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2008年7月の6件の記事

2008年7月30日 (水)

《ドラゴン・キングダム》 J.チェン&J.リー

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  米題" The Forbidden  Kingdom"、中国題"功夫之王"。
ジャッキー・チェンとジェット・リーの初共演ってことで、さすがに僕も、恐らく子供向け映画って処だろうと多少の諦念を抱きはしたけど、ともかく観てみた。封切り初日で、二回目の昼チョット前の回。   館内に入って驚いたのは、この映画館だけの特殊な現象なのか、入っていた客の大半が親爺かもっと上の年輩客ばかり。別に男割引の日でもないのに。 
 一体如何なってんだ?
 てっきり子供や若い連中で一杯だろうと予想していたのが、親や祖父母世代で埋まっていて、少なくとも子供は一人も居なかったのではないだろうか。ファンタジー映画に子供でなく、親の世代ばかりじゃ気味悪い。で、今全国的にシネ・コン展開であってみれば、映画でも観ようかと遣ってきても、大人の観る映画が仲々なくて、そんなものに落ち着いてしまい、結果年配者ばかりが座席に並ぶという妙な具合になってしまう。尤も、J.チェンの世代ってもうそんな親爺世代ではあるが。

 非力で冴えない青年(少年?)が、趣味のカンフー映画のDVDをチャイナ・タウンの行きつけの質屋で漁っていると、隣室に金の棍棒が覗けていた。それが、実は、あの孫悟空の如意棒だった。
 これにはさすがに意表を衝かれてしまった。J.リーが悟空を演じるとは・・・。かと云って《西遊記》そのものではない。三蔵も猪八戒も出て来ない。代りに、白人のカンフー映画マニア・ジェイソンが狂言廻しってほど遠いが、"取経"ならぬ"失われた如意棒"を石と化した悟空に届けに行くという"もう一つの西遊記"物語。
 《西遊記》自体、呉承恩の物以外にも何種かのものがあるらしいけど、更に異説や後説の類が結構あって、これからも更にあれこれ作られてゆくのだろうが、これもその一つに数えることが出来そうだ。
 映画自体、子供相手のファンタジーの体裁を採っているが、けっこう大人の鑑賞に堪えれる造りになっている。現代物だとこうは行かなかったかも知れない。巨額を投じたと云われたツイ・ハークの《天上の剣》もファンタジー・(カンフー)アクション映画だったが、その余りにつまらなさに辟易どころか怒りすら覚えて途中で蹴って映画館を後にする、といった心持ちになることは、この《ドラゴン・キングドム》の場合皆無であった。入れ替え制でなければ、もう一回観ても好かったぐらい。
 
 で、武術・アクション監督のユエン・ウーピンばかりが喧伝されて、肝心の監督の名が分らなかったが、調べてみたら、ロブ・ミンコフという知らない監督で、デズニィー映画の《ホーンテッド・マンション》なんかのシリアスではないエンターテインメント系の監督をしてきたらしい。確かに、映画の造りはそんな風合いだ。
 でも、やはり、二人のカンフー・アクションが見せ場で、思わずつい引き込まれてしまった。特に、二人の対戦は、所詮映画の作り物と分っていても、見入ってしまう。女達もそれなりに彩りを添えてはいるが、到底、例えばチャン・ツィイーのような存在感と魅力には及ばない。
 
 
 ルー・ヤン          ジャッキー・チェン
 サイレント・モンク    ジェット・リー
   (孫悟空の化身)
 ジェイソン          マイケル・アンガラーノ
 ゴールデン・スパロウー リュウ・イーフェイ
 白髪魔女           リー・ビンビン
 ジェィド将軍         コリン・チョウ
 
 監督          ロブ・ミンコフ
 脚本          ジョン・フスコ
 撮影監督        ピーター・ポウ
 武術監督        ユエン・ウーピン
 制作:ライオンズ・ゲート  2008年作品

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2008年7月26日 (土)

アニメ声のイスラムの歌姫

  Aida

 
 
