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2009年2月18日 (水)

金子光晴《どくろ杯》 旅先の本

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   《どくろ杯》という如何にも禍々しいタイトルの故にか、旅行者の間でも結構その名を知られている青年的彷徨の軌跡とでも謂うべき詩人・金子光晴の鬱々たる旅行紀。
 以前エジプトのカイロで出遭った自称パンクのN君に読み了えたこの文庫本をプレゼントしたら、後ルクソールで再会した時には、パンクは辞め、アナルシスト(アナーキスト)のN君になっていた。

 中央公論社版の1971年の「あとがき」に次のように金子は認めている。
 
 「むかしの人間は、眼にみる限界が狭く、処理に自由さがなく、さほどでもないことに拘泥してみずからの足掻きがとれず、好んで壊滅を志すのかと疑われるような人生を歩く者が多かった。今日の人の参酌のたすけにもなろうかと、前車のくつがえるいちらつに筆を染めはじめ・・・」
 
 「船舶航路は、およそポートサイドまで、多少の日本人の息がかかっていて、窮状を助けてくれる人、さらに志を励ましてくれる人さえいたが、所謂西洋に入ると人情は変わり、例え在留の日本人がいても、みなおのれの生きてゆく方途に心命を疲らせている連中ばかりで、おなじ魔の沼にひきこまれて這い出ようとあがくばかりの荒涼の場である。そこでどうして二年の年月を生きていたかが、誰も知りたい興であることにちがいないが、四十年近い時間を置いて、頭の冷えきった筈の今日でもなお、そのことを語るとなると、こころが寒々としてくる。」

 視界が狭いから処理の幅も狭いのは、戦後の今日まで一向に変わることもない厳然とした事実で、単なる修辞に過ぎない。それゆえに、老爺金子光晴は変わったはずの戦後社会を見るに見かねて敢えて嘗ての己のが拙い蹉跌を開示してみせたのであろう。 

 《こがね蟲》で華々しく詩壇に登場した金子であったが、突如襲った関東大震災およびその直後に起こった朝鮮人・社会主義者達に対する虐殺・迫害に震撼とし又社会も動揺して詩どころではなくなってしまったのか、活辛くなってきた日本から少しでも逃れようと西へ西へと移動し始める。

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 「大正十二年九月一日(一九二三年)関東地方に大地震があり、東京、横浜に大火災が起り、燃えふすぼった瓦礫のあいだに、十万人の焼死者が、松の木杭のように赤屑になってごろごろころがっていた。振動の恐怖はそれ程のことはないがぶちまけられた災害の地獄図の一つ一つのデタイユがたくまずして精緻巧妙を極めて人をして戦慄たらしめるものがあった。対岸の火事で本所深川べりの大川の水は湯になり大川べりはトビ口で引きあげた屍体の山となった。・・・火災による死者は十万と言われ、旋風によって頭大の大石小石が、焼けトタンといっしょに逃げ場を失った男女の上から落ちてきて眼前で全身が裂かれ、脳漿がとびちる惨状をめのあたりにしなければならなかった。
 ・・・ふりかえってみると、あの時が峠で、日本の運勢が、旺から墓にうつりはじめたらしく、眼にはみえないが人のこころに、しめっぽい零落の風がそっとしのび入り、地震があるまでの日本と、地震があってからの日本とが、空気の味までまったくちがったものになってしまったことを、誰もが感じ、暗黙にうなずきあうにまで及んだ、というよりも、地震が警告して、身の廻りの前々から崩れが重なって大きな虚落になっていることに気づかせられたといったところである。」

 金子が自分勝手に放っておいた帰結としての妻・三千代と若いアナルシストとの不倫や自身の様々な行き詰まりを何とか解消せんものと企図した思いつきから出発した海外渡航。それがやがて、二人の人生自体を良くも悪くも盲目的彷徨の淵に投げ込むこととなる。
 金子と関わる以前は三千代は、長崎の郷里では、将来を嘱望された燦然と輝く明星的存在であった。教師の父親は、それを唯一の自慢と拠り所にしていたという。それを学校除籍・妊娠という惨憺たる傷物にしてしまった金子。臆面もなくそんな妻・三千代の郷里にその後幾度となく出入りするようになるのだが、長崎から上海へは、当時、一晩の旅程で、長崎丸と上海丸が交互に行ったり来たりしていたらしい。

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 「青かった海のいろが,朝眼をさますと、洪水の濁流のような、黄濁いろに変って水平線まで盛りあがっているのを見たとき、咄嗟に私は、『遁れる路がない』とおもった。舷に走ってゆく水の、鈍い光にうすく透くのを見送りながら、一瞬、白い腹を出した私の屍体がうかびあがって沈むのを見たような気がした。凡胎を脱するとでもいったぐあいに、それを見送っている私があとにのこった。上海にはわずか二ヶ月ほどの滞在だったが、私たちのあいだで通用するのとは全く別なモラルがあることをそこで知った。」

 『遁れる路がない』とは、一切が混濁し揺らめき続ける中での切羽詰まったどんづまりの脅迫観念であり又一つの決意でもあったろう。只、そんな土壇場での意志も忽ち上海という現実の中でかそけき泡沫と溶解されてしまう。
 上海には種々様々な日本人が集まってたらしいが、数少ない成功者の筆頭が内山書店の内山完造であった。

 「鼠いろのジャケツの主人と、らくだいろのジャケツの奥さんとが、顔をみあって、私に語ったことがあった。過去の生活から脱却するために、四五人の仲間といっしょに中国にわたり、大学目薬の宣伝員となって、ハタを立て、揚子江周辺の寒村僻地をめぐりあるいて、上海に落着くまでの苦惨の話を一巡きかせてくれた。苦労というものは意識の限界に人それぞれのちがいがあって、どこからが苦労と言えるものか。
 北四川路魏威里の今日の店を開いて、内山先生は、中日双方の文化の交流に貢献したり・・・訪欧の途次などに立寄る名士などを、一夕四馬路の菜館によんで招宴をひらくのを常としたが、陪席に中国の文士たち、とぐろを巻いていた村松梢風とか、数にもならぬ私達までも末席に招かれた。これも日中の文化交流の一つであるが、正直私達は、卓料理の玩味が目的の第一で、辞退もしらず、いそいそとして出かけた。
 燕席にしろ、翅席にしろ、一卓の料理は、二十八品ぐらい,招待宴が二つ重なって、午前十一時小有天で始まり、終会時刻が三時半頃になり、休む暇なく、その足で、二つ目の陶楽春の五時の会に出かけて、七時頃まで食べつづけた時は、帰ってくるなり、大下痢で、どんなことになるかと思ったが、翌朝は、けろりとしていた。内山先生は、『それが、支那料理のいいところだ』と、じぶんのことのように得意気な顔をした。」

 内山完造の処には、当時の日本の有名文士達が頻く立ち寄ったらしい。又、当時は、欧米の文物は日本経由で中国に入ってきていて、内山書店がその中心的な役割を果たしていた。中国の先進的な思想・文学を志向する者達の溜まり場でもあり、日中の思想・文人達の出遭う場を内山完造が提供していたようだ。 
 
 「そこは、女の肉の切り売の袋小路で、嫖客になげる女たちの金切り声の罵言のなかに、日本のことばの乱暴なやりとりまでがきこえてくる。そこは、上海の土地でも名うての腐肉捨て場で、紫いろにふくれた、注射針のあとだらけなくずれた肉に鳥の群れのように男たちがたかってくる。ここまでおちこんでくる女たちの路すじは、どれもこれも胸のつぶれるものばかりだろうが、残飯にむしゃぶりついてくる浮浪者のような、男たちの欲望の意地きたなさには、もっと悲しい来歴で私ともつながりがあって、腐肉の方へ私はひきつけられる。
 人間は誰でも、汚物となるきっかけと、その辷り出しに目玉つぶる危険な性向をもっている。わずかにそれを支えているものが、なんでもない世間体だったりする。人間の汚物が汚物のなかでも、もっとも汚くみえるのは、じぶんが人間だからだという、簡単な理由によるものだろうが、じぶんの土左衛門になった姿をおもうことで、水死をおもいとどまる人間もたくさんいることだろう。」

 正に魔都・上海そのもの。
 戦後の上海もちょっと紐解けば紆余曲折・艱難流血が陋巷高楼の影に沸々としていそうだが、改革開放のなし崩しの果てに香港のお株を奪うように再び君臨するのだろうか。

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 「上海ゴロという名が、私のみずおちへんに、金印(やきいん)となってはっきりあらわれ出るのをおぼえ、私の屍体の土嚢のような重たさが日に日に加わっていって、よそに運び出せないものになってゆくのを、ひとごとのように眺めているよりほかなかった。
  ーーー どこへでもいい。先に出発することが先決だ、と私は、
自分に発破をかけたが、わるいことには、てこでもうごかない私のようななまけものに、これほど住みいい、気らくなところはまたとないのがわかっていた。
 ・・・年長な私を支えにしてすでに一つのたまりをつくり、狐のねどこのような異臭を放ちはじめているのは、困ったことであった。中途半端な連中で、いざとなれば、何の役にも立ちそうにもない無能な手あいばかりだったが、その中には、上海をふり出しに、日和をみているうちに、風が出てきて、パリでも、ナポリでも、程よいところろへ運んでいってくれる夢をみている輩で、神戸から来たダンス教師あがりや、自称アナルシストのお洒落男や、コックをしていたという若禿で小男の油絵かきや、映画のカメラマンだったという若者や、それこそ千差万別だが、共通なことは、彼等が揃いも揃って、日本語を知っていれば、世界のどこへ行っても困らないとおもっているらしいことであった。」

 日本人村バック・パッカーの基本属性を逆に云うとそうなる日本語さえ話せれば世界中怖くない症候群。実のところは、日本人の溜まり場ばかりを巡っているだけ。戦後だいぶ過った今時これでは何としても情けない。だが、戦前であれば、この自嘲めいた言葉もまだ成り立ち得たろうし、又その太々しさには舌を巻く。
 それにしても、パッカー達のなれの涯の沈没没、そこの住民にもなれず、その居心地の好さに抗する術もなく、それでいても何時でも他所へ逃げれる特権だけはしっかり握ったままの曖昧模糊とした煮え切らなさと何と相似していることか。やはり、等しくこれは旅人の心根に棲み着いた、何時発症するかも知れぬ性(病原)であろうか。

 その利便性において戦前と戦後の旅は可成りその様相を別にしているが、それでも旅に出るという契機において、所詮人間の業、種々様々人それぞれの都合と想い入れということには変わりようがなく、あとは個々千差万別の色彩があるのみ。
 それにしても、戦前の旅人達ってやはり"大胆"(ダータンと武侠映画で時々発せられる言葉)。

     《どくろ杯》 金子光晴(中公文庫) 1976年 初版

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