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2008年6月21日 (土)

アデンのラマザーン

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  あれは確かパキスタンはペシャワールの新市街から旧市街へ向かう路上での事だった。
 同じカニス・ホテルに泊まっていた小肥りしたアメリカ人教授と一緒に乗ったリキシャ(タイのトゥクトゥクより一回り小さな小型三輪車。以前は元型はベスパとか最近ではインドのBAJAJとか。急な坂道は昇れない)の運転手が、俗称アフガン・バス(タイのグリーンのマイクロ・バス並だが、装飾が凄い)の運転手と何かあったのか、突然、敵意剥き出しにカー・チェイスを始め出した。
 僕は面白がったけど、隣席のアメリカ人は顔を青ざめさせ「止めろ! 止めろ!」と大騒ぎ。実際、僕が脳天気だっただけで、バスから横様にもろに突つかってこられたら、小さく不安定なリキシャなんて簡単に吹っ飛び道路の上で三回転ぐらいしてしまう。おまけに、ドアなんてないので路上に投げ出されそれだけでも命が危ういのに、況や前後から他の車が走って来れば尚更。アメリカ人が青ざめる由縁であった。
 
 で、直接的な理由は知りようもなかったが、頂度、時季は《ラマザーン》あった。所謂"危ういラマザーン月"、空腹による苛立ちの可能性が高かった。昼間カニス・ホテルの食堂に入ると、仄暗い一角に男達が屯していた。見ると、食事をしているではないか。聞くと、アフガン人の楽団であった。恐らくカッワリーかなんかの楽団であろうが、そこの唄手らしきがっしりした体躯の男に云わせると、腹が減っていては、ちゃんとした演奏なんて出来やしないからな・・・。

 
 パキスタンのラマザンは如何にもストイックな宗教的儀式って感じを免れなかった。ところが、イエメンの南部の要衝アデンを訪れた時、その時もラマザーンの真っ最中だったが、趣きが一変した。
 日中、迫った岩山の港町アデンは、強い陽差しにぐったりとして活気はなかった。それが日没と同時に、食堂でも路上でも、ガツガツと並んで飯をがっつき始めた辺りから、俄然活気を取り戻し、明け方近くまで、煌々と灯の点った通りを祭り気分で家族や友人とそぞろ歩くのだ。かと思えば、繁華な通りからちょっと入った小路の脇にカーペットを敷き、ケロシン・ランプの灯の下、音楽を流し、茶を飲みながら、本を読みあるいは語らう老人の姿もあり、実に優雅なものであった。

 昼尚暗い安宿のスタッフのバイトをしている学生は、ラマザーンは我々にとってお祭りなんだと云った。
 彼に連れられ、彼の友人達の家に連れて行って貰った。ある学生は25、6才といい、柔道をやっていて、
 「日本にはまだ忍者は居るのか?」
等と真面顔で尋かれ、日本で忍術を学びたいとも云い出し、些か困ってしまった。伊賀の上野に、無くはないだろうって話しはしてやったが。
 別の友人は、家業のペンキ屋をやりながら、バンドの仕事もしていた。ペンキ屋なんて継ぎたくもないらしく、本当はロックを演りたいらしいロック・ギター志望なのだが、仲々儘ならぬようで、普通のバンドでギターを演っていると云う。しかし、これは何処の国でも事情は同じ。
 皆で人影も疎らなアデンの岸壁まで行き、暗い海を眺めながら彼等の語らい笑い興じているのを傍で眺めていると、遠いアラビア半島の青年達の青春群像ってものが、多少の地域差はあれ、日本や他の国と同じトーンを有っているのを分らされてしまった。

 今現在は定かでないが、僕が訪れた頃のこの国の貨幣は、最低額貨幣が実際の物価に応じてなくて些か高目。路上生活者達に渡すバクシーシもそれ以下の貨幣がなく、比較的渡す人も少ないのだろうが、それでも最低貨幣で、大きなパンが簡単に買えてしまう。日没までじーっと他の住民達と一緒に時間待ちをしている彼等の前には、パンや果物や食物が喰いきれないくらいに満載されていて、国が違うと路上生活者の状況も違うものだなーとつくづく感心させられてしまった。

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