変わった声、アニメ・キャラのような声の歌手って、この国に少なくはない。古くは、山本リンダや白井貴子、比較的最近でも、チャラや大塚愛等枚挙に暇がないくらい。
 で、旅先の、国外にも、やはりそんな声・唄い方の歌手が居て驚いてしまった。単純に日本的現象とのみ思い込んでいたからだ。
 
 一人は何とあのエジプトであった。
 アイーダ・アル・アユビ AIDA AL AYUBI 。
 カイロの、イスタンブールの街中でも頻(よ)く見掛ける丸い小さな売店のカセット・テープ屋で、あれこれ物色し、アイーダとアミーナの二本買った。アミーナの方は、普通の声の歌手でフランスで活躍していて、偶に日本国内でもCD屋の棚で見掛けるけど、アイーダの方は皆無。
 エジプトの音楽に関しては完全に無知なので、アイーダが如何な位置に居るのかさえ分らない。けど、インターネツトで検索してみると、今でも活躍はしているようだ。新しい、恐らく二枚目のアルバムも出していて、やはりエジプトのギター片手のフォーク・ソング歌手ってところなんだろうかインドとは又一味違ったアラビック音楽も好きなんでその中でも更に一味違った彼女の唄は、物珍しさもあったけど悪くはないと思う。
 最初のアルバム《min zaman》に入っている最後の男性歌手とのデュエットがアラビックな乗りの好い曲で一番気に入っている。冒頭のタイトル曲のmin zamanもバラード調で悪くはない。 

 Nafa_urbach_2

 もう一人は、丁度ジャカルタ暴動でインドネシア・リエルが暴落し一ドルでカセット・テープが一本買えたので一々試聴するより買った方が早いとばかり買いまくった時で、可成り甘ちゃん声のその女性歌手・Nafa Urbachナファ・ウルバッハのカセット・アルバム《Hatiku Bagai Di Sankar Emas》が、しかし、一番気に入った。
 インドネシアだからバリ以外は基本的にイスラムで、彼女もアラビックの血を引いているのが写真でも分ってしまう。カセットのジャケット、歌詞が載っている裏面全部が彼女のポスターになっていて、大きな眼の美形、早速聴いてみたら、泣きはらした少女って声色で延々と歌い続けていた。それまで、国内でその手の歌手に興味を抱いた事なんかなかったのが、このナファのアルバムを聴いて一変してしまった。仲々好い。美形の少女っぽい声に騙(の)せられてしまったのかも知れない。
 イスラム世界なんて、そんな声色とは全くの別世界とばかり決めつけていたので、完全に肩透かしを喰ってしまった。彼女の曲は、インドネシア・マレーシアの歌謡曲"ダンドット"とは違うポップスということだが、このカセット全編、曲もそれなりに好くて、ひょっとしてヒット集なのかもしれないけど、売れ筋なのであろう。
 彼女も現在も活躍していて、ネットをみると既に結婚していて子供すらいるようだ。アルバムも十数枚出していた。

nafa urbach(近影スナップ)

Nafa1

 

 

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2008年7月19日 (土)

トロピカル・サマーはジャスミン茶 (茉莉花茶)

   Jasmin_tea

   ペプシがブルー・ハワイなんてトロピカル・ブルーの炭酸飲料を今夏も出したけど、確か以前のは、メンソールっぽい独特の癖になる味だった記憶があって、早速買ってみたら、パインやなんかのジユース味でうんざり。
 何故あんなつまらない物にしたのだろう?
 どれもこれも似たり寄ったりのドリンクばかりで、せめて蓮茶やチャイ(ミルク・ティー)の気の利いたものでも出ないかなと思っていたら、ペット・ボトルのジャスミン茶が相次いで発売になった。
 
 伊藤園   天然美香  味は無難。カラフルなパッケージ。

 ダイドー  聘珍茶寮  味は伊藤園と大差なし。中国料理の名門・聘珍楼の茶葉。金                               地に墨の竹の絵が好い。ダイドーにしては出来過ぎ。

