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2009年4月の7件の記事

2009年4月26日 (日)

《裁かるるジャンヌ・ダルク》 the Passion of Joan of Arc 1928

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   オルレアンの聖処女・ジャンヌ・ダルク。
 大きな旗を持って鎧に身を固めたフランス娘の図は昔から頻く見掛けたものだが、比較的最近もミラ・ジョヴォヴィッチ主演のリュック・ベンソンのや、ちょっと古い処でイングリッド・バークマン主演のもの等結構数はある。日本人から見ると些か宗教色や愛国主義的な匂いが鼻につくが、それはそれで、当時のヨーロッパ中世、ひいては現在のヨーロッパを知る上で仲々に興味深い題材であろう。

 この1928年制作の無声映画、白黒画面の持つ迫力を十二分に活かした傑作で、主人公のジャンヌや坊主達、英国兵士達等の顔や姿を大写しにし、総じて跪ずいたジャンヌの視点からなのか見上げた角度から撮られているようで、ジャンヌ自身だとイエス宜しく火刑の杭に縛り付けられた角度となってしまうのか、何とも形容しがたいほどの鬱勃たる迫力に八十分が短く感じられるぐらい。筆者が観たのは81分バージョンだったが白黒なので画面一杯のフルにしても遜色なく、ひたすら圧倒され続けた。110分バージョンもあるらしく、こっちがオリジナル版なのだろう。是非観てみたい。
 当然声音はないが、1994年にリチャード・エイホーンがこの映画のために作ったオラトリオ曲が入っていて、一層ドラマティックに雰囲気を盛り立てている。

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 1430年5月にコンピエーニュで捕らえられ、占領軍たるイングランド軍に引き渡されてルーアンのブーヴルイユ城に監禁され、翌1431年2月に始まった"異端審問裁判"からこの映画は始まり、同年5月30日朝に"異端者"として教会から破門されイングランド軍に火刑に処されるまでが描かれている。
 ジル・ド・レエ卿まで出てくるリュック・ベンソンの作品のようにそこに至る虚々実々の当時のフランス(イングランドも含めて)の政治的状況は、このデンマークの監督カール・テオドール・ドライヤーの映画では省かれ、専らジャンヌの火刑に至る過程をあたかもたった一日の出来事のように描出する。むしろ抽象と呼ぶべきぐらいにその単純化された映像と相俟って共時性すら覚えさせる。
 
 それにしてもここでのジャンヌは何とも涙、涙に暮れ続ける。
 山と積まれた薪に火の手が上がるまでは、恐怖に打ち震え、「神様!、神様!」と果てしなく叫び続けた故事に由来するのか。恰度、ナザレのイエスがゴルゴダの丘で磔刑になった折、呼べど叫べど一向に姿を現さぬ神の名を延々と呼び続けたのに似て。あるいは、イエスの母マリアの像の如く、悲しみと哀れみに満ちた涙を彷彿とさせるのか。
 正に、一途に神へと収斂してゆく燃え上がる熱情のパッション(殉教)劇って処なんだろう。札付きの無神論者たる筆者ですら、思わずファルコネッティ演ずるジャンヌの嗚咽と涙に引き込まれてしまった。

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 私的には紅蓮の炎が首を垂れたジャンヌの身体から更に発火し燃え上がる最中、騒ぎ始めた群衆とイングランド軍の争闘劇のシーンも甚だ感心し舌を巻いてしまった。槍を尖塔に投げるシーンなんかも妙にリアル感がある。あの時代で、もうこんな迫力あるアクションが造れていたのかと感心してしまった。まあ、筆者が単に無知なだけかも知れないが。
 因みに、この映画には、演劇家・シュールレアリスト詩人としても有名なアントナン・アルトーがジャンヌを庇う若い神父に扮していて、この映画の二年前アベル・ガンスの"ナポレオン"にも出演していた。

ジャンヌ・ダルク     マリア・ファルコネッティ
ピエール・カウチョン司教 ユージン・シルバイン
判事           ミシェル・シモン
ニコラス・ロイセラー   モーリス・シュッツ
ジャン・マシーユ     アントナン・アルトー 

監督 カール・テオドール・ドライヤー
脚本 カール・テオドール・ドライヤー
      ジョセフ・デルテイル
撮影 ルドルフ・マテ
美術 ハーマン・ワーム
衣装 バレンティン・ヒューゴ
時代考証 ピエール・チャンピオン
制作 フランス 1928年

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2009年4月24日 (金)

《スラムドッグ$ミリオネア》 on BOMBAY

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 漸く《スラムドッグ$ミリオネア》を観ることが出来た。
 巷ではこの映画に出演した少女ラティカ役のルビーナ・アリ(9)ちゃんが父親に中東の金持ちの処に売られてゆくところだと騒いでいるようで、実際は養女ということらしい。父親からすれば、すっかり有名になってしまった娘を決して豊かとは云えない自分の元に置いておくよりも、裕福な家庭で育てられた方が互いに得策と考えたのだろう。売らんかなで信憑性に欠ける英国のタブロイド新聞が騒ぎ始めたらしいけど、普通の意味の養女ではなく文字通りの"人身売買"なんだったろうか。相も変わらずの貧困的故事。

