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2007年12月の14件の記事

2007年12月31日 (月)

ベトナム・カフェ  カンボジアの新しい波(2)

Phnompenh031_2

  ベトナム・カフェの前のアパート

プノンペンのメインストリート、モニボン通りを歩いていると、ふと見慣れない看板が目に付いた。
 "SHOWROOM ANGKOR"、その下に"THE CENTER OF VIETNAMESE PRODUCTS"とあった。面白そうで階段を昇ってゆくと、正面にそのショールームがあり、隣にオープンのレストランがあった。ショールームは、ベトナムの福隆公司 Fulumg  Tea and Coffee Campanykの製品の展示室で、バニラとか香り付けしたコーヒーのパック等色んな種類のベトナム・コーヒーがずらりと並んでいた。パックのデザインが悪くなく、特に蓮茶のパッケージはすっかり気に入ってしまった。(後、日本にも輸入されるようになって人気商品になっているようだった。)ベトナム製品といえば、シアヌーク通りに小さなのが二軒あったけど、コーヒーや茶だけの本格的な店ってのはこれが初めてではなかろうか。

 その同じ二階の通りに面したオープンのレストランは、天井がなくパラソルで陽を遮り、壁もないので風通しが好く、暑熱時を外せば意外と過し易かった。ここははっきりベトナム・カフェで、小綺麗な格好のウェイター達はカンボジア人達であろうが、ついこの間まで、ベトナム駐留軍が去ってからも、スワイパーやトォール・コックなんかのベトナム娘の多い娼婦街が襲われ女達が殺されたとか云う話を散々聞かされてきていたので、考えられなかった事であった。でも、さすがに、アルミ・フィルターのベトナム式コーヒーはやってなく、取っ手の付いたグラスのカンポジアン・スタイルであったが、味はマイルドな西洋風でカンボジア・コーヒーとは些か相異してナウく美味かった。勿論定番の茶の入った花柄の茶瓶も備わっていた。これでなくっちゃ。これぞ東南アジア風味というものだ。
 客は多かった。料金もそこそこで、週末なんかは家族連れも来ていて、その時は、流れる音楽もポップス系から当たり障りのない音楽に変わっていて、カンポジアンでは先ず考えられない随分とビジネスライクな商法であった。

 二人連れのカンボジア青年がテーブルに就き、見ていると如何も初めてこの店にはいったようで、粥を店員が運んでくると、神妙な眼差しで皿の中を覗き込んでいた。複雑な表情を浮かべながら食べ始め、途中で店員に皿の中を見せ、何か注文した。やがて、店員がもやしを盛った小皿を持って来ると、二人はマジマジと小皿のもやしを眺め指で何度ももやしを確かめていた。ベトナムの粥もカンボジアの粥も大差ないように想えるのだが、彼等にしてみればえらく違いがあるようだった。ひょっして、タイ人かなとも想ってみたけど、ティッシューをポイポイとテーブルの下に放り捨てていたので、やっぱしカンポジアンなのであろう。

 通りの向いの建物は店舗の上がアパートになっていて、のんびりと布団を干したり洗濯物が並んでいたりして、晴れた空に何とも明るく映えていて一幅の絵になる。手塗りの白壁が映えているのか・・・キャピトルの前の建物とは明らかに異なる風景だ。
 カンボジア、プノンペンもやはり刻々と変貌しているんだなーとつくづく想わされてしまった。
                                     
CAFE  PHUC  LONG

PHO BO TAI                   3000R   
 noodle soup with rare deep                                      
CHAO  GA                     3000R
 rice gruel with chicken
CHAO  TRUNG                 3000R
 rice gruel with egg
CHA  GIO  CHIEN              5000R
MI BO                           3000R
 instant noodle with beef
CA PHE  SUA  DA             1500R
 ice coffee with milk
CA PHE  DA                    1000R
 caffee with ice
DA  CHANH                     1000R
  lemon water with ice
COCACOLA                       1500R
BIA  FAN  SAIGON              2500R

  310 monivong,sangkat chaktomuk,
  khanduonpenh,phnompenh  tel.012620515

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2007年12月30日 (日)

カルダモン山脈は青いバンに乗って  カンボジアの新しい波  

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2003年3月タイ南部ハートレックからカンボジアのチャムイェム国境に入ると、まず驚いたのが、イミグレ事務所の上にサファリの巨大な真新しい看板が立っていたことだ。サファリ公園らしい。カンボジアも公然と観光産業に力を入れ始めたようだ。更にイミグレの窓口の横にチャムイェムから首府プノンペン行のミニバス600バーツの張り紙があった。何時もシアヌークビルまで高速フェリー・ボートに乗っていて、さすがに飽きていたので、所要時間も五、六時間という。モト・サイでコ・コンまで、途中出来たばかりのコンクリート橋を渡って行った。以前は雲助ボート屋が跋扈していたけど、もはや転業してしまったのだろうか。橋の入口の処に料金所があり、客の僕が直かに係りの女性に11バーツを払う。途中二カ所干潮のせいか砂地の浅瀬が見えていたが眺めは仲々好い。リーダーと称するモトサイ屋がつき纏いミニ・バスのチケット売場、つまり彼が連れて行きたがったRASMEY BUNTHAM G・Hの表まで連れてゆかれ600バーツのプノンペン行チケットを購入。明朝八時に宿まで迎えに来るという。
 
 翌朝"RASMEY BUNTAM TRAN"と腹に大きく記した紺色のバンが白人達を乗せてやって来た。ミニバスがいつの間にかバンに・・・。九時頃、白人四人(内、老夫婦一組)と伴に出発。急カーブ、急坂の多い非舗装の広い国道48号線をカルダモン山脈を横切り砂塵を上げて突っ走った。眼下には蛇行する川が覗けたりして景色は悪くない。只、川が多く、途中四カ所もフェリーで渡ることになり、これが遅々としてやたら時間を喰ってしまった。
 おまけに非舗装の48号線からアスファルト舗装の四号線に入る辺りで、待っていたタクシーに乗り換えてくれと云始めた。大きな身体の白人達が早速抗議。確かに狭いタクシーの中に五人の客と運転手じゃ堪ったもんじゃない。元々はミニバスと云うことだったのだから。老夫婦の旦那の方が脚が悪いらしく狭いタクシーでは命まで危うくなってしまうと嫁さんが猛抗議。結局、別のバンに乗り換える運びとなり、プノンペンに着いたのは夕方四時過ぎ。七時間は長かった。
 このRASMEY BUNTAMは悪質業者なんだろうが、例の以前の湾を横切るモーター・ボートの雲助達の延長線上って感じだった。最近は如何なっているのか知りたいもんだ。  
 バンコク=プノンペンの列車がちゃんと運行出来れば問題はないんだろうが。しかし、そうなったらなったでそれとは別様のルートで入ろうとしたがるのがパッカー達なんで、やはり悪質業者や雲助達に如何に対処するかがパッカー達の課題となる事に変わりはないのだろう。

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2007年12月29日 (土)

TTゲストハウス雑話(7)

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   上の写真; ビエンチャンでの京劇? 

