« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »

2008年6月の6件の記事

2008年6月28日 (土)

 旅の原理主義者・藤原新也の原風景

       Moji_port_1

       石をもて 追はるるごとく
   ふるさとを出でしかなしみ
   消ゆる時なし
 
 明治の詩人・石川啄木は一家で石持て追われる如く郷里の渋民村を後にしたが、若き藤原新也も同様に、父親が旅館経営で敗残し門司港から駅員にすらあしざまに罵倒され屈辱と恥辱に塗みれて一家で離郷した。
 
 啄木一家は啄木が束の間売れはしたけど、結局、貧窮と当時の死に至る病=結核で一家全滅という悲惨極まる最期であった。藤原家の方は、彼の父親が移り住んだ先の温泉地・鉄輪で復権ならず無念の死を迎えたらしい。ところが、皮肉なことに、後年新也は門司港の名士としての栄誉を授かってしまい、これは父親に成り代わっての復権なのか、それとも廃れ往く港町の、あっちこっちから色々かき集めでっち上げた小綺麗な観光エリアをレトロとか称して全国から客を呼ぶなりふり構わぬ詐欺まがいの町興しの一環に過ぎないのか・・・。
 後者だとすると、更なる愚弄って奴で、もはや云うべき言葉はない。役人輩なら朝飯前にやってのけるだろう。勿論藤原新也はそんな事は十二分に知悉している。その上で、現在でも、時たま、門司港に赴き、知人との旧交を温めたりヨモヤマな諸事をこなしているらしい。

 人は不思議に思うだろう。
 何故、藤原新也は石持て追われたはずの故郷に、今尚執拗に拘るのだろう?
 答えらしきものが既に彼自身の口から述べられている。
 「・・・喪失から出発している感じがあります。
  僕の場合は、心象風景を失っている感じが強くある。
  実際、本当に無一文で、布団だけ残ったんですよ。
  旅館だから。」
       対談・瀬戸内寂聴"ある日の宇治"「コヨーテ」No.24'08

 喪失を埋めるための、自己同一性(アイデンティティー)を維持するための代償行為という近代-現代人の定式化された心理的特質の顕著な例というべきなのか。で、啄木(明治)、新也(戦後昭和-平成)を繋ぐもう一人、林芙美子(大正-昭和)が居る。少し長いが《放浪記》の冒頭にこう認められている。
 「私は北九州の或小学校で、こんな歌を習った事があった。
   
   更けゆくあきの夜 旅の空の
   侘しき思いに 一人なやむ
   恋いしや古里 なつかし父母

 私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない、父は四国の伊予の人間で、太物の行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云う処であった。私が生まれたのはその下関の町である。──ー故郷に入れられなかった両親を持つ私は、したがって旅が古里であった。それ故、宿命的に旅人である私は、この恋い
しや古里の歌を、随分侘しい気持で習ったものであった。ーーー八つの時、私の幼い人生にも、暴風が吹きつけてきたのだ。若松で、呉服物の競売をして、かなりの財産をつくっていた父は、長崎の沖の天草から逃げて来た浜と云う芸者を家に入れていた。雪の降る旧正月を最後として、私の母は、八つの私を連れて父の家を出てしまったのだ。・・・」

 こう並べてみると、生活的困窮度・悲惨度として見て取れることもさりながら、如実に時代が反映されている事が分る。
 少年期に故郷を不本意ながら離れのるというのは、今現在でも毎春日本中で、親の仕事の都合であっちこっち転出する引っ越し家庭で発生する。
 ただ、単なる引っ越しと、石持て追われる離郷とは、その少年・少女達が受ける衝撃度=傷(トラウマ)がまるで異なるだろう。単なる引っ越しですら、馴染んだ環境・人間関係から一方的に引き離される孤独と不安が心の深層に深い傷をつくるらしい。

 藤原新也の場合、失った心象風景を求めようとするというのは、しかし、帰郷だけに止まらず、彼の《旅》そのものでもあるのではなかろうか。
 我が内なる故郷=原郷を求めて。
 月並みな見解かも知れないが、カメラのファインダーから覗きながら、彼は己が原郷を探し続けて来たに違いない。それ故、未だに、彼、藤原新也は、門司港に居を構えることをしていない(らしい)。延々と流転し続けているようだ。林芙美子も少女期は親に連れられて、成人・作家として名を成してから後は自らの意志で。
 ひょっとして啄木も、それなりの収入を得ることが出来たとしても、やはりあっちこっち流転したのかも知れない。啄木の失われた故郷=原郷を求めて。実際の啄木も、恐らく、貧窮とは無縁(必ずしも、裕福を意味しはしない)の暖かい家庭、つまり理想郷。そしてそれは、まだそれほど逼迫していなかった渋民村での生活=原郷でもあろう。

