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2009年1月の8件の記事

2009年1月31日 (土)

サイアムの風 パーン・ナカリン

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  僕が今迄タイ・ポップスのアルバムの中で一番聴いたのは、ターターの《TATA REMIX》とナカリン・キンサック(パーン)の《カイ・パーン》と《30歳記念》であった。いずれもカセット・テープにコピーしたのをウォークマンで国内でも旅先でも頻く聴いていたけど、さすがにこの五、六年は稀にCDで聴くぐらいになってしまった。

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 《カイ・パーン》なんて、オリジナル・カセット二個も持っていて、一つは後で買い足した奴だが、プラ・ケースに"SONY MUSIC"と刻印してあって、ジャケットには95バーツと印刷してあるけどプラ・ケースに貼ってある小さなラベルには"90"バーツとある。
 このテープを最初に買った時、雑貨店の店頭に置いてあるカセット・テープ棚を一通り眺めて、一番気の利いたデザインのカセットがこれだった。(試聴の出来ない時の僕の感性を頼りにした選択方法) 今でも、仲々如何にもタイの芳りが漂っているこのデザインは素晴らしいと思う。もう十年以上も過ぎた現在ですら、これ以上のカバー・ジャケットってないのではないか。
 如何にも熱そうにタイの親父が襟首から風を入れようとしている姿とテーブルの上の水の入ったコップ、そして白い上着のパーン・ナカリン。上の暗がりに紅いタイ文字。これが、アルファベットなんかだとタイ風味も随分と希薄になってしまったろう。全く絵になっている。
 そしてジャケットを拡げると、ヤワラート風の暦の一頁とロック・ジャケットもどき。そして裏面のインド親父の映ったパフラットの床屋風。いや、期待を裏切らない出来で、その上、肝心の音楽はというと、"サバーイ・ディー"、"ペン・ナー"と乗りまくって"ヨーム・マイ・トゥング"でスローだがせつせつと唄いあげ、すっかりオルタネーティヴ・タイ・ミュージック"ナカリン"の世界に引き込まれてしまう。
 最初聴いた時、やたら高音が続き声が裏返ったりするのには驚いてしまった。タイの他のミュージシャンにも居て、これはタイの特性なんだと理解できた。日本でも欧米でも余り聴いたことがない(僕が知らないだけかも知れないが)。

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 何年かして《30歳記念》のCDが出た。ソニーらしく、随分と凝った造りのCDだけど、中に出てくるモニター画面、幾ら試してもサンド・ストームばかりで何の映像も出て来ない。これはタイのVCDプレーヤーだと写るんだろうか。
 中身は文句ない。ナカリンの中でもベストだろう。
 TATAのは主にインドネシア=バリで、何故か彼の地の風土に合ったのか、毎日幾度と無く聴きまくっていたけど、《30歳記念》の方は、国内でも旅先でも移動の時なんかに聴いた。実にバスに好く合った。
 "フア・ラーン・ジャイ・ノーイ"、"ピーチャーイ"、"アムナート"、"ラン・バーン"なんか特に気に入っている。

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 その後の、"金メッキ"も結構好かったし、比較的最近の"ドークマイ・ディヨウ"もルークトゥン風も入っていて癒し系アルバムって処で悪くはない。
 
 何時だったか、サイアムのタワー・レコードで、二人ツ連れの高校一、二年くらいの男子が、ナカリンのカセットだったかCDだったかもう定かでないが手に取り、二人で眺めながら、
 「カイ・パーン!」
 と、鼻にかかった発音と好く通る声で言った。
 ああ、あんな風に発音するのか、とその本家タイ式の絶妙な発音にすっかり感心してしまったことがあった。あのぐらいの世代でも知っているのが分かった。

   確かサイアム・センターだったと思うが、フード・コードの奥、恰度キッチンの真裏あたりにも狭いスペースにテーブルが並んでいて、そこにコイン式のミュージック・ボックスが設置してあった。見ると、ナカリンの曲も何曲か並んでいて、宿ではポップスの類はプレーヤーとスピーカー備わっていてもかけてくれないし、ウォークマンばかりじゃと、時々ナカリンを、ストローを挿した冷えた大きなココナッツを傍らに置き、吹き出す汗としびれる舌先にふうふう言って辛いグリーン・カレーを食べながら、大きな音量で聴いたものであった。

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2009年1月27日 (火)

映画《禅》  昏い座席で只管打座

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 この処、《おくりびと》やこの《禅》等、普段滅多に観ない邦画を立て続けに観てしまったけど、どちらかというと余り一般向け乃至は若向けって感じじゃない映画ばかり。流行の《K-20》や《わたしは貝になりたい》なんかの方が好かったのかも知れないが、どうも中身が見え透いていて仲々その気になれない。

 又また、千円の日を狙ったのだが、やっぱしソダーバーグの《チェ 28歳の革命》の方が正解だったようだ。ちょっと迷っちまったのだが・・・
  《禅》というタイトルに騙されたというより僕が勝手に勘違いしたっていうのが本当のところかも知れないが、早い話禅そのものの追求なんかではなく、道元禅、つまり永平寺を拠点とする曹洞宗の勃興史としか思えなかった。
 最初から最後まで何か臭い、それは内田有紀が両手を合わせる場面でも漂っていて、そもそも一般の日本人が拝むという行為からすっかり疎遠になってしまっていることなのかとも思えたけど、例えばタイなんかで若い連中がバスの中から通りの寺院なんかの前に差し掛かると拝ん(ワイ)だりする光景に出遭っても別に違和感なんて感じないし妙な臭さなんて覚えようもない。
 その違和感=臭さは、どうにも道元=曹洞宗の"宣伝"、つまり宗教団体の宣伝映画臭さから来ているようだ。同じ禅というより仏教を扱った映画、ちょっと古いし実際はもう大部記憶も薄れてしまってタイトルすらはっきりしないけど韓国映画《達磨は西から来たか》?や何年か前の《春夏秋冬そして春》には全く感じなかったものだ。

