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2008年1月の8件の記事

2008年1月30日 (水)

ピンジャル  国境を超えて

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 1947年、インド・パキスタン両国が独立、双方の国(地域)に住んでいたそれぞれ異なる少数派のヒンドゥーあるいはモスレム住民達は、住み慣れた土地を捨てそれぞれの自分と同じ宗派の多数派の国に移住することを余儀なくされた。
 この映画の監督チャンドラプラカシュ・ドゥイベディって余り聞かない名なのでインターネットで調べてみても他に映画作品見当たらなく、テレビ番組の制作関係のようだ。それにしても、この《PINJAR》仲々面白く、僕の観たインド映画の中でも金字塔物。インド=パキスタン、ヒンドゥー=イスラムの対立を題材にした映画って、やはりエモーショナルで緊迫感に満ちてしまうからつい映画の進行に呑み込まれてしまう。

 インド-パキスタン双方に跨るパンジャブ州、そのインド側のある町の有力者モハンラルにプローという娘が居た。盟友の息子のラームチャンドとの婚儀が間近に迫っていた。
 そんなある日、郊外の人気のない野原で、一人の馬に乗った見知らぬ男に、プローは誘拐されてしまった。気が付いてみると、見知らぬ農家の一軒屋で、その誘拐犯の男ラシッドは、その割には今一つ粗暴さに欠け、腫れ物に触るように彼女に接した。その農家に閉じこめられたある晩、隙をみて逃げ出し、素足のまま自宅まで逃げ戻った。ドアを幾度も叩き、やっと母親が開けてくれた。ところが、連れ去られた娘が無事戻ってきたというのに、父母は何故か冷淡であった。一度何者かに生娘が誘拐されてしまったら疵物として誰もまともな娘として見てくれず、況んや結婚なんて・・・否、実際は、もっと複雑な因縁めいた事情であったのだ。モハンラルの数代前の家族が、ラシッドの同じく数代前の家族の娘を誘拐していたという。その、一族の不名誉を濯ぐためのラシッド側の報復なのであった。
 ラシッドはプローを誘拐するなんて暴挙脳裏を横切ることすらなかったけど、厳格なイスラム教徒の叔父がそれを許さず、一族の名誉の名においてラシッドに強要したのだ。お前が戻らないと、他の家族に迷惑が及ぶと父親モハンラルは冷酷に彼女を拒絶し、泣く泣くプローは一人夜道を戻っていった。

 封建的遺制と宗教対立。確かにインドでは有りそうな話だ。否、インドだからそれが絵になってしまい、妙に説得力を持ってしまう。
 原作とは随分と異同があるけど、こっちの方が却って分かり易い。
やがてブローは死産や浮浪女の産んだ子すら取り上げられる等の曲折を経ながら次第に献身的なラシッドに心を開いてゆく。そんなある時、収穫間近のラシッドの麦畑が何者かによって放火され焼き払われてしまう。呆然とするラシッド。しかし、周辺住民達の話を聞くと、どうもその犯人は、プローの弟トリロクらしい。実際、ラシッドが姉のプローをさらった事を知り報復として放火したのだ。ラシッドの叔父や一族の男達がそれを怒った。が、ラシッドは、もう止めてくれと遮る。俺の遣ったことに彼奴が報復をしたんだ、彼奴に報復して亦同じ事を繰り返すつもりか・・・

 何も親や家族の敵討ちは日本(殆ど明治維新頃には消くなってしまったろうけど)だけの十八番って訳ではなく、インドでもちょっと前までは連綿と続けられてきたらしい。隣国のパキスタンなんて今現在でも、バシュトン等の所謂部族世界では行われていて、僕が大部以前パキを旅してた頃には英字新聞の隅っこにそんな記事が載っていたのを覚えている。

更に、これはインドに限らないけど、「略奪婚」という風習の残渣なのかそれともつい最近まで現実のものだったのか、この映画の中では触れられてない。だとすると、数代前の家族云々は些か筋が通らないことになるが、形だけの略奪形式ならともかく、本当の略奪婚ならば、略奪は略奪でしかないので、やはり奪われた側は復讐するだろうし、それはそれで筋が通っているのであろう。僕はてっきり「略奪婚」とはもっとおおらかな風習とばかり考えていたけど、時代と国によって大部違いがあるらしい。

 近作《バナラス》は詰まらなく途中までしか観てないけど、マトンドカールは綺麗に撮られている。けど、やっぱしラシッドのマノージュ・バジパイに尽きてしまうんだろう。ナイーブな悪役顔が余計彼の煩悶と苦渋を上増してドラマを盛り上げている。シャールーク・カーンの《ベーラ-ザーラ》でのコキュのパキスタニー役では出番が少なかったせいか今一つ印象が薄かったけど。 

プロー        ウルミラ・マトンドカール
ラシッド       マノージュ・バジパイ
ラームチャンド    サンジェイ・シュリ
トリロク       プリヤンシュ・チャテルジー
モハンラル(父親) クルブシャン・カルバンダ                            
ラジョー       イシャ・コピカル

監督・脚本   チャンドラプラカシュ・ドゥイベディ
原作      アムリタ・プリタム
撮影      サントーシュ・サンディール
音楽      ウッタム・シン
振付      レーカー、チミニ-・プラカシュ
制作 LUCKY STAR'S     2003年作品