   
   あはれかの我の教へし
   子等もまた
   やがてふるさとを棄てて出ずるらむ
                                          

                                              啄木

| | コメント (0)

2008年6月25日 (水)

旧き好き時代の《アフガンの四季》

  Afghan_boys

  今回も、前回のアフガニスタンの写真集と同様、入手が難しく些か恐縮だが、今回のは現在「絶版」状態。むしろ、だからこの新書の紹介が意味があると云える。
 この本も、もうその場所さえ忘れてしまったが、古本屋で見つけた。最初は大して期待もしてなかった。それが読むに従って、次第に惹き込まれていった。ソ連軍が侵略するまでの、アフガニスタンの貧しく苦しくてもそれなりに生活出来ていた頃の人々の日々が、端的に活写されていたからだ。ミチァウド夫妻が写真に焼き込んだアフガンの人々と風物の余白を埋めるように、あくまで日本人としてのスタンスを以て、作者は訥々と同時代的に生きたアフガンの人々と生活を記していている。
 普通日本的には四季は春から始まり、欧米では秋からってのが相場だけど、この作者は、冬から始めている。この最初の章の、初雪の行事《バルフィ》の記述が気に入っている。降り積もった初雪の中での長閑な光景を彷彿とさせてくれる。

 「冬仕度も終わりに近いある朝、外の薄明りに気づいて起き出すと、夜の間に降ったらしい雪が、浅井戸を囲んだ小さな中庭に白く積もっていたりする。初雪である。すると人々は何か適当な食器などを持って外へ出て、雪をひとつかみ、そのなかに入れてふたをする。この国に伝わる古い初雪の行事、《バルフィ》が始まる。
 雪の入った器はふたをされたまま、まだ目覚めていない親しい隣人や知人の家へ、なにげない様子で届けられる。みやげでも持ってきてくれたのかと思い、相手が気づかずにそれを受け取ると、後は一目散にに外へ逃げ出す。ふたを開いてだまされたことに気づいた相手は、あわててその後を追いかける。もし、つかまえられなかったら、雪を渡されたものの負けで、その日は一家を招待してご馳走しなければならない。逆に初雪に気づいていながら、知らぬ顔をしていることもある。雪の器を渡そうとして誰かが来ると、いきなりその手をつかみ、用意していた炭を相手の顔に塗りつける。この場合はもちろん、墨をつけられた者が負けになる。負けてご馳走する側をバルフィと呼ぶ。バルフィは雪を意味する《バルフ》からの派生語であり、それがそのままこの行事の名称ともなっている。・・・」
 
 「・・・じゃが芋を沈めた汁鍋から、暖かい湯気が立つ。汁は脂を溶かして光り、冬中よどんだ家畜の臭いに代わって、べとつくような香りがうまそうに立ちこめる。『腹が減っている時の料理は遅くに煮える』と、人々は言う。・・・
 ・・・夕食の後、女達は子供を寝かしつけ、男達には熱い茶を入れる。母親は小麦をひいてビスケットやピザパイ(ナーン)のための粉をふるい、わずかに残っていたレーズンや胡桃などを水に入れて正月用の乾果水を準備する。元旦に子供達に渡すための卵をこっそり隠し、正月の飾り物である水耕の穀物や野菜の器を作る。晴着の破れを繕い、子供達に合わせて丈を直し、飾りをつけ、瓶に残した大事な米粒を取り出してピラウ料理の量をはかり、それに混ぜる肉のことなどを考えて、『明日は鴨がとれると良いね』などと夫に話しかけたりする。」
 
 作者が本当にアフガンと出遭った時の事をこう記している。
 「肝臓を壊し黄疸を併発し、友人のひとりに抱えられて診療所へ行った。ビールス性肝炎だった。入院は四十日を越えた。季節は秋になっていたが、雨は相変わらず降らなかった。体力の回復は遅く、気力は衰えていた。まだ一年には満たなかったが、私はこの国を離れようと考えた。

