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2008年9月の8件の記事

2008年9月29日 (月)

水路の旅 ラオス

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    想い出してみると、水路を使った旅って結構あった。
 プノンペンーシェムリアプ間のスピード・ボートもあれば、ミャンマーのヤンゴンーパガン間のゆったりした二階建てフェリーもあった。

 タイのチェンコンから対岸のラオス・フエサイにボートで渡り、別の乗り場から、船頭というより運転手が前で操舵する横に二人坐る普通のボートに日本製のモーターを備えたスピード・ボートで、パクベンまですっ飛ばす水上の旅もスリリングで悪くはなかった。
 イメージ的には、スピード・ボートはひたすら飛ばしまくる新幹線並の味気ない代物を想起しがちだが、実際はのったり進む大型のボートの方が寄港する場所が限られていて、小型のスピード・ボートの方が、ちょっとした浜辺さえあればメコン川流域の如何な小さな集落や村にも停まれるので、ゴーグルを装着させられはするが、決して十分な川幅と水量があるわけでもない様々な状態のメコンを猛スピードで飛ばしまくり、両側に次々に展開する自然の景観も中々だし、林に隠れた集落や住民達を間近で眺められて退屈するってことが先ずない。スピード・ボートの方が小さな集落や村の人々の脚にさえなっていてるのだ。
 前に人が座っていれば問題ないが、居ないともろ強風を受け、嫌でもゴーグルを被らざるを得ないし、モーター音が凄いので、ティッシューを破って耳栓にせざるを得ない。

 ある集落の狭い浜に停まった時なんか、すぐ土手の上の畑で農作業していた女性が慌ててすぐ前の家に走り身繕いしながらやってきた。三十代の細そりしたちょっとチャーミングな女性だったけど、シートに坐ると再び猛スピードで波飛沫をあげながら先に向かい始めた。
 集落には大抵小さな子供達が裸で遊んでいて、ボートが着くと物珍しそうに寄ってくる。カメラを向けると急いで逃げ出してしまう子が多かった。
 
 パクベンからルアン・ババンまでは、俗に謂う"スロー・ボート"は大型(ミャンマーの二階建ての船に較べれば全然小さいが)ゆえにか殆ど途中で停まることなく、乗り心地も悪いし、風が強いと寒く、それに退屈で、ルアン・ババンに着いた時にはもうぐったりしていた。

 フエサイ→パクベンは、2.5時間で500バーツ
 パクベン→ルアンババンは、7時間(スピード・ボートは3時間)約200バーツ

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2008年9月27日 (土)

覚魂記 /呂勝中  旅先で買った本(中国) 2

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   中国・雲南省昆明は省都という事もあって比較的大きな街だが、新華書店以外にも小さな書店が結構あった。年々デパートも増え、そこにも書店が入っている可能性はあって、今では可成りの数に昇っているのかも知れない。
 昆明は、しかし、例の世界博の折、旧市街の大半を丸ごと、何か不都合でもあるかの如く消滅させてしまい、その跡に白っぽい高層マンションばかりが林立してしまっていた。あの旧い佇まいは、"つまらぬ昆明"の唯一の救いだったにも拘わらず。
 昆明の街を縦に走っている北京路を、昆湖飯店とは反対の方向に少し行った白っ茶気た煉瓦造りの建物の並んだ殺風景な一角に、小さな書店があって、そこには新華書店では先ず見られないチベット系の本やら雑誌も置いてあった。昆明に行く毎に寄り、チベット語じゃまるっきり歯が立たないので、薄い中国語で書かれた雑誌を何冊か買った。今じゃこの一角もすっかり変貌している可能性が高い。

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 昆明の旧市街に隣接した南屏の新華書店で、中国伝統芸能の剪紙(切り紙細工)をアートにした呂勝中が書いた、と謂うより作った本を見つけた。 《覚魂記》というタイトルで、体裁はペーパー・バックだけど、中は剪紙と絵の図版と活字で構成されていて、当時('96)の中国の本としては珍しくビジュアルな造作であった。
 画集とは異なるこれほどに凝った本は、最近でも余りないだろう。伝統芸能家であり美術家であって漸く可能となったのだろう。

 ビジュアルで面白そうなんで買ったんだけど、けっこうページ数もあり、その圧倒されるようなパワーに気後れを感じたからか、未だに本棚に収まったまま。
 ところが、この作者呂勝中、大部過って日本のテレビ番組に出た。中国からの、確か雲南の麗江だったと記憶しているが、生中継だったか、田舎の小さな民家の室内一杯に赤い剪紙を立体的に張り巡らしていた。それで、彼が有名な作家なのを知った。件の本は白黒印刷だったので、テレビで初めてその呪術的なまでの赤の氾濫に瞠目してしまった。
 