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 映画自体はイギリス映画でボリウッドではないが、ミーラ・ナイールの《サラーム・ボンベイ》(1988)とマニラトナムの《ボンベイ》(1995)を掛けて二で割ったようで、仲々面白かった。
 予告編観てすぐ想起したのは《サラーム・ボンベイ》で、サタジット・レイ以外の僕が初めてお目にかかったエンターテイメント系のインド映画であった。これは国内でもマイナー・ヒットし、この作品でインド映画の洗礼を受けた者も多く、旅先で遭った旅行者の多くがこれを観ていた。
 この紹介をしようとしようと愚図愚図している間に、英国人監督の手によるこの《スラムドッグ$ミリオネア》が現れてしまった。何しろハリウッド・ライクなのでやはり映画館の大きな画面じゃ見栄えがする。私的には、エンディング・クレジットのシーンが特に気に入っている。インドなら客の大半が出口に向かっていて極く一部の者しか観ないだろうが。

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 まだムンバイがボンベイと呼ばれていた頃、スラムに住むイスラム系の男の子二人が空港の滑走路で遊んでいる場面から始まるが、ポリスに追われるシーンなんてブラジル映画《シティー・オブ・ゴッド》の同様の場面を彷彿とさせる。《ボンベイ》では二人のヒンドゥーとイスラムの名をつけられた少年達が宗教的抗争に巻き込まれてしまう物語だが、この映画ではジャマールとサリームの兄弟とラティカというヒンドゥー教徒の襲撃時にはぐれた少女の三人が中心。
 子供の乞食組織のボス・ママンに三人が騙され組織の一員として乞食稼業にいそしむようになるが、成長してゆくとラティカは娼婦にさせられそうになる。一度はママンの魔手から逃げ延びた二人であったがラティカを救いに戻り、ママン一味にばれ、逆に追いつめられてしまう。が、兄サリームはもう嘗ての無邪気な子供ではなく、ピストルを取り出し、ママンを射殺し、ラティカを助け出す。《サラーム・ボンベイ》では、主人公クリシュナ少年が組織のボス(ナナ・パーテカル)を階段で刺し殺すだけだが、ここではその兄のサリームがラティカに想いを寄せていたをジャマールをピストルで脅して追放しラティカを自分のものにしてしまう。ここは些か整合性に欠け破綻といってもいいくらいなのだが、そのままだと《サラーム・ボンベイ》の踏襲になりかねないと敢えて整合性を無視した取って付けたような筋を作った可能性も考えられる。

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 結局、ラティカに観て欲しくて、《クイズ・ミリオネア》Kaun Banega Crorepatiに出たのだった。 日本ではみのもんた司会のこのアメリカ渡りの番組、インドでも同じ時期放送されていて、この映画の中にも出てきた"アミターブ・バッチャン"が司会をしていた。後、アミターブが身体を壊してシャールーク・カーンに替わった。
 亦、劇中にアミターブの映画のシーンがちょっと流れるが、《サラーム・ボンベイ》でも、当時アミターブと並んで売れていた女優シュリ・デヴィの映画のシーンが流れた。当然ダンス・シーンだった。映画館でそのシュリ・デヴィの映画のダンスシーンの時、クリシュナ達ストリート・チルドレンが前の方の安い席で立ち上がって一緒に踊りだし、直ぐ後ろの席の大人から映画が見えないだろとどやされる場面だ。

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 《サラーム・ボンベイ》、持ってるDVDはインド製だが、特典に、映画に出た子供達のその後の姿とインタビューが附いていた。クリシュナンは結婚し元気にやっていたが、最近《スラムドッグ$ミリオネア》のヒットで、彼が仕事もなくなり監督のミーラ・ナイールまでに泣きつき冷たく突き放されいよいよどん底に落ちてしまっていたのがこの映画のお陰で漸くあっちこっちから声がかかるようになったというニュースを見るにつけ、やはりスラムやストリート・チルドレンから這い上がって生きていくってのが少々じゃないくらいに大変なのが改めて分からされてしまった。
 勿論逆に欧米に連れられていき(これも一種の養子の類だろう)高等教育まで受けた幸せそうにしていた出演少年も居て、こっちはミリオネアとまでは行かないが映画がラッキーを誘ってくれたという訳だ。この特典ビデオを観て、この《スラムドッグ$ミリオネア》を着想したのではないかと想われるくらいだ。

 この《スラムドッグ$ミリオネア》、確かに大画面のハリウッド・ライクで面白いが、でもやっぱり 本物のストリート・チルドレンの出演した《サラーム・ボンベイ》が好い。主演のクリシュナンを演じたシャフィーク・サイード自身も《スラムドッグ$ミリオネア》を褒めながらも自身の主演した《サラーム・ボンベイ》の方がもっと面白いと自慢していた。《サラーム・ボンベイ》でネパールから連れてこられた十五歳くらいの若い娼婦、何とも形容しがたい美しさに見惚れた者も多く評判であったが、衣装はラティカと殆ど同じだった。ボンベイじゃ処女娼婦は皆あんな出で立ちなのかもしれないけど。

