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2009年2月の8件の記事

2009年2月28日 (土)

《イン・ディス・ワールド》 ペシャワール=ロンドン

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   嘗てアフガン国境近くのパキスタンの町ペシャワールに頻く行っていた頃、新市街の宿に居たせいでサダル通りをちょっと西に向かうとトライバル・テリトリー手前に幅の狭いアフガン人達のバザールがあり、足繁く通ったものだった。それでも、もっと遠いところにある難民キャンプには数えるほどしか訪れたことがなかった。
 アフガンでそれなりの規模の商売を営っていたアフガン人達はペシャワールでもそこそこに商売は続けていたようだ。レストランやカーペット、ハンディー・クラフト屋等々。しかし、大半のアフガン難民達は使用人・労働者でなければ、見つかればバキのポリス達に追い払われる路上での商売がいいとこだったろう。恐らく安い賃金の。

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 ソ連・米国による長年のアフガニスタンの破壊のため、疲弊したアフガンにもはや希望も見出せず、外国に活路を求めようとするアフガン人達も年々増え続けているらしい。
 監督のマイケル・ウィンターボトムはそんなアフガン難民の違法渡航に声援を送りたくて、この映画を作ったという。
 当然そんな内容なので企業がスポンサーにつくはずもなく、資金も乏しく、スタッフも僅少、役者も現地採用。BBCなんて名を見て些か後悔したが、しかし、何しろ懐かしいペシャワールやアフガン人達の姿が画面に現れるとつい見入ってしまい、それなりに面白く作れていて最後まで観てしまった。配給だけなのかも知れないが、最後までBBC臭さがついて廻ったが、それはご愛敬ってところ。主演のエナヤットとジャマールは本名で本当のアフガン難民。二人とも公募で採用したらしい。

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 ペシャワール郊外のシャムシャトゥ・アフガン難民キャンプで青年エナヤットがロンドンに不法移民することになった。(これは、比較的最近出来たといわれるニュー・シャムシャトゥのことだろうか) パシュトン語だけしか喋れない彼に英語の話せるジャマール少年が付いてゆくこと運びとなった。
 親がブローカーに金を払わねばならず、早速ペシャワールのオールド・バザールの両替屋が軒を連ねた一角に赴く。ドルとルピーに換金。映画は2002年頃らしいけど、以前僕がここで幾らもないルピーを渡すと五百アフガニー札の束が返ってきた記憶がある。
 彼等は違法入国の不法移民なので且つ予算も僅少故、もう"陸路"でヨーロッパに入るしかない。つまり、パッカー達とほぼ同じコースを通って。
 ペシャワールからトライバル・テリトリー(嘗ては悪路で結構大変だったらしいけど、敢えてこのコースを選んだパッカーも居た)を突っ走ってクエッタへ。そしてクイ・タフタンを通ってイランに入国しザヘダンへ。そこにも、ブローカーの男が、テヘラン行きのバスの手配をしてくれていた。勿論あれこれとジャマール達の弱みにつけ込んでボってくる。
 ところが、チェック・ポストでポリスにアフガン人と見破られ追い返されてしまう。イランって、相も変わらずチェックに次ぐチェック体制を続けていたのだ。やがてテヘランに到着。そこから、トルコへ入り、イスタンブールへ。そこで、暫く待たされスプーン工場で働かされる。宿の窓から下の通りを歩くイスタンブールの人々の平和で幸せそうな姿を見、エナヤットは何を思ったであろうか。劇中では一人ものを演じていたが、実際にはシャムシャトゥの難民キャンプに三人の子供が居るという。
 イスタンブールからは、しかし、陸路ではなく、コンテナ・トラックの荷台の中に設えられた箱の中に隠れ、船で地中海を渡ってイタリアに向かうことになった。密封した箱の中にジャマール達や他の密航者達が何人も詰め込まれたために、当然に酸欠になってしまい、港の倉庫でコンテナを開けた時には、只二人、ジャマールとトルコ人夫婦の連れた赤ん坊以外の全員が死体となって横たわっていた。エナヤットも二度と返らぬ人となって。

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 それでも一人になってもジャマールはロンドン行きを諦めず、とうとう人の財布を盗んでその金でフランスまで赴き、更にロンドンのレストランで働いていた同じ密航者とともに、大型トラックの車体の真下に潜り込み、とうとう念願のロンドンに到着。
 実際に、ジャマールも移民としてロンドンで働くことになったらしい。但し、十八歳になる前日までには国外に退去しなければならないという限定付きの特例として認められたに過ぎない。
 だからもうとっくに期限は過ぎていて、今現在、ジャマールは英国以外の国に移ったか再びペシャワールの難民収容所に戻ったかであろうが、当時、バキ政府はジャマールの入国を認めてなかったので、さて。勿論タフなジャマールのこと、ふてぶてしく何処かで元気に働いているだろう。

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 嘗て中国新疆ウイグル自治区のカシュガルの安宿のドミでフンジエラール峠を越えてやってきた三人組のバキ人達と一緒になったことがあった。出稼ぎ組で、ノッポの痩せと色白のデブそしてリーダーらしいの老爺。孫悟空の三人組を想わせ笑わせたが、ある日そのリーダーの老爺がベッドの上に胡座を組み淡々とした口調で僕に尋ねた。
 これから日本にでも行って働きたいんだけど何処か好いところはないか? 
 ビザは有るのかと尋ねると、無いと答え、日本は以前と違って五月蝿くなっているから止めた方が好いと老婆心で忠告した。と、老爺は、じゃあ韓国かタイにでも行こうと言い出した。それは、しかし、確固として自信に満ちた言葉であった。恐らく、彼は以前にもそうやってあっちこっちの国に入り込み稼いできたのであろう。泥縄式であっても、何とかなる術を有っていたに違いない。最悪の場合、しかるべきルートを通せば、何とかはなるんだろうし。最初は驚きを禁じ得なかったものの、最後には感心してしまった。そんなものなんだろう、と。
 それでも、実際には、エナヤットみたいに中途で斃れてしまう人々もいる。コンテナで酸欠死は頻く聞く話だ。日本に密入国しようとして酸欠死した中国人達も居た。まだEUが出来る以前だったか、トルコの不法就労のグループが家族を連れてヨーロッパまで行く映画があった。アルプスか何処かで吹雪の中を追われついには全員逮捕されたのか、寒さに堪えられず死んでしまった幼子を抱えて主がポリス達の元へ現れるシーンが印象的だった。

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 このDVDの特典映像の中に、ペシャワールの新市街のサダル通りの手前側から通りの向こうのGPOや屋上にSUZUKIの看板のある一角を映した場面があった。
 あっ、と思わず驚いてしまった。嘗てと少しも変わらぬSUZUKIの看板なんかの佇まいも懐かしいが、ゆっくりパンしてゆく手前側の建物の屋上のどれかが、嘗て知る人ぞ知る"カイバル・ホテル"の屋上だからだった。しかし、何度ためつがめつ見返してみてもはっきりしない。嘗てと雰囲気が異なっていて、銀行に変わってから屋上も改造してしまったのかも知れない。狭い通路を隔てた隣のカニス・ホテルの屋上で、料理人のアフガン人の親父さんが肉や野菜の下ごしらえしている姿が覗けていたのを記憶している。 偶々ビデオ屋で眼にとまったこのビデオ、ひょんなことから、意識の端に押しやられていた旧い記憶を想い出させてくれ、束の間の小旅遊を堪能させてくれた。

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 ジャマール・ウディン・トラビ
 エナヤトゥーラ・ジュマディン

 監督   マイケル・ウィンターボトム
 脚本   トニー・グリゾーニ
 撮影   マルセル・ザイスキンド
 音楽   ダリオ・マネアネッリ
 制作   the Film Consolution    2002年制作(英国)

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2009年2月25日 (水)

15000円で蘇州へ !  ゆるゆる船旅

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   たった二ヶ月間の"門司港=釜山"定期フェリーに唖然としてしまって、ふともう一つの、戦前から有名な"関釜フェリーを下関に確かめに赴いた。
 下関JR駅のちょっと先にそのフェリーターミナルはあった。 金をかければ好いという訳ではないけれど、一体如何いうつもりで開設したのかその真意を疑いたくなってくる門司港のプレハブかと思えるようなチャチなカスタム・ハウスに較べて、"まとも"に定期便を運営しようと云う意志が窺えられた。神戸の上海路線のフェリーターミナルにもひけをとらないくらいの立派な建物であった。
 時間が少し早かったせいもあってか、まだ窓口は開いてなく、たった今開けたばかりといった感じの売店と小さな喫茶コーナーも備わっていて、メニューに"うどん"や"チャンポン"まであった。何ともローカルな感覚だけど、以前韓国の空の玄関・仁川国際空港にトランジットで降りた時、レストランにやはり"うどん"のメニューがあったのを思い出した。何故韓国でうどんなのか、思わず小首を傾げてしまった。

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 無人の薄暗いチケット売り場の窓口を見ると、関釜連絡船や中国の青島行きは当然として、もう一つ売り場があった。何と、中国は蘇州(太倉港)行きの定期便があるではないか。蘇州といえば、上海のすぐ北。長江(揚子江)に面した太倉(タイツァン)港は、元の時代、世界に冠たる国際港だったところで、蘇州市や上海中心部からともに五十キロの地点に位置する。当然バスはあるんだろうから、上海には小一時間もあれば着いてしまう。
 
 片道15000円。往復で27000円。
 
 神戸・上海の"蘇州号"が20000円プラス燃料費で、大阪から下関までの夜行バスが6500円からだから、周辺の旅行者ならともかく、関西以北の旅行者には決して安くはない。エアー・チケットがその逆なので、マア、こんなこともあって好いだろう。夜行バスが窮屈と嫌う向きには、大阪・門司の阪急フェリーもある。確かこっちの方が幾分安いはず。飛ばすばかりの旅も好いけど、ゆるい船旅も時間の余裕あれば試みる価値あるだろう。
  
 暫くすると、ゾロゾロと小学高学年の、しかし、七、八人程度の極少人数の見学隊を引き連れて、ターミナルの関係者が、フェリーの模型の前であれこれガイドし始めた。濃紺のダサい制服を着た、見るからに地元の子供達然としていて、同様にデジ・カメを手にしていたとはいえ、対岸の門司港の東アジア図書館から出てきた美麗でカラフルな中国少年・少女の一団と較べようもなかった。

  下関 → 青島
水曜 12:00    16:00(翌日)  
木曜  〃   〃
 ユウトピア 350名

一等   19000(円)      34200(円)
二等A 16000        28800
二等B  15000         27000
                (朝食付き)

  下関  →  蘇州(太倉)
日曜 17:00      08:00(翌々日)
 ユウトピア2 475名

一等  19000     34200
二等A   16000     28800
二等B   15000     27000
                (朝食付き)

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2009年2月23日 (月)

《OK ベートン》 還俗僧、衆生に生まれ変わる

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   今もってタイ南部では、連日銃撃やら斬首やら爆発事件が続いていて、一向に解決どころか首府バンコクにすらその触手が伸びはじめ、インドのカシミール並になってしまっている。
 宗教、民族、経済格差、政治的経済的策謀等様々な問題を孕んだ紛争だけに、私利私欲に汲々するタイ権力及び周辺の類には、到底解決不能。いいとこ、金と力による誤魔化しがあるだけ。
 2000年のミャンマーのカレン族《神の軍隊》によるラチャブリーの病院占拠事件での、タイ権力の問答無用的な殲滅的武力鎮圧によって、その後のタイにおけるこの種の問題での基本線が確定されてしまった。事件当時、その手の対応は、決して問題の解決にならないどころか、逆にこじらせ長期化し悪循環と疲弊があるだけなのは誰でも分かっていたはず。それとも、"自由タイ"以来のタイ権力に巣くっている米英の影によるものなのだろうか。