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2008年1月26日 (土)

 97年秘境への旅  <虎跳峡> 

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雲南省北部、麗江から北上した玉龍雪山と哈巴雪山に挟まれた金沙江(揚子江)沿いに、《虎跳峡》と呼ばれる深い渓谷がある。'97年一月にその秘境に赴いた。
 
 麗江からバスで数時間の橋斗の川沿いの宿を早朝出発。温度は20℃前後。ずっと天候は今一つで時々小雨がぱらつくが、宿の近くのバックパッカー・カフェの女主人に云わせると、「暑くなく、むしろトレッキング日和」らしい。
 簡単な地図は持参したけど、いざ実際に現地を歩くとなると、標識らしき者も余りなく、時々住民に尋ねてみても皆云うことが違っていて、可なり時間をロスしてしまい、結局一番下の道まで下りて進むことにした。
 川沿いの道だ。すぐ傍を埃を舞挙げてバンや乗用車が突っ走って行く。
次第に川と道路の高低差が大きくなり始め、下方に轟音を立てて濁流が流れてゆく正に渓谷そのもの。川の向い側に黒い肌の断崖絶壁が聳え、ずっと先の奥まで連なっていた。
 暫くすると、ガリガリ音が聞こえてきたので、何かと思って確かめてみると、丁度川を隔てた向い側の断崖に掘削機で岩肌を抉って小径を造っているではないか。橋斗方面からずっと続いていた。向こう側にも道路を造るつもりなのだ。
 昼頃、永勝村に到着。何もない店の前のテーブルで休憩。この附近の景観は仲々素晴らしく、ここで一泊して日がな一日渓谷を眺めながらタンジェリン・ドリームやドーウェイを聴くのも悪くないなと一瞬想ったが、何しろ小雨が降り続いていて、やはり先に向かうことにした。
 少しして、Landslid土砂崩れに道を遮られた。岩や小石・土が遙か下方の川まで真っ直ぐ流れ落ちていた。途中までは岩や石ころを踏み台にして意外と簡単に渡れたが、それから先は砂地になっていて道跡らしきものもなく、今更戻るには、後二、三時間で核桃園なので余りにも口惜しく、丁度やって来たロバの一向の尻にくっついて、薄氷を渡る想いでなんとか渡り切った。しかし、その後、歩けど歩けど核桃園の姿は見えす゛、更に雨脚も強くなってきて、休憩することもなくロバの一隊の後にくっついて歩き続けた。それでも、とうとう核桃園に到着。
 ロバ隊の後をくっついていた中国人グループは、《山泉旅社》へ、僕はもう少し先の《山白臉旅館》へチェック・イン。
 
 人気のチベタン風の《山泉旅社》よりも、黒瓦に白壁、黄色地に朱色のアクセントの二階建てというおよそ趣のない、しかし、それはそれでそれなりの雰囲気のある《山白臉旅館》の方が静かで落ち着けた。毎日虎跳峡を満喫しながら五日も滞在してしまったのも、この宿だったからだろう。
 川側のその派手な建物(客室)の、道を隔てた向いにレセプションと客室、レストラン・売店、スタッフの部屋と現地人用のビデオ室の備わった建物が
在った。道路に面して小さな(ホット)シャワー・ルームもあり、直ぐ脇に少し大きめのサモワール風の薪湯沸かし器の湯をシャワー室に送るという奴だ。橋斗の峡谷村旅社の方はポンプを使った機能的なものであったが、やはり秘境・虎跳峡であってみれば、こんな代物が分相応って処だろう。これでも、かなり虎跳峡の最先端を行っていたはず。

 客楼は二階建てで、一階が三人部屋(5元)、二階がシングル(10元)とダブル(7元)。僕はダブルへ入った。ベッドとテーブルだけ。
 部屋は川側に面していて、窓のカーテンを開くと、川向こうの絶壁、黒い岩肌の切り立った崖とゆっくりとたゆたう如く流れて行く白い雲、正に山水の世界が壮大なスケールで眼前に聳えていた。渓谷を白く長い雲が悠然と流れて往く様は紛うことなく白竜の雄然と蛇行してゆくそれ。余りに間近なので、その世界に吸い込まれそうなくらいだ。これで7元とは・・・。

 乳飲み子を抱えた女主人は漢族で、愛想好く、その妹は英語はてんで駄目で愛想笑いばかりだがスラッとしたぽっちゃり顔の美形。時々見かける旦那や親族なのか青・中二人の男も居て、道の拡張なのか整備なのか一家総出で道路工事をやることもあった。
 朝食はバナナ・ポーリッジや煎鶏蛋(目玉焼き)、奶紅茶(ミルク・ティー)、。こんな辺境の奥の秘境で、何故ポーリッジなのか? 量はすこし少なめだけど、味は悪くはない。昼は、フルーツ・サラダ(りんご、梨、バナナ)やUFO形の大きなアップル・パイ(中身はりんごの角切りとチョコレート)。夜は、西紅柿鶏蛋湯(トマト&エッグ・スープ)、フライド・ビーフwithトマト、フライド・ベジタブル等。

