« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »

2009年7月の6件の記事

2009年7月25日 (土)

昭和の漂泊者  《辻まこと・父親辻潤》

T_makoto_40

   辻まこと 1940年

  以前、大正・昭和の放浪のダダイスト・辻潤を紹介したが、今回はその息子の辻一(まこと)の方である。彼も又、父親を反面教師にしつつも、やはり漂泊者として、戦前・戦後を生き抜いた類い希な旅人であった。
 
 母親は、まことが生まれて数年後に大正のアナーキスト・大杉栄の許に走り、関東大震災のドサクサで大杉と親戚の幼児・宗一共々に虐殺された伊藤野枝で、当時まことは野枝や大杉の処へも時々遊びに行っていたようだ。まことは野枝より大杉の方になついていたらしい。虐殺された時も、偶然の悪戯で、まことは難を免れたという。当時、大杉・野枝はともかく、ダダイストの辻潤すらが"危険人物"と当局からも世間からも目されていて、少年・まことは、疎まれる近所ではなく、勝手を知らない遠方の子供達と遊ぶ他なかったらしい。

Tjun 

  辻潤 中西悟堂邸にて

 昭和三年(1928年)、父・潤についてパリに遊学。画家志望だったのが、一年ものパリ暮らしでルーブル始め博物館・美術館を渉猟し、とくにドラクロワなんかに叩きのめされてか、失念したらしい。それでも結局死の直前まで、食べるためでもあったが絵に関わる仕事に終始し続けた。
 次第に時代が閉塞し始めると、父・潤がダダイストの本領を発揮する如くに佯狂(ようきょう)的盲動に傾斜し、尺八一管手にして国内のあっちこっちを放浪して廻るようになって、まことをはじめ家族は自力で生活してゆくしかなかった。敗戦色濃くなった昭和十九年に潤は居候先で餓死。
 昭和十七年、「東亜日報」紙の特派員として中国・天津に渡る。挿絵入りコラムなんかを書いていたらしい。閉塞し軍国主義化した日本に嫌気が差しての新聞社入りだったらしいが、数年前に結婚していた父・潤の盟友・竹林夢想庵の娘・イボンヌもやがてやって来て一緒に生活するものの、翌年には報道班員として現地徴用される。 
 戦後は、画家のような仕事に携わりつつ、スキーや登山、ギターを嗜み、独自の世界を形作っていったらしい。昭和二十三年イボンヌと別れ、翌年良子夫人と再婚。
 昭和五十年(1975年)、数年前に発症していた癌が悪化。無意味な医療的延命を厭ってか自死したという。六十二歳。

T_makoto     

  辻潤はそれなりに知ってはいたが、息子・まことの事は、画家・登山家として書籍を幾冊も出しているのは知っていて、文庫本を二冊ほど買って段ボールの底に仕舞いっぱなしだったのが、今回一読してみて、彼のファンが結構居るのが分かり、実際父・潤とは別様の語り口とアプローチが仲々面白い。
 辻潤の軌跡ってものを些かでも了解していれば、残された家族が散々な目に遭うのは眼に見えていて、間一髪で、甘粕達軍部の凶手から免れたまことなんかの少年時からの労苦が想像に余りあって多分に同情の念で見てしまう。大泉黒石の息子の大泉滉も些か相似しているけど、若干辻まことの方がしんどそう。辻潤も晩年こう自ら云っている。

  「もっとも親鸞のような人でさえ〈いづれの行も及び難し〉と告白しているのだから、自分のような人間が迷っているのはあたり前の話だとも考えている・・・。幸い私は次第に外界の物欲に誘惑をかんじることが、年と共に少なくなってきたので、自分だけは気楽であるが、しかし省みて自分のような人間を『父』に持った子供達に対してはまったく頭があがらず、なんといっていいか、弁解や謝辞の言葉さえ知らないのである。・・・」 《痴人の独語》

Morinaka_t_makoto  

 当のまことは、父・潤のことをこう書き記している。
 「辻潤の思想や言動を全く理解できたとは思わないが、その人間としての誠実や美に対する懸命な追求を低く評価することは、僕にはできなかった。とはいえ、親爺として見る場合、息子にとっても他の家族にとっても、彼は無責任で無能な人物であり、哀れな弱虫であった。
 家族の他の者は、そういう彼を憎んだり愛したり、怒ったり恐れたりした。ボクはといえば、軽蔑した。従って崩れていく家庭などにも親爺や家族にも、何の未練もなかった。これといって生計のメドがあったわけではなかったが、一人になって清々した気持ちだった。」 《父親辻潤について》

  更に父・潤への評価は、
 「よく人々は、一度絶望したところから本当の希望が生まれるなどと、判ったような判らぬようなことをいうが、自分の意志によって、自分を動かすことのできない自分が、自分の運命だということの認識(絶望)からは、どんな希望も生まれることはないとおもう。・・・ただ現実的な自分の場所に忠実であることより外には、努力のしようがないことになる。これだけが、自分にとっても他に対しても誠実だというよりほかはない。それが、できるかぎりの自由に近い生活方法だというより仕方がない。おやじは、こういう自分の道を生活し、そして死んだ。
 すこしばかりパンクチュアルでありすぎた結果、社会的なゴーモンをうけたが、わがままを貫いた。精神の自由を徹底させた人間としてめづらしかった──とおもう、殊にこの日本で・・・」

 「最初の発作が起こったとき(不眠不休が三日も続いた)ついに慈雲堂病院に入院させるために、やっとのおもいで自動車に乗せた。そのとき私は、行先を彼にはっきりとは告げなかったのだが、彼は私にこういった。
 『お互い誠実に生きよう』
 ・・・直感的に、この言葉が、お互いの関係の誠実という意味ではないことを悟った。彼は私に『自分の人生を誠実に生きる勇気をもて』といっていたのだ。そして自分は『誠実に生きようとしているのだ』といっていたのだ。一寸まいったのである。」

