ族と同様、次第に辺境に追いやられ、今では人口二千人と殆ど絶滅寸前にまでなってしまっている。

 アレキサンダーの東征時の子孫という伝承があるらしい。
 カラシュの女達の衣装や習俗って、可成り相似してヨーロッパから北海道のアイヌ達まで広範囲に渡って帯をなしているように想えるけど如何なんだろう。
 
 僕がブンブレット谷を訪れたのは、丁度1991年の正月だった。
 チトラールから乗り合いジープで15Rs(ルピー)。
 チェック・ポストまで歩いている途中、ペシャワールのカイバル・ホテルに居た顔見知りと出遭い、そのままチェック・ポストにリュックを預け、ルンブールの葬式に一緒に連れ立って行った。

 カラフルな刺繍の黒い長衣や宝貝をビーズのように縫い連ねた独特の冠り物の娘達と一緒に白雪の残るブンブレットの谷を下っていった。娘達は雪の斜面の細い路で皆滑って転びキャッ、キャッと笑い声をあげて下まで滑降してゆき、僕等もやっぱり滑ってしまい下の地面まで滑り落ちていった。それを見て、娘達は更に大喜び。

 男達が太鼓を細い鉢で打ち鳴らし、時折カラシニコフを上に連射して盛り上げながら、遊牧民風に舌を使って叫声をあげ、一晩中踊り明かす。時計の針状に何重にも互いの肩や背に手を遣って横に並びあるいは両手を挙げて舞ったりして時計方向や突然逆方向にも廻る遊びの要素も組み込んで踊り続けた。勿論僕たちも幾度もその輪踊りに参加した。
 翌朝十時頃少し高くなった処に埋葬の後、ナーン、チーズを溶かして蜂蜜をかけたものと山羊の肉のご馳走にあづかった。只、山羊肉は山岳の常で淡泊味、僕の好みではなかった。

 ブンブレット谷のカラシュが営むカラシュ・ビュー・ホテルに投宿。例のカイバル組が既に泊まっていて、冬場で野菜などが乏しいせいか、食事は毎日ジャガ芋ばかりと愚痴をこぼしていた。K君の話では、葬式・祭りの類は、村ではめったに食べれない山羊の肉が食事に出るんで皆喜んでいるらしく、そのK君自身も正にその口らしかった。

 黒衣の成人女性が、手にルピー札を片手にして、イスラムの入植者達のある一軒の店先で、じっと思案気にしばし佇んでいた姿が印象的で今でも覚えている。

 フンザ等と同じように、泥と材木で作られた家の平らな屋根の上は、子供達の遊び場でもあり、小娘達が布を誰かの頭に覆いかぶせる鬼ごっこをして遊んでいる光景を、時空の破れ目の向こう覗けた異郷の如く眺めていると、一人の小娘に自分達では手の届かない軒先の氷柱を取ってくれとせがまれる。取ってやると、アイス・キャンデーのようにしゃぶり始めた。すると他の小娘もねだってくる。
 昔の仙人は霞を喰って生きていたらしいけど、カラシュの小娘達は氷柱をおやつにしている。

 今ではもっとだろうが、その頃でも、陽当たりの好い丘の上や斜面には先住のカラシュ族が住み、麓にパキ人の入植者達がどんどんと住着き始めていた。ゲスト・ハウスの類も、イスラム住民の営っている処の方が、造りも食事も好かった。

 カラシュ・ビューが暗いので、K君と一緒にパキ人のフロンティア・ホテルに移った。

 あちこちに彫り物などしたカラシュの民家の一室を部屋にしているカラシュ・ビューと相異して、 何の情緒もない只のパキ宿って処であったが、それでもケロシン・ランプと薪ストーブの生活はそれなりに雰囲気はあった。食事付きで50Rs。夕食は、豆ご飯とボイルドしたジャガ芋、ゆで卵一個、ナーン、それに薄いチャイ。
 
 外は白一色。トイレも凍っていて、ふと真上を見上げると、夜空一面にくっきりと星々が燦然と輝いていた。

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2007年10月18日 (木)

西便制(ソピョンジェ)   《恨》

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 韓国映画は余り観ない。
 半分はレンタル屋で借りた物で、最近借りた《漢江の怪物》以外、詰まらぬ物ばかり。後は国内販売の廉価版とYESASIAで買った物数枚。
 
 これは韓国で記録的大ヒットした有名な作品らしい。
 大型予算映画ではなく、寧ろ地味な作品だけど、何度観ても面白い。
 昔、ヨーロッパの映画で、《旅芸人の記録》って映画があった。あれとは些か趣が異なっているが、岩下志麻が主演した《はなれ瞽女(ごぜ)おりん》ともちょっと違う。

 パンソリ、韓国を代表する芸能の一つらしいけど、旅芸人達が表演してきたものとは知らなかった。一昔前、チョー・ヨンピルが日本で流行った頃、パンソリの名も日本人の人口に膾炙するようになった。
 パンソリは、地域的に三つに分けられ、簡単に云えば、女性的な西便制、中世的な中便制、男性的な東便制となるらしい。
 パンソリは、基本的に、唄手と鼓手の二人で構成され、唄手は唄いながらも手振りを入れたり、語ったりし、鼓手は太鼓を叩きながら相の手をいれたりする。

 中央のソウルの歌舞団の団長の女に手を出し、歌舞団を追出され、村から村へと流浪してゆくユボン(金明坤)。孤児男女二人を唄手と鼓手に育て上げようと引き連れ旅を続ける。
 やがて、二人は成長し、鼓手の青年ドンホ(金圭哲)が貧しさと先行き不明の流浪に堪えられなくなって逃げ出す。そのショックで唄手の娘ソンファ(呉貞孩)は唄えなくなり寝込んでしまい、師匠ユボンは仕方なく一人で唄を唄って病の床についた娘を看病し面倒を看る羽目に。
 娘にまで逃げられたくないのと、娘の唄に今一つ足りぬものを感じていたユボンは、それを《恨》だと云い、娘から視力を奪う。
 
 あれだけ厳しい流浪生活を続けてきたにも拘わらず、娘は心の内に、暗い怨念めいたものすら抱くことがなかった。生活が苦しくとも、その流浪家族の中の愛情に満ち足りていたのだろう。そんな「純」な心で・・・
  

  純・・・恨・・・超恨

 この映画で一番印象に残るのは、やはり、延々と長廻しで村外れの細くうねった路を、家族三人で荷物を背負ったまま、睦まじく唄い囃しそして舞いながら、ゆっくりと進んでゆくシーンだろう。

  アリ アリラン  スリ スリラン
  アラリーガー   ナンネー  

 所謂「アリラン」とはテンポが異なる。
 あんなしっとりとして静かな曲ではなく、もっとエモーショナルで次第にテンポが速くなってくる。アリランには無数のバリエーションが有るらしく、これは珍島アリランのバージョンらしい。
  
 このシーンは、しかし、映画の流れから見ると一見不可解だけど、往々にして家族とはふとそんな親和力に溢れた一瞬があるものだ。あるいは、逃げ出したドンホが、己の希求した「家族」を幻視した光景なのかも知れない。                            

 ユボン  : 金明坤
 ソンファ: 呉貞孩
 ドンホ : 金圭哲

 監督  : 林権沢
 脚本  : 金明坤
 音楽  : 金秀哲
 
 制作  1993年作品

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2007年10月15日 (月)

イランの難事(トラブル)

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 災難とは如何んな処で降ってくるか分からない。
 とりわけ旅行者には、絵に描いたような難事(トラブル)が憑きもののようである。

 モサーフェル(旅人)を歓待する国イランは、しかし、国情を反映してか、権力関係がらみのトラブル、以前はコミッティ(革命委員会)、その後は警察になったようだが、現在は如何なっているのだろう。

 インド→パキ→イランとあっちこっちで顔を合わせた日本人青年の一人が、テヘランで、街中で知り合ったイラン人に親切にされ、彼のバイクであっちこっち街中を案内して貰った。
 頻(よ)くある話だ。
 と、ある通りで、突如警官に呼び止められ、二人とも警察署に連れて行かれた。これも又イランでは頻くある話だ。けど、彼の場合、些か事情が違った。
 こともあろうに「スパイ罪」の嫌疑をかけられたのだ。
 パキ以東なら、バクシーシ狙いってことで、金で何とかなったであろう。だが、イスラム原理主義国イランでは、可成り様相が異なる。
 二人は必死で自らの無実を訴えたらしいけど、結局、留置所に放り込まれた。三日ほどして漸く解放された彼は、逃げるようにイランを出国し、日本に帰国した。
 二度と旅なんてしないぞ!!と、吐き捨てように。
 彼が留置所に入っている事を知る日本人は一人も居ず、それもスパイ罪。正に孤立無援を絵に描いたようだったろう。インドやタイとは又違う「イラン」独特の恐怖に苛まれながら。
 下手すると、容疑は異なるが、《ミッドナイト・エキスプレス》になるところだった。
 僕も、街中やテヘランのバス・ターミナルで、警官に因縁をつけられ、派出所等に連れて行かれたりした。けど、そこで直ぐ追い返された。
 テヘランの"テルミナーレ・オートブス"じゃ、長髪に髭の偉いさんから人相の悪いスキン・ヘッドの下っ端までもが、アメリカ映画の刑事物に出て来そうな面構えばっかりだったのには笑てしまったが。
 
 

 これは、旅先の現地のトラブルの話。
 タブリーズからウルミエ方面に向かう途中であったか、とある小さな集落の近くに乗っていたバスが止まった。
 僕は一番後部に坐っていた。後部窓から、その背後の通りを眺めた。
 と、何か雰囲気がおかしいのに気付いた。そこは頂度カーブになっていて、道路側に一人の鳥打ち帽を被った中年の男が立っていた。その数メートル先の歩道で地元民らしい親爺達が何人も気色ばんだ貌をして、その男に何か罵声を浴びせながら、小石を投げつけていた。強くぶつけるというより、威嚇するように。が、一人の肥えた親爺さんだけは、大きな岩を頭上高々と抱え上げ、その男めがけて投げつけた。岩は男の足下に転がった。
 狙われた男は血相を変え、慌てて、走って来て一時停車した乗用車に、ボンネットを叩いて、「乗せてくれ」というような仕草をしたものの、どの車もただならぬ気配を察してか、急いで走り去っていった。
 
 そこから数メートルしか離れてない歩道に、
自動小銃を構えた兵士が一人歩哨に立っていて、親爺達はその兵士に何か訴えていた。彼一人では事態の掌握が出来ないようで、銃口を上に向け、バスの進行方向の二十メートル先に立っていた別の兵士に知らせようと、引き金を引いた。
 ところが、バスや他の車の音に紛れるのか、その件の兵士は振り向きもしなかった。兵士はえらく焦ってしまって、一体如何するんだろうと眼を皿のようにしていると、バスが動き始めた。
 僕以外の乗客の誰一人として、窓硝子一枚後ろで起こっている尋常ならざる出来事に気付く者は居なかった。バスはそのまま次第に加速してゆき何事もなかったかのように一路目的地に向かって走り出した。
 
 あれは一体何だったんだろう?
 今だもって定かでない。場所的にはクルドの地域だったので、ひょっとしてあの男は、イラク人だったのかも知れない。けど、確かあの辺りは結構互いに行き来があるようにも聞いていたし、イラク人というだけで、襲われるとも思えないんだが・・・

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2007年10月13日 (土)

夜宴 (女帝)

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 アジアで今シェイクスピアが流行っているのか、如何も僕としては
今一つ面白くない。別にマイナー指向って訳でもないけど、ジョージ・オーウェルは読んでも、シェークスピアなんて鳥肌が立ちそう。王宮=権力なんて世界の何処でも同じ。権力闘争に明け暮れ、親殺し・子殺し・兄弟殺しは他の追随を許さぬぐらいに紀元前から延々と続けられてきた。DVDはYESASIAで発売になってすぐ買ったが、スクリーンでは、つい最近地元の名画座で観た。

 今夕何夕兮    搴舟中流
 今日何日兮    得與王子同舟
 蒙羞被好兮    不訾詬恥
 心幾頑而不絕兮  得知王子
 山有木兮木有枝  心悅君兮君不知

 越人歌として昔から有名らしい。
 これが何度もその都度歌手が違って流れてくる。曲が好く、それぞれの場面で情緒を際だたせてくれる。
 
 僕は一番最初にDVDで観た時、アクション場面はさすが袁和平と感心しながらも、映画自体は何かもう一つの感は否めなかった。
 ところが、やはりあの最初の、先王の皇子・無鸞(呉彦祖)が恋人章子怡扮する婉児を先帝である父親に取られ、失意し呉越の地に隠れ歌舞に耽溺三昧、その竹林の館に、先王を毒殺した先王の弟の現王の暗殺団が襲撃するシーンは、越舞踊と衣装共々に舞台設定がかなり凝っていて、袁和平のワイヤー・アクションも面目躍如。この映画一番のハイライトで、この場面見たさについ棚のDVDに手が出、終わりまで観てしまっている内に、すっかり馴染んでしまった。
 権力・軍人は黒、歌舞・文人は白という実に分かり易い対比。
 特に軍人の黒光りした甲冑と、越舞人のネーチャー志向の象徴のような麻の衣服と白い紙面の対立は際だっている。
 
 しかし、二代にわたる皇后・章子怡が、皇子と再会した時、皇子の背負っていた剣筒の中の越女剣を手に、突如皇子と演武を始めだしたのには、さすがに唖然としてしまった。越女は武芸に通じる者多しらしいけど、何としても世界のファンがチャン・ツィイー=娘剣士というお決まりを求めているのだろうか。
  
 悪役の励帝は、奪い取った実の兄の嫁・婉后の裸体をマッサージしたり、最後に婉后が彼を毒殺しようとしたのを知って毒の入った酒を自ら呷って裏切った最愛の婉后の膝の上で死んでしまう。これはもう、葛優(グー・ヨウ)の役処であろう。その耽溺振りでは、美しく若い婉后が欲しくて実の兄を殺したに違いない。

 DVDのカバーのコピー

 千年一宴   百年一歌   江山紅顔欲難解

 婉后 : 章子怡
 励帝 : 葛 優
 皇子 : 呉彦祖
 青女 : 周 迅

 監督:      憑小剛    
 美術 :      葉錦添
 音楽 :      譚 盾
 アクション監督: 袁和平
 
 制作 寰亜電影  2006年度作品

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2007年10月 9日 (火)

イラン  コジャー・ミ・リ(何処行くの)

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   最近のイランは如何なってるんだろう。
僕が最初にイランを訪れた時は、まだ、パキ同様ノー・ビザであった。 バンコクからカラチ経由で入った。
 同じ飛行機に、スカーフにレインコートの清楚で美麗な娘が乗っていて、旧い使い古したカメラ・バッグを肩から提げていたのが印象的であった。髪はブロンド系。アゼルバイジャーンであろうか。

 テヘランでは、バンコクでコックをしていたアリ氏の実家に世話になった。街中の間口の狭い三階建て。久方振りの家族の再会で、彼の弟も涙を流して喜んでいた。イラン人はまだ家族的絆が強く純情なんだなってつくづく思わさせられた。家族は僕も歓待してくれ、マシュハド行きのバス代すら払ってくれた。まさか、イラン初日から庶民の民家に泊まる羽目になろうとは想像だにしてなかった。

 アフガン国境近くの聖地マシュハドでは、街中で知り合った旅行エージェント氏の家にやっかいになった。
 彼の家にタクシーで向かう途中、執拗に僕の肩に腕を掛けてくるので、僕はそっちの趣味はない旨伝えやんわりかわすと、彼も大人で、二度とそんな挙に出ることはなかった。彼の老いた母親と二人の小さな中庭つきの家には二、三日泊まった。
 彼は以前はレスリングをやっていたらしく、イランの古式レスリングのジムにも連れて行って貰った。彼はホメイニー体制に批判的で、長いチャドルは埃やなんかを引き摺ったりして不潔きわまりないと嫌っていたし、チャイを飲む時イラン人が氷砂糖を一緒に囓ったりする風習をイラン人に多い糖尿病の元凶だと批判していた。
 
 シーラーズでは宿は普通の安宿に泊まっていたが、ある学生にペルセポリスに連れて行って貰った。彼は昼食用の豆の缶詰すら持参していた。そしてそれをペルセポリスの他に誰も客の居ないレストランで、皿とスプーンを持ってこさせ、チャイぐらいしか注文しなかった。レストランでそんなんで大丈夫かいなとこっちが気にしてしまったが、当の学生はこれが当たり前と云わんばかりに堂々としたものだった。その少し大きめの豆は薄く甘味がついていて仲々美味かったのを覚えている。
 で、彼の家族が住んでいるアパートに案内されたが、彼は中産階級の様で、マンションといった趣。室内に入ると、一人若い十代中頃の娘が勉強していた。彼の妹らしく、ぞんざいにこんな処で何してるんだと云うと、連れの客が居るのを知って、慌てて隣室に駆け込んだ。そういえば彼もイケ面だったが、その妹も可愛い美人で、一緒に話でもと思ったものの、イランでは御法度。
 彼の母親はもろ中産階級然としていて、あっちこっち海外旅行をしてきたらしく、中国だけは絶対二度と行きたくないと露骨に顔を歪めた。北京の胡洞あたりで漂ってきた糞臭に怖気をふるったようだ。
何しろ二千年以上前のペルセポリスには下水道が張り巡らされていたお国柄であってみれば、当然の事かも知れない。
  彼は自分は純粋のイラン人と自負していた。ペルセポリス=ザルトーシュト(ゾロアスター教)の「アフラマズダー」を何度も繰り返していた。胡乱なことに僕は、彼がゾロアスター教徒なのかどうかを確かめることをしてなかった。インドにはイランから移民してきたゾロアスター教徒(パールシィー)が結構居るようだし、ボンベイの中心地なんかそれをあしらったビルを見かけたこともある。

   その後何回かイランに行ったけど大体僕が会ったイラン青年の大半は一応に聖職者を嫌っていた。タブリーズのある青年なんか露骨に前を歩いている聖職者を指差して、
 「He is a Badman!」
と罵った。彼の父親は元「将軍」ということだったけど、彼の一人住まいの下宿は貧相で、彼に言わせると、
 「イランの軍隊には将軍なんて腐るほど居る!」。 
 一度だけその鼻髭を蓄えた父親と遇ったことがある。尊大さなんて微塵もなく、初老の何か侘びしさすら感じさせる静かな人であった。
 その彼に、吟遊詩人が表演するチャイ・ハネ=喫茶店に連れて行って貰った。四方の壁際に椅子とテーブルの並んだその店で、中年太りしたトルコ帽みたいな帽子を被った親爺さんが、イラン語で延々と何か云いながら、時々、拍子を取るように、「神は偉大なり」「ホメーニー万歳」と客も唱和するのだけど、青年の中には結構嫌な顔をする者も居た。

 イラン人の家に泊まれたのは最初の一回目だけ。
 二回目以降は、僕の形(なり)がバック・パッカー然としてきていて警戒された可能性もあるが、ビザ=移民労働のギクシャクした関係が影響してもいたのだろう。