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 中国での場面に出てくる光景、雲南や新疆、チベット等の辺境ばかりで中国=漢族エリアなんて上海ぐらいしか訪れたことのない貧乏旅行者にとっては、初めてで、こんな場所もあったのかと思わず感心してしまった。現地ロケの威力だろう。

  それにしても、わざわざ中国まで行って現地ロケまでしているのに、中国人芸者も英語を話すご時世、別にとやかく言う筋合いもないけど、日本人俳優が中国人役を演るってのもどんなものだろう。色々と事情あったのだろうか。一人、中国人俳優・鄭天庸が如浄禅師役で気を吐いていた。
 それにしても、こんな映画で現代の人々に一体何を言おうというのだろう。これは偏(ひとえ)に制作側の問題であろう。"現代"を俎上に据えるなら、せめて、藤原新也あたりを企画に入れるべきではなかったか。又、プロパガンダならプロパガンダで造りようがあろう。紅衛兵もびっくりするぐらいのものを作ればよかったのだが。

 神は死滅して久しいが、さりとて釈迦とは無縁の仏教界、一体何時まで自ずから煩悩の焔・業の炎を決め込むのだろう。
  せっかくの千円の日、客も疎らな映画館の座席で、暗澹として"只管打坐"じゃ堪ったもんじゃない。
 また邦画、当分観ないだろう・・・

道元    中村勘太郎
 おりん      内田有紀
 如禅禅師    鄭天庸
 北条時頼    藤原竜也
 懐奘    村上淳
 寂円    テイ龍進
 俊了    高良健吾
 伊子    高橋恵子
 
 監督 高橋伴明
 脚本 高橋伴明
  撮影 水口智之
 美術 丸尾知行
  音楽 宇崎竜童、中西長谷雄
 制作 角川映画   2008年作品 

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2009年1月23日 (金)

《マライの虎》1943 "南進"の輝ける星:ハリマオ

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   1989年の陣内孝則主演の映画は未見だが、テレビシリーズの《怪傑ハリマオ》はDVD化されてもう久しく、僕も何本か持っている。内容は、やはり正に戦争の真っ最中だったこの《マライの虎》とは雰囲気がてんで違っていて、あくまでお子様仕様。只、一体何処で撮影したのだろう、と疑問に思っていたら、カンボジアということらしいので驚いてしまった。

 1943年(昭和18年)といえば、同年あの山本五十六元帥が戦死し、戦況も次第に敗色がはっきりし始めた頃で、実際には前年くらいに撮影されたろうから、その頃はまだ比較的"闇討ち開戦"の余勢もあって楽観的であった時節であろう、そんな雰囲気が漂っている。
 当時のマレーシアで撮影されたらしい。
 その割には登場人物の中にマレー人(俳優)の姿は見られず、小林桂樹や上田吉二郎なんかが黒塗りして成りきっていた。主演の中田弘二って全然知らない俳優だが、稲垣浩監督・大河内伝次郎主演の《大菩薩峠》なんかにも出てたらしい。
 もうこってこっての大日本帝国(軍)御用達の"国策"映画で、テーマは"反‐大英帝国"。"反英"的プロパガンダとしてマレー人達に観せる類のものではなく、あくまで国内向け仕様。時代的にはちょっと離れているが、謝晋のプロパガンダ映画《紅色娘子軍》と比較しても質的に可成りお粗末。サイレント映画並に、突如スクリーンに反英的スローガンなんかが現れる。あんな時代でも、日本国内ではヒットしたというから、スローガンの文字が現れると、紅衛兵達みたいに観衆は総立ちでスローガンを連呼でもしたのだろうか。

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 冒頭いきなり、"撃ちてし止まむ"のスローガン。
 もうのっけから、娯楽より軍事と云わんばかりに、単刀直入にスローガンなのだ。当時のこの手の映画って皆こんなスタイルだったのだろうか。日本からの移民なのか出稼ぎなのかもう一つ定かでないが、マレー人に成り切ろうとしたらしいので、やはり移民なのだろう、谷豊(たにゆたか)一家は、マレーで床屋を営っていた。
 そこへある時、大日本帝国軍の中国侵略に怒りを覚えた、あるいは、家族知人を殺されたりした在マレーの中国人達が"反日"デモを起こし暴徒化し、日本人街を襲撃した。その時、谷の幼い妹も、中国共産党の陳文慶に銃で射殺される。激怒した谷は、英国総督府に訴えにゆく。しかし、てんで相手にもされず、反日の中国人達は共産党で、英国の犬でしかない、というある偉いさんの言葉に、谷は、大英帝国への報復の念を燃え上がらせ、家族の前から姿を消してしまう。
 やがて、マレー中で、華僑や英国関係の商人や企業が襲われ始める。"ハリマオ"とよばれる義賊となった谷豊の仕業であった。三千人のマレー人の手下を従える一大勢力となっていた。
 それを、対米英戦争の日が刻々と近づきつつあった軍部の福原少佐配下の神谷が、真珠湾とともに奇襲攻撃を企んでいたマレーの下工作に、ハリマオ一味の手を借りようと接触してきた。単純なハリマオこと谷豊は、簡単に軍部の煽(おだ)て上げに乗ってすっかり有頂天。
 やがて、実際には相当に短期間だったらしいが、次々と英軍関係の施設を襲い、結果名誉の戦死。皇軍のマレー奇襲・侵攻作戦成功に大いに寄与したとして一大英雄として褒め称えられのであった。
 ハリマオー、ハリマオー・・・

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 「何かやらせて下さい」と、こめつきバッタのように福原少佐にすがりつくハリマオ

