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2009年5月の7件の記事

2009年5月31日 (日)

《 グラン・トリノ 》  9.11以後のペールライダー

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  何とも渋く凛々しい颯爽とした姿。腰の後ろにマグナム拳銃でも差し込んでいるみたい。

  クリント・イーストウッドの俳優としての最後の作品というので観に行った。
 こんなに老いてしまったのかと驚いたが、老いを強調して撮っているのだから尚更そう見えてしまったのだろう。猫背は演技なんだろうか。
 イーストウッドの有終の美を飾るに相応しい"最後"ではあった。
 もはや安直にS&W.44マグナム弾をぶち込みまくる事もなく、死期の近づいた身を、如何に愛する者達を救うために役立て得るのかという知恵と勇気の形、ほろ苦くもあるけど、これはイーストウッドの念ずる処のアメリカの採るべき姿なのかも知れない。

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 朝鮮戦争に参加した頑固な退役軍人、退役後は米国自動車産業発祥の地・デトロイトのフォードの工場で車体の組立てを何十年もやってきた。自宅の車庫に飾った件の"グラン・トリノ"も彼、コワルスキーが嘗て自分の所属するフォードの工場で組立てた一台。何十年も大事に乗り磨き上げてピカピカの新車並。所謂昔の職人気質ってところなんだろう。ところが、コワルスキーの息子達とくれば、日本車を乗り回すし、一人は日本車のディーラー。これがそもそも彼の頭にくる由縁でもあった。キャラハン警部の頃なら、「泣ける!」といまいましげに愚痴る場面。
 コワルスキーの最愛の妻の教会での葬儀から映画は始まるが、ここで早速、孫達が彼の怒りを買いまくる。我慢、我慢の連続。仕舞いには、愛車のグラントリノを臍にピアスした孫娘が、彼が死んだ後欲しいとぬけぬけと彼におねだりする始末・・・。
 破産申請しかねないGMタワー・ビルもいよいよ侘びしげなデトロイトの町は、日本車が幅をきかし始めると同時に凋落の一歩、町の空洞化が始まり治安が悪くなるばかり、金のある者達はどんどんと郊外の衛星都市に逃げ、残ったのは貧乏人の白人と多数派の黒人、そして増え始めたヒスパニックにアジアン達。
 息子が家に来ないかとか老人ホーム行きを勧めるが、到底そんな気にもなれない頑固なコワルスキーは、益々寂れる一方であっても長年住み慣れた、最愛の妻との記憶と痕跡が刻まれた家と町に住み続ける。

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 いつの間にか隣に移ってきたモン族一家、風習も価値観も違い、更にコワルスキーが嘗て従軍した朝鮮での死闘殺戮で彼の心奥にこびりついたトラウマが、代償行為的に同じアジア人たるモン族一家を更に嫌悪してしまう。
 モン族とは、タイやミャンマー、ラオスで現在でも色々とトラブルが多い少数民族で、以前ベトナム戦争の頃、米国側に着いて戦ったため、ベトナムやラオスから戦後可成り
弾圧され多くが米国に亡命していた。大国にいいように利用され捨てられ更に再利用されてしまう正に翻弄され続ける少数民族の悲哀。リーダーと称する者達の知恵の無さと一蹴してしまうのは酷であろうが、あの到底少数とは云えないチベット民族ですらその轍を踏み続けている。監督イーストウッドもそんな在米モン族の流浪史に感ずるところがあったのだろう。ブログにも在米モン族のものがあって見れる。

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 ここにも若いチンピラ達が徒党を組んで闊歩していた。
 勿論乗用車に群れ乗って。モン族にも居て、隣の息子タオを仲間に引きずり込もうする。が、タオは嫌い断るが執拗に迫り、とうとう堪えきれず仲間に入る運びとなる。で、その入団儀式として隣の老いぼれコワルスキーの"グラントリノ"を盗ませようとする。ところが、そんな柔なコワルスキーではなかった。夜中、車庫に賊が入ったのが分かると、朝鮮戦争の頃の愛銃M1ガーランドを手に賊、つまり隣のモン族の息子を追い払う。
 翌日、タオを引き連れ隣家の一家が現れ、悪事を働いたタオは一族の恥と、気が済むまでここでこき使ってくれとタオを押しつける。うざったいなとばかりコワルスキーは固辞するが、利発な姉スーの説得で承諾する。長年自分の息子家族と疎遠であったコワルスキー、そこに赤の他人とはいえ上っ面だけではない心の交流に熱いものを感じたのであろう。やがて、スーを助けたりして、一層隣家のモン族一家一族との関わりが深まって行き、ある日タオにモン族のチンピラが暴力を揮ったのにコワルスキーが怒り心頭に達し、チンピラ達一人一人に報復をする。
 だが、チンピラ達は逆にスーをレイプして復讐するに至る。

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 タオがチンピラ達を殺しに行うとするが、自宅の地下に閉じこめ、コワルスキー一人で、チンピラ達の待ち構えるアジトに赴く。以前コワルスキーに拳銃を抜いて威嚇されたことがあってチンピラ達も拳銃やマシン・ピストルで武装し待ち構えていた。
 「夕日のガンマン」や「ペールライダー」を彷彿とさせる所謂"決闘"の緊迫した場面。
 煙草を一本口にくわえ、それからゆっくりと懐に手を入れた。ライターを取り出そうとしているのか、それともいつかの如く拳銃を取り出そうとしているのか。
 さすがに、二十一世紀のデトロイトの通りでは、トランペットの高鳴る音とともに画面がグルグル廻ったりはしない。と、チンピラ達が一斉に銃の引金を引きまくり銃弾を雨あられとコワルスキーの老い病んだ身体にぶち込み続けた。どったりと背後に倒れたコワルスキーの手にはライターがしっかりと握られていた。
 町の住人達も最初から窓から覗いていて、駆けつけた警官達にチンピラ達は全員逮捕され、先ずは当分娑婆には出てこれぬ仕儀と相成り、コワルスキーの捨て身の作戦が美事功を奏したという訳だ。件のグラントリノは、遺言で、孫娘ではなく、タオのものとなったという落ちまでついていた。

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 これも一種のヒーローもので、私見では「ペールライダー」に近いとは思うが、"その後のキヤラハン警部"ならやっぱり戸棚から.44マグナム・ピストルを取り出すだろうから、やはり"9.11"以後のヒーローってことになる。イーストウッドの今までの映画の様々な場面が想い出され、彼の最後の主演作品に相応しいものなのかも知れない。スティール写真なんか見てみると、改めて渋い、絵になり過ぎだと感心してしまった。
 因みに、イーストウッド自信、嘗て朝鮮戦争に狩り出されたらしい。

