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2008年11月の7件の記事

2008年11月30日 (日)

シャヒード  インド独立の彗星・バガット・シン

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  1931年3月23日、大英帝国植民地化のインド・ラホールの中央刑務所で、インド独立運動の闘士バガット・シン、ラジグル、スクデヴの三人が処刑された。
 
 三十年代といえば、スペインや中国始め世界中で、反植民地闘争や独立運動あるいは革命運動が燎原の火のように燃え広がっていた時節だが、我等がインド亜大陸においてはガンジーの非暴力直接行動の運動がインド中を席巻する中、血気にはやる若者達の武装闘争も盛んだったようだ。
 1965年制作のマノージュ・クマール主演《SHAHEED》は、そんな若い反英独立・革命運動の先鋭的な若者達の彗星のように散っていった姿を描いている。
 "シャヒード"とは、殉教の意味で、元々リーダー的存在だった青年バガット・シンは、初期の頃は、ガンジーの非暴力的運動に共感し参加していたらしい。それでも、やがて銃や爆弾なんかの武力を行使する直接行動に走り始めたのは、当時の高名な独立運動のリーダー、ララ・ラジパット・ライが1928年ラホールでの非暴力のデモストレーション中に英国警官達に警棒でめった打ちにされ、それが元で翌月死亡したのが直接の原因という。
 同じデモに参加していてその光景を目撃していたバカッド・シン達は、早速報復行動に出た。ララを死に至らしめた英国警官の責任者を警察署前で射殺。実際には、狙っていた人物ではなく副官だったらしい。直後、シーク教徒の代名詞の長髪や髭を短く切って変装し身を隠し潜伏することとなった。ポスターの帽子にキザな鼻髭スタイルはその時のもの。尤も、バカッド・シン自身は無神論者だったらしいので、シークの宗教的しきたりなんぞ簡単に放棄出来たのであろう。

 翌年春、今度はバトゥケシュワル・ダットと二人で、国会議事堂の中で爆弾を投げ、"インケラーブ・ジンダーバード!"(革命万歳)と叫びながらリーフレットを撒く決死の行動に出た。元々プロパガンダとしてのデモストレーションとして殺傷性のない爆弾を使ったので死傷者は出なかった。駆けつけた警察に逮捕されるのも予定の内。今度は法廷闘争を繰り広げ、やがて他の同志達も次々に捕縛され収監されると獄中闘争を始め出す。英植民地官憲によって毎日の如く拷問が執拗に打ち続けられる中、余りの粗食に63日にも及ぶハンガーストライキにまで発展。結局、英当局は折れざるをえなかった。
 それでも、英当局としては何としても独立運動を封じるため、
警察副官J.P.サウンダーズ殺害の件で、バカッド・シン、シヴァラム・ラジグル、スクデヴ・タパルの三人を絞首刑に処した。おまけに、極秘裏に彼等の屍体を近くの河原で荼毘に付してまったという。
 実際には、三人は完全に死なない内に、ラホール・カントンメントの秘密の場所に運び込まれ、サウンダーズの家族に銃殺された可能性が強いらしい。何処の権力も遣る事は似たり寄ったり。おぞましく且つ姑息極まり底。

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  この白黒映画、モノクロ故の迫力があるが、それでもやっぱりボリウッド映画で、ミュージカル・シーンも沢山ある。主演のマノージュ・クマールも蝋燭の炎に自らの掌を翳しながら延々と歌い続けたりもする。自らの独立・革命への意志の強固さを現しているのだろうけど、些か時代がかった演出。  2002年作品ボビー・デオール主演の《23rd March 1931:Shaheed》は、殆どこの映画をそのまま踏襲したリメイクだけど、やはりここの場面も同様。それ故、実際に彼がそんな挙に若気の至りで出てた可能性もあるのかも知れない。唯一違うのは、《SHAHEED》の方は延々とだが、デオールの方は、チャンドラシェカル・アザド役の親父・ソニー・デオールが途中で拳銃で蝋燭の炎を撃ち消してしまうところだろうか。マッチョ派のソニー・デオールには、おあつらい向きの武闘派チャンドラシェカル・アザドだが、映画の中でも公園で格好良く警官隊と銃撃戦を繰り広げ、最後に一発だけ残った銃弾を己のこめかみに撃ち込んで自殺する。警官隊が彼の屍体の周りに立って、よく英国植民地主義者達が猟で仕留めた虎と一緒に写るように、記念写真を撮る場面がある。しかし、これは史実のようだ。
 
 白黒でひたすら英雄達のスローガン連呼ばかりじゃ色気が無さ過ぎるとばかりに女達の群舞シーンが一カ所だけ申し訳程度に挿入されてるけど、悪くはない。この時代の特徴か、画面いっぱいの顔の大写しもあって面白い。デオールの方は、アイシュラワヤ・ライが踊っていた。やっぱり精細なカラーのサリー姿の群舞は映える。
 他にもう一つ、アジェイ・デヴガーンの《The Legend of The Bhagat Singh》があるがこっちは未見。
 
 バガット・シンは本来はシークなのだが、思想的には自由主義的な社会主義者だったようだ。24歳の若さで刑死し、インド独立運動の偉大な革命家となってしまい、現在でも、英雄として崇拝されているようだ。
 2004年に、パキスタンのラホールで、彼等の七十三回忌のセレモニーがあった折、インドからバガット・シンの甥のキラン・ジート・シンやあのトロツキーの孫のエステウェン・ヴォルコフまでが招聘され、地元のバキの国会議員なんかも参加して開催されたという。

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  主演のマノージュ・クマール、当時はMr.バーラト(ミスター・インド)と呼ばれていたくらいの所謂"愛国映画"のヒーローだったようだ。この映画も、インドが独立してから十年以上も過ぎてからのものなので、典型的な愛国映画であろう。後期にはバッチャンなんかと共演したりもしてるらしい。

 独立後、インドもパキスタンも、今度は自らの国で辺境の独立運動・民族紛争に当面し苦慮している。最近のムンバイでのイスラム過激派のテロ事件等の宗教・社会問題が更にそれを複雑にしてしまっている。嘗て自由と独立を唱え戦い取ったはずの者達が、今度は、逆に同じスローガンを叫んでいる者達を、弾圧し抑圧している。それはインドだけに限らず、隣国中国でも同様。
 単純に横並びに独立しただけなんで本当の意味で独立は出来てなく、同じ構造を引きずっている限り英国始め他の欧米列強と同じ事を繰り返すばかり。そしてそれは又世界中で果てしなく繰り返されてもいる。ほんの一センチの飛躍すら出来ぬままに。
  
監督 S.ラム・シャルマ
脚本 B.S.グラード
      ヴィシュヌ・クマール・シン
音楽 プレム・ダワン
制作 ケワル・P・カシャップ 1965年作品

マノージュ・クマール  バガッド・シン
プレム・チョプラ        スクデヴ・タパル
マダン・プリー     所長
ニルパ・ロイ
カミニ・カウシャル

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   チャンドラシェカル・アザドの死体                       バガット・シン                

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2008年11月26日 (水)

プシュカル(3) ラングールの楽園

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  プシュカルには牛や猿は当然としてロバもラクダもピーコックも禿鷲も居る。湖のガートには鳩が飛び交い銀毛に黒面のラングール猿も群れなし跋扈していて、巡礼や観光客にバナナを持ち切れないほど貰っている。日本猿風の赤顔のバンダル猿は、専ら民家の屋根やテラスを徘徊し飛び跳ね、バナラシー同様、住民の怨嗟の的となり追い払われることしきり。
 
 西遊記の孫悟空は金絲猴だという説もあるが、確かに大きさや挿絵から判断すると、日本にも居る赤猿の類とは些か趣を異にして、ちょっとカラフルで神秘的な相貌の金絲猴は申し分ないのかも知れない。孫行者も道教では”斉天大聖”という神格を有しているけど、ルーツはヒンドゥーの神様で、ラーマ王子の忠臣でもあるハヌマーンって話もよく聞く。
 忠犬ならぬ忠猿ハヌマーンよりも、天界に居並ぶ神様や釈迦や菩薩なんぞ歯牙にもかけず狼藉無頼・天衣無縫の、しかし、老子や南海の観音菩薩に正に嵌められてしまい、三蔵と伴に西方取経に赴かされてしまった我等が孫悟空の方が小気味いいし親しみ易い。尤もハヌマーンもヒンドィーの人々にはとっては同様に親しみ易い存在ではあるようだが。
 で、このハヌマーンのモデル(?)は、やっぱり、大人しいけれど親しみ易いラングールよりも、あのハヌマーンのごっつい体型からみても、住民に毛嫌いされ憎まれ犬まで放たれている赤猿のバンダルとみるのが妥当だろう。

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 今はもう無くなってしまったが、ガート沿いの少し出っ張った小さな白塗りの建物の屋根のない二階にオープンの”サンライズ・カフェ”があった。狭いところでテーブルも幾らもなかったけど、ガートの見晴らしが好いので特に朝方頻繁に通った。しかし、そこは丁度ラングール達が橋の背後の森から現れガート入口でバナナを貰いに行くルートのど真ん中に位置していて、トーストやチャイで朝食を食べている最中に、狭い路地を飛び越えてテーブル脇の低い塀から真っ黒い顔を突き出し現れるのだ。大抵のラングールは煉瓦一枚くらいの狭い塀の上をガート寄りに迂回してゆっくり通ってゆくが、何匹かは、すぐ目の前にあるテーブルの上の食べ物にじっと見入ったりし、サッと取って行くのも居るけど、こっちがトーストやバナナを千切って手渡してやると受取って食べるのも居る。稀にバンダルが物凄い音を立てて飛びつき、如何にも敵意むき出しの赤ら顔を現わしたりすることがある。グッと果物やなんかを暴力的に鷲掴かみにし廻りの物をひっくり返したりするので、下で料理を作ったりしているまだ若い店員にすぐ分かり、急いで長い棒を持って階段を駆け上がってくる。ふと笑い声に背後を振り返ると、後ろの建物の屋上にある”レインボウ・レストラン”の髭のマネージャーがニヤニヤしながら覗きこんでいた。

 ある時、泊っているホテルの屋上からすぐ近くの建物の屋上に赤毛のバンダルの四匹の母子連れの姿が見えた。屋上にレストランがあり、よく見るとそのレストランのキャンバス地のテントがビリビリに裂けていた。店の者が竿で追い払っていたけど、彼の話ではバンダルは凶暴で人間を引っ掻いたりするという。屋上に犬を放している家もある。片手の先が無くなっているバンダルを見たことがあったが、ひょっとして犬に食い千切られたのかも知れなかった。
その母子猿達は他の民家の屋上に移動していった。その屋上の床に蒲団がほしてあり、早速猿達は布団を代わる代わる引き裂き始めた。あるいは引き裂いた布団の中に潜り込んだりしながら。母猿の方は少し上に備えてあった水タンクの重そうな石蓋を手で開け、上体を中に突っ込んで水を飲んでいた。利口というかのか器用というのか・・・。

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ある時、屋上で、店で買ったパックのケーキとチャイで昼食していると、隣の建物の屋上の塀の上に一匹の大きなラングールが坐っていた。僕の居た屋上より一階分低かったが、ふとラングールと目が会ってしまった。暫くは僕がビニールの包装紙をバリバリいわせながら食べているのをチラッ、チラッと顔を向けて見遣っていたのが、やがて周囲をキョロキョロし始めた。瞬間、こっちに辿り着くルートを捜しているんだとピンと来て、焦ってしまった。でも、幾らなんでも思い過ごしじゃないかと自分に言い聞かせているうち、ラングールはゆっくりと塀の端っこまで歩きピタリと止まった。三階のこっちとの間合いを計っている様子だった。と、ポンッ!と大きくジャンプし、こっちの建物に飛び移った。そして銀色に輝く身体を伸ばしながら階段を上り、塀の上に登って僕の前まで遣って来た。思ったより大きくて気後れしてしまった。それでも、それなりの期待感を抱いてわざわざ隣の建物から遣ってきて塀の上に大人しく単座したラングールを前にしては無下にも出来ず、ケーキを一切れ塀の上に置いてやった。黒く長い手で取り口へ運んだ。バンダルの如くいぎたなくガツガツ喰らうのではなく、上品に口に運ぶその仕草は人間と全く同じであった。まだ半分片手に握っているのに、もう片方の手も差し出してきた。今度は直接手に渡してやった。早速口に運んだのはいいが、その内、突然一声叫んだ。何事かと驚いてしまった。ふと、目の端に何かの影が見えたのでそっちに振り向くと、何とそのラングールがさっきまで居た隣の屋上に他のラングール達が次々と姿を現し始めているではないか。ええっ、こりゃまずい等と思っている間に、スタスタと同じコースを辿って皆僕の前に遣って来た。周囲は物欲しげなラングール達で埋まり、仕方なく、残り少なくなったケーキをチビチビと千切りながら振舞う他なかった。ラングールだから出来たことで、これがバンダルだったらとっくに逃げ出していたろう。

 プシュカル・パレスへ向かう途中、ある民家の玄関の前に一匹のラングールが脚を揃えて坐っていた。よく見ると目が不自由のようで、オレンジを一個遣ろうとしたが分からないようで直接手に握らせてやった。帰りに寄ってみると、老人が餌をやっている最中だった。老人に呼ばれ傍へ行くと、そのラングールは両目とも視力を失っていた。ゴパールという名前のその猿は、小さい時から目が見えなかったという。

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 サンセット・カフェと真反対の比較的人影の疎らなガートの方にラングールの群れを見つけたので行ってみると、あちこち遊び戯れながら時計廻りに入口側に向かうところだった。ここで面白い習性を発見した。雄雌は定かじゃなかったけど、何故か片方だけが相手を軽く抱く仕草をするのだ。一種の求愛行為なのか。これは中々面白かった。

 これは習性としてまだ一般化されてないと思うのだが、ブラフマー寺院前の角の野菜売りやサドゥーの溜まり場の一角で、群れたラングール達が巡礼客達に貰った木の実や大きなバナナをムシャムシャ食べていた。両手に持ちきれないぐらいバナナを抱えたのも居れば、口の中いっぱいに頬張っているのも居た。子猿達は木の上から降りてこず、下に降りて来ているのは大人の猿ばかりであった。そんな中、ある一匹の雌猿が、女の巡礼客が大きな木の実を遣ろうとしても手を出さなかった。別に両手にいっぱい抱えている訳でもなかったのに。
 その巡礼が遣ろうとすると、その雌ラングールは、何度も首を横に振って断っていた。他の客達がそれを見て大笑いしていたが、考えてみれば、猿が首を横に振って断りの意思表示をするなんて初めてで、そんなことあり得るのかと思わず自分の目を疑ってしまった。しかし、そのラングール、客が押し付けようとすると何度も同じ仕草を繰り返していた。
最近、テレビで、ある特定地域の猿達が道具を使い始めたって番組やっていたけど、この”断り猿”も、プシュカルのラングールの中で厳密に一番最初かどうかは定かでないけど、人間と同様首を横に振って”断る”という意思表示をした最初の猿なのかも知れない。その仕草=意思表示が、一つの習性として他の群れに浸透してゆくかどうかも不明だけど、やがて群れからプシュカル中の猿に拡がる可能性もなくはない。只、道具の使用はすこぶる実作業的・実生活的で模倣性も高いだろうが、”否”ノンという心理的・生理的な仕草の場合果たして如何だろう。

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2008年11月22日 (土)

萬暦の東方不敗  《笑傲江湖》Swordsman 2

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  この明朝萬暦二十二年の武侠故事、一体何処で初めて観たのか記憶を巡らせてみても甚だ曖昧で、如何も国内ではなく、烟煙濛々たる中国のビデオ映画屋か、ギンギンに冷房の効いたプノンペンのビデオ映画屋か恐らくこのどっちかだと思う。あるいは、ひょっとしてバンコクの映画館で観た可能性も捨てきれない。

 ツイ・ハークのこの《笑傲江湖》シリーズの中で、この《東方不敗》が一番面白い。

 やはり、何といっても令狐冲役にジェット・リーが出ているからでもあるが、凛々しい台湾女優ブリジット・リンが東方不敗を演じているのも大きい。この両者が複合し更に相乗効果を挙げたのであろう。臥虎蔵龍 グリーン・ディストニー》以来、章子怡が凛々しい娘傑のお株をすっかり奪った感じだけど、やはり台湾女優倩女幽魂 チャイニーズ・ゴーストストーリー》の王祖賢ジョイ・ウォンなんかと同様、南方的に黒々と燦やく瞳と眉の独特な魅力の《娘子軍》剣士然とした雰囲気は、章子怡チャン・ツイーには備わっていない。

 映画なんで当然、金庸の原作《秘曲 笑傲江湖》とは随分異なり、その上この後の三作目の《東方不敗 風雲再起》では、ブリジット・リンの東方不敗が受けたからか、更に膨らまし、原作には全くない別伝・異伝って趣きに異化されている。