 司会役のアニール・カプール仲々どうに入っていた。シュリ・デヴィなんかとコンビでメガ・ヒットなんか連発していたアミターブに次ぐスーパー・スターだけど、この所シリアスなものが多くなってきていて時代の流れをつくづく思い知らさせられた。"悪役"振りも悪くない。
 
 
 監督 ダニー・ボイル
 脚本 サイモン・ビューフォイ
 撮影 アンソニー・ドッド・マントル
 音楽 A.R.ラフマーン 
 制作 CELADOR FILMs    (英国) 2008作品

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2009年4月20日 (月)

二百万ボルトのタイ・アイドルat 1996:ボーBeau

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 タイの泡沫歌星(アイドル)多しといえども、仲々百万枚売れたってのはそうそう居ないだろう。演歌(ルークトゥン)の方では数百万枚売ったってのもいるらしいが、ポップスの方じゃあのターター・ヤンですら百万枚だった。尤もターターのデビューは十代中頃で可成り購買層も限定されるからこんな数字に収まってしまったのだろう。因みにタイはこの頃はまだカセット・テープが主だったから"COPY"と呼んでいる。
 で、ボーことスニター・リティクルのファースト・アルバム"BEAU"は二百万枚以上。 日本の人口の半分くらいでこの数字は宇多田ヒカル並に凄い数字だ。 

 バンコクの定宿で、ある学生が「セーラー服着たアイドルがいますよ」と教えてくれたけど、テレビ等殆ど観ないので誰のことかさっぱり分からなかった。半年か翌年に再びやって来た頃にはもうそのセーラー服のアイドルの百万コピー記念のカセット・テープはテープ屋の棚に並んでいた。
 ただ、僕が買ったこの百万コピー記念版には音が入ってなかった。
 その後更に二度場所を変えて買ってみたものの全部音無し(プランク)であった。勿論露店ではなく皆ちゃんとした店舗、商業コンプレックスの中であったのだが・・・。さすがにこの時ばかりは呆れ果てしまった。とても偶然として片づけられる頻度ではない。恐らく、コピーが間に合わなくてサバーイに走ったのだろう。露店や当時の悪名高かったMBKならまだしも・・・勿論MBKの店でも一本買ったが。

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 その頃バンコクのゴーゴーバーなんかで頻(よ)くそのボーの曲がかけられ、かかると娘達が声を挙げていたものだが、中には逆に、僕がMBKのアイドル・ショップで買ったボーの写真バッジをバッグに附けていたのを見て、「フンッ!」と鼻で笑った娘もいた。いい年してアイドルのバッジなんか附けやがってと一笑に付されたのかと思ったら、露骨に顔を顰めて「こんなの何処が好いの?」と他の歌手らしい誰かの名を挙げた。
 大部過ったある日、現在は名前が変わったが伊勢丹の入っているWTCのエスカレーターに乗ろうとしてふとその頭上を見上げると小さなモニターが設えられていて、ボーのミュージック・ビデオが流れていた。漸くボーのビデオが出たのかと、暫し立ち止まり見入ったものであった。只、画面が余り小さい過ぎて、も一つピンとこなかった。

 「チャン・ルー」、「トォー・マイ・カーイ・ターム」、「マイ・ミー・イーク・レーオ」、「ユー・コンディヨー」、「プルン・ニー」等結構好い曲が多く、その他の曲も悪くはないし、ボーの柔らかい声と溌剌とした唄い方が好い。ボーの魅力ってこれに尽きると思う。後は、眼の大きな色白で丸い満月(ドゥアン・ペン)型の相貌がタイ人好みらしく、ネービー・ブルーのセーラー服をピチピチした健康的な身体に纏って、軽快なテンポのアクの強くないポップス・ロックを歌う姿も様になっていたのだろう。

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  "SUPER BEAU"の出るちょっと前に出たミニ・アルバム"BEAU LIGHT"のジャケットの写真で、前々から抱いていた疑念が一層強まっていた。
 "肥満"の疑いだった。
 1997年 "SUPER BEAU"の出た頃、ある女性雑誌にボーのインタビュー記事が載っていた。ボーの子供の頃の事からのあれこれで可成り長く、部分だけ抜粋してみる。
 

 ★ ボーは本当に痩せたね。
                               
   十キロ以上も痩せたわ。

 ★ どのくらいから痩せたの?

   ・・・・・・絶対に云いたくない!(恥ずかしそうに笑う)
   以前は重くて恥ずかしかった。その頃はとっても肥えていたの。60キロぐらいで、62キロがピーク。でも、最近は49キロぐらい、50キロの時もたまにあるわ。

 ★ なぜ最近になってダイエットするようになったの? 

      もう本当に肥えてしまって、よく知ってる人や姉のところに飛んでいったの。(笑い)でも、ダイエットばかりしてる訳じゃないのよ。
      焦っても駄目。
      テープ(アルバム)の発売前までにこれくらいは痩せなくちゃ、なんてとっても云えない そんな状態。

 ★ ボーのダイエット法って?