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 コワルスキー   クリント・イーストウッド
 スー       アニー・ハー
 タオ       ビー・バン
 神父       クリストファー・カーレイ
 
 監督    クリント・イーストウッド
 脚本    ニック・シェンク
 撮影    ティム・スターン
 音楽    カイル・イーストウッド
       マイケル・スティーヴンズ
 制作    マルパソ・プロ  2008年作品(米国)

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2009年5月28日 (木)

夢幻境ラダック

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  シュリナガールはハウス・ボート、何のサービスがある訳でもないひたすら前の客はワインを買ってくれたチキンを買ってくれたのお強請(ねだ)り宿の"監視人"、つまりその宿の家族たる小さな息子の、長逗留させようとの監視の眼を誤魔化して前日買ったラダック・レー行きのBクラス・バス(120Rs)で、九時二十分に漸く出発。ところがチェック、チェック、チェックそして果てしなく下ってくる軍隊の車列の為に最低でも四、五時間以上ロスして、結局その日に着けず、カルギルに一泊。
 客の半分程はホテルに泊まったものの残りの半分はバスの中。無論筆者もバスに居残り組だったが、疲労と寒さと狭さで一睡も出来ず、翌朝六時に出発。途中の景色は絶品。 夕方に漸くレーに到着。しかし、驚いたのは、この町は、背後を山、前を空軍基地に囲まれていて、ラサと同様(中国みたいに露骨な弾圧はないにしても)とは云え、何とも興醒めな、シャンバラ王国も白け霞み消えてしまいかねないメタ現実主義的な布陣であった。

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  尤も、そんな雰囲気ぶち壊しの洗礼も、一旦レーの町の中へ入ってしまうと忽ちにして無化されてしまった。やはり、ラダック・レーであった。もうそこにはラダッキ達の世界が拡がっていた。宿は旧王宮下の"オールド・ラダック・ゲストハウス"。三階のWで50Rs。
 十月の下旬でもう観光的にはオフ、シャッターを閉めデリーなんかに南下する店も出始めていた。今現在は如何なったのか皆目定かでないが、92年当時は、メイン・ストリートがやはりメインの通りで、バザールの一画にバス・スタンドがあった。果物屋には、リンゴ、梨、オレンジ、バナナ、瓜、葡萄が並んでいて、梨三個7Rs。リンゴ二個3Rs。
 独特の焦茶の厚い衣装を纏ったラダッキ達がバザールや通りを闊歩し、難民とは別の中国エリアの民族衣装のチベット人達の姿も見掛けた。勿論カシミーリやヒンドゥー、ネパーリの姿も。日が過つに連れて、毎朝張る路地の真ん中に掘られた側溝の氷柱が段々厚くなってきて、外人観光客の姿も殆ど見なくなってしまった。

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 シーズンオフで、このラダック・スタイルの宿も客が疎らで、先客に一人日本人青年T君が居た。彼は、この頃旅先で頻く出会った"カイラス"経験者達の一人で、その話を聞く毎に己の不運を恨むばかり。否、何としても行きたい場所だったからだ。
 そのT君に連れられて、メインストリートに面した「アムド・カフェ」に。
 以後、アムド・カフェが行きつけの場になってしまった。聞くと、冬でも営業しているという話だった。ストーブにヤクの糞を乾燥させたものを薪代わりにくべ、結構火力はあるようだった。以前ペシャワールのカイバル・ホテルで誰かがラダックの冬は心底寒いと零していたのを思い出した。
 客の応対を一手に引き受けたA氏は三十数年前に、つまり生まれて間もないか母親の胎内に入っている内に、チベットからラダックに亡命してきたらしい。逃げる時、親達が中国軍に空爆を受けたという。それでも、彼も以前カイラスを訪れたという。そこの経営者兄弟はアムドの出身で、ラダックに亡命してそれほど年数は過ってないようで、弟の髭氏の方は、英語が今一だったのもあってか中国語を使いたがっていて、彼等の複雑な一面を見る想いがした。権力に、人としての生業・人生を引き裂かれ破壊されるとは正にそんな事でもある。

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 T君が去った後に、屋上部屋に移る。文字通りこの宿の建物の屋上にポツンと建てられた部屋で、風がモロってので寒くはあるが、何としても見晴らしが絶品。直ぐドアを開けると、真夜中のラダックの360度の展望が開け、遠く白雪を頂いたギザギザした峰々が幻想的に望め、天空いっぱいの零れるような星々。そして、王宮の辺りから、僧達の低い太鼓と地の底から鳴り響くようなホルンそしてシンバルの楽。これ以上の静寂と愉悦があろうか。マジでそう断言できる素晴らしさ。

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 アムドカフェの通りを隔てた向かいにバスの停留所があって、バスが止まり、天井に積んだ荷物を次々に降ろす傍に、おばさん達の野菜やなんかの露店がずらり並んでいて、おばさん達と野菜狙いの牛達の攻防なんかを、カフェの窓から眺め、チャイでも飲みながら日がな一日日本人ばかりが集まり雑談に花を咲かせた。こんな過ごし方は、カルカッタの南・プリーのサンタナ・ロッジ以来であった。勿論、周辺のあっちこっちのゴンパなどにも訪れたはしたが。十一月の中旬にティクセ・ゴンパで「仮面舞踏」が二日間催された事もあって、三週間以上も長居してしまった。この頃は、もう陸路は閉鎖され、飛行機のみ。

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 ティクセに行く途中に、インダス川の向こうの砂礫の丘の上に小さなスタグナ・ゴンパがある。感じが好いので訪れてみると、坊さん達のフレンドリーな対応と伴に、"ナワン・ナムギャル"とかいう古いタンカ(絵)や彫像・壁画、そして僧しか入れない部屋の向こうの暗がりに門外不出的な凄い塑像なんかが覗け見えたり、ともかく雰囲気が最高。神秘的な生きたラダック博物館って赴き。ゴンパの入口にある小さな僧院ではチャイとカシミール・ブレッドまでご馳走して貰ったり。その割には、バクシンの一ルピーすらを喜捨することも忘れた忘恩の輩であったが、笑顔で送り出して呉れた。プシュカルのガート近辺の寺院の連中とは雲泥の差。

 レーは小さな町でちょっと歩くともう郊外に出てしまい、砂礫の世界が拡がっている。 これが好きで遙々レーまでやって来たのだが、遠くの山裾に拡がった扇状地を見つけると何としても行ってみたくなってしまう。で、一人でバスに乗り近くで降りてトレッキング・ブーツでどんどん殆ど無人の砂礫の上を歩き続け漸くその"憧れの扇状地"へ辿り着いてみたら、拳くらいの岩が一面びっしりと表面を覆っていた。遠くからだとなだらかな砂地のように見えていたのが。すれ違った日本人はスニカーで歩いきたので岩の鋭い角でグッサリとスニーカーが切れてしまっていた。トレッキングブーツはこんな時強い。どんどん先を歩き続けているとやがて天候が怪しくなり空も暗くなってきて粉雪混じりの冷たい風まで吹きだしてきた。先には暗い山影が続いているばかり。結局続行中止。しかし、気分は最高。
 