TTのリビング・ルームの壁にも貼ってあった大きめの水色地の"BANGKOK METROPOLIS"地図を見てみると、シープラヤ通りからラーマⅣ通りに抜けるマハーナコン通りからちょっとチャオプラヤー寄りの処に元のTT
の"Guesthouse  TT"のマークがあった。最初、あれっ! 場所がちょっとずれているぞ、とTT(2)を念頭に置いてしまい、誤植でもしたのかと思ったけど、当然今では当たり前の高速道路の標示が無く、あっ、そうだったと気付き、TTのあれこれを書いていながら何とも迂闊な失態だった。この地図は結構見辛く外に持っていって目当ての場所を探すのに苦労させられた記憶がある。勿論、地下鉄どころか、スカイトレインの路線も載ってない。日付は不詳だが、35バーツのスタンプが押してある。
 
 あれは中国歴の旧正月だったか、チャオプラヤー川の上で花火がほんの少しだけどパンパン鳴っていた。夜の11時頃洗い場で歯を磨いていると、何処からかスピーカーで何やら中国風の音楽が流れてきた。野次馬根性を発揮して早速TT(Ⅱ)の部屋から出て、音を辿ってシープラヤーからマハーナコン通りに入り、丁度TTの裏方面に当たるすこし奥まった処に中国寺院か道観が在って、そこの境内で京劇ならぬ潮州劇?の派手な舞台が設えられ、舞台上に《潮州怡梨興》と記されていて、百席近く折りたたみ式の椅子が並べてあった。まだ二、三十人は残って観劇していたけど、皆見飽きてしまったのかあっち向いたり隣の知人と駄弁ったり。本格の京劇なんぞと比べると、身のこなし方から方から仕草から総じておざなりだけど、それが却って情緒を掻き立てる。
 観てる内に、どっかで観たことがあるような気がして、記憶をまさぐっていると、間違いがなければ、何のことはない、隣のラオス・ビエンチャンで観た連中であった。ビエンチャンの川の側でも表演していたのだ。昔と違って、あっちこっちからお呼びがかかる時世ではなくなって、タイやラオスを掛け持ちせざるをえないのだろう。清涼飲料やらビールも檀家あるいは地域住民は無料のようだった。皆顔見知りの連中ばかりで和気藹々と夜長の観劇と感興を満喫しているようだった。十一時五十分頃終了。皆一斉に起ち上がり、僕もTTの門限まで戻らねばならず、露地からマハーナコン通りにトボトボ帰って行った。ふと見上げると頭上にも小さく丸い月が輝いていた。雰囲気は、こんなバンコクの裏辻の奥よりも川の側のビエンチャンの方がほんのちょっと近いと思うが、ふと魯迅の少年時の母方の郷里の奥深い田舎での京劇芝居の光景を想起してしまった。

   

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     '91年の雑貨店(店頭のテ-プが懐かしい)

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2007年12月27日 (木)

TTゲスト・ハウス雑話(6)

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  観測筋によるとTTはもう風前の灯火らしい。
 ペシャワールのカイバル・ホテルのように建物だけ残って、肝心のゲスト・ハウス自体は消失してしまうという最悪の事態に直面していたようだ。困ったものだが、如何ともし難い。これでバック・パッカー史に燦然と輝いていた太字項目の一つに亦斜線を引かねばならなくなってしまう。かと云って、再建委員会なんかをパッカー達が立ち上げるってのもちょっと筋違いだし、だったらむしろ直ぐ先の半焼した洋館の方をやるのが理に適っているだろう。それこそタンブンって訳だ。

 TTの前のソイ・サワン通りをフアランポーン駅側に進むと寺側の一角からのソイ・ケーオ・チャムファーと交差する十字路がある。その近辺に昼間からでも大した規模でもないが屋台が蝟集していて、斜め前方の角に
コンビニ風の雑貨屋が出来た。同じ頃、プレイステーション・ゲーム屋があっちこっちに出店し始めた。個人の営っている雑貨屋なので、到底本物のコンビニに比較しようもないけど、せめて格好だけでもって処なのであろう。ちょっと歩くと寺の反対側にも7-elevenが出来、その角の雑貨屋は出来た最初の頃だけで、後は何時見ても閑古鳥という結末。太った色白の華系のおばさんが営っていたけど、冷蔵棚の温度からして情けなくそこそこ冷えているぐらいじゃビールも買えず、だったらむしろそこら辺に在る普通の雑貨屋の方がまだ増しなくらいだ。それでも、なんやかやと僕はそこを使った。しかし、段々と商品も少なくなり、あらゆる面でせこくなってきた。
 この当たりはそんな店が少なくない。出来ては潰れ、また他のものが出来ては潰れ・・・。そのコンビニもどきの隣に、PSゲーム屋があって、TTの常連もよく通っていたらしいが、僕も時々脚を運んだ。ここは人脈からなのか、日本だと高校生に当たる年頃の恐らく職業専門学校生達が狭い店の中に登校前の集合場所にでもしているのか屯していてた。バンコクの工業学校生というと頻繁に新聞に暴力事件で名が出てて、それも単なる殴り合いなんかではなく、ナイフや拳銃まで使っての殺し合いや単なる凶悪犯罪の様相を呈していた。路線バスの中で泣き叫び助けを求めた二人の娘が外に連れ出され彼等に強姦されたとかいう事件の記事もあった。他の乗客は誰一人として知らぬ半部衛を決め込み助けようとしなかったようだが、これは日本も含めて何処の国でも大差あるまい。だから、彼等も少数だと他の職業学校の連中に襲われかねず危険だから群れなして登校しているのかも知れなかった。

 タイでは正規のプレイステーションは、僕もシーロムにあるソニーの展示ショップに行ってそのタイの平衡感覚からしてとてつもなく馬鹿高いその表示価格を見て、こんな価格を実際に払って買うもの好き、否、それはもう"異常"と云う方が適格なくらい非常識も甚だしい行為であろう。だから、PSゲーム屋のソフトも皆コピー商品なんだろう。ただ、所謂虎の巻の攻略本ってのが高いから当然流布してなく、見てると、図像なしの文章だけのコピーで作ったような小冊子を使っていた。何処からかのルートで入手するのだろう。けど、そこも久し振りにバンコクへやってきたら、もう美容院に変わっていた。そのもう少し先にも在ったPSゲーム屋はインターネット屋に移行していた。勿論殆どがLANなんかを使った米国の戦闘ゲーム《カウンター・ストライク》を殆ど全員で参加しプレイする類で、和気藹々と云うより正に狂奔している。《カウンター・ストライク》は、元々マーブンクロンの上階のゲーム・コーナーのあっちこっちに並んだネット・ゲーム屋でプレイされていたんだが、それがPSからパソコンに街角のゲーム屋が移行し、もうそれしかないように《カウンター・ストライク》ばかりがプレイされた。今現在は如何か知らないけど、あれに代われるゲームが有るとは思えない。ただ、小さい子供達にはまだ早過ぎ、彼等は一体どんなゲームをやっているのだろう。

 寺の裏の7-elevenのある通りに、以前からTT日本人パッカー推薦のカオパットの美味い店ってのが在った。偶に僕も行くけど、美味って謂うほどでもなく、マア悪くはないって程度だと思う。他からの注文も多いらしく、発泡スチロールの弁当箱をいっぱい並べてカオパットを作っていたりもしていた。ある時、テーブルに坐って瓶のセブン・アップをストローで飲みながら出来るのを待っていると、ふと一枚のポスターが目に入った。カラバオのエートの栄養ドリンク「カラバオ・デーン」の真新しい宣伝ポスターだった。「クラチン・デーン」の向こうを張ったのだろうが、やっぱしエートしか居ないんだろう。バード・トンチャイじゃコークは似合っていても栄養ドリンクのイメージじゃない。この時はまだクラチン・デーン=レッド・ブルが世界のブランドになっているなんて夢にも思わなかったので、エートが出たんじゃ「クラチン・デーン」も危ないなーなんて無知な外人旅行者丸出しで一人勝手に老婆心とやらをセブンアップの肴にして悦に入っていた次第。