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 で、《ナンナーク》のノンシー・ニミブットの2003年のこの作品、そのタイ南部も南部、最南端のちょっと歩けばもうマレーシアというヤッラー県の山間部、ベートンという小さな町が舞台。山奥といっても、朝夕アザーンが町中に鳴響くイスラム教徒の多い、カフェもあればカラオケもホテルも立ち並んでいる近代的な佇まい。そこで還俗僧タムが様々な現実的問題をまことに不慣れに不器用に通過してゆき漸く一衆生に生まれ変わる物語。

 『今こそ、これまでの人生で身につけてきた一切をうち捨てる用意をしなければならない』(ブッダ)

 というテーマが冒頭提示される。実際には、これは実社会の塵を払い捨て出家する時の言葉であるが、それを逆に使っている訳で、その過程を中心に据え、南部(だけに限ったことではないのだろうが)問題が不可避の契機として設えられている。そして、仏教徒タムが、同時に一般的つまり大半のタイ人(=仏教徒)としても定位されている。要するに、一般のタイ人達にも同じことを問いかけているって訳だろう。確かに、問題は、それほどに切実且つ容易ならざるものだ。これはタイだけにとどまらず、すぐれて全世界的な課題でもあって、2001年の9.11ニューヨーク同時多発テロ事件もその好例だ。

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 近代に入って欧米の近代主義にタイも、特に王族・権力・エリート達が一方的に染まってしまい、国家=国民のナショナリズムを造り出し煽り立て続けてきた。タイで一番最初に住んでいた先住民たる東北イサーンの人々ってラオ語らしいし、北部山岳民族、チャンパ、クメール系、南部マレー系等々の存在・個性を無視してきた。
 《スリヨ・タイ》の頃にはまだタイもようやくこんな大型時代劇も作れるようになったのかといっぱしのタイ通気取りで隔日の感に酔い痴れもできたろうが、又ぞろ王族の《ナレス・ワン大王》で見え見えのナショナリズム宣揚のための映画でしかないのが確然としてしまった。こんな救いようのない状況故に作らざるを得なかったのか、あるいは南部を舞台にしたら嫌でも直面してしまったのか。尤も、ノンシー・ニミブット監督にも近作《The Queen of Langlasuka》って王様映画があるけど未見なのでどんな内容か定かでない。

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 ある日タイ東北部のある僧院に起居する青年僧タムの処に一通の通知がもたらされた。南タイのベートンに居た彼の実の姉が、南部問題での列車爆破事件の被害者となってしまったのだ。
 姉はベートンで美容院を経営していて、彼女には一人娘が居たのだが何しろまだ七歳の少女、彼がその娘の面倒を見ながら店を継がざるを得なくなった。還俗を余儀なくされてしまった。
 ベートンでの姉達列車爆破事件の被害者達の合同葬を了え、女ばかりの美容院に戻り姉の部屋でマリアと一緒に生活してゆくことになる。僧としてパンツすら身につけたこともなかったタムはまずパンツを履くことに慣れることから始めざるを得なかった。初日パンツも身につけずにズボンを履いたため一物をジッパーで引っかけてしまい大騒ぎ。そんな時も、姉と親しかった近くのカラオケ・クラブの親父ワンが、親身にあれこれタムの世話をやいて呉れた。ワンのカラオケ・クラブで歌手をしている彼の娘フェーンもタムを気に入って、むさい服から自分好みのナウい若者風のファッションに変身させる。

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 ワン同様姉と親しかった近所の旅行代理店で働く娘リンも、姉の娘マリアの面倒をみながらタムにも親しく接して呉れる。タムは忽ち清楚で美人のリンに惚れてしまう。リン役のジーラナン・マノジャム、細っそりとした日本人風な相貌でもあるが仲々楚々とした美形。イスラムのスカーフも好く似合う。
 幼いマリアは、やがて、隣国マレーシアの長年疎遠であった父親カセムの元に引き取られることになる。リンにも、ファレクという恋人がいたのだが、イスラム過激派となってしまっていて、彼の属する組織が件の列車爆破事件に関わった可能性も窺えた。タムと一緒にリンは郊外の山中にある廃坑に隠れたファレクに会いに行くが、リンが爆破事件をなじり、互いに感情的になったままもの別れ。それでも、後日、ファレクからタムに秘密裏に合い来て、リンへの手紙を託される。やがて、ファレクはイスラム団体の幹部達に付き添われて、警察に自首して出る。
 今まで戸棚に置いてあった僧衣もやがて何処かに仕舞われ、美容院の若い経営者として、塵世の一衆生タムの新しい人生が漸く始まったのだ。

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 それにしても、過激派が警察に自首ってのは、早い話何の解決にもなるはずがなく、《神の軍隊》事件の経験もまるで意味がなかったと思われても仕方がない。勿論監督ニミブットの事だけど、さすがにこれには白けきってしまった。別にこの映画、政治性を前面に出した造りではないけど、今のタイではそれ以上は仲々踏み込めないのだろうか。
 《ナンナーク》とは又違った味わいの佳作で、ペンエークよりは大衆受けするノンシー・ニミブットの次回作を期待したい。

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  タム   ポーバリット・プンプアン
 リン   ジーラナン・マノジャム
 マリア  サランヤ・クルエンサイ
 ファレク アタポーン・テーマコーン
 
 監督  ノンシー・ニミブット
 脚本  ノンシー・ニミブット
 撮影  チャンキット・チャムニヴィカイポン
 美術  エーク・レムチュエン
 制作  シネマシア 2003年作品

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2009年2月18日 (水)

金子光晴《どくろ杯》 旅先の本

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   《どくろ杯》という如何にも禍々しいタイトルの故にか、旅行者の間でも結構その名を知られている青年的彷徨の軌跡とでも謂うべき詩人・金子光晴の鬱々たる旅行紀。
 以前エジプトのカイロで出遭った自称パンクのN君に読み了えたこの文庫本をプレゼントしたら、後ルクソールで再会した時には、パンクは辞め、アナルシスト(アナーキスト)のN君になっていた。

 中央公論社版の1971年の「あとがき」に次のように金子は認めている。
 
 「むかしの人間は、眼にみる限界が狭く、処理に自由さがなく、さほどでもないことに拘泥してみずからの足掻きがとれず、好んで壊滅を志すのかと疑われるような人生を歩く者が多かった。今日の人の参酌のたすけにもなろうかと、前車のくつがえるいちらつに筆を染めはじめ・・・」
 