 レーの町のすぐ脇をインダス川が流れていて、比較的澄んでいる。魚が居そうなので、国内では子供の頃だけで以降頭をよぎったこともなかった魚釣りを思い立った。レーの町で釣り糸と針を買った。やはりレーにも釣り人は居たのだ。しかし、チベット仏教では殺生を禁じていた。だから、その分魚も多かろうが・・・結局釣り糸を垂れることはなかった。

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 レーにもインド人ポリスが多く、夜遅くまでアムド以外のカフェで粘って宿に戻る時なんか、時折、ポリス達に長い棒で地元民がめった打ちになっている光景に何度かお目にかかった。シュリナガールのイスラム・ヒンディーの抗争がレーまで波及している関係のようだった。
 ある日、アムド・カフェの給仕専門のA氏が些か興奮気味に筆者に話したことがあった。彼が店を閉めて帰宅し、直ぐ外で爆弾が爆発し、間一髪反射的に床に伏したのが幸いして無傷で済んだという。窓ガラスは全部粉々になってしまったようだが。氏もその爆弾が、チベット人たる彼を狙ったものなのか、それとも偶々彼の家の前だったのか分からないようだったが、チベット仏教圏たるラダックもイスラム勢力が大部浸透しているようだったし、仲々ややこしい政治情勢の中に組み込まれてしまったものだ。イスラムのカシミールの独立は、今度は仏教のラダック・ザンスカールの独立をも派生させるのは必然だろうし。

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2009年5月22日 (金)

荒野の遺跡の町パガン LUCKY SEVEN G.H

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   頂度ミャンマーの観光年だったか、1995年8月にマンダレーからフェリーでイラワジ川を下りパガンへ赴いた。アンコール・ワット、ボロブドールと並ぶ三大仏教遺跡の一つとして有名で、当時漸くミャンマー(ビルマ)の国境が開き、周辺のあっちこっちの国々から陸路を通って出入り出来るようになったばかり。パガンのフェリーの発着所といっても桟橋のある波止場ではなく、長板一枚渡す赤土の船着き場で、外人を乗せたフェリーの着く木曜日だけは電気はちゃんと来るという、普段は結構停電の多い町でもあった。

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 ニャンウー村のマーケット近くの"ラッキーセブン・ゲストハウス"にチェック・イン。
 一階のファン付きシングル(朝食付き)4ドル。落ち着いた感じの宿で、玄関に馬車やサイカー(横に客を乗せるサイクル・リキシャ)の運転手達がよく屯していた。サイカーはミャンマーにしかない乗り物だが、英国の影濃いサイドカーのミャンマー版といった代物だろう。しかし、数あるサイクルリキシャの中で、一番座席のスペースが狭く、インドみたいに大家族全員が乗れるようなものではない。ドライバーにとっては楽だろう。

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 ここはミャンマーの美人の条件のふくよかさと色白を兼ね備えた女性がオーナーで、次女の旦那がマネージャー。サービス精神旺盛で愛想も良く英語で白人達の対応も出来た上出来君。日焼けか地か定かでない浅黒い肌にロンジンが様になっていた。末っ娘のユミコNymikoは美人の誉れも高く、ある写真家もすっかり惚れ込んだらしい。実際には屈託ない庶民的な相貌の美形で、その頃はまだ二十一歳で、一、二ヶ月後のヤンゴンの大学の席の空きを待って待期中。もう一人、親戚の十八歳の小麦色の肌の現代風美形のワーワー。彼女も翌年大学に行くらしかった。
 ゲストハウスの建物に隣接した母屋に朝食を食べるカフェがあり庭には吊りベンチなんかも備わっていた。母屋の土間にはテレビが置いてあり家族が椅子に坐って観ていた。この頃、ミャンマーでも、「おしん」が人気番組で皆走り寄ってきて観たものであった。

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 朝、隣の母屋のカフェのテーブルに就くと、トースト二枚、目玉焼き(卵一個)、フルーツ・ジュース、珈琲かミルクティーかCティーの一つ(パックに入ったインスタント)、パイナップル・スライスとバナナ一本の朝食。大きなサボジラ(釈迦頭)が出る時もあった。
 七時過ぎに必ず決まった坊さんが托鉢にやってくる。その後で、今度はピンクの衣の尼さん達二、三十人が現れ、順番にワーワーなんかに大きな鉢から尼さんの小さな素焼きの深皿にレンゲで食べ物を入れて貰い、何事か口で唱えながら頭に載せた盆に自分で器用に移していた。盆には御飯を入れるビニール袋や碗が並べてあって、それを手にした深皿の感触で確かめて移してゆくのだ。

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 マンダレーから同じフェリーで来たA氏は昼型の僕と違って朝が遅く、その差で微妙に待遇に開きが出ることもあった。朝一の僕にはついていた果物が彼にはなかったり、同じ物でも若干大きさに違いがあるとか。
 又、ある時、白人のカップルがやって来た折、ここは蝿が多く、二人がさすがにうんざりしていると、この屋の女達が入れ替わり立ち替わりしながら団扇で扇いでやっていて、それでも蝿がしつこくとうとう庭の吊りベンチに移って喰っていた。彼等が食べ終わり元のテーブルに戻ると、蝿を追い払う目的の扇風機が置かれてあった。しかし、僕等日本人が幾ら自分の手でしつこい蝿を追っ払っていてもそんなサービス間違ってもなかったのだが。
 これは特に白人におもねると謂うより、ともかく白人達が何やかやと一々騒さいので気を遣っているらしい。日本人は、同じ黄色同じアジア人ということで、彼等同様の感性を持っているのだからと、そんな白人にしていた気遣いを怠るのだろうが、その差は微妙で、やはり白人におもねているように思える。アジア中で見られる現象でもある。

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 ある時、カフェで談笑していると、リンゴとフライドしたお菓子のサービスなんかもあったし、通りの向かいのモーテルに泊まっている学生やなんかと話していると、マネージャーやユミコやワーワーなんかもやって来て一緒に延々と話し続けたりという家族的な雰囲気の処でもあった。
 ここの前からヤンゴン行きのバスに乗った時も、直前に二週間も滞在してくれたからと女性オーナーやユミコ、ワーワーの三人に送別会まで催して貰った。テーブルの上には、ミネラルウォーターや数種のケーキが入ったビニール袋、リンゴ、二人の娘の送辞の認められた絵はがき二枚が並べられていた。心づくしのサービスってところだ。アジアのゲストハウス数知れずといえども、美形のミャンマー娘二人に見送って貰えるなんてそうそうある事ではない。