 滞在中、あっちこっちで地滑りの轟きやダイナマイトの爆破音が聞こえた。一度など、周辺住民・泊客等が一斉に《山泉旅社》の方へ非難させられ、《山白臉旅館》の大部先の山の方でダイナマイトの大競演が行われたこともあった。改革開放の余波がこんな秘境にも押し寄せ、正に《虎跳峡》開発の真っ最中だつたのだ。この宿にも、中国人の技術者達が泊まりテーブルの上に地図を拡げたりもしていた。あの爆発音や掘削機の騒音に恐れをなし森の虎や豹、金絲猴なんぞも逃げ出してしまったろう。

 あの調子では、数年もしないうちに対岸の道路も完成し、バンやバスがひっきりなしに観光客を次から次へと吐き出してゆくのだろうと、諦念を抱きつつ、のんびり渓谷をはってゆく白龍を眺め山水世界に同化し想いを馳せるなんて悦楽は今が最後なのだろうと有終の美を満喫した次第。はて、実際は、その後如何な展開に相成りましたやら・・・。

 

Chteau de  Woody
  山白臉旅館 

雲南珈琲      4.0
珈琲(ネスカフェ)    3.5
紅茶          2.0
奶紅茶        2.5
録茶          1.5
姜茶          2.0
荷茶 (nana  tea) 2.0
口可口楽      4.5
大理啤酒      5.0

1

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2008年1月19日 (土)

砂礫の中の曼荼羅 サムイエ(桑耶)

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チベットのラサ近郊にサムイエという小さな村がある。
サムイエ寺を中心に集落が形作られた周囲を砂漠と砂礫の山々に囲まれた村だ。漢族や外人客の多い都市ラサから来るとホッとする。正にチベットって感じだ。その頃はまだパーミッションは特に必要なかった。尤も、僕が訪れたのは、丁度「旅行人」の面々が「チベット篇」の作成のためにやって来ていた頃で、今現在、サムイエが一体如何変貌しているのか全く定かでない。

 ヤク・ホテル(ドミ25元)前から他の日本人二人とボロ・ミニバスに乗って、六時間もかけてヤルツァンポ河のボート乗り場に到着。そこから、モーター付の木製のボート(2元)とトラック(2元)を乗り継いで、サムイエへ。サムイエ寺前の招待所の八人部屋に入る(1ベッド7元)。僕等の後少しして、チベット人達が五人入ってきた。皆巡礼らしい。中の一人が結構好いチベット刀を提げていて、見せて貰うと、バルコル(八角街)なんかに並んでいる露店なんぞでは先ずお目にかかれないような立派な刃であった。
 
 サムイエ寺の金色のウツェ大殿は独特の造りで、直ぐ傍に在るので毎日脚を運び、日課となっていた。入口近くに有った崇山少林寺を想わせる拳法-武術図の壁画には意表を衝かれてしまった。まさか、チベット仏教の寺院に武術とは。嘗ては少林寺の如く、サムイエ寺でも、チベット僧達が剣・拳法に励んでいたのではあるまい。それを寺僧に聞いとけば好かったと後で後悔してしまった。

 のんびりするには好い場所だが、ストゥーパ(パコダ)が三つも建設中で、も一つ落ち着きが無く、何しろ狭い集落なので、村の外の砂礫地帯か、レストランぐらいしか長居出来る場所はない。おまけに、何軒か在った食事の出来る場所の何処も、チャイは飲めたが、料理はお粗末極まりなく、自炊するしか手がないってところで、これが最大の難題であった。
 肝心のウツェ大殿を観ると、後は特にめぼしい物はなく、大概群れるときはレストランと相場が決まっていて、ある時なんかは、夕方三時頃から夜の九時頃まで、途中食事を挟んで、三人でトランプの「大貧民」を延々とプレイし続けた。こんなにトランプをやったのは、プーリーのサンタナ・ロッジ以来だった。
 ある時、下痢と風邪で寝込んでいたU君が、その同じレストランに姿を現わし、チャイを注文した。ところが、グラスに魔法瓶からチャイを注ぐとき、魔法瓶に入っていた蝿がグラスに入ったのを目敏く見つけ、グラスと魔法瓶を替えさせた。ところが、新しいグラスにチャイを注いで暫くすると蝿の死体がグラスの中に浮いているではないか。病み上がりのU君、仕方なく、表にグラスを持って行き、犬にチャイをやった。そして再び新しいチャイを注いで貰った。三度目の正直って奴だが、ふと見てみると、またぞろ蝿の死体が浮いていた。
 「蝿の霊にでも憑かれているんじゃないの、でなけりゃ、チャイを飲むなって啓示じゃない?」とからかってやったが、U君、さすがにうんざりして、宿の自分のベッドに戻ってしまった。
 サムイエならではの怪現象って訳だが、ここでは、グラスになみなみと縁いっぱいまで注ぐので、飛んできた蝿が足場がなく熱いチャイに脚を取られて溺れ死ぬのだろうか等と、暇に任せてあれこれ推理してみたりもした。