 「船舶航路は、およそポートサイドまで、多少の日本人の息がかかっていて、窮状を助けてくれる人、さらに志を励ましてくれる人さえいたが、所謂西洋に入ると人情は変わり、例え在留の日本人がいても、みなおのれの生きてゆく方途に心命を疲らせている連中ばかりで、おなじ魔の沼にひきこまれて這い出ようとあがくばかりの荒涼の場である。そこでどうして二年の年月を生きていたかが、誰も知りたい興であることにちがいないが、四十年近い時間を置いて、頭の冷えきった筈の今日でもなお、そのことを語るとなると、こころが寒々としてくる。」

 視界が狭いから処理の幅も狭いのは、戦後の今日まで一向に変わることもない厳然とした事実で、単なる修辞に過ぎない。それゆえに、老爺金子光晴は変わったはずの戦後社会を見るに見かねて敢えて嘗ての己のが拙い蹉跌を開示してみせたのであろう。 

 《こがね蟲》で華々しく詩壇に登場した金子であったが、突如襲った関東大震災およびその直後に起こった朝鮮人・社会主義者達に対する虐殺・迫害に震撼とし又社会も動揺して詩どころではなくなってしまったのか、活辛くなってきた日本から少しでも逃れようと西へ西へと移動し始める。

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 「大正十二年九月一日(一九二三年)関東地方に大地震があり、東京、横浜に大火災が起り、燃えふすぼった瓦礫のあいだに、十万人の焼死者が、松の木杭のように赤屑になってごろごろころがっていた。振動の恐怖はそれ程のことはないがぶちまけられた災害の地獄図の一つ一つのデタイユがたくまずして精緻巧妙を極めて人をして戦慄たらしめるものがあった。対岸の火事で本所深川べりの大川の水は湯になり大川べりはトビ口で引きあげた屍体の山となった。・・・火災による死者は十万と言われ、旋風によって頭大の大石小石が、焼けトタンといっしょに逃げ場を失った男女の上から落ちてきて眼前で全身が裂かれ、脳漿がとびちる惨状をめのあたりにしなければならなかった。
 ・・・ふりかえってみると、あの時が峠で、日本の運勢が、旺から墓にうつりはじめたらしく、眼にはみえないが人のこころに、しめっぽい零落の風がそっとしのび入り、地震があるまでの日本と、地震があってからの日本とが、空気の味までまったくちがったものになってしまったことを、誰もが感じ、暗黙にうなずきあうにまで及んだ、というよりも、地震が警告して、身の廻りの前々から崩れが重なって大きな虚落になっていることに気づかせられたといったところである。」

 金子が自分勝手に放っておいた帰結としての妻・三千代と若いアナルシストとの不倫や自身の様々な行き詰まりを何とか解消せんものと企図した思いつきから出発した海外渡航。それがやがて、二人の人生自体を良くも悪くも盲目的彷徨の淵に投げ込むこととなる。
 金子と関わる以前は三千代は、長崎の郷里では、将来を嘱望された燦然と輝く明星的存在であった。教師の父親は、それを唯一の自慢と拠り所にしていたという。それを学校除籍・妊娠という惨憺たる傷物にしてしまった金子。臆面もなくそんな妻・三千代の郷里にその後幾度となく出入りするようになるのだが、長崎から上海へは、当時、一晩の旅程で、長崎丸と上海丸が交互に行ったり来たりしていたらしい。

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 「青かった海のいろが,朝眼をさますと、洪水の濁流のような、黄濁いろに変って水平線まで盛りあがっているのを見たとき、咄嗟に私は、『遁れる路がない』とおもった。舷に走ってゆく水の、鈍い光にうすく透くのを見送りながら、一瞬、白い腹を出した私の屍体がうかびあがって沈むのを見たような気がした。凡胎を脱するとでもいったぐあいに、それを見送っている私があとにのこった。上海にはわずか二ヶ月ほどの滞在だったが、私たちのあいだで通用するのとは全く別なモラルがあることをそこで知った。」

 『遁れる路がない』とは、一切が混濁し揺らめき続ける中での切羽詰まったどんづまりの脅迫観念であり又一つの決意でもあったろう。只、そんな土壇場での意志も忽ち上海という現実の中でかそけき泡沫と溶解されてしまう。
 上海には種々様々な日本人が集まってたらしいが、数少ない成功者の筆頭が内山書店の内山完造であった。

 「鼠いろのジャケツの主人と、らくだいろのジャケツの奥さんとが、顔をみあって、私に語ったことがあった。過去の生活から脱却するために、四五人の仲間といっしょに中国にわたり、大学目薬の宣伝員となって、ハタを立て、揚子江周辺の寒村僻地をめぐりあるいて、上海に落着くまでの苦惨の話を一巡きかせてくれた。苦労というものは意識の限界に人それぞれのちがいがあって、どこからが苦労と言えるものか。
 北四川路魏威里の今日の店を開いて、内山先生は、中日双方の文化の交流に貢献したり・・・訪欧の途次などに立寄る名士などを、一夕四馬路の菜館によんで招宴をひらくのを常としたが、陪席に中国の文士たち、とぐろを巻いていた村松梢風とか、数にもならぬ私達までも末席に招かれた。これも日中の文化交流の一つであるが、正直私達は、卓料理の玩味が目的の第一で、辞退もしらず、いそいそとして出かけた。
 燕席にしろ、翅席にしろ、一卓の料理は、二十八品ぐらい,招待宴が二つ重なって、午前十一時小有天で始まり、終会時刻が三時半頃になり、休む暇なく、その足で、二つ目の陶楽春の五時の会に出かけて、七時頃まで食べつづけた時は、帰ってくるなり、大下痢で、どんなことになるかと思ったが、翌朝は、けろりとしていた。内山先生は、『それが、支那料理のいいところだ』と、じぶんのことのように得意気な顔をした。」