 呂勝中は陰陽学的に"魂"に拘っていて、現代人の魂と肉体の乖離をテーマにしているらしい。就中、中国の"改革開放"後の資本主義化で、今までの反動の如く、売れる物は何でも、魂まで売り尽してしまう物質主義的狂奔の現在にあってみれば、一層彼のテーマはアクチャルなのっぴきならぬものとして彼の脳裏に激しく揺らめいているのであろう。
 紙ー人形(ひとがた)とは、やはり呪術的原形として、呪術師呂勝中の手によって生命を注ぎ込まれるものなんだろう。

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  招魂詞

 我不是神仙我也不是巫
 我不是上帝布発令旨
 我只是人世間凡胎俗骨一小民
 一把剪刀却断得陰陽両極
 只因為
 神仙遠離塵世巫也不再頂天立地
 報喪奴已宣告了上帝
 且把这十尺斗室作世界中心
 心便化作宇宙的漫無辺際
 此時刻
 我就是神仙我也是巫
 我就是上帝布発令旨
 一道道真符咒勅令速至
 一句句招魂辞試起听仔細・・・
 
 "覚魂記" 著・呂勝中  (湖南美術出版社) 26.80元

Ver1  

2008年9月24日 (水)

Under A Sickle Moon 旅先で買った本(パキスタン)

   Under_a_sickle_moon

   旅先で読むための本って、ホテルなりレストランに備わっているものはともかく、国内で買って持参するか交換したりするのが大半で、中にはその地の外人旅行者相手の古本屋・露店で買うこともある。で、ここで謂う"旅先の本"とは、旅先の国の一般書店で売っている本のことである。

 アジアの書店では、英語で書かれた本も可成りの割合を占めている事も多い。最近は知らないが、以前は中国の書店で英語で書かれた本なんて幾らもなかったが、それでも次第に割合が増え始めていた。
 フンジェラール峠を越えてパキスタン・インドに入ると、もう大半が英語書籍で、ウルドゥーやパシュトン語の本など情けないくらいに無い。インドだとヒンドゥー等の自国語で書かれた本の割合が幾分増えるぐらい。
 
 僕はパキスタンは基本的にペシャワール滞在だけど、中国ルートだとフンザ、イラン・ルートだとクエッタが増える程度。極端な時は、ボーダーから悪評高いラホールなんか歯牙にも掛けず即バスでペシャワールに直行し、一週間かそこら滞在して直ぐ又ボーダーにUターンって事もあった。 やはり、ペシャワールに多くのアフガン人が居るからだ。彼等がフレンドリーという事もあるし雰囲気が好い。正に中央アジアだ。それにパキのもアフガニーのもチャイとナーンとカバーブが美味い。

 僕の定宿は新市街に在り、サダル通りやそこから折れた奥にPIA(パキスタン航空)の事務所がある通りなんかに何軒か書店があった。暫くして、カブールの書店"SHAH M. BOOK STORE"も居を構えた。
 バザールには古本屋もありインドの映画俳優のボスターなんかも売っていて、シュリ・デヴィは幾らもなく、やっぱりマドゥーリ・ディキシツトが圧倒的に人気があったようだ。男ではサンジェイ・ダットだったか。古い雑誌や"歩き方"や"ロンリー・プラネット"等も並んでいた。
 書店は何時行っても客は疎らで、あれこれ物色しながら長居したものだ。やはり、ペシャワールということもあって、アフガン関係の書籍が結構有った。arbab通りのSaeed Book Bankで135ルピーで買った、英国の旅行作家ペレグリーン・ハドソンの1984年の夏から秋にかけてのアフガン行、

 "Under A Sickle Moon" a journey through afghanistan   (ABACUS)

  は、結構面白そうだった。
 ペシャワールのジャミアテ・イスラミを通して、ムジャヒディーンの一行と伴に、トライバル・テリトリーからアフガンに入国。当時は、ソ連軍が進駐していた時代で、カブールを大きく北に迂回し、バーミアンの傍を通過しナヒリーンまで至りマスード達の拠地パンシール渓谷を横切ってヌリスターン、そこから北部パキスタン(チトラール方面)へ抜けるコース。                                                           
 「その時、僕の傍に居たムジャヒッドが道の傍らに粉々になった木の切り株を指差して囁いた。
 "シュラヴィ(ソ連軍)だ!"
 空は深い緑から暗青色に変り、夏の星が輝いていた。道は闇の中で灰色となり、僕等の足跡は細かい土埃に掻き消えてしまった。・・・」    ChapterⅡ Lowgar

 "sickle moon"は所謂三日月よりもっと細い西洋の小鎌を思わせる月で、辞書には"鎌月"とある。イスラムは大体この細い三日月を使っている。この繊細なシャープさが雰囲気を盛立てる。

