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2009年10月15日 (木)

旅の行き方

   

   Phnom_penh_1_2

     これは旅の行き方とも云うべきか、旅先で、例えばタイなどで、"キン・カオ・ルー・ヤン"(飯喰った?)と挨拶され、文字通りに解して「いえ、まだ飯くってません」と応えたとして、そう呼びかけたタイ人が「じゃあ、うちで喰ってけ」と屈託なく招いてくれたりした折など、こちらも屈託なく挨拶がわりに四方山話でも交わしながら(勿論タイ語か英語で会話が成り立てばのはなしだが、こんな地元の挨拶する人達って現地語しか話せないのが普通なので実際にはなけなしのタイ語や日本語であれこれ共通話題を捜しだし分かったような顔をして互いにニコニコに終始するってことになりかねない)食事を頂くってのがマナーって処だろう。 
 残念ながらそんな挨拶タイでされた経験はなく、バンコクのTTゲストハウスの横の古い屋敷に住み着いた屋台稼業の兄ちゃんに、ソンクラン(タイの正月)の時だったか、「飲んでいかないか」と声をかけられたことがあった。木陰のコンクリートのベンチ&テーブルを見ると既にちょっと出来上がった感じのファラン(白人)も坐っていて、テーブルの上にはビールやウィスキーが並んでいた。これからバスに乗って出かけようとしていた途中もあったし、何しろ当方アルコール直ぐに顔に出てしまうので、さすがに遠慮してしまって残念な思いをしたことがあった。

Shihanouk_vill

 その隣のカンボジアの首府プノンペンでは、一度急に降り出したスコールを避けるため民家の軒先に駆け込んだ時、奥から声をかけられ振り向くと、中の土間のテーブルで男達が昼真っから酒盛りの真っ最中、皆いい気分で盛りあがっていて、氷とウィスキーの入ったグラスを出されてしまった。プノンペンの開放的な土地柄なのかバンコクほどにためらうこともなく雨だからマアいいかと一杯飲み干した。酒飲みじゃないのでそのウィスキーの味云々はともかく、それでも決して飲めないような質のものじゃなくて、二杯が三杯までなつたもののさすがにこれ以上は不味いと辞して少しは勢いの衰えた雨の中を顔面に火照りを覚えながら更に先を急いだことがあった。何しろカンボジア語はさっぱりなので、只、笑顔と即物的に飲むだけではあったが、男達はそれなりに満足し更に気勢が上がっていた。
 これは余談だが、その時向こうから礼拝が終わったのかイスラムのチャム族の一団がぞろぞろと通りをやって来ていて、先頭にいた若者二人が何か言い合いを始め突然殴り合いとなった。すぐに年配の男が止めに入ったのだが、何か小雨の中の物憂い光景として記憶に残っている。
 
 中国・雲南の大理じゃ、中国ロックの聴けるカフェ《雨林居》で、親しくして貰ったそこの若きオーナーに、当方が昆明に戻るってんで、その前夜、送別会めいたものを個人的に催してくれ、彼の店で何種類も皿を並べたテーブルに就く運びとなった。ふと薄明かりの下じっと目を凝らして確かめると、どの皿の料理にも赤々と唐辛子が覗けていた。必ずしも体調万全ではなかった上、翌早朝には昆明行きのバスに乗って五、六時間以上も揺られてなくてはならなず、一瞬これは不味いとなと危惧してしまった。
 しかし、だからといって、せっかく好意でわざわざ催してくれた宴席、無碍に断ることもできず、これが旅先の作法とばかり、観念し美味しく堪能させて貰った。外人向けレストランのメニューじゃなく、彼等が普段食べている料理だったので、味は好かった。お陰で、特に下痢もせず、無事昆明には着くことができた。