   モデルの谷豊は、身長が150センチちょっとの、当時としても小柄な方だったらしく、国内で受けた徴兵検査で"丙種合格"(不合格)だったという。これは、わざわざ日本に戻っての事だったので、可成り失望し、トラウマになってしまったのかも知れない。少年時、日本語もも一つ滑らかではなかったらしく、それも帰国して学校教育を受けていた頃、色々周囲との軋轢の要因になって心の傷になっていたかも知れぬ。
 そこを藤原機関の神本利男が、谷のコンプレックスをうまく突き煽て上げて対英国破壊工作活動に組み込んだ。何時でも斬り捨てられる匪賊であったからこそ利用価値もあったのだろう。テレビシリーズの"怪傑ハリマオ"では、時折将校服に身を包んでいたりしたが、実際は軍属扱いだったらしく、一体如何な身形であったろう。

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 この映画は、あくまで戦意高揚・対英プロパガンダの一環であって、事実とは当然異なっている。
 谷の妹が反日暴動で殺されたのは事実らしく、勿論陳文慶なんて共産党員ではなく、実際は拳銃ではなく刃物で、それも斬首されたらしい。斬首というと、今では、マレーシアの隣国タイ南部のイスラム勢力や中東近辺のイスラム原理主義者達の十八番であるが、当時のマレーでは如何だったのだろう。当時も少し時代が遡った二十世紀初頭でも、ベトナム辺りじゃ死刑は斬首だったようだ。況や中国でもそうだったろうし、皇軍も中国でさんざん"法的"なものではない"軍事行動"としての斬首で高名を馳せていたので(日本人が国内的にそんなことはないと言い張ってみても、現地の中国人や在留外国人達はよく知っているってことを忘れないことだ。)、在マレーの中国人達もそれに対応したのだろう。

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 谷の中国人=華僑に対する呪詛は、しかし、幼い肉親を惨たらしく殺された故のことであっても、それに至らしめた状況を理解し得てなければ、一つ穴の狢(むじな)である。
 これはもう如何ともし難い事実であり、理でもある。
 故に、軍部の、口当たりの好い、しかし、ちょっと考えれば簡単に見抜けてしまえる内容と質しかなかった論理に、いとも容易に平服してしまい、その傀儡と化してしまった。尤も、戦前の国を挙げての皇軍・皇民教育の洗脳を蒙ってきた普通の日本人達には、それは中々容易なことではなかったようだ。戦後半世紀以上過ぎた現在でも、その呪縛から抜け出せないでいる。谷の場合は、当時植民地であった朝鮮・台湾以外の遠いマレーで育ったにも拘わらず、やはり、そんな情けない思惟と感性しか包有できなかった。
 確かに、大英帝国は、当時も今でも、やはり世界のあちこちで搾取と汚染の凶事の種を撒き散らし、更に一層の災厄を蔓延させ続けている。米国然り、当時の大日本帝国然り。第二次世界大戦って、単に、帝国主義列強の植民地争奪戦に過ぎなかったのは、常識どころか、もはや歴史の定式である。そして、それが侵略されたあるいは植民地化された国々の解放と独立を生起させたというだけのことだ。・・・何だか、高校生の歴史のおさらいみたいになってしまった。

ハリマオ(谷豊)  中田弘二
母親       浦辺粂子
サリー      村田宏寿
福原少佐     押本映治
神谷軍      植村謙二郎
バテバウ     上田吉二郎
陳文慶      井上敏正
ハッサン     小林桂樹

監督  古賀聖人
脚本  木村桂三
撮影  西村四郎
美術  進藤誠吾
音楽  鈴木哲夫
制作  大映        1943年制作

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 谷豊(本人)

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2009年1月17日 (土)

《川島芳子》 "満州帝国"謀略故事

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   最近、にわかに生存説(と云っても、死刑にならなかったという意味で、1978年に病死)が巷を賑わせている川島芳子こと、愛新覚羅顕紓(けんし)、1948年北京で国民党軍による銃殺刑から六十年も過って尚日中両国民の耳目を集めて了ることがない。
 戦前、清国粛親王四番目の側室の娘(第十四格格)として、七歳の時、粛親王と親交のあった日本人浪人・川島浪速の元に養女として遣わされた。浪速と粛親王とは、"満蒙独立国"建設ということで結びついていて、就中粛親王にとっては、"清朝再建"という悲願が籠められていた。幼少の頃から芳子は、そんな構想と思想を浪速に叩き込まれていたのだろうし、浪速の家には、頻繁に日本の軍幹部や右翼連中が出入りしていて、自然そんな色に染まっていったろう。

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只、浪速も芳子も、当初の構想と異なる大日本帝国が作り上げた所謂"満州帝国"には、裏切られた想いが強く、批判的であった。渦中にあって面前で指弾する芳子は、関東軍にとって次第に邪魔な存在になり、終いには、芳子と愛人関係にあった山家享に芳子殺害の指示すら出されたようだ。
 満州帝国の陰の支配者とも、影帝(満映の帝王)とも謂われる"女・子供殺し"で有名な甘粕正彦が、芳子を極端に嫌っていたという話しもあるらしい。確かに、清朝のお姫様という血筋と女を武器に軍幹部を手玉にとり、帝国権力(実質は日本)の手の隙間からスルリと抜け出しかねない一筋縄ではいかない、それも内地で"男装の麗人"として人気の高い芳子なら、権力のなんたるかを十二分に知り尽くし、その上にふんぞり返って隠微に行使し続けてきた甘粕なんかが、快く思う訳もなかった。
 そういえば、南方軍マレー侵攻作戦の英雄"ハリマオ"がやはりそんな役回りを与えられていて、それから推測すると、何しろ同じ軍隊・謀略組織がやることだから、ハリマオの死も如何にも胡散臭い。