      ケーン・チュート(中国風すまし汁)よ、ケーン・チュートの好きなボーには最適。        もう毎日食べてる。母が作ってくれるような・・・鶏の皮を絶対に載せないのを。鶏は肉の部分だけ。野菜を煮たもの、冬瓜と鶏の煮たものとか毎日替わるの。
      それに魚もちょっと。魚で太らないようにするのよ。

 ★ 同時に運動も必要じゃないの? 

   速く歩くってのもあるのよ。
   ボーは運動するのは苦手、せいぜいベッドの上で飛びはねて遊ぶくらい。
      外出するのも好きじゃないから、暇さえあれば友達とはねてるの。
      尤も、友達も余り居ないけど。
      ほんの少しの友達(笑い)
      最初はたいへんだったの。
      何の変化も起こってないように思えた。
      全然減ってなかった。1キロもよ。
      それでも日が過つにつれて徐々にだけど減りだしたの。
      2キロか3キロぐらい。
      この時は嬉しかった。誇らしかったわ。
      私でもすぐに10キロぐらい痩せられるんだって。
      古い写真を持ち出して眺めながら思ったの、
      今の体重から絶対その頃の自分の体重に戻るんだって。
   毎日のように鏡を覗いて自分の姿を見てた。
   でも、今、そのダイエットを始めた頃の自分の写真を見てみると、喧嘩して脹れがったみたい(笑い) 映画のスクリーンいっぱいに拡がっているって感じ。

  ★ 今度の仕事中に何か面白いことあった?

   面白いことなんてないわ。せいぜい何だかんだと小騒さいプロデューサーぐらいね。

 ★ もし笑える話がないのなら、悲しい話ならある?

   (笑い)悲しいねー・・・歌を唄う時や聴いたりした時のような。
   ボーはスローな曲ね、殆どどの曲も。
   フムと感じさせるほんの数節、
   どうしてそんな力を秘めているのかしら。
   でも、ボーの唄うどの曲も涙にくれるものばかり。
   だから、曲に情緒がなければ駄目なの。
   私の感情が曲の隅々にまで溢れてると申し分ないの。

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2009年4月15日 (水)

レイン  破滅的青春群像(バンコク・デンジャラス1999)

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   昨年公開され世界の大半を巡ってきて、漸くこの五月、大陸の果ての我が列島でも公開される運びとなったニコラス・ケイジ主演のハリウッド版《バンコク・デンジャラス》、監督は同じオキサイド&ダニー・パンだが、どうも人気今一だったようだ。サイトのトレーラーを観るにつけ、1999年のオリジナル版とはまるっきり別物て感じで、単なるアクション物の赴き。

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 このオリジナル版は、2001年の同じパワリット・モンコビシット主演の《ワン・テイク・オンリー》と同様、特に六十年代から世界中で作られ始めた所謂"破滅型青春映画"で、定石通りの"破滅の美学"を香港=バンコク的感性で彩色した傑作の一つと思う。
 聾唖というハンディーを背負って鬱々と社会の底辺を生きてきたコン、偶々掃除夫として働いていたシューティング・レンジで巡り会った殺し屋(ムー・プーン)のジョーとの出遭いによって、積年のこの社会に対する怨嗟とコンプレックスを一気に払拭し逆に攻撃に転じる殺し屋の途に就き、水を獲た魚の如く溌剌とした毎日を送っていた。

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 ある日仕事先の香港で罹いた風邪をこじらせ、薬を買いに薬局に赴くと、そこにフォン(タイ語で雨)という愛らしくも気だての好い娘が居て、フォンの方は普通に客に接したに過ぎなかったにも拘わらず、コンは生まれて初めて優しく接してくれた女性に出遭ってすっかりフォンに惚れてしまう。真摯なコンのアプローチにフォンは素直に受け入れてくれた。
 これは"自立"以降のハリウッド映画の女性像とは無縁のすこぶるアジア的な産物であって、香港=バンコク的感性もその埒外ではなかった。今時そんな淑やかな娘がバンコクに居るかといえば甚だ難しい。けれど、絶対に居ない訳ではない。パン兄弟の一つの理想の女性像でもあるのであろう。けれど、殺伐とした殺人世界の只中では、やはり、掃き溜めの鶴ってところが、映画的に必要でもあったろう。フォン役のプリムシニー・ラタナソパァー、仲々魅力的で僕も薬局の場面ですぐに惚れてしまった。性的に没交渉の、ひたすらプラトニックな恋愛のまま。
 ある夜、公園をデート中に二人組の強盗に襲われ、バンドに挿んでいた拳銃を奪われそうになってフォンの面前で一人を射殺してしまう。平々凡々な世界の住人たるフォンはショックを受け、そのまま逃げ去ってしまう。
 思いもよらぬ成り行きの破局。

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 一方、殺し屋のエージェントのボスの顧客が、ジョーの恋人オームに暴行を加え、それを知ったジョーが激怒し、その暴力団の顧客を射殺してしまう。すると今度は、ボスが自分の大事な顧客を殺されたと怒って、仕事と見せかけ、空砲の弾を仕込んだ拳銃を渡してジョーを嵌め、殺害する。
 コンとオームの二人だけのジョーの葬式。
 恩人であり無二の親友でもあったジョーの仇討ちをコンは決意し、
 単身、ジョーを殺害した一味の屯する日本料理屋に乗り込み、奥の一室で酒盛りの最中の一味を殲滅する。一味の頭目に、実は、ボスに頼まれたやっただけと告げられ、今度は、ボスの生命を狙う。
 が、オームと二人で通りに出た所をボスの一味に急襲され、オームが被弾し死んでゆく。ボスの本拠地に乗り込み、配下の者を一人一人始末してゆきとうとう最後にボスの身体に一発ぶち込み、銃を持った警官達の待ち構える外へ引き摺ってゆく。
 その直前、コンがフォンに手渡した手紙に、ジョーやオーム達、コンの最愛の者達の死を経験し、今まで怒りに任せて殺害してきた人々の親族達の悲しみを痛感し、せめて自分なりの償いをすると認めてあるの見て、慌ててフォンはコンの後を追ってきた。駆けつけたフォンを警官が制止する間に、コンはボスと自分自身の頭を一発で撃ち抜き自殺して果てる。
 茫然とその場に崩れるフォン・・・

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 実際の話、デートの最中に、突然強盗に襲われ、恋人がやにわにその一人を眼前で拳銃で射殺してしまったり、警官達の包囲する中、やはり面前で恋人が拳銃自殺してしまったりしたら、平凡な優しい娘なら、心はズタズタになり、精神科の治療を必要とするようになるのは眼に見えている。悄然と沈鬱に翳ったフォンの姿が眼に浮かんできそうだ。何たる残酷・・・けれど、それが現実でもある。

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  ニコラス・ケイジじゃ、青春物って訳にはいかないだろう。
 ハリウッドじゃ銭儲けのひたすらなるアクション物って処だろうから、後は《テッセラクト》的手法を如何に展開出来ているのかが一つの眼点であろうか。

 因みに、最近はどうか定かでないけど、以前は(この映画の頃も)バンコクのシーロム通りのマクドナルドの前の階段のところで聾唖の人達がよく集まって(数十人くらい)手話で会話をしていたものだ。

 フォン役のプリムシニー・ラタナソパァー(クリーム)、数年後に"シーウィー"でシーウィーに優しく接した女性記者ダーラーを演じていたが、ここでは結構気丈な自立した女って役作りをしていて、やっぱしクリームも女優なんだなー。女性タイ・ポップス・シンガーのフォースのアルバムの"コン・ティー・チャイ"という曲のミュージック・クリップにも女優として出ている。

 
 監督 オキサイド&ダニー・パン
 脚本 オキサイド&ダニー・パン
 制作 ノンシィー・ニミブット
 撮影 デーチャー・スリマントラ
  音楽 オレンジ・ミュージック
  制作 タイ 1999年

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2009年4月11日 (土)

《涙女》 改革開放的哭泣

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  中国を旅していて何度か葬式に出遭ったことがある。
 大理で二度ほど見た奴は確か笹を先頭に延々と長い隊列を作って整然と歩いてゆくものだったけど、古の都・洛陽で見たものは、傘を差そうか差すまいか迷った小雨の中、町中の広いエリアにブラスチックの椅子やテーブルがいっぱい並べてあった一角で、笙やチャルメラを幾人もの男達が曲を奏でていた。よく見ると葬式のようだった。やがて演奏が興に乗ってくると、リズムというより曲の流れと一体化したように身体を動かしながら一層のめり込んでいくようであった。"スウィング"なんて旧い言葉があるが、あれも嘗て米国黒人達が葬式やなんかで奏でたりして発展してきたものという事だったはず。葬式でも演奏家ってこんなに乗ってしまうものなのかと感心してしまった。そこを去り再び戻ってくると、大きなトラックの荷台に彼等は乗り込んでいて、走り出した荷台の上で例の白い細長い布切れをたなびかせ、身体をなめらかに動かしながら奏で続けていた。

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 てっきり泣女って韓国の習俗とばかり思っていたら、中国にもあったようだ。
 台湾なんて泣女じゃなく、死んだ男の霊を慰めるためか肌も顕わなダンサーやストリッパーまでが威勢を誇示するように参列するらしいが、中国の方ではまだまだ"万元戸"、"億元戸"と云えどもそこまでいってないようだ。

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 この"哭泣的女人"(原題)の面白いところは、主人公の王桂香(グイ)が、正に"改革開放"を草の根レベルで実行してきた、スレっからした女ってところだろう。
 地方の小都市出身の間違ってもそれなりの教育すら受けてない平均的な娘が、改革開放政策の中を生きてゆこうとするとこうなるという一つのモデル(典型)を見せられているような妙な説得力がある。嘗て中国の商場や百貨商場で、誰が担当か分からずさんざん誰彼に当たって探し回って漸く見つけ、呼ぶと露骨にしかめっ面をし、それを見せてくれと云うと放り投げて寄こす愛想もクソもない小姐達をさんざん見てきた者にとって、主人公グイの有様・生様は、別に誇張しディフオルムしたものとは思えず、殆どイクォール。