ツイ・ハーク、《黄飛鴻シリーズ》や《倩女幽魂 チャイニーズ・ゴーストストーリー》のシリーズ等とこの時期乗りに乗っている。武術指導が今を時めくチン・シウトン。荒唐無稽と奔放さは香港映画のエッセンス。日本の忍者物を完全に消化し独創化して完成させ、日本を遥かに追い抜いて世界に冠たるレベルにまで発展させて、嘗ての加工貿易国たる日本のお株を完全に奪ってしまった。カンフーやワイヤー・アクション、銃撃シーン等のアクションは、今や香港やタイの十八番になってしまった。

日本に残っているとすれば、所謂チャンバラ・シーンだが、チャン・イーモーの《英雄》なんか従来の香港・中国映画の軽妙な剣戟シーンばかりでなく、嘗ての日本の時代劇の剣戟を上手く消化した上での展開と謂えよう。それに当の日本の時代映画自身、黒沢明や《三匹の侍》辺りで漸く切り開かれた些か事大主義的ではあるが、居合抜き的対峙、緊張の極致といった間と空間の剣戟が以降殆ど深化されることなく現在に至っていて、最後に残ったそんな日本風チャンバラすら香港・中国にお株を奪われてしまっている。金庸的世界にこれを使うと一層メリハリが出来映画自体に深みが出てくる。倉田保昭が日本の映画界は相も変わらずアクションを軽視し続けていると嘆き危惧するのも当然だろう。

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萬暦年間、長年の明朝政府の少数民族に対する冷遇政策に否を唱え、明朝転覆を天下に白示した中国南部・ミャオ族の日月教。初代教主の任我行を捕え地下牢に封じ込め、彼の弟の東方不敗が教主となって、日月教も巨大な勢力となった。明政府が日本を制覇した豊臣政権と手を握ったのに対抗して、東方不敗は、反-豊臣勢力と盟約を結んだ。反-豊臣勢力は、倭寇として、中国南部の海上や開港都市で明政府艦船を襲い続けた。

ツイ・ハーク、忍者の服部半蔵や猿飛佐助をその反-豊臣勢力として登場させているけど、服部半蔵はまだしも猿飛佐助は豊臣側の真田幸村の家臣なんでそりゃ有り得ないだろうと小首を傾げてみても意味はない。歴史的詳細はともかく、ツイ・ハークが何としても登場させたかったのだろうから。猿飛は仲々巧くキャラクタライズされていると思うし、隊長格のレイ・チーホン演ずる服部半蔵も渋くそれなりに重みがある。ジェット・リーの 狐冲や東方不敗もちょっとだけど可也ブロークンな日本語を使っていて、中国人達から見れば如何か知らないが、これが何とも溌剌とした効果を挙げていて面白い。

因みに日本人は意外に理解してないようだけど、倭寇って当時、中国南部の人々から、その残虐さを恐れられていた存在らしい。

そんなミャオ族の日月教の本拠地に、約した一年振りの再会を果たしに前教主・任我行の娘・任盈盈の元に華山派剣術の 狐冲を頭とした華山派の総帥・岳不群の娘・霊珊を伴った一党が現れる。全員、長い争闘・殺戮に厭き、二度と剣を握ることはすまいと誓い、盈盈との再会を果たした後、牛背山に籠って隠遁生活を送るつもりであった。

が、事態は意表をついたものとなっていた。

日月教教主の娘であり壇主である盈盈達は、叔父である東方不敗に生命をすら狙われ、捕らわれた前教主の行方を捜している最中であった。一度は剣を捨てる誓いを立てた彼等であったが、事態の抜き差しならぬ進行に、否応なしに再び剣を取るざるを得なくなってしまう。

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そんな熾烈な状況の中にあって、 狐冲は、ある妖しいまでの魅力を湛えた女と出遭う。彼が生命の次に大事にしている酒を零したその女の後を怒って追いかけ、逆に彼の粗末な酒と比較にならないくらいの美酒を与えられる。そして、その一瞬の齟齬から生じた触れ合いから互いに惹かれあってしまう。

しかし、その女こそ、実は盈盈の叔父であり、父・任我行の教主の座を奪い拉致した当の東方不敗であった。東方不敗が隠し持っていた秘書葵花宝典は、天下をも手中にし得る秘密の大気法が記された知る人ぞ知る涎唾の秘伝書であったのだ。但し、それを自らのものにしようとするには、先ず、気を漏らさぬという要訣なのか、己の男根の去勢が前提とされていた。元々、この書を書き残した体得者自身が宦官であったことによるのであろう。東方不敗は、あせって短絡的に己が男根を切り落してしまい、宦官である体得者の宦官性を超えて大気法を体得するという研究・研鑽を放棄してしまったようだ。そのために、身体が次第に女性化していっていた。

それでも、地下牢に幽閉されていた前教主を助け出してしまった 狐冲、一度だけ一夜を伴にしたのが本当に東方不敗なのかどうか、真偽を東方不敗に訊ねても、東方不敗は意味ありげに微笑むばかり。本当は彼の女の愛人に暗闇に乗じて相手させたに過ぎなかったが、令 狐冲の裏切りを許せず明かすことなく、前教主や娘の盈盈、 狐冲等の一斉攻撃に黒木崖から墜落してしまう。落下している時も、令 狐冲が生命を賭して助けようとするが、東方不敗は彼まで道連れにする気はなく、跳ね飛ばし自分だけ、奈落の底に落ちていった。男女性の揺らぐ妖しいこの恋愛沙汰は、ジェット・リーには似つかわしくないはずが、ブリジット・リンの演技と魅力と相まって意外にこのツイ・ハークの映画の中では違和感が感じられない。

ブリジット・リン、《北京ブルース》でツイ・ハークに男装の麗人なる冠詞を賜わり、天衣無縫・融通無碍に動き回り飛び跳ねるこの萬暦年間的故事では、水を獲た魚の如く正に面目躍如としている。そして次作の《東方不敗 風雲再起》では、ジョイ・ウォンと妖しげ同士の濡れ場まであって一層怪しく妖火に揺らぎ続けている。

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奪還なった日月教の教主の座に再び戻った任我行は、しかし、もはや以前の彼ではなかった。信じていた、あるいは可愛がっていた配下の者達の悉くに裏切られ、地下牢に宙づりにされて幽閉されていたからだ。何人たりとも信じられなくなり、権力の定式=疑心暗鬼のチラチラとした熾火が任我行の心の中で燎原の炎の如く燃え上がってしまったのだ。次から次へと彼を裏切った者の処刑が始まった。この地へ踏み込んだがために令狐冲と岳霊珊の二人以外牛背山を前にしてあえなく全員死んでしまってすっかり塞ぎ込んでしまった二人の前に、任我行の娘・盈盈が慌てて現れ、今すぐこの地から去るように促した。教主の記した処刑者名簿に二人の名前が載っていたからだ。中国では危ないので、日本行きの船に乗るようにと二人を出発寸前の船まで案内する。令狐冲は盈盈にも咎が及んでくるかも知れないと一緒に船に乗流ように説得するが、教主の娘としてそれは出来ないと決然として否を言い、やがて遠ざかって行く船を見送り、処刑と疑心暗鬼の坩堝と化した日月教の居所に蕭々と戻って行く・・・ 

 

 令 狐冲        李連(ジェット・リー)

 東方不敗           林青霞 (ブリジット・リン)

  盈盈           関之琳 (ロザムンド・クワン)

 任 我行           任世官 (ヤン・サイクーン)

 岳 霊珊(ツァイツァイ) 李嘉欣 (ミシェル・リー)

 忍者・服部      李子雄 (レイ・チーホン)

 

 監督     程 小東 (チン・シウトン)

 制作・脚本  徐   (ツイ・ハーク)

 音楽     袁 卓凡 (リチャード・ユエン)

 撮影     劉 満棠 (トム・ラウ) 

 武術指導   程 小東・馬玉成・元彪

 制作  電影工作室     1991年作品

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2008年11月18日 (火)

プシュカル(2)

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  プシュカルの町は、小じんまりとした町ではあるが、何よりもブラフマーの聖地としてインド各地からの巡礼が集まり、ラクダ祭りの時はもっと大勢訪れるらしい。

 それでも、ちょっと郊外へ向かう道をトボトボとひたすら歩いて行くと、静かな小さな集落に至る。ここにはオールド・プシュカルと呼ばれる湖がある。

 

 十七世紀、ムガール帝国のアウランジェブという頑固な皇帝が居た。

 自分の信仰しているイスラム教以外の宗教を認めることが出来ず、ヒンドゥーの神々を祀った寺院の破壊を始めた。アジメールにやって来た折、ペルシャのスーフィーの聖人カワジャの廟に参内し、プシュカルにある寺院の破壊を祈念した。

 プシュカルのヒンドゥー寺院をすべて破壊しようと謀んでやって来た皇帝と軍隊が、オールド・プシュカルまで至った時、皇帝はその湖で顔を洗った。そして、ふと、水面に映った自分の顔を見てみると、頭が真っ白になり、顔自体もすっかり老いた老人のものに変わっていた。驚いた皇帝は、プシュカルの霊的力を思い知り、プシュカルの寺院の破壊を思い留まった。

 それ以来、この湖を、Budha Pushkar(old Pushkar)と呼ぶようになった。 [know pushkar the holiest place of the hindus]

 

 何度か訪れたけど、村の中心たるオールド・プシュカル湖は、いつも緑色の藻が禍々しく表面を覆い、僅かに残った水底に微かに魚影が窺えるばかりであった。この水は、低い山脈を越えた隣のアジメールの町の水源でもあるらしかった。黄緑に変色したような藻を見下ろしながら、こんな水をか、と思わず唸ってしまった。

 それはともかく、この鄙びて静かな佇まいの村は、何とものんびりとしていて、ふと、遙か昔に紛れ込んだような錯覚すら覚えさせる雰囲気は中々捨て難い。

 この湖の畔に小さな寺院が建っている。

 今ではすっかり大人になってしまったろうが、最初に訪れた時は未だ少年と言っていいくらいの若いブラフマン兄弟が守っていて、初めは中庭には入れて呉れたけど、法外なバクシーシを要求されたんで断り外に出た。それ以来って訳でもないのだろうが、外人を目の敵にしていて、外人が近づくと、建物の上に昇った兄弟が罵声を浴びせ出した。

 まあ、元々ヒンドゥー寺院は基本的には異教徒は中には入れないので、そんなものなんだろうが。プシュカルのガート入口周辺の寺院や祠堂なんかには悪質なのが居て、額に赤い染料を勝手に塗っておいて、あるいは中に入れさせておいて、後になってバカ高いバクシーシを執拗に要求してくるのに較べれば、まだ純朴な方だろう。

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 アジメールとの間に連なる山脈に近い場所に、インディー・ジョーンズにでも出てきそうな切り立った断崖のある一角に、小さな祠堂がある。

 いつもサドゥーなのかその祠堂付きの坊主あるいは寺男なのか定かでない男達が焚火の周りに屯していた。行くと早速チャイなんかを作って振る舞ってくれたりしたけど、その崖下に、ぽつんと小さな扉があった。訊くと、長さ数十キロにも及ぶ洞窟の入口という。開けて見せてくれたが、薄暗い人一人がやっと通れるくらいの穴が続いていた。山脈の下を潜ってアジメールにでも続いているのだろうか。ひょっとして、あのシャンバラやアガルタに通じる秘密の通路ではなかろうか等と幻視してみても違和感はない雰囲気。

 ちょっと前まで、ハリウッド映画で洞窟探検ホラー映画が流行っていたけど、そこにもその映画を観た好事家達が押し掛けているのかも知れない。

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2008年11月14日 (金)

HUM ボンベイ 1991

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   “ジュマ チュマ デデー、ジュマ チュマ デデー チュマー

