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2007年10月19日 (金)

ヒンドゥークシの谷間の異郷 カラシュ族 : パキスタン

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 パキスタン北西辺境州の山間に、アフガンのヌリスターンと連なってカフィリスターン(異教の郷)と呼ばれる地域に、少数民族カラシュ族が細々と棲んでいる。嘗ては宏大な地域に自らの国を持っていたらしいが、日本のアイヌ族と同様、次第に辺境に追いやられ、今では人口二千人と殆ど絶滅寸前にまでなってしまっている。

 アレキサンダーの東征時の子孫という伝承があるらしい。
 カラシュの女達の衣装や習俗って、可成り相似してヨーロッパから北海道のアイヌ達まで広範囲に渡って帯をなしているように想えるけど如何なんだろう。
 
 僕がブンブレット谷を訪れたのは、丁度1991年の正月だった。
 チトラールから乗り合いジープで15Rs(ルピー)。
 チェック・ポストまで歩いている途中、ペシャワールのカイバル・ホテルに居た顔見知りと出遭い、そのままチェック・ポストにリュックを預け、ルンブールの葬式に一緒に連れ立って行った。

 カラフルな刺繍の黒い長衣や宝貝をビーズのように縫い連ねた独特の冠り物の娘達と一緒に白雪の残るブンブレットの谷を下っていった。娘達は雪の斜面の細い路で皆滑って転びキャッ、キャッと笑い声をあげて下まで滑降してゆき、僕等もやっぱり滑ってしまい下の地面まで滑り落ちていった。それを見て、娘達は更に大喜び。

 男達が太鼓を細い鉢で打ち鳴らし、時折カラシニコフを上に連射して盛り上げながら、遊牧民風に舌を使って叫声をあげ、一晩中踊り明かす。時計の針状に何重にも互いの肩や背に手を遣って横に並びあるいは両手を挙げて舞ったりして時計方向や突然逆方向にも廻る遊びの要素も組み込んで踊り続けた。勿論僕たちも幾度もその輪踊りに参加した。
 翌朝十時頃少し高くなった処に埋葬の後、ナーン、チーズを溶かして蜂蜜をかけたものと山羊の肉のご馳走にあづかった。只、山羊肉は山岳の常で淡泊味、僕の好みではなかった。

 ブンブレット谷のカラシュが営むカラシュ・ビュー・ホテルに投宿。例のカイバル組が既に泊まっていて、冬場で野菜などが乏しいせいか、食事は毎日ジャガ芋ばかりと愚痴をこぼしていた。K君の話では、葬式・祭りの類は、村ではめったに食べれない山羊の肉が食事に出るんで皆喜んでいるらしく、そのK君自身も正にその口らしかった。

 黒衣の成人女性が、手にルピー札を片手にして、イスラムの入植者達のある一軒の店先で、じっと思案気にしばし佇んでいた姿が印象的で今でも覚えている。

 フンザ等と同じように、泥と材木で作られた家の平らな屋根の上は、子供達の遊び場でもあり、小娘達が布を誰かの頭に覆いかぶせる鬼ごっこをして遊んでいる光景を、時空の破れ目の向こう覗けた異郷の如く眺めていると、一人の小娘に自分達では手の届かない軒先の氷柱を取ってくれとせがまれる。取ってやると、アイス・キャンデーのようにしゃぶり始めた。すると他の小娘もねだってくる。
 昔の仙人は霞を喰って生きていたらしいけど、カラシュの小娘達は氷柱をおやつにしている。

 今ではもっとだろうが、その頃でも、陽当たりの好い丘の上や斜面には先住のカラシュ族が住み、麓にパキ人の入植者達がどんどんと住着き始めていた。ゲスト・ハウスの類も、イスラム住民の営っている処の方が、造りも食事も好かった。

 カラシュ・ビューが暗いので、K君と一緒にパキ人のフロンティア・ホテルに移った。

 あちこちに彫り物などしたカラシュの民家の一室を部屋にしているカラシュ・ビューと相異して、 何の情緒もない只のパキ宿って処であったが、それでもケロシン・ランプと薪ストーブの生活はそれなりに雰囲気はあった。食事付きで50Rs。夕食は、豆ご飯とボイルドしたジャガ芋、ゆで卵一個、ナーン、それに薄いチャイ。
 
 外は白一色。トイレも凍っていて、ふと真上を見上げると、夜空一面にくっきりと星々が燦然と輝いていた。

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