 最初分からなかったが、僕らが来る直前に、前の通りメイン・ロードの両側に茂っていた並木を全て道路拡張工事のため切り倒したという。二週間の滞在の後半から、通りに面した両側の建物全てが拡張幅だけ切り崩す工事が始まって、余り居心地は好くはなくなってしまった。パガンは何たって熱い四十度世界、通りの左右に並木があるとないとでは雲泥の差。おまけに、両側の建物の庭の通り側に茂っていた木々も殆どが切り倒されてしまった。何とも味気ない空間に貶められ、使い古された言葉だが、パガンにもセコセコした近代化の波が押し寄せているのが実感できた。

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 この頃、シュエジゴン・パゴダの前の「ネーション」レストランが僕等の溜まり場で、行けば必ず誰かが居たって感じで、シュエジゴン・パゴダの夕景を撮るのにもってこいの場所でもあった。狭い敷地にサボジラの低い木が植えていて、黄色い花から蕾になりやがて実になって行く過程が間近に観察できもした。日中四十度世界のパガン平原にあって丁度いい位置に佇んだ避難場所でもあった。
 ここには、中国でも余りお目にかかれないらしい「中徳ビール」が飲めた。
 ヌードルスープ・ウイズ・ポーク 70K、スィートサワー・チキン 100K、ライス 20K。

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2009年5月15日 (金)

《 不夜城 》 ある経営者一家の"解放"的流転史

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  1949年中華人民共和国成立後の五十年代って、情報が少なく今一つイメージがはっきりしなかった。1957年制作の湯暁丹監督のこの《 不夜城 》、その空白を朧気ながらも明らかにしてくれた。 1957年といえば、あの悪名高い毛沢東の【 大躍進 】政策発布の前年で、その映画ができ公開になった頃はまだ、翌年から始まった盲目的な農業・工業の増産一辺倒政策の愚昧・破壊・悲惨の影も予感することもなかったのだろうか。結果、数千万の人々が餓死したという。五千万という数字もあるらしい。
 その失政で日陰に追いやられた"東方紅"・毛沢東、にも拘わらず慚愧の念を覚えたのは彼を権力の座から遠ざけた党幹部達に対してだけだったようで、あるいはタイの諺の如く、"虎に乗ると降りられない"、つまり、一旦虎(=権力)に乗ってしまうと、降りた途端虎(=次の権力)に喰い殺されてしまう、降りるに降りられなくなってしまったのか、若い紅衛兵達を巧妙に騙し・利用した【 文化大革命 】という奸策に出、復権するのだが。

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 不夜城と謂えば"上海"だが、この映画を観てまず驚いたのは、プロパガンダ的単純図式のステレオタイプかと決めつけていたら、延々と繊維印刷会社の経営者家族の三十年代から中華人民共和国成立を経て五十年代までの紆余曲折・離合集散を描いていて、最後に漸く"公私合営"という人民中国的な折衷制に落ち着いた場面で終わる。何しろ特定企業の経営者達の軌跡なので謝晋の《 紅色娘子軍 》のようなドラマチックさはないが、それでもそれなりに面白く作られていて、てっきり新・中国、中華人民共和国成立後は、即時的に、資本家階級など国外に逃亡するか叩き出されていたものとばかり想い込んでいたので、面食らってしまった。五十年代半ばですら、彼等は中国国内で以前と同様に生活していて、屋敷で豪華な晩餐すらを堪能していたのだ。

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 冒頭、袁牧之作品《 馬路天使 》の導入部分を彷彿とさせる不夜城・上海の夜景、ネオンの瞬きから始まる。三十年代からの南京路"新新"のネオンも変わらず、この頃、てっきり黄浦・外灘は死んだようになってるのかと思いきや、整然とビル群の上方にネオンや窓の灯りが煌々と耀いていて、あれれっ?と先ず意表を衝かれてしまった。オープニング・クレジットが了ると、昼間の外灘の波止場の光景に変わる。沖の方に軍艦の黒々とした姿が望め、接岸した客船から乗客が降りてくる。主人公の張伯韓が英国留学から戻ってくる場面。設定は1935年。岸壁で待っている家族の周囲にも租界の白人達の姿も、和服姿・日本髪の日本人達の姿も混じって、大部時代も下った香港映画みたいに妙な着物の着こなしとは無縁。袴姿の日本人に張伯韓の老いた父親がぶつかり、恭しく頭を下げてみせるけど只それだけで、殊更件の日本人が横柄な訳でもなく、降りてきたその日本人家族の縁者らしい女性を日本人達は相好を崩して出迎えている光景が老爺の背後で展開されていて、実に自然。何の衒いもない。
 尤も、日本の繊維会社の買弁・宗貽春の買収話が持ちかけられた日本料亭では、髷髪の国籍不明の白塗り女が給仕をしていて、当時の中国人には芸者って鼻筋の通った白人と見間違うような女のイメージなのかと笑ってしまったが。

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 父・張耀堂の《 大光明紡織印染廠 》、うち続く社会的世界的混乱の余波を受けて、経営が難しくなって、日本企業からの買収話まで持ち上がったものの、帰国した息子の張伯韓と共に、断固弾ねつけて、「愛国牌」の商標まで作ってしまう。岳父の会社と合併し、躍進一路の発展を遂げるようになる。中華人民共和国成立直前、米国企業の買弁に鞍替えしていた宗貽春と提携し先物取引に大金をつぎ込みポシャッてしまう。あげく、人民政府・中華人民共和国の成立に、多くの企業家達同様、張伯韓の周辺の者達も張伯韓や上海を見切って逃亡を謀るが、「愛国牌」の張伯韓一家には国外へ脱出するなんて思いもよらず留まる。
 国外脱出者達で溢れかえる空港のシーンは、有名なベトナム戦争終結時のサイゴンのタンソニュット空港の情景を思い起こさせる。就中グエン・カオキ元将軍・南ベトナム副大統領がトランクいっぱいのキャッシュを片手に他を蹴散らし我先がちに飛行機に潜り込んだのも有名な話で、当初は逃げ着いた米国内でも顰蹙をかい軽蔑されていたのが、今じゃ在米ベトナム人の代表格に収まっているとのこと。
 しかし、やがて成立した人民政府は、商工業維持のため企業を援助し、《 大光明紡織印染廠 》も更なる発展を遂げる。労働者達の環境も次第に改善されるようになってきたものの、まだ私企業経営者と労働者の関係に変化はない。それをいいことに張伯韓達が暴利を貪るようになったのを、社会主義思想の薫陶を受けた娘が諫める。張伯韓は、しかし、逆に娘を叩き、娘は家を飛び出し、自立の道を歩み始める。置き手紙を見て、夫婦で船着き場から上海站(駅)まで捜しに行くが後の祭り。母親の梁景萱が張伯韓をなじる。
 そんな経緯や周囲・社会の変容に張伯韓も、次第に自らの我利欲的妄執から離れ始め、とうとう自らの企業《 大光明紡織印染廠 》の"公私合営"を宣揚するに至る。人民政府と民族資本の合営らしい。
 "慶祝全市公私合営"のネオンサインの明滅する外灘で昼夜の祭典が延々と行われている最中、張伯韓等も参加している処へ、漸くわだかりも解け戻ってきた娘も現れ、喜びの大団円。