 「序」に作者がそのアフガン行に持っていった装備品のリストがあった。如何にもバック・パッカー然として共感が持て、それもこの本を買った動機になった。コピーのスイス・アーミーナイフやムジャヒディーン達のインタビュー用のカセット・テープ・プレーヤーなんかもリストにあり、バッハやヴィヴァルディ、ドアーズやボブ・デイランの音楽カセット・テープも。 
 
 巻頭の「謝辞」の最後に"Tokyo  june 1986"とある。彼は以前、東京の英国領事館に席を置いていたようで、この本の執筆の為に再び東京に戻っていたのかも知れぬ。その後、ロンドン銀行の東京支社に勤めていたらしい。その頃、二冊目の"A Circle Round the Sun"を執筆したようだ。現代の日本文化に関するシビヤーな著作らしいが未見。どちらも国内では翻訳・出版されてないようだ。
 この本、買ってから、ほんのちょっと辞書と首っ引きで読んだけど、もう次のが机の上に積んであり、すっかり黄ばんで本棚に収まったまま。結局、これも現地の雰囲気を醸し出す調度みたいなものなのだろう。

2008年9月20日 (土)

パルザニア 地上の楽園は何処?

  Parzania

   最近はインドに限らず英語劇ならぬ輸出仕様英語映画が流行っているようだが、如何も今一つしっくりこない。タイや日本で日常会話でタイ製英語や和製英語以外に英語を使うなんて普通あり得ないが、多民族・多言語国のインドなんかでは、必ずしもそうではない。ヒマラヤ近辺カンチェンジュンガの望めるガントックの安宿じゃ泊客の現地人(インド諸州)達の会話は共通語であるはずのヒンディー語ではなく英語だった。別に教養有る学者・先生方ではない庶民の親爺達だったにも拘わらず。マア、意地でもヒンディー語を使わない人達も居て敢えて旧植民地宗主国のであっても英語を使うってことになってしまうのだろう。もはや定番とも云うべき大国主義的陥穽。
 それとは別に、クイズ番組でも、シャールークやプリティー・ジンタなんかヒンディー語と英語のチャンポン会話が妙に弾んでいて、それをチャイ屋なんかで観ているような多数のインド人なんて理解出来るのだろうか。親はさっぱりでも、義務教育受けている子供達の方はそれなりに理解できているってことも有りそうな昨今のインドではある。

 ナセルディン・シャーは以前にも、英語映画"モンスーン・ウェディング"でも主演していて、インド英語映画=ナセルディン・シャーというイメージすら出来てしまった。ヒンディーでもイスラムでも況やシークでもジャイナでもないパールシィ=拝火教=ゾロアスター教(ザルトーシュト)、インド西部に固まって住んでいるイラン方面から移住してきたパールシィ教徒。ボンベイの街中でパールシィのシンボルを刻した古い建物を見た覚えがある。バス会社のターターもパールシィらしい。ペルセポリスの世界だ。

 インドじゃパールシィは大海の中の一滴程度の存在でしかないという。イラン=ペルシャにイスラムが怒濤のように押し寄せて来た時、逃げ延びてきたパールシィ教徒達の末裔、ヒンディーにもイスラムにもお前達は違うと邪険にされたシークとは又違った、一つの勢力にもなり得ないような小さな考古学的存在、だけど、それは"True story"と銘打っていたのなら、象徴的に設えたのではなく、単に偶々パールシィだった主人公とその家族ということになる。
 
 2002年2月28日グジャラート州アハメダバードでのヒンディー原理主義者達のイスラム教徒虐殺暴動で、一人のパールシィー教徒の十歳の少年Azhar Modyが行方不明になった事件が元になっている。
 前日、グジャラート州ゴードラー駅で、1992年にヒンドゥー原理主義者達によって破壊されたバーブリ・モスクで有名なアヨデヤのラーム寺院での式典から戻ってきたカルセヴァクス(宗教奉仕団)一行の乗ったsabarmati express がモスレム(風)の一隊に襲われ六十人近くが殺害されていて、その報復という形の暴動らしい。
 例によって選挙が間近に控えていたらしいし、何よりも前日起こって列車襲撃から幾らもしない内に起こった組織的暴動の手廻しの良さが、何とも胡散臭い。真相は現在でも究明中ってことらしいけど、世界中で頻(よ)く使われるいい加減擦り切れた果てた手口と云えなくもないが、相も変わらず何処ででも使われている。何よりも人間達が依然として愚かなので、尚も簡単に使えるのであろう。
 これ又、例によって、地元の警察も、贔屓の引き倒し的に見て無関心・冷笑的、普通に見ればヒンドゥー勢力に荷担していたようだ。アハメダバードで警察に射殺された被害者四十人の内イスラムは三十六人だという数字からも簡単に見て取れよう。これじゃどっちが暴徒か分ったものじゃない。