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 北京の表通りで、グイは海賊版のCDやDVDを鞄にいれて売っていた。服の裏にはポルノを隠し、近所の小さな幼児を一日二十元で借りて抱いて歩き、警察の眼を誤魔化していた。旦那のゲンは無職で部屋で仲間と賭け麻雀の日々。地方から出てきた教養もコネもない非力な者達に、好い仕事なんてありはしなかった。
 そんなある日、ゲンが麻雀仲間に、負けて払えない金のカタに嫁のグイの身体を貰おうと冗談混じりに云ったのを腹に立て、いきなり暴力を揮い、相手の片眼に傷害を与えてしまった。ゲンは逮捕され入獄。グイもいつも借りていた子供の母親家族が蒸発してしまい仕方なく嘗て籍を置いていた歌劇団のある貴州の小さな町へ子供を連れて戻ることとなった。

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 劇団は既に解散していて、適当な部屋を借りて住むことになった。その町には、以前グイとゲンが知り合った町であり、ゲンの友人でグイを慕っていたヨーミンが葬式屋を営んでいた。既に結婚して嫁も居たが、連れてきた子供を適当な処に預けてくれ、直ぐによりを戻すことに。
 ある日、ゲンに片眼を怪我させられた夫婦が現れ、損害賠償を請求してきた。と、突然、大声でグイが泣き出した。呆れ果てうんざりしてしまった夫婦は亦来ると言い残して去っていった。それを確かめるように隣の部屋に情事のため隠れていたヨーミンが出てきて、すっかりご満悦顔。グイの大きな泣き声に、一儲けを企めたからだった。
 その日から、グイは泣女(哭葬婆)として活きてゆくことになった。ヨーミンが見込んだだけのことはあって、忽ち町でも人気が出、あっちこっちからお呼びがかかり、金持ちのペットの葬式にすら千元もの料金でお呼びがかかるくらいになった。刑務所に入っているゲンの保釈金とゲンが怪我させた相手の賠償金のためであった。が、怪我をした夫婦は喧嘩別れして行方不明、ゲンの保釈を願いに五千元を持って所長のところに行ったものの足りないと拒否され、グイは自分の身体で不足分を払うとしたのだが。暫くして、ゲンが脱走を図り、警察に射殺されてしまったと突然現れた二人の警官が書類に拇印をさせる。心配するヨーミンに、むしろさっぱりしたわ、とうそぶいてはみせたグイではあったが・・・
 その日のグイの葬式での泣声はいつになくさめざめと、やがて慟哭となって涙までが溢れ続けた。

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 ゲンが早まったのか、所長が騙した(これは考えにくい)のか、ゲンの仮保釈のために五千元と自分の身体まで与えたにも拘わらずゲンが直ぐに保釈されず、どころか脱獄までしてしまったというのはも一つピンと来ない。どっちにしろ、所長に身体を与えたのはグイのゲンに対する愛情の深さ故なのか、それともがさつに生きてきた惰性としての単なる商的行為に過ぎないのか・・・
 舞台はもう中国そのものだが、香港映画風のタッチで軽妙に描かれていて面白くはあった。

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 グイ   寥琴
 ゲン   李龍俊
 ヨーミン 偉興坤
      
 監督   劉冰鑒
 脚本   ダン・イエ
 撮影   シイ・ウェイ
 音楽   ドン・リイチャン
 美術   リュウ・リイグォン
 制作 アスパラ・フイルム、
    フライング・タイガー・ピクチャーズ
    2002年作品(カナダ、フランス、韓国)

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2009年4月 9日 (木)

KFC  旅先のファースト・フード

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   マクドナルドなんかのハンバーガー系と一線を画すケンタッキー・フライドチキンだが、とうとうハンバーガー市場にも堂々と参入することになったらしい。それも既存の勢力をはねのけて半分以上のシェアを奪うという挑発的宣言つきで。KFCのハンバーガーってマック以下の到底喰える代物ではなかった記憶がある。それでも、ついこの前までの戦略商品"照り焼きチキンバーガー"は悪くはなかった。
 KFCのフライド・チキンは油っぽくて美味と思ったこともないので滅多に入ったことはない。せいぜいが、海外で、事の成り行きや長居出来る場所として入るぐらいのもの。 
 中国の上海で何回か入った覚えがある。
 1994年で、宿がお決まりの浦江飯店だったので、南京路や外灘は頻く歩き、特に外灘は熱く簡単に入れそうな店も他になかったから重宝ではあった。ここのKFCは、旧い租界(植民地)時代の建物をそのまま使っていて、否実際には旧い建物の一画を借りただけなのだろうが、仲々レトロな趣が悪くなく気にもいっていた。ヨーロッパならいざ知らず、他では滅多にない店構えだ。上海のここが一号店ではなかったろうか。尤も、今じゃすっかり今風の何処にでもある小綺麗な造りに変貌してしまったであろう。
 因みに、当時、小さなチキン二つ、ハンバーガー、マッシュ・ポテト、コーラで十七元少々。