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 翌年発布された《 大躍進 》に向けたものなのか、それとも外国に逃げ出さなかった「民族資本」との"公私合営"キャンペーンの一環としてのプロパガンダだったのか、しかし、プロパガンダ映画としては余りに婉曲過ぎて体を成してなく、やはり、"公私合営"をテーマにした社会主義的リアリズム映画って処だろう。権力者ならともかく、経営者家族の流転変貌じゃ地味過ぎた題材なのが、その上、観たVCDに字幕が無いので言葉の遣り取りの内容が分からないにも拘わらず、それなりに観れてしまうのは、やはり制作者達の力量か。 
 監督の湯暁丹は、1910年生まれで、作品数も多く、上官雲珠主演の《 天堂春夢 》なんかが有名。尚、映像は殆ど白黒に薄い彩色が施してあるって感じの如何にも時代を感じさせる代物。(あるいは長年のお蔵入りでフィルムが劣化してしまったのかも知れない。)
 因みに、脚本の柯霊、案の定"文化大革命期"に、この映画の為に刑務所三年、下放三年もの辛酸を舐めさせられたという。

 VCDのコピー
 "描写対私営工商業進行社会主義改造的故事"

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 孫道臨  張伯韓
 崔超明   張耀堂
  宗貽春    鄭 敏

 監督   湯暁丹
 編劇   柯 霊
 撮影   周達明
 制作 上海電影制片庁 1957年

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2009年5月 9日 (土)

《 餃子 》 蠱惑と陶酔の禁断の霊薬

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  ホラー・オムニバス《 三更2之一 》のフルーツ・チャン監督《 餃子 》のロング・バージョン版。 恐怖映画的要素は可成り薄いけど、昼下がりの陽光の下の些か不気味な映画って処で、悪くはない小品だ。
 最近、タイで上映されたらしい歌手でもあるマイ・チャランプラー主演の《チュアット・コーン・チム》という、マイが自らの内に潜んでいた魔性にすっかり目覚め血塗られた妖女全開のホラー映画らしく是非観てみたい一作だが、これは屋台のクォッティヨー(タイの米麺)屋の女主人にマイが扮し、癪に障った連中を次から次へと屠って、自分の店のクォッティヨーの具にしてしまうという仲々凄惨な代物のようで、クォッティヨーというとスープの出汁かルーク・チン(肉団子)しか思い浮かばないが、そのルーク・チンの"チン"って中国を意味し、思わず「やっぱりな」と頷かされてしまう説得力がある。
 勿論タイには《 シーウィー 》という中国南部からの移民労働者のホラーも有名で、これは子供達の内蔵を己の病んだ胸の生薬として確保する物だったけど、中国には伝統的に若返り、回春、不死等という人間の煩悩に発した欲望の追求が徹底されていて、シーウィーも単にそのレシピに忠実だったに過ぎない。人並みのレベルの生活が出来ていればともかく、何しろ貧し過ぎた。それ故、農家の連中が近くの川で魚を釣るように、生薬の素材=子供を釣ったのだろう。子供こそいい迷惑だが、何しろ生まれてきたのがそんな社会だった。

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 陳果(フルーツ・チャン)のこの映画はスプラッター的なえぐさは希薄。むしろ耽美的な赴きすら窺え、画像も好い。中年の域に差し掛かり始めた有名なテレビ女優(李太々)が、旦那・老李が若い女と浮気するのも自分の若さが、瑞々しい肌が失われたことに起因するものと決めつけ、自分の容色の衰えが全ての不幸の元凶とばかり、中国の深圳からやって来たメイという怪しげなもぐりの回春餃子屋のアパートの一室に通うことになる。

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 実は、メイの若返りの餃子とは、女の胎盤を素材にしていたのだった。それ故に香港の怪しげなアパートの一室だったのであろう。ある日若い十五歳の娘を連れて母親が現れ、メイに堕胎を頼み込む。妊娠五ヶ月ぐらいだと堕胎は難しく、違法でもあるので断るが、尚も母親は必死に縋りつく。仕方なく、何の設備もある訳もなく、陶製の洗面台の上に跨らせて寝かせ、施術し、無事堕胎し終えはするが、路上で大量の血を流して死んでしまう。
 その娘の堕胎児をも李太々の餃子の材料として供する。
 偶然その赤く染まった胎児を見てしまって動顛した李太々だが、やはり、己が美貌を取り戻すためと、食し続ける。そのかいあってか肌もぴんと張りつるつると滑らかな若い肌に戻ってきた。張り切って昔の同窓会に思い切って出席したが、周囲のクラスメート達が急に顔を顰め鼻をひくひくさせ始めた。何か魚のような生臭い臭気が漂っていると騒ぎ始め、李太々はそれが自分の身体から漂い出ているのが分かり、慌ててその場から逃げ去ってしまう。
 自宅からメイに抗議の電話をするがかわされてしまう。恰度帰宅していた旦那の老李が会話を盗み聞きし、「人喰い」という言葉に驚き早速メイの処に確かめにいく。メイは、しかし、昔から中国では普通の習慣で、若返りや回春の効用を説き、老李も同じテーブルで餃子を食べることに。食べる傍でメイが老李を挑発し、老李は猛り狂ったようにメイにむしゃぶりつく。激しく絡まる二人であったが、ふと、老李がメイの頭越しに壁に掲げられたくすんだポスターに視線を向けた次の瞬間、ハタと動きが止まってしまった。文化大革命の頃の映画ポスターの端にメイの書き込みがしてあった。単純計算でも、もうメイは六十歳以上になってしまう。尋ねると餃子を食べつづけたお陰という。