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2007年12月23日 (日)

地球で最後の二人

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  気怠いまでに静かに進行して行く物語。 
 銃撃戦すら生な演出を避けたために淡泊な記号と化してしまい、そのシュールな雰囲気が《ルアン・タロック69》と共にペンエークの静んだ世界の基本的色調となっている。
 今回はAMAZING THAILAND的断片は国歌放送の定番一つで、何かちょっとそこだけ浮いているようにも想えるが、日本語とタイ語と英語が均等に配されていて、基本的に現地DVDで観ているにも拘わらずセリフ理解は意外と楽だった。何しろタイ人の共演者までが日本語を話してくれるので。
 
 けんじは日本文化センターで働く独身だが、背中に刺青があり、その上自殺マニアらしい。マンションの部屋はぴしっと整頓され並べられた本だらけ。靴すら棚に曜日ごとに整理されている潔癖性。今日も部屋の天井からロープを下げ、首吊りに酔いしれ、空想世界に浸っていた。と、ドアがノックされ、出てみると大阪の実兄であった。親分の娘をレイプして逃げて来たのであった。後を追って来た旧知の同業者に、本ばっかり読んどるとアホになる・・・気狂いと同業者に弟を紹介する。が、同業者は、実は組から派遣されたヒットマンで、実兄は射殺される。けんじをも殺そうとして逆に射殺されてしまう。けんじは二人の屍体を掘り炬燵風の床下に放り込む。
 橋の欄干の上にしゃがみ込み、飛び降り入水自殺に酔いしれようとしていると、セーラー服姿の娘(ニッド)が車の行き交う車道に現れ、けんじは嬉しそうに後ろを振り向いたまま見とれてしまう。と、疾走してきた車に娘は跳ね飛ばされる。娘は日本人クラブで働いていてセーラー服はそこの衣装。
 娘の姉(ノイ)と口論し車から降り歩いていたのだった。娘は病院に運ばれるが、やがて息をひきとってしまう。妹ニッドを罵ったのを後悔し、他に家族のない姉妹二人ぼっちだったのが、とうとうノイ一人になってしまい、天涯孤独の身に陥って悲嘆するノイ。
 ノイの古惚けた車に乗ってけんじはノイの家を訪れる。古く大きな邸だが、長年手入れをしてないせいですっかり荒れ放題。家事の類には姉妹二人とも全く無頓着だったようで、家の中も同様、汚れた皿がソファーにもびっしりと放られていた。日本人=潔癖性って図式なのかどうか、早速潔癖症候群のけんじが俄然本領を発揮しだし、次から次へと小綺麗になってゆく。そうすると、だらしな娘ノイ=タイ人という図式が対応するのだろうが、わざわざ特撮の綺麗になってゆく爽快シーンまで挿入されている。タイ人って悪臭や汚れを嫌う、きれい好きであったのを思いだした。

 塞ぎ悲しんでいたノイであったが、やがてけんじに惹かれ、孤独の恐怖から解き放たれてゆく。同様にけんじも自分の殻を脱ぎ始める。ノン・セックスの淡い蜜月状態が続く中、ノイのヒモらしき男が現れノイに暴力を揮いけんじに叩き出される。ノイは予てから大阪に出稼ぎにゆく予定で渡航の手続きも終え、結局大阪に出立する。けんじはドンムアン空港までノイに貰った古い車で彼女を送ってゆく。帰途、自分のマンションに戻ると、車旅の途中、ノイに勧められたソム・タムのせいで激しい下痢に見舞われ、トイレに駆け込んだきり容易に出れなかった。と、その間に、けんじを逆恨みしたノイのヒモが拳銃片手に忍び寄り、少し遅れて、大阪からやって来たヤクザたじま達三人組が押し寄せてた。当然二勢力は鉢合わせし銃撃戦。ヒモは殺されてしまう。けんじはトイレの窓から逃げる。

 大阪の町でウェートレスをして働いている長髪を切って坊主に近くなった短髪のノイ。街角に佇み、紫煙を燻らせる。タイの警察の取調室で施錠されたままけんじは吸わないはずの煙草をゆっくりと吸い煙を吐き出しながら物思いに耽け嬉しそうに微笑む。・・・単純に考えれば、怪しげな水商売関係だったノイが大阪で働くとすれば売春関係であろう。それが相場だけど、だとすれば、レストランで働くノイは、けんじの空想の世界の産物と謂うことになる。だが、実際にタイ・レストランで働くタイ女性もいるのだろうから何ともいえない。
 けど、映画の導入からすると、やはり、ラストもけんじの想い描いた想像でしかないのだろう。それにしても、大阪でのノイのシーンは妙に淡く清々しい。
クリストファー・ドイルの腕の冴えって処なのであろう。
 
 
けんじ  淺野忠信
ノイ   シニター・ブンサヤック
ニッド  ライフ・ブンサヤック
ゆきお  松重豊
たじま  三池崇史
ジョン  ティッティ・プームオーン

監督  ペンエーク・ラッタナルアーン
脚本  ペンエーク・ラッタナルアーン
撮影  クリストファー・ドイル
音楽  スモールルーム ファランポーン・リッディム
美術  サクシー・ジャンランシー
制作  FIVE STAR   2003年作品

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2007年12月22日 (土)

生き返ったナナ・パーテカル TAXI NO. 9211

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 棺桶に収まって既に月日も過ちすっかり忘れ去っていたのが、突如棺桶を蹴破って中からヒョッコリ頑固親爺が髭だらけの顔を出し、声を荒げて怒鳴りだした。
 「一体いつ俺が死んだんだ!」
 
 インターネットでボリウッド映画サイト"INDIA FM"を観ていたら、トップページに新作・"ウェルカム"のプロモーションビデオが流れてて、A・カプールとあのボリウッド"親爺"ナナ・パーテカルが出ていた。それも、インタビューまで・・・。
 アムリシュ・プリーが死んだ時、その後も彼が出演した映画が何本も長々と封切られ続け驚いたものであったが、如何なる経緯でナナ・パーテカルがバナラシのガンガーの対岸の存在として過去帳に載せられるようになったか、目を点にしながら、慌てて調べてみたが、フロッピーにもCDにも見当らなかった。恐らく、インターネットの何かで視たんだろうから、特に記事をストックしてなかったのだろう。

 好きなA・プリーが死に、同様にファンのN・パーテカルまで死んだのかと随分寂しく味気ない想いをさせられたものであったが、それにしてもいつまでもプリー以上に延々と親爺パーテカルの出演映画が封切られるもんだなーと些か小首を傾げはしたが、彼の人気振りの再確認するばかり。 取り寄せたレーカーと共演した新作Yatraでは、珍しく作家の役演っていて、確かに死ぬ直前に撮ったのでパーテカルの声や表情が疲れたようで今一冴えないように想えた。勿論それはそんな役作りに過ぎないのは分っていても、"死んだ"という先入観があったので、遂そんなふうに考えてしまった。この映画でも、娼婦レーカーの部屋の中で彼は死に、賞を貰った有名作家だったので彼の名誉と彼の家族のために明るみに出したくないレーカーが棺桶代わりのタンスの中にパーテカルの屍を収め、知り合いの男達の助けを借りて運び出して貰うシーンがあった。狭い階段を重いタンスを抱えて男達が四苦八苦するシーンは笑いもさせるが、妙にリアリティーがあって、シュールな趣すら呈していた。さすがに、タンスを蹴破って蘇りはしなかったが。

