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2009年5月28日 (木)

夢幻境ラダック

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  シュリナガールはハウス・ボート、何のサービスがある訳でもないひたすら前の客はワインを買ってくれたチキンを買ってくれたのお強請(ねだ)り宿の"監視人"、つまりその宿の家族たる小さな息子の、長逗留させようとの監視の眼を誤魔化して前日買ったラダック・レー行きのBクラス・バス(120Rs)で、九時二十分に漸く出発。ところがチェック、チェック、チェックそして果てしなく下ってくる軍隊の車列の為に最低でも四、五時間以上ロスして、結局その日に着けず、カルギルに一泊。
 客の半分程はホテルに泊まったものの残りの半分はバスの中。無論筆者もバスに居残り組だったが、疲労と寒さと狭さで一睡も出来ず、翌朝六時に出発。途中の景色は絶品。 夕方に漸くレーに到着。しかし、驚いたのは、この町は、背後を山、前を空軍基地に囲まれていて、ラサと同様(中国みたいに露骨な弾圧はないにしても)とは云え、何とも興醒めな、シャンバラ王国も白け霞み消えてしまいかねないメタ現実主義的な布陣であった。

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  尤も、そんな雰囲気ぶち壊しの洗礼も、一旦レーの町の中へ入ってしまうと忽ちにして無化されてしまった。やはり、ラダック・レーであった。もうそこにはラダッキ達の世界が拡がっていた。宿は旧王宮下の"オールド・ラダック・ゲストハウス"。三階のWで50Rs。
 十月の下旬でもう観光的にはオフ、シャッターを閉めデリーなんかに南下する店も出始めていた。今現在は如何なったのか皆目定かでないが、92年当時は、メイン・ストリートがやはりメインの通りで、バザールの一画にバス・スタンドがあった。果物屋には、リンゴ、梨、オレンジ、バナナ、瓜、葡萄が並んでいて、梨三個7Rs。リンゴ二個3Rs。
 独特の焦茶の厚い衣装を纏ったラダッキ達がバザールや通りを闊歩し、難民とは別の中国エリアの民族衣装のチベット人達の姿も見掛けた。勿論カシミーリやヒンドゥー、ネパーリの姿も。日が過つに連れて、毎朝張る路地の真ん中に掘られた側溝の氷柱が段々厚くなってきて、外人観光客の姿も殆ど見なくなってしまった。

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 シーズンオフで、このラダック・スタイルの宿も客が疎らで、先客に一人日本人青年T君が居た。彼は、この頃旅先で頻く出会った"カイラス"経験者達の一人で、その話を聞く毎に己の不運を恨むばかり。否、何としても行きたい場所だったからだ。
 そのT君に連れられて、メインストリートに面した「アムド・カフェ」に。
 以後、アムド・カフェが行きつけの場になってしまった。聞くと、冬でも営業しているという話だった。ストーブにヤクの糞を乾燥させたものを薪代わりにくべ、結構火力はあるようだった。以前ペシャワールのカイバル・ホテルで誰かがラダックの冬は心底寒いと零していたのを思い出した。
 客の応対を一手に引き受けたA氏は三十数年前に、つまり生まれて間もないか母親の胎内に入っている内に、チベットからラダックに亡命してきたらしい。逃げる時、親達が中国軍に空爆を受けたという。それでも、彼も以前カイラスを訪れたという。そこの経営者兄弟はアムドの出身で、ラダックに亡命してそれほど年数は過ってないようで、弟の髭氏の方は、英語が今一だったのもあってか中国語を使いたがっていて、彼等の複雑な一面を見る想いがした。権力に、人としての生業・人生を引き裂かれ破壊されるとは正にそんな事でもある。

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 T君が去った後に、屋上部屋に移る。文字通りこの宿の建物の屋上にポツンと建てられた部屋で、風がモロってので寒くはあるが、何としても見晴らしが絶品。直ぐドアを開けると、真夜中のラダックの360度の展望が開け、遠く白雪を頂いたギザギザした峰々が幻想的に望め、天空いっぱいの零れるような星々。そして、王宮の辺りから、僧達の低い太鼓と地の底から鳴り響くようなホルンそしてシンバルの楽。これ以上の静寂と愉悦があろうか。マジでそう断言できる素晴らしさ。