 著者の折原は、辻潤の"餓死"を、あの昭和十九年という〈思想的ユダ〉の多かった只中において、自分自らの意志でもたらした自己滅却による"超克"であったと視ている。 まこともそう捉えていたならば、末期癌を面前にして、薬物的延命という形だけの"生"にしがみつく事は、やはりまことの為し得る処ではなかったのだろう。
 
 「花が美しいのは、無防備に宇宙に向かって、自分を広げてただ待っているからではないでしょうか。自分を開いて"愛"を待っている風情は、反って宇宙の"愛"の表情の如く見えるのです──しかし、それは動けない運命に閉ざされた『植物の自然』でしかありません。当然そこには『動物の予感』が欠如しております。辻潤が世の中の挑戦に応えて試みた方法は、このような『植物的な方法』です。自分のうちにある愚昧を知性と等しい価値において生きようと決意した辻潤の運命こそ、はじめから、勝敗の明らかな闘争もなかったのであり、屠殺を経験するために自らおもむく牛の如きものだったのです。」
                              『著者・折原への辻まことの私信』

T_makoto_2

 むささび射ちの夜

 「われわれ動物は、うろつき回る生命なのだ。樹木たちのように立止まって球形に開いている生命ではない。きれめのない時間の中を不定形なバランスで進む捻れた空間の生命なのだ。
 人間の一人一人が背負っているこの不定形行動圏の意識化し得る感情のバランスは彼らの副腎機能に負っている。不定形の生命を時々刻々修正する力のデフォルマシオンに機敏であるために必要なものはスポーツの感能であろう。動物の世界には樹木のように、そこで育ち、そこで立枯れる運命はない。かしこで排泄し、こちらで摂取し、不断に流動する化学反応のつり合いを保って進んでいる。われわれ動物の知性は、図式的な観念、不動の十字や閉じられた円図形の植物的認識であるはずがない。それは前方へ未来へ開いて想像を拡げる詩あるいはエスプリのようなものでなければならない。」
                                   「歩く旅人のものの譜」『辻まことの世界』
 
 筆者・折原は云う。
 「わたしは辻まことを知る以前に、その体験からして、〈絶望したところから本当の希望が生まれる〉というのは、本当ではない、〈自分が大切だから、自分が尊いから如来の本願が出てきた〉というのでなくてはならないと気付いて、『ひとつの親鸞』を書いた」
 と、辻まこととの相似性を謂い、詩人・吉田一穂に彼を紹介され、以後続いた三人の交歓を唱う。辻父子のパリ行の際読み耽った中里介山の『大菩薩峠』に関してや、まことの戦時中の体験を著した『告天子』や『山賊の話』等仲々に興味有る内容が並んでいる。辻まことを知ろうとすれば、不可分とも云うべく父・潤も同時に明らかにしなければならないとも云う。つまり、辻まことだけでなく、辻潤に関する手引き書でもある。

                  『辻まこと・父辻潤』折原修三(平凡社)

| | コメント (0)

2009年7月20日 (月)

《コラテラル》 迷走的子夜

Collateral_4

  ジェイミー・フォックス、この映画を観ていたから、《ジャーヘッド》や《キングダム》を観てしまったけど、二作ともこの映画ほどには面白いものではなかった。特に《ジャーヘッド》は私的には"ゴミ映画"の範疇で、男千円の日とはいえ《キングダム》のチケットを買うについては随分と逡巡したものだ。前作よりは増しだったがせめての救いだったが。

Collateral_10
 
 別にトム・クルーズのファンではないが、嫌いではない。
 《七月四日に生まれて》や《レイン・マン》なんかは気に入っている。"MI"シリーズの類には全く興味がなく、最近の反ヒトラーのナチ将校達の叛乱《ワルキューレ》なんて、ハリウッドのユダヤ的プロパガンダ物と一線を画した映画かと少しは期待したものの、案の定のお決まりステレオタイプ物で、ナチを撃ち返す刀でイスラエルをも撃つなんて気の利いた物では全然なかった。ちょっと古いが、ジェームス・コバーン主演サム・ペキンパー監督の《戦争のはらわた》や些か内容が異なるがルキノ・ヴィスコンティ監督の《地獄に墜ちた勇者ども》なんかとも較べようもない。

Collateral_9

 トム・クルーズ、今までにない役所の悪役=殺し屋のこの《コラテラル》に何故出演したのか定かでないが、監督のマイケル・マンにくどかれたようだ。しかし、意外と適役で、ジェイミー・フォックス共々、仲々雰囲気のある映画に仕上がっている。
 この映画、ひたすら"雰囲気"、夜のロサンジェルスを背景に、入眠幻想すら覚えさせられかねない独特の囁きと息吹に統べられている。さすがにロバート・デ・ニーロ主演マーティン・スコセッシ監督の《タクシー・ドライバー》の如く芸術的作品にまで昇華されてはいないけど、決して悪くはない秀作だろう。

Collateral_8

 ある夜、十二年もロスでタクシー運転手をしているマックスのタクシーに、如何にもよそ者(異郷人)風のブリーフ・ケースを手にした男が乗り込んできた。不動産業者と名乗り、何件ものまとめたい仕事があり、一晩だけ貸し切りを求め六百ドル、早く済めばもう百ドルプラスすると百ドル札六枚を見せ、肯うと、手付けとして三百ドル渡す。
 が、これが実は殺し屋で、朝までに五人の検察側の証人を抹殺する仕事を請け負っていたのだった。