 アハメダバードの映画館の映写技師サイラスには二人の子供と妻シェルナズがいた。サイラスは嘗てペルシャから逃れてきたゾロアスター教徒(パールシィ)の末裔で、息子パルザンは空想好きな少年で、お菓子の国パルザニアを彼の楽園・夢の国として想い描いていた。
 そんなある日、突如サフラン色の鉢巻きをしたヒンディー教徒の暴徒達が、彼等の住んでいるアパートに遣って来て、一緒に住んでいたイスラム教徒を襲い始めた。シェルナズは二人を連れて、いつも親しくしていた隣のヒンディー教徒の老夫妻に助けを求めるが夫の方が巻き添えを怖れて頑として中に入れてくれなかった。殺戮と混乱の中、娘ディルシャドの手を握り外へ逃げ出した。暴徒に追われ郊外の野原に身を潜めた。
 騒ぎを知ってサイラスは家族を捜した。パルザンと顔見知りのヒンディーの同世代の新聞売りの少年がサイラスを隠れている二人の処に案内し、互いの安全を確かめ合った。が、息子のパルザンの姿が見当たらなかった。警察に行っても相手にされず、路上に放置された屍体を一つ一つ確かめて行くしかなかった。ここは、マニラトナムの《ボンベイ》中のセーカルが息子の安否を確かめるため死体置き場で一体一体確認してゆくのを彷彿とさせる。その日以降、サイラスはアハメダバード中をパルザンの姿を求めて探し廻り続ける。
 結局息子パルザンの姿は確かめれぬまま・・・現在のインドの現実と同様、杳として霧中のまま・・・

 サイラス   ナセルディン・シヤー
 シェルナズ  サリカ
 アラン    コリン・ネメク
 パルザン   パルザン・ラストゥル
 ディルシャド パール・バルシワラー

 監督  ダフル・ロダキア
 脚本  ダフル・ロダキア、デビッド・Nドニフエ
 撮影  ロバート・E・エラス
 音楽  ザキール・ハッサン、トゥフィック・クレシ
 制作  Circles Motion Pictures  2005年

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2008年9月14日 (日)

プロイ  白熱なき白色光世界

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  カメラマンは違うが前作《インビジブル・ウェーブ》同様、艶やかで無機質的な映像で、性と死がいよいよ倦怠の中で深まり揺らめいているペン・エークの昨年の作品。

 十七歳の新人アピンヤ・サクルジャロエンサック("ナン・ナーク"の女優サーイも十七歳だった)演じるプロイを媒介として倦怠期のウィットとデーンの中年夫婦の、早朝にスワンナプーム空港に到着し、仮眠のために投宿したバンコク都内のホテルでの束の間の、心の揺らめき。それにオーバー・ラップするように、ホテル付属バーのバーテンダーのアーナンダとメードのトゥムとの清掃中の客室での情事(まだ若い二人だが、そのセックスに既に倦怠の白い影が兆し始めている)の様が描かれる。

 事の起こりは、旦那のウィットが、眠りたがる嫁デーンを残し、煙草を買いにホテルに付属のバーに一人赴いたことから始まる。
 バーで時間を潰していた屈託のない娘プロイと出会う。 

 「おじさん、バンコクの人?」
 「いや、プーケットだ。十年以上もアメリカに行ってた」
   ・・・・・・
 「君の母さんはバンコクに居るの?」
 「ううん、ストックホルム」 
 ストックホルムからやって来る母親との待ち合わせ時間には未だ時間が有り過ぎるので、ウィットが気軽に嫁デーンの事など意に介すこもとなく、部屋に連れてきた。当然、デーンは訝り、怒った。タイ人も中・高級ホテルに泊まるような都会の中産階級は欧米化し、"キン・カオ・ルー・ヤン"的な気軽さは喪せてしまってるのだろう。
 プロイは広い部屋の中で気儘に過す。旦那のポケットから出て来た紙切れに記されていた女の名前と電話番号がデーンの心に波紋を生じさせ、突然の闖入者・若い女=プロイが更に波紋を拡げ、仕舞いにはあどけなさの残ったプロイに殺意すら覚えてしまう。
 居たたまれなくなってデーンはホテルを飛び出し、何処かのカフェに入る。店に居合わせた中年男客モーの店に誘われ一緒に赴く。まだ営業前の薄暗い骨董品屋のソファーで飲む事になる。が、男はデーンに言寄り、撥ねつけられ、襲いかかる。デーンは抵抗するが、失神してしまう。
 気付くと何処か郊外の物置小屋の前に停められた車(バン)の後部に他の廃棄物と一緒に放り込まれていた。モーはデーンを殺害し焼却するつもりであったか。危険を悟り、車から逃げ、結局拳銃を手に追いかけてきたモーを返り討ちにしてしまう。