 テヘランのヒルトン・ホテルの上階にあるフランス・レストランに一度前年来たことがある日本人と連れだって昇ったことがあった。
 ヒルトンのレストランなんて今後ももうないだろうと後学のために
と同道したのだが、まぁ、こんな処なんだなーと予想通りの佇まい。広く高い窓硝子の向こうにテヘラン市内が一望できた。
 前年彼は他の仲間と一緒に、安いイラン・リアル料金で、向こうから散発的に弧を描いて飛んでくるイラクのミサイルが街中の何処かに落ちてゆくのを眺めながら、フレンチのコースに舌鼓を打っていたと云う。フレンチ・ワインの肴の如く。
 確かに、堕落したブルジョアジーの趣。ヨーロッパ映画の一光景を想わせる。

 イスファハンのオールド・バザール

 当時あっちこっちに見られた朽ちた一角。

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2007年10月 6日 (土)

モト・サイ

Motosai

  昔はいざ知らず、少なくともバンコクでは、オートバイの荷台に客を乗せるバイク・タクシー、通称モト・サイは、市民の脚というより、急ぐ時の特別な乗り物ってところであろう。
 迷惑そうにヘルメットを被ったOL達がすらりとした脚を覗かせて横様に後部シートに乗っているのを頻(よ)く見かけるが、結構事故が多いという。渋滞した車の狭い隙間を縫って走るからだ。車のちょっとした出っ張りに脚をぶっつけて転倒しかねず、思わず両膝をバイクにくっつけてしまう。
 僕の場合は、せいぜいカンボジア大使館に行く時ぐらいしか使わない。更に、そのカンボジアに入国すべく、クロン・ヤイから国境事務所のあるハート・レックまで、殆ど無人の綺麗に舗装されたアスファルト道路を疾走する時。右側に青い海を眺めながら走るのは悪くはないけど、ちょっと怖い気も。

 一歩カンボジアに入ると、街の中は、モト・サイ(バイ・タク)で溢れている。プノンペンなんて、何処に行ってもモト・サイだらけだ。余り職のないプノンペンじゃ、一日中汗を流しながらペダルを踏み続けても儲けは知れているシクロより、やっぱりモト・サイの方に走るんだろう。
 プノンペンも以前に比べて大部道は好くなってはいるが、まだまだ悪路が多く、バスが走ってればそっちを選ぶ。
 現地の人達にトッテ、モト・サイは高いのか如何なのか(安いとは思えない)、キャピトル・ホテルから空港まで1ドル弱が現地人相場らしい。外人料金は底なし。
 僕もたまに知り合った現地の人に教えられ、それで空港まで行ってみると、果たして、1ドル弱で問題なかった。運転手は当たり前の顔をしていたし。キャピトル・レストランの周りに屯しているモト・サイの運転手では有り得ない。下手すると10ドル以上吹っかけてきかねない。

 今までで一番長くモト・サイに乗ったのは、カンボジア-ベトナム国境のモク・バイから、サイゴン(ホー・チ・ミン市)市内まで。さすがに尻が痛くなったが。
 最初に乗ったスーパー・カブは随分とくたびれていて、走り出してからそれに気付き暗澹としてしまった。。ところが、それは運転手も同じ事のようで、少ししてから、彼の知り合いらしいもっと新しい小綺麗なホンダに乗り替えらさせられた。これなら大丈夫と安堵した。それでも尻が痛くなり、途中一回僕の方からカフェで休憩を求めた。
 
 サイゴン市内に入ると、凄いホンダの波。
 ロータリーになった処で、何台かが台風の眼の中に取り残されていて、容易に出れないのに業を煮やし、老夫婦の乗ったホンダが強引に、ぐるぐる廻っている波の中に突っ込んできた。老夫婦は転倒、僕の乗ったモト・サイも転倒した。幸い誰も大した怪我はなく、僕等は先を急いだ。
 その時たまたま僕がハードなトレッキング・ブーツを履いていたから好かったものの、普通のスニーカーやサンダルだったら、もろにぶつけられたので如何なったか分からない。

 
 それでも、時代は刻々と移り変わり、最後にプノンペンを訪れた時、僕の乗ったモト・サイの運転手が、信号待ちで止まったと思ったら、ポケットから、何と携帯電話を取り出した。慣れた手つきで、会話を始めた。傍に止まった他のモト・サイの運転手が、まじまじと物珍しそうに見遣っていた。
 やがて、プノンペンのモト・サイの運転手達が、タイ並に携帯電話を手にする日がやって来るだろう。シクロの運転手の方は定かでないが。

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2007年10月 2日 (火)

リキシャ

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アジアを旅していると必ず一度は使うことになるリキシャ。
 本来は人力車、発祥は巷間日本となっているけど、それ以前にアメリカ人が発明したとも云われているらしい。
 人力車自体はもう無くなる無くなると云われてきたカルカッタ(まだ走っていればの話だが)か、この日本で観光用に使われているに過ぎない。

 サイクル・リキシャが現在のリキシャだろう。呼び名はその国々で違うが、今でも庶民の脚として活躍している。
 サイクル・リキシャ、以前はなかったはずが比較的最近登場した中国始めかなり広範囲にわたって使われていて、種類も僕が知っているだけでも三種類。
 インドや嘗ての日本(輪タク)がそうである荷台が後ろにある標準タイプ。シクロと呼ばれるベトナムやカンボジアの荷台が前にあるタイプ。そしてバイクのサイド・カーからきたサイ・カーと呼ばれる荷台が横にあるタイプ。
 
 サイ・カーはもうどんなだったか忘れてしまったが、サイクル・リキシャやシクロは悪路でない限りは軽やかで乗り心地は好い。手漕ぎボートに近いものがある。乗り物自体は実に快適だ。只問題はその運転手によって随分と気分が左右されるという点だ。大抵の旅行者はここでつまづかされる。
 事前に値段交渉をはっきりしてないと、といったマニュアル的な言葉をよく見かけるが、実際は悪質運転手達にとって、そんなもの「へ」でもない。平気で覆すのが彼等の常套。そこでトラブってしまう。
 僕は、しかし、まずその取り決めた額の金を彼が受け取らねば荷台に置いてさっさと行ってしまう。追いかけて来ようが無視。それでも、中には本当に悪質なのが居て更に執拗に迫ってくる。それでもやっぱり無視。大抵はそれで向こうも諦めるが。(女の娘にとってはちょっとしんどいかも)

 インド・バナラシー、インド人達にとっても、我々外人旅行者達にとってもメッカだ。
 大抵、駅からガンジス川近くのゴドーリヤ辺りまで。ここも観光地の例にもれず、観光客と見れば、特に外人旅行者と見ればここぞとばかり吹っかけてくる。特に駅に屯しているリキシャは皆一様にギルドでも作っているかの如く悪質。
 で、僕はひとまず駅の外に出て、暫く歩いてから適当なのを捜す。 ある時、そこで真面目そうな若い男のリキシャに乗った。まだ比較的小綺麗なリキシャで、ルンギも清潔そうだった。ゴドーリヤ辺りで降り、乗る時決めた4ルピーを手渡すと僕が外人だからか何故か嬉しそうに受け取った。
 何なんだこれは! 
 なんて駅周辺リキシャ・ワーラー達みたいに急に豹変することはなかった。本当僕が見定めた通りの正直な青年だった。思わず、もう2、3ルピー更に渡してしまった。青年は相好を崩して心底嬉しそうに受け取った。やはりこんな正直なリキシャ屋も居るんだと、感動ものだった。それは彼がまだ若かったからかも知れない。他の旅行者に話すと、そいつはイスラムじゃないのか、なんて答えた。清貧という言葉が頭をよぎり、それを見極める材料等何も無かったにも係わらず、ひょっとするとそうかも知れないなと肯った。
 それから二、三年して再びバナラシーの駅から少し離れた処で、リキシャを拾った。何と、その青年だった。向こうは気付く由もなかったが、こっちはよく覚えていた。で、やはり4ルピー。バナラシーの街並みを眺めながら、1パーセントの危惧を敢えて抱いてみた。が、彼の印象からその可能性は殆ど感じられなかった。
 果たしてゴドーリヤで降りると、4ルピーで問題はなかった。
 やっぱし嬉しく、つい又上乗せして渡してしまった。相変わらず嬉しそうに受け取った。
 インドの状況は決して好くはないにも拘わらず、実に清々しい存在で、外人なんぞに係わってくることのない人々って、やはりそんなものかも知れないと改めて想ってしまった。

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ツイ・ハークと上海「小刀会」

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ツイ・ハーク、香港の古装武侠映画の雄だったはずが、最近は如何なんだろう。金はかけたらしいが「セブン・ソード」なんて駄作じゃ話にならないし。むしろ中国の方が大作主義ではあるが面白くなってきてる。それでも、やっぱり弁髪のジェット・リー主演の黄飛鴻シリーズなんか今観ても面白い。で、以前から気になっていた事があった。
音楽である。 
 「ワンス・アポナ・タイム・イン・チャイナ2 天地大乱」、(中国題)男児当自強の冒頭、提灯をさげ一枚歯の下駄をカッ、カッ鳴らしながら小娘が、白蓮教の建物の奥に誘ってゆく。白装束を纏った信徒達の前に、教主と二人の取巻きが現れ、教団旗を打ち振り始める。その時、古典楽器を使った勇壮な音楽が流れる。 
 紅衛兵娘を擬したようにも想えるその小娘の誘いから始まるイントロは僕のお気に入りでもある。
 ツイ・ハークは、中国籍のベトナム・サイゴンで少年期を過ごし、ベトナム戦争の難を避けるため一家でアメリカに移住したらしい。つまり、正に紅衛兵世代なのだ。南ベトナム→アメリカだと、反-中国共産党=反-文化大革命の図式かも知れないが、あの時代、少・青年期であってみれば、逆の、変革にシンパシイーを抱いていた可能性の方が強い。勿論実際に映画を制作する頃になってみれば、それも可成り複雑なものとなったろう。
 
 そのフレーズは、ツイ・ハークの古装武侠片「新龍門客桟」ニュー・ドラゴン・インでも、ブリジット・リンや他の仲間が大勢死んだ後、マギー・チャンやレオン・カーファイ等が住み慣れた砂漠の一軒家の宿に火を放ち去ってゆくエンディングにも使われていた。

「小刀会」という'61年の文革前でまだ「革命的」という修辞の冠されてない舞劇片のVCDを観ていると、太平天国の乱に呼応して1853年に蜂起した上海小刀会の故事(物語)のイントロで、上海の波止場で荷役人夫が欧米列強と清政府の役人に殺され、憤慨した人夫達や小刀会の構成員達が決起し、三角の小刀会の旗を打ち振る時、その勇壮な音楽が流れ始める。
 あっ、これなんだと、これがオリジナルなんだと漸く分かった。
 作曲は商易となっていた。
 彼等小刀会は蜂起後、県城に一年以上立て籠もり、別にキリスト教とは係わりがなかったが、革命=反清復明という一点で太平天国軍と連携しようとしたようだ。
 首領・劉麗川が最後に倒れ、女主人公の周秀英に自らの刀を渡す。
秀英は娘子軍やらを引き連れ県城の門から欧米列強と清軍の包囲した外へと突撃してゆく・・・ここで終劇。
 実際、周秀英は武芸に秀でていて、娘子軍を組織し、あっちこっちで活躍していたらしい。剣や刀、槍をもってである。中国の女は、トーンが高い分、やっぱり本当に怖かったのだ。
 歌劇の割には、剣戟シーンが武侠映画並にやたら多く、香港や中国の古装武侠映画の伝統、否、原型(の一つ)を見る想いがした。

 仲々勇壮(なだけではないが)で面白いんだけど、文化大革命の頃だと先ず作られなかった映画であろう。批判の的になるのは必至だし、ひょっとして制作スタッフ達は江青や紅衛兵辺りに激しく非難され自己批判を迫られたのかも知れない。
 
 で、ツイ・ハークの「天地大乱」だが、
 白蓮教を、毛沢東を信仰する紅衛兵と見立てたのか、太平天国軍(=小刀会)なのか、それとも「狂信」そのものと擬したのか・・・。
勿論端的に宗教そのものであるのかも知れない。

 因みに、「小刀会」の劇中でもでてくるが、上海の有名茶店・湖心亭のある預園の点春堂に小刀会の本部を置いていたらしい。預園には何度か行ったけど、そんなもの在ったろうか。

 VCDのラベルのコピー、
 舞劇片:描写上海小刀会起義的故事。  
 
 監督 : 叶明
  出演  : 上海歌劇院
  作曲 : 商易
  演奏 : 上海歌劇院民族楽隊
  制作 : 上海天馬電影制片庁   1961年 

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水 パーニー

Limcadrink

インドは熱い!
 ペット・ウォーターでは余りにもプレーンで、
 つい清涼飲料に手が出てしまう。
 サムズ・アップ、リムカ、7アップ、チットラ、カンパ・コーラ。
 
 僕の場合は、大抵7アップとリムカ、それからコーラ系統。
7アップは国内でも時々見かけるけど、大半は缶で、これは今一。
やはり7アップは瓶だ。東南アジアでも人気はある。炭酸飲料としてはシンプルな味だ。そこが好いのだろう。
 リムカは、イタリアがオリジナルだといった話とともに、何か怪しい物質が含有されているという話も聞いたことがあった。
 それらインド飲料がインド国内で、缶で販売されるようになれば、この日本にも輸出され、その手の店で買うことも出来るようになるのかも知れないが、現在のインドの事情を見るにつけ、当分ありそうにもない。

 水増しチャイとともに、僕がインドにご無沙汰し始めた頃から、
インドのこの清涼飲料にも暗雲がたちこめ始めたらしい。
 
 「水」パーニーである。  

 インドの地下水。
 多年に渡って農薬(殺虫剤)が浸透し、地下水が可成り汚染されてしまっていたのだ。

 在来のインド資本のドリンク類のシェアーなんて、コカコーラとペプシに比べたら一、二割程度に過ぎないので、殆どこの二社が問題の矢面に立たされた格好で、インド国内で可成り非難されているという。
 
 この二社のインド国内にあっちこっち点在している工場で、強力に地下水を吸い上げ続けてきたために、周辺の水位が下がり、農民達に深刻な影響を及ぼしているという。

 その上、コカコーラ社の一部の工場で、コーラ製造の過程で出た廃棄物質を、周辺の農民達に、「肥料」として無料配布していたのだけど、その排気物質から、鉛やカドミウムが検出されたらしい。
で、インドの少なからずの州から閉め出されているという。
 尤も、サムズ・アップやリムカなんかは、コカコーラ社の系列に入っていてしまっているので、如何なるんだろう?

 地下水が汚染されているんなら、所謂ミネラル・ウオーターの類も怪しそうだ。本当に山裾の水源地から採っているならともかく、実際はそこら辺の地下水を使っている可能性十分だからだ。
 そうなると、あのチャイも、こんどは水増しになった分、更に汚染の可能性が出て来てしまう・・・
 う~む、インドよ、如何なってしまうんだ?  

  《 農薬 》って、最近はヌケヌケと逆を唱道し始めているが、以前は、西側が、したり顔、訳知り顔に、貧しい国々に押しつけてきたものではなかったか?
 こんなジョークもあるらしい。
 
  貧しいインドの農民は、馬鹿高い農薬を買う金もなく、
安いペットのコーラを農薬がわりに散布しているんだと。

 えっ! ジョークじゃないって!! 

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芳香の旅 The Road

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六十年代の地方(雲南らしい)の山間の小さな町から、一台のバス、
「向陽号」がみしみしと車体を揺るがせながらゆっくりと出て行くところから映画は始まる。

 向陽号のバスの運転手・老崔は嘗て毛沢東主席と握手したことがあり、その毛沢東のオーラにあやかろうとあっちこっちの村や町で住民達が老崔と握手しようと押し寄せる。
 娘車掌・春芬は車内で出会った青年医者・劉奮闘と恋に落ち、以前から彼女に想いを抱いていた老崔は気が気ではない。そのバスの中年やもめ運転手・老崔と車掌・春芬、やがて二人に影のようにつきまとうようになる劉青年の長い人生の旅路を、時代時代で点描してゆく。

 時代が「文化大革命」期に入ると、いつの間にか、バスの名前も
「反修号」に変わっていた。文革のスローガン「反-修正主義」から採ったのだろう。インテリ階級=医者の劉青年も何処かの炭坑に「下放」されていた。春芬が炭坑まで行き彼に会いに行くが、逢瀬の興奮で衆目の知るところとなり、劉青年は連行され恐らく再教育センターか何処かへ連れ去られ、春芬は解雇を言い渡される。
 が、老崔がその処分に異議を唱え、頑として認めようとはしない。 
 やがて老崔は春芬にお見合いの形でプロポーズし、春芬は受け入れてしまう。老崔は長年の悪路での運転が禍してか性的不能に陥っていることが発覚。このDVDのカバーに記されているところに拠ると春芬は処女のままとある。
 
 ある日、老崔が事故を起こし、植物人間になってしまう。
 時代が次々に移ろっても、老崔は延々と病院のベッドの上で生き続ける。春芬は毎日のように、バスの運転手の仕事を了えると病院に赴き、老崔に話しかけ身体を拭いマッサージしてやるのであった。
 そんなある日、老崔が春芬の訴えに涙を流して反応した。が、それは老崔の最後の別れの涙でもあった。

 DVDのカバーに、こんなコピーがある。
中国平民の心霊史詩  40年処女生涯の苦と楽  霊と肉の糾纏

 己自身と時代に翻弄されてきた春芬、それでも敢然と自身の人生をまっとうしようと生き続けた。
 
 寂寥一生之后  春芬最后釈然
 
 活字にしてしまうと些か鬱陶しい感じだが、映画の方はむしろ淡々と点描している。やはり、芳香とは最期に己が人生を省みた時に陶然として漂うものであろう。又、中国語の「香」には、ぐっすり眠るという意味もある。植物人間と化した老崔にかけた言葉でもあるのかも知れないし、長時間バスの中で揺られているとついうとうとと眠ってしまいかねない。陶然とした甘い睡魔の誘い。春芬の「芬」も香るという意味があるらしい。 

 主演の春芬役の張静初、僕は前作の「孔雀」、そして近作のハリウッド映画、ジャッキー・チェンの「ラッシュ・アワー3」しか知らなかったが、結構あっちこっちで出ていた。
 フィンランドとの合作「玉戦死」なんて活劇物を既に演っていたとは知らなかったなあーと思っていたら、ツイ・ハークの駄作「七戦士」にも出ていたという。VCD持っていたけど最初から詰まらななかったので殆ど観ないままだったので、全然気付かなかった。最新作は、同じ章家瑞監督の雲南を舞台にした「紅河」という。
 章子怡チャン・ツィイーほど個性の強くない、普通の娘って感じが魅力なんだろう。
 中年親爺・老崔役の范偉は有名な喜劇役者で映画「胡同愛歌」のプロモーションか何かで今年来日していたらしい。

 監督 : 章家瑞
                                     
  音楽 : 梅林茂

 春芬 : 張静初 
  老崔  : 范偉
 
  制作 :捷楽文化  2006年

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レッド・ブル : メード・イン・タイランド

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工藤ゆうきや「孔雀」「芳香之旅」の主演女優・張靜初等が出ていたジャキー・チェンの《RUSH HOUR》で、K・タッカーがパリのレストランで食事を注文した中に、"レッド・ブル"が含まれていた。正に滋養・強壮剤と言わんばかりに。
 又、最近レンタル・ビデオ屋で借りた大して面白くもない映画だったのでタイトルは忘れてしまったが、そのハリウッド・ホラー映画の中でも、 睡眠不足の母親の運転を怖がってハイ・ウェイ沿いのレストランに入り一休みするシーンの時、やはり娘がレッド・ブルだけを注文していた。因みにオキサイド・パンの《テッセ・ラクト》で主演したジョナソン・リース・マイヤーズもカルト教祖役で出ていた。
 