 ウツェ大殿といえばひっきりなしに巡礼達がトラックでやって来た。
 ある時、本堂の中を散歩していると、巡礼のまだ十代半ばの娘が、ふと自分の掌の汚さに気付き、しかし周囲に洗う場所もなく、自分の掌に唾を吐いて両手でゴシゴシこすり始めた。そして、今度はその手で階段の手摺りを握って何度も上下させて拭い、更に自分の衣服で拭った。如何にもチベタン・スタイルって感じであった。 
 また、別のある時、男女のカン・パ族のグループの巡礼を見かけた。
 仲々プリミティブで迫力があり圧倒されてしまったのを覚えている。
 娘は例の黒っぽい厚手の上着を纏い、頭にはトルコ石や黄色い丸形の飾りを付けていたのに比べ、男の方は、モス・グリーンの公安か人民解放軍の制服の上着を着ていて、髪は後ろに編んだままカン・パ特有の赤紐の束は頭に廻わさず外して首に巻いていた。
 一瞬、騎兵隊の制服を着たアメリカ・インディアンを想起させた。それが本当にシュールなくらいの迫力を持っていて、それらが今-此処に生きている事を共時的に体感させられてしまった。
  その中の十代中頃の一人の娘が、チラッと僕の方を射るような眼差しで横目に見遣った。正にそれは山猫のそれであり、野生に満ち満ちていて、思わず戦慄するように痺れてしまった。およそ日本なんかでは先ずお目にかかれない体験であった。

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2008年1月12日 (土)

カンパニー   印度黒幇的故事

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ヴィヴェク・オベロイはこの映画が初出演・デビューということだが、それなりに好演しているし、A・デブガーンはもうお決まりの感がある。南インドのもう一人のスーパー・スター"モハンラール"も二人の敵役の警察側のトップとして画面に迫力を与えている。この役を他の役者が演じたら、随分とまた違った映画になったに違いない。

 「カンパニー」、この映画では、インドのアンダーワールド(黒幇)のある組織の話だが、実在の"D-Company"という汎アジア的なマフィア組織をモデルにしているらしい。1993年のヒンドゥー=モスレムの抗争の最中、ボンベイ(ムンバイ)での一連の爆破事件の首謀者とも支援者とも目されているらしいダウード・イブラヒムが、その首魁(ボス)という。爆破事件の方は、昨年(色々難題があったらしく、実際はその、一、二年前に制作)、映画《ブラック・フライデー》が扱っている。
 ラム・ゴパール・ヴルマのこの《カンパニー》では、テロ関係には一切言及されてない。否、"1993"以前は政治的な傾向は無かったのではないだろうか。イスラム教徒として、あの時の、ヒンドゥー側のイスラム教徒側に対する攻勢に怒ってからのテロル=爆破事件らしいから。D・イブラヒムは、インド当局どころか、アメリカ政府にも、"グローバル・テロリスト"として指弾され、WANTED LISTにも載っているようだ。
 この映画は、専らマフィアらしいマフィアとしての姿、世界をのみ取り扱っている。

 
 ボンベイのスラムに育ったチャンドゥーとその仲間達、次第にのし上がり頭角を現わし始め、ボスのマリークにも直に会え、稼ぎの好い仕事を任されるようになる。大ボスのアスラム・バイの傘下の他の敵対的な組織を叩いて、今じゃ他に敵なし。
 チャンドゥーも何時しか、生まれ育ったスラムから抜け出し、一人育ててくれた母親ラニと一緒に瀟洒な一戸建てに移る。許嫁のカンヌーもやがて結婚し一緒に住むようになる。シュリニヴサンをトップに据えた警察側の猛追をかわすため、チャンドゥーとカンヌーの新婚旅行にかこつけて、マリーク達幹部は、チャンドゥー夫婦と共に香港へと旅立つ。
 始めは和気藹々だったものの、依頼された知事暗殺に予想外に子供も一緒に殺めてしまう事の正否でチャンドウーが怒りカンパニーからの離脱を宣言。その瞬間から、チャンドゥー一派とマリークのカンパニーとの熾烈な抗争の火蓋が切って降ろされる。そんな動きを「カンパニー」壊滅の好機とばかり虎視眈々とチャンスを窺うシュリニヴサン・・・。

 クールなマリークとホツトなチャンドゥー。
 そして二人の妻のクールなスロジャとホットなカンヌー。
 さらにそのその二人の間をウロウロと彷徨うスラムの母親役が上出来のシーマー・ビスワース演ずるラニ。むつけき男達の抗争劇に、翻弄されながらも立ち向かう女達の姿が、男達と女達の比率が程良く平衡が保たれ単調さを救っている以上に、複合的・重層的なダイナミズムを作り出している。
 映画ではボスのマリークよりも、ヴイタリティー溢れたスラム出身の成り上がり青年・チャンドゥーの方がアクティヴで、新人ヴィヴェク・オベロイが溌剌と演じている。同じスラム出身の若い嫁のカンヌーも、彼に劣らず能動的で、仕舞いには銃まで手にしてしまう。

 仲々重厚に仕上がっていて、観る者を飽きさせない。
 チャンドゥーとコダ・シンが逃げ延びた先のケニアの首都ナイロビの下町でマリークの暗殺団に襲われるシーンも面白い。蝟集した民家の屋上を伝って逃げる奴だが、これはもうハリウッド映画でも一つの定番となっていて、ラム・ゴパール・ヴルマのも遜色ない。
 

Mallik         アジェイ・デブガーン
Chandu        ヴィヴェク・オベロイ
Srinivasan      モハンラール
Suroja      マニーシャ・コイララ
Kannu      アンタラ・マリ
Aslam-bhai    マダン・ジョシ
Vilas Pandit     アカシュ・クロナ
Koda Singh     ヴィジェイ・ラーズ
Rani bhai(Chanduの母親) シーマー・ビスワース