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 李太々、医者に言っても大した事ではないと薬をくれるだけ、やはり、メイの餃子に頼るしかないとメイを尋ねるが、恰度違法堕胎手術がらみなのだろう警察が家宅捜索中で、深圳にメイが帰ってしまったのを悟り、悲嘆に暮れるが諦めるしかない。
 もうメイが居なくなったのなら、と李太々は、折から妊娠中の旦那・老李の愛人を呼び出し、金を渡す。堕胎を承知させるためであった。そして若い愛人と共に医者に赴き、中絶手術を受けさせる。引きずり出された堕胎児を李太々は、記念に飾っておくのと云って持ち帰る・・・・厨房のまな板の上に、その赤々とした老李の子供だったはずの堕胎児を載せ、すっかり餃子料理の用意も整って、大きく肉切り包丁を振り上げた。

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 雰囲気はホラーというよりもむしろ料理映画で、ミリアム・ヨンの肌から、バイ・リンの如何にも中国女って感じの服装から、餃子から実に微細な粒子を感じさせる鮮やかなクリストファー・ドイルの映像が映えている。これはやはり中年域に達したミリアム・ヨンとバイ・リンの肌に合わせたのであろうか。
 金髪ならぬ白髪に決めたレオン・カーファイに呆れてしまったが、フランス映画《ラ・マン》の時と較べると隔世の感がある。彼が、劇中、東南アジア名物にすら思える胎児の入った半ふ化茹卵を好んで食べるのも面白い。あれは回春やら精力増強の効能が唱われているのだろうか。プノンペンでよく見掛けたが、あれだけは食べようなんて気も起きなかった。
 東南アジアは人間の救いようのない底なしの業・性が見え透いた、これ見よがしな欲望博覧会の観すら呈している。勿論、香港も中国南部もその域に含まれている。

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 李太々       ミリアム・ヨン
 メイ(餃子屋)    バイ・リン
 李先生       レオン・カーファイ
 コニー(老李の愛人) メメ・ティエン
 ケイト(女学生)   ミキ・ヨン

 監督 フルーツ・チャン
 脚本 李碧華
 撮影 クリストファー・ドイル
  音楽 陳光栄
 制作 香港 2004年

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2009年5月 5日 (火)

《 六神丸奇譚 》  夜逃げ&放浪国際派・大泉黒石

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   大正・昭和に尺八一管手に日本国中を徘徊・放浪したダダイスト=ニヒリスト・辻潤と同脈の作家に大泉黒石という、こっちは同じニヒリストであっても、日本→ロシア→フランス→日本と世界を股にかけた幼少の頃からの放浪者国際派で、おまけにロシアの血まで混じっている筋金入り。それは亦、藤原新也・林芙美子等と通底する放浪的血脈でもあった。        
 大正八年、編集長・滝田樗陰に認められ《 中央公論 》に《俺の自叙伝》を連載し、好評を獲、一躍出版界の寵児となる。但し、所謂"文壇"とは最後まで拮抗・疎遠なままであったという。
 大泉黒石といえば、《老子》や《人間廃業》が代表作だが、とりあえず彼の得意の範疇でもある怪奇物の並んだ《大泉黒石全集 7》から『六神丸奇譚』を紹介したい。

 冒頭、早速当時の状況と物語の設定時代たる明治の日清戦争直前の状況を重ねてみせる。 
 「支那満州は都会であれ田舎であれ、いやもう、至る所でお目にかかる、人家の塀や城の塀にベタベタと貼られた仁丹の広告だが、よくも、ああ万遍なく行き渡ったもんでありまするなッ。さればいつぞや青島からちょっと入った江蘇省は徐州なる町の県衛門正面の影壁──というと玄関の衝立──に次のような排日檄文が貼り出されたこともあって直訳すればこうだ。」
 
 恐らく当時だと伏せ字になった箇所が多かったろう。それでも、当時中国の津々浦々まで瀰漫した日本製品、仁丹や大学目薬、味之素、獅子牙粉(ライオン歯磨き)等にかこつけて、政治的には見え見え、小説的には巧妙に当時(明治)日本で愛用され重宝がられていた中国薬"六神丸"を持ち出し、彼の故郷である長崎を舞台に探偵物と怪奇物をミックスしたような一大奇譚を展開。
 あれだけ各国を流浪していながらの彼の日本や中国に関する風俗的博識には舌を巻いてしまうけど、それ以上に止めどなく畳みかけてくるような修辞・形容にも感心してしまう。豊饒といえば豊饒なのであろうが、セリフに長崎の方言・なまりの類が殆ど見えない。この短編では見られないが、親交のあった辻潤の影響もあってか江戸言葉に興味を持ち造詣も深いと云われている。

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 舞台はポルトガル以来の白人毛唐の商館居並ぶ異人の町・長崎、面白いことに幕末から長崎には日露戦争の頃までロシア艦隊の基地があったという。ロシア水兵用の娼館もあり多くのラシャメン(洋妾)も居たらしい。尤も、小説の方は、専ら唐人街廃(な)き後の中国人達の跋扈する新町=支那町で、黒石の他の小説にも多く登場し、仲々に異国情緒溢れている。
 
 「・・・かつてはこの長崎の港街、至たるところの人家の壁やら石垣やらに、弁髪の唐人が両手を高く差しかかげ、六神丸の巻軸を広げた絵看板広告の類が目まぐるしいほど貼られていたのである。それはかかる弁髪人種の眼中に、日本なるものが余り大きく置かれてなかった日清戦争のちょっと前頃、奇薬六神丸とは因縁浅からぬ『人買船』と街人に呼ばれる唐人船が、港の沖に出没したのは、まさにこの時代でございまする。」

 上海方面から現れた"唐人船・金山号"が金貸明神岬沖に錨を下ろしてから、やにわに勃発した連続少女拐わかし事件。留置所が嫌疑者で毎晩いっぱいになるものの翌朝には皆追い出されるばかり。警察の無能に対する世間の非難が一層高まっていた。支那人居留地たる新地街管轄署長・山本正也の配下、外事課刑事・松村文助が、夜半ふらふらと千鳥足で彷徨う金山号の乗組員と覚しき弁髪の大入道の跡をこれまた似非弁髪に支那服の扮装で尾行するところから物語は始まる。
 ところが、早速途中の酒桟(いざかや)「南京飯店水亀楼」の裏口から姿を消してしまう。
 してやられた松村が署長に報告かたがたに戻ろうとして、毛唐人街に連なる三叉路に面して佇むゴシックのユダヤ教会の前で支那服の痩せた水夫風の男がウンウンと蹲り、傍に一人の丸髷の艶やかな貴婦人が按排を窺っているのに出くわした。やがて通行人達も寄ってきて、件の水夫やにわに起ち上がって取り出したのが六神丸。単なる物売りに過ぎなかったが、"金山号"の乗組員と決めつけ、署にしょっ引くとは悟られないようにそこら辺で話を訊きたいと誘って半丁も行かぬ内にこれまた忽然と姿を消してしまった。