 知識としては有ったものの、立て続けにハリウッド映画で見るにつけ、あらためて"レッド・ブル"は本当に欧米社会に融け込んで居るんだなと再認識させられた。

 世界で億単位で飲まれているらしいけど、オリジナルの本家、"クラティーン・デーン"とは成分が多少異なり、"クラティーン・デーン"はあくまでタイ国内のみの販売と限定されているようだ。
 "クラティーン・デーン"はカフェイン分が強く、余り続けて多用すると心臓に悪影響を及ぼす恐れがるらしい。

 トム・ヤム・クンやタクシン元首相と並んでとっくに世界のブランドと化し、燦然と輝いているのを、迂闊にも最近漸く知るに至ったお粗末。

 以前は、リポビタンDが"ちょっと違いますぜ!"とばかりにふんぞり返っていたタイの栄養ドリンク・コーナーだったのが、カラバオの"Made in Thailand"もぶっ飛ぶくらいのワールド・ワイドな御栄達、今じゃリポの方が、カンボジア一国御用達だったか「ケンドー」と一緒くたにホアランポーン駅脇のどす黒いクルンカセム運河に蹴落とされかねない勢いだ。

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1989年上海 : 旅のはじめ

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この年、北京で天安門事件があった。
 現地の西側のマス・コミの流す実-映像に、逃げまどう群衆や戦車の姿はあるが、云われるような戦車が群衆をひき殺す光景等皆無で、何故西側のマス・コミはそんな大事なショットを撮ろうとしないのだろうと不思議というよりも不可解でならなかったのでも、僕には印象的な事件であった。
  
 
 旅の目的は「チベット」であった。
 東京→上海→成都のチケットを買い、空港ホテルの類に泊まり、翌日には成都に飛ばなくてはならなかった。
 
 まだ天安門事件の記憶も生々しい九月、上海空港から一歩外にでたら、夜の闇の中で妙にまぶしい電灯に照らし出されて、蠢く無数の人間の姿と喧噪があった。それだけでも、海外初体験の僕はたじろいでしまったが、その頃中国で日本人観光客が殺された事件等もあり、やたら声を掛けてくるタクシーの運転手達の怪しげな相貌も相俟って、一体どうしたものかと困惑仕切ってしまった。
 と、首からだったか、胸に付けていたのかもう忘れてしまったが、証明書のようなカードをしたおばさん達が声をからげていた。
 よく見ていると、どうもタクシーの運転手達の正否をしているようだった。頻発する事件に上海当局も腰を上げざるを得なかったのであろうか、早速僕もやって来た運転手を連れて、行き先のホテルの住所を記した紙を見せ、確認して貰った。おばさんは暫く眺めていたが、やがて大きく頷いて大丈夫と肯ってくれた。

 着いたホテルは中級ホテルといったところで、夜も遅かったので外に出ることもなく、早速始めての中国のテレビを観ることにした。
 如何な番組をやっていたかもう覚えていないが、CMだけは番組以上に面白く見飽きなかった。カメラは持っていかなかったが、ソニーのハンディー・カムは持参したので、漸く中国でも発展し始めた商品経済の指標ともいうべきCMばかり撮った。
 「ダー・バオ!」
 とやたら繰り返されていた企業の名前は、それが如何な種類の製品だったか定かでないが、今でもテレビのスピーカーから聞こえてくる男の声はよく覚えている。
 
 朝になって窓のカーテンを開くと、前に畑が拡がっていて、向こうに煉瓦や白塀の建物が見えた。畑の脇に狭い水路が連なっていて、何羽もの家鴨が群れなして泳いでいた。家鴨等実際に見たことの無かった僕には、なんとも新鮮で、空港や近代的なホテルの間近ではあったが、牧歌的なその光景に正に中国を感じてしまった。
 
 ただ、その内、ひょろんとした年輩のくすんだ服を纏った農夫が現れ、淡々と作業をしているのを眺めている中に、ふと背後の大きめの灰色の建物が、何故かひょっとして、こっちの刑務所か労働キャンプかなんかじゃないのかと想えてしまった。
 実際には有り得ないと想うのだが、早朝だったこともあって、静けさとまだ幾分の昏さも残っていて、天安門事件の余韻がそんな場面でも作用したのであろう。
 
 何とも期待と不安の綯い交ぜの初めての海外旅行の第一歩ではあった。

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アララットの見える町 : ドゥバイヤジット(トルコ)

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イランからトルコに入った最初の町が、ドゥバイヤジットDogubayazitであった。
 通りをパンを満載した馬車が駈け、小さな町の割にはやたら多いチャイ・エビ(喫茶店)の中も外もハンティング帽をかぶりくすんだ背広を着た髭面の男達で溢れていた。
 最初てっきり、その日だけなんだろうと思っていたら、次の日も又次の日も男達は一杯のブラック・ティー(1000TL)で何時間も粘り続けていた。皆失業者なのだろうか?
 そして店の中や通りのあちこちにうずくまった靴磨きやタバコ売りの少年達。
 町の佇まいといい何だか、急に異世界、もっと正確にいうと19世紀にでも戻ったような錯覚に陥ってしまう。
 それでも、町中至る所で見かける制服姿のトルコ軍兵士達の姿が、いやでも現実(現代)に引き戻してしまった。

 ドゥバイヤジットはクルド人の町であった。
 ちょうどチベットのラサがそうであるように、一歩町の外に出ると要衝にトルコ軍が展開しているのが直ぐ分かる。
 そんな緊張の中で、人々は普段のつましい生活を営み続けているのだろうが、茶店好きの旅行者にとっては、比較的物価の安さもあって、ゆっくりと過ごすにはもってこいの町であった。
 外に並んだテーブルに坐り、小さなクリスタル・グラス(チャイ・バルダック)で紅茶やエルマ・チャイ(アップル・ティー)をチビチビ飲みながら、遠く白雪を頂いたアララット山を眺め、飽きれば、談笑やトランプに興じる周囲の男達を、通りの佇まいや行き交う人々や馬車を眺めていればいい。
  
 AĞRI  DAĞI アール・ダー(アララット) という安ホテルに泊まった。二階の通りに面したダブルの部屋で、25000TL。五月であったが、電気ヒーターが備わっていた。ホット・シャワーは一回使用料5000TL。
 外に10000TLのハンマーム(トルコ風呂)が有ると、ハンマーム好きの隣室のパリ在住の写真家I氏が教えてくれた。
彼は三週間の滞在予定ということで、撮影の時以外は、チャイ・エビでこの町の雰囲気を満喫していた。ザフェルという地元クルドの16歳のガイドを連れて周辺の風物を撮り歩いていた。ザフェルのボスの兄弟がクルド・ゲリラでイラクで殺されたばかりらしく、ザフェルもゲリラになるつもりらしかった。

 日曜には休暇の兵隊達が大挙してやって来てビデオのあるチャイ・エビに集まった。この日ばかりは僕もビデオの無いテレビだけの店に逃げ、テレビで、粘るバイオリンの伴奏で中年女の歌手がトルコの歌謡曲を更に粘っこく歌い続けていた。正に中東サウンドで、僕も、エルマー・チャイをチビチビやりながら聞き惚れた。

 店には時々アルミの盆にドーナッツを山盛りにした売り子が入ってきた。それとチャイで朝食にする者も居た。
 ロカンタ(レストラン)はあくまでトルコ式で、作り置きのぬるい料理で余り好きにはなれなかった。I氏によると、フランスも同じらしい。それでも、ある店では、比較的うまいヨーグルトとパン、それにマトンとジャガ芋の煮た物とサラダにコーラで25000TL。

 総じて天候は優れなかった。
 雨の日はチャイ・エビも、いつも外のテーブルに坐っている連中が中にはいってくるせいか満員で、駆け込んできた男達が入れず引き返す。
 小さな焼き物の受け皿(チャイ・タバック)の上の透明なグラスになみなみと注がれた琥珀色のチャイから真白い湯気が漂う。
 大きな窓ガラスは水蒸気で曇り、通りの向こうの建物の背後が完全に灰色となって何も見えない。
 おそらく、アララットの峰も厚い灰色のヴェールに包まれているのだろう。
 
       TL=トルコ・リラ  1$=9700~9920TL

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フェート : no one wants to be Alone!

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あれは確か《ミザリー》だったか、斧を振り上げ襲いかかってくる中年女の画が随分とエキセントリックさを際だたせていたものだが、女だからってなめてかかると、ジェームス・カーンのような惨めな目に遭うんだなーと、痛々しいほどに思い知らされた本当のホラー映画だった。
 
 日本でも公開されたらしい《シャッター》の監督、パルクポーム・ウォンポームとバンジョン・ピサンタナクムの二人の、今春タイで封切られたホラー映画《フェート》Alone、タイ・ポップスの女王=マーシャー主演ってことで期待していて、漸くDVDが手元に届き早速観てみた。
 
 この二人の監督は闇が好きなようで、暗がりでないとホラーじゃないと云わんばかりに、やたら真っ暗か暗がりばかりで物語は展開されてゆく。余り暗いシーンが続くと、映画館ではそうでもないのかも知れないが、ビデオだとちょっと疲れを覚えてしまう。事物や動きが不確かで神経が苛立つからだろうか。

 バンコクの対岸・トンブリーに在る博物館に、連続幼児殺人犯シー・ウィーの屍体の蝋人形と一緒に、ホルマリン漬けされた[シャム双生児]が陳列されているらしい。シー・ウィーも映画化され、このシャム双生児も映画化されて、あたかもタイのホラー映画の資料=アイデアの宝庫の感を呈している。僕はまだ訪れたことはないけど、一体如何なアイテムが硝子の向こうに眠っていることやら。
 シャムとわざわざ命名しているぐらいだからタイには比較的出生頻度が高いのかも知れないけど、そのシャム双生児の姉妹の悲恋物語ってところであろう。
 
《シャッター》同様、ホラーお決まりの手法を、これでもかこれでもかと叩きつけてくる。何だ、定番手法のオン・パレードかいと些か白け始める頃に、漸く、シャム双生児姉妹ピムとプロイの如何ともし難い運命の悲しさとでも云ったものが、次第に顕らかになり始める。
 一人の同年配の青年を巡っての十五歳の、片時も互いから一歩も離れることの出来ぬ身体の姉妹の愛憎・呻吟・・・そして・・・離脱手術。
 そこから、この映画のタイトル《フェート》(対をなした、ふたつつながった、双生)とサブ-タイトル"no one wants to be Alone!"の意味の謎解きが始まる。

 映画自体は離脱手術後、件の青年と一緒になって、韓国で生活しているピムとウィーの家でのピムの誕生パーティーの場面から始まる。そこにタイから一本の電話がかかってきて、二人はタイへ戻ることとなる。その辺りから、長い間封印されていたピムの記憶に綻びでも生じたかの如く、様々な怪現象が身辺で起きるようになってしまう。
 これもホラー映画のお決まりの構図でありパターンなんだが、[シャム双生児]という特殊な題材を持って来たのが幸いして、それなりに観ることが出来る。
 タイ人風に観れば、正におどろおどろしい運命や因縁の世界であるのだろう。  

 主演のマーシャーも文字通り奮闘していたが、この映画は、やはり青年ウィーが現れた十五歳の頃の双生児姉妹ピムとプロイに重心がかかっていて、少しふっくらとした目鼻立ちのはっきりした容貌のハタイラット&ルタイラットの双子姉妹の演技も悪くなく、雰囲気を十分に盛立てていた。

 監督 : パルクポーム・ウォンポーム
        バンジョン・ピサンタナクン
 撮影 : ニラモン・ロス
 
 キャスト ピム   : マーシャー
      ウィー  :ウィタヤ・ワスクライパイサーン 
            ピム (娘時代) : ハタイラット・エゲレフ
            プロイ(娘時代) : ルタイラット・エゲレフ
            
 制作 PHENOMENA   2007年作品

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韓流 in カルカッタ

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最近では意外と増え始めたのではないかと想われるタイ人旅行者がそのターゲットになっているのかも知れないが、嘗て韓国人パッカーが世界のあっちこっちに姿を現わすようになってから、インドのバナラシー=カルカッタ間の列車で、韓国人旅行者が襲われる事件が頻発するようになった。
 日本人に間違えられたんだという話も聞いたが、列車の中で刺され外に放り出されたり、凄いな!等と他人事のように、そうかあんな列車でもそんな事件は起こるのかと感心していたものであった。

 それから数年後、'98年であったか、バナラシーからカルカッタへ向かう列車の中で二十歳代の韓国女性と一緒になった。
 韓国ではキリスト教系の団体の秘書をしていて、もう七年も勤めているのに未だに有給休暇が六日しか貰えず、中秋の休暇(韓国では中秋の名月は休日らしい)四日足して計十日の休暇を作り、長年の夢だった憧れのインドに遙々やって来たという。
 海外旅行は初めてで、それもインドという訳で、彼女の話聞いていると、少々じゃないくらいにボラれっ放しのようであった。

 ハウラー駅から、朝の出勤のインド人サラリーマン達で溢れかえったフェリー(1.75Rs)で対岸に渡り、汗まみれになってサダルまで歩き、僕は先ずお決まりの《パラゴン・ホテル》に予約。が、彼女は否を云い、近くの中級ホテルをあっちこっち当たってみた。何処も今一で、且つ一様に薄暗くて、まだ未婚の若い女である彼女にとっては何とも薄気味悪く危なく想えたようだ。
 で、結局、マリア・ホテルの250Rsのシャワー・ルーム付のシングルに決まった。
 高めの天井はコンクリ風で、真夜中にパカッ!っと天井板が外され賊が入り込んでくるという事は決して起こりようもなく、ドアに内側から差し込む、インド人達が何人も体当たりしてきてもびくともしないような、そこのマネージャーも自慢げな分厚く長い角材のかんぬき棒が、彼女をしてその部屋を決めさせたようだった。

 翌朝"ブルー・スカイ・レストラン"で、彼女と会った。
 そこで話が前日、通りで知り合った二人連れの韓国娘達に及んだ。
彼女達が、韓国の実家に電話をすると、今、韓国では、何とこのカルカッタで韓国人女性のバラバラ死体が発見されたと大騒ぎしているんだと。それで彼女達は些かナーバスになっていたようだ。
 知ったかぶりをして、バナラシー=カルカッタ間の列車で襲われた韓国人の話をしてなくて好かったとつくづく思った。 
 
 夕方、予約済みのマリアの前に停めてあった空港行きのタクシー(120Rs)で、彼女が退つことになった。相乗りは居ず、彼女一人であった。
 ところがである。
 運転手の隣にもう一人、インド人が座っていた。
 これはこの辺りのタクシーではよくある事で、僕も以前、この運転手の脇に居る奴は一体何なんだと訝ったものであった。
 例のバラバラ事件を聞いたばかりの彼女には、そんな曖昧な事では済まなかった。
 「この人、何なの!」
 運転席の二人も簡単な英会話ぐらいは分かるはずで、もろその男を指差してヒステリックに叫ぶ彼女に二人もびっくりしていた。
 散々時間をかけ、単なる助手の類に過ぎないとなだめ続けて漸くしぶしぶ納得したようであった。
 
 確かに、不案内な彼女一人を乗せたタクシーがそのまますんなりと空港まで行かず、何処か人影のない寂しい場所へ連れ込んだりする可能性も、マリアのマネージャーが太鼓判を押したとしても、完全に否定し切れはしない。
 だから、しぶしぶ納得したはずであっても、何か縋るような眼差しで僕の方を見遣りながら、一人タクシーに乗って去って行く彼女を、百パーセント絶対安全とは云い切れぬまま、ジリジリと様々な想いに焦がされながら見送る他無い己にうんざりせざるを得なかった。 

 彼女を見送って暫くして、僕も翌早朝のDRUK-AIR(ブータン)115Rsで退つんだから、カルカッタ空港には安いリタイアニング・ルームが有り、そこに一晩泊まって余裕でバンコク行きの DRUK-AIRに乗った方が賢明だと気付いた時には既に遅かった。
 普段なら先ずそうしてただろう。
 何しろカルカッタに着いてからというもの、実に慌ただしく余りにもせわしなかったのでそこまで思い至れなかった。
 一緒にタクシーに乗ってれば、どんなに彼女も、否僕の方も安心できただろう。後悔の念に苛まれながらも、何とか彼女が無事空港に着けるように祈る他なかった。

 ひょっとして、長年勤めた韓国のキリスト教団体のオフィスの彼女の机の上に、唯埃だけが、多年降り積もった埃だけが層をなしているのかも知れない等と、最近は想うこともなくなってしまった。
 ーーーそれでも、無事彼女が帰国できたという最終的な言質は未だ得られていない。

 * Rs = インド・ルピー 

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EVIL : コン・ピー・ピーサート

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《フェート》のはずだったが、注文した先の不手際で遅れ、仕方なく《ナン・ナーク》を考えたものの余りに有名過ぎて今更って感じだし、同じサーイ主演の《マザー》もそれなりに面白いが所謂タイ・ホラーというよりハリウッド製をそのまま踏襲したオルタネイティブ・ホラーとでもいった代物なので、タイにおけるインド=ヒンドゥーイズムの残渣が微かに窺える《evil》にした。

 《 マッハ : オンバーク》に出ていた女優のエー、《テッセ・ラクト》でホテルのボーイをしていたA.ランデル始め、脇役陣も仲々決まっている。

 ある日、町外れの印刷工場に、一人の若い娘が住込みの家政婦としてやって来る。そこの女経営者の孫の少年と同じ部屋に棲まうことになるが、部屋の洋服ダンスだけは、頑なまでに使わせようとしなかった。実は、その人一人入るのがやっとの巾のタンスは、その少年が死霊(ピー)から逃れるための退避所であったのだ。

 彼女が家族の部屋のある上階から、工場になっている一階に降りて来ると、工場の従業員が、一斉に彼女の方をまじまじと凝視した。そして、古手の女従業員が、夕べ何も起こらなかったと小声で尋ねてきた。
 話に寄れば、彼女の前に居た家政婦達は、霊(ピー)が現れるのが怖くて皆逃げ出してしまったという。

 普通なら、そんな禍々しい家だと分かった時点でさっさと辞めるものだが、如何せん、彼女もちょっと前、乗用車で親娘三人でドライブの途中、強盗に襲われ、彼女だけ九死に一生を得、もはや行く場所さえない天涯孤独の一人身であった。

 その印刷所の女経営者は、剣を振りかざすヒンドゥー風の霊能者モー・ピーで、時折、信者達がやって来ては、降霊会みたいなものをやっていたらしい。

そんなある日曜日、外出した女オーナーが入口に鍵を掛けて出てしまい、彼女も少年も外に出られなくなってしまう処から、映画はクライマックスに至る・・・

 それなりに好く出来ている方だと思う。僕はDVDでしか見てないのけど、映画館でみると迫力あるだろう。

 監督 :  チューキアット・サックウィーラクン
 
 出演 :  ウィー : プーマワリー・ヨートカモン(エー)
         アン  : アレックス・ランデル      
               

 制作 :  サハーモンコン 2004年作品

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準ー亜熱帯列島の熱帯夜の妄想

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この極東の列島が准-亜熱帯と化してもう如何くらい過ったであろう。夏といえば熱帯夜、三十度以上は当たり前。
 で、ふと今まで一番熱かった場所は何処だったろうと記憶をあれこれ巡らしているうち、すっかり飲み慣れたDRAFT-ONEに身体が火照り始めて、やっぱり一番寒かった方にしようと、白氷、白雪の峰なんぞ想い浮かべてみると、北インドのチベット世界・ラダックが回想され始めた。
 
