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2009年5月22日 (金)

荒野の遺跡の町パガン LUCKY SEVEN G.H

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   頂度ミャンマーの観光年だったか、1995年8月にマンダレーからフェリーでイラワジ川を下りパガンへ赴いた。アンコール・ワット、ボロブドールと並ぶ三大仏教遺跡の一つとして有名で、当時漸くミャンマー(ビルマ)の国境が開き、周辺のあっちこっちの国々から陸路を通って出入り出来るようになったばかり。パガンのフェリーの発着所といっても桟橋のある波止場ではなく、長板一枚渡す赤土の船着き場で、外人を乗せたフェリーの着く木曜日だけは電気はちゃんと来るという、普段は結構停電の多い町でもあった。

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 ニャンウー村のマーケット近くの"ラッキーセブン・ゲストハウス"にチェック・イン。
 一階のファン付きシングル(朝食付き)4ドル。落ち着いた感じの宿で、玄関に馬車やサイカー(横に客を乗せるサイクル・リキシャ)の運転手達がよく屯していた。サイカーはミャンマーにしかない乗り物だが、英国の影濃いサイドカーのミャンマー版といった代物だろう。しかし、数あるサイクルリキシャの中で、一番座席のスペースが狭く、インドみたいに大家族全員が乗れるようなものではない。ドライバーにとっては楽だろう。

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 ここはミャンマーの美人の条件のふくよかさと色白を兼ね備えた女性がオーナーで、次女の旦那がマネージャー。サービス精神旺盛で愛想も良く英語で白人達の対応も出来た上出来君。日焼けか地か定かでない浅黒い肌にロンジンが様になっていた。末っ娘のユミコNymikoは美人の誉れも高く、ある写真家もすっかり惚れ込んだらしい。実際には屈託ない庶民的な相貌の美形で、その頃はまだ二十一歳で、一、二ヶ月後のヤンゴンの大学の席の空きを待って待期中。もう一人、親戚の十八歳の小麦色の肌の現代風美形のワーワー。彼女も翌年大学に行くらしかった。
 ゲストハウスの建物に隣接した母屋に朝食を食べるカフェがあり庭には吊りベンチなんかも備わっていた。母屋の土間にはテレビが置いてあり家族が椅子に坐って観ていた。この頃、ミャンマーでも、「おしん」が人気番組で皆走り寄ってきて観たものであった。

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 朝、隣の母屋のカフェのテーブルに就くと、トースト二枚、目玉焼き(卵一個)、フルーツ・ジュース、珈琲かミルクティーかCティーの一つ(パックに入ったインスタント)、パイナップル・スライスとバナナ一本の朝食。大きなサボジラ(釈迦頭)が出る時もあった。
 七時過ぎに必ず決まった坊さんが托鉢にやってくる。その後で、今度はピンクの衣の尼さん達二、三十人が現れ、順番にワーワーなんかに大きな鉢から尼さんの小さな素焼きの深皿にレンゲで食べ物を入れて貰い、何事か口で唱えながら頭に載せた盆に自分で器用に移していた。盆には御飯を入れるビニール袋や碗が並べてあって、それを手にした深皿の感触で確かめて移してゆくのだ。

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 マンダレーから同じフェリーで来たA氏は昼型の僕と違って朝が遅く、その差で微妙に待遇に開きが出ることもあった。朝一の僕にはついていた果物が彼にはなかったり、同じ物でも若干大きさに違いがあるとか。
 又、ある時、白人のカップルがやって来た折、ここは蝿が多く、二人がさすがにうんざりしていると、この屋の女達が入れ替わり立ち替わりしながら団扇で扇いでやっていて、それでも蝿がしつこくとうとう庭の吊りベンチに移って喰っていた。彼等が食べ終わり元のテーブルに戻ると、蝿を追い払う目的の扇風機が置かれてあった。しかし、僕等日本人が幾ら自分の手でしつこい蝿を追っ払っていてもそんなサービス間違ってもなかったのだが。
 これは特に白人におもねると謂うより、ともかく白人達が何やかやと一々騒さいので気を遣っているらしい。日本人は、同じ黄色同じアジア人ということで、彼等同様の感性を持っているのだからと、そんな白人にしていた気遣いを怠るのだろうが、その差は微妙で、やはり白人におもねているように思える。アジア中で見られる現象でもある。

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 ある時、カフェで談笑していると、リンゴとフライドしたお菓子のサービスなんかもあったし、通りの向かいのモーテルに泊まっている学生やなんかと話していると、マネージャーやユミコやワーワーなんかもやって来て一緒に延々と話し続けたりという家族的な雰囲気の処でもあった。
 ここの前からヤンゴン行きのバスに乗った時も、直前に二週間も滞在してくれたからと女性オーナーやユミコ、ワーワーの三人に送別会まで催して貰った。テーブルの上には、ミネラルウォーターや数種のケーキが入ったビニール袋、リンゴ、二人の娘の送辞の認められた絵はがき二枚が並べられていた。心づくしのサービスってところだ。アジアのゲストハウス数知れずといえども、美形のミャンマー娘二人に見送って貰えるなんてそうそうある事ではない。

 最初分からなかったが、僕らが来る直前に、前の通りメイン・ロードの両側に茂っていた並木を全て道路拡張工事のため切り倒したという。二週間の滞在の後半から、通りに面した両側の建物全てが拡張幅だけ切り崩す工事が始まって、余り居心地は好くはなくなってしまった。パガンは何たって熱い四十度世界、通りの左右に並木があるとないとでは雲泥の差。おまけに、両側の建物の庭の通り側に茂っていた木々も殆どが切り倒されてしまった。何とも味気ない空間に貶められ、使い古された言葉だが、パガンにもセコセコした近代化の波が押し寄せているのが実感できた。

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 この頃、シュエジゴン・パゴダの前の「ネーション」レストランが僕等の溜まり場で、行けば必ず誰かが居たって感じで、シュエジゴン・パゴダの夕景を撮るのにもってこいの場所でもあった。狭い敷地にサボジラの低い木が植えていて、黄色い花から蕾になりやがて実になって行く過程が間近に観察できもした。日中四十度世界のパガン平原にあって丁度いい位置に佇んだ避難場所でもあった。
 ここには、中国でも余りお目にかかれないらしい「中徳ビール」が飲めた。
 ヌードルスープ・ウイズ・ポーク 70K、スィートサワー・チキン 100K、ライス 20K。

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