 そんな時、私はこの国の冬と出会った。
 空には雲が目立つようになり、短い雨が降り、木々は葉を落とし、烈風が木立を揺らし、やがて雪が降り始めた。凄絶な冬だった。見渡す限り、地は白色におおわれて、道路は閉鎖され、気温はみるみるうちに下がった。
首都の標高一八00メートル、冬季降水型の受難の冬が、それでも人々にとってどんなに大切で、どんなに必要なものであり、その後の人々の四季をどう決定するかということを、その時、私は学んだ。そしてそれは、私が友人達とほんとうの意味でのアフガニスタンを共有することになった。ほとんど初めての経験であった。
 毎日毎日が冬との戦いだった。しかもそれは、次に来る豊かな春のためには、どうしても避けてはならない戦いだった。・・・」

   《アフガンの四季》  著・佐々木徹 (中公新書) 1981年

| | コメント (0)

2008年6月21日 (土)

アデンのラマザーン

 Aden_3

  あれは確かパキスタンはペシャワールの新市街から旧市街へ向かう路上での事だった。
 同じカニス・ホテルに泊まっていた小肥りしたアメリカ人教授と一緒に乗ったリキシャ(タイのトゥクトゥクより一回り小さな小型三輪車。以前は元型はベスパとか最近ではインドのBAJAJとか。急な坂道は昇れない)の運転手が、俗称アフガン・バス(タイのグリーンのマイクロ・バス並だが、装飾が凄い)の運転手と何かあったのか、突然、敵意剥き出しにカー・チェイスを始め出した。
 僕は面白がったけど、隣席のアメリカ人は顔を青ざめさせ「止めろ! 止めろ!」と大騒ぎ。実際、僕が脳天気だっただけで、バスから横様にもろに突つかってこられたら、小さく不安定なリキシャなんて簡単に吹っ飛び道路の上で三回転ぐらいしてしまう。おまけに、ドアなんてないので路上に投げ出されそれだけでも命が危ういのに、況や前後から他の車が走って来れば尚更。アメリカ人が青ざめる由縁であった。
 
 で、直接的な理由は知りようもなかったが、頂度、時季は《ラマザーン》あった。所謂"危ういラマザーン月"、空腹による苛立ちの可能性が高かった。昼間カニス・ホテルの食堂に入ると、仄暗い一角に男達が屯していた。見ると、食事をしているではないか。聞くと、アフガン人の楽団であった。恐らくカッワリーかなんかの楽団であろうが、そこの唄手らしきがっしりした体躯の男に云わせると、腹が減っていては、ちゃんとした演奏なんて出来やしないからな・・・。

 
 パキスタンのラマザンは如何にもストイックな宗教的儀式って感じを免れなかった。ところが、イエメンの南部の要衝アデンを訪れた時、その時もラマザーンの真っ最中だったが、趣きが一変した。
 日中、迫った岩山の港町アデンは、強い陽差しにぐったりとして活気はなかった。それが日没と同時に、食堂でも路上でも、ガツガツと並んで飯をがっつき始めた辺りから、俄然活気を取り戻し、明け方近くまで、煌々と灯の点った通りを祭り気分で家族や友人とそぞろ歩くのだ。かと思えば、繁華な通りからちょっと入った小路の脇にカーペットを敷き、ケロシン・ランプの灯の下、音楽を流し、茶を飲みながら、本を読みあるいは語らう老人の姿もあり、実に優雅なものであった。

 昼尚暗い安宿のスタッフのバイトをしている学生は、ラマザーンは我々にとってお祭りなんだと云った。
 彼に連れられ、彼の友人達の家に連れて行って貰った。ある学生は25、6才といい、柔道をやっていて、
 「日本にはまだ忍者は居るのか?」
等と真面顔で尋かれ、日本で忍術を学びたいとも云い出し、些か困ってしまった。伊賀の上野に、無くはないだろうって話しはしてやったが。
 別の友人は、家業のペンキ屋をやりながら、バンドの仕事もしていた。ペンキ屋なんて継ぎたくもないらしく、本当はロックを演りたいらしいロック・ギター志望なのだが、仲々儘ならぬようで、普通のバンドでギターを演っていると云う。しかし、これは何処の国でも事情は同じ。
 皆で人影も疎らなアデンの岸壁まで行き、暗い海を眺めながら彼等の語らい笑い興じているのを傍で眺めていると、遠いアラビア半島の青年達の青春群像ってものが、多少の地域差はあれ、日本や他の国と同じトーンを有っているのを分らされてしまった。