 しかし、それにしても、今回はその記事が誤報だったのか、僕が勘違いしてしまったのか、今のところ判断しようがないけど、このブログの読者が僅少で助かった。ともかく、そんな大事な記事、緊要な情報はちゃんとストックしておかなければ駄目だなと、改めて再認識させられた次第。

 パーテカル、既に彼自身の監督作出していたらしいが、次回作の主演女優をラニー・ムカルジーにするのかヴィディア・バランにするか迷っているらしい。
 本当は、《アプハラン》にしようかとも考えたけど、面白い映画だったので、先に廻し、今回は《TAXI NO. 9211》にした。
  バッチャン、サンジェイ・ダッドの共演した大脱走系列の《DEEWAAR》のミラン・ルスリアが監督で、随分と感じが違う。どちらも、所謂男っぽい匂いの漂う映画で、前者では男達の汗と土埃と体臭まで臭ってきそうであったけど、この《TAXI NO. 9211》では、かなり洗練された都会のクール&ホットな二人の男の戦いがペーソスを絡ませて展開される。因みに前者で微妙な立場の役を演じたS・ダッドは今回は軽妙なナレーション。

 ボンベイ(ムンバイ)で今まで数え切れないくらい職を転々としてきたタクシーの運転手ラグー(ナナ・パーテカル)は、保険外交員を営っていると嫁(ソナリ・クルカルニー)に嘘をつき続けてきたが、ある日、車のオーナーに散々たまった借賃を返せと最後通牒を受け、窮地に立たされ苛々していた。そんな時、財閥の父親が死にその相続を巡って父親の親友と争う羽目に陥り係争中の裁判に提出すべき書類を貸金庫に取りに行くため御曹司ジェイ(ジョン・アブラハム)が路上でラグーのタクシーを拾う。
 時間が無く急ぐジェイだが、アンバサドーは中々進んでくれず、次から次えとルピー札を運転席の隣のシートに放り投げ、もっとスピードを上げろと煽り続けた。警察沙汰になっても、俺が責任取るとまで云われ、アンバサドーがそんなスピード出せるのかと首を傾げたくなるほどに猛スピードを出した次の刹那、交差点で他の車と衝突。ラグーと相手の運転手が怒鳴り合いを始めるのを余所に、ジェイはさっさと先に向かう。ところが、ジェイは、タクシーの中に貸金庫の鍵を落としてしまったのに気付かなかった。ラグーは警察の留置所に・・・ここから、切羽詰まった二人の相克が劇が始まる。

 J・アブラハムはいつも通りだが、悪漢面のおやじナナ・パーテカルは
《シャクティ》ほどには面目躍如してないけど、それでも"おやじ"然と発露していて、もう少し脂肪を落として欲しいけど、ボンベイの下層上流?家庭じゃやはりこってり脂肉の付いた方がリアルかも知れない嫁役ソナリ・クルカルニーもそんな位置に甘んじた女房がよく似合っている。
 インドの庶民の家庭って、普通の旅行者は先ず入る機会は無いと思うが、テレビなんかでは時折垣間見えるけど殆ど記憶してなくて、映画だとああこういう風になっているのかと妙にリアルで納得してしまう。タクシーの運転手家庭ってこんなものなのかと調度の一つ一つに感心し、床に直に布団を敷いて寝るシーンにも。映画では一人息子が居るだけだけど、これで子供が何人も居た日にはパーテカルはもっと軋轢がひどくなってしまうだろう。尤も、逆に居直ってのんびりの処世に傾いてしまうってのもあるだろうが。そうなると、また随分と違った趣と展開になったであろうが・・・。
 
 ともあれ、我等がパーテカル、益々元気に活躍していて喜ばしいことだ。だったら、《シャクティ》以上の面目躍如とした怪演を期待したい。

 ラグー  ナナ・パーテカル
 ジェイ  ジョン・アブラハム
 ルパリ  サミーラ・レッディー
 スニータ ソナリ・クルカルニー
 
 監督  ミラン・ルタリア    撮影  カシック・ビジェイ           
 脚本  ラジャット・アロラ  音楽  ビシヤール・ダドダニ&シェカール・ラブジャーニ

  制作 UTV  2006年作品
 

 
 

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2007年12月17日 (月)

TTゲスト・ハウス雑話(5)

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思いついた事をざっと記してきたけど、読み返してみるとTTゲスト・ハウスの否定的側面ばかり。何処のゲストハウスでも難点をあげつらったら切りがないのは当たり前。それでも、次回バンコクへ行けばTTへ向かうのは、僕の場合はっきりしている。殆ど、"居着いた"ってのが"常連"の意味だろうから、少々の欠点はあっても余り関係がないと思う。
 ではって、今度は長所を捜そうとすると・・・暫く大長考を余儀なくされてしまう。建物は普通、でも部品は朽ち続け貧乏宿の感を呈していると云うと大袈裟であろうか。今でも変わってないと思うが如何だろう。調度備品もゲストハウスのそれ。確かに重い鉄扉を開けて入った一階のリビング・ルーム兼レストランは狭いが落ち着ける。側壁の上に設えられた扇風機が生温い風を運び、微風に外塀の上の紅く小さな花の密生した葉叢が揺れ、以前はともかく、すっかり閑散として猫がじゃれジーパンの裾を引っ掻くぐらいの静かな佇まいは、カオサンでは中々味わえない趣だ。
 備え付けの新聞は《バンコク・ポスト》。《ネーション》の方がリベラルらしいが、別に問題はない。「旅行人」のバック・ナンバーもあり、大半が雑記帳の類でしかない「情報ノート」もある。日本語や英語の本やパンフレットも棚に収まっているが、どれも朽ち果て古い。料理は、僕は朝食やドリンク類しか殆ど口にしないので余り関心がない。稀に外に出るのが億劫な時にタイ・メニューを注文するぐらいで、美味では間違ってもないけどゲロ不味とも思わない。ある常連はここの珈琲ミルク・シェィクがお気に入りだし、僕はバナナ・ミルク・シェィクが気に入っている。
 フルーツ・サラダ自体は元々好きでよく注文するけど、その時によって盛られる果物が違う。硬い甜みの少ないバナナやパパイヤは勘弁して欲しいなんてのまだ好い方で、これは大分年代が下がってからの現象だが、果物がない!、とにべもなく断られることも起こるようになった。愈々貧乏宿の趣きを呈し始めたという訳だ。
 エジプトのナイル中流の安宿じゃあるまいし、先に金を貰って、それから漸く材料を買いに行くなんて凋落は避けて欲しいけど、華系なのでそこまでなる以前に商売換えをしてしまうだろう。オーナー兄弟は他の商売をしているようだし。

 ここは常連の巾が広く、上は高齢者から下は十代まで。結構オヤジが多いのが特徴だ。でも、あくまで少数なので爺むさいってことはない。ここのメンバーをマンガにしたグレゴリー青山なんかも偶に姿を見せる。何時だったか、夜中にドン・ムアン空港に着き、朝まで空港内で待機していると、プラスチックの連結椅子で中々寝付けないでゴソゴソしている彼等を見掛けたこともあった。けど、彼等もやがてTTから離れてゆくのだろうか。
 