 サントリー エレガンス・アロマ  香りが執こく味は清楚とは言い難い。女性には強い香りで受けるかも。
 
 ジャスミン・ティーと云えば「茉莉花茶」。
 最近は定かでないが、以前の中国のホテルと云えば、必ず、花柄ポットに蓋付湯飲み茶碗、そして幾らやっても容易に色の出ない茉莉花茶のティー・バッグ(袋泡茶)が定番であった。
 今じゃ、国内でも、その新芽印の福建茶叶の黄色のパッケージが手に入るようになったけど、ティー・バッグの袋の中に入っている茶葉の量が、嘗てのよりも大部増えているような気がする。
 僕も烏龍茶も好きだがジャスミン茶も好きで頻(よ)く飲んでいる。大抵は茶葉を買って淹れた後冷蔵庫で冷やして飲む。氷を入れると味が落ちてしまうので、基本的には使わない。ベトナム産の蓮茶が一番香りも味も良く気に入っているけど、近くには売ってなくて、ネット・ショップで取り寄せ。

 しかし、中国のオリジナルのコールド・ドリンクって余り記憶にない。
嘗ては、バスの停留所近辺の露店の売店必ずといって好いほど並んでいたスポーツ・ドリンクの「健力宝」ジェンリーバオぐらいであろう。薄いオレンジ味の、大抵冷やすこともなく、強い陽差しに照らされたままなので、飲むと思わずムッ!としてしまう。腹の調子の悪い時などポカリ・スエットなんかまだ出回ってない頃だったので、もうそれしかなかった。如何間違っても美味くはない代物であったが。
 でも、都市部の街中では、時々「烏梅湯」ウーメイタンが飲めた。
 これはジュースなんかと同じガラスの容器に入れて常時循環させて一杯幾らの紙コップ売りしている奴で、熱く乾燥した中国では、冷んやりとして美味い飲物の一つであった。只、市販されていず、何処ででも飲めると云う訳でもなかったし味は必ずしも一定してはいなかったと記憶している。
 この「烏梅湯」、実は日本でも遙か昔から、漢方の一種として有名だったようだ。夏の暑い時なんか飲むのに適しているらしいんで、正にトロピカル・サマーのコールド・ドリンクとしては申し分ないはずなのだが・・・原料は梅の実。未熟の梅実を燻蒸したものらしい。オリンピックにゃ遅過ぎるだろうが、"メイド・イン・チャイナ"のソフト・ドリンクとして売り出して欲しい物だ。愚図愚図していると日本の企業が先に出しかねない・・・

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2008年7月16日 (水)

トロピカル・アイランド

  Papaya_2

  東南アジアの街角で時々民家の庭先や空き地にすくすく伸びたパパイヤの樹を見掛ける毎に、一体如何やって細い幹のかなり高い上の方に成った実を取るのだろうと、他人事ながら気になったものであった。
 ところが、幾年来の異常気象=温暖化による環境変化によって、束の間ではあったものの、他人事ではない私事になってしまった。

 数年前の春、ある店先でパパイヤの苗を見つけた。
 実が成ることなど端から問題もしてなく、あの青々としたパパイヤ独特の大きな葉っぱを眺めているだけで、トロピカルな気分に浸れ、且つ閉塞しきったこの列島の死気を払ってくれる癒し効果も期待できるのではと、専ら観賞用として、千円支払って買うことにした。
 南西辺境州といっても、南国という訳ではなく、気候的には大阪辺りとそんなに大差ない地域で、最近でこそ積もることもなくなったけど、子供の頃は冬といえば雪だるまが当たり前であった。

