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2009年6月の6件の記事

2009年6月30日 (火)

廃れゆく町  門司港

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  藤原新也の我が心の源郷として、そして官製観光地としてすっかり人口に膾炙した門司港、しかし、その擬制観光エリアとはきっかり一線を画した地域エリアでは、時々刻々歯抜け現象が深化し続けていている。
 地域エリアにも、準-観光エリアたる所謂レトロな旧い佇まいらしい微少な一画あるいは建物が在って、皆一様に増々老朽化が進み、新也指定の中華麺館「朋友」なんて朽ち果てる寸前とばかりに別のコンクリの建物に移ってしまった。見上げると、もうその下に居ることさえ危険で、何故こうなる前に手を打たなかったのだろうと無駄とは分かっていても、つい小首を傾げてしまった。「朋友」にそんな経済的余裕がなかったのだろうが、問題はしかしそこには無いのはではないだろうか。個人的には、あんな馬鹿デッカイ社用族や役人輩の遊興の場・料亭三宜楼より大正末か昭和初期を想わせる二階建ての庶民的な「朋友」の方が気には入っていた。

 
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 そこから五分くらいの錦町エリアの路地から更なる路地に入った裏通りの両側に戦後の赤線時代の名残りが連なっている小さな一画がある。
 ここも、観光人力車のコースになっているようだ。明らかに廃屋然とした建物もあれば微かに人の痕跡を認められる建物もあるといった色褪せたかそけき佇まい。タイル張りの構えに、あれっ、何処かで見た覚えがあるなーとあれこれ記憶をまさぐっても杳として明らかにならなかったのが、あるサイトに記されてあって漸く戦後の赤線時代の産物と判明。そんな時代知る訳もなく、映画や写真で得られた記憶だったのだろう。

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 過疎化で増々歯抜け現象が進行しているこの町も、このシリーズのカテゴリーに入るなと、ふと試しにブログを二、三覗いてみたら、筆者の意表を衝いて、何ともおぞましい惨状を呈していた事を知ってしまった。
 詳細はリンクの方で見て貰うとして、この町のあちこちの公営アパートで、特に老齢者達の生活苦ゆえの餓死・自殺が相次いでいたらしい。
 勿論現在進行形であって、事態は更に悪化するばかりなのはこの国の政治ってのが如何なものか分かるなら誰にでも推論できる事。否、インフルエンザの比ではないくらいにやがて列島中に瀰漫するのも必至。困窮者が役人に最低限度の保護=生活保護を求めても一向に対応する気もなく、どころか申請すらさせなかったという。生活保護を何か行政が、納税者・住民に対して行う慈善事業とでも勘違いしているとしか思えない。一方的に税金を徴収するだけならヤクザがしょば代やみかじめ料を徴収するのと寸分の違いもない。そもそもそこに住んでいるというだけで別に税金なんかを払う理由(いわれ)はない。
 
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 当然、徴収は徴収した側の「義務」を前提とする。
 つまり、納税者達を「保護」するのは義務。「生活保護」ってのは何か突発的な問題が起きた折以外には普通あり得ない代物で、それ以外の生活保護をそもそも必要とする人間が居るってこと自体が、行政の無能と無責任を意味し、つまりもう彼等はそんな位置(ポジション)に就いていられない事をも意味する。況や政治家なら尚更。
 つまり、彼等はこの国には全く必要でないし、別の職業に就いて貰う他ないのだが、実際にはどころか、延々としがみつき、更に如何なに悪事がばれても仲間内で普通は給料の幾パーセントかの減棒で済ませている札付きの寄生者達なのだ。戦前もそうだったし、戦後も一貫して無能・無責任そして果てしない悪事と地方・国の荒廃をきたしてきた張本人達だ。