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 アムドカフェの通りを隔てた向かいにバスの停留所があって、バスが止まり、天井に積んだ荷物を次々に降ろす傍に、おばさん達の野菜やなんかの露店がずらり並んでいて、おばさん達と野菜狙いの牛達の攻防なんかを、カフェの窓から眺め、チャイでも飲みながら日がな一日日本人ばかりが集まり雑談に花を咲かせた。こんな過ごし方は、カルカッタの南・プリーのサンタナ・ロッジ以来であった。勿論、周辺のあっちこっちのゴンパなどにも訪れたはしたが。十一月の中旬にティクセ・ゴンパで「仮面舞踏」が二日間催された事もあって、三週間以上も長居してしまった。この頃は、もう陸路は閉鎖され、飛行機のみ。

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 ティクセに行く途中に、インダス川の向こうの砂礫の丘の上に小さなスタグナ・ゴンパがある。感じが好いので訪れてみると、坊さん達のフレンドリーな対応と伴に、"ナワン・ナムギャル"とかいう古いタンカ(絵)や彫像・壁画、そして僧しか入れない部屋の向こうの暗がりに門外不出的な凄い塑像なんかが覗け見えたり、ともかく雰囲気が最高。神秘的な生きたラダック博物館って赴き。ゴンパの入口にある小さな僧院ではチャイとカシミール・ブレッドまでご馳走して貰ったり。その割には、バクシンの一ルピーすらを喜捨することも忘れた忘恩の輩であったが、笑顔で送り出して呉れた。プシュカルのガート近辺の寺院の連中とは雲泥の差。

 レーは小さな町でちょっと歩くともう郊外に出てしまい、砂礫の世界が拡がっている。 これが好きで遙々レーまでやって来たのだが、遠くの山裾に拡がった扇状地を見つけると何としても行ってみたくなってしまう。で、一人でバスに乗り近くで降りてトレッキング・ブーツでどんどん殆ど無人の砂礫の上を歩き続け漸くその"憧れの扇状地"へ辿り着いてみたら、拳くらいの岩が一面びっしりと表面を覆っていた。遠くからだとなだらかな砂地のように見えていたのが。すれ違った日本人はスニカーで歩いきたので岩の鋭い角でグッサリとスニーカーが切れてしまっていた。トレッキングブーツはこんな時強い。どんどん先を歩き続けているとやがて天候が怪しくなり空も暗くなってきて粉雪混じりの冷たい風まで吹きだしてきた。先には暗い山影が続いているばかり。結局続行中止。しかし、気分は最高。
 
 レーの町のすぐ脇をインダス川が流れていて、比較的澄んでいる。魚が居そうなので、国内では子供の頃だけで以降頭をよぎったこともなかった魚釣りを思い立った。レーの町で釣り糸と針を買った。やはりレーにも釣り人は居たのだ。しかし、チベット仏教では殺生を禁じていた。だから、その分魚も多かろうが・・・結局釣り糸を垂れることはなかった。

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 レーにもインド人ポリスが多く、夜遅くまでアムド以外のカフェで粘って宿に戻る時なんか、時折、ポリス達に長い棒で地元民がめった打ちになっている光景に何度かお目にかかった。シュリナガールのイスラム・ヒンディーの抗争がレーまで波及している関係のようだった。
 ある日、アムド・カフェの給仕専門のA氏が些か興奮気味に筆者に話したことがあった。彼が店を閉めて帰宅し、直ぐ外で爆弾が爆発し、間一髪反射的に床に伏したのが幸いして無傷で済んだという。窓ガラスは全部粉々になってしまったようだが。氏もその爆弾が、チベット人たる彼を狙ったものなのか、それとも偶々彼の家の前だったのか分からないようだったが、チベット仏教圏たるラダックもイスラム勢力が大部浸透しているようだったし、仲々ややこしい政治情勢の中に組み込まれてしまったものだ。イスラムのカシミールの独立は、今度は仏教のラダック・ザンスカールの独立をも派生させるのは必然だろうし。

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