 そんな家の小さな裏庭の日当たりの好い場所に早速植えてみた。鉢植えにするのが常識であったろうが、別に結実させようとは考えてもいず、一々家に入れたり出したりが面倒なので、庭に直に植えたのであった。
 尤も僕自身は昼間は家に居ないので、専ら家の者が朝夕水をやり、時々肥料を遣ったりして呉れ、あれよあれよという間に、夏頃には青々としたパパイヤの葉っぱの茂った茎が伸び、もう茎というより幹と云う方が正しいくらいに太くなった。
 二メートルぐらいに成長してしまった。
 最初幾ら何でもこの日本でそこまで発育するとは予想だにしてなかった。ハウス栽培ならともかく。自分の庭に、あのパパイヤが二メートルぐらいとは云え、高々と伸びているのを眺められるとは・・・。
 感無量というより、信じられなかった。
 やがて、小さな白い花が咲いた。
 普通パパイヤは雄・雌両方の樹が在って初めて結花・結実するらしいのだけど、僕の買った苗はそれ一本で結花・結実する種類だったので、ひょっとして・・・等と想いもしなかった期待に胸を膨らませてしまった。やがて、花は萎れ、丸くなった。それが結実の萌芽なのかどうか定かでなかったけど、次第に大きくなったある日、側の黄色く変色した葉っぱを結実の妨げとばかりハサミで切ってしまった。すると、ポロリと結実しかかった小さな白っぽい実が落ちてしまった・・・・・・
 それから冬になり、やけに冷えた夜の翌朝、裏に出てみると、前日まで青々と伸びていた樹が、地面に黒々と横たわっていた。

 植物栽培なんて初めての僕であったし、パパイヤなんて育てたこともなかった家人であってみれば、まあ、致し方ない結末であったろう。
 でも、上手くやっていれば、本当にちゃんとしたパパイヤの実にまで成れた可能性はあった。そこが重要なのだ。つまり、この国では、もう東京当たりでも、庭等の直植えでも、トロピカル・フルーツの樹は育ち、結実すら可能になって来ている、という事実。
 本当は、今年、ちゃんとした実まで得られるようにもう一度パパイヤを育ててみようと企んでいたのが、如何せん、今年の春は天候不順で、結局苗を植えるチャンスを逸してしまった。返す返すも残念であった。
 その気のある人は是非試して欲しい。バナナやマンゴー、リッチーなんてのも悪くはないと思う。

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2008年7月12日 (土)

ドイ・モイの新風 《BONG BONG Oi!》ホン・ニュン&チン・コン・ソン

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  カンボジアにはラッパーが結構居るようだが、ベトナムは如何だろう。
 大して詳しくはないけどタイに比して、ベトナムの音楽関係には全くと言って好いほど疎い。理由は、恐らく地元の音(サウンド)にサム・チャーあるいは又インドネシアやマレーシアなんかだとインド&アラビックのリズムと旋律がその底にあるからだろうか。
 ベトナムは、やはり、中国の影響が大きく、古典楽器を使った音楽は面白いが、歌謡曲・ポップスの類はしっくりこなかった。

 1995年だったか、初めてベトナムのサイゴン(ホーチミン市)を訪れた時、街角のテープ屋で何か面白いアルバムはないかとあれこれ物色してみた。全く無知だったので、カセット・テープのジャケットを見て決めるしかなかった。完全に無知な場合、この遣り方が結構功を奏すもので、皆ダサイ物が多かったものの、一つだけ黒っぽい画像に紅いタイトルのジャケットが目を惹いた。鳥打ち帽を被った長い黒髪の娘が、仲々チャーミングであった。

   《BONG BONG Oi!》  Trinh Cong Son / Hong Nhung

ベトナム戦争前から作曲活動をしていた作曲家チン・コン・ソンのプロデュースした新人歌手ホン・ニュン(ヌン)のアルバムであった。
 チン・コン・ソンは歌謡曲のベトナムの代表的な作曲家らしく、"ドイ・モイ"(刷新)によってベトナムが漸く幾らかであっても開けてきたのを感じ取り、新鮮で自由な息吹を、ハノイから遣って来たホン・ニュンの唄声に見い出したのであろう。ポップス系の、少し低めの伸びやかな声質が好い。