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 以前テレビも取り上げていて、追求するマスコミに地元の役所の役人輩が目を血走らさせ真っ黄色い牙を剥きだして吠えたてていたのを覚えているけど、何故か丁度福岡の酒酔運転殺人犯の役人や東京湾沖イージス艦漁船員殺人事件の艦長と同じ精神構造と感性の持主達なんだなーと、改めて彼等の相似性に感心してしまった。要するに「自分達には一片だの落度も無い!」という訳だ。報道された頃は、まだそこまで陰惨な情況になっているとは思いもしなかった。
 そんな連中(役人・為政者)に、ゴミか何かのようにあしざまに罵られ叩き出されて死んでいった人々の無念と絶望と怨念が、あちこちの廃屋・廃墟の燻すんだ板壁の染みや割れた窓ガラスの奥の暗闇に、一瞬覗け見えたようなそこはかとなく救いようのない哀れさと無常さ。

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  ひっそりと静まり返った死んだような町、そしてそれは一層有害な排気ガスを撒き散らし周辺の住民達の健康を害し続け、地球の健康すら延々と損ないつづけている、轟音と埃のトラック・バス・乗用車が道路・路地の隅々までひしめき続ける「活性化」した町と相補である。公営アパートも撮っておこうと思ったが、余りにしんどく又別の機会にとっておく事にした。一、二昔前の公営アパートの、空部屋を通り越して廃室とも云うべき荒んだ雰囲気を漂わした佇まいに、違和感を覚えなくなってもう久しい。                                                                               

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2009年6月24日 (水)

《理想郷シャンバラ》田中真知   宗教的危機の時代のイデオロギー

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      カルキ

  「・・・チベットの伝承は語ってます。
 今から二千五百年前、ブッダはカルカッタの近くのバンデン・ティエポンというところでシャンバラ最初の王ダワ・サンポ(スチャンドラ)にカーラチャクラ(時輪)の教えを説いたと・・・」(『理想郷シャンバラ』田中真知)
 
 オウム真理教や麻原彰晃にとって何だったのか詳びらかでないけれど、チベット仏教やボン教に興味なくても、一時人口に膾炙した《シャンバラ》。
 想像力溢れた旅人達にも"チャン(北)・シャンバラ"のマントラに魅せられてラサから北をあちこち巡り廻った者少なからずであったろう。筆者も関心だけは十分に持っていて、ダライ・ラマの亡命政府の在所のダラムサラを訪れた折、付属図書館に通って、さっぱりのチベット語書籍以外の英語表記の書籍をあれこれ確かめてみたものの、仲々これといったシャンバラ関係の書籍に巡り会えなかった。恐らくチベット文字で認められた書籍の中にこそ、ひっそりと秘密の扉が開かれていたのであろう。
 図書館のある一画の外れの寺院で、ハリウッド映画《アルタード・ステート》で使われた"チベット仏教音楽"と同じものが僧達によって誦され奏でられるのを偶々居合わせたイタリア人カップルとチャイまで供され寺院内で拝聴出来るチャンスを得られた事だけが唯一の僥倖であった。何しろ間近で生なので迫力が違った。あの音楽、少々じゃなく雰囲気あって素晴らしいのだが、CD捜してもてんで見つからず殆ど諦め状態。
 
 国内でもこれと云ってシャンバラ自体に言及した物ってそうそうなく、ニコライ・レーリッヒの《シャンバラへの道》は悪くないが、ちょっと違うし、結局、読物的な好奇心も満足させつつ入門書として且つ包括的にシャンバラについて書かれた唯一のものとして、かの田中真知の《理想郷シャンバラ》(学研)についてしまう。実にコンパクトに纏められた好書で、"ポケット・ムー"シリーズの一つとして、又国内のシャンバラ本としてはもう古典の領域に入っていると云っても過言ではない。