Collateral_7

 ところが、のっけから最初の証人、地元ロス市警の情報屋がその殺し屋(ヴィンセント)に自室で射殺され窓から転落して下の通りでヴィンセントを待っていたマックスのタクシーの上に落下した時から、警察がそれとは知らずも姿を眩ませた情報屋の行方を捜し始め、検察側の証人を守ろうとするFBIまでが共に動きだす。
 真面目で些かシャイなマックス、ヴィンセントや女検事アニーに、タクシー・ドライバーはあくまで"繋ぎ"仕事でしかなく、本当はベンツを何台も揃えた顧客専門のリムジン会社設立の準備中だと応える。用意周到に計画しているものの、何時果てることもない夢想のままであることを、ヴィンセントに見抜かれてしまう。ヴィンセントの前に乗せた女検事アニーに一目惚れしたくせにデートの取り付けすら出来てないことも。人生に積極的・能動的でないと。

Collateral_6

 やがて、事のなりゆきで、マックスの入院中の母親を共に見舞う運びになり、無駄だと断言し切るマックスに、「お前を九ヶ月も腹の中に入れてたんだぞ」と花束を買ってマックスに持たせる。母親に渡すと、何故そんな無駄な金を使うの、と母親になじられるマックス、ところが、ヴィンセントが買ったのが分かると、掌を返したように、喜びヴィンセントに礼を云う。そしてマックスのリムジン・サービスに話が及び、何とマックスは母親には既にリムジン会社が実際に稼働している嘘をついていたのが発覚、マックスは居たたまれなくなって、ヴィンセントの鞄を盗み病室から逃げ去る。抹殺するべき証人達のデータが入ったノートパソコンが収めてある大事な鞄で、ヴィンセントは急いで後を追う。が、すっかり追いつめられたように混乱したマックスは自暴自棄になって、鞄を陸橋から下の車道に放り捨てる。トラックに当たり、中味が四散しパソコンも踏み潰されてしまう。怒り心頭に達したヴィンセントは、それでもマックスを殴りはしても射殺はしなかった。彼との間に何か運命めいた絆を感じ始めていたのだろう。

Collateral_2
 
 結局客の溢れたディスコのフロアーで、ロス市警・FBIとマフィア、証人の韓国系ディスコのオーナーとその手下達とヴィンセントの四巴の銃撃戦の果て、二人は最後のターゲットの処に向かう。パニックに陥り自棄になったマックスが運転を誤りタクシーは横転。パトカーの姿にヴィンセントは目的のビルへと突っ走り、ターゲットが女検事アニーだと知って、奪い取った他人の携帯でアニーに知らせたものの、途中で電池切れ。 ビルの上階へと、ヴィンセントの落とした拳銃を片手に急行する。普段のマックスでは考えられない行動で、平常心を失い、一種憑かれた精神状態のマックスの夢遊病的能動性。
 やがて一緒に逃げ出したアニーとマックスを追って、マックスの銃撃に被弾したヴィンセントが銃弾を発射しながら、ビルの地階の地下鉄乗り場から地下鉄の中まで迫ってくる。しかし、さしものヴィンセントも最後には力尽き、手にした拳銃の弾倉を入れ替える余力すらなくなってしまって、ドタりとシートに坐りこむ。マックスも全弾撃ち尽くした拳銃を握ったまま、向かいのシートに坐る。互いに向き合い、ヴィンセントがタクシーの中でもしたロスの話を呟く。
 七時間も誰にも気づかれることもなく延々と走り続ける地下鉄のシートに坐り続けていた死者の話・・・

Collateral_3

 夜、深夜、様々な大都市の夜景の只中での孤独な人間の囁きと息吹。
 この映画は、それに尽きていると思う。
 無数の色とりどりのネオンや街灯・窓明かり、それが一層寂寥と孤独を際立たせ、"ブルー・バス"とは逆転したタクシーの運転手と客という関係が、微睡みの淵にパッション(情動)を生じさせ、悪夢にも似たダイナミズムとなって、二人プラス一人を、仄昏い醒酔定かならぬ黎明のそれぞれのとば口へと誘い出す。
 そこに於いて、マイケル・マンの謂う、証人のダニエルの経営するジャズ・クラブで3人でテーブルを囲んでマイルス・デーヴィスの話で会話が弾んだ果てにダニエルを消音装置を使って射殺した時、全てが変わり始めるというのは、言わんや、殺し屋ヴィンセントの暗い過去云々は、殆どこじつけ・蛇足に過ぎないだろう。
 「不条理」の一言で済むことだ。

Collateral_1

 現実とはそんなものだし、追いつめられた地下鉄の中での最後のマックスとの向かい遭っての銃撃戦の際、明らかにヴィンセントは意図的にマックスから銃弾を外して撃っているのも、自身の死期を悟ったからか、マックスに己の過去を投影し生かそうとしたのだろう。この映画の面白さ・魅力は、シナリオではなく、あくまで雰囲気にあるのだから。
 「雰囲気」映画といえば、これまたちょっと古いが、亡くなった松田優作主演の《野獣死すべし》なんてのもあった。シナリオ(丸山昇一)や優作の過剰な演技を越えて醸し出された独特の雰囲気、監督の村川透がマーチン・スコセッシの《タクシー・ドライバー》に薫陶を受けていたのかも知れないが、邦画に於ける希有な存在であろう。
 だから、マックスが夜の明けようとするロスの街角で、ふと束の間の微睡みから醒めたように、バックミラーを覗き込んでもおかしくはない。

 ヴィンセント       トム・クルーズ
 マックス         ジェイミー・フォックス
 女検察官アニー      ジェイダ・ピンケット・スミス
 ロス市警ファニングス   マーク・ラフアロ
 ダニエル         バリー・シャバカ・ヘンリー
 フェリクス        ハビエル・バルデム