 このアルバムは、しかし、好い曲ばかりがずらり並んだ、チン・コン・ソン畢生の一枚(それ以前の彼の曲は殆ど知らないが)ともいうべき、それを若い新人歌手ホン・ニュンに唄わせたのは大正解であったろう。なまじの演歌歌手じゃあこんな新鮮な雰囲気は出なかったろう。
嘗てはコンビを組んでいた歌手カイン・リーが居たが、ベトナム戦争終結時のサイゴン陥落の時に彼女はボート・ピープルとして米国に逃げてしまっていて、おまけに歳を喰い過ぎていた。僕は知らなかったが、二人のコンビの"Diem Xua"(美しい昔)邦題「雨に消えたあなた」は'72年に日本のゴールデン・ディスク賞を受けていてた。ホン・ニュンの声質は、このカイン・リーに似て無くもない。ホン・ニュンは、このアルバムで、日本人にもファンが多く、又、今じゃベトナムの国民的な人気歌手にまでに成長したらしい。
 個人的には、このアルバムの一番最後に入っている《BONG BONG Oi!》が一番気に入っている。最初のBONGはホン・ニュンの愛称らしい。チン・コン・ソンが彼女のために書いた曲のタイトルによく使われているようだ。嘗て、サイゴン(ホーチミン市)のカフェの親爺さんに尋ねたら、ジェスチャーを交えて、向こうからやって来る友達に、片手を挙げて、「ハイ!」とか「ヤー!」とか言って挨拶する時に使う言葉とか言っていた。
 僕は、勝手に、ベトナムの、サイゴンの、些かの哀切を含んだ爽やかな朝の光景を想起した。長い苦難の時代から、漸く吹いてきた微かなドイモイの新風。このタイトル曲が全てを現わしている。この曲を最後にもってきたのは正解であったろう。

 このアルバム、カセット・テープは二本持ってるが、もう十年以上聴いていても飽きない。サイトの試聴で同じ《BONG BONG Oi!》を聴いてみたら、比較的最近の再録音らしく編曲されていた。悪くはないけど、やっぱし《BONG BONG Oi!》は、オリジナル・アルバムのに限る。チン・コン。ソンの、あるいは当時のベトナム人達の想いが端的に表われているような気がするからだ。正に歴史的名盤と謂える一枚であろう。

 若い、若いと思っている内に、'70年生まれのホン・ニュンは、'71年生まれのタイのモーラム歌手チンタラー・プーンラープと一つしか違わない今年38歳。え~っ、もう40歳前? YOUTUBEなんかの映像みてもとてもそんな歳喰ってるようには見えななかったので、今まで全然気にもしてなかった。
 YOUTUBEを見てると、サイゴンであろうか、小さな会場でチン・コン・ソンの追悼コンサートのビデオがあって、何とあの浪速の演歌歌手・天童よしみが、ホン・ニュンと一緒にステージに立っているではないか。天道よしみが、チン・コン・ソンの曲を唄っていたとは、正に青天の霹靂。二人で"Diem Xua"「美しい昔」をデュエットし、天童も熱唱していたけど、曲自体が好いので、輝いてみえてしまう。やはり、歌手は好い曲に巡り会わないと駄目なようだ。

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2008年7月 5日 (土)

《失われた地平線》 秘境シャングリラ

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  インドやネパールあるいはバンコクには外人旅行者向けの古本屋があって、仕入れはタダ同然、店頭に並んだ時はそれなりの値が付けられているけど、バンコクくらいになると日本の小さな古本屋並なので結構重宝したものだ。
 日本人商社マン御用達のタニヤ通りにも、ビルの中に、現地のタイ人娘の店員の居る古本屋があった。ある日廉価本コーナーを物色していると、色褪せた如何にも古そうなカラフルな絵の表紙の文庫本を見つけた。
 
 《失われた地平線》Lost Holizon
           ジェームス・ヒルトン 訳・足達昭雄 (角川文庫)

 '73年四月の初版で、後記に米国コロンビア映画で一大ミュージカルとして制作中とあった。英国での初版は1933年で数年後に映画化されている。戦後、新潮文庫で一度出版されている。今年('08)、復刻版が出たらしい。
 
 その名前だけは知っていた《失われた地平線》は国内でもそれなりに捜してみたことがあったけど見つからず諦めていたのが、撚りによって、旅先のちょっと立ち寄ったタニヤの古本屋で見つかるとは、それも廉価コーナーで。やっぱし、廉価本コーナーは一応浚っておくべきだなとつくづく痛感してしまった。