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       グルジエフ

 田中真知に依れば、シャンバラとは、中央アジアの何処かにある選ばれた者にのみ開かれた聖なる理想郷って処だが、中世インドで、イスラムの侵攻に危機感を抱いたヒンディー達が、それに対抗するために構築した思想・理論体系って話有名で、当時のインド仏教に於いても同様の顛末だったらしい。更にチベット仏教に於いても。要するにこの地上そのままではない不可視の世界、地底であったり遙かヒマラヤの山間ってのが、些かダラムサラのダライ・ラマ亡命政府とダブって、緊張した危機意識ってものをひしひしと感じさせる。
 田中は云う。西方で起こった野蛮なラ・ロの教え(イスラム教)、その信者達が数え切れないほど多数の仏教寺院を破壊し、野蛮で強引な方法で人々を支配し、勢力を拡大し、ついには西暦二十四世紀、シャンバラにその矛先を向けるようになる。二十五代目のシャンバラの王カルキ(ラウドチャクリン)が十二神の軍隊を率いて、ラ・ロ軍と凄まじい戦いを繰り広げ、結局勝利する。

 早い話、宗教戦争って処だけど、今現在も、世界はイスラム・キリスト教の元はユダヤ教の兄弟一神教が数的に圧倒していて、仏教なんて微々たる勢力に過ぎない。イスラムとキリスト教が、中国でもじりじりと浸透し続けているらしい。多神教のインドのヒンドゥーと併せて漸くナンボの仏教なのだ。一神教なんて、現実と彼等の歴史自体で破綻していると一蹴する筆者から観れば、正に現実世界の救いようの無さがその蒙昧性そのものと単純・簡単に理解できるので、しかし、では、仏教はといえば、ブッダから甚だ遠い乃至は無縁なところにあるとは多くの人達が指摘してきた通りでもあって、そもそも宗教が現実に一体何を為し得るのか、本当に人々を救えるのかなんて初歩的(基本的)な問いを立て直さなければならなくなってくる。

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 それに又、王だ、聖人だ、神だと絶対専制支配の全体主義国家そのままじゃ、ちょっと遠慮させて欲しい。物事の論理・筋道ってのは、水が上から下に流れるような理(ことわり)なんで、如何なに華々しい肩書きを軍人達のように肩や胸にこれ見よがしにキンキンラと飾り付けてみせた処で、所詮、もはや寄生虫の代名詞の感のある政治屋・官僚と寸分の違いもない。"聖人支配"と銘打った処で所詮それ以上のものではない。そこで老子の"小国寡民"、"限りなく支配せぬ王"の政治の原理と相俟って検討を要することになろう。今こそ、シャンバラは、自由と平等が親和的に遍(あまね)く構造化された理想郷=社会として捉え返し再構築すべき時だろう。

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      画家ニコライ・レーリッヒ

 オッセンドウスキーの「アガルタ」、ヒトラー=ナチと結びつくブルワー・リットンの「来るべき民族」やハウスホッファーの「ヴリル・パワー」、ミルチャ・エリアーデの「ホーニヒベルガー博士の秘密」、グルジエフの「サルムング教団」等様々な"ムー"らしい面白説話を網羅していて飽きない。旅行作家としてすっかり有名になってしまった田中真知、この本の初版からもうかれこれ二十五年、そろそろ本格的なシャンバラ物を書いて欲しいものだ。

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     徐松波

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2009年6月22日 (月)

廃れゆく町 JR筑豊本線・飯塚(樽屋町)

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 一、二時間に一本というスーパー・ローカルな路線バスを待つ合間に、ちょっとぶらついてみただけの文字通りの通りすがりであったが、初めての町を散策するってのはやはり些かの期待感も手伝って蠱惑的なものだ。筆者が訪れたのは二年ぐらい前であったと思う。はっきり覚えてないけど、CDには二年前の日付が認められているので間違いないだろう。

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 正確に云うと、筆者が降り立ったのはこの飯塚駅じゃなくてこの町のすぐ脇を流れている遠賀川を挟んだ対岸の新飯塚駅であった。勿論徒歩で行き来出来る距離圏だ。橋を渡ってどんどん訳も分からず進んでいった行った挙げ句が、地方の何処にでもある商店街。江戸時代から宿場町として栄え、明治に入ってからは石炭の町として隆盛を極めてたのが、戦後は廃れる一方で過疎化も進行したらしい。それでも、何時の間にか学生の街として持ち直し、現在のところ更なる過疎化の深化からは免れているらしかった。それでも、さすが昼間は、若者の姿は殆ど見当たらなかった。