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 芳子の場合は、彼女が山家(当時、中佐)の愛人だったこともあってか殺し渋り、満州からの追放処置でお茶を濁したようだ。山家は、しかし、李香蘭を満映に紹介したりの軍の宣伝・芸能関係の畑を歩いてきたらしく、川島芳子だけでなく、満映の看板中国人女優の李明、白光なんかとも浮き名を流した色男だったらしいが、彼自身満州での日本軍・権力の有り様を不快に思っていた親中国派だったからかも知れない。挙げ句、終戦の二、三年前、突如、国家反逆罪、機密漏洩、軍紀違反等十以上の嫌疑で軍法会議に追いやられ、実刑判決を受け、服役させられたけど、この逮捕劇には芳子自身が絡んでいたという話もあるらしい。初恋の相手に対する心理・感情って拗れたりすると何処までもうねるように持続しつづけるのかも知れないが、又、彼を疎ましく睨め付けてきた手合い(軍)も少なくはなかったろうから、実際の処は曖昧錯綜として不明。

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 前年に中国でも、《哀恋花火》なんかの何平ハーピン監督によって作られていて、こっちの方は未見。寧静主演の《哀恋花火》は女性映画としても結構面白く、彼の撮った川島芳子も興味あるが、彼より一あるいは二世代前の方令正監督の《川島芳子》は、やはりそんな世代と時代を感じさせる作風。
 冒頭、法廷の被告人席の芳子の短いショットの後、北京(当時は、北平ペイピンと呼称)の粛親王宮での粛親王と着物を着た七歳の芳子(中国名・金壁輝)の別離のシーンから始まり、東京の浪速邸での少女時代を省いて、いきなり転居した先の松本に舞台は移る。この頃既に、山家少尉と恋愛関係にあった芳子は、"満蒙独立国"構想実現の為に蒙古の将軍の息子との縁談を浪速に一方的に押しつけられ、可成り抵抗したようだ。画面では、浪速が着物姿の芳子にたかが少尉風情の山家なんかとはさっさと別れてしまえ、清朝復権のため"満蒙独立国"樹立のためにも、蒙古の将軍の息子へ嫁げと迫る。そして、ふと、着物の裾がはだけ、芳子の白い太腿が露わになった途端、義父・浪速は忽ち欲情し襲いかかる。それも、"満蒙独立国"の必要性を延々と説きながら。そして、自殺未遂。これはもう、有名なエピソードだったらしいが、無知だった僕は、このシーンに驚いてしまった。 
 東洋のマタハリの前に、本家ヨーロッパのマタハリが居て、彼女は美貌と艶やかな肢体で権力者達を魅了し虜にして情報を得たが、芳子は写真見ても、扮したアニタ・ムイを見ても、到底そんな魅惑的な存在ではない。それでも、日本軍高官達には、十分に魅力的な存在だったようだ。そんな演出が巧みだったのかも知れない。で、結構セクシャルなシーンが多いが、王家衛の様に耽美的ではない。
 この事件後、芳子は断髪し、女を捨てると宣言。それが新聞にも載って有名になり多くのファンが出来たらしい。

 数年ほど蒙古の将軍の息子と生活を共にするが、結局飛び出し、上海へ逃げる。そこで、駐在武官の田中隆吉少佐と愛人関係に陥る。しかし、写真見ても田中少佐、到底女好きする風貌ではなく、絵に描いたような"親父"でしかない。余程芳子はファザコンだったのか、それともあくまで"満蒙独立国"の為身を挺したあるいは享楽と実益を兼ねた工作だったのか。
 その田中との出遭いが、芳子を"諜報・謀略"の世界に踏み入れさせたとは定説のようだ。画面ではサラリと流されている。

 やがて満州事変、満州帝国独立、上海事変等が続き、芳子も田中少佐や甘粕等の特務関係と連んで謀略工作に奔走する。中でも、上海事変での芳子の活躍は有名で、日蓮宗僧侶殺害や中国人殺害で、十二分にどちらの国法に於いても重罪。しかし、画面では、やがて満州帝国皇帝となる愛新覚羅溥儀の妃・婉容を天津から旅順に移送する場面があるだけ。ベッドで阿片を燻らす婉容と芳子の妖しげなシーンだが、も一つ情緒が足りず、些かお座なり。総じてこの監督、この手の場面、思わせぶりにエピソードの提示って域から出ない。

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 この映画、てっきり芳子と山家の二人が主人公なのかと思っていたら、途中からアンディー・ラウが姿を現す。最初は単なる地元の身軽な腕っ節の立つ青年ってところだったのが、後に京劇の美猴王(孫悟空)役者として再び登場し、陳凱歌の《覇王別姫》('94)を想起させるような、芳子が権力にものを言わせて、京劇役者・雲開をいたぶり慰み者にする場面となる。《覇王別姫》の方は、如何にも京劇の一シーンを彷彿とさせるような好場面であったものの、こっちの方は前述した濡れ場同様、演出が今一。アニタ・ムイやアンディーの熱演も空振りに終わった感が強い。
 この雲開って男、実在の人物とは思えず創作と思うが、しかし、
芳子が実は刑死してなかったという新たな視点から見直してみると、ひょっとしてこの男が、芳子を刑務所から秘密裏に連れ出し、末期癌患者の女を金の延棒十本で入れ替えた人物に擬されていた可能性が浮上してくる。それは、最後の面会所での雲開の言葉を聞けば了解できる。