Bangkok_soi

 旅行者にとって些か厄介なのがイラン。
 人それぞれ、イランでも同じなのだけど、しばしば旅行者が辛酸・苦渋を舐めさせられたりするのでも有名であった。旅行者を手厚くもてなすのがイラン人の伝統らしく、"コジャ・ミリ?"(何処に行くんだね)の挨拶から、「それじゃうちで飯喰ってけ」から「うちに泊まってけ」って流れに往々にして至り易い。
 ヤズドでは、アリ氏宅に何日もやっかいになって地元の家庭料理を食べさせて貰った。只、それ以前から腹の調子が余り芳しくなく、せっかくの手製料理も十分に食べることができず、そこの主婦がそれをかなり気にしているのを知らされ、何とも言葉の返しようがなく恐縮してしまった。テヘラン行きのバスに乗る際も料金まで払ってくれた歓待振り。正に至れり尽くせり。
 首府テヘランではあるまだ若い夫婦のアパートの家に招かれたことがあった。
 現在のイラン人の都会の若いカップルの住むアパートの部屋ってこんなのかといい勉強になった。十分(彼等にとっては必ずしもそうではなかったろうが)に生活をエンジョイしているように一見みえた。帰国後暫くして、彼等から手紙が届き、日本に出稼ぎに行きたいのだが何処か好い仕事先はないかと打診してきた。当時、この手の日本への出稼ぎ関係の常套であった。只、こっちは一処不定住に頻繁に国外に出ていた時期でもあって、そんな定住者的な面倒は見かね、且つやがて入国管理が一層厳しくなってくると向こうも必死になってくるという可成り白けた様相にまで至ってしまった。

Cairo_1

 これと似た感じが、先頃地震で半壊したと伝えられたバム。
 バムの土塊の要塞を観光していると、一人の学校の教師だったかガイドだったか、鼻髭のよく似合う中年のイラン人が現れ、昼食を近くの彼の自宅でご馳走になることになった。中産階級然とした佇まいの家で、テーブルのうえには何種類も皿が並んでいて、こっちのイラン人って昼間っからこんなにご馳走を食べるのか等と外国旅初めてみたいに驚いてしまった。普段食じゃなく客をもてなす宴としての料理だったのだ。その上、彼の上品な感じの奥さんも同席していて、イランというよりヨーロッパ映画の一シーンといった趣きで、そんな場慣れしない当方些か恐縮しご相伴に預かったため何を食べたか殆ど覚えていない。問題はその直後起きた。
 その品性卑しからずのナイス・ミドル氏、当方にカラー・フィルムを一本呉れないかとやんわりだが言い始めた。イランでは仲々それなりの品質のフィルムが手に入り辛いんだと零して見せた。その頃、まだデジタルなんて出回ってない頃で、当方も一眼レフのカメラを首からかけ、土塊のアルク(城砦)をほっつきまわっていたのだけど、日本から決められた数のフィルムをリュックの底に収めて持参していた。勿論必要とあらばプロじゃないので、それぞれの国で売られているフジでもアグファでも好かった。別に一本や二本プレゼントしても不都合はなかった。只、バクシーシも併せて当時旅行者間で問題にもなっていて、やはり渡さない方が賢明という方途が流布していて、それに何としても、ここで渡してしまうと、それは彼や彼の伴侶すら貶め侮辱したことにもなるのではないかと、しかし、渡さなければ今度は本来の意味で二人の顔に泥を塗る嵌めに陥ってしまうと、微妙複雑な面持ちの二人を前にしてこっちもギリギリまで追い込まれ思念し続け、結局やはり貶めるべきではないとその場を後にしてしまった。何とも後味の悪いバムのテーブル一杯の正午の宴ではあった。

Tea_house
 今なら、ためらうこともなく、ニッコリとああいいですよとばかり、さっさと渡したであろう。やはり、彼等の顔に泥を塗るような真似をすべきではなかった。(勿論ケース・バイ・ケースであろうが) それが旅の作法であろう。パキスタンの何処であったか、地元民(あるいはアフガン人だったか)に囲まれ、ある老爺が、当方がリュックに点けていた小さな青い゛フリー・チベット゛のバッヂを指差し何度も呉れとせがみ、周りの者にたしなめられたりしていたのだけど、ターバン巻いた屈託のないその老爺がそこまで欲しがっているのならと、プレゼントすると嬉しそうに受け取った。

 多かれ少なかれの旅人が、旅先で、アジアやアフリカ、南米でも歓待して貰ったこと決して少なくはないだろうが、問題は、今度は、自分達が、果たして如何くらい外国からの旅人を歓待出来るのかということに尽きるのだろう。しかし残念ながら、そんな話、寡聞にして余り聴いたことがない。それを阻害する様々な理由があるにしても。
 因みに当方、未だにゼロ・・・・

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