監督 ラム・ゴパール・ヴルマ 
脚本 ジャイデープ・サニ
撮影 ヘマント・チャトルヴエディ
音楽 サンディープ・チョウタ
制作 VYJAYATI  MOVIES / VARMA  CORP LTD 2002年作品

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Conpanyq

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2008年1月 5日 (土)

シクロ  西貢黒幇的故事 

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《青いパパイヤ》でフランス人好みのベトナム風味って感じの旧植民地的香りの漂った繊細な映像世界を開示してみせたアン・ユン監督であったが、ここでは大胆にも正に旧植民地(フランス&アメリカ)時代の象徴のようなマフィア(黒幇)の世界を舞台にした。だからトニー・レオンだったのであろう。台湾映画《悲情城市》で客演した時も寡黙な役柄だったが、ここでも寡黙な役柄だけど、マフィアの兄貴分で、もう香港での十八番ででもある。すっかり女性好みのトニー・レオンに仕上げられてしまっている。
 
 サイゴン(ホー・チン・ミン市)のあるシクロ運転手(レ・ヴァン・ロック)の青春の蹉跌って処で、彼の父母の居ない老爺を含んだ四人家族皆、小学生の妹すら小さな商いをして辛うじて生計を立てていた。姉(チャン・ヌ・イェン・ケ)は市場で天秤棒を担ぎながら、白いアオザイを着て学校にもかよっていた。老爺は自転車の空気入れ屋、妹は靴磨き。淡々と描いていくその家族の姿は質素であるが清々しい。

 ある時彼は貸し主から借りて商売しているシクロ(輪タク)を別地域のマフィアに盗まれる。女ボスに助けを求めると他の仕事を宛がわれ、額に汗することの少ない割には儲けがぼろいので、ずるずると裏稼業の世界の深みに嵌ってゆくことになる。実は彼の姉は金のために娼婦もやっていて、そのマフィアの兄貴分を慕っていた。兄貴分(トニー・レオン)も彼女に惹かれていた。二人は抱き合ったりデートをしたりはしても、肉体関係を持つまでに至ってないように見受けられる。彼の女ボスと同衾したりしているようだけど、如何も情念の滾りが窺えず、何ともアンニゥイな雰囲気に満ちている。これはフランス映画の範疇でもある。ベトナムの文化人って総じて旧宗主国フランス志向(嗜好)が強いみたいで、インド人が同じく女王陛下の英国志向が強いのと同様の旧殖民治国に共通する心理のようだ。
端から見てると、未だに奴隷根性から抜け出せないで居るとしか想えない傾向なんだけど、日本人も期間は短かったはずが米国に対して似たような心性を有していて、欧米(列強・・・ちょっと古い?)が二十一世紀になっても君臨できている理由が分るような気がする。

 ある時シクロがマフィアの連中に組織に入りたいと言い出す。と、兄貴分は怒り彼をぶん殴る。それでも、何処かアパートの一室に連れられて行き、テープで顔をグルグル巻きにされ椅子に結わえられた男がマフィアのベテランの殺し屋にナイフで殺される現場の一部始終を見させられる。殺し屋は、手練れた前戯の如く相手をいたぶり嬲ったあげくいきなりナイフで頸動脈を抉り、男は血潮を挙げながら倒れ痙攣し続けた。凄惨な場面だけど執拗なくらい克明に描いている。耽美にならない程度に抑えたのか結果に過ぎないのか定かでないけど、ヤモリの尻尾を千切って口に銜えてみせたり青ペンキを被って金魚を口に銜えて見せたり、可なり執拗にグロテスクな場面を美的に撮り続けている。シクロ青年の困窮と焦燥、退廃と暴力の裏稼業の世界が交差するとそんなシュールな光景(ショット)が派生してしまうのかも知れない。

 姉が彼女を買ったある男に暴力を揮われ、兄貴分は切れ、屋上で彼をナイフで滅多刺しにして殺害してしまう。それから幾らもしない内に、燃え始めた部屋の中で逃げようともせず焼死する。姉に対する気持と現実の間に生じた齟齬がもはや如何にも埋めようがなくなってしまったのだろうか。同じ日、自分の息子を事故で亡くした女ボスは、片腕でもあり愛人でもあった兄貴分をも失ってしまう。やがて、シクロは元のシクロ稼業に戻り、姉も悲しみを胸に秘め日々の生活に埋没してゆく・・・
 
 最後に象徴のように、彼等の住んでいた旧い集合住宅の蝟集した一角の直ぐ隣に、新式のプールの備わった真新しいカラフルな高層ホテルかマンションが聳えているショットが入る。サイゴンにはもう十年くらい前に訪れただけなので、一体サイゴンが如何なってるのか見当もつかない。やがて、昆明みたいに、趣のある佇まいの旧市街を一掃してカラフルな高層ビルやマンションが整然と建ち並ぶのであろうか。
 嘗てある旅行者が、ホー・チン・ミン=サイゴンは混沌としたバイタリティー溢れる今が旬の街だ、と教えてくれたことがあった。それから何年も遅れて漸く訪れた時には、もう旬は過ぎていた。むしろ手前のプノンペンの方が旬であった。 