 内山完造の処には、当時の日本の有名文士達が頻く立ち寄ったらしい。又、当時は、欧米の文物は日本経由で中国に入ってきていて、内山書店がその中心的な役割を果たしていた。中国の先進的な思想・文学を志向する者達の溜まり場でもあり、日中の思想・文人達の出遭う場を内山完造が提供していたようだ。 
 
 「そこは、女の肉の切り売の袋小路で、嫖客になげる女たちの金切り声の罵言のなかに、日本のことばの乱暴なやりとりまでがきこえてくる。そこは、上海の土地でも名うての腐肉捨て場で、紫いろにふくれた、注射針のあとだらけなくずれた肉に鳥の群れのように男たちがたかってくる。ここまでおちこんでくる女たちの路すじは、どれもこれも胸のつぶれるものばかりだろうが、残飯にむしゃぶりついてくる浮浪者のような、男たちの欲望の意地きたなさには、もっと悲しい来歴で私ともつながりがあって、腐肉の方へ私はひきつけられる。
 人間は誰でも、汚物となるきっかけと、その辷り出しに目玉つぶる危険な性向をもっている。わずかにそれを支えているものが、なんでもない世間体だったりする。人間の汚物が汚物のなかでも、もっとも汚くみえるのは、じぶんが人間だからだという、簡単な理由によるものだろうが、じぶんの土左衛門になった姿をおもうことで、水死をおもいとどまる人間もたくさんいることだろう。」

 正に魔都・上海そのもの。
 戦後の上海もちょっと紐解けば紆余曲折・艱難流血が陋巷高楼の影に沸々としていそうだが、改革開放のなし崩しの果てに香港のお株を奪うように再び君臨するのだろうか。

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 「上海ゴロという名が、私のみずおちへんに、金印(やきいん)となってはっきりあらわれ出るのをおぼえ、私の屍体の土嚢のような重たさが日に日に加わっていって、よそに運び出せないものになってゆくのを、ひとごとのように眺めているよりほかなかった。
  ーーー どこへでもいい。先に出発することが先決だ、と私は、
自分に発破をかけたが、わるいことには、てこでもうごかない私のようななまけものに、これほど住みいい、気らくなところはまたとないのがわかっていた。
 ・・・年長な私を支えにしてすでに一つのたまりをつくり、狐のねどこのような異臭を放ちはじめているのは、困ったことであった。中途半端な連中で、いざとなれば、何の役にも立ちそうにもない無能な手あいばかりだったが、その中には、上海をふり出しに、日和をみているうちに、風が出てきて、パリでも、ナポリでも、程よいところろへ運んでいってくれる夢をみている輩で、神戸から来たダンス教師あがりや、自称アナルシストのお洒落男や、コックをしていたという若禿で小男の油絵かきや、映画のカメラマンだったという若者や、それこそ千差万別だが、共通なことは、彼等が揃いも揃って、日本語を知っていれば、世界のどこへ行っても困らないとおもっているらしいことであった。」

 日本人村バック・パッカーの基本属性を逆に云うとそうなる日本語さえ話せれば世界中怖くない症候群。実のところは、日本人の溜まり場ばかりを巡っているだけ。戦後だいぶ過った今時これでは何としても情けない。だが、戦前であれば、この自嘲めいた言葉もまだ成り立ち得たろうし、又その太々しさには舌を巻く。
 それにしても、パッカー達のなれの涯の沈没没、そこの住民にもなれず、その居心地の好さに抗する術もなく、それでいても何時でも他所へ逃げれる特権だけはしっかり握ったままの曖昧模糊とした煮え切らなさと何と相似していることか。やはり、等しくこれは旅人の心根に棲み着いた、何時発症するかも知れぬ性(病原)であろうか。

 その利便性において戦前と戦後の旅は可成りその様相を別にしているが、それでも旅に出るという契機において、所詮人間の業、種々様々人それぞれの都合と想い入れということには変わりようがなく、あとは個々千差万別の色彩があるのみ。
 それにしても、戦前の旅人達ってやはり"大胆"(ダータンと武侠映画で時々発せられる言葉)。

     《どくろ杯》 金子光晴(中公文庫) 1976年 初版

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2009年2月14日 (土)

《パープル・バタフライ》 章子怡 於 上海1931

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   チャン・ツィイー(章子怡)に《パープル・バタフライ》という作品があったのは以前から知ってはいたが、中村トオルの名があったので引いてしまってそのままズルズル未見のまま来てしまった。別に中村トオルが嫌いな訳ではない。日本人の名が出ると大抵日本の企業が関与しているのが多く、先ずはズッコケたり鳥肌が立ったりが定式。勿論中には例外もあるけど。
 で、この作品は、しかし、中国・フランスの合作ということらしく、その範疇から外れていて、チャン・ツイーの作品の中では希少なタイプの映画で、面白く観させて貰った。

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 満州帝国時代の首都・新京(長春)の娘・辛夏(シンシア)には、満州育ちの日本人・伊丹(中村トオル)という恋人が居た。反日運動も活発になり始めた頃で、伊丹は徴兵検査を受けるため日本に帰国。彼を送った直後、彼女の家の前で、反日ビラを撒きに行こうとしていた彼女の兄達に、腹にダイナマイトを巻き付けた日本人が襲いかかりダイナマイトが爆発。兄達は爆死してしまった。

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 数年後、辛夏は丁慧(ディンホエ)と名を変え、上海で反日の地下活動をしていた。"紫胡蝶"パープル・バタフライという謝明(馮遠征)をリーダーとした秘密武闘組織で、画面では、早速民間人にも多大な被害を及ぼすミスを犯しまう。
 上海駅に到着し現れるはずの彼等の未見の同志が、隣り合わせた別の客に背広を間違われてしまい、胸に紫胡蝶の刺繍の背広を着た司徒(劉燁)に謝明が声をかける。
 「先生の背広仲々素敵ですね。・・・最近買ったんです?」
 訳の分からない司徒は適当にかわそうとするが謝明も相手の顔を知らないので尚も食い下がる。と、そこに日本の特務機関員達が現れ、群衆で溢れた駅のホームで銃撃戦が始まる。 
 銃弾が飛び交う中、"紫胡蝶"の車が現れ人違いの司徒を乗せる。
丁慧も車の向かい側で自動小銃を乱射する特務を狙って引き金を引き続ける。見事特務を射殺するが、通行人の娘をも誤射し死なせてしまう。その娘こそ、人違いの男・司徒をこのホームで出迎えるはずだった恋人・依玲(李冰冰)であった。錯乱したままの司徒を乗せて車は背後から銃を乱射して追いかけてくる特務の車を振り切ろうと群衆の逃げまどうホームの上を走り続ける。
 頻(よ)くハリウッド映画で、車が人通りの多い町中や路地裏を突っ走るシーンがあるけど、普通なら考えられない無-死傷者パターン。けど、この映画では、も少しリアルに群衆が跳ね飛ばされたり脚をひき潰されたりする。

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 ここのシーン、この映画のアクション・シーンとしては見せ場で、冒頭の司徒を迎えに来た依玲がホームをゆっくり歩いてゆき、同時に線路を挟んだ向こうの(画面では少し上側に位置する)ホームに"紫胡蝶"の黒塗りの車が静かに止まり謝明や丁慧が降り立ちホームの先のこちらのホームに繋がった陸橋を昇って行く長廻しのシーンは雰囲気が醸し出されて悪くない。
 《ドラゴン・キングダム》でJ・リー&J・チェンを相手に派手な強面メイクで暴れ回っていた李冰冰(リー・ビンビン)が、この作品では随分と初心(うぶ)で可愛い電話交換手娘を演っている。それが忽ち丁慧の銃弾を浴び血塗れになって倒れてしまう。只、画面では、その後も死霊となったかの如く何回か現れる。最初、あれっ、死んでなかったのか、と驚いてしまったが、やはりそうではなく、作者のイメージ先行なんだろう。

 やがて、特務機関の新しい責任者として東京から伊丹がやって来た。満州育ちで中国語が堪能ということで特訓を受け瞬く間に出世したのだろう。 
 "紫胡蝶"の方は、特務のトップ・山本を狙っていて、丁慧が伊丹と満州で恋仲だったのを餌に伊丹に接近させる。が、伊丹も彼女の正体を承知の上かかわりを持ち続ける。只、彼女に対する愛情はまだ持ち続けていたようで、時が来れば一緒に東京に行こうと持ちかける。
 恋人まで殺された哀れな司徒、その後も反日組織と日本の特務機関との狭間で揺れ動くしかなくなってしまうが、最後には、日本系のダンス・ホールで伊丹を射殺し、自分も射殺されてしまう。
 山本と伊丹も殺されるが"紫胡蝶"の方も殆ど壊滅状態。生き残った謝明と丁慧は、反日デモの続く上海の通りを二人で決然として進んで行く・・・

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 この監督の以前の映画全て未見だけど、チャン・ツィイーを仲々巧く美麗に映している。劉燁も、主演の中村トオル以上に役者的には美味しい役柄で、この監督の特性らしい長廻しで生かされている。
 この監督、2006年作品"頤和園"で中国政府に五年間の映画制作禁止処分を受けているらしい。これも未見だけど、ブログ見ると処分受けるようなものではない、から過激な確信犯だまで評価色々。
 米ワーナーとインドとの合作映画、アクシェイ・クマール主演《チャンドニー・チョーク、中国へ行く》もインドでは既に、やがて米国や日本、海外でも上映されるはずが、万里の長城等のロケが敢行された中国での上映は未定とか。これなんか歌あり踊りありのコミカルなエンターテイメント、どう考えても、上映をグズる理由なんてまるっきり考えられない。まさか、パキスタンに対する政治的配慮なのだろうか。カラコロム・ハイウェイ以来の仲ではあるんだろうが。
 そのパキスタンですら、最近とうとうインド映画が解禁になったという。はてさて・・・

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 辛夏・丁慧   章子怡
 伊丹      仲村トオル
 謝明      馮遠征
  司徒      劉燁
  依玲      李冰冰

 監督   婁燁 ロウ・イエ
  脚本      婁燁
 撮影   王昱 ワン・ユー
  美術   劉維新
 音楽   ボルグ・レンバーグ
 制作    (中国・フランス)2003年作品

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2009年2月10日 (火)

平成・町おこし観光 あの"朋友"が・・・

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   戦前は、横浜・神戸から門司港を通って、アジア・ヨーロッパへ向かう定期船舶航路が頻繁に走っていたという。  門司港=サイゴンなんてのもあったらしい。戦後は、貨物船のみとなってしまった。神戸・横浜・(下関)と中国・韓国のダイレクト定期便は再会されたが。沖縄から台湾行きってのもあるが、本土から沖縄までが大変で、むしろ韓国・中国の方が近いくらい。(このルートには台湾から香港へ、更にずっと南下していける魅力はある。)
 
 上海だと新鑑真号・蘇州号で二泊三日ってとこだろうが、もっと間近な韓国・釜山との間に、昨年六月からあの藤原新也の郷里・門司港と定期便がオープンした。以前このブログでも記したけど、ところが、何と知らぬ間にもう既に中止(廃止ではないという事らしいが)になって久しいという。確かめに行ってみたら、果たしてカスタム・ハウスの硝子扉に一枚小さな貼り紙がしてあった。その脇には件のたった二ヶ月の寿命の定期便の華々しい大きなポスターも。
 張り紙には、フェリーのエンジンが不調の由とあった。
 しかし、エンジンの不具合なんかで半年もかかるだろうか。否、実際は今後何時再開されるかも定かでないようだ。
 つまり、本当のところは、不況・円高とかすこぶる経済的(実際は政治そのもの)理由によるもの。米国がイラクに武力侵略する前から、何が結果するか普通一人前の、あるいは第一次湾岸戦争を経験済みの人間なら誰にも分かっていたはず。
 自民党が国内向けに知らぬ半ベエを決め込んだとしても、役人までがそんなポーズ採って、それも、日韓友好なんて片腹痛い、ひたすら目先の銭儲けのみの為に、一片の必要性もない釜山との定期航路をゴリ押しして一体如何いうつもりなんだろう。地元の連絡船でたった五分で行けるすぐ対岸の下関に、以前から関釜フェリーが就航していたのにも拘わらず。(下関港からは中国の青島にも定期便がある。)
 下関に行く客を門司側が横取りするってことでしかない。そんな横車を押すあこぎな真似までしなければならない如何なる理由があるんだろう。地元の住民の意志なんだろうか。そして、たった二ヶ月での破綻。もう何をか言わんやだ。
 それに不思議に思うのは、門司港なんて小さな港町の何を観光させようというのだろうか。狭い町なので、簡単に歩けてしまう。わざわざ外国の客を呼び寄せるような何物も見出せない。日本中の町なら何処にでもあるようなものしかない。所詮が寄せ集めの擬制でしかないし、レトロな佇まいなら他の地方にも幾らでもある。役人と企業のやることは、何処までいってもそんなもの。所謂"町おこし"って自民党半世紀支配の帰結の官民あげての更なる自民党的補完作業でしかない。

