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2009年7月25日 (土)

昭和の漂泊者  《辻まこと・父親辻潤》

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   辻まこと 1940年

  以前、大正・昭和の放浪のダダイスト・辻潤を紹介したが、今回はその息子の辻一(まこと)の方である。彼も又、父親を反面教師にしつつも、やはり漂泊者として、戦前・戦後を生き抜いた類い希な旅人であった。
 
 母親は、まことが生まれて数年後に大正のアナーキスト・大杉栄の許に走り、関東大震災のドサクサで大杉と親戚の幼児・宗一共々に虐殺された伊藤野枝で、当時まことは野枝や大杉の処へも時々遊びに行っていたようだ。まことは野枝より大杉の方になついていたらしい。虐殺された時も、偶然の悪戯で、まことは難を免れたという。当時、大杉・野枝はともかく、ダダイストの辻潤すらが"危険人物"と当局からも世間からも目されていて、少年・まことは、疎まれる近所ではなく、勝手を知らない遠方の子供達と遊ぶ他なかったらしい。

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  辻潤 中西悟堂邸にて

 昭和三年(1928年)、父・潤についてパリに遊学。画家志望だったのが、一年ものパリ暮らしでルーブル始め博物館・美術館を渉猟し、とくにドラクロワなんかに叩きのめされてか、失念したらしい。それでも結局死の直前まで、食べるためでもあったが絵に関わる仕事に終始し続けた。
 次第に時代が閉塞し始めると、父・潤がダダイストの本領を発揮する如くに佯狂(ようきょう)的盲動に傾斜し、尺八一管手にして国内のあっちこっちを放浪して廻るようになって、まことをはじめ家族は自力で生活してゆくしかなかった。敗戦色濃くなった昭和十九年に潤は居候先で餓死。
 昭和十七年、「東亜日報」紙の特派員として中国・天津に渡る。挿絵入りコラムなんかを書いていたらしい。閉塞し軍国主義化した日本に嫌気が差しての新聞社入りだったらしいが、数年前に結婚していた父・潤の盟友・竹林夢想庵の娘・イボンヌもやがてやって来て一緒に生活するものの、翌年には報道班員として現地徴用される。 
 戦後は、画家のような仕事に携わりつつ、スキーや登山、ギターを嗜み、独自の世界を形作っていったらしい。昭和二十三年イボンヌと別れ、翌年良子夫人と再婚。
 昭和五十年(1975年)、数年前に発症していた癌が悪化。無意味な医療的延命を厭ってか自死したという。六十二歳。

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  辻潤はそれなりに知ってはいたが、息子・まことの事は、画家・登山家として書籍を幾冊も出しているのは知っていて、文庫本を二冊ほど買って段ボールの底に仕舞いっぱなしだったのが、今回一読してみて、彼のファンが結構居るのが分かり、実際父・潤とは別様の語り口とアプローチが仲々面白い。
 辻潤の軌跡ってものを些かでも了解していれば、残された家族が散々な目に遭うのは眼に見えていて、間一髪で、甘粕達軍部の凶手から免れたまことなんかの少年時からの労苦が想像に余りあって多分に同情の念で見てしまう。大泉黒石の息子の大泉滉も些か相似しているけど、若干辻まことの方がしんどそう。辻潤も晩年こう自ら云っている。

  「もっとも親鸞のような人でさえ〈いづれの行も及び難し〉と告白しているのだから、自分のような人間が迷っているのはあたり前の話だとも考えている・・・。幸い私は次第に外界の物欲に誘惑をかんじることが、年と共に少なくなってきたので、自分だけは気楽であるが、しかし省みて自分のような人間を『父』に持った子供達に対してはまったく頭があがらず、なんといっていいか、弁解や謝辞の言葉さえ知らないのである。・・・」 《痴人の独語》

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 当のまことは、父・潤のことをこう書き記している。
 「辻潤の思想や言動を全く理解できたとは思わないが、その人間としての誠実や美に対する懸命な追求を低く評価することは、僕にはできなかった。とはいえ、親爺として見る場合、息子にとっても他の家族にとっても、彼は無責任で無能な人物であり、哀れな弱虫であった。
 家族の他の者は、そういう彼を憎んだり愛したり、怒ったり恐れたりした。ボクはといえば、軽蔑した。従って崩れていく家庭などにも親爺や家族にも、何の未練もなかった。これといって生計のメドがあったわけではなかったが、一人になって清々した気持ちだった。」 《父親辻潤について》

  更に父・潤への評価は、
 「よく人々は、一度絶望したところから本当の希望が生まれるなどと、判ったような判らぬようなことをいうが、自分の意志によって、自分を動かすことのできない自分が、自分の運命だということの認識(絶望)からは、どんな希望も生まれることはないとおもう。・・・ただ現実的な自分の場所に忠実であることより外には、努力のしようがないことになる。これだけが、自分にとっても他に対しても誠実だというよりほかはない。それが、できるかぎりの自由に近い生活方法だというより仕方がない。おやじは、こういう自分の道を生活し、そして死んだ。
 すこしばかりパンクチュアルでありすぎた結果、社会的なゴーモンをうけたが、わがままを貫いた。精神の自由を徹底させた人間としてめづらしかった──とおもう、殊にこの日本で・・・」

 「最初の発作が起こったとき(不眠不休が三日も続いた)ついに慈雲堂病院に入院させるために、やっとのおもいで自動車に乗せた。そのとき私は、行先を彼にはっきりとは告げなかったのだが、彼は私にこういった。
 『お互い誠実に生きよう』
 ・・・直感的に、この言葉が、お互いの関係の誠実という意味ではないことを悟った。彼は私に『自分の人生を誠実に生きる勇気をもて』といっていたのだ。そして自分は『誠実に生きようとしているのだ』といっていたのだ。一寸まいったのである。」

 著者の折原は、辻潤の"餓死"を、あの昭和十九年という〈思想的ユダ〉の多かった只中において、自分自らの意志でもたらした自己滅却による"超克"であったと視ている。 まこともそう捉えていたならば、末期癌を面前にして、薬物的延命という形だけの"生"にしがみつく事は、やはりまことの為し得る処ではなかったのだろう。
 
 「花が美しいのは、無防備に宇宙に向かって、自分を広げてただ待っているからではないでしょうか。自分を開いて"愛"を待っている風情は、反って宇宙の"愛"の表情の如く見えるのです──しかし、それは動けない運命に閉ざされた『植物の自然』でしかありません。当然そこには『動物の予感』が欠如しております。辻潤が世の中の挑戦に応えて試みた方法は、このような『植物的な方法』です。自分のうちにある愚昧を知性と等しい価値において生きようと決意した辻潤の運命こそ、はじめから、勝敗の明らかな闘争もなかったのであり、屠殺を経験するために自らおもむく牛の如きものだったのです。」
                              『著者・折原への辻まことの私信』

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 むささび射ちの夜

 「われわれ動物は、うろつき回る生命なのだ。樹木たちのように立止まって球形に開いている生命ではない。きれめのない時間の中を不定形なバランスで進む捻れた空間の生命なのだ。
 人間の一人一人が背負っているこの不定形行動圏の意識化し得る感情のバランスは彼らの副腎機能に負っている。不定形の生命を時々刻々修正する力のデフォルマシオンに機敏であるために必要なものはスポーツの感能であろう。動物の世界には樹木のように、そこで育ち、そこで立枯れる運命はない。かしこで排泄し、こちらで摂取し、不断に流動する化学反応のつり合いを保って進んでいる。われわれ動物の知性は、図式的な観念、不動の十字や閉じられた円図形の植物的認識であるはずがない。それは前方へ未来へ開いて想像を拡げる詩あるいはエスプリのようなものでなければならない。」
                                   「歩く旅人のものの譜」『辻まことの世界』
 
 筆者・折原は云う。
 「わたしは辻まことを知る以前に、その体験からして、〈絶望したところから本当の希望が生まれる〉というのは、本当ではない、〈自分が大切だから、自分が尊いから如来の本願が出てきた〉というのでなくてはならないと気付いて、『ひとつの親鸞』を書いた」
 と、辻まこととの相似性を謂い、詩人・吉田一穂に彼を紹介され、以後続いた三人の交歓を唱う。辻父子のパリ行の際読み耽った中里介山の『大菩薩峠』に関してや、まことの戦時中の体験を著した『告天子』や『山賊の話』等仲々に興味有る内容が並んでいる。辻まことを知ろうとすれば、不可分とも云うべく父・潤も同時に明らかにしなければならないとも云う。つまり、辻まことだけでなく、辻潤に関する手引き書でもある。

                  『辻まこと・父辻潤』折原修三(平凡社)

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