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2009年4月 4日 (土)

プノンペンの輝ける星  《 キャピトル 》

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  キャピトルⅡの三階のバルコニーからの眺め。右側にまだ雑草だけのマーケットの敷地。

   

   ぼくが最初にカンボジアを訪れたのは、数年前から漸くポル・ポトの呪縛から解き放たれはじめたアンコール・ワットが素晴らしいとか、バイタリティー溢れるカオスの街サイゴン(ホーチミン市)が好いとか、さんざん他の旅行者達に喧伝されてきて、フンジェラールを越える西域行も一段落して、じゃあ一つ同じルート上のカンボジア・ベトナムに行ってみようという事からだった。
 只、サイゴンは、もう'95年の時点で、謂われていたような"旬"は過ぎていて、むしろカンボジアの首府プノンペンの方が"旬"で、結局、こっちが主軸になってしまった。あの頃、まだサイゴンがバイタルな場所だったなら、またぼくの旅行地図も様相を異にしていたかも知れない。

 チケットはカオサンの《ETC》で、往復5700バーツ。
 前の月には3000バーツ台だったという。
 ロイヤル・カンボジアのまだ真新しいボーイング737-400で、3×3シート。
 客は三分の一ぐらいで、機内食はスナック程度。トマトの内側をえぐって中にむき身のエビを詰めた物は美味だった。                      
 
 夕刻に到着。
 プノンペンの黄昏は、異様なくらい広いパースペクティブに灰色の雲が全面を覆い、西の地平線上だけが奇妙に紅く染まっていた。未だ嘗てなかったような光景に思わず胸が高ぶってしまった。空港を出ると、外はすっかり夜の帳が降りていて、ひしめくバイタクの運転手達が声をかけてきた。が、成り行きで個人の乗用車に乗る運びに。プノンペンの街は、停電でもしているのかと疑ってしまうくらいに暗く、中心街に入って漸く明るくなってきた。直前に訪れたミャンマーの首府ヤンゴンの方がまだ明るかった。それでも、通りには屋台や人々が蠢いていた。
 
 《キャピトルⅠ》は3ドルだったので、2ドルの《キャピトルⅡ》にチェック・イン。
 受付のある階の奥の、廊下に面した板壁の上に空気取りの隙間がある窓なし部屋で、蚊帳付きベッドと板壁に扇風機が一台備わっているだけ。それでも電灯が明るくこれは助かった。
 出入り口のある路地は暗くぬかるんでいて、《ミポリンの店》も分からず、表側の通りの《キャピトル・レストラン》に行く。早速、受付で両替。1$=2500リエル。

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 年月が過つにつれて次第に減っていったが、当初は地雷等で片脚を失った男達のバクシーシが多かったし、普通の物乞いも多かった。新聞売りはじめ様々な物売りがやってきた。プノンペンはフランスの植民地だったせいかオープンの店が多く、彼等はそれらの店を流していっているのであって別に《キャピトル・レストラン》だけを狙ってやってくるのではなかった。
 彼等を見ているだけで飽きなかったし、昼間や夕方は車やシクロでひしめいた道路や歩道をひっきりなしに行き交う種々様々な人々をもうそれだけで一つのアトラクションか何かのようだった。《キャピトル・レストラン》はそれを堪能する絶好の場所だった。

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 物売りは総じて子供が多く、手籠にパンケーキを入れて売りにくる二人連れの小娘や、肩から下げた青いプラスチック箱の中にカンボジア歌手の音楽テープを並べて売りに来る小娘達も居た。あるいは少女や少年に先導させた盲目の楽器奏者なんかも。インドでもここでも音楽奏者には結構誰でも喜捨するものだ。一人十歳くらいの可愛い新聞売りの少年が居た。白人の若い女達に人気があるようで、当人も十分にその事を自覚している風に自信満々であった。
 物乞いは、しかし、当時のカンボジアの状況から不可避なものであって、夕闇が迫り始めると、それこそ次から次へと果てしなく男女老若関係なしに現れた。一日中屯して客の食べ残しを狙ってくる少年達はともかく、食事中の客の処に現れ、両手を眼前で合わせて何か決まり言葉を云い、自らの比較的大きめ碗に皿の上のあれこれを貰うのだった。あっちこっちで貰ってきて、ちょっと離れた物陰で家族集まって晩餐している光景はプノンペンの夜の姿として違和感なく溶け込んでいた。これも時代とともに段々減っていった。