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 数年前に合併・併合し、人口八万から十三万になったという。見た感じ、八万というのが相応って町並みであった。僕がこの町の名で知っているのは、何年か前の集中豪雨の折に有名になった「嘉穂劇場」だけで、結局何処にあるのか分からずじまいになってしまったが、この町の特産は、歌手の井上陽水と麻生太郎らしい。陽水が幾らかっこうつけて洗練ぶろうとしても、如何にも残ってしまう地黒さ加減が、炭坑の町ってところで了解出来たような気がした。尤もここは炭坑の現場ではなく、全国から集まってきた坑夫やその家族達が買物や遊びに訪れる町だったようだ。件の「嘉穂劇場」もそんな場の一つだったのだろう。ちょっと時代が前後するが、少女時代の林芙美子もこの町に買物や観劇に訪れたのかも知れない。

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 ここの何本もある商店街は結構長く、地方色に溢れてはいるけど、やはりメインを外すとシャッターの降りた処や張紙をした処も少なくなかった。そんな、裏寂しい商店街を歩いていて、ふと狭い路地の向こうに、も一つ仄暗い路地が平行に続いているのが覗け、おおっとばかり、分け入ってみると、果たして直ぐにそれと分かってしまうネオン看板の類が狭い細路の両端に点々として連なって居るではないか。只、昼間ではあるけど、ちょっと妙に乾いた雰囲気が気になって、じっくりカメラ片手に確かめているうち、大半が廃墟とまで朽ち落ちてはいないものの空屋であるらしい事が分かってきた。

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 本当に狭い路地にも拘わらず、間口の狭いスタンド・バーの類ばかりという訳でもなく、普通のパブやなんかも看板を出していた。勿論とっくに廃屋となって久しい赴きではあったけれど。仲々に怪しげな雰囲気が好い。
 昼尚薄暗く殆ど人影もない通りは、しかし、夜の帳が降りてしまうと真の漆黒と化してしまうのだろうか。それとも、一軒だけポツンと赤々とした灯りの点った店が妖しく軒上に燐光など燃やしながら人待ち顔に佇んでいるのだろうか。
 それも、一つの風情。そろそろ列島中が熱帯夜にうなされ始める季節ならば、ちょいと遠出して、その正体を確かめてみるのも一興かも。

 尚、ブログで確かめてみたら、この通りは「樽屋町」といって昨年被災したらしい。「恵比寿通り」は一つ向こうの路地。

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 町中で一軒、シネ・コンを見つけた。
 感じからしてこの町の唯一の映画館であろう。しかし、そんなに大きな建物でもないにも拘わらず、何軒も入っているようだった。恐らくスクリーンが狭いのだろう。ちょうど一人だけ如何にも暇を持て余したような親爺さんが腕を組んでじっと並んだポスターとにらめっこを決め込んでいたが、その一番端っこのポスターが古い東映の任侠映画二本立てで、如何にもこの地らしいローカル色ではあった。

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   普通の通りのちょっと端の廃屋。

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2009年6月17日 (水)

廃れゆく町 三河線・吉浜

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   過疎化が喧伝され始めてもう久しく、特定大都市以外の地方の町の路地の裏々隅々まで及んでいる。日本は狭かったはずが、列島中、一歩入ると朽ちた空屋・廃屋が燻すみ連なり、やがてミニ駐車場となり、あるいは中小のマンションがポツリと建ったり。 
 お陰で、ある日突然在ったものが無くなっているのに気付き、その向こうに長年不可視だったあれこれが忽然とその姿を露わし、あああそこはこうなっていたのかと思わず感心してしまう事しきり。
 大部以前、近辺の町並みを記録のために撮っておこうと思いつきはしたがそのまんま愚図愚図している間に事態は思いの外早く進行し来たり、カメラに収めても収めても切りのないくらいに変容している。嘗て雲南の省都・昆明の居並んでいた今はない旧市街ほどに情緒溢れた佇まいという訳ではないけれど、そんな大袈裟なものではない列島のかそけき陋屋の佇まいでも"消息"あるいは"留念"として何篇か残しておく事にしよう。