 実は、この支那人街西端銅座側のほとりの黄檗宗支那寺の末寺・玄冥院の住職・不印和尚こそ、支那蘇州の末寺で納所(出納係)をしていた頃、博徒や六神丸の詐欺師等を集めて寺を博打会場と化し、本山の知れるところとなって追放され、長崎の玄冥院に流れてきて先代を騙して先代の死後跡目を継いだのだが、貧乏寺故に忽ち昔の本性も露わに、情婦・お瀧と寺男・馬蔵と計って少女誘拐を計った黒幕の破戒僧であった。
 金山号には、以前支那で不印に娘を攫われ六神丸屋に売り飛ばされた漢成方という巨体の大入道が乗っていて、不印の居場所を聞きつけはるばる支那から長崎に復讐にやって来て、果たして不印の目の前から不印の一人娘をかっ攫った。刑事・村松が冒頭尾行したのがその漢であった。結局村松の手によってお瀧と馬蔵は取り押さえられ、事件の真相が明らかとなった。

 「その時一人の刑事巡査が、慌ただしく駆け込んで参り、茄子を干しかためた形の不気味な、黒褐色の刺すような臭いのする代物を手にかかげながら叫ぶのであります。
 『ごらんください。驚くへし、玄冥院の坊主が創製にかかわる人間の肝の干物です!彼奴発狂しました。盗まれた娘は己が手をくだして殺したとでも思ったんでしょうか。寺の裏手の墓地をあばき、少女の死体を、蛆の這う奴をゾロゾロ引き出しては一心不乱に娘の名を叫びながら捜しております。これは薬箱の中にありました。』」

 不印一味は少女達を生薬"六神丸"の材料として拐わかしていたのだった。
 これは如何にも謎の唐人街ってイメージそのままに猟奇的サスペンスといった赴きの筆致で雰囲気に満ちている。そういえば、タイ映画 《 シーウィー 》 でも、中国南部からタイに出稼ぎに来たシー・ウィーが胸を患い苛烈な職場を転々として貧窮の内に思い至ったのが少年・少女の肺や内蔵を生薬として獲得することだった。数人の子供達が犠牲になってしまったが、元はといえば、シー・ウィーが故郷での少年時代、死刑囚達の内臓を住民達が生薬として抉り取り出してそれぞれに煎じて口にするという風習に染まっていたからだ。
 中国に限らず、一見赴きを別にするようだが、あのイエス・キリストが最後の晩餐で十二人の弟子達に執り行った祭式、イエスの肉をパンに、血を赤ワインに擬して弟子達に食させたのもその発想に於いてはそう大差はない。キリスト教では、あの聖餐・聖体拝受を象徴としてではなく、イエスの霊性を獲るために、本物のイエスの肉や血液として口にしイエスと一体化を企る儀式として行っているらしい。今風に云えば、イエスのDNAを弟子達が授かるということであり、後のクリスチャン達はその形だけではあっても基本的には同様のDNA獲得というプロセスに重きを置いているのだろう。 
 生薬として熊や鹿の内臓と人間の内臓との差は如何?
 臓器移植も口にするのとこれまたそう大して違いがあるとも思えず、否、移植の方がもっと直接的な行為と云える。人類はもうそれを当たり前のように、むしろ先端医療とか称してしたり顔すらして行っている。勿論、その臓器の出所が如何なるものであるか誰も聞きたがらない風なら、不印一味のそれとそれ程隔たった位置に立っている訳ではないだろう。

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 ロシア皇太子が訪日した折の随行員の一人として黒石の父アレクサンドル・ステパノヴィチ・ヤホーヴィチと、当時の日本側の接待役を務めたロシア文学専攻の本山恵子(十六歳)は忽ち恋に陥り、恵子は周囲の反対を押し切って結婚・出産、そして黒石を産んで一週間後に死亡。
 以後、長崎にいる恵子の親戚の処に預けられ小学校三年の時、漢口の領事だった父親の元に移る。が、幾らもしないうちに父も死去。叔母ラリーザにモスクワに連れて行かれ、ヤスナヤ・ポリヤーナに住む叔父の処にもやっかいになった。その村に当時まだ存命だった作家レオ・トルストイが近くに住んでいて言葉も交わしたらしい。しかし、叔父の嫁と馬が合わず、今度はラリーザの住んでいたパリのローマ教会のリセに移る。が、ここでは品行不良ってことで退学になり、長崎の曾祖母が亡くなったという事もあって一旦長崎に戻り、地元の鎮西学園中学を卒業。
ところが、再びモスクワに行き、小さい頃から乳母役をしていたコロドナと同棲し、スイスに移っていたラリーダから学校に通っているという事にして送金して貰って生活をしていたらしい。やがて、1917年3月12日、ロシア革命が勃発。市街戦に文字通り巻き込まれ、結局コロドナが流れ弾に当たって死亡し、再度日本に舞い戻る仕儀となった。
                          
  大正末年辺りまでが黒石の絶頂の頃で、昭和に入ってしまうと社会の雰囲気自体が閉鎖的排他的になってきて、碧眼紅毛のロシヤ=日本のハーフは様々な圧迫をモロに受けるようになり、次第に小説の世界から疎外され始め、且つ時代に頑なな黒石自身の性故に更に一層の危殆に瀕し、家族とも確執を帯び始める。飢えるとバケツ片手に少し離れた地域の畑に赴き野菜やなんかを抜いてきたりしたという。テレビだったか雑誌だったか俳優の大泉滉が父・黒石と子供の頃のそのスイカ泥棒の話をしていたのを覚えている。役者志望だった息子の滉だけが黒石になついていたらしい。
 戦時中、黒石と滉が路を歩いていると、子供達がアメリカ人と思って石を投げたりしたらしい。二人は横須賀の憲兵隊にスパイ容疑で何度も逮捕までされていたという。散々なものだ。

 尚、玉川信明 《 大正アウトロー奇譚 》 (社会評論社)の"大泉黒石・混血の戯作者"が黒石 に比較的詳しい。

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2009年5月 1日 (金)