 デリーのコンノートやメイン・バザール(パハール・ガンジ)の雑踏に軽快なリズムに乗って流れていたこの曲。’91年のメガ・ヒット、

アミターブ・バッチャン主演《HUM》のテーマ曲で、この頃はまだ曲の息が長くて、ナマスカールで始まるアルカ・ヤグニクの唄うマドウーリ・デキシットの映画《TEZAAB》のエーク・ドー・ティンやシュリ・デェヴィのチャンドニーなんかも流れていたような記憶があるが如何だろう。‘92年のアヨデヤ事件の起こる直前であった。

 バッチャンが議員等の政治活動から足を洗い漸く映画界に復帰したばかりの頃の作品。このHUM》は大ヒットしたがその後今一で、この年のシュリ・デヴイと共演した《Khuda Gawah》を最後に再び活動休止状態に入ったらしい。さしものボリウッドの影帝(サルカール)も、如何にもスランプから容易に抜け出せなかったようだ。

 ボンベイ・・・のナレーションで始まるこの映画、本当の処は如何だか定かでないけど、僕はF・コッポラの《地獄の黙示録》の冒頭のナレーションサイゴン・・・シィット!”を直ぐに想起した。

 当時は、ラジーニカントが南インドで燦然と輝く影王(マハーラージ)とは露知らず、何故クレジットで、あのアミターブですらそのままなのに、今一冴えない親父がスーパースターなんて仰々しい音楽と冠詞が附けられているんだろうと不思議に思った。後年、日本でインド映画ブームが起こって、漸く事の真相を知るに至った。因みに、南を廻った時にマドラスで観たのは、もう一人の南の雄モハンラルのアクション物であった。マドラスはデリーやカルカッタなんかに較べて映画館が綺麗で設備も好く感心してしまったが、広いスクリーンで小太りの如何にも恰幅の好い髭親父が、今二ぐらいのブルース・リー風アクションを当時としては可成り精彩な画像で披瀝しているのだった。何かそれは南の余裕とでもいったものを感じさせた。

現在は如何知らないけど、当時は、マドラスからどっちの方面に行くにしろ中々列車のチケットが取りづらく、一週間待ちがザラで、うんざりしている旅行者が多かった。ある日本人青年なんかは、

「こんな退屈な処に一週間も居なければならないんですよ・・・」

と、殆ど泣きっ面であった。僕は映画館が多いので片っ端から観れるとむしろ喜んでいたけど。

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ボンベイの波止場、そこで働く荷役労働者達を搾取し続けてきた顔役バクタワール。タイガー(アミターブ・バッチャン)は、その下で、労働者達から更にピンハネする集金係をしていた。父親もバクタワールの下で長年用心棒として働いてきた。波止場近くのスラムに、他の労働者達と同様、家族と一緒住まっていた。貧しいながらも、両親とクマールとヴィジェイという小さな弟達とつましいくも仲睦ましく生きていた。

先で成長して警部となったクマールを演ずるラジーニカントに合わせて、少年時のクマールに、ラジーニカントの十八番の手で飛ばした煙草を口に銜える仕草を演らせているのが笑わせる。

ある日、タイガーの彼女のジュマの兄であり、彼の友人でもあるゴンザルヴェスが待遇改善を求めて抗議のデモを他の荷役労働者達と始め、バクタワールの邸まで押し掛けてきた。バクタワールは、これでも喰らえとばかり窓から札束を投げる。ルピー札が風に舞いながら降ってくると、デモの参加者達は我先に札を掴み始め、抗議も何もすっ飛んでしまう。バクタワールは窓から呵々大笑。

それでも、バクタワールは安心できず、目の上の瘤のゴンザルヴェスを、タイガーが邪魔したため一度失敗するが、手下輩には任せられぬとばかり自分でナイフで刺し殺す。それを知ったタイガーは爆発し、バクタワールに報復しに一人大きなナイフを片手にバクタワールの邸に押し掛け、配下の者達と乱闘になる。

そのどさくさに紛れ、いつもバクタワールに媚びへつらっていた警部のギルダールは、傍に居たバクタワールの妻と子供達を焼き殺し、以前から狙っていたバクタワールの金庫の金を奪い、その上、バクタワールを逮捕し投獄してしまう。タイガーは小さな弟二人とジュマを連れてボンベイから逃れようとするが、ジュマは身を引き、タイガー達だけを逃れさせる。

そして、舞台はすっかり成長した二人の弟、警部となった上のクマールの嫁と小さな娘、そしてすっかり温厚な紳士となったタイガー達の住まう瀟洒な一軒家。家族団欒楽しく暮らしていたのだが、出獄したバクタワールが、タイガーが自分の妻子を殺したと勘違いしていて、復讐のためクマールの妻と娘を誘拐させる。再びタイガーは、成長した二人の弟と共に、ボンベイに戻ることとなる。

そこで女優となっていたジュマと再会。そして、バクタワールやギルダールの一味と大乱闘を繰り広げ、二人を助け出す。()

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  ストーリー自体は単純だけど、最初のボンベイの波止場の映像が結構凝っていて見させる。タイガーとジュマそして男達の群舞が圧巻。これを外すとこの映画随分と白けた物になってしまうに違いないし、この映画のエッセンスがここに凝集している。

このジュマ チュマ デデー、タイガーがボンベイに戻ってきて女優となっていたジュマと再会した時、映画撮影の中での曲としてもう一度流れる。

 で、この曲、実は’90年のジータンドラやサンジェイ・ダッド、マドゥーリ・デキシット主演の《Thanedaar》の中の曲タマ タマ ロゲーと同じで、マドーリとサンジェイ・ダッドが踊るタマ タマ ロゲーの方が一年早い。両方とも、中々乗りが好く、今YOU TUBEなんかで聴いてても全然悪くない。作曲者が同じなんだろうが、それぞれ素晴らしい。