 本当は、TT側にインタビューして、もっと本格的に書きたかったけど、もう何年もご無沙汰で、もっとそんな状態が続きそうなので、誰かリアルタイムで書ける奇特な旅行者に任せる他ない。
 何しろ、それも文化だし、何よりもバック・パッカー史でもある。恐らく今後も誰も書き残しては呉れないだろうから。

シープラヤ通りを隔てた向いにあるゲスト・ハウス

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2007年12月16日 (日)

TTゲスト・ハウス雑話(4)

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 ゲストハウスの女性従業員って、大体がイサーンというのが相場らしいけど、TTの場合もイサーン周辺からやって来た娘達が多いようだ。
 今はもう二十歳くらいになったのであろうが、最初は浅黒い肌のきっぱりカットしたオカッパとはちょっと違うけどタイの女子小中学生に多い短髪の小柄な娘が、ある日現れた。トォーというまだ13か14歳くらいの初々しい娘で、初めての、それも外人ばかりの環境での仕事だからか、緊張を押し隠そうとして虚勢を張り勢いニヤニヤしてしまう彼女に、同情しつつも思わず苦笑してしまった。余りにも若いので、客に好奇と親近の眼差しで接せられ、巷のレストラン等で働くよりは大部増しな境遇ではなかったろうか。収入はともかく。 
 馴れてくると、次第に一番歳が若いからか、玄関や洗い場等の水仕事なんかを任せられるようになった。ブスッとして、バケツを重そうに運んでいるのを見たことがあった。何年かすると、常連の日本人女性から英語を教わったり、客に注文取りをするようになった。注文数が少ない内は、視線を中空に向け、もう一度注文を反芻すれば好かったものの、多いと慌ててレセプションにメモ用紙を取りに戻ったりして笑わせた。
 小顔でスラリとしていたが、徐々に薄っすらと脂肪が乗り始め、三十代には小肥り体型になるのだろう事を連想させた。ある日、リビング・ルームでファラン(白人)の男が、彼女の歓心を買い口説こうとしているらしい光景にお目にかかった事があったけど、いつの間にかトォーも、そんな年頃に至っていたのだ。
 
 ここのオーナー家族の祖母がずっと長患いし、リビング・ルームに面したすぐ隣の小部屋に寝ていて、その世話をする女性も専属で居た。何人も入れ替わったが、最初はスラリとした整った顔立ちのチャーミングな娘だった。TTの本家の頃から居た娘だったけどいつの間にか辞めてしまったようだ。結局、イサーンの愛想の良いおばさんに定着した。その老婆の部屋の入口の脇の小さなテーブルでよく籠に入ったカオニュウ(餅米)を手で食べていて、トォーなんかも寄っていって甘えたりしていた。

 エーという娘が居た。
 以前オフィスで働いていたのを辞めてTTで働くことになったらしい。細っそり系の色黒のイサーン風で、眼の細く切れ長の典型的な意地悪娘風の容貌で、娘達の中心的存在となっていた。英語が喋れて日本人にタイ語を教えてやってたりして結構旅行者達には近しかった。時々やって来て長逗留する英国の女性と仲が好かった。
 けど、些か性格が捻れていて、英語の出来ないのが大半の日本人をいたぶってジタンダ踏ませたりしてほくそ笑むことしきり。
 で、彼女の作る料理が、その彼女の性格に似て、ある常連客に云わせると、"ゲロ不味"。尤も、その常連氏曰く、
 「エーはあんなだけど、性格は竹を割ったようで、それは嫌いじゃない」と。男っぽい性格という謂う意味でなら肯えるけど・・・勿論憎まれっ娘といっても愛嬌の域は出ないのは当たり前で、だから彼女にタイ語でも教授してもらおうとするのだが・・・。それでも、暫く姿見なくなった。さすがに常連の日本人達をからかうのに飽きたのだろうと思っていたら、ある日久し振りに姿を現わした。以前と違ってちょっと落ち着いた感じになっていて、他に誰も客も居なかったせいもあるのか、旧交でも温めんと柄にもなくしおらしい態度を示し思わず引いてしまった。もう三十歳は越えたのだろうか。月日はエーすら変えてしまうのだ。パーン・ナカリンの唄のフレーズに"プリエーン・プレーン・パイ"というのがあって、どんどん変貌してゆくという意味らしい。バンコクの街並みも、人々をも・・・

Tt9

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2007年12月15日 (土)

TTゲスト・ハウス雑話(3)

Tt5   

シ-プラヤ通りに出る露地の寺側に、警官達の官舎の鉄筋の建物があり、
いつも露地いっぱいに白バイやバイクが並べてあった。その向かい側に、古い大きな洋館があって、廃屋に地方から来た人々が勝手に住着いたみたいであったが、ある時、出火し半分近くが焼き出されてしまった。
 不法住居民達を追い出そうとした連中が付け火したという噂も流れたようだ。よくある話だ。
 で、TTに来たら、その半焼した洋館の前にずらりとトタン屋根の文字通りのお粗末極まりない板張り小屋、つまり仮設住宅の類が並んでいて唖然としてしまった。その端の一角に、焼け跡というより洋館全部を解体し更地にした後立てる予定らしい小綺麗な鉄筋の建物のミニチュア模型が飾ってあった。役人が住民達に約束し作ったのであろうが、どう見ても、露地を隔てた向かい側のポリス官舎よりも立派なものであった。それから一年過ち、二年過ち更に何年も過っても依然として板張り小屋は惨めさの展示場であり続けた。
 少々じゃない熱さのバンコクで、めいっぱい焼けた低いトタン屋根の下、一家族三畳一部屋の狭い空間に犇めき暮らしていて、ある時、TTを出た途端背中に汗が流れ落ち始めるのを感じながらその前を通っていたら、茹だっているであろう小屋の中で、扇風機の生温い風に当たりながらちょこなんと坐っていた小さな少女と眼が会ったことがあった。子供心にも何とも恥ずかしそうに少女は顔を背けた。
 
 その露地の脇に置き捨てられた廃車の上に昇っていつも他の子供達と一緒に遊んでいた目鼻立ちのはっきりした発育の好いローティーンの少女が居た。言葉を交わすこともなかったけど頻繁に通るのでこっちの顔を覚えていたのであろう、ある時、シーロムのあるオープンのレストランの前で屯し笑い興じていた制服の女子学生の一団の中にその娘の顔を見い出した。
 「おっ、何だもうこんな歳になっていたのか」
 と驚きと感慨の混じり合った感情にとらわれた次の刹那、白い制服のブラウスを着た娘は僕に気付いてプイッと顔を横に向けてしまった。自分のうら寂しい生活の舞台裏を知られていることの複雑な思春の鬱屈し屈折した娘心のなせる技であったかどうかは定かでないが、そそくさと僕はその場を離れる他無かった。
 それから、一、二年過ってからか、ある日シープラヤ通りへ抜け寺の前のバス停に行こうとその露地に差し掛かった時、板張り小屋の前に人が群れていて、ふと見てみると、洋館や仮設小屋の人々、大半はおばさんと子供であったと記憶しているが、その件の娘が、すっかり派手な身形のギャルと化して、以前のあんな屈折なんか吹き飛んだみたいに自身に溢れ、懐かしそうな笑顔を湛えた住民達との談笑にすっかり没頭していた。知らない間に件の娘はそこから出たのであろう。正にその場の主役であった。