下町情緒溢れるハノイ旧市街 1996

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   嘗て雲南省の首都・昆明とベトナムのハノイがつまらない街と喧伝された双璧であった。しかし、実際に昆明を訪れてみると、ちょっと脚(徒歩)を伸ばしてみたら何と旧い佇まいの木造民家がづらり建ち並んだ広い地域があった。所謂"旧市街"だ。仲々面白く何故こんな趣きのある町が退屈なのかさっぱり分からなかった。ところが、数年後、「世界博」とやらでその広大な旧市街の殆どを糞役人達が殲滅してしまい跡には似たり寄ったりの白っぽいマンション群が林立。腰砕けになっちまった。文字通り、評判通りの"つまらない"街に成っり落ちてしまった訳だ。まさかそんな青天の霹靂的事態に至るとは想像だにしてなかったので幾らも旧市街の写真撮ってなくて悔やまれることしきり。あるいは、ひょっとして、あの古都・洛陽の旧市街も同じ運命を辿っているのではないかと、今これを認めながらひょっと思い至った・・・中国(および地方)政府と改革開放的企業ならやりかねない。

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 そしてこのベトナムの首都・ハノイにも、少し規模が小さいがやはり旧市街があった。
 昆明や洛陽とは亦趣きの異なったベトナム風の旧い佇まいやそこに済む人々の生活は、サイゴンに較べても何倍も面白く飽きなかった。
 適度に狭い道路をはさんで、旧い町並みがずっと続き、間口のせまい種々様々な店が軒を連ね、そこをバイクや自転車、天秤棒を担いだおばさん達が所狭しと行き交っていた。ミャンマーを想わせる低い小さな椅子の茶店やフォー屋も多く、綺麗な少女や娘も多い。

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 その一画にある"アイン・シン・ゲストハウス"に泊まる。
 ツインが6ドルでドミトリーが3ドル。ドミは二階に5人部屋、三階に3人部屋。
 ここのスタッフのロイ氏は、彼の言によると、数年前に筏のジャンクで、香港からハワイ辺りまで、欧米人や日本人の女性と一緒に航海したらしく、その内の一人が本を出していてそこに載っている彼の写真のぺージを見せてくれた。フランス語は堪能だが英語は今一らしく、恰度表に設置した屋上のタンクに送水するためと排水のためのモーター(香港製)の英語の説明書を辞書と首っ引きでベトナム語に翻訳中であった。
 そこも、サイゴンの闇ホテルのオーナー家族の女性と年格好も似た利発そうな女性が切り盛りしていた。居住性的にはもう一つの感はあったけど、居心地は悪くない。只、その頃ハノイは午前中停電が多かった。

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 朝の八時頃通りに出ると、もうあっちこっちの歩道脇でフォーや普通の食事の出来る露店等の、例の小さく低い椅子とちゃぶ卓を囲んで朝食の真っ最中。通りいっぱいにママゴトが繰り広げられているようで、仲々壮観であった。
 それでも、アイン・シンの前の右端に溜まっていた天秤棒担ぎのおばさん達が、ふと急に慌てて天秤棒を担いで逃げ出し始めた。何事かと驚いて見ていると、果たしてポリス達が現れ、運の悪いおばさんが天秤棒の紐を掴まれてしまった。雲南の昆明の橋の上でも同じような光景にお目にかかった。サイドカー附きのバイクが突っ込んできて、捕まったおばさんの天秤棒の品物を橋から川に放り捨てていた。ポリス達が去ると再び亦皆ゾロゾロと戻り始めた。
 似たような攻防は、もっとホアン・キエム湖寄りの通りにある書店の前でも行われていた。こっちはもっと組織だっていて、等間隔に並べられた椅子に坐ったりハサミをカチャ、カチャ鳴らしながら立ったりしながらの何とも手の込んだ闇の食物屋を商っていた。正に改革開放ならぬ、薄氷を踏んでの資本主義化"刷新"(ドイモイ)的展開という訳だ。

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 下町なんで露店や小店も面白く、カメラを提げてテクテク歩いていると、ある店のおばさんに手招きされ、中に入ると、三人組の中学生ぐらいの娘達が低いちゃぶ卓の上でコップの中味をスプーンでグチャ、グチャ掻き回しながら美味そうに食べていた。可愛い娘チャン達が食べているなら大丈夫だろうと同じ物を注文。瓶に入っていた茶色っぽい乾燥果物を先ずコップに入れ、次にナッツ類、細かく砕いた氷、薄茶色の粘液状の物をたっぷりその上にかけ、更に冷蔵庫から取り出したココナッツか何かの細く麺状にカットしたものをトッピングして出来上がり。娘達を真似してクチャクチャ掻き回しながら食べたが、味は悪くなかった。"Che Thap Cam"と云うらしい。(3000ドン)
 中国の湯元(圓)に似た甘味の類もあり、中に木の実の砕いた餡が入っていてシロップをかけて呉れる。甘さは薄目で悪くない。湯元同様、湯(スープ)の中に入ったのもある。お猪口のような湯飲茶碗にベトナム茶附き。(1500ドン) 
 フォーも、定番と決め込んでいたパクチーではなく、春菊の入った店もあった。パクチー食べれなくもないが、好きでもなく、やはり春菊のあの爽やかな香りのフォーも亦格別であった。

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  この時期ハノイは肌寒く、天秤棒おばさん達以外の一般住民達はセーターやマフラーまで首に巻いた冬支度。寒い日は17、18度ぐらいで、ふと出店の鍋の中の濃いスープに豆腐や肉が浮き湯気が立っているのを見ると、ふと自分の身体まで温かくなってくるように思えてしまう。が、同じ頃、サイゴンはそこまではなっていないらしかったが、中部のフエなんかはフロッド(洪水)であった。

  二階のドミは日本人が多かった。入れ替わりも激しく、すぐイラン人や白人が入れ替わり入ってきた。イラン人のパッカーは、長い一人旅のせいか、独り言や、一人笑いしたと思ったら慌てて笑い声を押さえたりして、彼の母国の国情を思い合わせると侘びしさと憐れみの念すら覚えてしまった。

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  この時、後にイエメンに入国すべくヴィザを取ろうと、通りで買った地図を頼りにサムローに乗って捜してみたがとっくに移転してしまったようで記載された場所にはなく、キム・マー通りの外務関係の建物のレセプションで訊いてみるとそこの青年が電話で聞いてくれたものの分からずじまい。帰路、イスラムっぽい国旗を掲げた大使館を見つけ中で尋ねてみた。そこはなんとカダフィーの写真を掲げたリビア大使館であった。 そこのベトナム人女性スタッフが問い合わせてくれたが、何とイエメン大使館は現在ベトナムには存在しないと教えてくれた。三年くらい前に内戦か経済的な理由でか引き揚げたらしい。存在しないとは・・・愕然としてしまった。

 十日以上滞在し、フエに南下することとなった。
 駅の外人用窓口でチケットを購入。
 "S1" 19時発、翌朝8時58分着。ソフト・シートで、293000ドン。
    (ハード・ベッド:444000ドン。 ソフト・ベッド:520000ドン。)

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