つげ義春とぼく 出自、あるいは不可知の海

《 紅い花》や《ねじ式》は、もう"古典"の部類に入ってしまっているようだけど、この《つげ義春とぼく》は、'77年に一度晶文社から出版され、'92年に新潮文庫から再出版された。
「颯爽旅日記」、「夢日記」、「断片的回想記」、「旅の絵本」、「桃源行」の五章からなる、つげの文章と圧倒的に克明な風景と切り取られた紙人形(ひとがた)の如く貼り付けられた人間達の挿絵で構成された一冊。私的には、つげの回想録である「断片的回想記」が彼の筆致と相俟って一番面白い。「夢日記」も、'05年に早逝した画家・石田徹也の昏い情念の絵画と同じトーンを帯びた如何にもつげらしい昏さとイマジネーティブな絵も面白い。
「断片的回想記」に"自殺未遂"という一節がある。
嘗て錦糸町に住んでいた頃、「つまらぬことが原因」で、自殺を企てたらしい。睡眠薬ブロバリンを薬局で百錠も買い込み、当時つげが居候していた部屋の主Kさんが入り浸っていた駅前のバーに行って、Kさんに水割りやジンフィズを奢って貰った。これはつげの計算された行動で、「睡眠薬はアルコールとの混飲が効き目がある」からだった。
一足先にバーを出て自分の(Kさんの)部屋に戻り、さっそく80錠ほど飲んだ。
しかし、それ以上は苦しくて到底飲めなかったらしい。その内、眠気に襲われ、寝床に横になっていると、つげの態度に不可解なものを感じていたKさんが直ぐ彼の跡を追ってきて、危うく一命を取り留めたという。
「病院では、私は苦しみのたうち三度ベッドからころげ落ちた。Kさんは寝ずに看病してくれた。二日め、近所の画家のHさんがお見舞いに来てくれれたとき、医師は私の放尿、脱糞を案じてオムツをしようとした。看護婦がズボンのチャックを下ろしたとき、私は無意識でチャックを閉め直した。二、三度同じことをくり返したので、医師は力ずくで私のズボンを脱がせようとした。KさんHさん看護婦など四人がかりでも私を抑えきれなかった。私はHさんの画家としての感覚を批判する夢をみていたようで、『センスがねえなあ』と怒鳴ったのを覚えている。医師は私に手をやいたが命に別状ないと診断した。」

つげの父親は、大島で板前をやっていたらしい。
皇族すら泊まる一流の旅館の板頭。それが、如何なる理由によってか大島を離れ、福島の四倉に移って"寿司屋"を営り始めてから次第に運が傾き、出稼ぎ先の東京の旅館で病を獲てとうとうそこの薄暗い布団部屋に押し込まれてしまった。挙句、母親に連れられてつげの兄弟が最後に会いに行った時には、どす黒い顔に、のび過ぎた爪で空を掻くように死んでいった。
「万引き」では、つげの母親の父親は、つまりつげの祖父は、元々漁師だったのが戦後のドサクサで、体力の衰えもあってか、漁網を盗んでは転売する泥棒稼業にうつつを抜かすようになったらしい。
それでも、二年ほどで逮捕され、一年服役したという。やがて出所し、他に行く宛もないので、つげ(の母)の家へ転がり込んできた。ところが、母親は昔祖父のところの養女となって可成り過酷な仕打ちを散々受けてきたのを恨んでいて、立場が逆転し、「このボッタ爺い、何処へでも行っちまえ」と、収入もなく、家にいつもくすぶるしかない刑務所暮らしでめっきり体力も落ちた義父に酷く当たるようになった。
「ボッタは、ボロ布という意味で、義父は着る物を買う金もなく、つぎはぎだらけのボロ雑巾のようななりをしていた」
女手一つで必死に三人の子供を養い続けてきた貧しい家庭では確かに起こり得べき事だろう。

「それでも手塚(おさむ)の新刊(マンガ)が出ると、私は祖父に買ってくれとねだった。祖父の収入のないことに考え及ばず困らせた。
ある日、近所の本屋へ無理やり祖父をひっぱって行き、手塚の新刊を買わせようと、かなりしつこくねばったら、金は後日必ず都合をするから先に本を貸して欲しいと祖父は交渉した。しかし乞食のような祖父を見て本屋の主は断った。すると祖父は私の手をひいて隣町の本屋へ行き、そこで『どれが欲しいのか』と訊いた。祖父は文盲で文字が読めない。私は『これだよ』と指差すと、『これか、これだな』と念を押し、ちょっと考え込む風にした。私は『間違えんなよ』と言って外に出た待っていた。
ほんの一分もしないうちに祖父は何くわぬ顔で店から出て来たが、半纏のふところから手塚の本がちらりと見えた。だが五米も行かぬうち、本屋のオヤジが血相を変えて跡を追って来て、祖父から本を奪い取るとその本でパンパンと二つ祖父の頬を叩いた。本屋のオヤジは顔面蒼白になって体をふるわせていたが物も言えぬほど昂奮していたようで、それ以上とがめることもなく店にひっこんだ。
祖父はしばらくうなだれじっとしていたが、
『行くべえよ』
と言って私の手をひいた。祖父は鼻みずをたらしていた。冷たい風が吹いて木の葉が舞っていた。私はいまいましそうに、
『ちえっ』
と舌うちした。」
つげは幼少の頃からあっちこっち転々として育った。
おまけに、戦争世代だったので、疎開すら経験していた。ふと、藤原新也の「喪失感から出発している」という言葉を想い出した。新也とは些かその出自・環境の相異はあるものの。
「母はじいさまとは折合いが悪く、子供の頃から過酷な仕打ちを受け、じいさまのために苦労の絶え間がなかったというのに、なぜ招きに応じたのだろうか。しかも、じいさまは四倉に一時的に滞在していたにすぎず、いつまた何処へ流れて行くかもしれず、じいさまがいなくなれば、父や母にとって四倉は縁もゆかりもない心細いところということになる。
このとき、私の兄は二歳のときだったというから、昭和十、十一年ころのことになる。私は兄より二歳下だが、月数にすると三歳のひらきがある。私はこの四倉で母の腹に宿ったそうだ。私は戸籍上では昭和十二年十月生まれとなっているが、実際には四月生まれである。十月十日を逆算してみて私は胸が痛くなった。人間は何処で宿り何処で誕生しようとも、またいつ何処で死のうとも、それは偶然のことと思っていたのに、縁もゆかりもない寂しい四倉で生を授かったということがひどく根拠の薄いものに感じられたからである。」
「・・・私は近ごろなぜか、自分の生れる以前のことを知りたいと思うようになった。守子(つげの姉。三歳で死亡)のこと、四倉で過した父母のこと、そのほか母の語る断片のいくつか、それらは私の直截関知せぬことである。にもかかわらず、私の生れる以前の、私の生の過去として心にやきつくのである。
たった一度だけ偶然に立寄った四倉へ、私は再び出掛けてみたいと思っている。」
《つげ義春とぼく》 著・つげ義春 (新潮社)
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