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 名古屋のJR刈谷駅から名鉄・三河線に乗り換え、三河湾に続く細長い衣浦港沿いに南下してゆくと吉浜という小さな駅がある。幾年も前、所用で赴くこととなったのだが、途中の景観も工業地帯のそれで殺風景なことこの上ない。殆ど無人駅に近い小さな駅舎を出ると、町中って感じでもなければ、田園地帯が前に拡がっているというのでもないアスファルトのミニ・ロータリーだけの何とも中途半端な、しかし、午前の陽光が眩しく照り返るばかりの眠りこけてしまいそうな閑散として静かな佇まい。

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 その道を少し進むともう二時代前くらいの褪せた旧いマンションなんかが建っていて、線路と平行に走った人影のない道路を歩いてゆくと、突如妙に高い建物が聳えていた。
 見ると《紫峰人形美術館》とあった。
 周囲の雰囲気からして余りにも唐突過ぎて、何なんだろうと思わず小首を傾げてしまった。説明書きに吉浜人形の文字があった。元々無知とは云え余り聞いたこともない名で、この三河・尾張近辺では有名なのであろうと一人納得し、人形の美術館てのも未経験だし一つ入ってみようと一階の人形販売店兼茶店でチケットを買った。端の階段に向かうと、従業員のおばさんが壁のスイッチをあれこれ押し、早速チャンチャラと階段の上から三味線なんかの和楽器の音曲が聞こえ始めた。
 何と、そこはフロアいっぱいに着物姿の人形が氾濫していて、それが整然と機械仕掛けで曲に合わせて動き続けるパノラマ世界。その大仕掛けなのには眼を瞠るものがあった。他に誰が居る訳でもないたった一人の客の前で、艶やかな着物の無数の人形達が一斉に踊りさんざめくさまは、反復される所詮機械的な動作と相俟って、何ともシュールなものであった。

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 線路を越えると海沿いの工場地帯、引き返し民家が連なった方へ歩いて行くと、やがて嘗ての商店街らしき趣きが漂い始め、ふと前方を見遣ると、右に「仲平饅頭」の看板のある小さな旧い商店があった。ガラス戸をレールに沿って引くと、土間になっていて、直ぐ左に二、三段のガラス棚があり、何種類かの饅頭と羊羹が並べてあった。傍の椅子に老爺が一人坐っていた。奥は商家らしくあがり縁になっていて、嘗ては茶葉屋も営っていたらしく大きな茶筒が何個も置いてあった。奥の柱に掛かった大きな時計や帳場の台まで置いてあって、古の姿をそのまま留めているのは、単に老爺達が今尚"生活"し続けているということなのか、それとも流行の趣味的ディスプレーなのだろうか。
 早速、仄暗いつげ義春の世界にでも紛れ込んでしまった錯覚でも起こしそうだった。
 雲南省は古の都・大理の、小さな回族の饅頭屋のガラス棚には、も少し品数も多く且つ淡い紅色が艶めいていたけど、店の佇まいに似て、仲平饅頭は素朴な味が悪くはなかった。
 一歩路地を入ると早速淀んだ廃屋の屍が横たわり、色褪せ埃に泥んだシャッターが降りたままの店も少なくない、嘗てはそれなりに繁華な駅前に至る商店街だったのだろうが、昼尚閑散として、殆ど無人の赴きすらあって、これはいよいよ、明るい陽光の下の猟奇・怪奇小説の舞台そのもの、昏いつげのおどろおどろしい思念の跋扈する境界そのもの。

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2009年6月11日 (木)