 今現在は定かでないが、僕が訪れた頃のこの国の貨幣は、最低額貨幣が実際の物価に応じてなくて些か高目。路上生活者達に渡すバクシーシもそれ以下の貨幣がなく、比較的渡す人も少ないのだろうが、それでも最低貨幣で、大きなパンが簡単に買えてしまう。日没までじーっと他の住民達と一緒に時間待ちをしている彼等の前には、パンや果物や食物が喰いきれないくらいに満載されていて、国が違うと路上生活者の状況も違うものだなーとつくづく感心させられてしまった。

Aden_1

Aden_22 

| | コメント (0)

2008年6月14日 (土)

藤原新也指定中華麺館 《萬龍》と《朋友》

Photo_2

  6月下旬から門司港→釜山のフェリー航路が運行開始され、一日一便、片道二等室8000円らしい。対岸の下関からも釜山フェリーは既に就航していて、中国の青島にも週二便出ていて片道二等大部屋15000円。
 嘗て上海から長崎にフェリー便があって、鑑真や蘇州号ばかりじゃ詰まらないとばかり、外灘の事務所に行ったら運行停止中だったことがあった。
その後中国にはバンコク経由で入ることになりすっかり船便にはご無沙汰になってしまった。因みに、現在、蘇州号は二等大部屋で20000円プラス燃料費らしい。

 門司港といえば、藤原新也の郷里で有名で、否、藤原新也がやたら文章や写真で持ち出すので、訪れたことのない旅行者でも名前だけは覚えさせられてしまったりしてるだろう。
 その新也がある時、門司港における彼の指定中華麺館《萬龍》のチャンポンの味が落ちたと零していたことがあった。また、彼の最近のエッセイ集《名前のない花》で、帰郷の際必ず立ち寄る《朋友》の昔ながらを褒め、どうか立ち寄って欲しいとまで云い、藤原新也指定の店であることを明らかにした。ということは《萬龍》の方には最近は立ち寄ってないのだろうか?
 
 で、今回、両方の店に入ってみた。
 本当云うと、《萬龍》には以前入ってみたことがあった。
 例のチャンポンを試食してみるためであった。バス通りから少し入った小路の奥に昔風の佇まいの落ち着いた二階建ての店で、小路の向い側にはとっくに店を畳んだ小じんまりした料亭風の建物が、《萬龍》二階の窓から覗けていた。
 階段上がって直ぐがテーブル席で丸い宴席テーブルもあり、又靴を脱いで上がると、廊下を渡って行く座敷となっている。古めかしい和室部屋が何室もあり、中華料理屋にしては珍しい造り。この手の旧態(レトロ)趣味のある人には穴場であろう。テーブルの下に可成り旧い中国関係の写真集なんかが週刊誌と一緒に置いてあって、おそらくその当時から置いてあるものだろう。
 チャンポンは具も総量も多目。以前の味を知らないので比較しようがなかったが、まあ、所謂長崎風のチャンポンとは別種の、中国の海鮮麺といった趣き。味はマアマア。これのスペシャルがあったけど、到底一人では喰い切れまい。
 僕自身は、むしろラーメンの方が気に入っている。
 醤油味の適度にまったりした味は、米飯一碗さえ有ればもう十分ってところ。麺は他にも山東麺や数種あり普通の中華もある。中国ビールは青島ビールのみ。狭いトイレもレトロもの。
 
 
 バス通りをちょっと先にいった反対側の角に、黒っぽい戦前風の可成りくたびれた二階建ての建物があり、その一階が《朋友》。
 中は《萬龍》のテーブル席と同じくらいのスペースで、些か薄暗い。壁面に点々と中国少数民族の木彫りの面が並べてあり、「楊貴妃」の空瓶なんかも飾ってあったが、如何にも煤けた感じは否めない。正に「大衆中華」の店なのだ。それはそれで好いのだが、トイレが《萬龍》同様レトロなのだけどここはそれが更に危ないというレベルに達している。建物の外見以上に老朽化が進んでいるって感じだ。大きな料亭の保存も好いけど、こんな小さな旧い建物の保存も必要ではないだろうか。