 実は、しかし、この曲、導入部が’87年アフリカのモリー・カンテのアルバム《Akwaba Beach》の中の”Yeke  Yeke”と完全に同じなのだ。このエケエケ、僕は知らなかったが、当時世界的ヒットしたらく、アフリカン風に全く乗りが好い。イントロと本曲部分は随分と違っていて、ボリウッド側が”Yeke  Yeke”の曲自体を剽窃したって断言するには些か問題がある気がする。イントロ部分だけを使っただけで曲自体は別物。それでも、例えイントロであっても全く同じなので、やはりその誹りは免れないのかも知れない。

ところが、曲自体をコピーしているのが、南のテルグ映画《Pellikala  Vechesinde》。インターネットで聴いてみたら、正にそのもの。さすがに、インドと雖も、もうそんな事は出来ないだろうが、大らかなあの当時だったから可能だったのだろう。

HUMにはもう一つ本来はこっちがテーマ・ソングなのだろうが、

“Ek  Doosre Se”という曲がある。ドメスティックな曲だが、これもモリー・カンテの《Akwaba Beach》の”Inch-Allah”のイントロが同じで、この世界的ヒット・アルバムを実に効率よく?流用している。

男っぽいバッチャンの魅力満開ってところだが、ラジーニカントとゴビンダの二人も加わって正に豪華キャストの趣き。女優の方はさっぱり知らないが、敵役のバクタワール役のダニー・デンゾンパ、バッチャンの映画にはよく出るみたいだけど、ブラッド・ピットの《セブン・イヤー・イン・チベット》に出演したようだ。シッキムの出身で本名はツェリン・ピンツォ。チベット系だろう。ネパールの映画でも活躍しているらしい。

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  “Jumma Chumma De De”

                  Sudesh Bhosle,Kavita Krishnamirthy

    “Ek Doorse Se”

                  Udit Narayan,Sudesh Bhosle,Mohammad Aziz

    “Sanam Mere Sanam”

                  Amit Kumar,Alka Yagnik 

タイガー   アミターブ・バッチャン

クマール   ラジーニカント

ヴイジェイ  ゴビンダ

ジュマ    キミー・カトカル

アートリ   ディーパ・サヒ

バクタワール ダニー・デンゾンパ

警部ギルダル アヌパム・ケル

監督 ムクルS アナンダ

脚本 ラヴィ・カプール

音楽 ラクシュミカント・ピアレラル

制作 ロメシュ・フィルム  1991年制作

 

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2008年11月 8日 (土)

プシュカル   ブラフマーの聖地

 

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 前日夜の十時に、(オールド)デリー駅の端の17、18番ホ

ームから、アジメール行きの列車Ahamedabad Ma

ilに乗った。2nd Sleeperで103ルピー。

列車は通路側の座席のない普通よりもちょっと狭い狭軌スモー

ル・レンジで、翌朝の八時十五分に到着。バスでブシュカルま

で三十分で3.5ルピー。

 

僕が始めてブシュカルを訪れたのは1992年の暮れ、新年

をこのラジャスターン砂漠のオアシスの町で迎えようとしたか

らだった。アジメールとブシュカルを隔てる低い山脈は、表面

にちょこちょこ草の生えた岩山で、ラクダを思わせた。町外れ

のホワイトハウス・ホテルに泊まる。シングル(30Rs)は駄目で

ベッドがあるだけのダブル(60Rs)。家族的ではあるのだろうが、

客に応対するのがやたら若い連中ばかりで、ちょっと執こく又

セコかったので二度と泊まることはなかった。

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 ここはやはりブシュカル湖(ブラフマ・プシュカル湖Brahma

Pushkari)に尽きる。

 周辺の砂漠やオールド・ブシュカルなんかも想像力を掻き立て

るけど、やはりこの白い寺院・祠堂に囲まれた小さな湖に尽きる。

 だから宿もガート沿がベストだろう。嘗て藤原新也が泊まって

いたようなまだ古えの香りが残っている事はもはやあり得ないが、

それでも建物自体も歴史があり、世俗的な”Paheli”なんぞを越

えて、すっかりバラフマーやヴイシュヌ、ハヌマーンなんかが通

り過がる遙か古代の黎明世界にイマジネーションを馳せることが

できる。

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ブシュカルはインドでも少ないらしい宇宙神ブラフマーを祀っ

た聖地で、巡礼宿ダラムシヤーラーも多くサドゥーも結構多い。

 だからか挨拶はナマステよりもラム、ラムが頻()

聞かれる。

ミニ・バスなんかで遣ってきた団体の巡礼達は、バスの周辺で

煮炊きして食べる自炊が基本のようで、夕方等道路いっぱい足の

踏み場もないくらいに一斉に自炊を始める。さすがはインドと思

わせる。そんな巡礼達と門前町を一緒に散策し行き止まりのブラ

フマー寺院まで漫ろ歩いてゆくのも一つの風情。

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ここは聖地故にヴェジタリアンの町で卵すら口に出来ない。

 コンチネンタル・レストランでもスパゲティーやベイクド・ポ

テトなんかが好いところ。それでも、ファラン(白人)客が多いか

らか、暗くなってくるとケーキやパイを積んだ屋台車があっちこ

っちに現れる。バナナ・ケーキ(10Rs)を買ってみたが味も悪くはな

かった。

 ガートの橋側にあるアシュラムの隣の比較的静かな茂みのある

辺りに、二度目に訪れた時にはもうなくなっていたけど、椅子だ

け並べた小さなチャイ屋があって、肩から紐を掛けた一人のブラ

フマンがやっていた。

「家もなく貧しいのはカルマのせいだ」

と嘆いてみせた。カースト的には最高位の階級にも拘わらず。そ

ういえば、プーリーのサンタナ・ロッジもブラフマン家系だった

か。

 ここの砂漠の砂は肌理が細かく殆ど粉末状なので、持って帰っ

て中々落ちないホーロー・カップの汚れ落としに使ってみたら、

効果抜群で簡単に落ちてしまった。粉末状なのでホーローを傷つ

けることもなかった。ブシュカルを出るとき、袋に詰め込んで持

ち出し汚れ落としに重宝した。

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2008年11月 4日 (火)