 シクロ レ・ヴァン・ロック
 詩 人 トニー・レオン
  姉  チャン(トラン)・ヌ・イェン・ケ
 女ボス グエン・ヌ・キン

 監督  チャン(トラン)・アン・ユン
 脚本  チャン(トラン)・アン・ユン
     グエン・チュン・ビン
 撮影  ブノワ・ドゥローム
 音楽  トン=ツァ・ティエ
 美術  ブノワ・バルー
 フランス・香港・ベトナム合作 1995年

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2008年1月 4日 (金)

ヤワラート  曼谷黒幇的故事

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  チャークリット・イエムナムと云えば、嘗てターター・ヤンの二作目の映画《Oネガティブ:ラック・オーク・ベープ・マイダーイ》('98)に出ていたのでその名を知り、その後、ニューヨークを舞台にした《クンパーパン》やこの《ヤワラート》を観て、おぉ頑張ってるなとつい応援したくなってしまった。その両方とも悪くはない映画だったので、クリット=面白い映画という評価を下したのだが、ハリウッドのカラテおやじ、スティーブン・セガールの《最後の聖戦》じゃ、セガールの娘の友達役で出演しているってんで期待して観たら、登場して直ぐに射殺されてしまった。そりゃ無いだろう・・・と呆れてしまったけど、ハリウッド映画じゃ、タイ人俳優ってまだそんな評価なんだなーと、そういゃあ、何処かで日本人だったかハリウッドでの日本人俳優の評価ってかなり低いような話を読んだ記憶があった。しかし、ハリウッド映画って確かに技術は仲々だが、映画自体の面白さとなると果たして如何だろう。日本映画は置くとして、タイのある程度の映画は遜色ないと想っている。この《ヤワラート》にしてから、今日観た(本当は観る気は無かったんだけど)、封切りの《ナショナル・トレージャー》なんかよりジャンルは違うけどよっぽど面白い。
 近作《オーパパティカ》(化生)では、《Oネガティブ》で共演したL.マクドナルドと一緒に出てて、都市を徘徊する妖魔達を演じている。ホラー・アクションってとこだろうが、まだ未見で、予告編を観た限りでは結構面白そうだ。《ネクロマンサー》を越えて欲しいものだ。

 
 バンコクの一隅の隣り合わせた狭い一角、ヤワラート(中国人街)とパフラット(インド人街)を縄張りにしたマフィア(黒幇)達の抗争を背景に、主人公サレーンの二人の女を巡っての破局への軌跡。これも一つの定形の破滅へと突き進んでゆく青春群像劇って奴だろうが、別に目新しいものは何もないのだが、やっぱしヤワラートって独特の雰囲気が退廃と混沌のマフィア世界の情緒を一層掻き立て、ナムチョーク・デーンプットのヤワラート世界に引き込まれてゆく。タイ映画の十八番の銃撃シーンの面白さがその一つの要素になっているだろう。
 ある日、ヤワラートのマフィアのボス・トンの処にタン・ヨンという若い娘が売られ連れられて来た。トンはサディストで閨房のベッドに女を縛り付け鞭打ち女が悲鳴を挙げるのを興奮剤として事に及ぶのであった。タン・ヨンの前任者の娘はそれが過ぎて死んでしまったのだった。
 タン・ヨンも直ぐに身体を悪くし、トンの命令でサレーンがふさぎ込んだ彼女を毎日外に連れ出し気分転換させる任に就かされる。サレーンには元々マイホンという恋仲の冷気茶屋(娼館)の娼婦が居た。しかし、次第にタン・ヨンに惹かれやがて愛し合うようになってしまう。
 
 タン・ヨンが連れてこられた頃、ヤワラートの賭場でパフラットのボス・ダーダーの配下のカオ-ロッドと彼の仲間がトラブルを起こし銃撃戦に発展し死傷者が出る。早速、ヤワラート・プフラット両方の諸組織のボス達が集まって会合がもたれ、一人ダーダーが集中砲火を浴びる。ダーダーはカオ-ロッド一味を呼びつけ叱責する。
 ほとぼりも冷めぬある日中、ヤワラートのど真ん中で、サレーンがパフラットの殺し屋達に銃撃を受け、返り討ちにするも腹部に被弾し、トンの館でタン・ヨンの付きっ切りの看病をうけることとなる。それが二人を一層接近させ恋情を抱かせることとなり、回復後、上階のトンの閨房から響いてくるタン・ヨンの悲鳴が次第にサレーンには堪え難いものとなってくる。久し振りにマイホンの処を訪れ、別れを告げ、金を渡す。悪漢カオ-ドットにも嬲るように云寄られていたマイホンは、堪えられず実家に戻ることにしたが、しかし、これはタイに限らず何処でも同じで、マイホンの仕送りですっかり好い身形の家族から、逆にさっさと娼館に戻るように説得されるばかり。すっかり行き場の無くなったマイホンは、結局、尼寺に入り剃髪して尼僧の途に就く。