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 そんな見え透いたスローガンを余所に、釜山便中止と同じくらい驚いたのは、この町にあった、《萬龍》と並ぶ藤原新也指定の中華麺館《朋友》が、何と以前の場所から店舗を移っていたことだ。例の戦前風の燻すぶった建物、これこそ草の根レトロだが、ふと頭上を見上げると、確かに前回見た時以上に屋根や壁の老朽化が進行していて明らかにやばそうではあった。
 危険だから移転したのか、あるいは、改装工事のための一時的移転なのかは詳びらかでない。この町の傾向は、レトロ、レトロと唱いながら、メイン通りに面した銀行なんかの戦前の旧い建物を崩し、まさかリニューアルなのかと訝っていたら、何のことはない普通の民間の建物が跡に建っただけという、単なる再開発にもならぬ土地売りでしかなかった。で、ひょっとして、あの由緒ある朋友旧館、無惨にも解体され、跡にはマッチ箱が建ったりする可能性が高い。改修であることを願うだけ。

 
 そう言えば、これも新也が何処かで書いていたが、萬龍の先の突き当たりの石垣高く聳えた巨大料亭・三宜楼をついチラッと見上げると、保存事業云々していた割には、何とも朽ちた感じが否めない。ここは改修工事したとかいうことではなかったのかと、小首を傾げながら入口らしい通りに面した方に廻ってみると、僕は呆然としてしまった。
 殆ど廃墟・・・(下の写真参照)
 確かに、旧い老朽化した木造建築って保存が大変なのだろうが・・・と唖然とし、ふと建物の反対方向の路地の方に向かうとそっちにもくの字に折れた石段の奥に門の様な木戸があった。あれっ、こっちの方が料亭の表門って感じしなくもない。それにこっちは燻すんではいても、さっきみたいに落魄した雰囲気はない。すると、さっきのは裏側?・・・

 それでも、この町の擬制の粋を極めたレトロ地区なる一角にある東アジア図書館に入ろうとしたら、ガヤガヤとカラフルで何とも愛らしい一団、中国の中学一、二年くらいの生徒達が現れた。修学旅行なのか、カラフルなダウン風のジャケットと如何にも健康そうな美麗な肌の娘達には思わず目を瞠った。普通の日本人の同じ年の娘より鮮やかで、皆良い処の子弟ばかりなのかと思ったが、見てると必ずしもそうではなかった。一人っ子政策の恩恵なのだろう。
 その時、すぐ思い出したことがあった。
 嘗て雲南省の大理の洋人街を、如何にも周辺の山奥からやってきたような生徒の一団がゾロゾロと、外人観光客達が談笑していたりする店の中を窓ガラス越しに動物園の檻のようにジロジロ覗き込みながら通り過ぎて行った。彼等は、地元の大理の血色の好い生徒達とは明らかに、その皮膚から相貌から着ている服から違っていて、皆一様に燻すんでいた。ふと、その時の彼等の冴えない表情が脳裏にありありと浮かびあがった。
 けど、カラフルな彼等は何処から来たのだろう。対岸からだとすると、青島近辺って処だろうか。シンガポールや香港では間違ってもなかった。そんな擬制であっても、皆楽しそうにデジタル・カメラを片手にあっちこっち写しまくっていた。

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えっ、これって保存活動中? どうやら、裏口らしい・・・それとも別物?

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 温暖化もあるけど木造の建物の保存って大変のよう・・・

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2009年2月 7日 (土)

マクドナルド   旅先のファースト・フード

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   日本マクドナルドが売り上げナンバーワンという。
 長年にわたるこの国の政府による詐瞞と無能・無責任による恒久化した"不況"のお陰で、百円ショップともどもに百二十円珈琲や百円バーガーというボトム・プライス攻勢が功を奏したのであろう。さすがに今時、元々意味はあるはずもなかった、スターバックスとの珈琲合戦なんて口にする者は居なくなった。

 本家米国のマックじゃ、日本の百円バーガーに相当するのは一ドル以下で、それも大分前からそんな価格だったらしいが、タイのマックなんかでは如何なんだろう。百円商品に対応した商品てあるんだろうか。以前は、確か、コーン・アイスクリームが五バーツだった。それが一番のボトム・プライス商品だった。女子高生なんか夕涼み代わりに教科書を片手にやってきてそのコーン・アイスクリームで頻く粘っていた。しかし、幾ら何でも、五バーツのバーガーじゃ儲け幾らもないだろうから、十バーツぐらいであろうか。

 僕が海外で一番多く利用したマクドナルドは、やはり、バンコクのである。そもそも、僕がマクドナルドの洗礼を受けたのも、このバンコクであった。(日本では間違っても入ったことはなかった。)バンコクではマックは基本的には暑熱から退避する場所として長居が出来て重宝だったからだ。
 バーガーはきっぱり不味い。
 さりとて、他のファースト・フード屋も、味はモス・バーガー以外は大差ない。最近でこそ、マックの隣の落ち穂拾いのロッテリアという正名を返上とばかりに、"絶品"戦略商品の味覚で若干の凌駕を持続出来てはいるものの、それだけで後の商品は不味い高いで、やっぱりもの。尤も、タイにロッテリアの看板見掛けたことない。ロッテリアも北京が最初でそこのフラッペは気に入っていた。

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 バンコクの中国人街ヤワラートのオールド・サイアムにある大きめのマックは例外的に場所柄を反映してか、昼間はあたかも老爺の集会場の観を呈して、爺さんだらけ。旧いオーソドックスな茶店より居心地が好いのだろうか。
 僕の場合、宿がシープラヤーというパッカーとしては特殊な場所に定宿がある関係で、スリウォン通りに面したパッポンの出口角のマックが行きつけであった。
 ここは場所柄昼間でも夜でも仲々飽きない。
 パッポンの夜店屋台の作りつけから、行き交う人々、最初仕事帰りのサラリーマンとばかり思っていたら、何かゴソゴソしてるのでふと振り向くと、小さな手鏡でアイシャドーを塗ったりしていたり、無料のコーラを片手にパッポン警備のポリスが階段を昇ってきてすっかり化粧の了えた彼の方をしげしげと眺め、物珍しそうに言葉を交わし始めたり。
 時代が下るにつれて、中国人の団体客の姿もしばしば見るようになってきた。傍若無人にまずオーダーしてないのが殆どで、申し訳程度にその中の一人か二人がセット・メニューをプレートに乗せて現れるぐらいだった。

 日本国内のマックでも事情はさほど変わらず、昼食時に現れたOL達。テーブルをくっつけて五、六人が徐ろに持参の弁当を拡げ食べ始めた。ああ、食べ了わった後で、飲み物でもオーダーするのかと勝手に推量していたら、案の定食べ了わって何人かがゾロゾロと階段を下りていった。ところが、再び戻ってきた女達の中のたった一人だけが、ボトム・プライスのコーン・アイスクリームをさも美味そうというより、むしろ得意気にすら僕には映ったが、舐めていただけであった。女って格好つける割にはつくづくセコイなーと感心してしまった。因みにそのマックの女従業員の半分は中国娘達だった。国際色あって僕は歓迎だ。そういえば、そのマックの近くの吉野屋にも見掛けた。
 不味い米国系ファーストフードであるが、中国には米国資本のフランチャイズ以外にも、ディコスやマリーブラウン等ランチ・メニューがあるファースト・フード屋もある。日本にも早く、そんなランチ・メニューのあるファーストフード屋に参入して貰いたいもんだ。三食続けて食べると肝臓をやられそうな米国系の油漬けメニューなんてご免蒙りたい。

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2009年2月 5日 (木)

《酔いどれ詩人になる前に》チャールズ・ブコウスキー

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  英題:"FACTOTUM" A Man Who Performs Many Jobs。
 FACTOTUMとは、雑役係の事。モデルの詩人・小説家ブコウスキー(映画ではチナスキー)、様々な仕事に就いてきたらしい。この映画でも正に色んな職業を転々としている。現在の日本の状況そのまま。むしろ、仕事に就くために米国各地を移動しまくっているてっ感じだ。期間従業員や派遣社員が全国あっちこっち職場を転々としているのと同じ。でも、実際のブコウスキーは確か長年郵便局員だったはず。勿論それ以前が、正に雑役人生だったのだろう。でも、彼には詩と小説があった。
 
 ブログ見ると、ミッキー・ロークも以前同じブコウスキーの役を演ったことがあるらしい。コッポラの《アウトサイダー》でミッキー・ロークと兄弟を演じたマット・ディロン、偶然とも思えない。この映画のチナスキー(=ブコウスキー)、ブコウスキーの小説から受けたイメージとは若干異なっていて、もっと崩れているはずが些か行儀が良過ぎる。で、邦題にもなっている「前に」、つまり"若きブコウスキー"って処で納得する他ない。

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 小説だと、やたら缶ビールとポートワインが常套句のように出てきたが、この映画でも大瓶のポートワインらしきものが一度だけ挿入されていた。もっとふんだんに出して貰いたかった。愛人のジェーン役のリリ・テイラー、如何にもって感じが出ていて仲々好い。演出も巧いのだろう。でも、イメージ的にはもっと肥満型。そうすると、もっとブコウスキーの世界に近くなる。

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 チナスキー、ようやくありつけた仕事にも拘わらず、早速煙草は吸うは酒は飲むはで直ぐにクビになってしまう。米国は定かでないが、今の日本じゃ(昔は必ずしもそうではなかった)、ちょっと考えられない。とは言え、国内の毎日のニュースを、その手のトラブルが賑わせてはいるけど。
 ブコウスキーの小説じゃあ、就いた仕事の苛烈さ、それも仕事仲間の悪辣さなんかをリアル且つ面白く描いていたんだけど、この映画では全く見られない。
 もっとビールとポートワイン、そしてセックスに溺れるべきであった。そんな鬱屈と退嬰の底に脈々と流れているブコウスキーの"生"が顕わになるのではなかったろうか。
 ちょっと旧いが、かのルトガー・ハウアーに1988年制作《聖なる酔っぱらいの伝説》という"酔生夢死"故事片があった。一杯の酒のために、結局全てを失う羽目に陥った、しかし誇り高きアル中男の顛末であったが、ハウアー仲々好かった。こっちは、束の間の純愛もありはしたが純粋に"酒"いのちの一本道。それにひきかえチニスキーは煙草、女、ギャンブルと欲張りだ。その上、詩に小説。十分に人生をエンジョイしている。
 それでも、毎回、採用されると思っていたのか、なかったのか、郵便ポストに、ブラック・スパロー社の編集者ジョン・マーティン宛に毎日コツコツと書き溜めた原稿を投函し続けた結果、幾年か後、漸く一編だけ採用されるこことなった。

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 チニスキー     マット・デイロン
 ジャン       リリ・テイラー
 ロウラ       マリサ・トメイ
 
 監督    ベント・ハーメル
 脚本    ベント・ハーメル、ジム・スターク
 音楽    クリスティン・アスビョルンセン
 制作 ブルブル・フィルムス、スターク・セールスメインク
                 2005年(米・ノルウェー)

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