 シープラヤ通りに面して鉄格子の柵の奥に佇むその朽ちた洋館は、大きな木が一本生え、根っこの部分に少し傾いた神棚が設えてあって、供え物なのか打棄てられたガラクタなのか判別できないような物が周囲に並べてあった。住民はちょっと行くとファランポーン駅や逆方向にタニヤや享楽街パッポンがあり、スルメや果物屋台等を生業にしている人達が多いようだ。
 焼けたのは反対側で、焼け残った方の露地の両側に店があり、寺側の店はレストランになっていて、昼真っからすっかりご機嫌になったおばさん達が大きなジュークボックスのモーラムに合わせて踊り出したりする。それが露地を挟んだどっち側、つまりポリス側なのか朽ちた洋館側の住民なのか、露地でサッカー・ボールで遊び興じている子供達もあわせて、僕には定かでない。普通混在するとは思うのだが・・・。

Tt6

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2007年12月14日 (金)

TTゲスト・ハウス雑話(2)

Tt3

  この辺り、ソイ・サワン一帯は昔風の建物がずらり軒を連ね、間口の狭い様々な店が犇めいている。皆二十世紀の前半に建てられた洋風長屋の類で、些か趣は異なるが上海にも同様の集合長屋住宅がずらり並んでいる。
上海の方は欧米企業の売り出した建て売りだったようだが、年月も過ち、中々の雰囲気を醸し出していて、異国情緒たっぷりである。南國泰風味? 歩いて直ぐのシープラヤやチャルン・クルンも、今では爆走する車群の騒音と排気ガス、埃にすっかり薄汚れ燻み切った場末の趣であるが、ちょっと前迄は、バンコクの目抜きであったはずの瀟洒な建物が多く、表面を灰色に蔽った埃の層を手で拭い落としてゆくように、眼を凝らして視てみると、"Amazing"な自分だけの愉悦的なミニ観光を堪能出来るという訳だ。その地の利は確かにある。

 重い鉄板の扉を開け表に出ると、真ん前に屋台がある。左右にも。
只、TTの泊り客が全くと謂って好いほど、周辺の屋台で食事しないので、屋台関係者のTTの評判は芳しく無いようであった。尤も泊り客に云わせれば、強い陽射しの下昼間から開いている店が多く、単に美味くないという以上に食あたり等で敬遠する向きもあり、それにせっかく食べるのならヤワラートや別の有名処で食べたいという旅行者心理もある。
 附近で食べる連中は、殆ど常連組で、それも出てすぐの屋台ではなく、も少し先の店が多い。評判の店は既に決まっていて、それ等が一様にすぐ近くの店ではないという訳でしかない。

 ファラン(白人)の間ではともかく、少なくとも日本人の間ではTTの料理は人気がない。値段が高い割には美味くない、と。ビールも割高で、近くのコンビニで買ってきてテーブルで飲む者もいる。その場合、受付のカウンターから冷たい視線が送られてくるのをヒリヒリと感じざるを得ない。
   T.T. Guest House
                          Bangkok  oct.1998
                                      baht
Toast with Butter & Jam (2slices) 12
Fried Egg (1 egg)                        10
Scrambled Egg (2 eggs)                30
Plain Omelette                           30
Cornflake with Milk                      30
Banana Pancake with honey         30
Plain Yoghurt                             25
Fruit Salad                                25
Hot Tea / coffee                        15
Ice Coffee with Milk                     25
Singha / Kloster (S)                    45
Banana Milk Shake                      25
Papaya yoghurt Shake                 30
Pineapple Juice with Ice               25
Pepsi,7up,Mirinda                        10
Mineral Water                              8
Ba Mee Pad・Chicken                   40
Kow Pad・Shrimp                         45
Tom Yam ・Shrimp                       45
Pad Preaw Wan・Chicken              40

               

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2007年12月13日 (木)

TTゲスト・ハウス雑話(1)

Tt2 

バンコクのチャオプラヤ川沿に走るチャルンクルン通りと交差したシープラヤ通りに、ケーオ・チャムファー寺があり、その脇の路地を少し行くとTTゲスト・ハウスがある。
 
 最初にTTに泊まったのは、カルカッタのパラゴンで一緒だった学生に連れられて行ったからだが、妙に込み入った一角にあって、外出して戻るのに苦労した。現在のTT(Ⅱ)は、別館と呼ばれ、TT(本家)がフルの時に廻され、あそこは狭いと評判は今一であった。
 本家TTは、リビング・ルームも広く、テレビも観れ、白人日本人比率も半々か白人の方がやや多かった。勿論、その時によって変動はあるだろうが。
 しかし、何年かして、都市高速道路建設の為にそこら辺一帯軒並立退きになり、やがて凡て更地にし高架道路が頭上に造られ始めた。で、TT(Ⅱ)が本家になってしまった。
 ここは、客が少ない時は好いが、多いと、たった4つしかテーブルがないので不便この上なく、テーブルに長居しているとレセプションのカウンター越しに厳しい眼差しを覚えざるを得ない事もあった。ところが、年々客が減ってゆき、狭いリビング・ルームを一人で占有できる事も多くなり、脚にじゃれる猫と、暇を待て余し新聞や雑誌を拡げたり、集まって何かを食べたりする女性スタッフ達の姿が目立つようになってきた。
 

このTTが何故それなりに人(日本人)に知られているのかというと、「旅行人」のバック・ナンバーが揃っているからだ。「旅行人」社が指定して送って来ていたらしいが、今現在如何なっているのか定かでない。
 もう一つ、「旅行情報」ノート」が置いてあったからだ。一時、この分厚い情報ノートがなくなった事がある。盗まれたのだが、殆ど同時期にプノンペンのキャピトル・レストランでも情報ノートがなくなっていた。恐らく同一人物が盗んだのであろう。TTの方は戻ったという話であったが、一日二日ではなく可成り長期であったのであれこれ憶測も喧しかったであろう。

 これは名称だけの問題に後に変わってしまったけど、最初有ったドミトリーが、一時無くなってしまったことがあった。
 「チーパーなビジネスはやりたくない」
と若いオーナー家族の言であった。が、ドミ目的の客が減っただけで何の成果も上がらなかったのか、再び今度はドミとは云わず、三人部屋のベッドという扱いで復活。
 洗い場は洗濯できる作りになっていて、トイレにシャワーが併設されていた。年月が過つにつれて、シャワー部品やドアの不具合が次第に多くなってきて、仕舞いにはベニアのドアの下部に張ってあったブリキの端がめくれ返って気をつけないと脚を切りかねなくなってしまった。いよいよ場末然としてきて、それで高い料金を払わされたんじゃたまった物ではない。
タイも一時は好景気に沸いていたのが忽ち元の木阿弥に戻ってしまい、
「我々は自分達が思っていたほどには豊かではなかった」なんて自嘲をバンコク・ポストか何かで読んだ記憶がある。やりくりが大変になってきての、若いオーナー達の試行錯誤だったんだろうが、すべからず閉鎖的・独善的過ぎ且つせこ過ぎ、客離れをしか結果しないのは自明の事柄。