《ディル・セ》 炎情とRDX

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  ちょっと前、ラダック=レーの記事の中で、アムド・カフェのチベット人従業員の家の前で爆弾事件があった旨記しておいたけど、最近は如何なっているのか分からないが当時ラダック=レーはイスラム勢力に大部浸潤されていてラダッキ=チベット仏教徒側も危機感を募らせてはいたようだ。経済的な問題も含め色々と複雑な利害関係が水面下でうねり絡まっていたらしい。あの従業員=亡命チベット人を狙った爆弾だとしたら、彼等も危惧する中国の影も可能性の中に入れざるを得まい。何しろダライ・ラマとブッシュ(父親の方)米大統領が握手した写真をレーのあっちこっちで見掛け腰を抜かしてしまった。ベトナム戦争の頃のベトナム僧の焼身自殺からしても、米国大統領と握手している写真をご真影のように恭しく掲げたんじゃ、デーモンに身も心も売ったと勘違いされてもしかたない。
 僕はあれはダライ・ラマというより、側近達の差し金じゃないかと贔屓目に観ているんだが、恐らく、長い亡命生活の中で、英米や他の権力の手練手管に傀儡・諜報員に貶められてしまった側近や勢力も居よう。この前の北京オリンピックの時みたいに、ダライ・ラマの表明した意志とは随分とかけ離れたチベット勢力の動きをみても、若い世代がより直接的になっている裏で英米の影が見え隠れしていて、それが余計中国政府を苛立たせているのだろう。ダライ・ラマもそう若くはなく、ここら辺で、何としても一度きっちりと態度を明示すべきではないか。内外に。

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 と、いうのは、ヒンディー=モスレムの軋轢を描いた《ボンベイ》から三年後、マニラトナム監督が、今度はカシミールに舞台を移して、マニーシャ・コイララをカシミール独立派テロリストに扮させ、そのメグナというテロリストが、ラダックのチベット仏教徒なのか、やはりモスレムなのか判然とせず、ついラダック・レーの事に想いが及んだからだ。
 レーにも仏教徒からモスレムに宗旨替えした者は少なくないという話だったけど、そうすると彼等はもう仏教徒ではなく、イスラム教徒であって、巨大な黄金の観音像の前で白いカタを手に祈念するって行為はありえず、じゃあメグナは仏教徒なのであろうか。しかし、浅学ながらも、チベット仏教徒で、カシミール独立のゲリラ活動している者あるいは勢力が存在しているって寡聞にして聞いたことがない。もし、居るのならそれなんだろうが。現実的には独立したカシミールから、ラダック・ザンスカールが独立するって図式で、だからカシミール側のチベット仏教徒ラダッキに対する懐柔と取り込み工作だったんだろう。
 如何もその辺が曖昧で、無論映画ってことで、あのラダックの風景とヒンドゥーでもモスレムでもないラダッキ達の姿を登場させたかっただけの思い付きであったとしても、マアとやかく云うほどの事はないのではあるが・・・。

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 この映画"Dil Se"は、シャールークの中では好きな作品の一つで、何しろラフマーンの音楽と溶け合ったダンスシーンが好い。ミュージック・クリップだけ観ても飽きない。実際には、以前自分でクリップ集作って同じくラフマーンの《サワデス》同様大概には観過ぎ、さすがに最近は滅多に観なくはなってはいたが。
 それでも、映画として見ると、《ボンベイ》の如く涙腺攻勢は別にして、やはりヒンドウー=モスレムの直接的殺戮という緊迫した状況に較べて、やはり何としても陳腐なお決まりアクションの域を出ず面白さも半減しているのは残念。

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  マニーシャ・コイララ、インドの女性映画ファンの騒さ方からはダンスが下手、演技も下手と辛辣な評を得ているとはもう大分前に聞いた話だけど、アクの強いインド女優と違ってやはりネパーリなのか感じがソフト。そこがマニラトラム監督始め彼女のファンのお気に入り処なのだろうか。この映画の中でも、不器用にも、良家の血筋をかなぐり捨てるかのような物凄い表情をしてみせたりしている。恐らく監督の指示によるものだろうが。ダンスシーンの"ディル・セ・レ"でシャールークに抱かれ爆風で木の葉や埃が顔に吹き付けてきて、物凄く顔を顰めてみせるその素人っぽさは、やはりマニーシャにして可能だったのだろうし、監督もほくそ笑んでOKしたんだろう。勿論インド女性映画ファン達からはいぎたなく罵られたであろうが。