 突然場面はプロローグと連なった法廷の場面となる。
 このシーンも何かも一つで頂けない。この映画、芳子のエピソードが余りに多過ぎるからか、全体的に端折った感じで、も一つ丁寧に撮れてない。
 1945年10月、国民党軍に芳子は逮捕され、"漢奸"(売国奴)として訴追され、1948年3月25日北平第一監獄で銃殺刑に処された。
 死期に臨んで芳子はこの世に未練を覚え執着するようになったようで、日本の養父・浪速に戸籍票を送って呉れるよう頼み込んだようだ。ところが、関東大震災で原本自体が焼失してしまっていた。万事休す!
 しかしながら、中国は男親の国籍を基準にその子供の国籍を決めるので、芳子が幾ら養子先の国籍=日本を基に自らを"日本人"と言い張ってみても元々意味はなかったのだ。 
 処刑場で一人芳子は地べたに坐る。背後に立った一人の国民党軍の兵士が徐ろに腰のホルスターからモーゼル銃を抜き出し、ゆっくり芳子の後頭部に狙いをつける。緊張し翳った素ッピンの芳子の表情が複雑に変容してゆく。この時のアニタ・ムイの横顔は仲々好い。そして、銃口が火を吹。ドサリと前のめりに芳子は崩れ落ちる・・・。

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 それにしても、あの東洋のマタハリとまで世間に喧伝されてきた良くも悪くも時代の寵児が、それ以降、己の正体を秘したまま三十年近くも市井の一女性として営んできた生とは如何なるものであったろうか。

 川島芳子   梅艶芳アニタ・ムイ
 阿福(雲 開)  劉徳華アンディー・ラウ
  山家享         爾冬升
 宇野俊吉   謝賢
  婉容皇后      陳玉蓮
     
 監督  方令正
 原作    李碧華
 撮影  馬楚成
 美術  莫均傑・方盈
 音楽  沈聖徳
 制作  寰亜  1990年(香港)

 断髪前の娘時代の芳子

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 左が芳子

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死の直前西側の記者が会った時には、芳子は髪を短く切っていたという。

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2009年1月14日 (水)

《マリー・ブラウン》 旅先のファースト・フード(マレーシア)

 

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   例によって話は旧くなるが、以前一度だけバンコクを南下し、マレーシアのクアラルンプールに滞在した事があった。
 恰度この時も"ラマザーン"(断食月)であったが、チャイナタウンに泊まったので、問題はなかった。イスラム教徒は日没後でないと食えないけど、中華系やインド系は関係なく、何時も通り普通の食生活をしていて、人気の生蝦雲呑麺の屋台の前には長い列が出来ていた。僕も気に入った生蝦雲呑麺やクレイポット鶏飯の屋台が出来、美味しく頂いたものであった。
 
 チャイナタウンの北を走るチェンロック通りと南から東へと走るスルタン通りの交わった辺り、コタラヤ・ショッピングコンプレックスの向かい側の角に、"マリーブラウン"という地元のファースト・フード屋があった。スルタン通り側の向かいにはこじんまりとした"明治屋"がひっそりと営業していた。
 マックやKFCに対抗した地場のファースト・フード屋らしく、店の造りも、メニューもハンバーガーやチキン等似たり寄ったりだったが、地場的特性とばかりライス物もあった。中国系の店ではなく、マレーシア系のようで、メニューにビーフもポークもなく、チキンや魚等の所謂"ハラル・フード"、イスラム・フードなのだ。僕が窓際のテーブルでペプシを飲んでいた時、インド系や中国系の客に混じって、大きな鞄を持った一人のマレー系のサラリーマンが坐っていた。テーブルの上には何もなかった。それでも結構長いこと頑張っていたけど、ラマザーン時期はそんな事も許されるのだろう。
 テーブルの上に、marrybrownのロゴの入った"SOS CILI"というチリ・ソースの瓶が置いてあった。紅い唐辛子の実が三つ描いてあって、ライス・メニューの"ナシ"と思い合わせて、如何にもマレーシア情緒ってところであった。SOS、はじめ危険なほど、猛烈に辛いのでSOSかと独り合点していたけど、後になって"チリ・ソース"のソスなのに気付いた。

 1998年当時は如何だったか定かでないが、1981年に出来たこのチェーン店も今では、中国・インド・中東そしてイランまで250店舗も展開しているという。国によってメニューに地域的特性が生かされいるということで、"瑪利朗"の当字で出店している北京の店では、しかし、イタリアン・パスタなんかあるらしい。
 あくまで、ハラル・フードという特性のため、台湾が中国中に展開している"ディコス"には及ぶ由もないけど、それなりに健闘しているようだ。何しろ、イスラム人口相当なものだから。

 MARRY BROWN  (Dec.1998)
  value meal 超値套餐
 A チキン・バーガー、フレンチフライ、ペプシ RM5.69
  B  フィッシュ・バーガー、フレンチフライ、
   ペプシ                                                RM5.69
  C  3ピースフイッシュ・ナゲット、3ピースプラ
   ウン・フィンガー、フレンチフライ、ペプシ    RM6.39
  E  ナシ・マリーブラウン、ペプシ          RM5.89
 
  マリーブラウン・サンデー              RM2.20
    バナナ・スピリット                    RM3.80
  ペプシ、7アップ、ミリンダ、ルートビール    RM1.60
                  

                                  

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2009年1月10日 (土)

《パラダイス・ナウ》 天国のゆらぎ

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   年末からイスラエルのガザ地区爆撃が喧すしかったが、イスラエル占領下のヨルダン川西岸、パレスチナ人の町ナブルス、ここに住む二人の青年の、イスラエルの要衝テルアビブでの自爆テロを巡る物語。
 日毎、銃撃や爆発が起きているナブルスや平穏なテルアビブでの現地撮影を敢行したという。プロデューサーの中にイスラエル人が居たから出来たのであろうか。監督のハニ・アブ・アサド自身イスラエル育ちのパレスチナ人で、彼のパスポートはイスラエルのものという。

 日夜イスラエル軍による厳しい監視や攻撃に晒されている周囲を壁に囲まれた緊張し閉塞したナブルスの町で、他に仕事もなく、仕方なくしがない中古車販売会社で働いている幼馴染みのサイードとハーレド。
 ある日、自爆テロ志願の連絡係のジャマールから、二人に翌日のテルアビブでの自爆テロが決まったと伝えられる。
 二人は決行の事は伏せたまま自宅で家族との最後の夜を過ごし、翌日、ジャマールに連れられてアジトへ。
 先ず、自爆テロ宣言のビデオを撮影。更に、長髪をイスラエル兵の如く短く刈り、体毛も全て剃って、胴体に爆弾を巻き付けられる。下側に附けられた紐を引くと自爆し、その爆弾帯を外そうとしても自動的に自爆するという。
 自爆攻撃を恐れてイスラエル兵達は遠くからでも見境無く撃って来るので、出来るだけ彼等に近づき、少しでも多くのイスラエル兵士達を道連れにする旨教示される。結婚式に赴くという口実用に、黒の背広の上下身で身を包む。それから、一同で最後の晩餐ならぬ会食。

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 境界の金網の間から、二人はイスラエル領内に入る。
 すぐ先に組織が手配した男がテルアビブまで案内する手筈になっていた。が、二人が車に近づこうとすると、向こうからイスラエル軍の車両が突然現れ、ガイド役の車も逃げだし、二人も逃げ出した。只、逃げ出すタイミングがずれてしまい、それが二人のその後の行方を左右することとなってしまう。
 最初からやる気満々のハーレドはまだ元の場所に停まっていたジャマールの車に飛び乗ることが出来、急いで町に逃げ戻れた。しかし、途中草むらに隠れたサイードの方は、ハーレドとはぐれ、打ち合わせにない事態に途方に暮れてしまう。初めはそれほど積極的でもなかったサイードだったが、それでも、今更引き返すわけにも行かず、一人決然と、再びフェンスの間を通ってイスラエル領内に入り込む。漸く近くのバス停まで辿り着けた。バス停には既にイスラエル人の子連れの主婦や大人達がバスを待っていた。さて・・・やがてバスがやって来るが、乗り過ごし、結局町へ後戻りしてしまう。

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 後は、サイードとハーレドの自爆テロへの姿勢が入れ替わるという、些かお決まり的手法でもあるが、何たって、現実のパレスチナ的状況を前にしては、それでも十分にリアリティは有り、最後は、サイード一人でテルアビブでの自爆テロ決行に赴く。画面では無いが、テルアビブのメインの通りをゆっくり走って行く兵士達の姿の多いバスの中で、確実に爆弾の紐を引くことは出来たろう。
 実は、サイードの父親は、インティファーダ(1987年のイスラエルに対するパレスチナ人の民衆蜂起)の時、イスラエル軍に脅され裏切った密告者として、射殺されてしまっていた。家族を守るための父親の苦渋の選択であった。その当時まだ十歳だった彼はそれがトラウマとなっていて、何としても、父親の汚名を濯ぐという意味もあったろうが、同時に、イスラエルから受けた加害をイスラエルにお返しするという意味もあった。

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 映画では、殺戮と報復の出口のない連鎖として捉えられているが、宗教に裏打ちされた自爆テロじゃあ、やっぱり勝てないし、現実世界的"解放"には到底至り得まい。逆に謂うと、それだけパレスチナの青年達って底なしに閉塞した境遇に置かれているって訳であろう。この現実の地獄から何としても抜け出したい故の、非力な自分でも可能な唯一の自己救済が自爆テロであったのだ。
 
 翻って、昨今の日本を見るにつけ、秋葉原事件始め一連の社会的テロルと謂えなくもない行動、その有り様や程度こそ違え、その底に流れている響きは同じであろう。恐らく、彼等に爆薬と自爆装置の術があれば実行したろうし、恐らく、自爆の場は、意外と秋葉原等ではなかったかも知れない。           
 アブ・カレムという組織の指導者、何処かで見た顔と思ってたら、ジェイミー・ホックス主演のハリウッド映画《キングダム》で、サウジの捜査官アル・ガージー大佐を演じていたアシュラフ・バルフムであった。ハリウッド映画のお決まり現地スタッフのステレオ・タイプ役であっても、それなりに様になっていた。勿論彼もパレスチナ人。

 サイード   カイス・ネシフ
 ハーレド   アリ・スリマン
 スーハ    ルブナ・アザバル
 ジャマール  アメル・レヘル
 アブ・カレム アシュラフ・バルフム
 サイードの母 ヒアム・アッバス

 監督  ハニ・アブ・アサド
 脚本  ハニ・アブ・アサド、ベロ・ベイアー
 撮影  アントワーヌ・エベレレ
 制作  レゾナント   仏・独・蘭・パレスチナ 2005年作品

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2009年1月 5日 (月)

阮玲玉《神女》 1934年

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  1935年3月20日の未明、「死ぬ事は恐ろしくないけれど、人の言葉は恐ろしい」と遺書を残し、当時人気絶頂だった女優・阮玲玉ルアン・リンユイ(25歳)は多量の睡眠薬を飲んで自殺した。何よりも大切にしてきた親子三人の生活、その老いた母親とまだ幼い養女・小玉を残して。
 
 彼女が主演した新人監督・蔡楚生の新作《新女性》で俗悪新聞(黄色)の記者達に逆恨みされ非難され、その上長年つきまとってきた張達民が嫉妬と困窮で富豪の愛人・唐季珊との関係を不義罪で告訴したりして一層騒がれ、更に又女癖の悪い唐季珊から有形無形の仕打ちを受け続け、精神的に疲弊し切ったのであろう。蔡楚生はじめ周辺の男達の誰一人として孤立無援の彼女に救いの手を差し出せるような者も居なかったという。奇しくもその日は丁度"国際婦人デー"だったらしい。葬儀には何十万ものファンが参列したという。

 この時代の中国映画はまだサイレントで、阮玲玉は結局トーキーには出れずに終わってしまった。彼女の声が残ってないのが残念。白黒画面は、華麗さはないが迫力があり、実際には弁士がセリフを喋りはするがやはり登場人物自体は沈黙したままなので迫力が一層際だってくる。特に初期の頃のサイレント映像はおどろおどろしいくらい。僕の持っているVCDにはこれはオリジナルなのだろうが音楽(サウンド)が入っていて、その上、ビデオを制作した業者が追加したのであろうセリフと擬音が時折想い出したように聞こえてくる。これはサービスなのだろうが、そぐわない。

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 夜毎、娼婦(阮玲玉)は、上海の通りに佇み客を取っていた。
 裏通りのアパートの一室に、まだ生まれて間もない乳飲み子を残して。その子だけが、彼女の唯一の拠り所であり希望であった。
 ある夜、警察の一斉取締まりがあり、彼女も追われて、路地裏の見知らぬ民家に逃げ込んだ。部屋に赤ん坊を残したままなので決して捕まるわけにはいかなかった。
 と、そこは何と、チンピラ(流氓)の老大の棲処であった。
 腹の出っ張った大男で、ニヤニヤしながら傍に寄ってきて、匿ってやったんだからと迫ってきた・・・
 彼女が忘れられないのか老大、手下を引き連れ、彼女のアパートを突き止めた。いきなり彼女の部屋に入り込み、用意してあった彼女の食事を、味が悪くなかったからか早速手下達と酒まで買ってきて食べ始めた。その日以来、老大が我が物顔で出入りするようになり、彼女の稼いだ金まで持っていくようになったが、彼女には如何しようもなかく、泣き寝入りするしかなかった。

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 やがて、子供も成長し、学齢期に至ると、彼女は、何としても無学な自分と同じ境遇に追いやりたくない一心で、他に隠す場所とてない一室きりの部屋の中の、一枚外れていた壁の煉瓦の奥に、せっせと稼いだ金を貯め始めた。その内、近くの小学校に息子は通うようになった。下校時間になると、他の親達に混じって子供を迎えにいった。アパートの部屋で勉強に励んでいる子供の姿が彼女には何物にも代え難い喜びであった。
 
 そんなある日、学校で、親を呼んでの学芸会が催された。彼女も嬉しそうに生徒達が唄ったり踊ったりするのを眺めていた。やがて、彼女の息子が前に出て、一人で歌を唄い始めた。その歌唱の素晴らしさに彼女も他の親達も感心して聴き惚れている中で、彼女の隣人がそれに嫉妬し、周囲に彼女の夜毎の商売の事を吹聴して廻った。忽ち俗悪な親達の人口に膾炙し拡まっていった。そして、それは学校側への批判にまで発展していった。卑賤な職業に従事している親の子の為に、他の子供達が汚染されるという何処の国でも見られる低劣な愚論を振りかざす親達に、学校側も決断を迫られる。即刻退学させるべきと理事達は同調するものの、一人校長は留保し、先ずはと彼女のアパートを直接訪れ事実を確かめる。しかし、彼女は、他に生活の術のない私に如何しろというの、貧乏人の子供は学校にも行けないの、と懸命に訴える。校長は了解し、放校にはしないと約束する。

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 ところが、息子が学校に行くと、放校処分の通知書を手渡されもう明日から来ないでいいと教師に言い渡されてしまう。理事達が校長の意見を排除してしまったのだった。女は怒りを覚えはしたものの所詮せんない事、息子と二人でトボトボと家路についた。
 部屋の窓から上海の夜景を二人で眺めながら、女は決意する。
 何処か遠い自分の商売のことを知られてないに移り住もうと。早速壁に隠した金を取り出そうと煉瓦を外してみたら、あろう事か、包み紙だけで一銭も無かった。女は血相を変えて、老大の行きつけの賭場に走った。長年コツコツと貯めてきた息子の教育費、老大は殆ど失っていた。喰い下がって老大に叩かれた女は完全に逆上し傍に転がっていたビール瓶で、息子の前途・将来をドブに放り捨てた流氓の頭に渾身の一撃を喰らわせた。と、巨漢の老大、それっきり起き上がることもなく、頓死してしまった。

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 法廷で女は12年の実刑判決を受ける。
 監獄に校長が面会に現れた。女は不実をなじった。校長は謝りながらも、息子は施設でちゃんと教育を受けさせるから心配ないと告げる。女は安堵し、校長に依頼する。
 私が死んだことにして欲しい、と。
 私のことが知れると、息子が先で一生苦労することになるから、と。校長は大きく頷いた。
 鉄格子の奥で女は、いつの間にか息子の姿を想い浮かべていた。
 そうだった、離ればなれになっていても、否、もうこの先二度と会うことがなくても、心の内で、いつも息子と一緒なんだ・・・                                                          
 冒頭の「死ぬ事は恐ろしくないけれど、人の言葉は恐ろしい」は、有名なセリフで、魯迅すら一文を認めているくらいだが、どうも実際は、女たらしの豪商・唐季珊が、阮玲玉の直筆の遺書の内容が都合悪くて、自分ででっち上げた偽物のようだ。比較的最近になって、本物の遺書が発見されたという。内容は可成り唐季珊にも張達民にも辛辣であったようだ。常に華やかで周囲にそれなりの男達が取り巻いていたにも拘わらず、彼女は何とも男運が悪かったようだ。
 二人を訴えた張達民だったが、判決は無罪で、張達民の敗訴となった。世間の眼も厳しくなり、香港に移り住み、1937年沈吉誠監督で《誰之過》という阮玲玉の死を題材にした映画の張達民の役を自身が俳優として演じたという。翌年病死。
 彼女の死後も唐季珊女癖が悪く出入りが激しかったようだ。それでも、阮玲玉の母親と養女の小玉は引き取って養ったらしい。小玉、写真だと愛くるしい眼の可愛い娘だが、名が唐珍麗となり、学校を出るとタイの方に移り住んだとか。
               