 ある日とうとうタン・ヨンの悲鳴に堪えられなくなってサレーンは閨房にふらふらと這入ってゆくと、背中一面に鞭の跡が赤くなまなましく滑っていた。嗚咽し続ける彼女に優しくすり寄り宥めていると、突如ボスのトンが怒鳴りながら入ってきて、彼女を執拗に殴り始めた。サレーンは逆上し、拳銃を抜き銃口をトンに突きつける。タン・ヨンもこの時とばかり、積もり積もった怒りと憎悪を滾らせ、「カ-・マン!」(殺っちまえ!)と容易に引金を引けずにいるサレーンを叱咤しけしかけた。身寄りのない孤児だった彼を育てて呉れたトンは育ての親でもあったのだ。引こうとしても身体が云うことを聞かず、苦悶し嗚咽するサレーンを余所に、傍にあったロープで、事もあろうに長い間彼女を苛んできたトンの男根を結いつけ開いた口に掛けた。それだけは止めてくれとサレーンはタン・ヨンに懇願するがマジ切れした彼女は巌として撥ねつけ、ロープを引っ張ってバルコニーに出、そこから下へ飛び降りさせてしまう。もう後へは引けず、サレーンはタン・ヨンを連れて逃走する。 
 
 トンの嫁もタン・ヨンと同じ目にはあっていたが、密かにナンバー2の幹部と密通していた。それがタン・ヨンにもばれてしまった矢先の出来事で、嫁と幹部はニンマリ。そして逃げたサレーン達を追わせ、跡目は嫁と幹部が引き継ぐ運びとなる。厄介者のカオ-ロッド一味の抹殺をパフラットのボス・ダーダーと共謀。そんな事とは知らぬカオ-ロッド一味は、占い師を締上げレーン達の居場所を聞き出す。中国寺院か道観の境内で、サレーンは銃撃され瀕死。死にきれず痙攣状態のサレーンの背中からタン・ヨンは銃の引金を引く。サレーンに止めを刺し自分の胸をも撃ち抜いたのであった。と、そこにトンの嫁とダーダーが配下の者を引き連れて現れた。ニンマリ顔のカオ-ロッドではあったが、忽ちにして蜂の巣にされてしまう。こんなはずでは・・・
 最後(冒頭にも)にやや低めの声の恐らく占い師のナレーションが入るが、これが結構雰囲気を盛立て、流れてゆく誰もが見知っているヤワラートの夜景の中にゆっくりと溶け込んでゆく。

 監督のナムチョーク・デーンプットってこれ一作しか僕は知らないけど、インターネットで捜してもこの《ヤワラート》しか載ってなく、祥びらかでない。
 カオ-ロッドのクリッサ・スワンパ-プは時々見かける役者で、このカオ-ロッド役なんて正に真骨頂って処だろう。《ナンナーク2》で主演していたけど、映画自体が余りにもお粗末で全然冴えなかった。

サレーン    チャクリット・イェムナム
カオ-ロッド  クリッサ・スワンパープ
タン・ヨン   ダーラーワン・ヴィライガーム
マイホン    スチダー・ハーンウィセート
トン(ボス)   サタワット・ドゥライウィチット
トンの妻    アチャラー・ルワンサワット

監督 ナムチョーク・デーンプット

制作 WPM 2003年

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Yaowarat  

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2008年1月 3日 (木)

サイクリスト   七日間のスーフィー

  Cyclist2

イランのアフガン難民・・・可成り居るらしいが定かではない。イランのアフガン人というと文化の中心地と云われるシーラーズでハシシか麻薬かの売人のアフガン人がクレーンによる縛り首の公開処刑になったって話しを旅行者に聞いたぐらいで、余り馴染みがない。もう一方の隣国パキスタンじゃあペシャワールでもクエッタでも沢山見かけ話もし、チャイをご馳走にもなって馴染みが深い。当然大半が貧しい難民で、ペシャワールの街角で肩に担いだり手車引いたりの露天商を営んでいるアフガン人達はパキのポリスに棒で叩かれたり蹴飛ばされていた。
 
 イランに逃れてきたアフガン難民のナシムは、アフガニスタンで自転車乗りをしていたが、イランでは仲々職が見つからず、病気で入院中の妻の病院代の工面がままならないまま苦渋の毎日を送っていた。
 息子と組んで、バスのタイヤの前に寝そべって自殺するマネをして運転手や周辺の人々からバクシーシを貰う捨て身の挙にでたものの、あっちこっちでやられている常套で、逆にリンチに遭いそうになりほうほうの態で逃げ出した。それでも、ある伝(つて)で何とか自転車乗りの仕事にありつくことが出来た。

 アフガンでは三日間自転車に乗り続けることが出来たと、息子が自慢していたのを聞き、興行師は"一週間"と宣伝し客集めを始める。三日と七日じゃえらく違うし、もう人間の限界を超えているけど、ナシムに選択の余地はなかった。愛妻の為に何としても自転車に乗り走り続ける他なかった。
 広くもない空き地に設えられた円周を、唯ひたすらグルグルと走り回るばかりの耐久レースだった。他に競争者が居るわけでもなく、単調そのものの孤独なレース。
 最初の頃は当然観客も少なかったものの、日が過つに従って段々増え始める。背後で地元の政・経済界のボス達がそれぞれの利害と目論見で暗躍する。あのイスラム原理主義と謂われるイランで、政の方はともかく、経済的な黒幕が色んな画策したり出来るものなのかと、思わず眼からウロコが音を立てて落ちてしまったけど、如何なんだろう。
 記録係や健康管理の医師団すらボスの息がかかっていて、ボスの意向次第で如何にでも動かせる。看護婦はそんな汚らしい仕事に嫌気が差し仕舞いには、ボスの意向に逆らう挙に出、周りの観客と一緒にナシムに声援を送るようになる。途中、ある深夜、疲労と睡眠不足でナシムがヨロヨロとし始めたと思ったら、バタンと転倒してしまう。慌てて興行師は他の者に運転を替わらせ、その間に建物の奥に担ぎ込み暫し睡眠をとらせる。深夜で観客は居ず、露天商達も眠りこけていて誰も気付く者はなかった。
 一眠りした後のナシムは元気そのもの。やたら張り切った。それでも七日は長く、再び疲労と睡眠不足に苛まれ苦闘を余儀なくされる。最後はテレビ局までやってきての中継放送までおこなわれるほど。結局、期日の七日・一週間をナシムは達成する。深夜の空白の何時間は有ったにしても。
 息子が尚も走り続ける父親・ナシムに云う。もう、終ったんだ、もう走らなくてもいいんだよ、と。それでも、ナシムは自転車から降りることもなく走り続けた・・・
 
 途中で、何処かで観たことがるような気がし、直ぐに想い出した。相当前に、何処かの名画座で観たことがあった。否、テレビでも確か。タイトルは忘れたが、ハリウッド映画で高額の賞金目当てに、様々な境遇の男女がペアーで何日も踊り続けるって奴だった。ドラマチックで仲面白かった記憶があるが、果たして、映画中にそのハリウッド映画のらしい一場面が流れていた。確かに、あれはイラン人好みでもあったのだろう。時期的には、ホメイニイ革命前のパーレビ時代に上映されたに違いない。
 
 主人公はナシムだが、サーキットをグルグル回るばかりのナシムに代わって、あるいは手脚となって息子があっちこっち動き廻る。むしろ様々なエピソードはナシム以外の処で展開され、ナシムはその口実に過ぎなく想えてしまいうくらいだ。イランの庶民、アフガン難民、暗躍する黒幕。
 最後の、レースが終っても尚走り続けるナシムの姿は、「炎のランナー」の如く、殆ど忘我状態で、ランナーズ・ハイに酔いしれ歓喜に高鳴っているかのようだ。頂度、イスラムのスーフィーの舞踏の如く、グルグルと円を描いて廻り続け忘我の陶酔境に浸り続けるのだろう。

 キャスト
(ナシム)モハラム・ゼイナルザデ  エスマイル・ソルタニアン
マフシード・アフシャールデザ  サラミ・マフマルバフ

監督・脚本・美術 モフセン・マフマルバフ
撮影 アリレザ・ザリンダスト
音楽 マジド・エンテザミィ
制作 1989年(イラン)

Cyclist1

Cyclist3

Cyclist4

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2008年1月 1日 (火)

ショッピング・センター・ソリア  カンボジアの新しい波(3) 

Phnompenh032 

   2003年3月のカンボジア・プノンペン訪問時、リアル・タイムに変貌するカンボジアを目の当たりにし、それはしかし、西洋化・近代化をばかり意味していて、シアヌーク・フンセン等の権力筋が今後如何なる方途へ赴くかもう先が透けて視えてしまった。それでも、全体的に生活レベルが以前よりは確実に上がったのも事実で、なけなしのものであってもそれはそれで喜ばしいものであろう。

 プノンペンにやって来て何日かして、中央マーケットの脇道を少し行ったところに、突如六階建てのショッピング・センターが聳えていた。
 "SHOPPING  CENTER  SORYA  蘇利亜購物中心"
 最初何の建物か知らずに入り、資生堂のコーナーがあり、エスカレーターもあり、端にエレベーターまで設えられている事に驚きながら、他の若い娘達と一緒にどんどんと昇っていった。
 皆エスカレーターなんて初めてなので、キャーキャー、ワーワーとはしゃぎ、亦ある者達は怪訝な眼差しでエスカレーターを睨め付けすごすごと階段の方に廻っていた。さしずめ、プノンペンのアメージング・パークといった趣きで、彼等を眺めている方がてんで面白い。バンコクのスカイトレインが出来た時もこんなだったか、地方からわざわざ一家でやって来て自動改札を通りドキドキワクワクしながら天空を走る乗り物に興じたのと、あるいは千葉のくせに東京なんてインチキ商標を冠した初お目見えのデズニーランドとやらにはしゃいだのと同様に。
 六階はまだ内装工事中であったが、五階にはタイ並にフード・コートすら備わっていた。タイと同様クーポン券方式。麺やライス物、ステーキ、日本食コーナーまであった。やはり日本食が一番高く、4000R~8000R(リエル)もし、8000Rはニギリ。それでも、娘達が五、六人並んで居た。(1$=3947Riel)
 三階には"BB WORLD"が入っていた。一階にもスーパー・マーケットが広いフロアを占め出店の準備をしていた。六階はシネマ・コンプレックスは先ず無理として映画館一軒ぐらいは出来る広さだけど、ゲーム・センターでも出来るのだろうか? CD・DVDを並べた店舗も多く並んでいた。ある店で、タイのバード・トンチャイとチンタラーのデュエットのビデオが流れていた。
 五階の窓からプノンペン市内が一望でき、皆窓に貼付いていた。遠くの方に三つばかり固まって高層ビルが立っていたが一体如何なビルなんだろう。私事だが、このフードコートで食べた何かと思うのだが、それ以来ずっと下痢が続き、結局予定を大幅に切り上げ、バンコクに戻り、ゼネラル・ホスピタルに急行。寄生虫か細菌性と診断されてしまった。寄生虫・・・

Ppp2 

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