 メイン・バザールの通りから少し脇に入り、王宮へ至たる途中に在ったゲスト・ハウスに泊まった時、夜は本当に寒く、厚めのフィールド・ジャケットに寝袋、その上に毛布と布団を掛けても寒くて仕方がない程であった。何しろ安宿なので、暖房の類も皆無。
 
 季節は秋。ラダックではオフ・シーズンで、店は次々に閉められ、旅行者も殆ど居なくなっていた。
 最初の頃、小路の真ん中に掘られていた溝が、次第に朝は氷が張るようになり、更に厚くなっていった。

 シャワーは先ず無理で、屋上で他の建物の屋上でも地元民達が同じようにしているのを眺めながら、お湯で髪を洗うのがせいぜい。

 夜の静寂の遙か向こうに、白銀のギザギザした峰々が輝き、王宮近くのチベット寺院から、地からわき出て来たような低音のホーンや太鼓、シンバル等の響きが轟いてきて、満点の星空の下、正に夢幻のチベット世界ではあった。

 逆に、熱いといえば、パガンであった。
 日中四十度の仏教遺跡が延々と点在する平原だ。
それでも、ブレーキが効かないのは当たり前、すぐ故障してしまうレンタルの中国製自転車を、殆ど引きずるようにして、首から下げた一眼レフの"マイ・ベスト・シーン"を追い求めて、真っ赤に日焼けし犬のように舌をだして喘ぎながらも、一日中ほっつき廻る旅行者も少なくない。

 寺院も、建物の中は日蔭になって涼しいが、仏塔側面の華麗な装飾なんぞを眺めようと、一歩、中庭に出ようものなら、目一杯暑熱を貯えた石畳に足裏を焼かれ、誰もが悲鳴をあげながら妙な具合に小走りせざるを得なくなる。(寺院内は何人たりとも、履物を脱がねばならない。)
 欧米ですら熱波で人が死ぬくらいの昨今、パガンの黄土平原と寺院中庭の敷石はフライパンのように焼け燃え上がっているのだろう。

 寝釈迦 --一端日陰に寝転ぶと釈迦すら外に出たがらない。

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ネクロマンサー : 夏はホラー特集第二弾

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タイ映画にホラーの占める割合は可成り高いと思うが、とうとう
"モー・ピー・コップ"とも云うべきジャンルが出来たようだ。

 "モー・ピー"はピー(霊)のモー(達人)で、呪術師・霊術師の意味だけど、札付き悪徳警官ばかりが呪術を駆使し悪事の限りを尽す、警察官僚出身のタクシン元首相に捧げられたような映画だ。
 まさかあのタクシンが呪術を駆使していたとも思えないが、軍部のお抱え呪術師が強力であえなく敗退の憂き目を見てしまったのだろうか。

 夜雨が篠つく中、犯人一味の潜む湿原の一軒家に、件のモー・ピー・コップ達や警官達が銃を構え迫ってゆくところから映画は始まる。一味の頭目も呪術を使い、主人公イッティと逃げた小屋の中で呪術の死闘を展開する。
 この頭目から隠し金の在処を聞き出そうとモー・ピー・コップ達は嗜虐の限りを尽し、挙句、全身呪符の入れ墨だらけの頭目の胸の部分の皮を切り取ってしまう。呪力を秘めているらしいが、それが一つの記号のようにこの映画ではその後何度も出てくる。

 その事件でイッティは他のモー・ピー・コップ達の罠に陥り、長い間牢獄へ幽閉されていたのが、ある日、やはり呪術を使って自らの姿を消して脱獄する。表向きは獄中で死んだことになったらしい。
 モー・ピー・コップ達は秘密を知るイッティを抹殺するため追跡を始める。そこからこのモー・ピー・コップ達の暗闘が開始される。

 地方の警官サンティは、ある時、自分が射殺したはずの犯人がむっくりと起き上がって高い鉄柱を飛び越えて逃げてゆくのを目撃し、呪術・超能力の存在を嫌でも思い知らされていた。そんな中、モー・ピー・コップと共にイッティを追う内、次第に呪術的な力に魅せられ始め、どんどんと深みに嵌ってゆく。イッティに、やがて俺みたいになってしまうぞ、と警告を受けたにも拘わらず。
 呪力を得るため、次から次へと犯罪者達を殺め入れ墨の入った皮を切り取り続け、しまいには、イッティの呪力すら吸い取って、正にネクロマンサー(大霊術師)そのものになってしまう。

 劇中、タイ南部のトランかプーケットでの奇祭キンジェー・フェスティバルのシーンが出て来る。
「齋」とか菜食週間とかいわれる行事で、別名"串刺し祭り"とも呼ばれている如く、行者達が自分の頬などに大小の鉄串や槍なんかを刺し通して、大通りを行進してゆく。尤も、映画で見た限りでは、ゆっくり練り歩くというより、タイ人ではなくせわしない日本人の歩く速度でさっさと進んでいたが。

 サンティ役のアマータヤクンは中々決まっていたけれど、他の映画なんかじゃ何故か生っ白くて、彼が好い役に恵まれてないだけの事なのだろうかと首をひねってしまった。それでも、今夏タイで封切られる"チャイヤ"ではムエタイ・ボクサーの役を演るという。
 地方の街中で、 悪玉( これも呪術を心得ている )ヤイと繰り広げる銃撃戦は面白く、今じゃタイのアクション映画の十八番となりつつあるようだ。

 それに引き替え、《スリヨ・タイ》ではえらくかっこいい役をしていた、主役というよりむしろ狂言廻しの方なのか、プレーンパニット扮するイッティの、脱獄後の姿・衣装が何とも貧相で、今一つ迫力に欠けた。そこらの市場で買ってきたシャツやズボン、それに安物のゴム草履じゃ、ちょっと。
 奇を衒ったつもりなのか、それとも単純に逃亡中という設定からなのか知らないが、これは何とか一工夫して欲しかった。

 如何にもタイ風といった感じのオカルト=ホラーで、それも"安っぽい"という意味ではなく、正にタイ風味=オリジナリティーという意味で、結構面白いと思ったが、本邦では未公開なのであろうか?
 ガルーダだとかしょうもない駄品( 勿論異論の有るファン達も居るのだろうけど )はよく輸入し上映しているようだが、せめてこれくらいのレヴェルは押さえておいて欲しいものだ。

 監督 :  ビーヤワン・チューベット
 
 キャスト :  イッティ=チャトチャイ・プレーンパニット
       サンティ=アカラ・アマータヤクン

 制作 :  マンポン/ RS  2005年

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シーウィー : 死に至る病の生薬

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バンコク、チャオプラヤー川を渡った対岸トンブリーに、通称シーウィー博物館と呼ばれる建物が、ノイ駅近くのシリラート病院の敷地内に在るという。
タイ人好みの毒々しい猟奇的ホラー映画を彷彿とさせるような、シャム双生児や件のシーウィーという死刑囚の遺体も、ホルマリン漬けにされたり、アメリカ映画《蝋人形の館》そのままに、蝋人形と化したまま四角いガラス・ケースに収められ陳列されているという。

1946年、中国の貧村からタイに出稼ぎにやって来たHuang Lee Huiは、慣れない環境で、鶏のさばきや荷役夫等の下働きばかり。幼少の頃から患っていた肺病が、無理な労働や低劣な環境に次第に悪化し始めた。そんな惨憺たる状況の最中、日中戦争時の悪夢にうなされ、たまたまシーウィーに親近感を持ち傍に寄って来た少女を絞殺してしまう。
犯人不明のまま事件は迷宮入りになるが堪えられずそこを後にし、何処かで土地を見つけ、勝手知った畑仕事に精を出す。しかし天候不順のためそれも失敗に終ってしまう。
老いた母親にタイで金を儲けしてくると約して遙々やって来たタイではあったが見切りを付け、中国に戻る決意をしたものの、今度はその費用の捻出が困難を極め、やがて肺病も一層悪化の一途を辿り始める。
その頃から子供達を誘拐し殺害して、その心臓や肝臓を煎じて飲み始め、合わせて四人の子供の命を奪う。
最後には、海岸近くの洞窟で最初の少女を入れると五人目の少年を殺害した直後、とうとう駆けつけた警察に逮捕される。

二人の未だ若いタイ人女性監督によって撮られた、映像も繊細なこの映画を観ていて、すぐに、嘗て観たモノクロの中国映画、魯迅の《薬》
を想い出した。
肺病みの息子・小栓のために父親が銀貨で死刑囚の血を浸した饅頭を役人から買い、蒸して息子に食べさせるという暗い陰影の中でのその映像は妙にリアルであったような記憶がある。
血饅頭と、臓腑そのものを鍋で煮て煎じるの相違はあるが、恐らく魯迅の方が脚色したのではないかと思われるが、定かではない。
現在でも、肝臓のために動物の肝臓を食べたりするのは普通に行われている一種の民間療法みたいなものだし、
"旧弊な迷信"とばかり一蹴してしまうのは甚だ偽善に過ぎよう。

艱難辛苦の半生で、一体何のために生きてきたのだろうと、己が半生を、己自身をそしてこの世の中を恨み続けたであろう、タイではシーウィーZee Wuiと呼ばれた当時はまだ不治の病であった肺病みの貧農出の移民労働者イミグラントは、単純に、薬代もないから、そこら辺に遊んでいる子供達を"生薬"として屠ってしまったかのようだ。
"規範"というより、この社会に繋ぎ留められていた最後の絆すら無惨に粉砕されてしまったのだろう。

最近廉価版で限定販売されたチャールストン・ヘストン主演のSF映画《ソイレント・グリーン》なんかじゃ、世界的食料不足が常態化してしまい、年寄り達がある年齢に達すると、姥捨山宜しく、配給食ソイレント・グリーンの原料とされてしまう。
もう、肺や肝臓等の部分なんかではなく、人体丸ごとクラッカーの材料となってしまうのだ。
シーウィーなんて非-効率性を厳しく指弾されかねない世界になっている。嘗て、欧米の捕鯨が油や何んかの微々たる部分しか利用せず、残りの大部分を廃棄していたのを、鯨の殆どの部分を有効利用していた日本人達が、"もったいない"の理由で非難していた如く。

子供殺しや内臓摘出等の可成りエグいはずのシーンはうまくかわされていて、残虐な趣ではない。
若い女性監督がそんな嗜虐趣味剥き出していたんじゃ、そっちの方が怖いくらいだが、危ない題材にそれなりの視点からアプローチし得、何とか無難にこなせた、佳作であろう。

凝った不気味な紙ケース付のDVDには、付録に実際のシーウィーに関する証言やインタビュー有り。
(但し、英語字幕のみ/PAL リージョン・コード3)

監督 ブラニー・ラットチャイブン
   ニダー・スタット・ナ・アユタヤー

シーウィー : トワン・ロン(中国)
ダーラー   : プレムシニー・ラタナソップ
サンティ   : チャトチャイ・プレンパニッチ

2004年作品
制作・マッチング

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タイの銘品 : 獅標紅茶粉

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僕の好きなタイの銘品といえば、紅いラベルの獅標紅茶粉、LION  TEAであろう。タイどころかカンボジアのマーケットにすら必ず置いてある。
プノンペンの 《キャピトル・レストラン》で、今はリプトンのティー・バッグだが、以前は、アイスはともかく、この粉茶が紅茶としてコンデンス・ミルク入りで出された。
ホットだとコンデンスの甘さがエグいくらいに強まり、何もつけないプレーンのフランス・パンを、このミルク・ティーに浸して食べるには頂度好かった。
只、外人客は総じてこの派手なオレンジ色の紅茶を嫌った。
如何にも合成着色料を使っていると云わんばかりの毒々しさだからで、僕も最初そのケミカル色を警戒していた。
そんなある朝、いつも店の角辺りに陣取っていたオーナーが、僕を厨房に連れて行き、グラスに件の黒い粉茶を一掴み入れ、その上から熱湯を注ぐと、忽ちオレンジ色に変色してしまった。
オーナーの話によると、これは着色したものではなく、自然な紅茶で湯を注ぐとこんな色に変わる種類のタイの高級なオリジナルの紅茶なんだと力説した。
なるほどと、単純な僕はそれを鵜呑みにし、そんな銘柄なんだと納得した。

あの濁った褐色は、メコンを想起させ、自然の茶葉とは異なる、むしろインドの香辛料を彷彿とさせる。メコンの養分濃い川水を口にすると、ひょっとしてこんな味ではないかとすら想わせてしまう。 

僕は自室で飲む時は、ホットでもアイスでもコンデンスは使わず、普通のミルクか牛乳で、あるいはブラックで飲む。ブラックと云ってもオレンジ色だが、味は独特で、可成り気に入っている。

昼間っからウィスキーの類を、些か人生に疲れたような親爺さんがちょっと遠慮がちに注文している中国人街ヤワラートの路地のくすんだ店で、束の間の涼を得ようと入った時も、7UPやペプシの時もあるが、やっぱり雰囲気に合っているのがこの紅いミルク・ティーだろう。但し、テーブルの上の皿に盛ってある中国菓子の類を食べる時には、大抵甘味なので、どちらかを遠慮せざるをえない。

最近何処かで、やはりあれは、着色していたような記事を読んだような記憶があるが、本当の処は詳びらかでない。
あの色なら十分に考えられる。
でも、例えどっちであっても、味に変わりなく、
それに今度は、如何な理由でわざわざ着色するようになったのか、
という疑問がわき、更にタイのアーユルベーダ的根拠から施されたものでは? 等と益々想像を逞しくしてしまう。

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フンザは今日も晴れだった (フンザ・イン 2): カリマバード

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中国からフンジェラール峠を越えてカリマバードのハイダル・ベグ氏の《フンザ・イン》に、僕等がチェック・インして四、五日した九月八日、朝から小雨が降り始め、翌日も篠つき続けた。
その夜、斜面のドミトリーの屋根の固めた泥が溶け始め、どんどんと雨漏りがひどくなって、全員レストランに移る。更に他に移ったような記憶もあるが、定かではない。
フンザ地方は降雨量が少ないので、日干し煉瓦や泥を固めたような物でも問題はなかったらしい。何しろハイダル爺に云わせると、「生涯で初めての経験」らしく、未曾有の大雨であったのだ。僕等にとっては、たかだか二日ほど小雨が続いたぐらいでしかなくても。
夜中慣れない場所で寝たからか寝付けず、真夜中にふと外に出てみると、雨が雪に変わっていた。

その長雨のせいで、早速カリマバード―ギルギットの道路が不通、フンジェラールに向かう道路も寸断という事態に陥り、カリマバードは陸の孤島と化してしまった。
インダス川中・下流域ではギルギットを始め、大洪水という。
一緒の夏休み利用の学生達が慌て始めた。
帰路の便が既にフィックスされている者も少なくなく、その上電話事情も芳しくなかった。

カリマバードの端まで歩いてみると、アスファルト路の崖側の部分に亀裂が走っていて、インダス川の対岸の崖が崩落し土煙をあげていた。思い出したようにあっちこっちで土砂崩れの轟音が不気味に轟き続けた。やがて、それは日を追うに従ってダイナマイトの爆発音に変わっていった。

カリマバードーススト間で崩れた道無き道を渡ろうとして白人女性だったか落石で死亡したという噂も流れた。
スストから三日もかけて遣ってきた日本人の話では、カラコルム・ハイウェイはめちゃくちゃに寸断され、四、五メートルの岩が道路の真ん中に転がっていたという。

水道すら使えなくなり、仕方なく皆でウルタルの麓まで空のペット・ボトルを何個も持って水汲みに行った。
一週間ぐらいして漸く蛇口から水が出るようになった。泥が多かったものの。

学生達は単位を失う事を懼れ、無理してギルギットの方に下っていったが、日本人の事故があったという話は聞いてないので無事下って行けたのであろう。
カリマバードは二日の雨だけで、後は青空の下、のんびりと普段の生活に戻り、テレビやラジオの"フロッド、フロッド"と喧しい下界の洪水騒ぎなんて全く別世界の事柄でしかなかった。

二回目の《フンザ・イン》滞在の時であったか、
背後のウルタルでは時々遭難者が出、何人もの日本人登山家が死んだりしていたのだが、登山家とはお世辞にも云えぬ、我が《フンザ・イン》のパッカーに、一人、あわやその遭難死者名簿に載りかかった者が出た。勿論、白雪頂いたウルタル峰なんかではなく、その遙か下界の麓、地元の子供達ですら頻繁に行き来しているウルタル氷河辺りでのこと。

ある日、同じ斜面のドミの泊まり客が、昨日の夕方からウルタルに向かった同室の日本人が戻って来ない。ひょっとして遭難した可能性があると、僕等に心配顔で訴えた。
早速ハイダル爺に伝えると村の者に伝えようと肯ってくれた。
勝手の分からぬ泊客なんぞの出る幕ではないと僕等は待つことにした。
が、ハイダル爺に訴えた時居合わせた白人達の幾人かはそうではなかった。早速ロープなんぞを手に捜索に向かっていたのだ。
ひょっとして彼等は山に慣れていた者達かも知れなかった。
それでも、必ずしも特に親しくはなかったであろう日本人の捜索、果敢且つ迅速な対応に思わず僕等は頭が下がった。

僕等は殆ど諦めかけていた。
とうとう何人か目の日本人のウルタル遭難者がこの《フンザ・イン》から出てしまうと。
やがて、地元の捜索隊が戻って来たという報が入った。
地元民の背に背負われて件の日本人遭難者が戻って来た、と。

彼は未だ学生であった。
短くカットした頭髪に半ズボン、サンダル履きだったかどうかもう忘れたが、ミネラル・ウォーターだけは持っていたらしい。
夕方(一番の禁止事項だろう)、近いからと軽い気持ちでウルタルに向かったと云う。
帰途、暗くなって足下が定かでなくなり、足を滑らし崖下の段差に落下、大した高さではなかったものの、足を痛め歩けなくなった。例え歩けたとしても暗闇で山路は歩けはしない。
その段差は窪み状になっていて、その奥に寄りかかり、ペット・ボトルの水で何とか露命を保ったらしい。途中小雨も篠ついていた記憶もあるし、夜は少々じゃないくらいに寒かったはず。軽い凍傷にはなっていたのかも知れない。
この件は、余りにも不名誉なため、彼のためにも外部には漏らさない方が好いのではないかと、最初に彼の行方不明を訴えた青年が云い、そんな仰々しい事かなと首を傾げたものの、魑魅魍魎の跋扈する昨今、何が機縁で何が如何なるか分かったものではなく、皆肯った次第。
けど、もうあれから十数年、知られざる《フンザ・イン》史の封印も解かれていいのではないかと。

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桃源郷十年戦争(フンザ・イン): カリマバード

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初めて標高四、五千メートルの中・パ国境、フンジエラール峠を越えたのは、パキスタン側で半世紀ぶりの大雨が降ってインダス川中・下流地域が大洪水になるちょっと前のことであった。
芝生のような薄い草が全面を蔽ったなだらかな中国側とうって変わって、一歩パキ側に入ると、急峻なゴツゴツした岩と砂礫の山々が拡がっていた。
 
最初に泊まった処が、カリマバードの、その頃既に有名だった《フンザ・イン》であった。中国から一緒だった日本人達(その殆どが夏休みを利用した学生)とレストランのある母屋から道路を隔てた斜面に石と泥で作られた建物のドミトリーに入った。
 谷底にインダス川が蛇行し、その向こう遙か上方に白雪を頂いた七千メートル級のディランやラカボシの峰が聳えた眺望は、言語に尽し難いものであった。
 背後のウルタル氷河から水を引いていて、可成り気合いを入れてでないと冷水シャワーは浴びられない。また建物の壁は厚く、僕等が滞在した九月の初めの日中でも、余り部屋の中に長居すると身体が冷えてしまった。
 
《フンザ・イン》のレストランは山岳地方の料理なので基本的に淡泊、おまけに常時メニューが同じで、飽きる他のウルタルやレインボウにまで食べに行った。それでも、ある晩なんか、白人客で満員で、僕等日本人達は厨房の方で食べる羽目に陥ったこともあった。

客との応対は、専ら髭のハイダル・ベグ氏が引き受けていた。
僕等は、親爺とか爺さんとか呼んでいたが、今では、"ハイダル爺"と馴染まれているとか。

その頃は、今ではカツシンと呼ばれているらしいハイダル・ベグ氏の親戚?も、母屋の背後に、ゲスト・ハウスを営っていた。そこにも日本人が結構泊まっていた。
そのゲスト・ハウスの前の広場で、ある時、地元民の祭りが催され、音楽や踊りがえんえんと続けられたこともあった。 

一、二年後、《フンザ・イン》を再び訪れると、道路から斜面の《フンザ・イン》のドミの建物に降りてゆく小径の反対側に、見慣れない建物が出来ていた。看板を見ると、《ニュー・フンザ・イン》と記してあった。
例のカツシンのゲスト・ハウスらしかった。
ある日、ハイダル爺が困惑顔でこぼした。
カツシンが、役所に《フンザ・イン》の名で自らのゲスト・ハウスを登録をしてしまっていて、ハイダル爺の《フンザ・イン》はもうその名前を使えなくなってしまうと。
フンザがパキスタンになった時、徴税史と警官が遣って来たのが遂この間の如く、まだ我利我利した近代というものに慣れてないフンザの平均的意識を代表するようなハイダル爺は、まさかの青天の霹靂事であったのだ。この日本でも同じような様態が多々見られ始め出したのも、そんなに昔のことでもない。
ハイダル爺は自分の迂闊さを悔やんでいた。
そして名前を《オールド・フンザ・イン》にしようかとも考えている、と。
それ以降フンザを訪れることのなかった僕は、その後の展開を全く知らなかった。
情報誌や最近ではインターネットで僅かに消息を辿れるくらいであった。しかし、それらで散見された情報は、年代別に整理されて発信されているのではないので最初僕は混乱してしまった。
それらを順に並べてみると、
'95年頃には、嘆き通りの展開であったらしく、
《オールド・フンザ・イン》、カツシンは《フンザ・イン》。
'99年も同じ。
'01年頃には、《ハイダー・イン》、
'03年頃には、《ハイダー・イン》、カツシンの方は何と《オールド・フンザ・イン》になったらしい。
'04年頃も同じ。
今現在の状況は詳びらかでないが、ハイダル・ベグ氏もカツシンも健在のようで結構なことだ。
僕が最後にカリマバードを後にしてあたりから、
伏兵コショーサンとやらが、あのプレーンなフンザ料理に "味"を導入し、専ら味覚で前二者を圧倒し始めたようだ。
するとかれこれ十年以上、三つ巴のパッカー争奪戦が、あの"この世の桃源郷"で繰り広げられてきたという訳だ。中でも、ハイダル爺が一番悪戦苦闘していたらしい。あのゼロ・ポイント手前の実に小さなエリアで・・・。
桃源郷も、近代の前には何ともろいものか。
僕が滞在していた時も、その一、二年前にここを訪れていた人が、余りにホテルが増えたのでびっくりしていたけど。
因みに、前フンザ系には未だ備わっていないらしいが、コショーサンの処にはインターネットで繋がるらしい。

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ノー・エアコン・バスはトンとともに TONG

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あれはいつも利用している宿近くのケーオ・チャムファー寺前のバス亭から乗り、窓を開け放ってシープラヤー通りに充満した排気ガスと埃と一緒に吹き込んでくる風に、火照り汗ばんだ身体と神経に辛うじて一抹の涼を得た、もうスリウォン通りに入るかまだ手前であったか、若い運ちゃんが音楽カセットを入れ替え、訳の分からないトランシーバー風の男の声が続いた後、早速ロック・ギターのイントロが始まった。
 「おっ!」と、うだった気分を払拭してくれそうなその音楽につい期待の眼差しになったのを、バック・ミラー越しに目敏く見て取った運ちゃんは、些か得意げに見えた。と、幾らもしないうちに、突然雰囲気が変わり、可愛い娘ちゃん風のささやきになり、思わずずっこけてしまった。
  その僕のリアクションをミラー越しにしっかり看ていた運ちゃんは何故か嬉しそうに笑い出した。それが、トンの最初のアルバムの一曲目の『ディヨウ・ホァ』であった。

 この最初のアルバム『TONG 111』には結構好い曲が入っていて、どのくらい売れたか定かでないが、ターターやボーの如く百万以上はいってないと思う。その頃はテレビを観れる環境にはなかったので、どの曲がヒットし、どんな風に唄っていたのかも全く分からなかった。後に、VCDなんかを観ると、日本の少女漫画・アニメキャラクター風にイメージを作っていたようだ。
  VCDで観る『グリッド』や『ラック・マーク・ルーイ』なんか僕のお気に入りで、所謂美少女風(実際には大学生の時デビュー)なんだが、当時そのまま日本でデビューしても好かったんじゃないのかと思えてしまう。『ラック・マーク・ルーイ』はトンが彼氏とプレイステーションのTEKKENの世界に入ってゆき、敵と対戦してゆくという面白いアイデアで、テッコンドーや射撃を趣味としているらしい彼女の凛々しい面目躍如としたクリップ。
 
 2001年映画『クワンとリアム』に主演した。
 タイのスタンダードらしい。二十世紀前半、バンコクを東西に走ったセン・セーン運河の東端、あの『ナン・ナーク』のプラ・カノンよりもっと遠い奥深そうなバーン・カピを舞台にした悲恋物語。
 僕も観に行って、小顔のせいか余計すらりと背が高く見えるトンの女子大生姿は清々しく、楽しく見せて貰った。それから少し過ったある朝、宿の「バンコク・ポスト紙」に目を通していると、件の『クワンとリアム』の評があった。クワン役の男優ニンナート・シンチャイの方はそれなりに褒めていたものの、当の映画初出演のトンに関してはめいっぱいボロ糞にけなしていた。鼻の形が田舎娘らしくないとか、演技がなってなく、まるでテレビの「ソープ・オペラ」の様だとか、散々なものであった。
 確かに、トンの演技に難点はあった。
が、それはむしろ演出側の問題でしかないだろと、天井ファンがゆっくりとまだ熱せられてない午前の空気を心地よくかき回しているさなか、客の居ないがらんとした居間で一人僕はトンの擁護に躍起になっていた。
 演出側がその甘い演技を求めたのだろう、現代風・都会風のトンを起用したのは、百姓然としたリアルな演技を求める為じゃないだろう、それにリヤムは村長の娘ではなかったか等と。
 実際、そう思うのだが、それ以降、テレビじゃあれこれドラマなんかで主役を演じてはいたものの、映画に主演したって話今だに聞かない・・・。

 同じ年、バンコクでグラミーの有名女性歌手七人の『セブン』コンサートが開かれ、マイやマーシャ、ナット等と一緒に一番若い娘として参加。僕は、国内のタワー・レコードのアジアン・コーナーで長細い豪華版紙ケースに収められたVCD三枚組を発見して初めてそのコンサートを知った。
 トンとナットのデュオは気に入っている。
この三枚組はコンサート・ライブのもので、YOUTUBE観てると、他にプロモーション・ビデオのような物も作られていたのが分かった。バンコクでは、同じ紙ケースのは見つけられなかったけど、普通のプラ・ケースに収められた三枚組は有った。
 これだけ人気歌手が一同に介していると、やはり見応えがあり、何度も観、聴いてしまった。"バード"・トンチャイのモーラム歌手チンタラーやナットと共演した『フェーン・チャー』のコンサート・ライブと同様、タイのエンターテイメントにおける金字塔の一つと云えるだろう。
 話しているトンは声が高かったけど、やっぱりトンは、この定宿のイサーンの端っこから出て来た一番若い娘にも貌の造作が似ていて、ほんとタイ人なんだなーと、ハーフの多いタイの芸能界にあって、トンが日本人に人気がある理由の一つが分かるような気がした。

 2005年、グラミーからRSに移籍して作られた『チェンジス』、CDのカバーには"TONG"ではなくタイ文字で本名の"パッカマイ"と
記されていた。
 可成りロック風味が強くなってきていて、二枚目のアルバムの時も『ソーン・ター』なんかで随分とイメージ・チェンジし、アイドル娘から大人の女へ脱皮ってことなのかと、残念に思いながらも、年齢考えたら仕方ないかなんて勝手に納得したものであった。四枚目のアルバムはつまらなかったし僕は買ってなく、あの頃がスランプだったのか、単に事務所側が好い曲を作れなかっただけなのか詳びらかではないが、RSに移るってのも至極もっともだと思った。
 この新アルバムVCDの中の『クライ・チャ・パイ・ラック・ロン』は、しかし、一枚目のアルバム中の『グリッド』の映像にちょっとマイクを前に唄っている似た構図の箇所があって、デビューから七年の変容が窺えて興味深い。
 僕は通じゃないから、グラミーと RSの違いなんて知る由もないが、あれこれ読んでみてみるとそれなりに有るらしい。
 日本で結構人気あるらしいパーンも同じレーベルらしいけど、トンが来日しコンサートを開いたってニュース寡聞にして聞いたこともない。もうそれから二年過っていて、そろそろ新しいアルバムが出る頃なので、果たして如何なものを聴かせてくれるのか、否、トンの場合には映像に拘わる僕なので、RSアルバムの冒頭の『クワーム・ラック・カップ・ファーン』のちょっとカルトな感じのシャム双生児でも出て来そうな怪しげな映像が可成り気に入っているので、更なる進展あるいは深化を期待している。

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バリのアプサラ (ウブド)

20070701160852

あれはジャカルタで暴動が起き、華橋・中国系の住民が襲われたりして大騒ぎになってまだ幾らも過ってなかった98年の夏頃、一度っきりであったが念願のバリ行を果たした。
若い娘達で溢れ返っているはずの芸能村ウブドの通りには閑古鳥ばかりが人待ち顔に侘びしくさえずるばかり。
知人に聞いた宿も15000Rp(インドネシア・ルピヤー)から25000Rpに跳ね上がっていた、と云うと語弊があろう。1$=14000~ 15000Rpに暴落していたのだ。
宿のボーイのワヤンの言によると、暴落前までは月に100000Rpで生活でき、残りは貯金すらできていたのが、今では月300000Rpは必要となり、逆に貯金を引き出さねばならなくなったらしい。
暴動の余波で外人観光客が文字通り激減し、ホテル等の従業員も可成り失業したという。

宿は前に青い田んぼが拡がったバルコニー付の広い部屋でホット・シャワーどころか、バス・タブまで付いていて、朝食付き。
毎朝、ワヤン手製のそこらのにわかレストランより美味いパン・ケーキなんかを運んで来てくれた。ドミだ狭いシングルだにすっかり馴染んでしまっているパッカー達にとって、バリは正にインド洋に浮かんだ楽園であった。

夜は長年是非直に観てみたかったバリ舞踊三昧。
有名処の歌舞団の生演奏・舞踊を、たった一ドルで観れたのだ。
それも常時早めに行って前の席を確保し、あるいは椅子席より前の舞台の真下に坐りかぶりつき。有名なジュリアティyuliatiやビダニーbidaniなんかの舞う姿を間近で観れた。只、かぶりつきは余りに舞娘達に近過ぎてもろ視線が会うことも多々あり、互いに視線のやり場に困ってしまい喜んで好いのか悲しんで好いのか嬉しい困惑も。
グヌン・サリ、ティルタ・サリ、サダ・ブダヤ、スマラ・ラティ、メカル・サリ、グンタ・ブナ・サリ等殆ど毎晩通い続けた。

石造りの神社の境内で月や星、刻々と流れ変容していく雲なんかを背景に観る演奏と舞に勝るものはなかった。

会場には大抵地元の娘達が小遣い稼ぎなのかポリ・バケツに入れた飲物やスナックを売りに来た。顔ぶれは大体同じで、ボルことをまだ余り知らない八歳ぐらいの小娘から瓶コーラを何時も買っていた。2000Rp。売娘の中にはジュリアティの同級生も居た。
その同級生だったか誰だったか、ある夜公演が終わった帰り道、僕の前をその娘が空になったポリ・バケツを片手にてくてく歩いていた。と、その娘が自分の家らしい商家の敷地に入った。ふと見ると、可成り売れたのか満面に笑みを浮かべさも自慢げに片手の札束を家族にみせていた。何とも無邪気なものであった。

頂度この頃、14歳の舞姫ジュリアティは長年有名馳せたレゴン・ラッサムの舞の要チョンドンの役を卒業し、脇のレゴンの方を舞っているのを一度観た。これは何とも侘びしいものであった。一ヶ月近く観てきた彼女の艶やか且つ華麗なチョンドン舞が焼き付いていただけに。
一方妹のビダニーの方はもはやティルタ・サリの押しも押されぬチョンドン役として美麗な舞を披露してくれていた。

時たまジュリアティの家族が営っている宿、《ジュリアティ・ハウス》の前にある《Rizka Cafe》で過ごすことがあった。直ぐ脇に民家が有り、そこの家族がオーナーのようで、その家の娘とジュリエティ、ビダニー が同じ学校らしく、ビダニーが白いブラウスに紺のスカート、白い長めのソックス、スニーカーのいでたちで現れ、ポッキーをむしゃむしゃ食べながらその向かいの友人の家にさそいに行ったり、三人で学校から戻って来ているのを眼にしたこともあった。
二人の追っかけ連中はその《ジュリアティ・ハウス》に泊まるらしい。大半が日本人という。実際会場で見掛ける日本人が出入りしているのを頻く見かけた。

当時はまだデジ・カメやDVではなくハンディー・カムの時代で、日本人の少なからずがビデオに収めていて、国内には相当彼女達の舞の映像が潜在しているはずだ。
如何いう訳か、ジュリアティやビダニー、否彼女達以降の舞娘達の映像がビデオ・カセットやDVDに結晶化するってことがない。商品化する事自体に何か問題があるとしか考えられない。何でもかんでも商品にしてしまう現在、普通ならとっくに売られているだろう。
バリの人々のそういう風潮に対するささやかな抵抗なのであろうか。古いVCDは有るようだが。

サイトで以前ビダニーの短いチョンドンのを観たことがあったが、今はもうなくなったようだ。何しろ、舞踊なので、動画じゃないと意味がない。YOUTUBE幾ら捜したって見つからない。
まあ、NHK教育のインドネシア語講座に出ていたので、そのDVDを観れば好いのだが、もう二十歳過ぎて、過日の褐色のアグン山と奥深いバリの森から顕われたプリメリアの妖精の如くの妙艶さはさすがに色褪せてしまっている。舞踊家としては益々磨きがかかってゆくのであろうが。DVDを観ると、ティルタ・サリのレゴン・ラッサムでまだレゴンを演っていて、もはや彼女の定位置となったようだ。本来的には、侍女チョンドンより、レゴンの方が重要な役割なので、それはまたそれで好いのだろう。ジュリアティがレゴンを舞うことで、又別様の見方が出来るようにもなるからだ。

僕はビデオカメラまで持って旅する気はなく、嘗ては一眼レフまで持っていたものだが、やっぱり邪魔で、壊れてからはコンパクト、そしてデジ・カメ。この頃カメラの調子悪く、肝心の時になると作動しなくなったりで大した写真残せてないのが、何とも悔やまれて仕方がない。それにしたって、ウブドは、やはり思いで深い。
ジュリアティもビダニーももう教える立場になっているようだ。ワヤンは日本娘と結婚して日本に居るらしいが、他のバリの人々、一体どんな生活送っているんだろう。現在じゃ入場料55000Rp~80000Rpという。

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シティー・オブ・ゴースト : ロンノル、ポルポト、魑魅魍魎の大地

20070702102853

劇場ではなくビデオで観たからか、アクション・シーンは大して迫力もなく面
白くもない。この映画が、決して悪くはないのに、今一つ詰まらなく感じさせ
るのは案外そんな処に原因があるのかも知れない。

同じ頃らしいオキサイド・パンのバンコクを舞台にした<テッセラクト>が、逆
にストーリーが単純なのにアクションが実にうまく作れていて、むしろ"アー
ト"といって好いくらいな質のものになっているのとちょっと対照的だ。

≪テッセラクト≫の方がスピード系なら、こっちの方は明らかに六、七十年代風
の、"ベトナム戦争"の影がちらつくようなグラス(大麻)、いや今時そんな言葉
使う奴居ないだろうからせめて如何にもアメリカンなガンジャ風とでも云うべ
きか。

ハリケーンで甚大な被害を受け、その多くの被災者達が頼るものといえば、ア
メリカではやはり自らが積み立てた災害保険らしい。
この映画は、ついこないだのハリケーン・カトリーヌより前に作られていて、
インドネシア沖地震・津波 (カラバオの・・・ツナミ・クー・アライのフレー
ズを想い出してしまう) でも事後の遅々とした復興を見れば、やはりそんなも
のなんだと納得せざるを得ない。
が、しかし、そんな頼みの綱である長年積み立てた保険が、実は"ゼロ"、つま
り一セントも掛かってなかったら、果たしてその被災者達は一体・・・

監督・主演のマット・ディロン扮するジミーが正にそのゴースト・カンパニー
たる詐欺保険会社の営業責任者で、FBIに経営者マービン(ジェームス・カーン)
の行方を追及され、身の危険を感じ、バンコクに高飛びする。バンコクには、
タイ女に入れ込み同棲している同僚のキャスパーが住んでいて、更に隣国の首
都プノンペンへマービンに会い行く事となる。

ここから本編といったところだが、サップ川近くだろうか、<ベルヴィル>とい
うフランスの俳優ジェラール・ド・パルデューが営っている植民地時代の朽ち
た建物のカフェの向かいにあるホテルに投宿する。

このド・パルデュー扮する如何見ても小綺麗とは云い難いなりのオーナーが、
ステレオ・タイプと云え、本当に好く決まっている。
ごく最近は知らないが、首都といえども赤い土埃舞うプノンペンでは、バンコ
クやチェンマイのように小綺麗では居られず(<ベルヴィル>の椅子の上にハ
ンカチを敷いて座るバンコクから来たキャスパーがカンボジアを露骨に嫌って
いる )、それにド・パルデュー以上に怪しげなフレンチの姿も少なくない。
欧米や日本・韓国からやばくなってタイへ逃げ出し、更にカンボジアへと逃げ
延びてきた怪しげな連中がそのまま画面に映っていそうだ。と、云いたいけど
、残念ながらそこまでの映像性はない。そこまで描ければ、アクション抜きに
しても、<テッセラクト>と同じくらいの傑作になったかも知れない。

でも、雰囲気は好い。
カンボジアのあらゆるジャンルの音楽を流していて"これぞカンボジア" 風では
あっても、現地人にとってはともかく、所詮外人たる僕等にとって、それは正
にカンボジア、プノンペンそのものに違いない。
変に欧米のロックやもどきを殆ど使ってないのが雰囲気を損なわず、むしろ嬉
しいぐらいに醸し出してくれている。

これもお決まりの、現地人のソクというシクロの運ちゃんとひょんな事から付
き合いが始まり、次第に信頼関係すら生まれてくる。<ベルヴィル>でソフィー
という遺跡発掘・保存関係の仕事をしている女とも知り合い、やがて惹かれ合
うようになる。
このソクやソフィー、そしてボスのマービンとの親密化してゆく人間関係を軸
に、(殊にボスのマービンとの関係の謎解きの様相すら呈し始める)映画は進行
してゆく。
子供の頃から彼の母親と親しかったマービン、そしてジミーにも親身に接して
呉れてきた父親的存在のマービン、それが最後に息を引き取る寸前に本当の父
親であったと分かってしまう。

≪クラッシュ≫でも、家で内臓を患い一人でトイレにも行けぬ父親の介護で不
眠症状態に陥っている質の悪い警官をやっていて、やっぱりアメリカ版≪父帰
る≫・・・現代風人情ものの世界なんだろうか。

まあ≪クラッシュ≫ の方はドラマチックに作られていて介護シーンが生きて
いたんだろうが、こっちの方は緩慢に謎にもならない謎解きがわざとらしいま
でに展開されてゆく。

実はボスのマービンは詐取した金を、すべてカンボジア国内の一大カジノ、世
界中の動物を放し飼いにした狩猟ゾーン等の備わった三十階建てのカジノ・プ
ロジェクトに注ぎ込んでいたのだ。

ロシアン・マフィアをかわすために、ロシアン・マフィアと通じた裏切り者キ
ャスパーを騙すため、現地側のシデス将軍と組んで自らの拉致事件の工作をす
るマービン。最後は、我が息子ジミーを助けるため将軍と撃ち合いまでし被弾
して死に至る。
この辺の展開は些か不自然過ぎていて、もう少し整合性有っても好かったので
はないかと思う。

どっちにしても、僕にとっては、カンボジア・プノンペンのあの雰囲気を、お
ざなりではなく、それなりのこだわりを以て映像化している正にその一点で評
価に値すると映画だと思っている。
 

監督: マット・ディロン
脚本: マット・ディロン、バリー・ギフォード
撮影: ジム・デノールト
制作: Banyan Tree
2002年作品(アメリカ)

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テコでも動かぬルクソールの安宿(エジプト)

20070702100005

カイロから鉄道で半日、ナイル川沿いにルクソールという、カルナック神
殿や対岸の王家の谷で有名な観光の町がある。
僕が行ったのは、西側のツァー客達が襲われ多数の死者が出た翌年くらい
であったろうか。

最初あれこれ捜してみたが、結局何処も似たり寄ったりというという事で、
"New Student Hotel" という少し路地に入った一泊朝食付き5ポンドの安宿
に泊まる事となった。2ベッド・ルームで、一つのベッドは傾き、調度は
折りたたみ式風の洗濯物干し?だけ。窓はフレンチ窓。
朝食は屋上で、と云われ、昇ってみると、屋上には何故か沢山ベッドやテ
ーブルが並べてあった。
時刻は九時半頃、泊まり客の三十代の米国人が、もう三十分も待ってるん
だとイラだっていた。そのうち自分の部屋からティー・バッグと玉子を持
って来て、粗末なキッチンで自分で料理し始めた。そばに賄いの(と、思
っていたら掃除専門だったようだ)女性が居たのだが、事情がさっぱり分か
らなかった。
と、その女性とこの宿のハジャイというまだ十代中頃のボーイがキッチン
で怒鳴り合いを始めた。暫くして、皿に自作の目玉焼きをのせた米国人が
呆れ果てた顔で出て来た。僕は他人事のように苦笑してしまった。
その後、この宿の小太りした悪党面の客引きムスターファが現れ、僕の朝
食を作るように命じ、ようやく遅い朝食にありつけた。
目玉焼き、アエーシ・バラディとジャム&バター、チャイ(シャイ)。

このハジャイ、僕はミドルネームに"ドンキー"の名を献じていたのだが、
僕が洗い場で洗濯していた時、何故か勝手に横から手を出してきたので不
思議に思っていたら、後になって洗濯代2ポンド払えと、宿のオーナーか
誰かの煙草ふかした少年に云わせたとんでも無い(まぁ何処にでも居るが)
輩で、毎朝の、パンがない、玉子がない、ガスがない等の朝食を巡る騒動
の主役であった。

そこにアルトゥールという三十代のインド人の泊まり客がいて、
温厚でドンキーや掃除の女性によく笑い話なんかをして笑わせていた。
僕が食べ終わった頃、彼がやって来て、ドンキーに朝食を頼んだ。
ところが、ハジャイも女性も知らん顔で、幾ら彼が頼み怒ってみせてもて
んで相手にもしないどころか、愚弄することしきり。
正にドンキーの面目躍如といったところであったが、恐らくアルトゥール
がいつも冗談を云ったりしてるので軽くみられてしまったのであろう。
暫くしてムスターファがやって来てハジャイに朝食を作るように命じても
テコでも動こうとはしなかった。それから一時間ぐらいして米国人が現れ
た頃になってやっと作り始めた。

僕の場合は、大体作ってくれていた。
例の洗濯代もきっぱり断ったし、ムスターファがしつこく頼み込んできた、
彼等現地人が買えない何十ポンドもするウィスキー買い(手数料2ポンド)
も、にべもなく断ったりしていたのも影響していたかも知れない。
それじゃ、ハジャイはドンキーそのものではないか!

ある朝、僕が四日分の部屋代20ポンドをムスターファに払うと、早速ハジ
ャイが朝食の材料を買いに走った。それはもう、安宿というより、貧乏宿
と云うべきではなかろうか。作品にはないが、殆どつげ義春の世界のよう
にすら思えてくる。
一言でいえば、ともかくロクでもないホテルであった。
それだけに、後になってみると、つくづく想い出深い。
あれからもう十年以上過っているが、ひょっとして、今でも毎朝、同じ
騒動を繰り返しているのかも知れない。
十分に有りそうな事だと思う。

因みに、この頃、1ドル=3.39エジプト・ポンド。

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2007年10月 1日 (月)

旅先のテレビ :シャールーク、R・ムカルジー&P・ジンタ

20070629110010

インドでもテレビを観る機会は殆どなかった。
安宿巡りでは当たり前だし、それ以上に周囲の通りのインド人達を
眺めながらチャイでも飲んでる方が遙かに面白かった。
今はまたちょっと事情が変わったのかも知れないが、インドでテレ
ビなんて観れたのは、デリー、つまりメイン・ロード(パハール・
ガンジ)の安ホテル《ビシャール》付属のレストラン、"APETITTE"
でのみ。実際には、それ以前、同じ《ビシャール》のもう一つのレ
ストラン"LORD's Rest."で。
大概、ZeeTVのボリウッド映画のミュージカル・シーンが果てしなく
次から次へと映し出されるか、MTVと相場が決まっていた。

デリーでの定宿、《グリーン・ゲスト・ハウス》では、たまに宿のオ
ーナー家族の部屋に間に合わせに一泊することがあった。シーク教徒
の親爺さんはアメリカ・プロレスが好きなようで何時来てもプロレ
スばかり観ていて、一度長々と付き合わさせられた事があった。
せいぜいそれくらいの、基本的にはオーナー家族の為の物でしかなか
った。

インドのテレビ番組も、やはり、カンボジアのスターTVで観ること
が出来た。

以前、《これでインディア》で、それまではアミターブがやっていた
日本ではみの・もんたの"クイズ・ミリオネヤ"と同じ番組の司会を、
インドでは、KBC、"Kaun Banega Crorepati"と云うタイトルらしい、
過労で倒れたアミターブに替わって、シャー・ルーク・カーンがやっ
ていると云う記事を読んだことがあった。
YOU TUBEをあれこれ観ていると、ちゃんとSRKが司会している同
番組の、ホーリー・スペシャルと銘打った特別ゲスト、いつもSRK
の相手役をしている女優ラニー・ムカルジーとプリティー・ジンタの
二人が解答者として出ているのがあった。
いつも共演しているからだろうが、三人とも丁々発止に会話が弾んで
いてヒンディー語はわからないながらも、観てて飽きない。
シャー・ルークの司会も軽妙で仲々上手い。

日本のと音楽も設問の表示も同じなのには驚いたが、それ以上に、設
問と設問画面が英語なのには、それ以上に戸惑ってしまった。
確かに、インドは多言語で、この番組がどの地域で流されているのか
定かでないが、ヒンディー語は必ずしも全国的ではないらしい。
この二人以外にも、サンジェイ・ダッドとボラーン・イラーニーがゲ
ストのもあったが、やはり、英語とヒンディー語をミックスして話し
ていた。これでは、映画でもそうなのだが、英語の分からないインド
人達って、この番組を本当に理解出来るのだろうか、とつい老婆心な
がら気に掛かってしまった。

因みに、アミターブ・バッチャンの司会のものも有ることにはあったが、
SRKのホーリー・スペシャルに比べると詰まらなかった。勿論、アミター
ブの司会がではなく、僕が観たYOU TUBE に収録されたものが詰まらな
い物ばかりだったに過ぎない。
アミターブの司会はシャー・ルークとは又趣を異にして正にアミターブ
そのもの、格調高い。

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旅先のテレビ : タイのTV&CM

20070629110029

タイでは余りテレビを観る機会はなかった。
定宿のテレビは大体GHのスタッフ専用と化していて、白人達もテレビを
騒さいと嫌っていたこともある。
僕自身は国内ではそんなに観ないが、海外ではその国の国情を知るには格
好の媒体と機会があれば観る方なのだが、本当にタイでは先ず観ない、否
観れなかった。
ポップ・アイドルのターターや二、三百万枚売ったと云われるデビューし
た頃のボーなんかを観たくてしょうがなかった。
チェンライの《チャット・ハウス》の小さなテレビでボーを初めて観た。
素人のカラオケ番組だったのか、ゲストにボーが登場し、ボー自身は唄う
ことなくその素人ばかりが下手な歌をえんえんと歌い続けていた。
ところが、ボーの姿が現れたころから急に電波状況が悪くなり、肝心のボ
ーのところになると画像が乱れ始め、結局最後までボーのまともな姿など
殆ど観れなかった。さすがに、大人気もなくむかついてしまった。
大部後になって、確か日曜の昼下がり、シーロムのレストランのウィンド
ー越しに大型テレビ画面に映ったボーの姿の何と神々しかったこと。

僕の場合、タイのテレビ番組は大抵隣国カンボジアで観た。
スターTVがあるので、外の国のも、インドのZeeTVやパキスタンの連続
ドラマすら観ることができた。
この列島では、未だにその中のおまけのような映画専門チャンネルのみが
流され、時代・状況からとっくに置いてけぼりをくわされ、否それすら気
が付かず、BBCやCNNなんて今や誰の目にも明らかな英米の世界戦略・
情報操作放送を金科玉条の如く頂いて得意の絶頂。
最初、この列島でもスターTVが放送されるなんて話聞いて、本当かいな
と半信半疑ながらも少しは期待した自身の愚かさよ。

BEC-TEROから出たターターの《TATA YANG》のVCDの巻頭に"SMOOTH E"と
いう化粧品のまだ可愛いターターともう大人のターターを混在させた面白
いCMが入っていた。もう五、六年前のことだ。
誰が後年、インド映画のヒット作のテーマ曲を歌うどころかエンディング
に主役の男優達とセクシーなミュージカル・シーンを撮るなんて思っただ
ろうか。
このCMを観て、あらためてターターはコミカルなものが似合うんだなあ
と、デビュー後モスと共演した《the Red Bike Story》を思い合わせなが
ら感心してしまった。
で、この化粧品のCM、テレビでも流れたのだろうか?
普通に考えれば、流がされていたものが、CDのスポンサーでもあったので、
VCDにも収められたのであろう。

バード・トンチャイがモーラム歌手チンタラーと共演したコークのCM、
バンコクで一度観た記憶があったのだが、もう何年も前のものなので、
さすがにYOU TUBEでも観れない。
そのかわりキリンの"生茶"のCMが観れた。
何処かの温泉宿で実際に撮影したのかどうか定かでないが、生茶とナム・
チャー(お茶)と語呂合わせしたのが面白かった。

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カブール・エキスプレス

20070629105943

バレ、バレ、シュニ・ダメシ・・・
冒頭の髭だらけのコマンダルが無線でカブール行きの車両要請した時のダ
ーリー語、これがなんとも好い。これ以上のないくらいのイントロで、そ
の後、現在のアフガニスターンのさまざまな光景が続いてゆく。
黄色い砂礫の大地、やがてその一部と化してしまうだろう破壊され放棄さ
れた錆びた戦車、壁だけ残り廃墟と化したホテル・・・

ジョン・アブラハムとアルシャド・ワルシ扮するインドから来た一発屋の
テレビ・ジャーナリスト、サヘルとジェイ、故国パキスタンにもどるため
国境の町トルハムに向かうタリバンのイムラン(サルマン・サヒッド)、米
国のフォト・ジャーナリストのジェシカ、この4人以外は、<カブール・エ
キスプレス>と号された四輪駆動の運転手兼現地ガイドのカイバル(ハニー
フ・ハム・ガム)を始めすべて地元のアフガン人達。

いや~かつて、パキスタンのアフガンの銀嶺の峰々が遠くに望める古都ペ
シャワール近郊に散在したアフガン難民達のバザールにうごめいていた表
情と格好そのままで、本当再会でもしたように嬉しくもあった。
長髪に髭、モスグリーンのフィールド・ジャケットそしてアフガン帽のム
ジャヒディーン風の男達。皆、人なつっこかった。
レストランに入ると大抵おごってくれたり、チャイだけ注文すると日本の
五色豆と同じ(白単色だったが)豆菓子を添えてくれたり、心底旅行者好き
であった。
一歩パキ人エリアに入ると、通りに突如現れたパキスタン警察に蹴っ飛ば
されたり長棒で叩かれたりして追い払われていた肩に担いだり屋台を押し
たりの露天商のアフガン人達。

その頃どんなことをしてでもアフガンに入りたいという者は、ペシャワー
ルのあちこちに在ったジャミアテ・イスラミはじめ各ムジャヒディーン事
務所にコンタクトをとった。
サヘルとジェイのインドの一発屋ジャーナリストも、やはりガイドのカイ
バルを通してコンタクトを取って、タリバンとのインタビューにこぎ着け
ようと企んだ。が、失敗におわってしまった。
ところが、帰りの四駆<カブール・エキスプレス>に突如ムジャヒディーン
に追われた一人のタリバンが入りこみ、カラシニコフを突きつけ、パキ・
ボーダー行きを命令する。ここから、彼等のたった二日間ではあるが、長
い旅が始まる。

あえて云えば、この映画の実質的主人公は、タリバンのイムランであろう。
イムラン役のS・サヒッドは有名なパキスタンの俳優らしく、仲々渋く哀
愁漂う一番美味しい役。ガイドのカイバルのアフガン俳優H・ハムガムは
ちょっとコミカルな役どころ。
付録のメイキングで、アフガンのアムリス・プリーの冠詞を付されていた
例の髭面のコマンダルが僕の一番気に入った役者(ファローク・バラキ)で、
他のムジャヒディン役の俳優達も、<シャクティ>に勢揃いした悪役並の悪
党面のハザラ役達も、皆かつて見たことがあるような懐かしい顔々ばかり。

インド(ボリウッド)映画で、パキの俳優まで起用して、悪評高いタリバン
にかならずしも厳しいばかりではない一人の人間としての情愛に満ちた視
線を向けざるをえなかったのは、やはり、今でもカシミール問題などヒン
ドゥー⇔イスラムの問題を抱えているインドの国内事情も当然あるだろう。
ここでは、もっぱらアメリカとその傀儡のパキ軍事政権が≪悪者≫に描か
れている。アフガンをもち出せば、いやでもアメリカの影を無視できない。
かつてソ連がそうであった以上に。

この映画で妙に感心したのは、銃撃シーンだ。
今までのボリウッド映画でそんなこと余り思ったことがない。
単純に、実弾でも使っているからだろうか。
ともかく、妙にリアルで臨場感があり、バックのアフガニスターンの光景
とまた妙に融けあっている。

僕も観ていて些か首を傾げた、<ハザラ>族の扱い方、
確かに悪名高いのは知っていたけど、所詮差別感情の域をでないのは分か
り切っているし、最初観て驚いてしまった。大丈夫なのかと。案の定、アフ
ガン国内で、色々と抗議されたようだ。
<ハザラ>はモンゴル系だが、ペシャワールにも沢山居て、風貌的に日本人
には親しみやすい。面白くしようというのは分かるが、配慮という以前に、
そこをもっと知恵を絞ってうまく出来なかったものか。あまりに安直過ぎ
て、この点だけは残念だ。

<ピンジャル>,<ヴェーラ-ザーラ>,<ガダル>等挙げれば切りがないくらいボ
リウッドで作られてきたヒンドゥー⇔イスラム、あるいはインド⇔パキス
タン問題をテーマにした映画の中で、もろイスラム世界の問題を取り上げ
たこの映画は些か異彩を放っている。

監督:カビル・カーン
プロデューサー:アディティヤ・チョプラ
ヤシュ・ラジュ・フィルム
2006年作品(インド)

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カイバル・ホテル(ペシャワール)

20070629105906

イランからパキスタンに入り列車で一気にアフガン
国境に近いペシャワールに向かった。 
イラン国境から一緒になったセミ・プロ‐カメラマ
ン氏の薦めで、日本人宿として有名だったので避け
ようとした <カイバル・ホテル> に泊まる羽目とな
った。
住めば都とでも謂うべきか、彼がとっくに発った後
もずっと居続け、一月以上も滞在してしまった。
その頃はまだ外人登録はしなくてはならなかったも
ののノー・ビザで、延長も三ヶ月のダブル・ビザが
135Rs(ルピー)で貰え、のんびりとしたものだった。

   <カイバル・ホテル> は1940年代に建てられた三
階建ての建物で、屋上にも部屋か何かあったように
記憶している。
屋上では店のスタッフが絨毯を敷いてお祈りをした
り、泊まり客が日光浴や遠くに白い雪を頂き聳えた
アフガンの峰々や下のサダル通りを眺めながら雑談
したりしていた。
ドミトリーは30Rs、僕が最初に入ったドミは五人部
屋で、新市街の通りに面して窓があった。窓から向
かいにあるG.P.O (中央郵便局) が覗けていた。
泊まり客は日本人より白人達の方がちょっと多かっ
たようだが、頂度 <湾岸戦争> が勃発した時期で、
大使館の退去勧告などもあって次第に泊り客も減っ
ていった。旧市街に泊まっていた日本人は風当たり
が強く皆他所へ去っていった。

ある時、銃声か何かの音がしたとおもったら、サダ
ル通りいっぱいにサダム・フセイン擁護の反米・反
西側デモ隊がこちらへ向かってやって来ていて、ま
だ残っていた数人の白人達が窓から下のデモ隊の写
真を撮り始めた。すぐにデモ隊に見つけられ、形だ
けの投石を受けた。慌てて、上の階に逃げ、そこか
ら懲りずに写真を撮り続けた。 

ドミのテーブルの上に、日本の本や文庫本が何十冊
も積まれていて、<大菩薩峠> や <深夜特急>、甲斐
大策のアフガン小説まであった。僕も初めて <大菩
薩峠> をそこで読み、イメージとは余りにかけ離れ
ていて唖然とさせられたのを覚えている。

個室の方は定かでないが、ドミの方のベッドは、チ
ャール・パイと呼ばれる木柱に網を張った代物で、
大きな欧米人達は寸法が短く斜めに寝ている者も居
た。
寒くなると、窓側に設えられたストーブを点けてく
れた。暖まったところに、同室の僕以外全員がチャ
ラスをやっていて、その濛々たる紫煙の中で知らず
眼がトロンとしてしまっていた。
アフガン人のブローカーに云わせると、マザール(マ
ザール・シャーリフ)のが一番佳いらしいかった。

食物ではやはりカバーブで、例の馬鹿デカいハンバ
ーグ風のシャミ・カバーブではなく、普通の串刺し
肉だ。隣のカニス・ホテルの一階でカバーブを焼い
ていて、1Rsのカバーブを四本、ちょっと先の角に
あったチャイ屋でナーンと一緒に食べるのが一番の
楽しみであった。ナーンに肉汁が滲みていてこれほ
ど美味いなものはない。中国でも食べたが、やはり
ペシャワールのアフガン人達の焼いたカバーブが僕
には一番であった。
中東のドルマは、それに比べると数段味が落ちてし
まって、トルコでは他にも色々あって問題はないが、
シリアなんて生焼けチキンぐらいしかなく、苦労さ
せられた。

カイバル・ホテルにも一階にレストランが有り、僕
も何度か食べたが、料金が少し高く、大抵の者は他
に食べに行っていた。
カニスとは逆方向に在る有名な<グリーン・ホテル>
やG.P.Oの裏にあった中国料理屋にも、時折大抵連
れだって行くこともあった。
チャイニーズ・レストランの方は、僕らからみれば
只のレストランだが、地元のバキ人達にとっては高
級な店で、日本人が本国並に一、二品一人分として
注文しているのに較べ彼らは一、二品を家族皆でそ
れぞれの皿に分けて食べていた。食べると謂うより、
高級な雰囲気を楽しむといった感じであった。

そんなカイバル・ホテルも、次に訪れた時にはもう
なかった。建物は在ったが、真っ白くペンキで塗り
替えられ、メヘラン・バンクに変わっていた。
ホテル自体は必ずしも経営状態が悪かった訳でもな
く、オーナーが他のことで借金を作ってしまい、そ
の形に建物が取られてしまったらしい。

僕が滞在したのは後期否末期のカイバル・ホテルだ
ったが、何ともあっけない幕切れであった。
それ以降、こっちの新市街の方は、少し駅よりの <
ツーリスト・イン・モーテル> や隣の、屋上のベッ
ド置き場をそのままドミにしたような <カニス・ホ
テル> がその代用となったが、到底カイバル・ホテ
ルと較べうるようなものではなかった。
もはや幻のホテルの一つとして歴史に刻印されてい
ると云っても過言ではない。

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逆 デ・ジャヴ

20070629105817

我が南西辺境州の寂れた港町を
ちょっと歩いてみると
あれっと奇妙な感覚にとらわれてしまう。
うん? 何だ・・・
何かが違う。
その微妙な違和感を辿っていくと
記憶に在ったものとリアルタイムの町並みに
わずかにズレが生じているのが分かった
ついこの前まで在った建物が
忽然と消え
更地になっていて
随分とせせこましかった佇まいが特定の角度から
妙に見通しがよくなったりしている
それがあちこち、表通りから裏通りまで
今だ嘗てなかったくらいに
時々刻々と進行している
大抵駐車場でなければマンションと
更地のあとに出来る物は相場が決まっている

嘗て中国南部辺境州の省都・昆明は
旅行者の間では、何の顧みる価値のない街として
単に、雲南のもろもろの目的地に向かうための中
継点としてのみ位置づけられていた。
が、頻(よ)くそう云われていたハノイなんかと同
様、昆明には <旧市街> が在った。
昆明駅から北にまっすぐ伸びた北京路の途中で
左折した金碧路を横軸に、北は同仁街や祥雲街、
南は西寺塔・東寺塔辺りまでの広い範囲に渡って
古い町並みが連なっていて、軋んだ木造の家屋は
生活するには些か不便だろうが、旅する者からす
れば、これほどすばらしい空間はなかった。
褪せた朱の板壁の木造や所々塗装のはげた煉瓦造
りの民家が迷路の如く建ち並び、あるいは果ては
シンガポール辺りまで拡がった歩廊(片側アーケ
ード)の町並み等が、何度通っても飽きさせなかっ
た。
だから、大抵の旅行者が、昆明はつまらない街と
決めつけていたりすると、
「そんなことはない、旧市街が在る!」
と、まるで昆明旧市街観光協会員にでもなったか
の如く、町並みの面白しろさを吹聴したものであ
った。

ところが、数年かそこら間を空けて再び昆明を訪
れ、旧市街の方に向かうと、行っても行っても在
ったはずの佇まいが無いではないか。
あるのは、広い範囲に渡って建築中の白っぽいマ
ンション群だけ・・・。
ある特定の通りとか、小さな町区ってものではな
く、あの広大な旧い町並み殆ど全部がまるごと叩
き壊され更地にされていたのだ。
暫し呆然としてしまった。
もはや僕の定番と化していた金壁路での、
砂鍋米線(小碗)→一品軒の湯元→屋台の切り西瓜
の小吃コースも、一瞬の夢と化してしまった。

昆明で <世界博> が開催されたためと云われてい
る。世界からの客にみっともない物は見せたくな
いらしくまだ残った家々も壁で蔽われ表通りから
見えなくしてしまったようだ。
まあ、博覧会やオリンピック、権力がやることは
何処も同じ。
で、又、元の木阿弥に戻ってしまった。
つまらない街=昆明。
だから僕はもう、
誰が昆明をつまらない、何もない街! 
と罵ろうと、大きく相槌を打つしかなくなった。

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プノンペンの朝はカラシニコフではじまる

20070629093205

プノンペンの朝はカラシニコフではじまる!
これは僕の、もう幾年来のお気に入りのフレーズ
であった。けど、時代は移ろい、もうさしもの
"危ない町"プノンペンも小綺麗な安全な町として
あの外務省から太鼓判を押されかねなくなってい
そうな昨今、何とも時代遅れな、ツールスレン博
物館の隅っこで埃を被っていそうな代物に思えて
しまう。
この数年、プノンペンとはまるっきり没交渉なの
で僕の勝手な憶測に過ぎないが、実際は如何なの
であろう。

このフレーズには対句があって、それは今は置く
として、旧るい話ばかりで些か恐縮するが、もう
幾年も前、プノンペンの定番<キャピトル・レス
トラン>で、お決まりのフランス・パンとフライ
ド・エッグ、紅いミルク・ティーの朝食を、タブ
ロイド新聞<カンボジアン・デイリー>を見なが
ら食べていると、突如ダ、ダ、ダッ!と比較的近
くで自動小銃の発射音がした。
「えっ、銃声?」
と、柱や建物の陰に邪魔されて見えないので、ひ
ょろひょろと立ち上がり店の前の方へ行こうとす
ると、いっぱい居た客達が、その殆どは白人達で
あったが、一斉にタイル張りの床に突っ伏し始め
た。銃声は更に続き、僕も慌ててテーブルの陰に
身を伏せた。
が、弾がこちらに飛んで来ているように思えず、
ひょいと頭をもたげ、モニボン大通りに向かう前
の通りをずっと追っていくと、果たして、通行人
達は皆物陰に隠れ、商店が軒を連ねた前の歩道に、
五十代とおぼしきひょろんと痩せた親爺が一人佇
み、カラシニコフを通りの反対側に向け、更に連
射しているではないか。
見てると、その親爺に銃撃戦といったような殺気
だった緊張感はなく、何気なく煙草でも吸ってい
るような感じで間を置いて銃弾を射ち込み続けて
いた。
あの向かいには、確か子供相手のソニーのプレイ
ステーションを並べた小さなゲーム屋か果物屋が
あったはず等と、相手側が応戦するでもない一方
的な銃撃の不可解さにあれこれ憶測し始めた頃に
は、他の客達もテーブルの下から起き上がり、恐
る恐る銃声のする通りの向こうを窺い出した。
その内、親爺の立っているすぐ後ろの建物の出入
口から三十代の女が現れ、如何もその親爺の家族
らしく、何やら親爺に云っていた。
その時女は取り乱しも動揺した風にも見えず、む
しろ淡々として親爺の直ぐ横で話しかけ、それが
何とも奇妙に思えた。
暫くして、その女の説得にでも応じたのか、カラ
シニコフを女に渡し、通りをそのままモニボン大
通りとは逆の、つまりキャピトル側に向かって歩
き出した。
ふと見ると、いつの間にか手ぶらだったはずの親
爺の片手にオートマチック拳銃が握られていて、
「オーッ!」
とか何とか白人の何人かが叫びを挙げた。
と、通りの途中で何故か立ち止まり、周りをキョ
ロキョロしだした。
何を始めようとしてるんだ、と誰もが固唾を呑ん
で見守っていると、何処からかモト・サイと呼ば
れているバイク・タクシーが一台やって来て親爺
の前で止まった。親爺はそのままバイクの後ろに
乗り、キャピトルの直ぐ脇にある十字路を反対方
向に折れ何処かへ去って行った。
暫くして自動小銃を手にした二人乗りのポリスの
バイクが二台やって来て跡を追い駈けていった。
後で見に行くと、カラシニコフ銃弾は、やはり向
かいの果物屋に向け撃ち込まれていた。
店主か誰かが負傷したと云うことだった。親爺に
恨みでも買ったのだろうか。事情通ではない僕に
はそれ以上の事は知りようがなかった。

それとは別の日のある深夜、キャピトル・ホテル
2の三階の狭いシングルでタイ・ポップスのテー
プを聴いてると、突如、物凄い銃撃音が響いた。
周囲も寝静まった真夜中、
「えっ!」
と一瞬動きが止まってしまった。
それだけなら敢えてのこのこと危険を冒してまで
様子を見に行く事もなかった。
「ギャーッ!」
女の泣き叫ぶ声がその後えんえんと続き、一体何
事が起きたんだと、さすがに部屋を出、廊下に出
てみた。
仄明かりにぼんやりとタイル床が照らし出されい
るだけで、あれだけの銃声と金切り声にも拘わら
ず他の部屋の誰の姿もなかった。
とっくに熟睡しているのだろうか、あるいは係わ
りたくもないのだろうか、それとも殆ど泊まり客
がいないのだろうか。
外とはうってかわってしーんとした余りの静けさ
に奇異なものを覚えながらも、腰を屈め通りに面
したベランダに這って出た。
暗い真下の通りに、一台の乗用車が停まっていた。
その車の向こう側に一人づつ私服の警察らしき男
が、前方が両手を伸ばし拳銃を車の中に狙いをつ
け、車の少し後方に立ったもう一人が、何しろ薄
闇の中なので、それがカラシニコフなのか今ひと
つ定かでなかったが、自動小銃を構え、大声で車
内に怒鳴っていた。
前方の警官は即車内に発砲しかねない緊張が漲っ
ていて、その割には中から誰かが両手を挙げて出
て来るというわけでもなく、ひたすら女の泣き叫
び声ばかりが深夜の通りに響き渡るばかり、事態
は遅々として一向に進展をみなかった。
ふと横を見ると少し離れたベランダの床にここの
住人と目されているノッポ氏が腹這いになって下
の不可解な禍事に見入っているではないか。
向こうも僕の視線に気付き、一体如何なってんだ
とばかりに小首を傾げてみせた。
その内自動小銃を手にした警官が車の進行方向の
遙か向こうに狙いをつけるように斜め上に銃口を
向け、連射した。
暗がりの中で、銃身や機関部辺りに火の粉が弾け
飛ぶのが見えた。
女の叫び声が一層強まった。
その警官が車の進行方向を指さし更に怒鳴りつけ
た。
やがて乗用車はのろのろと走り始めた。
通りの遙か向こうに姿が見えなくなるまでずっと
見送り続けた。
それにしても、一体どんな事件だったのか、未だ
に見当もつかない。

で、最初の対句だが、
プノンペンの夜はカラシニコフで終わる
と云う訳だ。
現在もってプノンペンがそんなヤバイ町であり続
けているのかどうか、僕は未だ自分の眼で確かめ
てはいない。

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旅先の映画 : サップ川の残照(カンボジア)

20070629091126

僕がカンボジアを訪れるようになったのは、90年
代の半ばぐらいからで、それ以前の事はつまびら
かでないが、その時既に、メイン・ストリートの
モニボン(アチャミン)通りには、映画館は殆ど廃
屋と化していた。   
中央マーケット周辺には、古めかしいグロテスク
なホラー映画のポスターなんか貼り出している映
画館もあり、一応やってるんだなと、妙な関心を
したものであった。

その頃、ハイソな通りとして位置づけられていた
らしいモニボンと交差したシアヌーク通りに、一
軒、<電影街視聴中心 MTV> というビデオ・シ
アターが在った。
大型テレビとスピーカーをセットした四畳半から
六畳くらいの部屋で、ちゃんとしたソファーが有
り、一階のフロアで選んだレーザー・ディスクや
ビデオ・カセットをカウンターの中でプレーヤー
にかけ、視聴室に居る客に電話で連絡する方式。
大きめのスピーカーから出力される音は、やはり、
迫力があった。
サービスのアイス緑茶が付いてたけど、受付の女
達は何としても有料のドリンクを飲ませようとし
たものだ。恐らくテレビは液晶に替わったかも知
れないが、まだ営業しているんじゃないだろうか。

その内、モニボンのキャピトル周辺のミタフェッ
プ・ホテルの一階に、本格的な座席の備わったビ
デオ・シアターがオープンした。
規模は映画館に較べようもないが、エア・コンも
実に良く効いていて、長袖を一枚羽織ってないと
とても一時間以上座ってられない。
一本毎2ドル。毎日5、6本上映されていた。
只、現地人好みなのかどうなのか詰まらない物ば
かり流すようになってだんだん客が減ってき始め
ると、店側が作ったプログラムすら無視し始め、
先客が既に観ていても、後から入ってきた複数の
客のリクエストが優先され、途中で平気で上映を
打ち切り、新参者達のビデオが流されたりして、
少なくとも外人客からは、完全に見限られてしま
った。
最初の頃は、キャピトル・レストランまでプログ
ラムを配りに来てたんだが・・・。
勿論、ビデオ一本に、2ドルも5ドルも払うのは
外人でなきゃ金を持ったクメールしか居ない。昼
間っから金持ちの息子の大学生達が幾人もつるん
でやって来たものだ。

家にビデオのない現地の者は、ビデオ・カフェと
でも云うのか、ずらり外まで小さなテーブルと椅
子を並べた前に大型のテレビを置いた奴で、これ
はドリンク代だけで幾らでも長居出来る。中には
二台以上テレビを並べた処もあって、こうなると
騒さいばっかりだ。

そして遂に、< ヴィムエン・ティップ・シネマ >
が、壁をピンクに塗りたくって再オープンした。
僕も二度ほど入った。
一度は旧いタイの70年代を舞台にした青春物で、
映りは悪くなかったが、どうもポルポト以前の時
代のフィルムのような感じであった。
タイみたいに、映画の前に国旗がスクリーンに映
り国歌が流れる。けど、タイと相違して、誰一人
として起立する者も斉唱する者もなく、もっぱら
雑談に熱中。

昼間観た時、上映前の館内は、時間がまだ早いせ
いもあって高校生が殆どであった。
皆制服の白シャツを着ていて、娘達は後ろで束ね
た艶やかな黒髪が何とも爽やかであった。ふと見
ると、娘達に混じってひょろりとした男子が居て、
娘達の群れの中をあっちに行きこっに行きしてい
る。仕草が女性的で、女生徒達の間にきっちりと
身体をくっつけて座っていても娘達は平気で、む
しろペットの如く扱われていた。
この手のゲイ・ボーイ風の男生徒は、タイでは別
に珍しくもないけど、まさかカンボジアにも出現
していようとは夢にも思わなかった。

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旅先の映画 : バンコクの映画館

20070628100542

最近は、国内でもタイ映画が時折上映されるよう
になってきたが、それでも一般上映されているの
は大都市ぐらいのものであろう。僕のように南西
辺境州(人口は必ずしも僅少ではない)住まいの者
には完璧に無縁だ。
でも、国内・外のネット・ショップで最新のDVD
を購入し、観ることは出来る。日本語字幕はない
けれど。

亜細亜を旅する旅行者にとって、バンコクはあっ
ちこっちへ飛ぶための起点となる場所で、勢い滞
在期間は少なくても滞在回数は多くなる。
僕は九十年頃からバンコクを利用するようになっ
たが、最初に観たタイ映画って如何なものだった
か全然覚えていない。
大抵日本より上映時期が数ヶ月あるいはもっと早
い洋画を沢山観たけど、やはりタイの映画が観て
みたくMBKやワールド・トレーディング・セン
ターWTCに頻(よ)く通った。

その頃は僕の定宿と化していたTT ゲスト・ハウ
ス、それが高速道路建設計画のため潰され、TT2
ゲスト・ハウスに替わったが、シープラヤ通りを
越え、スリウォンからシーロムに出る途中の、ニ
ュー・ロードと平行に走る脇道(ソイ)に、<ワーナ
ー・タワー>という小さなシネマ・コンプレックス
が在った。
偶然散策の途中に発見したに過ぎないんだが、こ
んな人通りの少ない場所に何故こんな建坪は狭い
けど映画のコンプレックス・ビルが在るのか不思
議であった。
エレベーターで上階の上映館に向かうんだが、
一階のフロアに缶飲料の自動販売機が一台置いて
あって珍しかったのを覚えている。瓶コーラが8
バーツ、缶類は12バーツ。
嘗てはその辺りでも客は来たのだろうが、当然幾
らもしない内に無くなってしまったようで、名前
の割には小じんまりとしていたので、今では何処
に在ったか見当もつかない。

マー・ブン・クロンMBKには改装になる以前、
一階の奥にも映画館があって、その前に冴えない
レストランも付設されていた。
映画客が時間待ちするには頂度良く、僕も時々使
わさせて貰ったが、そこで頻く坊主頭のレズみた
いな娘達が如何いう訳か決まって美形の制服の女
子高生といちゃついていたりして、小さな娘連れ
父親が後ろのテーブルで眼を皿にしていたもので
あった。
改装前は如何見たってMBKの映画館は、伊勢丹
の入っているWTCの映画館に比べて貧相ではあ
った。けど、改装後は、完全に立場が逆になって
しまって、果たして今現在如何なのだろう。
若い連中は敏感で、下の階ではいざ知らず、最上
階全部を若者向けにレイアウトしたシネマ・コン
プレックス・フロアは制服姿の女学生からミニ・
スカートの娘達や男子学生達で溢れかえっていた。

が、上映されている映画は大半がハリウッド製で、
タイ映画は僅なものであった。
90年以前は如何だったか知らないけど、学園物や
若いチンピラ物ばかりで敗色一方だったのが、<
ナン・ナーク> 辺りから俄然盛り返し、お国柄
もあるのだろうが < スリヨ・タイ > なんかは学
校から大挙して観に来ていた。
それでも、僕が最後にバンコクを訪れた時でも、
タイ映画は殆ど上映されてなく、一体何処で上映
しているのだろうと不思議で仕方がなかった。

華僑系も多いので香港・中国映画なんかもときた
ま見掛けるが割合は知れている。
それでも、アンディ・ラウとサミー・チェンの日
本を舞台にした < 痩身男女 > ダイエット・ラブ
を観た時、メー・キャップしたデブな身体からす
らりとした本来の体型に戻ったアンディ・ラウが
画面いっぱいに姿を現わすと、
「ウォーッ!」
と、観客の娘達の少なからずから訳の分からぬ溜
息とも賛美ともつかぬ声があがった。アンディ・
ラウはそんなに人気があったのかと驚いてしまっ
た。ハリウッド映画上映中に、どんなスターが画
面に出たからって、そんな声聞いたことがない。

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旅先の映画 : 燦然と輝くボリウッドの神々 2

A_puri

もう何処で観たのか覚えてないけど、
デリーかカルカッタのどっちかと思うが、
暗い映画館の中で更に薄暗くおどろおどろしい映
像がえんえんと繰り広げられている画面を、
堅いシートにどっしりと寝そべったまま眺め続け、
終幕のヒーロー、若きアジェイ・デヴガーンがヒ
ンドゥー女神の力(シャクティ)を借りて、怨恨の
一矢を、悪漢の親玉に放ち貫いた瞬間、漸く解放
されるという安堵の念に、思わず拍手しそうにな
った<Divya shakti>。
しかし、決して退屈極まりなかった訳でもない。
我等が悪のヒーロー、アムリシュ・プリーが画面
におどろおどろしい姿を顕わしていたからだ。
A・デヴガーンの女神はカーリーかドルガーであ
ったろうか、「バブー」と悪玉プリーが讃え続け
た女神は一体誰であったか・・・
最初首が少し曲がっていた悪漢プリーが、
ヒーローに殴られたからか、何かの拍子でか、
治ってしまってまっすぐな首に戻り、
「バブー!」
と女神に感謝する場面は、あの貌とあのギョロ眼
でやるから最高に絵になった。場内爆笑だったか、
クスクスだったかもう定かでないが。

インドでは有名スターのポスターやブロマイドは
路上でよく売っているが、有名悪役のは先ず見た
ことがない。A・プリーのは、インドに行く毎に
捜してはみるのだが丸でなく、結局隣国パキスタ
ンのペシャワールのビデオ屋の店頭に貼ってあっ
た映画の小さなポスターにプリーの姿があったの
で、そこの兄ちゃんに頼むと二つ返事で呉れた。
<Pehla Pehla Pyar>というリシ・カプールとタブー
の主演映画のようだが、まだ観たことがない。

そう云えば、嘗て何人かの旅行者に、
「アミターブ・バッチャンとA・プリーは、絶対
に共演はしないんだ!」
と、今では噴飯物の訳知り顔のデマを吹聴された
事があった。複数だとすると、それなりの流通が
あった可能性もある。現地を行く個人旅行者(バ
ック・パッカー) ならでは知り得ることも多々あ
るが、同時にまことしやかなデマも少なくはない。

悪の両巨頭亡き後、誰がその跡を継ぐのだろう。
A・プリーの兄のオム・プリーは歳を取過ぎ、
<pinjal>や<Veer Zaara> のマノージ・バジパイは
些か繊細過ぎ、<モンスーン・ウエディング>にも
出ていたVjay Raazもちょっと線が細過ぎるよう
に思える。
そんなVjay Raazなんかの悪党達総揃いといった
感のある<シャクティ>は、ナナ・パーテカルの面
目躍如とした実-主演作ではなかろうか。
名目上は、女優カリシュマ・カプールが主演、そ
の夫役にサンジェイ・カプール、最後の方で漸く
出て来るシャー・ルーク・カーン。
ビデオのパッケージの表紙には、シャー・ルーク
やナナ・パーテカルの顔はあっても、前半、準主
役級に可成り出ていたサンジェイ・カプールの姿
は無く、知らないとシャー・ルークの映画と勘違
いしかねないので有名でもある。
カプール夫婦とその小さな息子が、インドのある
僻地のボスの父親の処に戻ってきた時から、俄然
悪漢輩の跳梁跋扈が何とも禍々しく展開し始め、
あたかも凶相のヒンドゥーの邪神達が砂塵の大地
から湧きだしたようで、これほど、バイタリティ
ー溢れたインド映画も余り観たことがない。

* ナナ・パーテカルの死は誤報。見た元の記事を勘違いしたか筆者の勘違い。  

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旅先の映画 : 燦然と輝くボリウッドの神々 1

20070628094234_2

確か<HUM>であったと思う、僕の記憶にある初め
て本場インドで観たヒンドゥー映画は。
が、実際はちょっと前に同じニュー・デリーのコ
ンノート・プレイスで他のを観ていたのかも知れ
ない。
ともかく、このメガ・ヒットと云われる<HUM>が
一番印象に残っている。

「ボンベイ、・・・」
というナレーションで始まるボンベイの港を舞台
にした単純アクション物だが、今DVDを観直し
てみても何か活気があって遂最後まで観てしまう。
映像は現在の映画より荒いが、野郎ばかりめいっ
ぱいの群舞なんかでは逆にバイタリティーに溢れ
迫力がある。
アミターブ・バッチャン主演で、タイガーと呼ば
れた彼の歳の離れた兄弟として小太りゴビンダや
あのラジーニカントも共演していた。
DVDのクレジットでは見られないが、映画ではラ
ジーニカントのところで、例の「スーパー・スタ
ー」というのが入っていて、あれっ、スーパー・
スターといえばアミターブの事でしかないだろう
に、何故ラジーニなんとかいう脇役にそんな冠詞
がついているんだと、まだ彼が南の雄であること
を知らず怪訝に思っていた。
ジュマ、ジュマ、デー、デー・・・のリフレイン
が、コンノートの映画館周辺の映像とダブッて記
憶に残っている。当時、メイン・ストリート(パハ
ール・ガンジ)のあっちこっちで流れていたように
も思えるが、定かではない。

ひょっとして現在でも同じかも知れないが、当時
劇場の中にショルダー・バッグの類は基本的に持
ち込み禁止で、入れなかったこともあった。その
頃はまだ、ちょっと後(ヒンドゥー教徒が、遙か以
前ヒンドゥー寺院だった跡に建てられたイスラム
寺院を占拠し破壊した事件:その後、インド中で、
イスラム側の爆弾テロが続いた。メイン・ストリ
ートも夜間外出禁止令が出ていたらしい。その頃
僕はネパールに移動していて、新聞で初めて知っ
た)みたいに、爆弾事件が頻発していた訳でもな
かったはずだが。

このHUMの音楽が気に入っていて、後に隣国・
パキスタンのペシャワールのテープ屋で手に入れ
ることが出来た。パキスタンでも、インド映画は
ビデオで観れ、大判の綺麗なポスターも売ってい
た。頂度、マドーリ・ディキシットが絶頂の頃で
パキでもシュリ・デヴィ以上に人気があるようだ
った。

シュリ・デヴィと云えば、ペシャワールにまだカ
イバル・ホテルが在った頃、旧市街のパターン人
宿に住んでいたアフガンのダーリー語専攻の口実
語学留学生の日本人青年の部屋で、レンタル・ビ
デオをカイバル・ホテルの同居人達と一緒に観た
事があった。
紅一点の娘のリクエストがやはり最優先され、彼
女が、大のシュリ・デヴィ・フアンだったので、
これもメガ・ヒットらしいシュリ・デヴィ主演の
<チャンドニー>の上映と相成った。
このテーマ曲もインドの巷で頻(よ)く流れていた
と思う。
チャンドニー、チャンドニーと曲に合わせて唄い
ながらその娘はやたらのりまくり、インド映画初
めての旅行者すら取り込まれてしまって、ある種
の新興カルト教団の集会の様相を呈していた。

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イエメン : こうして僕は怒りを燻らせてボンベイに戻ることとなった

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僕がイエメンを訪れたのはもう一昔前の事で、ボ
ンベイから空路で南イエメンの港湾都市アデンに
入った。

ところが、アデン市内のイミグレで早速、揉めた
訳ではなかったものの些かトラブってしまった。
現在は如何なっているのか知らないが、
その頃の数少ない旅行情報等には<外人登録>が必
要と記してあって、ビザにも明記してあった。係
官に登録の事を訊ねると、にべもなく
「必要ない!」
の一言ではねつけられてしまった。
出国も同じこのアデンからなら別に問題はないだ
ろうけど、僕は出国は北の首都サナアにしていた
ので、何としても登録はしておきたかった。
僕の少ない経験からもこれは後で必ずトラブるコ
ースと、執拗に登録を迫った。しかし、彼はやん
わりとだが巌として受付けなかった。それでも僕
が余りに執こいので、とうとう奥の年輩の偉いさ
んの処まで連れてってくれた。
が、やっぱし同様で、
「外人登録なんて必要ないよ」
と、てんで相手にもしてくれなかった。
さすがにもうそれ以上一旅行者の僕としては如何
しようもなく、あきらめ、悪い予感にジリジリし
ながらそこを後にした。

結局、ビザ延長の手続きがうっとうしくて、シバ
ーム行も断念し、いざボンベイへ戻ろうとサナア
の空港へ行くと、果たして、正に絵に描いたよう
に、イミグレでトラブった。
当然、<外人登録>のことであった。
尤も、その前に、X-Rayの後のテープ張りでの係
員の不手際、チェック・イン・カウンターのスタ
ッフによる度重なるミス・不手際が続き、雰囲気
は十分に盛り上がっていた。
係官は罰金の支払いを要求してきた。
払えない額では全くなかった。
それでも、正当な根拠もない金を払うつもりはな
く、アデンのイミグレが不必要と断言し登録して
くれなかった旨、あくまで繰り返し続けた。
向こうもてんで取り合おうともせず、罰金の支払
いを要求するばかり。
「アデンのイミグレに電話して確かめてみろ!」
と、決めをつけたつもりが、全く動ずる事もなく
知らん顔を決め込まれてしまった。
電話して確認することをしないということは・・
・まさかこの期に及んでバクシーシ狙いはちょっ
と考えられず、一体全体何故に奴はあんなに頑な
なんだと思わず首を傾げ困惑していると、
「罰金を払わないと飛行機には乗れないぞ!」
と最後通牒を突きつけてきた。
ふと周囲を見廻してみたら人影も疎らになってい
て、出発時間も迫っていた。
やむなく罰金を支払い漸く搭乗便に乗り込めた。
悶々と怒りを燻らせながら一路ボンベイへと戻っ
ていく事となった。

色んな情報から鑑みると、如何もイエメンの南北
の確執・軋轢に問題の原因があるようだった。
その少し前までイエメンでは南北の軍事衝突まで
起こっていたらしく、形だけの統一の下で依然と
して南北の対立が続いていたのだ。
だから、南のアデンのイミグレが北の政府が制定
した<外人登録>をする事ほど屈辱的なことはなく、
また、北の首都サナアのイミグレが、南のアデン
のイミグレに確認の電話をする事ほど恥辱的なこ
とはなかったのだろう。
そんな南北対立のあおりを喰わされたり巻き込ま
れたり、挙句道具にまでされたりしたんじゃ堪ま
ったもんじゃない。
けど、それが現実の本当のイエメンの姿でもあり、
それから免れてイエメンの本当の旅ってのも又あ
り得ないだろう、とは後になって漸く思い至れた
のであった。

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旅の頑迷

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ブログ開いて早速にしては些かネガティヴなテーマ
かも知れないが、今迄の旅のあれこれを想い返して
いるうち、ふと想い至ったのがバック・パッカー達
の世界に於ける何とも不可解な頑迷さなのであった。

僕が初めて海外に出たのは、頂度<天安門事件>があ
った年のまだ事件の余韻醒めやらぬ秋であった。
ベチットへ行くため上海から成都へ飛び、暴動等で
ラサに入れぬと云うことで急遽第二目的のシルク・
ロード行に切り替え、CITSに鉄路は雨で宝鶏辺りが
不通と教えられ一挙にウルムチ迄飛ぶことにした。
ウルムチから徐々にトルファン、敦煌と逆ルートを
辿ったのだが、新彊の食堂の多くが割箸をつかって
いて、確か上海の浦江飯店近くの安食堂は使い古し
変色した如何にも肝炎でも貰いそうな代物であった
のを想い出し、漢族地区の都市部より、辺境の安食
堂の方が清潔な割箸を使用している事に何とも珍妙
な想い駆られてしまった。
翌年から幾度か中国=パキスタン行を繰り返し、何
度か他の旅行者達にその割箸の話をする機会があっ
たが、如何にも旅慣れた風のパッカーですら、頭を
振り、確信を持って
「そんなことは、絶対ない!」
と、にべもなく斥けるのであった。
「否、実際にウイグル自治区で・・・」と僕が幾ら
実体験をあれこれ語って見せても、てんで聞く耳持
を持たず、自説を決して曲げることはなかった。
出会った誰も彼もに吹聴した訳ではなく、たまたま
話の行き掛かり上それに触れることとなっただけに
過ぎないのだが、どうもそれは極く稀れな例外的な
反応ではなく、バック・パッカー達の一定数を形作
っているらしいのが分かってきた。
米も茶色っぽく不揃いでお世辞にも美味いとは言い
難く砂粒が混入していることも多かったが、その頃
から徐々に現在の普通の米に変わり始めた。ところ
が、数年後、新しく参入してきた若いパッカー達に
その米の話をすると、驚いたことにそれすら容易に
肯んじることをしない人達が一定数居たのだった。
まだまだ無知な旅の若輩者(歳は喰っていたが)だっ
た僕は、首を傾げ、そのむしろ不条理と云うべき何
とも不合理な頑なさに呆然とする他なかった。
丁度この頃が中国の一つの変転期に当たっていたの
かも知れない。所詮外人でしかないバック・パッカ
ー達に不確定に顕れたゆらぎと云えなくもないが、
やはりそれとは又別のもっと根の深い問題であるよ
うに思われる。

これは旅の頑迷と謂うのとはちょっとづれるかも知
れないけど、僕がイエメンを初めて訪れた時の事だ
った。
一昔前の、殊に亜細亜をメインに廻っているパッカ
ー達にとって、アフガンとイエメンは、厚いヴェー
ルに蔽われた幻の国であった。
アフガンの方は、ペシャワールのジャミアテ・イス
ラミなんかのアフガン・ゲリラの事務所を通せば、
出来ないこともなかったが、情報の殆ど皆無なイエ
メンの方は誰もが手探り状態で、深夜遅く迄中東の
地図を拡げて冷めた珈琲を啜りながら、イランから
船が出ているだの、サウジから入れるだのと時の過
つのも忘れて語り合ったものであった。
僕がイエメンに入国したのは、頂度<旅行人>の編集
部がイエメン編を作るために訪れる直前であった。
僕はボンベイから南のアデンに入国し、北上して首
都サナアに入った。本来の目的は、有名なシバーム
の町を訪れることであったので、ビザを延長しに町
外れの事務所に向かった。日本大使館に尋いても手
続きは簡単なはずであった。
ところが、よりによって、頂度ビザ延長の条件に新
たな条項が付け加わったばかりで、AIDS検査の証
明書が必要となった。サナア市内の大きな病院へ行
ってAIDS検査を受けなくてはならなくなってしま
った。バンコクなんかだと直ぐに検査に向かったろ
うが、その頃新聞やなんかで、AIDS検査を受けて
AIDSに罹ったなんて記事を頻く見かけたりしてい
て、結局検査を忌避し延長はしなかった。
日本大使館ではその事を全く云ってなかったので、
老婆心ながら、そのビザ延長の手続きの変更を、愛
想の良い髭の大使館員に伝えると、一瞬、こいつ頭
は大丈夫か!と云わんばかりの眼差しで睨め付けられ
てしまった。それでも、半信半疑なんてものではな
く、九十九パーセントの疑念と一パーセントの職務
上の義務として、「一応確認しておきます」と温順に
答えては呉れた。翌日再び訪れると、当然「やはり、
本当でした」と素直に認めた。
その大使館員、否大使その人らしかったが、旅行者
には結構人気のある人物であったらしく、頑迷には
ねつけるような所作に出ることがなかったのは救い
であった。
僕の泊まっていたサナアの古い民家を改造したホテ
ルにはもう一人若い日本人が居た。彼はサナアに嵌
まってサナア以外の町へ行く気はさらさらないよう
だった。その彼と話がアフガンに至り、あろう事か
その頃アフガンを席巻し始めていたタリバンを賞賛
し、タリバンが政権を取れば旅もしやすくなる等と
、僕はマスード派と云うわけでもないが、あんなパ
キスタン軍事政権丸がかりの原理主義組織が政権取
ると絶対にまともな旅は出来なくなってしまうと説
いてみても全く無駄であった。マスコミすらタリバ
ンの排他性・保守性を非難していたにも拘わらず。
まあ、これも大使館のと同様、頑迷と謂うのとは些
か異なる、むしろ解釈の相違と云うべきなんだろう
が。
彼のあの全く動じることのない自信が一体何処から
来ているのか、彼の話しからは推測すら不可能だっ
た。只、笑みを浮かべ、確たる根拠でも握っている
かのような口吻があるばかりで、やはり例の頑迷さ
と通ずるものを感じてしまった。

旅の頑迷、実際はもっと沢山事例があったはずなん
だけど、書き始めると忽ち両の掌から零れ落ちるよ
うに記憶が覚束なくなってしまって、ちょっと尻つ
ぼみな結果になってしまった。先であれこれ想い出
せたら又認めようと思う。
誰でも旅先で一度はそんな頑迷に遭遇してるんじゃ
ないかと思うが、如何だろう。

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ヒンドゥークシ海峡を越えて

20070625140436_3

最後の旅からもう数年も過ってしまった。
僕の周囲にも出たくても色々な理由で海外に出れない
でいる遊子達が居る。
旅は何も海の向こうばかりではなく、この列島の北か
ら南まで、隣の町から近くの路地裏まで、さらに小説
から映画まで、そして自分自身の心の果てまでもが旅
となり得るとも云われている。
たしかに、その通りだと思う。
世の果ての旅とは、正にそれだろう。
それでも、やつぱり、外に、ヒンドゥークシ海峡を渡
って大陸やら諸島の地を踏みしめて旅したいと思う。
そもそもそこに僕の旅の出発点があったからだ。
所謂バック・パッカーと呼ばれる人達も同じだろう。
それにしても、いつまでもバック・パッカーで有り続
けることの現実の困難さよ・・・。

浮雲蔽白日
遊子不顧反
     (古詩十九首・行行重行行)」

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