 いきなりデーンが行き先も告げずに出てしまい、ウィットは動揺し大きく揺らめく。ソファーに横になったままのウィットに別れも告げずに,プロイは、部屋を後にする。
 

 突然シーンは、二人の近親者の葬式。
 デーン 「パイ(ルー)ヤン」もう行く?
 ウィット 「パイ」     行こう。
  ・・・帰途に就いたタクシーの仄暗い後部座席。背後の雨滴に濡れた窓硝子に街のカラフルなネオンや灯が滲んでいる。
 ウィット「デーン」
 デーン 「・・・」
 ウィット 「デーンを愛してるよ」
 デーン 「・・・・・・・・・」
  ・・・暫く互いに見つめ合っていたが、やがてゆっくりデーンがウィットの身体に寄り掛かる。 
 デーン 「今朝の女の娘、あの子も同じに可愛いわよね」
 ウィット 「・・・・・・」    
 
 売れっ子アナンダ・エヴリンガムは殆ど台詞のない静かなバーテンダーって処で、メード役のエキゾチックな顔立ちの女優ポーンティップ・パパナイと客室で微かな喘ぎばかりの様々な痴態を繰り広げる。彼女のすらりとしたメードの制服を身に纏った痩身が、何ともエロティックで、静謐の中の微熱といった趣である。これはもう、ペン・エークのカラーであろう。
 
 
 デーン  ラリター・パンヨパス
 ウィット ポーンウット・サラシン
 プロイ  アピンヤ・サクルジャロエンサック
 アナンダ アナンダ・エヴリンガム
 トゥム  ポーンティップ・パパナイ
 モー   タクサコーン・プラダップポンサ

 監督・脚本 ペン・エーク・ラタナルアン
 撮影    チャンキット・チャムニヴィカイポーン
 音楽    ホアランポーン・リッディム
       コウイチ・シミズ
 制作 ファイブ・スター   2007年

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2008年9月10日 (水)

《アパハラン》 ビハールの算式: "総利潤"ー"鼠"≒富裕層の利益

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   とうとうインド・ビハール州政府は、今夏、州民やインド一般国民に"鼠"を基本食(スナックとしてではないらしい)とする旨呼びかけた。レストランのメニゥーにも載せるべきだ、とも。常識的には、富裕層や中産中層階層までは自ずと埒外。要するに、"貧乏人のインド人は、鼠でも喰らってろ!"と云う訳だ。嘗て我が国でも、与党の首相だったかが似たような発言をしたことがあった。元々インドでも少数なのかも知れないけど、タイ同様鼠を食べる習性はあったらしい。確かに、貧しい農民が貴重な蛋白源として無尽蔵な食資源としても不思議ではないだろう。しかし、役人=政治家が言い出すようなことだろうか? 

 インドの中でも最も貧しい州の一つとして有名なビハール、ここでは"誘拐"(アパハラン)がビジネスと化して既に久しいという。
 身代金目的やら政治的に"営利"を装った様々な誘拐事件が後を絶たず、恐らく今現在も続いているのだろう。只、貧乏人が他に当てもなく切羽詰まって遣るというのは知れていて、大半は組織だった、地元の政・官・財・マフィア等の緊密な連携の下に行われるようだ。

 
 アジェイの父親は高名な社会運動家でもある教授で、地元権力の腐敗を追及し過ぎたため生命を狙われていた。アジェイは恋人の父親からも疎まれるしがない薬品のセールスに見切りをつけ、自身の進路を警察に見出す。
 彼は成績は優秀であったもののそれだけでは通用せずやむなく高額のワイロも支払った。が、その事を知った汚職大臣が、アジェイの自宅に車で乗り着け、直に彼の父親に、アジェイを合格させる替わりに自分への追求の手を弛める事を条件として持ち出した。が、教授はにべもなくはねつけてしまう。愕然としてアジェイは怒って帰ってしまう大臣の後ろ姿を眺めるしかなかった。