 ここは、7分ぐらいで、ホアランポーン駅やヤワラート(チャイナ・タウン)まで歩いて行け、中央郵便局も近いし、今ではその有難さは薄れたものの日本料理屋『花屋』の本店も直ぐ近くに在った地の利を名目に、料金はカオサン等に比べると割高。だから、カオサンみたいな騒々しい場所に泊まるのが嫌な旅行者が多少割高料金を払ってでも泊まる処なのだ。尤も最近は、カオサン自体が変貌してしまって比較的静かで瀟洒な建物も多くなり、とくにファラン(白人)達がそっちへ流れている可能性もある。 
 もう閉まってしまう、という噂も耳にしたこともあるTTゲスト・ハウスだが、それでも僕は、バンコクへ行けば、先ずそこに泊まるだろう。

Tt4

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2007年12月11日 (火)

浮雲  暗澹と至福の旅

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  この映画の《南方》に対する拘わりとは一体何なのだろう。
 引き揚げ者なら、朝鮮半島や満州からも居る。又、逆に、南に拘わるなら、もっと緑深く濃密なインドネシアやマレーシアでも好かったはずなのだが、何故かベトナムであった。確かに赤道直下は瘴癘の地でもあり過酷な自然条件の下であっては、若い娘が何時までも憧憬と追憶に囚われるのには不自然であろう。
 閉塞した戦時下日本から離れた、南方・仏印の、標高1500メートルのフランス植民地時代の瀟洒な(ヴィラ)が立ち並んだ風光明媚な、現在でも避暑地として有名なダラットでの生活は、雪子(高峰秀子)に束間の開放感と物質的満足、そして富岡(森雅之)との恋愛の充足を与えた。正に、ダラットが雪子の青春そのものであったろう。
 
 それが、敗戦とともに凡て潰え去ってしまった。
 ベトナムでの収容所生活(映画では描かれてない)、そして復員船での帰国。雪子にとっては、閉塞し鬱屈した地へ無理矢理引き戻される屈辱を意味した。その上、敗戦の焼け跡色濃く残った東京=日本の瓦解と窮乏、そして富岡の裏切りが、更なる屈辱と絶望を覚えさせた。
 郷里に居場所を見出し得ず、首都・東京にしがみついて、掘っ立て長屋を借り、手っ取り早く米兵相手のパンパン(街娼)で喰いつなぐ。
 正月、富岡と連れだって、伊香保温泉に投宿する。そこで雪子が云う。死ぬとしたら如何な方法が好い・・・青酸カリ・・・等と心中を仄めかすと、富岡はあっさりと俺もそう思っていたと肯い、「榛名山に昇って二人で心中でもしようかと思っていた」と告げる。が、その後で、「君にはもっと生きていて欲しいな」と翻意を促す。

 贔屓客だった米兵が帰国し、嘗て雪子を手込めにした親戚の伊庭(山形勲)が従事するインチキ新興宗教の秘書を務め、伊庭の囲われ女になる。
仕舞いには思い余って、その宗教団体の金30万円を盗んで、最初企図していた材木商も頓挫し友人に紹介された石鹸屋も辞め、病で亡くなった妻の葬式代にも事欠き、古巣の農林省の辺境の森林局に漸く活路を見出した富岡を旅館に呼び寄せる。
 雪子は、盗んだ金を二人で派手に使い切ったら死ねばいいのよ、と嘯ぶくが、富岡は素気なく断る。列島の最南端、屋久島の森林局に職が決まっていて、今日明日にも赴くことになっている、と。
 結局雪子も富岡について、列車で鹿児島まで向かう。鹿児島は確か原作者の林芙美子の母親の出身地だったはずで、芙美子が鹿児島を訪れていたかどうかは定かでないが、母親に幼少の頃から話をあれこれ聞かされていたかも知れない。
 その旅館でとうとう結核を発症し病の床に着く。それでも、一緒に連絡船に乗り屋久島に赴く。しかし、篠つく長雨の中、到底日本とは想えぬ南方的な佇まいの緑濃い原生林に囲まれた粗屋で、一人血を吐き寂しく死んでゆく。知らせを受け駆けつけた富岡は、二人きりになって、やっと心底の涙をハラハラと零し嗚咽し慟哭する・・・
 
 花のいのちは みじかくて くるしきことのみ 多かりき 
                                                        (林芙美子)

 確かに富岡は女癖の悪い男で、正月に赴いた温泉街の喫茶店ボルネオで知り合った元南方方面軍兵士(加藤大介)の若い嫁お勢(岡田j茉莉子)を早速誘惑し関係をもってしまう。尤も、すぐに雪子に見破られるが。東京に戻って暫くして、富岡の新しい居所を訪ねて行くと、何とお勢が出て来てしまった。後、別れた夫にお勢はその部屋で刺し殺されてしまう。何とも、禍々しい顛末ではあった。
 それでも最後に富岡は、雪子の哀れな死に、否、長年連れ添った女の死に嗚咽せざるをえなかった。富岡が心底からの涙を流し慟哭することで、苦悶と暗澹そして刹那的至福の雪子の半生が辛うじて救われたようにも想えるが、さて。
 
 森雅之も好いのだろうが、やっぱし高峰秀子の多彩な表情が好い。モノクロ画面の強さなのであろうか。岡田茉莉子も初々しい。ダラットの場面、1955年頃、一体何処で撮ったのであろう。ベトナムの現地でのロケなのか。東京もまだまだ焼け跡の痕跡が十二分に残っていて、モノクロのせいか臨場感に溢れている。

     
監督    成瀬巳喜男          幸田雪子  高峰秀子
監督助手 岡本喜八           富岡謙吉  森雅之
脚本    水木洋子           伊庭杉夫  山形勲
原作    林芙美子           お勢    岡田茉莉子
撮影    玉井正夫                      向井清吉  加東大介
音楽    斉藤一郎                      米兵    ロイ・ジェームス
制作 東宝 1955年作品

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2007年12月 8日 (土)

任侠外伝 玄界灘

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 日本海沿岸地域と朝鮮半島との行き来は、沖縄と台湾との交通・交易、それも小舟などで行き交うほどに簡単且つ頻繁であったのだろうか?
  沖縄なんかは、ついこの間までフィリピンの舟まで遣って来ていたという。この映画を観ていると、そんな小さなモーター・ボートででもそこら辺の民間人が安直に朝鮮半島に行けそうに想えてしまう。そういう爽快感あるいは玄界灘ー日本海を小舟で渡ってゆくという雄々しさ、それに大和時代から倭寇、そして近代に至る連綿とした軋轢史(ひとえに侵略史と断じてしまうと歴史のダイナミズムを損なってしまう)が渾然一体となって造形された映画であろう。
 只、結果的にはその(七十年代)時代の映画としても、《状況劇場》唐十朗の映画としても、可成り肩透かしを喰わされた感は否めない。
 安藤昇や宍戸錠、天津敏等の東映(実録)任侠映画の面々のイメージを敢えて踏襲し、唐自身の映像性よりも、《東映任侠映画》自体のイメージに同化したかったのかも知れない。あるいは、又、もっと即物的に初めての映画監督という不慣れ・未熟という技術の問題であったかも知れない。
 例えば、大袈裟な漁民用の黒い雨具に身を包んで、棒切れの杖をつき傷ついた片脚を引き摺りながら、玄界灘を背に海辺から一歩一歩よろけ前進し続ける光景は、唐獅子牡丹の刺青した高倉健が単身長ドスを片手に敵陣に乗り込んでゆく画面を彷彿とさせるが、正に《状況劇場》的唐十朗のオドロオドロしさの片鱗の発露であろう。でも、やはり出来は今一。唐十朗では許されないレベルだ。街頭の赤テントで演れば見事すぎるくらいに演ってのけるのであろうが。