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 ラジオ局員アマルはカシミール行きの列車をある小さな駅で待つことになった。強い風雨の深夜で、ホームには他に一人しか客は居なかった。黒いチャドルを纏った若い女、それがメグナだった。
 それ以降訪れる先々で彼女と一緒になり、やがて一目惚れから心底思い焦がれる熱愛に燃え上がる。シャールークの十八番のストーカーと見間違うくらいに。ところが、彼女こそカシミールのインドからの分離・独立を求める武装ゲリラ=テロリストであった。 デリーでのインド独立記念日のパレードの最中に、爆弾による首相暗殺を企てていたのであった。アマルの求愛を悉くはねつけて来て姿をくらませてしまったメグナが、よりによって、メグナを諦め許嫁のプリーティ(プリティー・ジンタ)との結婚を承諾し、その婚約のセレモニーの日に、同じ女テロリスト・ミタと共に彼の邸に突然現れ、デリーは初めてで、当座の住む処と仕事を世話してくれと云い出した。唖然としながらもアマルは了解する。
 やがてひょんな事から足がつき、警察の知れるところとなり、メグナの一味は追いつめられはするが、何とか決行当日の日に至る。アマルも警察からメグナの事を知り、見つけ出した彼女に中止を求めるが、長年カシミールの置かれた悲惨な状況を説き結局カシミール独立しかないと拒絶する。メグナの家族も面前でインド軍に殺害され、少女だった彼女自身も犯されていたのだった。

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 決行の時、建物の影から現れ爆弾RDXを身体に巻いてパレード会場に向かおうとするメグナの前に、死闘の末ボロボロになったアマルが現れ、せめて一度でいいから、俺を愛していると云ってくれと何度も哀願する。アマルに抱かれ灼熱と化しながらもメグナはそれを口にすることなく、爆弾が爆発する。

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 エンターテイメント性の強い映画で、ヒットしたらしく、撮影監督のサントーシュ・シバムも大金を手に入れ、自分の映画を作れたという。因みにプリティー・ジンタはこの映画と"ソルジャー"で新人賞を受賞したらしい。

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 アマル     シャールーク・カーン
 メグナ     マニーシャ・コイララ
 プリーテイ   プリティー・ジンタ
 女性ダンサー  マライカ・アロラ "chaiya chaiya"
 
 監督   マニ・ラトラム
 脚本   ティグマンシュ・ドゥリア   
            マニ・ラトナム
 撮影   サントーシュ・シバン
 音楽   A.R.ラフマーン
 振付   ファラ・カーン
 美術   サミール・チャンダ
  制作   バーラート・シャー/インディアン・トーキーズ 1998年

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2009年6月 6日 (土)

日蝕のサイゴン

 

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   ベトナム、端っこにある国だからか、如何もも一つ相性的にすっきりしないのか、幾らも訪れたことがない。メコン・デルタや中国国境付近なんかも面白いらしく一応予定には入っていたのだけど、やはり、期日が限られてしまうとつい間近な他の国に脚が向いてしまうようだ。サイゴン(ホーチミン市)には二回訪れたけど、二回目なんてたった数日の滞在であった。もう少し早く、所謂"旬"の時に訪れていたなら亦様子も変わったかも知れなかったが。
 
