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2009年9月16日 (水)

旅先の地図

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  今日は一ついつもと違う道を通って家に帰ってみよう、あるいはこの道をずっと辿って行くと一体何処に着くのだろうという旅の原初=根源からすると、地図とは必ずしも必要ではない。何処か好い場所に至れると、今度は、忘れないようにあるいはそれを他の誰かに伝えたいという情報の共有化に於いて漸く情報ノート・ガイドブックや地図等が発生する。

 地図といえば、最近はともかく、以前はガイドブック「地球の歩き方」の地図であった。
 あっちこっち少なからずに間違いがあって、知らずにあの地図を辿っていって偉い目に遭った旅行者が続出したらしい。人的危害を被った人達や家族が、発行元のダイヤモンド社を訴えたこともあった。

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 筆者も、嘗てインドで、「歩き方」の曖昧な地図を辿って行き、安宿のはずが、普通の民家に入り込む結果となってしまった。周辺に人影もなく確認のしようもなく、入ったそこは大きく床も大理石か何かの立派な家で、呼んでも誰も出てこず、仕方なく少し中に入って大声を出すと漸く現れた親爺さんは、縁もゆかりもない長髪と髭のイエローの旅行者がポツンと佇んでいるのに仰天し、こっちもこれはちょっと違うぞ狼狽してしまった。只、その親爺さんが紳士的な対応をしてくれたので何事も起きなかったものの、ヤバイ親爺だったり機嫌が悪かったりしたら一体如何なトラブルに発展したものやら。
 
 確かに「歩き方」ってあくまでガイドブック、試行錯誤的に発展してきたもので、読者からの情報や地図を参照しながら作ってきたものでしかなかった(ロンプラ酷似の地図は別にして)。旅の指針ってとこで押さまえていれば好いのだろうが、実際には、やはり記された通りに辿ってしまうのも人の性。

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 で、登場したのが、「旅行人」。
 所詮、「歩き方」は企業が作ったものでしかなく、当然旅行者による旅行者のための情報誌の必要がいわれ、コピー情報誌ではない、一般書店の棚に置かれる印刷媒体としての情報誌「旅行人」が登場した。
 地図の方は、しかし、それぞれ個々の旅行者が個別に作成し投稿したものとならず、かの伝説的「イランへの道」の制作者・富永御大の本領発揮とばかり、マンガ文字的甘えや妥協を許さぬきっちり精緻な地図が添付されるようになった。もう「旅行人」といえば富永マップが不可分なものとなってしまい、このマッチングに、「歩き方」や「ロンプラ」に「ちょっと違うんだよなー」と小首を傾げてきた旅人達の圧倒的な支持を得ることとなった。只、価格が些か高いのが難点であった。
 
 富永先生、「イランへの道」の頃はまだ郷里の佐賀だったか長崎だったかのはずが、やがて東京に出、タクシーの運転手をやりながら旅の資金を作っていた由、その後は「旅行人」が出資し世界を股にかけていたのだろうか。最近は如何しているのだろう。
 富永先生、あっちこっちに出没しているので、彼の姿を見掛けた旅行者も多いはず。
 かくいう筆者も、もう大部以前、先生と遭遇したことがあった。頂度、先生の言によると、「イランへの道」の続編だったか改訂版の作成のためにかイランを訪れていた頃で、イラン南部の複数の港町で遭遇。
 ともかく空白を許さぬ先生の"地図屋"としての業なのか性なのか、前年のイラン=イラク戦争の余燼燻ぶるイラクとの国境地域アバダーンに、嘗てのイエズス会宣教師がこうであったかと思わせる圧倒的使命感に燃えひたすら一歩何十センチの測量マシーンさながら前進し続け、当然に軍・警察に拘束されたものの、先生の燃える使命感に感じ入ってか、スパイ容疑なぞかける無粋も吹っ飛び、その上ホテルに一泊させて貰え、元来た公開地域にまで丁寧にわざわざ車で送り返された顛末、窓の向こうに青いペルシャ湾を望むレストランで、ようやるわと背に冷や汗を覚えつつもさすがだなと感心させられてしまった。

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 今度はついこないだの地震で半壊したらしい高原のバムで再会。 
 土塊の要塞(アルク)上で視線が遭い、おっとばかり声を掛けると、いきなり先生ムッ!とされ「今、地図云々」と叱られてしまった。実際には何と云ったのかはっきり聴き取れなかったのだけど、恐らく一歩一歩、歩きながらの測量中だったのだろう。頂度、地元の女学校の生徒達が授業の一環で訪れていて、珍しがられてしまったが、写真はトラブルの元遠慮せざるを得なかった。後で、通りのレストランかチャイ屋で先生と休憩した記憶はある。

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 後年、大部間を置いて、今度はチベットはラサで再開。
 その時、はじめて彼が「イランへの道」の地図制作者の富永御大と知る。
 イランで遭った時「イランへの道」を彼は手にしていたのだが、さすがに「私がこの作者です」とは、シャイな先生、自分では恥ずかしくて言い出せなかったようだ。
 この時、一緒に「旅行人」のスタッフもやって来ていたらしい。
  恐らく「チベット篇」作成の準備として赴いたのだろう。ゴルムドから一緒のバスで隣り合ってやって来たカメラマンの稲垣君も、後「チベット篇」に参加したので、予め申し合わせて別途のラサ入りだったのかも知れない。ラサは、正に「旅行人」ラッシュの様相を呈していた。

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 筆者も旅先で記した日記に時折自家製の地図を描いたりしたものだ。
 やはり、言葉が分かり辛いイランなんかは作っていると一々半知半解のペルシャ文字を看板見ながら辿ってゆく手間も省けるし、自分の気に入った店や建物の情報も書き込める。手間もかかるし、イランやなんかの特定の国では些かヤバイことになる可能性もあるけど、楽しくもあるし、後になって思い返す時にも役立つ。筆者はそれでポリスに因縁つけられたことは何処の国でもない。逆に、イランじゃ、只街角で信号待ちしてただけでポリスに因縁つけられ、宿に必ず預けることになっているにも拘わらず「パスポート」を見せろと要求された。これなんて、正に因縁をつけるための因縁だったが。

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