 因みに、子役の黎鏗、当時の名子役だったらしい。母親が阮玲玉と《一剪梅》で共演している女優の林楚楚。

 阮玲玉  娼婦
 黎鏗   息子
 章志直  流氓・老大
 李君磐  校長

 監督  呉永剛
 脚本  呉永剛
 撮影  洪偉烈
 美術  呉永剛
 制作  聯華影業公司 1934年作品

阮玲玉と養女・小玉

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2009年1月 1日 (木)

地獄の黙示録(特別版2001年) 

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  1979年作品のこの《地獄の黙示録》Apocalypse Nowほど、興味深く且つ話題の多い映画も珍しいだろう。
 更に、2002年に、ディレクターズ・カット"Redux"が出され、最初の1979年版と随分と感じが違ってしまっていて、些か戸惑を覚えてしまった。往々にしてディレクターズ・カットって、オリジナルの余分な贅肉を削ぎまくった劇場公開版と異なり、冗長になりテンポも遅くなりがち。水増しされふやけてしまうのだ(勿論そうならない場合もあるが)。タイの《スリヨ・タイ》みたいに元々が三時間の劇場上映が、ディレクターズ・カットだと倍の六時間なんて、さすがちょっと勘弁して欲しいって感じだが、これだともう準-未編集版って趣で、すっかり編集監督にでもなった気になって、あれこれ何処を削るべきかなんて、編集ソフトを使って自分用の"スリヨ・タイ"を造ろうかなんて本気で思わされてしまいかねない。

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 ベトナム戦争は反戦フォークやサイケデリック・カルチャーと共時的で、当然それは"ドラッグ"・カルチャーをも意味した。僕が最初にこの映画を観た時、ベトナム戦争を舞台にしたサイケデリックな"ドラッグ・ムービー"だと思った。ドラッグ・カルチャーの申し子"ドアーズ"の極北"ジ・エンド"の正に"ブルー・バス"=プラスチック・ボートPBRに乗ったエキセントリック且つサイケデリックなロード・ムービーと云うべきか。当時的語彙でいえば、ヒッピーというより、戦争=政治性を有ったイッピー風。
 元のオリジナルは、ジョン・ミリアスとジョージ・ルーカスのアイデアだったらしい。この二人じゃ、余り大した物は期待できない。それなりに金は稼げたかも知れないが。

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 やはり、コッポラだったから、そして様々なアクシデントが次々に起こり、マーロン・ブランドが我が儘言い放題で駄々をこねまくり、デニス・ホッパーはドラッグ三昧、マーティン・シーン始めスタッフ・キャストが次々と病に倒れ続けたりの遅滞延々で、その間に入り込んだ色んな要素が入り乱れてのカオス状態の中でこそ出来得た作品だろう。この作品の面白さはそこら辺にあると思う。何よりも撮影現場自体が、"泥沼"と化していたのだ。"泥沼"とは、当時のベトナム戦争の定冠詞あるいはベトナム戦争自体を意味していた。

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 ディレクターズ・カット版では、フランス植民地時代からのプランテーションを守り続けているフランス人入植者一族とその私兵達が登場する。'79年版では完全にカットされていて、ここでは、フランス人達の口を借りて、ベトナム戦争に対する批判を展開している。「ベトコンは、フランス植民地時代にフランスに対抗するため当時の米国政府が作り出した反-フランス組織ベトミンがその前身なんだ・・・」と、ベトコンを作ったのが米国であることをウィラード大尉に教示する場面がある。CIAであるウィラード大尉はその事実を初めて知り戸惑ってしまう。
 勿論、コッポラも単純にそう考えている訳でもないだろう。あくまで、映画的に戯画化し、図式化しているに過ぎまい。事実的には、米国子飼いの南ベトナムのゴ・ジンジェム政権なんかと違って、あくまで側面的援助と利用であったろう。それは又、米国だけでなく英国始め日本を含めた欧米列強の常套手段でもあった。 米国がカンボジアのポル・ポト、所謂"クメール・ルージュ"を支援してきたのも同様にそんな姑息な手練手管に過ぎない。アフガンのムジャヒディーンの一方の英雄・マスードの死も、私見するところそんな類であろう。

 '79年版では特設ステージでのパフォーマンス・モデルと観客でしかなかったのが、ディレクターズ・カットでは、そのプレイ・メイトのモデル達と単なる慰問団から慰安婦的関係になってしまっていて、これには些か興醒を禁じ得ない。確かに、アメージング・パークと化さされた戦場であってみればそんな夢想的現実も有りなのかも知れないけど、PX(売店)で喧嘩腰で手に入れたジーゼル・オイル缶を、プレイ・メイトを抱くためにそのオイル缶と交換するなんてちょっと考えられない。リアリズム・整合性を基準にして考えると、この場面は、どうにも浮いてしまって蛇足に過ぎてしまう。先のプランテーションのフランス人女と一夜を伴にするってのも何ともそぐわない。これらの要素は、しかし逆に、コッポラ達のオリジナルの着想、戦争の"アトラクション"化、アメージング・パーク化の中で見るなら十分に成り立ち得るだろう。夢を叶える場だからだ。

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 ウィラード大尉    マーティン・シーン
 カーツ大佐      マーロン・ブランド
 報道カメラマン    デニス・ホッパー
 キルゴア中佐     ロバート・デュバル
        
 監督 フランシス・F・コッポラ
 脚本 ジョン・ミリアス、フランシス・F・コッポラ
 撮影 ヴィットリオ・ストラート
 音楽 カーマイン・コッポラ、フランシス・F・コッポラ
 制作 ディレクターズ・カット特別版 2001年 (オリジナル版1979年作品)

Apocalypse_3

Apocalypse_6

Apocalypse_9

Apocalypse_8

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