 陶淵明の《桃花源記》と同似のユートピアあるいは異界・異郷譚で、グルジエフ、ニコライ・レーリッヒ等によって流布された《シャンバラ》に影響されたのか、このジェームス・ヒルトンのはシャングリラ記。英国人好みの、英国人のための、英国人の異郷譚。当時英米でベスト・セラーとなり二度(戦前・戦後)の映画化で更に一般の人口に膾炙することとなった。

 以前、雲南省の大理・麗江を北上したチベット族自治区・中甸に、この"香格里拉"の看板を見た覚えがあったが、何と2002年にこの"香格里拉"シャングリラを県名にしてしまったという。シャングリラはチベットのシャンバラをモデルにミルトンが創作したものなのに、逆輸入という訳だろう。"英国"ってえのが少し鼻についてしまうが。
 中甸は小さな静かな町で頂度体調が今一の時(ここは標高三千メートル以上なので高山病の可能性もあった。同室の香港人も冴えなかった)で寒くもあったし、余り遠出もせずにいて、泊まっていたホテルのホールでチベットの民族舞踊を観たのと、同室の香港人に、やっぱり(ニッシンの)カップ・ヌードルは、深夜ちょっと小腹が空いた時に食べるのが一番美味と聞かされた事しか記憶になかった。

 
 1931年五月、革命騒動で、英国統治下のインド・バスクールから避難のため居留民を乗せた一機の小型旅客機がペシヤワールに向かって飛び立った。が、小型旅客機はペシャワールには着かず、行方不明になってしまった。
 この機には四人の乗客が乗っていた。
 英国領事のコンウェイ、副領事のマリソン大尉、東方伝道会のブリンクロー女史、お尋ね者の米国人バーナード。そして、操縦士の、しかし、本来の操縦士ではない、彼等をヒマラヤ山脈の彼方、秘境・シャングリラに連れて行くために自ら志願し、勝手に操縦士になりすましたチベット人。
 
 十八世紀に一人のカプチン修道会の修道士がこの地へ遙々布教のためにやってきた。当時、この山腹にはチベット仏教の僧院があったけれど、衰退の一途にあり、そのカプチン会修道士は、キリスト教の修道院を建てた。
 彼、ペロウは、長生きし、やがて谷間のどの寺院からも、「感謝聖歌」と「南無阿弥陀仏」が聞えてくるようになった。
 十九世紀に入ると、二人目の欧州人が現れた。ヘンシェルいうオーストリア人の貴族の出らしく、ナポレオンの軍と戦った経験もあった。この谷に金鉱があるのを知ってそれで一攫千金を夢見ていたものの、ペロウの薫陶を受け、シャングリラを守る事に腐心するようになった。チベットから遠く北京まで赴き、無尽蔵にある金を使って必要な外界の品物を外界の者に所在を捕まれないように運び込むルートを完成した。
 しかし、さしもの中庸的理想世界も秘境故に人の行き来が限られ、年々人員が不足し始め、その確保のため、彼等四人の乗った小型旅客機がハイ・ジャックされたのだった。米国人とブリンクロー女史は早々と残留を決め、指導者的地位の跡目を託されかけたコンウェイもこの地で生涯を全うしようと考えていたのが、部下のマリソンがシャングリラの娘に恋をし、二人して外界に逃げることになったのを知らされ、結局二人と共に秘境を後にすることとなった。コンウェイも彼女に惹かれていたのであった。

 長生の術をもったペロウが、彼の後継を託そうとしてコンウェイに云った。
 「おそらく世界がまだ見たこともないような嵐になるでしょう。武力によっても安全たり得ず、権力によっても救い得ず、科学によつても解明され得ないでしょう。あらゆる文明の花々が踏みにじられ、あらゆる人間が巨大なカオスへと投げ込まれるまで、これは荒れ狂いつづけるでしょう。わたしはナポレオンの名前さえまだしらなかったころに見ておりました。そしていま、わたしはそれを刻一刻、さらに鮮明に見ているのです。・・・」

Lost_horizon_xx

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