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  ある時、これは日中だったが、一人の片脚のない男が、肥えた白人女が食事しているテーブルに近づいていって、お決まりの片手の先を自分の口に持って行く仕草をしてみせた。と、その白人女はすっくと起き上がり、その場を蹴るようにして去り、更に前の道路を駆け抜けていった。余りの直截な反応に男が驚いているのが後ろのテーブルからでも見て取れた。僕も、片脚の無い人間故にゆっくりした動作でしかなかったし、むしろ遠慮がちなアプローチだったにも拘わらず、随分と短気な短絡的な反応するもんだなーと呆れつつも、幾ら物乞いが嫌いだからって、車やシクロが頻繁に行き交う道路を突っ切って去って行くその神経を疑ってしまった。
 と、女がチョコチヨコと道路を戻って来た。
 そして、如何対応していいか困惑している男の手に一本のフランスパンを女は手渡した。何のことはない、通りの向こうまでフランスパンを買いに走ったのだった。男は更に茫然とし、まじまじと自分の手にしたフランスパンを見詰めていた。そして一層困惑の眼差しになった。
 そりゃそうなのだ。
 手先を口先にもってゆく仕草はバクシーシ(物乞い)を意味しているが、必ずしも「食べ物」を呉れという訳ではない。彼は金の方を求めはしたが、パンや食物を求めはしてなかったのだ。片脚で、片手で杖をつきながら、大きなフランスパンを持たされたのじゃ堪ったもんじゃない。それに、まだこれから他の店で大きなパンを片手に如何な顔してバクシーシ出来るのだろう。
 その白人女はそこまで考え及ばなかったのだ。否、それは無知故仕方のないことだろう。それよりも、その女の間髪入れぬ反応と行動力の方に恐れ入ってしまった。今でもその事を思い出す毎に、件の片脚のバクシーシ氏のすっかり困り果てたような表情が眼に浮かぶ。

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 その頃の《キャピトル・レストラン》の日本人比率は三分の一ぐらいだろうか。
 青年もいれば中年のパッカーも居た。年配パッカー、当然昔からのパッカーも居て、珍しい話も聞かせて貰った。
 あるスキン・ヘッドの中年パッカーは、ソ連軍がアフガンに侵攻した一年前にアフガンに入ったらしく名勝バンデ・アミールにも訪れたという。その一年後のソ連侵攻の時は色々と大変だったらしい、と彼の友人達の話をして呉れた。
 (恐らくカブールからと思うが定かではない)、アフガンから脱出するため、車体の両側に鉄板を構えたトラックに旅行者達がめいっぱい乗り込み、今では手製銃器で有名なパキスタンのダッラまで突っ走ったらしい。現在でもタリバン達の跋扈するヤバい地域でもあるここら辺で、パシュトン達が弾丸を雨あられと撃ち込んできたという。当然何人もの負傷者が出たようだ。正にバックパッカー達の図である。

 この店で再会したシェムリアプ行のボートで一緒だった年配の日本人は、相当に旧いパッカーで、嘗てベトナム戦争の頃、在米の外人ツーリスト達は、半年以上滞在すると軍役に狩り出されたらしい。軍役に就かない場合は即国外追放。軍役に就くと、今度は米国市民権を得られ、大学も無料で入学出来る特典が与えられたらしい。彼の友人の何人かは軍役に就き、一人が重傷、何人かは死亡。賢明にも彼自身は徴兵忌避し、一旦日本に戻り、今度は偽名を使って再度米国に入国したという。当時は、かなり入国管理がずさんだったようだ。

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 プノンペンの朝は早く、六時に起き廊下の突き当たりのバルコニーから外を眺めてみると、道路にはバイクが轟きをあげて突っ走っているし、通りには露店・屋台がとっくに店を開いていて、フランスパンも売っていた。
 《キャピトル・レストラン》も早かった。
 そして、隣のゲーム屋も早い。上半身裸の子供達が朝からでもやってきて、ゲーム機の轟音が周囲に鳴り響く。そのゲーム屋の真ん前に、子供相手の屋台があり、なんやかやクチャクチャと一個100リエルのスナックをその場で食べたり片手にすぐゲーム屋に戻ったり。その頃は、皮を剥き上端を切ったオレンジを売っていて、恰度インドの庶民のマンゴーの食べ方と似て、実を一頻り揉みほぐし、中に果汁が十分に出た頃、上端の切り口から飲むのだ。伝統的一般的なカンボジアのオレンジの飲み方なのか、この屋台だけのオリジナルなのかは定かでない。

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 この頃はまだキャピトルレストランの周りにも時計の修理屋が並んでいた。

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