 劇中、国鉄のストライキを当てにして沢木組が目論んだ便乗臨時輸送トラック便が、ストの大幅切り上げの中止になったため頓挫してしまい、抗議に来た蛤業者に、組合の弱腰を散々罵った後でこうまくし立てた。
 「国鉄みたいなええ加減なトロツキストは相手にせんのよ・・・」      
 これは唐というより共同脚本の石堂淑郎の書いたセリフではなかろうか?
 大島渚と組んでいた頃の十八番的フレーズだったと思う。当時ならヤクザが組み合いの弱腰をなじるなんて結構受けただろうが、今時"トロツキスト"なんて死語でしかなく、如何にも古色蒼然として、それが又生きた言葉の意味と伴に、一つの味わいともなっている。

 朝鮮戦争の頃、日本国内に運び込まれた米兵の屍体洗いのバイトに精を出していた学生の近藤(安藤昇)と沢木(宍戸錠)は、通りすがりの黒マスクの男(唐十朗)に現地だともっと儲かると教えられ、玄界灘を越え釜山に渡る。(ベトナム戦争の時も、運び込まれた米兵の屍体洗いのバイトは高額で有名であった)
 戦死した韓国兵の遺族に認識票を届ける軍属の仕事に就くが、元々ヤクザな二人は、認識票を渡しに赴いた先(釜山市天新洞125番地)で、酒の勢いもあってか、そこの遺族の若い女達に欲情し、犯し殺してしまう。近藤が犯し殺害した女が李春仙(李礼仙)で、二人が逃げ去った後、棺を蹴破って生き返える。ところが、春仙は事もあろうに鬼畜-日本人の子を孕んでしまい、産み落とした後、海に飛び降り自殺してしまう。

 それから幾歳月を過て、沢木は下関でヤクザの親分に収まり、韓国から密入獄してきた女達を東京まで運ぶ家業を営んでいた。
  釜山から運ばれてきた女達の、9人のはずが11人の2人多い余計者の父娘の娘・李考順(李礼仙)に、近藤の居候・田口(根津甚八)が恋情を抱く。が、近藤は、嘗て自分が釜山で犯し殺した女にそっくりなその娘を犯してしまう。やがて、その娘の父親(小松方正)から、あの娘はお前が昔犯し殺害し損なった女の産んだお前の娘だと告げられる。実は、その父親は、嫁の仇を討つために娘を連れはるばる玄界灘を渡ってきたのであった。

 沢木組の面々、《実録・仁義なき戦い》のイメージそのままに、下関の地場のヤクザであっても、広島弁を使う。唐十朗にとっては、何としても広島弁でなければならなかったのだろう。

 監督 : 唐十朗
 脚本 : 唐十朗 石堂淑郎
 撮影 : 瀬川浩 
 音楽 : 安保由夫
 挿入歌 主題歌「黒犬」、「夢は俺の周り灯籠」唄・安藤昇
         冒頭から幾度も唄われる韓国歌謡曲は不詳

 近藤 : 安藤昇
 沢木 : 宍戸錠
 田口 : 根津甚八
 李春仙・李考順 : 李礼仙
 李春仙の夫 : 小松方正
 沢木組 : 天津敏 小林薫 
 長屋の住人 : 石橋連児 熊 嵐山光三郎
  ATG制作 1976年作品

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2007年12月 2日 (日)

ルアン・タロック69 (シックスティナイン)

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  タイトル通り「喜劇69」ってところなのだろうが、ペンエーク監督の他の

他の作品、『地球で最後の二人』以外、『ファンバー・カラオケ』、『インビ

ジブル・ウェーブ』、『プローイ』は観てない。
 
 ファイナンス会社のリストラにあったオフィス・ガール、トゥムは、絶望し

てアパートの自室のキッチンに置いてあった何種類もの洗剤液を飲んだ

り、拳銃で自殺を図る衝動に捉われるものの実行できなかった。直ぐ求

職活動もせず自殺衝動に駆られるってのは、'99年頃だから、タイ・バー

ツがどんどん下がっていた時季であったろうか。と、自室のドアの前に、

小さな段ボール箱が置いてあった。ためらいもせず彼女は部屋に持って

入り、普通にためらったりの細々したショットを面倒ではしょったのかテン

ポがかったるくなるからか、あるいはリストラのショックで平衡感覚が麻痺

してしまったって事なのか、包丁で箱を破ってしまう。中には、100万バー

ツの札束がぎっしりと詰まっていた。そこから、物語が始まる。
 
 早速、悪徳ムエタイ・ジムの使い走りの二人組が、ドアをノックし、段ボー

ル箱がインスタント麺メーカーの「ワイワイ」のか「マーマー」のかで揉めた

り、バンコクではよく目にする(シーロムのマックの前なんか群れなしている)

手話で障害者の相棒と遣り取りしたり、冒頭のおみくじ棒で三人のリストラ

社員を決めたり、この映画全体がそんなショット、エピソードで構成されて

いる。俗に言う外国映画賞狙いの感無きしもあらず。その頃のフレーズで

いえば、「アメイジング・タイランド」ってところだろう。が、これは日本でも見

られる現象で、必ずしもそうではなく、むしろ自らの国・風俗にエキゾティシ

ズムを観る範疇のものなのであろう。それが、タイ国内で大ヒットしたのだ

から、もはやタイ人自身の少なからずがそんなメンタリティーを持ち始めて

るのだろう。尤も、イサーンの農村部の住民達までがそうとも思えないが。
 結局、紆余曲折を過て、彼女は、自分の部屋の中に警官も含む多数の

男達の死骸を抱え込んでしまったものの、100万バーツを箱の中に詰め、

水の中に隠せた。親友のジムを失うという代償を払いはしたが。
 最後の、トゥムの部屋での、警察×ギャング×ギャングの三つ巴の殲

滅戦は、クリスチャン・スレーター主演のトニー・スコット監督作『トゥルー・

ロマンス』('93)で有名になり、その後あっちこっちで見かけるようになった。

コミカルな手法なので、この映画には不自然さもないけど、簡単に銃声

だけで済ましている。予算の問題でそうなったのか、クールな殺人劇を

貫徹するためなのか。血塗られたおどろおどろしい物好きのタイ人達に

したら、なんとも物足らぬ、ナンプラー抜きのカオ・パットみたいな物にし

か思えないのではと、つい余計な心配までしてしまう。

 インド映画ですら、例えばシャー・ルーク・カーン主演の『サワデス』で、

彼の扮するNASAのエンジニアが、母国インドに戻った時、決して水道

の水を口にせず、大都市でめいっぱい購入したミネラル・ウォーターし

か飲まないといったエピソードが出て来るぐらいだから、タイにこんな映

画が出来ても別に如何ってこともないのだけど、何しろ"喜劇"なので、

そんなノリで観てれば物足りなさ(笑いや諧謔って面でも薄味だが)はそ

れほど気にすることもなく楽しめる作品ではある。タイ人は、おどろ物だ

けでなく、又タロックはじめ、お笑い物好みでもあったのだ。

 トゥム      :  Lalita Panyopas
 ジム      :  Tasanawalai Ongartittichai
 ペン       : Sirisin Siripornsmathikul  
 ミスタ-・トン :  Arun Wannarbodeewong

 監督 ペンエーク・ラタナルアン
 脚本 ペンエーク・ラタナルアン
 音楽 アモーンポン・メータークンナウット
 美術 サックスィリ・チャンタランスィー 
  制作 FIVE STAR 1999年

69ww

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