ハンピ  遙かなる石の都  

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   J.チェンの《神話》で久し振りに巨石群の都ハンピの壮大な風景を見て、かれこれもう十五年くらい以前に、一度だけだったが、訪れすっかり気に入ってしまったハンピのことをあれこれ思い出した。

 ここはカルナータカ州デカン高原南部の、トゥンガバドラ川(古名パンパー)に沿った中世の遺跡群で、アンコールワットと同様長い間忘れ去られていた。だから町自体は比較的最近出来たらしい。

 嘗てはヴィジャヤナガラ王国の都として川の古名パンパーがカンナダ語化してハンピになったという。六世紀頃から既に聖地として信仰の対象になっていて、土着のパンパー女神はヒンドゥー教のパールバティと同一視され、現在でも宗教活動が行われているシヴァを祀った川沿いのヴィルーパークシャ寺院はパンパーパティ寺院とも呼ばれているらしい。

 侵略してきたイスラム勢力に対抗するため南部諸国が協同して作った都らしく勝利の都という意味のヴィジャヤナガラとなり、数世紀の間繁栄していたようだ。それでも十六世紀にはイスラム軍に大敗を喫し、ハンピ(ヴィジャヤナガラ)を放棄しペヌコンダに遷都を余儀なくされてしまった。

所謂シャンバラも、同様に侵略してきた破竹の勢いのイスラム勢力に対する強迫観念が生んだ産物というのはもはや歴史的定式となっている。

ヒンドゥー=イスラムの戦いなんて、あの宏大な地平線の果てまで拡がった岩石と遺跡のモニュメントを前にした時、てんでそぐわず、もっと遙か以前の古代やドラヴィタ=ヒンドゥーの神々の相克ぐらいでないと話にもならない。やはり、ネックはパンパ女神であろうか。しかし、それは当方の手に余り、他に委ねよう。

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僕がこのハンピを訪れたのは、1993年の初頭で、アウランガバード➝ビジャプール➝ホスペット➝ハンピとバスで移動し続け。ホスペットからハンピまで、バスで三十分ぐらいで2Rs(ルピー)

ビジャプールからのバスから遠くに見えていた山頂の石群が、実際に訪れてみると、バナナと椰子の林に囲まれた()石遺跡群、そしてそれが際限なく見渡す限り遠くまで続いているスケールには圧倒されるしかなかった。半年でインド・ネパール一周という目標・制限がなければ気の済むまで滞在したかった。実際、視界に入る限りを逐一見て廻ったとしたら、悠に半年、否、一年くらいはかかってしまいそうだった。

当時はハンピにはバザールや白人相手のレストランは軒を並べていたけど、ホテルの類は余りなくて、たいていは隣町ホスペットの宿から通うのが普通だった。トイレが付設されたホテルは一軒しかなく、他のホテルの泊まり客は、何処かで用を足すのでなければ、そのホテルまで行ってトイレを借りなければならなかった。

僕はクリシュナ・ゲスト・ハウスに泊まった。手違いで床に直に布団を敷いた小さな部屋に入ることになってしまった。ファンと蛍光灯が附いていて、60Rs

バナナ・パンケーキって色々なバリエーションがあるが、ホテル・ガネーシャのレストランで食べたバナナ・パンケーキは、チャパティ地の上にバナナのスライスをのせ、おろしたチーズを振りかけた奴で、味は淡泊。テーブルに備え付けの蜂蜜をかける。8Rs。他の店で、パパイヤ・パンケーキというもっと淡泊な代物もあった。

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インドにも自称ケンさんは何人も居て、一様に自らケンさんと呼んで呉れという言うのが特徴で、ここハンピでも一人出逢った。

些か薄くなった髪をかなり伸ばした痩せた年配の旅行者で、もう四ヶ月近くもここに滞在していて、大部年の違う彼女が身籠もってしまってインドで生むんだとか喜んでいるのか悩んでいるのか定かでない風であった。随分とざっくばらんな人で、初対面の僕にあれこれと喋り続けた。彼は以前、川向こうの白人達の溜まり場となっているヨガ・アシュラムに居たらしい。

彼の話によると、雨季があけて少ししてから雨が数日続き、この辺り一帯洪水になって、流された民家もあったという。その時は、彼と身重の彼女も大変だったらしく、上流のダムが決壊する恐れが出て住民に避難命令すら出たという。地元では二十年ぶりの大洪水らしかった。そのちょっと前、ハンピを流れているトゥンガバドラ川で四メートルのワニを白人達が見つけたと言ってたのは彼だったが、そん時は如何だったのだろう。

その洪水、前年の九月、僕が中国からフンジェラル峠を越えてフンザに滞在していた時起きた、フンザ・インのハイダル・ベグ氏に言わせると生まれて初めて経験した大雨と驚いていたが、実際には一日半ぐらいの小雨でしかなかった。それでも、泥作りの屋根が溶け落ちて雨漏りや崩れたりしていた。その後晴れだし、下界のギルギットやもっと下流域では大洪水に見舞われテレビのニュースで大騒ぎし始めた頃には青空が拡がりのんびりと日光浴なんかしていた。ひょっとして、その時の洪水のことをケンさんは言っていたのだろうか。

 たった数日の滞在だったけど、北のラダックとプシュカル、そしてこのハンピはインドで一番印象的で魅力に富んだ地として心に刻まれ、誰かにインドで何処か好いところは?と尋ねられると、確信を持ってその三つの名をあげてきた。尤も、ラダックは冬はやたら寒く、ハンピはやたら熱いのだけど。

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