 最初に訪れたのは、恰度、サイゴンで"日蝕"が見える時節95年の10月で、サイゴンは"日蝕"一色で、地元新聞にもそのコースが描かれてあったり、その何日も前から地元民達は紙製のサングラスを掛けて空を見上げていた。洗面器に水を張ってそこに映った太陽を眺めるって方法もお目にかかった。
 陸路モクバイからバイ・タクで2時間かけてファン・グー・ラオに到着。
 デ・タムの路地に入った奥の、看板も帳簿もない所謂"闇"ホテルの類で、"Mr.SANG's"Room For Rent。三階の2ベッド・ルームで3ドル。民家改造なのだろうからおよそ赴きってものとは無縁で、静かなものであった。只、蚊帳が附いてなくて心配だったが、何故か蚊の類が一匹も出ず、雨が降ってない時は殆ど窓は開けっ放し。壁には120分のタイマー附きのベトナム国産扇風機"DOFAN"。
 この宿、男達は昼間っから入口の土間でいっぱい集まってバクチに興じ、英語もてんで駄目だったけれど、整った風貌の母親とそこの一番末の十歳くらいの、襟にお決まりの紅いネッカチーフした利発そうな可愛い小娘が英語で対応して呉れた。東南アジアは本当に、"女"がしっかりしていて、本質的に母系制なんだろう。
 ここは、しかし、短い期間だったにも拘わらず、小娘がバナナ一房持ってきてくれたり、母親がバナナとパパイヤのスライスを載っけた皿を持ってきてくれたりとサービスが良かった。

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 翌年再び訪れた時にはもう4ドルに上がっていて、もう一つ向こうの路地の奥の似たような佇まいの"闇"ホテル風にした。只、この頃はもう"闇"は無くなってしまったのか、看板もあり、帳簿もあった。婆さんがオーナーのこの"デ・タム・ホテル"は窓の外に小さなベランダの備わった前者よりは小綺麗なシングルで3ドル。ベランダからあっちこっちで建設中のミニ・ホテルが望めた。

  プノンペンから来ると、サイゴンは水捌けが好いのが先ず目についた。プノンペンは一雨くるとモニボン通りはともかく大抵の脇道は忽ち褐色の泥水にぬかるんだり冠水状態になってしまう。サイゴンでは僕が訪れた頃には殆ど見た記憶がない。下水設備がしっかりしていたのだろうか。
 バイ・タクの背にのって突っ走った時にはショロンの通りもそれなりに都会的に見えたけど、帰途眺めながら歩いてみたらなんとも冴えない通りで期待していただけに愕然としてしまった。"旬"は確かに去っていたようだ。
 カフェやレストランの類は大体デ・タムの店に入った。ファングーラオの方は今一つ馴染めなかった。それでもファングーラオの通りは、夜になると、歩道いっぱいにテーブルが並べられ、焼き肉・ビール・屋台料理と外人や地元民客で賑わい活気が溢れ出す。

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 デ・タムの"SASA Cafe"には比較的頻く通った。目玉焼き&パン(5000ドン)、ホット・ミルク・ティー(2000ドン)の定番の朝食メニュー。
 ここのテーブルから前の通りを眺めるのも悪くはない。前が恰度路地の入口になっていて、屋台を奥から押してきたりそこら辺に店を開いたりの日常的所作、その路地の脇に隣り合って立っている商店"Thaos"とホテル"Phong Cho Thue"との間の日毎のいがみ合いの攻防。
 "Phong Cho Thue"ホテルが改装工事中で、作業員が空き箱を直ぐ隣の"Thaos"側に放り捨てると、"Thaos"のオーナー中年夫婦が腹立ち紛れに空き箱や切れ端をホテルの方へ蹴飛ばして放り返し、その間、ホテルのオーナーは傍で知らん顔・・・サイゴンの小商店主達の何ともギスギスした人間関係と精神構造を見せられてしまった。尤も、これがプノンペンだとカラシニコフから実弾が発射されたりのもっと凄い展開になってしまったりもする。

 肥えた中年の米国人男の運転するバイクの後ろに若いベトナム娘が乗ってカフェに乗り付ける光景もすっかり板に付いた感じで、再びベトナム戦争前に戻ってしまったのかと呆れ、些かうんざりし、"ドイ・モイ"も着実に根を貼り出したのだなと皮肉な思いに囚われてしまった。

 プノンペンですら偶に見掛けたにも拘わらず、サイゴンでは殆ど携帯電話を持っている者を見掛けたことがなかった。
 7アップが普通のより一回り小さめで207ミリ・リットル瓶。
 露店茶店の茶の入った茶瓶2000ドン。 
 1ドル=10960ドン。

Sigon_a1

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