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 最初にKFCに入ったのも、やはり、バンコクであった。
 場所はもう定かでないが、スラウォン通り側のパッポン脇のKFCだと思う。向かいの角に僕の行きつけのマックがあった。味は同じで、来る毎に後悔したものだが、ここは場所柄、その夜の仕事を終えた享楽街パッポンの女達の集う場所でもあった。
 帰宅前にちょっと小腹の空いたのを満たすためや、車で男や家族が迎えに来るのを待つためだ。若い娘達は、腹を満たすとディスコやゴーゴーバーに遊びに向かい、それ以外は若い男のバイクの背に乗って走り去ったり、歳のいったのは旦那らしき人物があるいは小さな子連れで迎えに来たりする。皆和気藹々和んだ雰囲気で、むしろ沈んでいるのはそれ以外の外人客達の方であろうか。

 水掛祭りソンクランになると、このKFCの殆ど男の従業員と向かいのマクドナルドの若い女の従業員との間で、熾烈な水掛合戦が始まる。ここは恰度十字路になっていて信号もあり、水掛にはもってこいの場所でもあった。ここのマックの二階は、広い窓ガラス越しにコーラでもストローでちびちび飲みながら、眼下で繰り広げられるバンコクの水掛祭りを存分に観戦出来るスポットでもある。KFCは一階だけなので観戦には向かない。客も疎らで、KFCの連中にびしょ濡れにされた娘がタオル片手にやってきて、ガラス越しに向かいのKFCの従業員の方を睨め付けて、「マン!」と毒づいたりしていた。

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2009年4月 4日 (土)

プノンペンの輝ける星  《 キャピトル 》

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  キャピトルⅡの三階のバルコニーからの眺め。右側にまだ雑草だけのマーケットの敷地。

   

   ぼくが最初にカンボジアを訪れたのは、数年前から漸くポル・ポトの呪縛から解き放たれはじめたアンコール・ワットが素晴らしいとか、バイタリティー溢れるカオスの街サイゴン(ホーチミン市)が好いとか、さんざん他の旅行者達に喧伝されてきて、フンジェラールを越える西域行も一段落して、じゃあ一つ同じルート上のカンボジア・ベトナムに行ってみようという事からだった。
 只、サイゴンは、もう'95年の時点で、謂われていたような"旬"は過ぎていて、むしろカンボジアの首府プノンペンの方が"旬"で、結局、こっちが主軸になってしまった。あの頃、まだサイゴンがバイタルな場所だったなら、またぼくの旅行地図も様相を異にしていたかも知れない。

 チケットはカオサンの《ETC》で、往復5700バーツ。
 前の月には3000バーツ台だったという。
 ロイヤル・カンボジアのまだ真新しいボーイング737-400で、3×3シート。
 客は三分の一ぐらいで、機内食はスナック程度。トマトの内側をえぐって中にむき身のエビを詰めた物は美味だった。                      
 
 夕刻に到着。
 プノンペンの黄昏は、異様なくらい広いパースペクティブに灰色の雲が全面を覆い、西の地平線上だけが奇妙に紅く染まっていた。未だ嘗てなかったような光景に思わず胸が高ぶってしまった。空港を出ると、外はすっかり夜の帳が降りていて、ひしめくバイタクの運転手達が声をかけてきた。が、成り行きで個人の乗用車に乗る運びに。プノンペンの街は、停電でもしているのかと疑ってしまうくらいに暗く、中心街に入って漸く明るくなってきた。直前に訪れたミャンマーの首府ヤンゴンの方がまだ明るかった。それでも、通りには屋台や人々が蠢いていた。
 
 《キャピトルⅠ》は3ドルだったので、2ドルの《キャピトルⅡ》にチェック・イン。
 受付のある階の奥の、廊下に面した板壁の上に空気取りの隙間がある窓なし部屋で、蚊帳付きベッドと板壁に扇風機が一台備わっているだけ。それでも電灯が明るくこれは助かった。
 出入り口のある路地は暗くぬかるんでいて、《ミポリンの店》も分からず、表側の通りの《キャピトル・レストラン》に行く。早速、受付で両替。1$=2500リエル。

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 年月が過つにつれて次第に減っていったが、当初は地雷等で片脚を失った男達のバクシーシが多かったし、普通の物乞いも多かった。新聞売りはじめ様々な物売りがやってきた。プノンペンはフランスの植民地だったせいかオープンの店が多く、彼等はそれらの店を流していっているのであって別に《キャピトル・レストラン》だけを狙ってやってくるのではなかった。
 彼等を見ているだけで飽きなかったし、昼間や夕方は車やシクロでひしめいた道路や歩道をひっきりなしに行き交う種々様々な人々をもうそれだけで一つのアトラクションか何かのようだった。《キャピトル・レストラン》はそれを堪能する絶好の場所だった。

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 物売りは総じて子供が多く、手籠にパンケーキを入れて売りにくる二人連れの小娘や、肩から下げた青いプラスチック箱の中にカンボジア歌手の音楽テープを並べて売りに来る小娘達も居た。あるいは少女や少年に先導させた盲目の楽器奏者なんかも。インドでもここでも音楽奏者には結構誰でも喜捨するものだ。一人十歳くらいの可愛い新聞売りの少年が居た。白人の若い女達に人気があるようで、当人も十分にその事を自覚している風に自信満々であった。
 物乞いは、しかし、当時のカンボジアの状況から不可避なものであって、夕闇が迫り始めると、それこそ次から次へと果てしなく男女老若関係なしに現れた。一日中屯して客の食べ残しを狙ってくる少年達はともかく、食事中の客の処に現れ、両手を眼前で合わせて何か決まり言葉を云い、自らの比較的大きめ碗に皿の上のあれこれを貰うのだった。あっちこっちで貰ってきて、ちょっと離れた物陰で家族集まって晩餐している光景はプノンペンの夜の姿として違和感なく溶け込んでいた。これも時代とともに段々減っていった。

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  ある時、これは日中だったが、一人の片脚のない男が、肥えた白人女が食事しているテーブルに近づいていって、お決まりの片手の先を自分の口に持って行く仕草をしてみせた。と、その白人女はすっくと起き上がり、その場を蹴るようにして去り、更に前の道路を駆け抜けていった。余りの直截な反応に男が驚いているのが後ろのテーブルからでも見て取れた。僕も、片脚の無い人間故にゆっくりした動作でしかなかったし、むしろ遠慮がちなアプローチだったにも拘わらず、随分と短気な短絡的な反応するもんだなーと呆れつつも、幾ら物乞いが嫌いだからって、車やシクロが頻繁に行き交う道路を突っ切って去って行くその神経を疑ってしまった。
 と、女がチョコチヨコと道路を戻って来た。
 そして、如何対応していいか困惑している男の手に一本のフランスパンを女は手渡した。何のことはない、通りの向こうまでフランスパンを買いに走ったのだった。男は更に茫然とし、まじまじと自分の手にしたフランスパンを見詰めていた。そして一層困惑の眼差しになった。
 そりゃそうなのだ。
 手先を口先にもってゆく仕草はバクシーシ(物乞い)を意味しているが、必ずしも「食べ物」を呉れという訳ではない。彼は金の方を求めはしたが、パンや食物を求めはしてなかったのだ。片脚で、片手で杖をつきながら、大きなフランスパンを持たされたのじゃ堪ったもんじゃない。それに、まだこれから他の店で大きなパンを片手に如何な顔してバクシーシ出来るのだろう。
 その白人女はそこまで考え及ばなかったのだ。否、それは無知故仕方のないことだろう。それよりも、その女の間髪入れぬ反応と行動力の方に恐れ入ってしまった。今でもその事を思い出す毎に、件の片脚のバクシーシ氏のすっかり困り果てたような表情が眼に浮かぶ。

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 その頃の《キャピトル・レストラン》の日本人比率は三分の一ぐらいだろうか。
 青年もいれば中年のパッカーも居た。年配パッカー、当然昔からのパッカーも居て、珍しい話も聞かせて貰った。
 あるスキン・ヘッドの中年パッカーは、ソ連軍がアフガンに侵攻した一年前にアフガンに入ったらしく名勝バンデ・アミールにも訪れたという。その一年後のソ連侵攻の時は色々と大変だったらしい、と彼の友人達の話をして呉れた。
 (恐らくカブールからと思うが定かではない)、アフガンから脱出するため、車体の両側に鉄板を構えたトラックに旅行者達がめいっぱい乗り込み、今では手製銃器で有名なパキスタンのダッラまで突っ走ったらしい。現在でもタリバン達の跋扈するヤバい地域でもあるここら辺で、パシュトン達が弾丸を雨あられと撃ち込んできたという。当然何人もの負傷者が出たようだ。正にバックパッカー達の図である。

 この店で再会したシェムリアプ行のボートで一緒だった年配の日本人は、相当に旧いパッカーで、嘗てベトナム戦争の頃、在米の外人ツーリスト達は、半年以上滞在すると軍役に狩り出されたらしい。軍役に就かない場合は即国外追放。軍役に就くと、今度は米国市民権を得られ、大学も無料で入学出来る特典が与えられたらしい。彼の友人の何人かは軍役に就き、一人が重傷、何人かは死亡。賢明にも彼自身は徴兵忌避し、一旦日本に戻り、今度は偽名を使って再度米国に入国したという。当時は、かなり入国管理がずさんだったようだ。

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 プノンペンの朝は早く、六時に起き廊下の突き当たりのバルコニーから外を眺めてみると、道路にはバイクが轟きをあげて突っ走っているし、通りには露店・屋台がとっくに店を開いていて、フランスパンも売っていた。
 《キャピトル・レストラン》も早かった。
 そして、隣のゲーム屋も早い。上半身裸の子供達が朝からでもやってきて、ゲーム機の轟音が周囲に鳴り響く。そのゲーム屋の真ん前に、子供相手の屋台があり、なんやかやクチャクチャと一個100リエルのスナックをその場で食べたり片手にすぐゲーム屋に戻ったり。その頃は、皮を剥き上端を切ったオレンジを売っていて、恰度インドの庶民のマンゴーの食べ方と似て、実を一頻り揉みほぐし、中に果汁が十分に出た頃、上端の切り口から飲むのだ。伝統的一般的なカンボジアのオレンジの飲み方なのか、この屋台だけのオリジナルなのかは定かでない。

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 この頃はまだキャピトルレストランの周りにも時計の修理屋が並んでいた。

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