 不合格はそのまま彼の絶望を意味した。
 早速金を借りた裏稼業の連中から催促されるも余りに高額で如何ともし難く、金貸しが"誘拐"の話を持ち出してきた。アジェイに選択の余地は無かった。彼の友人達と一緒に誘拐を実行したものの、何とその誘拐した男は、地元の黒幕=タブレズの配下の者だった。金貸しが慌ててこの取引をなかったものとしようとするのをアジェイ達は怒り、強引に約束の金を取って引き上げる。
 しかし、直ぐに警察にアジェイ達全員が逮捕され、刑務所に放り込まれてしまう。処が、その刑務所には、タブレズの片腕ガヤ・シンと配下の者達があたかも刑務所の主の如く豪華な別房でとぐろをまいていた。警察とタブレズは完全に癒着し切っていたのだ。そこで彼等に散々な目に遭わせられてしまう。
 やがて、アジェイは居直ったように生き方を変え、タブレズに取り入り、アジェイの仲間達とともに、誘拐を上首尾にやってのけるようになる。更にガヤ・シンを射殺し、アジェイは彼の後釜に坐ってしまう。今度は、アジェイが刑務所の豪華な別房の主となる。別房から携帯電話で仲間やタブレズの身辺警護を兼ねた実弟のウスマンと連絡を取りながら必要とあれば刑務所の車で外にも出れた。
 次第に誘拐業に油が乗ってきてタブレズの信任を得、新聞にすら載るようになるが、段々と齟齬を生じ始め、ある日、タブレズをも追求してきたアジェイの父親の殺害の命令がタブレズから下される。切羽詰まって、汚職をしてない警察の高官に連絡を取り事の次第をぶちまける。以前タブレズに屈辱を味わされていた高官は、早速話に乗り、結局アジェイは警察に逮捕され厳重な監視下に置かれる。そこにタブレズが面会に現れ、予め隠し持っていた銃で帰ろうとするタブレズを射殺する。直ぐにウスマン達警護の者達がアジェイに銃弾を撃ち込むが、もはや、後の祭り。
 収監される直前、長年の行き違いを理解しアジェイと最後の抱擁を交わしていた父親が見守る中、アジェイの屍が荼毘に伏される。
 
 プラカシュ・ジャーの《ガンガー・ジャル》に続く硬派の作品で、《カンパニー》ほどのスリリングさはないが、観てて飽きない。刑務所の中のガヤ・シンの別房には驚いてしまったが、如何にもインドなら有りそう。
 アジェイ(アジェイ・デブガーン)と黒幕タブレズ(ナナ・パーテカル)の眼に見えぬ戦いが主軸で、やっぱりナナ・パーテカルか好い。アムリシュ・プリーだと全く別物になってしまう。パーテカルはクールなのだろう。それでいて、
《シャクティ》みたいに野性的な頭目もよく似合う。ここでも、彼の面目躍如ってころだ。
 デブガーンはいつもの演技。主役なので紋切り型が定番。主役俳優が余りコロコロ演技を変えるのは観客にとって必ずしも好ましいものではない。勿論俳優の方はそんな事知ったことではないだろうが。
 
 
 アジェイ      アジェイ・デブガーン
 タブレズ      ナナ・パーテカル
 ガヤ・シン     ヤシュパル・シャルマ
 SPアンワル・カーン ムケシュ・ティワリ
  シャストリ教授   モハン・アガシェ
 メガ        ビパシャ・バスー
 
 監督  プラカシュ・ジャー
 脚本  プラカシュ・ジャー
 撮影  ラビンド・K
 音楽  ウェイン・シャープ
     アデシュ・シュリバスタヴ
 制作  ホーリー・カウ・ピクチャーズ 2005年

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2008年9月 6日 (土)

《アイ・ファーク》 虐げられた人々

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  今年漸く23歳の肉体派女優タック(ボンコット)の、これは、代表作といえる作品。

 "X-メン"なんかのアクション物は適役かも知れないが、殆ど駄作ばかり。やはり、こんな奔放な娘役が彼女の本領を発揮出来る役柄なのかも知れない。
 もう一人の主演ファーク役のピティサック・ヤムナーノンは、これが初主演で、この頃('04年)はまだ学生だったらしい。初めてにしては結構好い演技していた。同年のチャトチャイ・プレーンパニット主演の"ヒット・マン・ファイル"での、歌手崩れの殺し屋の役もそれなりに存在感はあったけど、翌年の身体に障害のある主人公役のホラー(喜劇)はホント詰まらなかった。あのハジャイ出身の南方系の風貌嫌いじゃないんだけど、最近は如何なっているんだろう。
 
ちょっとイカれた放浪娘ソムソンがタイのある村に現れ、偶然通りがかったやもめの親爺さんに拾われ、一緒に生活し夫婦になってしまう。
 村に初めて電気が引かれ、やがてテレビや冷蔵庫までが(ごく一部の有産者達の屋敷に)登場し始める頃。
 その老爺の一人息子ファークが兵役から戻ってくる。
 小さい頃から僧籍に身を置いていたファークは、父親の若い嫁との同居生活に戸惑いながらも、村の学校の用務員として働くようになる。やがて、父親が死に、ファークは仕方なくソムソンと同居生活を続ける事となる。
 村民の多くは、ファークが亡くなった父親の嫁ソムソンと出来ていると邪推し、彼が以前村民の尊敬を集めていたこの村の僧侶だったのが余計村民の訝しさを募らせた。その上、奔放なソムソンの行状が悉く村民のファークに対する悪感情を刺激し、嫌悪から憎悪にまで増長してしまった。
 村民にとって重要な行事であるはずの父親の屍を荼毘に伏す儀式に、しかし、村民の誰一人として姿を現わす事はなかった。驚いて礼服のままファークは尊敬する校長宅や集会場を訪ねて行くが、集会場で酒盛りの最中だった村民達に逆に酒瓶を投げられ罵倒されてしまう。
 「パイ!!」うせろ!!
 失望と屈辱で一人呆然として、今日だけは礼服のソムソンと葬式屋の待っている田圃のど真ん中にある火葬場に戻ってゆく。二人だけの侘しい儀式。荼毘に伏された父親の遺灰を前に泣き崩れるファークと彼を必死で宥めようとするソムソン。
 ファークもソムソンも互いに想い合っていたが、長い間僧籍にあったファークは、間違ってもソムソンは自分の父親の妻、つまり彼の義理であっても母親であり、決して一線を越えることはなかった。
 職業柄忌むべき不浄の輩として村でも一等下に見下されていた葬式屋だけが、分け隔てなく二人と親しく接してくれていた。余りにも哀れに思えたからか、葬式屋は酒瓶を一本呉れてやる。学も教養も金もない彼には、酒だけがファークの苦しみと悲しみを、例え束の間であっても救ってくれる癒しの水だったのだろう。

 その日以来、ファークは酒瓶を手放す事はなかった。
 
 やがて、ある晩、暗い夜道で覆面した男達にファークは襲われる。朝、心配で捜しに来たソムソンが休憩所(サライ)でファークを介抱していると、村の男達が遣ってきて、罵り始めた。もはや以前の彼ではなくなった、否、止めたファークは男達と小競り合いになった。が、早朝の、すぐ前の学校で聞き覚えのある校長の声が聞こえてきた。
あの偽善者め!!
自然ファークの脚が整列した生徒達の向こうの校長の方に向かって突っ走り始めていた。校長を罵りながら駆け寄ると、気付いた校長は慌てて逃げ出した。校長を殴りつけるや否や追ってきた男達にひっ掴まえられ、力づくで校長の足許に顔を押しつけられそうになる。
 叫びと共に押さえつけようとする男達をはね除け、更に校長に殴りかかろうとして、又直ぐ男達に襲いかかられ、集団リンチにされる。集まってきた村民の多くが、怒りを爆発させ、
 遣ってしまえ!  やっちまえ! 
 と罵声を浴びせ続けた。一人ファークを救おうと、ソムソンは必死で暴力を揮う男達に飛びついたが、所詮多勢に無勢。
 散々蹴られ殴られたファークは、倒れたまま、もう起き上がることはなかった。何事もなかったように、再び整列した生徒達の前で、高々とタイ国旗が掲揚されていき、ソムソンはファークを背に負い、一歩一歩池の畔の自分達の家に戻っていくのであった。

 昔から問題にされてきたタイの閉鎖的・因習的な村落共同体を背景に、監督は、独断と偏見による「裁き」をテーマにしたらしい。確かに、昔から云われてきて、現在も尚、否、一層ワールド・ワイドにヒステリカルな様相を呈している末世的状況に、一石を投じたいのだろう。
 
 これはエロチックではあるが、濡れ場はない。タックの艶やかな肢体を十二分に活かしつつも、安直な露出は避けている。けど、タックの狂女、仲々好い。マミー(ノパカパパー・ナークプラシット)は妖女、タックは狂女が範疇なのか。因みに、サイトを見ると、この映画での彼女の乳首まで露わな画像が世上に流出し、彼女の母親が寝込んだらしい。肉体派女優で売っていても、そんなものらしい。その後も、タイのビールのCMポスターで可成りきわどく裸体を剥き出していたのが問題になった。タックは、ヌードになること自体に拘りはないようだ。

 映画的には、最後に、ファークが、軍隊経験もあるので、校長や男達に報復するという手もあったろう。でないと、救いが無さ過ぎる様にも思える。それは、又、ホラー映画の常套でもある。が、しかし、彼は仏門に身を置き、長年村民に仏教を説いてきた経緯があるので、やはり、タイ的には、有り得ない方途のようだ。それに、これはホラーではない。
 
 でも、これは現実主義の様に見えて、実は(現実)秩序主義に拝跪した際物と謂えなくもない。つまり、虐げられた者や少数者には、何としても死んで貰わないと困ってしまう、という構造。
 頂度、散々いじめられ続けてきた者が、ある日、堪忍袋の緒を切って爆発し、報復するって単純力学を忌み指弾する構造。つまり、多数がいじめる分には、例え被害者が虐殺されようが死のうが如何でも好いが、被害者が加害者に報復することだけは断じて許さないというこの日本を始めとする世界中に、否、グローバル化され世界秩序と化してしまった今日的状況。
 日本のマスコミの十八番でもある。つまり、被害者は、悶々として圧殺された日々を過すか、自殺でもして貰わないと困るらしいし、実際彼等は権力共々それ以外であったことはなかった。タイも如何やらそうらしい。相も変わらず、権力ゲームに余念がないようだし。
 
  ファーク  ピティサック・ヤムナーノン
 ソムソン  ボンコット・コンマライ

 監督    パンタム・トンサン
 脚本    チャート・コーブチット
       パンタム・トンサン
 挿入歌   "バーン・クライ・リアン・キエン"
                タイ・タナウット&チャーイ・ムアンシン
       "アーライ・ラック"
         チャリントル・ナンタナコーン&マーシャ

 制作 グラミー・ピクチャー 2004年

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2008年9月 4日 (木)

ヒンドゥークシの旅路  伊藤君、香田君そして人知れず志し半ばで逝った旅行者達を悼む

   Afghan

   アフガンの伊藤君誘拐は最初身代金目的と云われていたのだが、その後二転三転、如何なったのであろう。そもそもペシャワール会は最悪"死"を覚悟して活動に入るのだろうから、彼自信にとっては本望であるか否かはともかく、自身の信念の上での結果でしかない。
 
 何しろ金魚の糞の如くこの国(日本)は米国の尻にくっ着きアフガンやイラクに侵略戦争を、後方支援という重要な軍事活動部門を担ってきて、その上湾岸戦争の時は数千億円、今回のイラク侵略では一兆円米国に上納金まで奉じた事実性で、当事国住民からは"侵略者"として一括されてしまうのは致し方ない。この国の国民が、否、彼は違うのだ、彼等はそんなんじゃないのだと云ったとしても、日々無差別爆撃や銃撃を受けてきた人々には容易に聞えはしないだろう。彼が居た特定地域ではそこの大半の住民に了解性はあったにしても、全ての住民にではないし、そこ以外のアフガンの大半の住民達に於いておやだ。無論ペシャワール会は云うに及ばず伊藤君もそんな事は前提として踏まえての活動。
 
 四年前の旅行者・香田君のイラクでの誘拐・公開処刑とは些か赴きを異にするが、畢竟伊藤君も香田君も自身が求めた旅路の果ての帰趨に過ぎない。国内を旅しているぶんにはさして問題はないだろうけど、一旦海を越えて異邦の地に踏み込んだ途端、我々旅行者バック・パッカーは、何時彼等と同じあるいは別様の事件に巻き込まれるかも知れない。今じゃ、自国の空港で麻薬課の輩に麻薬を荷物の中に仕込まれかねないご時世。インドやタイ・カンボジア等の後進国特有の権力犯罪とばかり嘲笑ってなんか居られなくなってしまった。

 僕もかれこれ十年以上前、まだマスードがパシュトン系の総帥ヘクマチアールと死闘・暗闘を繰り返していた頃、隣国パキスタンのペシャワールやクエッタあるいはチトラールからアフガン入国をあれこれ他の旅行者達と試行錯誤したりした時期もあった。まだペシャワールにカイバル・ホテルがあった頃、チトラールから越境する話があり僕も加わっていた。悪天候続きでチトラールに行けぬまま期日が過ぎてしまった。後日、チトラールから越境しジープでアフガン領内を走り始めて間もなく、アフガン政府軍に攻撃を受け、乗っていた乗員・乗客に死傷者が出たという話だった。もし、天候が好く、チトラールに行けていたら、ひょっとしてそのジープに僕や他のカイバル・ホテルの泊まり客の日本人が乗っていたかも知れなかった。いやはや・・・・・・
 
 

   シャルワール・カミーズを身に纏い中国製の黒い自転車に乗って、クエッタ(チャマン)から入りカブールへ至ってペシャワールに抜けた日本人青年が居た。彼の語った処によると、ともかくゆっくりしているとバレそうだったのでともかく自転車に乗ったまま走り続けたらしい。確かに、それだと怪しまれる隙もない。しかし、ゆっくりとアフガンを堪能するっていう旅本来の姿からはほど遠い。確かに、状況に応じた臨機ではあろう。それも旅の一つのあり方に違いないが。でも、タリバンの時代に入ってからはそれも増々危うい綱渡りになってしまった。
 アフガンに越境しアフガンの何処かで誰に知られることもなく死んでいった旅行者達一体どれくらい居るのだろうか?

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