 監督    マイケル・マン
 脚本    スチュアート・ビーティー
 撮影    ディオン・ビーブ、ポール・キャメロン
 美術    デイビット・ワスコ
 音楽    ジェームス・ニュートン・ハワード
 制作    ドリーム・ワークス 2004年(米国)

| | コメント (0)

2009年7月18日 (土)

《ギリギリの二人》 Nothing to lose ダニー・パン

110_a
 1999年《レイン : バンコク・デンジャラス》から、オキサイド・パンは2001年に《ワン・テイク・オンリー》、弟のダニー・パンの方は、この《ギリギリの二人》を制作。
 この映画、最初知らないで、主演のソムチャイ役のピエール・フォン、何かセリフ廻しがおかしいなと思っていたら、シンガポールの俳優だった。シンガポールも共同出資していた関係でシンガポールの俳優になったという。もう一人の主演、アリサラ・ウォンチャリ(フレッシュ)はタイ娘。彼女は如何にもタイ女然とした気の強そうなゴーゴー・ガール、"ゴーゴー"役がぴったり。若干マイに似ていて、マイから愛らしさと妖艶さを抜いた感じの女優で、前年のオキサイド・パンの《ワン・テイク・オンリー》と似たキャラクター構成。

110_d

 《レイン : バンコク・デンジャラス》がシリアス且つとりわけ最後のシーンがお涙ものだったのを反省し、同じ轍を踏襲しないと企図された作品らしいので、ウェットさは押さえられ、やはりドライであり、シリアスさも薄められ淡泊におしなべられていている。更にコミカルな要素が注入されているけど、《ワン・テイク・オンリー》ほどには面白くない。好みから云えば、オキサイド・パンの《ワン・テイク・オンリー》の方が好きだし、好く出来ていると思う。俳優のキャラクターの差でもあるかも知れない。

110_e

 タイで束の間のバブルが弾けてからのペンエーク監督の《タロック69》、女主人公が会社の人減らしで首になり、やけになって液体洗剤をガブガブ飲んで自殺しようとするのだったが、日本人からみれば洗剤飲んで自殺するって発想が何とも凄く、思わず唸らさせられ物で、しかし、それは別段ペンエーク監督の演出効果を狙った創案って訳ではなく、現在でもタイ中の自殺志望者によって採られる最も安易且つ廉価な手段で、新聞紙上を賑わせている。特に女性に多いようだ。

110_f

 それから更に数年、"9.11"事件の前後、まだ若い二人、ソムチャイとゴーゴーは、偶然同じビルの屋上から飛び降り自殺を企んだ。
 飛び降りようとして、屋上の塀の上にしゃがみ込み、逡巡し続けるソムチャイの構図は、翌年のペンエークの《地球で最後の二人》のケンジがやがてノイと出遭うことになる橋の欄干の上にしゃがみ込み、下を流れる川を見詰めている図と同じ。
 断念し、よたよたとしていると、ふと同じ屋上の塀の上で、ゴーゴー・バーのカウンターの上で踊るゴーゴー・ガールのように佇む自称"ゴーゴー"を見つけ、傍に寄っていく。そこから、二人の居直った、もう"失う物は何もない"、如何にもタイ人好みの"サバーイ・サバーイ"な生き様=死に様にまっしぐら。
 これは、しかし、"迷える青春群像"物の基調トーン。

110_h
 
 二人は地上に戻り、早速何処かのバイキング形式のレストランに入る。
 目一杯喰いまくり、金も払わず逃げだし、安宿の一室を借りてそこで二人の束の間の同棲生活が始まる。とは云うものの、決してゴーゴーはソムチャイに身体を触らせることはなかった。欲情したソムチャイがベッドに横になったゴーゴーの身体に触れようとして蹴飛ばされてしまう。

110_c

 《ワン・テイク・オンリー》と同様、女の方が積極的且つ能動的。バーンクと相似にソムチャイは、ゴーゴーに後ろからどんどん押され追い立てられまくる。
 秘密のカジノで二人は一儲けを企むが借金を作っただけ。二人はマフィアに拉致されカジノの地下でゴーゴーはボスに金のカタに身体を奪われそうになる。間一髪で、ソムチャイがカジノで大儲けしたチップを持って駆けつけるのだが、ボスはもうそれどころではなく、ゴーゴーに猛り狂う。爆発したソムチャイが、狂ったように銃でマフィア一味を皆殺しにしてしまう。この辺、見せ場のはずが、シリアスさを抜いたためリアリティーが希薄で、コミカル風味なのだろうが、何とも中途半端。だから冴えない。

110_g

 最後に、銀行強盗を企み被弾し店長らしい親爺を人質にとって屋上に逃げ込み、駆けつけた警官に取り囲まれて、結局元のもくあみ、振り出しに戻ってしまった。が、今度はもはや逡巡することもなく、手に手を取り合って飛び降りてしまう。
 主人公達が飛び降りるというラストは、ジョージ・ヒル監督の《明日に向かって撃て》にもあったけど、高層ビルの屋上から地面にじゃちょっと、曖昧さのつけいる隙すらなく、ひょっとしてという可能性も絶たれてしまう。それでも悲壮なはずが、微笑みすら浮かべ、死がサバーイなものとなってしまっていて、もう明日に向かって撃つ必要すらなくなっている。
 サバーイ・サバーイともはや生き伸びる必要すら認めなくなったのか、それとも居直ってあたふたしてはみたものの、結局再び同じ終局点に舞い戻ってしまったという、閉じられた環あるいは不如意なのか。

110_b

 この映画は、実話を基に作られたものらしいけど、幾らタイ人達が、サバーイ志向強いと云っても、容易に死を選んだりはしないだろう。それでも情況に依っては、死が、苦から免れるための、絶望から逃れるためのサバーイな方途となり得る時もあるだろう。否、そもそも現実が否応なしに強いるのでもあろう。
 それが故にか、この映画、破滅型青春映画の一つとして悪くはない。
 
 監督 ダニー・パン
 脚本 ダニー・パン
 撮影 ウィチャ・イントラノイ
 音楽 パヨント・ペルムシト&サンザブ 

 アリサラ・ウォンチャリ
 ピエール・フォン
 イヴォンヌ・リン
  ニムポント・チャイシリクル
  制作 フィルム・バンコク 2002年(タイ)

| | コメント (0)

2009年7月12日 (日)

亜細亜的恐怖映画《ダブルビジョン》

Dv_11

   室内でのビデオと映画館のスクリーンで観るのとは、その迫力からして当然違うけど、アジアン・ホラーの場合、怖い映画って余り有りそうもないが、如何だろう。
 日本物とインド物は論外だし、韓国は結構怖そうだけどそんな作品にまだお目にかかったことがない。タイ・ホラー、我が南西辺境州じゃ映画祭ぐらいにしか機会がなくてビデオばかり。香港なんて、日本のと大差なし。中国のも《画皮》は未見だけど《荒村客桟》は情けなかったし、日本軍の霊が戦場を彷徨うシンガポールのもてんで怖くはなかった。後は・・・台湾。
 香港製の妖艶な怪奇時代劇ファンタジーの女優の原産地。ビビアン・スーも台湾だけど、ホラー出演は知らない。個人的には、香港女優よりも台湾女優の方に好きなのが多いが、このハリウッド・コロンビア映画と台湾・南方電影有限公司の合作、《ダブルビジョン》は、レネ・リュウという好みではない知らない女優(本当はアンディー・ラウの《天下無賊》で観ていたけど印象が薄いので覚えてなかった)と香港のレオン・カーファイが主演している。ビデオなんで、恐怖度は低いが、それでもやっぱりハリウッドが関与しているだけのことはあって、それなりにきっちり撮れていて悪くはなかった。スクリーンで観ると、恐怖度も少しは期待出来るだろうし、アクション・シーンももっと迫力増すだろう。

Dv_10

Dv_1

 DVDのコピーに、"4000年の時空を越え、蘇る道教〈双瞳〉伝説と〈五つの地獄〉になぞらえた連続怪死事件の真実とは" とある。

 ハリウッド・ホラーのキリスト教的オカルティズムに対抗して道教的オカルティズムを主題に持ってきたのだが、早い話、中国人のお好み、"不老不死"神話って奴で、それをハイテクと結びつけた犯罪="不老不死"的施術というのがミソ。この映画、筋運びそれなりに面白く出来ていて、如何にもハリウッドが関与したといわんばかり。(勿論小首を傾げるような部分もありはするが) 
 不老不死といえば、タイ・ホラーに《オパパティカ》という死霊と化した者達の"精"を吸い尽くして不老不死を続けていく吸血鬼もどきのひたすらなるアクション映画があったが、この〈双瞳〉ダブルビジョンの方は、基本的には刑事物。レオン・カーファイがその刑事に扮する。

Dv_8       
        
 台北警察のホァン(レオン・カーファイ)は、以前署内部の腐敗を内部告発し、起訴された親戚の汚職刑事に小さな娘をさらわれ、追いつめられた汚職刑事は人質の娘の頭を撃つ。同時に、追っ手の刑事に射殺されてしまう。運良く娘は頭部の掠り傷で済んだものの精神的トラウマとなって失語症になってしまう。おまけに、署内で浮き上がってしまい、余り仕事のない外事課へと追いやられ、次第に夫婦仲すら悪くなってしまう。
 やがて、不可解な連続殺人事件に巻き込まれ、米国FBIから派遣されてきたケビン(デビッド・モース)と共に、敵意を剥き出す古巣の殺人課の元同僚達の捜査に協力してゆくことになる。この辺はもうハリウッドの刑事・警察物の定式で、高倉健とマイケル・ダグラスが共演した、又松田優作の遺作でもあるリドリー・スコット監督作品《ブラック・レイン》の構図と同じ。因みに、マイケル・ダグラスはニューヨーク市警の汚職刑事だった。

Dv_6

Dv_5

 
 殺された被害者達は皆、道徳的な罪を犯した半人間として、五つの地獄を通過出来た者は"不老不死"つまり"永遠の生命"を得られるという道教の密儀の実践のために被害者となったのが判明し、犯人が米国帰りの元ハイテク企業経営者で、世界ビルの上階のフロアーに中国で発掘された道教寺院(道観)を移築し、そこを教団の本部にしていた。  殺人課総動員の本部急襲に、古い祭祀用刀剣を手にした教祖始め教団員は猛烈に抵抗し、死闘となって、大半の者が殺されるか負傷してしまう。ここの乱闘シーン、滅多にないシチュエーションもあって結構面白い。それでも、もう一工夫あればパーフェクトに迫力あるシーンになったはずで、残念。そして、祭壇の下に、薄物を着た若い女が腹の皮を剥がれ横たわっているのが発見される。

Dv_3

Dv_2

 実は、その娘こそ、"永遠の生命"を得るべき存在であった。
 娘は病院に搬送されるが、これで事件解決とホァンの自宅で深夜までビールを飲んだケビンが目覚めたホァンの傍のベッドで切り取られた自分の舌を片手に握ったまま死んでいた。ホァンは、"永遠の生命"娘を病院に尋ねるが、娘は消えてしまっていて、世界ビルの本部へと向かう。案の定、娘が居て、双瞳(道教的には超能力者)の正体を現し、幻術を駆使してホァンを殺そうとする。結局娘はホァンに射殺されてしまうが、ホァン自身も倒れてしまう。そして、ビルの外に駆けつけた嫁と失語症の娘の懸命な呼びかけで意識を取り戻す。

Dv_4  

 着想は面白いのだが、デティール的には可成り杜撰で、曖昧な箇所が少なくない。特に、肝心の最後の教団本部での、双瞳の娘との対決が曖昧に処理されていて、もう一つ印象が薄い。ステレオ・タイプな役所だけど、レオン・カーファイ仲々好演している。デビッド・モースは客演って感じでもひとつ冴えない。それにしても、やっぱり台湾映画と香港映画、役者の相違もあるだろうが、何処か雰囲気が違う。

 ホァン     レオン・カーファイ
 ケビン     デビッド・モース
 チンファン   レネ・リュウ
 リー・フェンボ レオン・ダイ

 監督  チェン・クオフー 陳國富
 脚本  スー・チャオビン蘇照彬
 撮影  アーサー・ウォン黄岳泰
 音楽  ソー・シンヤン 
 美術  ティン・イップ 葉錦添
 制作  南方電影有限公司・コロンビア映画 2002年(香港・台湾・米国)

| | コメント (0)

2009年7月10日 (金)

中国の叛乱

Kashi_1_5

   ウイグル族の暴動の報道がこの処喧しい。
 先月の広東省韶関市にある香港系の玩具工場での、ウイグル族従業員に対する漢族従業員の集団暴行事件に端を発したと云われる今回のウルムチでのウイグル=漢族暴動。ウイグル族自治区政府の発表では、死者140人、数百人の検束者らしく、国外のウイグル団体ではもっと多いようで、ウルムチに派遣された武装警察3万人という。もう暴動というより叛乱であろう。
 
 韶関市での暴動は、出稼ぎのウイグル族従業員が、漢族の女性に暴行を働く事件が相次いでいるという口実で漢族従業員達がウイグル族従業員達を襲ったということであったが、現在では、ウイグル族の漢族女性に対する暴行の事実はなく、業務上のミスで解雇された漢族従業員が、はらいせに流したデマということで、その容疑で漢族二人が逮捕されているという。
 元々漢族=ウイグル族の反目が背景にあったようだが、新疆(しんきょう)ウイグル自治区内の事象とばかり思ってたので、最初そのニュースを見て驚いてしまった。新疆から遠い遠隔の地ですらそんな反目が有ったのかと、随分と根深いものに発展したものだと只々困惑を覚えるばかり。以前からそんなに、全国的な反目ってあったんだろうか。
 新疆内では、漢族の異民族支配ってんで、それも可成り強権的だから、当然反感は強く、例えば十数年前でも、列車で新疆エリアに入ると皆窓を閉めたものであった。何時、石が飛んでくるか分からないからだったし、カシュガルで爆弾事件もあった。漢族と間違えられ暴行を受けたりする旅行者も稀に居たらしいが、旅行者から見てそんな緊迫したものは感じられなかった。
 
 世界的なイスラム勢力・原理主義の台頭・跋扈ということもあるだろうが、恐らく、ウイグル族の方はそんなに変わってないのではないか、むしろ漢族自体に変化が生じ始めたのではないか。新疆にも、チベット同様どんどんと漢族が移民・植民し続けていて本来の先住民族を遙かに凌駕する程の数になってしまって、ウルムチなんてむしろ先住民族の方が、"少数民族"としてしか見られなくなってしまっている可能性もある。
 漢族が世界に冠たる漢民族として自信を持ちはじめたということだろう。
 そしてそれは、嘗ての日本が、隣国の朝鮮や中国に対して持ちはじめた優越感と蔑視の感情と同じ物でもあろう。
 北京オリンピックの実現と、それに対する世界中からの「人権」を口実にした政治的圧力、それと同期した海外チベット人達の「妨害運動」とチベットの叛乱も、その感情を高まらせた要因になったろう。

Kashi_2_2
 
 そもそもが、オリンピックなんて、世界の権力が、自分達の国威発揚と、政治的無能としての国内諸問題の軋轢をすり替える為の、四年に一回は催されるまたとない祭典として担ぎ上げているだけの装置に過ぎず、以前は「ブラックパワー」行動等でオリンピックに政治を持ち込むなと散々喧しかった欧米国家も、モスクワ・オリンピック・ボイコットの頃から、もうなりふり構わず自分達のその時その時の都合でのみ好き勝手やりたい放題の政治的ショーとして「純粋スポーツの祭典」としての粉飾をかなぐり捨ててしまって久しい。それに、英米をはじめ欧米国家が「人権」を口実に他の国を非難すること自体がおこがましいし、そもそも筋違い。
 ダライ・ラマすら北京オリンピックなんて眼中になかったような発言をしていたにも拘わらず、何故に在外チベット人達って、北京オリンピック妨害行動に出たのだろうか。ダライ・ラマがもう影響力が衰えたからか、浅慮な若い連中が欧米の尻馬に乗っかったのだろうか。(尤も、どっちにしたところで、中国政府がダライラマや"チベット自治化"の承認や妥協なんてする気もないのは誰の眼にも自明の事柄であったろうが)
 政争の道具でしかないのがはっきりした今となってはオリンピックにこれ以上しがみつく理由って無いはずだし、オリンピックなんてもう廃止して当然だろう。にも拘わらず世界の権力が容易に手放そうとはしないところが、全てを語って余りある。

 先月、中国・湖北省石首市で、ホテルでコックと思われる男性の屍体が発見され、その死因を巡って暴動が発生。自殺か他殺かで警察と遺族が揉めての騒ぎが発端らしい。もうそんな土壌が出来上がっているからの、些細なトラブルすら暴動の発生原因となってしまう現在の中国の現状。《改革開放》が、資本主義化でしかなかった故の当然の論理的帰結。そこに解決なんてありやしないし、今の欧米同様、行き着くところまで行くしかないだけ。只、中国は、それがなけなしのものであったとしても、権力に対して暴動を起こせるっていう"力"が民衆の側にまだあるというこの一事で、世界的末期資本主義的盲流から抜け出せる「可能性」を抱懐し得ているともいえよう。その前に馴服(じゅんぷく)され無い限りは。

Uigur5

 それにしても、人民中国、一体何の為に革命・解放を多くの犠牲払ってやってきたのだろう。誰が、今頃、嘗ての大中華帝国並の版図を夢見ろと云ったのであろうか。
 「民族」の自立・独立は本来の革命・解放の理念だったはずで、新疆だろうがチベットだろうがはたまたモンゴルだろうが南の少数民族や北の朝鮮族だろうが、独立を求めるならむしろ協力すべきなはず。大体、先住の無数の民族が居る処で、大国主義を押し通そうとすること自体ナンセンス。

 屈辱の「東亜病夫」の扁額を叩き返したと思ったら、今度は自分自らが、億元戸顔負けの金銀宝飾で飾り立てた逆の意味の「東亜病夫」の扁額を頭上高々と掲げていれば世話はない。 魯迅もそんな手合いと同質とばかりに仰々しい建物に鎮座させられたのでは、死んでも死に切れず、夜な夜な上海は内山書店辺りを慚愧の想いで徘徊しているのであろう。

| | コメント (0)

2009年7月 4日 (土)

アメリカン・ロードムービー《地獄の逃避行》Badlands

Badlands_11_2

  この映画、ロード・ムービーの金字塔の一つらしく、派手さはなくむしろ淡々としてキット&ホーリー二人の破滅的青春の軌跡を描いている。これは1958年に実際に米国で起きた殺人行をモデルにしていて、米国中部という場所が、如何にもって感じで、仲々に雰囲気をもうそれだけで醸し出している。
 モデルの二人、チャールズ・スタークウェザーとキャリル・アン・フューゲートの二人が最初に出遭ったのは、事件の二年前、チャールズ十八歳、キャリル十三歳。十三歳の中一娘を見初めた訳だが、すっかり気に入って、学校を辞め、キャリルの学校の近くの職場で働き始めたという。映画では主人公は、映画俳優ジェームス・ディーン似の設定だけど、実際にチャールズ・スタークウェザーも似ていてディーンに心酔していたらしい。この辺りは、この映画へのオマージュ作とか云われているトニー・スコットの《トゥルー・ロマンス》で主人公クラレンスが幻影(それとも霊)を視るプレスリーと相似。

Badlands_10

Badlands_9 
 
 映画では、のっけからキットは清掃車(ゴミ・トラ)に乗っかって家々の前のゴミを回収してゆく。尤も、すぐクビになってしまう。低賃金労働をばかり次々と乗り換えて行っているイメージ。昨今の日本でも否応なしにそんな不確かな状態に陥れられた青年達で溢れている。否、中年も高年も女性も。
 ホーリーは十五歳設定で控えめで目立たない学生。シシー・スペイクス、この翌年ブライアン・デ・パルマ監督《キャリー》で地味娘の極みみたいな役をやって大当たり。
但し、モデルのキャリル・フューゲートは少しふっくらした愛らしい風貌の娘で、監督のテレンス・マリックが作ったのだろう。確かに、彼女のモノローグを聞くにつけ、そっちの方が雰囲気は出る。米国中部の小さな町で、母親と死に別れ父親と二人の生活、何の変化もない人生を悶々として送ってきたという処だろうが、リンカーンは一応州都で人口今では二十数万人。大学町らしい。映画ではもっと本当に小さな町って設定で、十五歳のホーリーの閉塞し鬱屈した存在性ってものが際立ってくる。現在ではもう記号と云っていいくらいに定式化され、容易に了解出来てしまう。
 早い話、ホーリーは誰か白馬に乗った王子様、あるいは呂樂監督《十三の桐》の中国・四川の女子高生、風子みたいに駱駝に乗った王子様を待望していたという訳だ。

Badlands_2

 そこに現れたのが、希代の殺人犯。
 と、云っても最初からではなく、彼女と付き合い始めた頃には普通の冴えないけどジェームス・ディーンに似たカッコ好い青年であった。父親に内緒で付き合っていたのが、とうとうばれてしまう。そこで、キット、父親に直談判するがにべもなく撥ねつけられ、とうとう強行手段に出る。ホーリーの家に向かいホーリーを無理矢理連れ出そうと謀んだ。が、留守で、キットは忍び込み、ホーリーの衣服を彼女の鞄に押し込んで待っていると、ホーリーと父親が戻ってくる。腰から取り出したピストルをこれ見よがしにホーリーを連れに来た旨伝えると、父親は怒り、警察を呼ぶと電話に向かう。慌てて階段を降り止めようとする以前に引き金を引いてしまう。父親は床の上にくの字に倒れ、ホーリーが慌てて走り寄るも次第に弱ってゆき力尽き死んでゆく。二人は、しかし、暫くその家に居続け、家に火を放ち、車で逃げ去ってゆく。
 後は、次から次へと果てしなく行く先々でピストルとライフルで射殺していき、隣のワイオミングで逮捕される。

Badlands_8

Badlands_6 

 米国中部・中西部の果てしなく荒涼とした景色が好い。
ロード・ムービーの由縁だが、正に逃避行で、映画では、最初に何処かの森に隠れ、樹上に木を組み合わせた隠れ家を造って自然生活を堪能する。後のランボーを彷彿とさせるような仕掛けや隠れ穴なんかを作り、バンダナを額に巻いてエクササイズも欠かさず、やがて現れた三人組の追っ手も、キットに返り討ちにされてしまう。
 この映画で一番印象に残ったのは、キットが以前勤めていた清掃車の仕事仲間ケートーの荒野の一軒家を訪ねて行き、《俺達に明日はない》でもあった屋外に長テーブルを出して食事するシーンもさることながら、スペイン金貨が出たという地所の向こうにケートーが二人を連れて行く途中、スコップを持ってくると急いで家に戻り始めたのを、警察に通報するつもりと勘ぐって、キットがケートーを追いかけながらライフルで撃ち抜くシーン。果たして本当にケートーは警察に密告しようとしたのか如何か。画面の感じではやはり通報に走った感が強いのだけど、この俳優、何処か哀愁めいたものを漂わせた中年の大男で、それが何ともやるせない。腹を撃ち抜かれたまま、陋屋の自分の家に駆け込みベッドの上に横になる。二人も何事もなかったかのように入ってきて、ホーリーが次第に衰弱して行くケートーの話し相手になる。ホーリーの父親の時もホーリーが傍に付き添ったが、画面では直ぐに死んでしまう。看板描きというウォーレン・オーツには珍しい役だったが、しかし、この映画よりテレビで活躍してたらしいラモン・ビエリ、仲々好い味を出していた。

Badlands_1_2

 映画の中で時折流れてくるマリンバ(木琴)の調べ、後年作られた《トゥルー・ロマンス》の主題曲と相似で、確かに、この音楽は《トゥルー・ロマンス》がオマージュというのも頷ける。この楽天的な調べは、暗さ殺伐さから救っていもいる。

 実際も裁判で争われたらしいけど、ホーリーが一体何処までキットの殺戮に関与していたか、曖昧。モデルがそうだったから、監督のテレンス・マリックも独自な決定的見解を示すこともなく、とは云え、画面では可成りホーリーは距離を取っているように描かれてはいる。ワイオミングの荒野で警察のヘリコプターが姿をみせた時、ホーリーはもうキットと一緒に逃亡を続けることを厳として拒否した。まだ十五歳のホーリーはさすがに飽き疲れたのだろう。キットも一人で逃げはしたがすっかり気力が萎えていた。ホーリーと一緒であってのスリリングな逃避行だったにちがいない。

Badlands_5

 映画ではホーリーの父親一人が殺されたようになっているが、実際は、彼女の家を訪れたが留守で、居合わせた彼女の母親や継父と口論になり射殺し、やがて戻ってきたキャリル・フューゲートと一緒だった彼女のたった二歳の妹すら扼殺したという。このキャリルの妹まで殺害したってのがよく分からない。おまけに、父母の方は射殺だが、この妹の方は可成り残虐に殺害していて、父母の屍体を見て取り乱したのを黙らせようとしたのかも知れないが・・・。

Badlands_4

 又、画面では、偶々やってきた高校生カップル、ジェンセン&キャロルが、キットにハリケーン用の待避壕に押し込まれ施錠され、キット思い出したように、退避壕の隙間から二発ピストル(リヴォルバー)を発射し逃げるシーン。直ぐに通報されちゃーとばかり軽く殆ど威嚇かともかく一発ぶち込んでおこうと云わんばかりの仕草であった。
 が、実際、男の方の被害者、ジェンセンは、頭に六発もぶち込まれていたらしい。六発といえば、回転式拳銃だと全弾ということになる。何か余程気に入らないことでもあったのだろうか。それに、裁判になってからか、スタークウェザーは、ジェンセン殺害は認めたものの、連れの娘キャロル殺害に関して、キャロルを殺害したのはキャリルだと申し立てしたらしい。勿論キャリルは否定したらしいが。
 スタークウェザーは1959年一月にネブラスカで電気椅子刑に処され、キャリル・フューゲートも投獄され、1976年に仮保釈。

Badlands

 気むずかしいオヤジが似合うオーツ。翌年ペキンパーの「ガルシアの首」に主演

 スタークウェザー、両親は大工やウェイトレスなんかをしていて、特に父親は穏健な人物だったらしいが、スタークウェザー自身、極度の近眼と言語障害を患っていたという。学校でも色々いじめられたりしていて、後年ジムに通うようになって体力が付いてくると、今度は逆になってしまったようだ。可成りコンプレックスと社会に対する憎悪の念は強かったのだろう。
 尤も、写真見る限り、少年時はともかく、ジェームズ・ディーンには余り似てると思わないがそれなりの容貌だし、米国だけに限らないけど社会の底なしの歪みが、彼をして"アメリカン・スプリー・キラー"(連続殺人犯)にまで仕立てあげてしまったのだろう。 只、米国政府・権力関係は置くとして、米国内の凶悪殺人犯って、様々なスプラッター映画でも分かるように、少々じゃなく、このスタークウェザーなんて、たった十一人殺しでしかなく、嘗ては十一の星で燦然と輝いていたのが、最近じゃ凋落の一途って訳で、一体これから先、何処まで落ちて行くのだろうなんて惨憺たるベトナム戦争以来の米国の大量殺人史ではある。

 キット        マーティン・シーン
 ホーリー       シシー・スペイクス
 ホーリーの父親    ウォーレン・オーツ
 ケートー(清掃夫仲間) ラモン・ビエリ

 監督 テレンス・マリック
 脚本 テレンス・マリック
 撮影 ブライアン・プロビン
    ステヴァン・ラーナー
    ターク・フジモト
 美術 ジャック・フィスク
 音楽 ジェームズ・テイラー
    ジョージ・アリソン・ティプトン
 制作 ワーナーブラザース 1973年(米国)

Sc

 キャリル・フューゲートとスタークウェザー

Caril_fugate

  キャリル・フューゲート

| | コメント (0)

« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »