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2007年11月の4件の記事

2007年11月23日 (金)

プノンペン 1995

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1995年の秋、ドンムアン空港から、ロイヤル・カンボ
ジア航空
VJ050便(まだ新しいボーイング737-400)で、初めてプノ
ンペンのポチェントン空港に着陸した。
 プノンペン=ポチェントン空港の黄昏は、異様なくらい
広いパースペクティブに灰色の雲が全面を覆い、西の地
平線だけが部分的に奇妙に紅く染まっていて、今まで見
たこともない夕暮れの光景であった。
 
 僕がプノンペンを訪れることになったのは、それまで
旅先で散々その魅力を吹聴されてきた、アンコール・ワ
ットとサイゴン(ホーチミン市)に赴くためであった。プ
ノンペンは単なる通過の中継点でしかなかった。
ところが、とっくに旬を過ぎてしまっていたサイゴンと
相異して、実際にプノンペンの土を踏んでみたら、プノ
ンペンこそが錯綜し名状し難いバイタリティーに溢れた
街であった。
 一歩踏み入れるや、ムッ!とメコンの水と赤土の綯い
交ぜになった
熱気が五体を揺らめかす。

 メイン・ストリートのモニ・ボン(アチャ・ミン)通り
はともかく、横に一歩入るともう舗装も危うく、更に小
路に分け入ると剥き出しの赤土や砂利道が多く、水捌け
も悪いのも手伝って、一雨降ると、忽ちにして泥濘み冠
水してしまった。
 キャピトル・レストランの斜向かいの、その頃はまだ
基礎工事中であったオロシイ・マーケットの板塀に沿っ
た小路は、乗用車が通ると反対側の商店街の前の斜面に
なった歩道に茶色に濁った波が押し寄せた。僕は波の来
る商店街と勝手に命名し、シェムリ・アップの町中の溝
から小魚を釣るように、その小メコンと化した小路の水
面に釣り糸を垂れるとやがて大きな鮒か鯉が泥水をピシ
ャピシャと跳ね上げながら釣り上げられるようなトロピ
カルな想念にふと囚われたりしたも
のだ。
 皆くるぶしまで泥水に浸かって歩き、脚の悪い坐った
状態でしか歩けない男が腰まで浸かってゆっくりと渡っ
ていったり、シクロが道路の深い窪みにタイヤを嵌らせ
立ち往生したり。

 この頃、プノンペンでは鍋物がブームのようであった。

《ASIAN SOUP》、その向いの《満意》等。《ASIAN SOUP》
は、建物の屋上にあって見えないから分らないが、《満意》の
方は、歩道いっぱいに客のバイクが幾重にも溢れるぐらいの
盛況振り。
 中国でも、火鍋が流行っていた次期でもり、東南アジア全
域的現象なのであったろうか。カンボジアにもタイにも中国
系は多いし、彼等が介在して起きたブームの可能性もある。

 キャピトル・レストランのモニボン通り寄りの少し先に、「ハ
ラル&インディアン・フード」のレストランがあった。大型テレ
ビで映画を流していたので、僕も時々入った。オーナーは
三十代のインド人で、嫁さんはカンボジア人、他に彼女の親
族らしき娘達が何人か居た。どうも彼の思ったようには動い
てくれないようにも見受けられたが。(ハラルはイスラム系の
人々用の豚肉などが入ってない料理)。味は今一。
 客はキャピトル・レストランの常連の白人達で、昼真っか
ら現地の年増の元・娼婦と一緒にいつも酔っぱらっていた
白人も居た。後に、その嫁さんの方が、彼が帰国してしま
ったからか、偶に彼の子供であろう白人顔の幼児を連れて、
キャピトル・レストランにも来ていた。彼女達私娼にとっては、
白人の子供は自慢のようで、その女性以外の、もっと若い
私娼も同じようにさも得意げに連れてきていた。
 同じ年、サイゴンでもオーナーと顔を会わせた。サイゴン
に出店でも打診に来たのかも知れなかったが、定かでない。
その後、シアヌーク通りに店を移し、セントラル・マーケッ
トにも出店していた。
 
 ゲーム屋もあっちこっちに在った。旧いアーケード
・ゲームが大半であったものの、タイの影響か、プレ
イステーションを置いた店も出始めていたように思う。
特にキャピトル・レストランの隣のゲーム屋は朝から
少年達がやってきて騒々しい限りであった。
大抵、少年達はまん前のアイス・キャンディー、果物
&揚物スナックの露店で何かを買って頬張っていた。

 夜になるとあらゆる種類のバクシーシ達がレストラ
ンの周囲に集まった。年々数が減っては来てはいたも
のの、現在は如何であろう。
 やがて小遣い稼ぎのバクシーシすら現れ始めた。片
脚の人も、どんどん見なくなった。町中ですら。娼館
も表通りから追い出され、現代風に意匠を変えさせら
れてしまったが、その頃は、まだ帳が降りる
と繁盛を極めていた。

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2007年11月17日 (土)

竇唯  中国火是七彩的変貌

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90年代前半は、まだ中国でも、音楽ソフトはカセット
・テープが主流で、辺境の雲南省の昆明でも大理でも既
にCDも並んでいたがまだ少数であった。
 その頃、魔岩唱片から、竇唯、張楚、何勇の三人のア
ルバムが中国火シリーズとてし発売になっていた。カセ
ット・ケースの中に、折り畳んだ裏側に歌詞の載ったミ
ニ・ポスターが入っていて、竇唯(ドウウェイ)のは黒豹
時代は長髪だったのを坊主に近い頭髪にした黒ずくめの
彼の些か童顔風の姿が昏いトーンで載せられていた。
「新音楽的春天」とあり、その上のコピーは、

 在現実中做不到的、就譲夢去完成

 昆明の昆湖飯店の近くのテープ屋で買って、早速ドミ
に戻って聴いた。中国にも、崔健以外に、崔健とは別様
のこんなミュージシャンが居たのかと、その新鮮な響き
に驚いてしまった。入っている曲の殆どが悪くなく、正
に新しい息吹と胎動が沸々と伝わってくるようであった。
 「明天更漫長」「黒色夢中」「上帝保佑」等がこの中で、
特に気に入っている。

 それ以前、竇唯は黒豹楽隊でボーカルとして活躍して
いて、「Take Care」「Don't Break My Heart」「怕你為自己
流涙」等のスロー・テンポの、バラードとでも云うのか、
好い曲が有り、なかんずく「Take Care」は、竇唯のボー
カル曲の中でベストと想っている。
 酔生夢死と云うとニュアンスが些か違ってくるが、波
間にたゆとう夢幻的な揺らぎとでも云った趣が好い。
(黄小茂のイマジネイティブな歌詞も)

 TAKE CARE I WANT TO SLEEP
  TAKE CARE I WANT TO SLEEP
 睡着的人可以自由的飛
 TAKE CARE I WANT TO SLEEP
  TAKE CARE I WANT TO SLEEP  
  睡着的人不容易流涙

  子夜二時請你推醒我
 告訴你我夢見了甚麼
 七彩的天堂上竟没有  人去過的消息
 人留下的痕跡
 
 『艶陽天』辺りからであろうか、更に変移し、可成り自然志向が
強くなってきた。
 燦爛的『艶陽天』、瀟々と青竹が靡く『山河水』、陶淵明や荘子
を彷彿とさせる山水的世界を逍遙遊する方途に赴き始めた。
 そして更にインストルメンタル=楽器演奏に拍車がかかり、
とうとう即興演奏(オーバーに云えば、コレクティブ・インプロビゼー
ション)の世界にまでのめり込んでしまった。確かに、揺らぐ音と心
象の流れにたゆとうとすれば、決まり切った歌詞を唄うのは興醒め
ものであるだろう。でも、それならそれで、又唄いようもあるのだが・
・・
 
 正に、タイ語の、プリエーン・プリエーン・パイを地でいっている
果てしなく燃えさかる中国火だ。けど、ミュージシャン竇唯にとっ
ては、自らを全うし申し分ないのだろうが、ファンとしては、
彼の歌を聴きたいし、第一もったいない。
 
 中国火と云えば、フェイ・ウォンと別れてからか、北野た
けしの講談社突撃事件と並べて評された新聞社だったか出版
社だったか忘れてしまったが、殴り込み、挙句記者の乗用車
に火を点け燃やした事件を起こしてしまった。パパラッチ宜
しくくっつき廻り、有ること無いこと書きまくり、騒ぎまく
った記者達の傍若無人さに爆発したのであろう。
 荘子がマジ切れしてしまったんでは話にならないけど、
これだけは、月並みなお題目を並べても詮方なく、当事者で
なければ容易に解り得ないことなのかも知れない。
 崔健のその事件に対するコメントを視たことがった。寧ろ
同情的であったと記憶している。

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2007年11月13日 (火)

雨林居 蒼山下の中国揺滾的根拠地

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蒼い峰々をかすめるようにして白い雲が次から次と下方の
アルハイ湖にむかって流れてゆく、雲南省・大理の古城市は、
俗化されたと嘆かれ始めても尚清々しく、そして歴史を感じさ
せる佇まいの町であった。
 
 メイン・ストリートの復興路から一本奥に入った博愛路、
日本人御用達の《菊屋》や《ヤク・カフェ》等が軒を連ねたその通り
に、外にもテーブルを並べた《雨林居》というカフェが在った。
 《菊屋》や《ヤク・カフェ》等が本来外人向けの店であるのと違っ
て、否、元々はやはり外人向けであったかも知れないが、専ら地元
の若者達の溜場になっていた。薄い中国の様々な雑誌も棚に
備えていた。

 僕が足繁く通うようになったのは、備え付けられた大きなスピー
カーから、中国揺滾(ロック)が流れているからだった。
 一応英語のメニューは有った。日本人向けの品目も。
けれど、そこのオーナーの小天自身が、もどき日本料理を、何故
こんなものが美味いんだ、と首を傾げるくらいの、味は今一の店
であった。尤も、僕も二度ほど御相伴に預かった彼等が食べる料
理は、チャイニーズで、十分に美味かった。

 小天は漢族地域からこの地へ新聞か雑誌の仕事で赴き、すっか
り大理が気に入ってそのまま居着き、中国揺滾の歌手志望だった
らしく、店の中でも定期的に他のメンバーとバンドを組んでボーカル
として唄っていたらしい。残念ながら、僕は一度も聴くチャンスがな
かったが、道端で、時折立ち止まっては何か小声で叫んでいるのは
幾度も目撃した。
 その内、ラサで音楽活動をするような話を興奮してしていた。その
為にか、店を彼女に任したような事も口にしていた。
 近代中国の詩人・徐志摩を好んでもいたようだ。文革の頃な
ら吊るし上げられ自己批判を強いられたであろう。

 崔健、ドーウェイ、黒豹、唐朝から張楚、地下嬰児、輪廻等
種々様々な中国ロックのテープが並べてあり、入口の棚に、手
製の中国揺滾アルバムやミュージシャン紹介のファイルまで置
いてあるのめり込み振り。僕にもブロークン・イングリッシュ
と筆談であれこれ教えてくれた。
 
 只、実際は、私見した処、殆ど小天の思い入れと相異した空
回りの趣で、《雨林居》を訪れる地元の若者達は、むしろ香港のビ
ヨンド等のおよそロックとはほど遠い代物ばかり。十代の娘達はそん
なビヨンドの眠くなるような曲を<改革開放>西側からの自由の風とば
かりに嬉しそうに一緒に口ずさむのだった。
  崔健の《紅旗下的蛋》なんかのハードな物でも大音響で流そうもの
なら、罵りながら逃げ出しかねなかった。大理に、まだロックは早かっ
たのだろう。彼もそれは十分に分かっていただろう。で、ラサだったの
かも知れない。
 その後如何なったのか、今でもまだあの通りに在るのか如何かも、
定かでない。

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2007年11月 3日 (土)

「絶望の書」 流浪のダダイスト・辻 潤

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 この数年、列島からは勿論、我が南西辺境州からも出ることもなく、 〈旅〉から遠去かっている。だからという訳ではないが 、嘗ての〈旅〉の先達たちの行き来し方とでも謂ったものが、ふと気になったりする。 
 金子光晴や林芙美子等の同時代人であり又畏友でもあった、今では知る人も殆どない辻潤という小説書き・翻訳家が居た。否、大正・昭和初期を通じて、尺八一本を小脇に抱えた放浪のダダイストとして知られていた。一度は、新聞社の特派員という形ではあったが、フランスにも息子を伴って赴いたことがあった。

 嘗て吉田喜重監督の《エロス+虐殺》という映画で、故・高橋悦史が彼の役を演ったことがあった。多少の違和感はあったものの雰囲気は出ていたと記憶している。

 1884年(明治17年)、浅草で下級官史の子として生まれ、明治44年上野女学校の英語教師となり、そこの生徒であった伊藤野枝(後、〈青鞜〉の編集者となる)と大正4年、31歳の時に結婚。二児をもうける。が、翌年、野枝がアナーキスト大杉栄のもとに走り、事実上の離婚。
 失意の下、以後長男の一(まこと)を連れて著作・翻訳を生業としながら流浪。終戦直前の昭和19年11月24日、六十歳の時、一人住着いた上落合の靜怡寮アパートで、食糧難の時代であったからだろうか、餓死。

 野枝が大杉の下に去ってから後こんなエピソードが有ったらしい。
 
 「野枝と別れた辻は、さすがに傷心して浅草の観音劇場で『どん底』の男爵の役などしていたが、そのころ根城にしていたのが、これもときどき大正昭和史に顔をのぞかせる「グリル茶目」である。黒瀬春吉がやっていた店で、伊庭孝・石井漠・沢田柳吉なども屯(たむろ)していた。
 その「茶目」に大杉と野枝が立ち寄って戯れに落書きを残した。有名な落書きだ。

   お前とならばどこまでも  栄
   市ケ谷断頭台の上までも  野枝

 そこへ辻潤が文字を並べて落書きした。「あうら山吹のいたりにぞんじそろ」という。「あうら」は「あらうらめしや」か「ああうらやまし」の意味だった。・・・」 松岡正剛《千夜千冊》                                   

 「金があって道楽に名所旧跡でも見物して歩くなどという旅行とはまるで雲泥の差である。ただ滅茶苦茶に眼先が変わりさえすればいい。だから歩くところは全然見ず知らずの土地に限る。都会の中でもかまわない。一度も歩いたことのない町や路地をウロウロしてさえちょっとフレッシュな気持にさせられる時がある。疲びれたら休む、腹が空いたら食う、まったくの行き当たりバッタリでなければ浮浪の法悦は味わえない。いわば、『身軽片片渓雲影。心朗瑩瑩山月光。馬麦因縁支命足』というような境地にならなければ駄目らしい。そして、更に『大千沙界一箇自由身』になり『無底併呑尽十万』になれば申し分がないのであろう。・・・」 浮浪漫語《絶望の書》 
                                        

 昭和三年、読売の第一回パリ文芸特置員として長男一を伴って渡仏、
翌年シベリア経由で帰国。

 「ねながらタバコを吹かして、自分はこんなことをノートの端に書き散らしていたのだ。
 辻潤が巴里のモンマルトル辺の陋巷で餓死でもすればはなはだ理想的で至極お誂い向きだったかも知れない。しかし、彼は僅か一年たらずでオメオメとまい戻ってきてしまった。恐らく、

  巴里寒燈独不眠  苦心何事転凄然
  故郷今夜思千里  霜鬢明朝又一年

 と柄にもないノスタルジィにとり憑かれたのであろう」
 
 「ホテル・ビュフハロオの五階の二十九号室でーー僕は禁酒しながら、さまざまな妄想に耽ったり、異人の本や支那人の本をヒマにまかせて読み散らかしていた。そして、時々ムダ書きばかりしてくらしていた。」 ものろぎあ・そりてえる《絶望の書》                
                                             

 辻潤の《旅》、否人生も、金子光晴とは又別様の悠然であり凄絶であった。「浮遊不知所求」が彼の指標であったようだ。玉川新明の評伝に詳しい。

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