 片側の壁に赤茶けた品書きがずらり貼られていて、「珍味 かものたたき 500円」てのもあった。
 勿論ラーメン350円を注文。米飯(中)150円も追加。
 白濁した豚骨ラーメンであった。
 細麺で、叉焼も小さい。僕にとっては叉焼や支那竹すら余計だけど、それなりに濃くがあって悪くはない。これ見よがしに作ったラーメンの多い昨今、飾り気のない正に大衆的ラーメンなのだろう。
 
 ラーメン  350円
 炒麺    450
 湯米粉   450
 八宝菜   500
 カレー炒飯 500
 老酒    450  
 
 食べ終わって外に出、ちらっとこの《朋友》の屋根を見上げると屋根瓦に雑草が伸びているのが見えた。大理の旧い民家じゃあるまいし。

 因みに、このバス通りが少し手前で十字路になった角に以前は地元の百貨店のくすんだ廃墟があった。屋上の方を見上げると、真っ赤に錆びた遊具の類が風に軋んでいた。ところが、今現在は、跡形もなく、その跡には地方ではお決まりのマンションが聳えていた。

時代の波に頑なに抗するような佇まいの「朋友」

2  

| | コメント (0)

2008年6月11日 (水)

《パヘリ》ラジャスターンの精霊の恋物語

Photo_4

  インド映画に有るようで仲々ないのがファンタジーの類で、ラジャスターン砂漠のオアシスの古木の精霊と人間の女の恋愛物語。
 昔話によくある異類婚姻譚と云ってしまうとちょっと仰々しいか。他のブログみると、「霊」ならまだしも大抵「幽霊」となっている。リスやカラフルな小鳥になったり、人間の姿に変幻自在で、日本語でも英語でもタイ語でも、やっぱり「精霊」Sprit=ピーと呼ぶべきではないか。西アジアなら「ジン」だろうか。
  
 舞台のラジャスターン砂漠の映像が素晴らしく、雰囲気を盛立てている。音楽も長閑で古のインド=ラジャスターンはかく在ったかと思わせる。この古のラジャスターンという雰囲気は僕は可成り気に入っている。
 
 
 ラジャスターンのある町の商人の息子キシャンの屋敷に、ラッチーという娘が嫁いだ。途中、あるオアシスで一休みしていたところ、そこの古木の精霊プレムが彼女に一目惚れしてしまった。
 キシャンは何処にでもいる商売にしか興味のない野暮な男で、結婚早々商売のため遠方に旅立ってしまう。新妻のラッチーは悲嘆に暮れ砂を噛むような日々を送らざるを得なくなってしまった。
 と、そこに旅立ったばかりの夫が現れた。ラッチーは喜んだ。以前と違って彼女をあれこれと喜ばせて呉れる。が、やがて、彼が本当の夫キシャンではなく、プレムという精霊と分ってしまう。最初は怯えたものの結局プレムの手練手管に陥るが、ラッチーも女としての悦びを満喫出来、相思相愛の長い蜜月が続くことになった。やがて、ラッチーがプレムの子供を身籠もってしまう。そんなある時、突如、本来の夫キシャンが戻ってきて、二人のキシャンに家の者達は皆びっくり。
 早速王の処に事の決着をつけて貰おうと二人を連れて家族や隣人達一向が砂漠を横切っていると、老羊飼いに出遭う。話を聞いて、老羊飼いが、本物の夫なら、この水入れ袋の中に入って見せろ、と二人に証明を迫った。
 プレムは相手の術中に陥ることを承知で、ラッチーへの愛の証明から逃げる訳にはいかずと、敢えて老羊飼いの革袋の中に入ってしまう。しめた、とばかり老羊飼いは入口を塞ぎ、偽物はこの革袋の中だ、と宣言する。
 キシャンは復権し一向は家に戻って往き、砂漠の影に革袋は放られ風に運ばれる砂によって次第に埋められていった。
 ラッチーは失望しすっかり塞ぎ込んでしまう。キシャンの投げかける言葉もそぞろ。と、ラッチーとプレムの二人し知り得ない言葉をキシャンが口にした。驚いたラッチーはまじまじとキシャンを見遣った。ニッコリ笑ったキシャンは、実は、プレムだった。目出度し、目出度し・・・。

 因みに、ヴジャヤダン・デタの民話集が原作らしく、1973年にマニ・コウル監督によって《夫になりたかった幽霊》DUVIDHAというタイトルで既に映画化されていたらしい。つまり、このSRKのはリメイクってことになる。

キシャン/プレム(精霊)  S・R・カーン
ラッチー         ラニー・ムカルジー
バンワルラル       アヌパン・ケル
ガジュロバイ       ジュヒー・チャウラ
羊飼い          アミターブ・バッチャン

監督 アモル・パレカル
原作 ヴジャヤダン・デタ
脚本 サンデチヤ・ゴカレ
      アモル・パレカル
      ヴジャヤダン・デタ
撮影 ラヴィ・K・チャンドラン
音楽 M・M・クレーム
制作 Red Chillies Entertainment  2005年

Paheri

Paheri_2

| | コメント (0)

2008年6月 7日 (土)

幻影のアフガン (ソ連侵攻前のアフガニスタンの風景)

  Photo

  九十年代前半、パキスタン・ペシャワールに幾度も脚を運んだ。
 デリーから列車に乗り、翌朝アムリトサルに到着。すかさず、ボーダーへ急ぎ、国境事務所が開くと同時にパキスターンに抜ける。ラホールからミニ・バスで一路ペシャワヘルへ。
 イランやフンザ=中国へ抜けるのでなければ、そのままインドへ後戻り。

 つまり、パキスタンといえば、ペシャワールだった。
ガンダーラ以来の古都でもあり、又、アフガン人(難民)の多いインドや中国と違った中央アジアの香りのする街であった。
 最初に泊まった宿が無くなる直前の《カイバル・ホテル》、オーナーのカイバルとは別の負債のため銀行に差し押さえられてからは、駅寄りの《ツーリスト・イン》や《カイバル・ホテル》と狭い露地を隔てた隣の《カニス・ホテル》の屋上のドミトリーなんかが定宿になった。

 ペシヤワールにはカチャガライやボート等のアフガン・バザールがあり、新市街のサダル通りには前述した定宿やアフガン・カーペット、アフガン・ハンディークラフト屋が軒を連ねていた。新聞社もあり、角を折れると映画館もあった。角のカフェでアイス・クリームを食べていると、食べ了えたのか子連れのパキスタン親爺が起ち上がり、ゾロゾロと子供達も席を退って小肥りした親爺さんの後を従って出ていった。8人近く居た。
周囲のパキ人達がそれをクスクス笑っていて、パキスタンでも都市部じゃ、もう子供は数人なんだというのが分った。

 この周辺に書店が何軒かあり、大抵外人旅行者が暇そうにあれこれ本棚を物色しているのを見掛けた。英語本が多く、ウルドゥー語やアフガンのダーリー語・バシュトン語の本なんて少数であった。少しして、カブールの本屋《シャー・M・ブック店》が移ってきた。カブールじゃ如何しようもないのだろう。ここにはアフガン系の出版物もあった。
 ここの本屋で見つけたのが、あの当時なら、アフガニスタン写真の定番であったろうか、それを見つけた日本人旅行者の大半がその写真集を欲しがり、あるいは建物の屋上からカイバル峠-アフガン方面に覗けたアフガンの白い峰々を望み、アフガンへの憧憬の念を弥が上にも高め、ある者は危険を犯してまでも実際にボーダーを越えアフガニスタンの地を踏んだかも知れなかった。下手をして人知れぬまま返らぬ人となった者も居る可能性もあろう。

     "Afghanistan"
                                 Roland and Sabrina Michaud
                                             (Thames and Hudson)
                                                 1980初版

 

  サイズは手頃で、ソ連侵攻前の、旧き好き時代のアフガニスタンの人々と自然が定着されている。旅行写真家のミチャウド夫妻が14年もの歳月を費やして撮ってきたものだ。こんな長閑な日々、今だにアフガン人達は取り戻せていない。ソ連の次は、アメリカとその追従国家群の侵略。ペシャワールの難民達も帰るに帰れず、隣国といえども必ずしも居心地が好いわけでもない異国で不本意な日々を送るしかないのであろう。
 この写真集、12イギリス・ポンドのシールが貼ってあったが、丸善などの洋書屋に注文すれば入手できるはず。
 小さなホーローのポットからグラスや湯飲みにミルク・チャイやカフワ・チャイを注ぎ、チビリ、チビリと飲みながら、この写真集のページを繰ってゆく一時、雄大なアフガニスタンの自然とそこに暮らす人々(あるいは、暮らしていた人々)、そしてアフガンを巡る世界に想いを馳せるのも一興かも。

Afghan2

| | コメント (0)

« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »