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2007年10月 1日 (月)

旅の頑迷

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ブログ開いて早速にしては些かネガティヴなテーマ
かも知れないが、今迄の旅のあれこれを想い返して
いるうち、ふと想い至ったのがバック・パッカー達
の世界に於ける何とも不可解な頑迷さなのであった。

僕が初めて海外に出たのは、頂度<天安門事件>があ
った年のまだ事件の余韻醒めやらぬ秋であった。
ベチットへ行くため上海から成都へ飛び、暴動等で
ラサに入れぬと云うことで急遽第二目的のシルク・
ロード行に切り替え、CITSに鉄路は雨で宝鶏辺りが
不通と教えられ一挙にウルムチ迄飛ぶことにした。
ウルムチから徐々にトルファン、敦煌と逆ルートを
辿ったのだが、新彊の食堂の多くが割箸をつかって
いて、確か上海の浦江飯店近くの安食堂は使い古し
変色した如何にも肝炎でも貰いそうな代物であった
のを想い出し、漢族地区の都市部より、辺境の安食
堂の方が清潔な割箸を使用している事に何とも珍妙
な想い駆られてしまった。
翌年から幾度か中国=パキスタン行を繰り返し、何
度か他の旅行者達にその割箸の話をする機会があっ
たが、如何にも旅慣れた風のパッカーですら、頭を
振り、確信を持って
「そんなことは、絶対ない!」
と、にべもなく斥けるのであった。
「否、実際にウイグル自治区で・・・」と僕が幾ら
実体験をあれこれ語って見せても、てんで聞く耳持
を持たず、自説を決して曲げることはなかった。
出会った誰も彼もに吹聴した訳ではなく、たまたま
話の行き掛かり上それに触れることとなっただけに
過ぎないのだが、どうもそれは極く稀れな例外的な
反応ではなく、バック・パッカー達の一定数を形作
っているらしいのが分かってきた。
米も茶色っぽく不揃いでお世辞にも美味いとは言い
難く砂粒が混入していることも多かったが、その頃
から徐々に現在の普通の米に変わり始めた。ところ
が、数年後、新しく参入してきた若いパッカー達に
その米の話をすると、驚いたことにそれすら容易に
肯んじることをしない人達が一定数居たのだった。
まだまだ無知な旅の若輩者(歳は喰っていたが)だっ
た僕は、首を傾げ、そのむしろ不条理と云うべき何
とも不合理な頑なさに呆然とする他なかった。
丁度この頃が中国の一つの変転期に当たっていたの
かも知れない。所詮外人でしかないバック・パッカ
ー達に不確定に顕れたゆらぎと云えなくもないが、
やはりそれとは又別のもっと根の深い問題であるよ
うに思われる。

これは旅の頑迷と謂うのとはちょっとづれるかも知
れないけど、僕がイエメンを初めて訪れた時の事だ
った。
一昔前の、殊に亜細亜をメインに廻っているパッカ
ー達にとって、アフガンとイエメンは、厚いヴェー
ルに蔽われた幻の国であった。
アフガンの方は、ペシャワールのジャミアテ・イス
ラミなんかのアフガン・ゲリラの事務所を通せば、
出来ないこともなかったが、情報の殆ど皆無なイエ
メンの方は誰もが手探り状態で、深夜遅く迄中東の
地図を拡げて冷めた珈琲を啜りながら、イランから
船が出ているだの、サウジから入れるだのと時の過
つのも忘れて語り合ったものであった。
僕がイエメンに入国したのは、頂度<旅行人>の編集
部がイエメン編を作るために訪れる直前であった。
僕はボンベイから南のアデンに入国し、北上して首
都サナアに入った。本来の目的は、有名なシバーム
の町を訪れることであったので、ビザを延長しに町
外れの事務所に向かった。日本大使館に尋いても手
続きは簡単なはずであった。
ところが、よりによって、頂度ビザ延長の条件に新
たな条項が付け加わったばかりで、AIDS検査の証
明書が必要となった。サナア市内の大きな病院へ行
ってAIDS検査を受けなくてはならなくなってしま
った。バンコクなんかだと直ぐに検査に向かったろ
うが、その頃新聞やなんかで、AIDS検査を受けて
AIDSに罹ったなんて記事を頻く見かけたりしてい
て、結局検査を忌避し延長はしなかった。
日本大使館ではその事を全く云ってなかったので、
老婆心ながら、そのビザ延長の手続きの変更を、愛
想の良い髭の大使館員に伝えると、一瞬、こいつ頭
は大丈夫か!と云わんばかりの眼差しで睨め付けられ
てしまった。それでも、半信半疑なんてものではな
く、九十九パーセントの疑念と一パーセントの職務
上の義務として、「一応確認しておきます」と温順に
答えては呉れた。翌日再び訪れると、当然「やはり、
本当でした」と素直に認めた。
その大使館員、否大使その人らしかったが、旅行者
には結構人気のある人物であったらしく、頑迷には
ねつけるような所作に出ることがなかったのは救い
であった。
僕の泊まっていたサナアの古い民家を改造したホテ
ルにはもう一人若い日本人が居た。彼はサナアに嵌
まってサナア以外の町へ行く気はさらさらないよう
だった。その彼と話がアフガンに至り、あろう事か
その頃アフガンを席巻し始めていたタリバンを賞賛
し、タリバンが政権を取れば旅もしやすくなる等と
、僕はマスード派と云うわけでもないが、あんなパ
キスタン軍事政権丸がかりの原理主義組織が政権取
ると絶対にまともな旅は出来なくなってしまうと説
いてみても全く無駄であった。マスコミすらタリバ
ンの排他性・保守性を非難していたにも拘わらず。
まあ、これも大使館のと同様、頑迷と謂うのとは些
か異なる、むしろ解釈の相違と云うべきなんだろう
が。
彼のあの全く動じることのない自信が一体何処から
来ているのか、彼の話しからは推測すら不可能だっ
た。只、笑みを浮かべ、確たる根拠でも握っている
かのような口吻があるばかりで、やはり例の頑迷さ
と通ずるものを感じてしまった。

旅の頑迷、実際はもっと沢山事例があったはずなん
だけど、書き始めると忽ち両の掌から零れ落ちるよ
うに記憶が覚束なくなってしまって、ちょっと尻つ
ぼみな結果になってしまった。先であれこれ想い出
せたら又認めようと思う。
誰でも旅先で一度はそんな頑迷に遭遇してるんじゃ
ないかと思うが、如何だろう。

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