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2009年11月の5件の記事

2009年11月28日 (土)

十万年目の邂逅

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   以前足繁く通ったパキスタンは北西辺境州・ペシャワールのちょっと郊外にあるアフガン難民のバザールで偶然出遭った若者二人連れに、僕は些か驚いてしまった。
 (写真参照)
 小坊主風の日本人中学生がアフガン人の格好でもして見せているのか、と思わずあらぬ疑念が脳裏を掠めた。しかしながら、その二人は国境を越えてやってきたれっきとした真性アフガン人達だった。ハザラ族かと尋ねると違うと云う。言葉の関係で結局何族かは分からずじまい。如何見ても、中国系でも韓国系でも、チベット系でもなく、やはり日本人系としか思えない。やたら驚きと親近感がこみ上げてきて、向こうも自分達に似た相貌にまんざらでもないような様子、確かにペシャワールであってみれば、古には玄奘三蔵もここを通った華麗な仏教の都ガンダーラ、東西種々様々な民族・人種が交差し出遭ってきた場所ではあった。
 何しろアフガニスタンは中央アジアとも云える位置関係にあって、それこそ様々な民族・部族が入り乱れ、東西混交のそれらの風貌は何とも筆舌に尽くしがたいくらいに味わい深く、見てるだけで惚れ惚れしてしまう。これが旅行者にとっても魅力の一つであり、アフガン人気の由縁なのだろう。チベットとイエメンには訪れる事が出来たものの、アフガンの地だけは踏めず仕舞いで残念至極。
 人懐っこいアフガン人も十五歳くらいになれば一人前なのだろう、同じ年頃の日本人達と較べて落ち着いていて大人っぽかった。嘗て中学・高校生の頃に同じ校舎で見掛けたことがありそうな、日本の何処にでも居そうな顔立ちは、予期もしなかった新鮮な驚きであった。

 アジア圏だけではあったが、あっちこっち旅してみて、一番感心したのが、風貌=顔の造作が皮膚の色・人種を越えたパターンとしてあるって事だった。
 人種・民族の特徴的な骨格とは別に、個々の個別的な顔の特徴的な造り、つまり個性的な風貌って奴が、異人種間に共通して存在しているって事だ。例えばある日本人の特徴的な顔の造りが、白人の間にも認められ、黒人の間にすら存在していて、これは別にわざわざ海外まで出て行かなくとも映画でもテレビでも確かめることは出来る類型(パターン)だ。
 つまり、特殊な事柄ではなく、普遍的に、誰であっても、同じ風貌=顔の造作の人間が異人種にも同じくらいに沢山存在しているって人類学的事実。十万年前くらいに、アフリカから世界中に今の我々現代人=新人の祖先が拡がっていった時、元のアフリカの元人達にその祖型が既に存在していたのだろう。
 勿論、一卵性双生児あるいは多生児は別にして、同じ日本人どうしの間でも似た風貌・似た顔の造作の人々って少なくはないけれど、微細な点ではやはり何処か相違していて、クローンの如く一目見ただけでは判別出来ないって事はまずあり得ない。あくまで、類型的な共通性に過ぎない。ここが自然の造化の妙って奴だろう。

 それでも、ある旅人が、自分とは異なる人種の国を旅していて、ある日ひょっこり自分とよく似た相貌=顔の造りの現地人と通りで出会ったりした場合、一体如何な気持ちだろう。上記の日本人的アフガン人と遭遇した折以上の文字通りの"衝撃"すら受けてしまうのだろうか。それとも、宇宙の神秘とか宿命めいた因縁的邂逅の赤い糸を感じてしまうのだろうか。遙か十万年前の、脳髄の奥深くに刻印されていたアフリカを起点とする人類史的伝播・移動の黎明期の遠い記憶に想いを馳せながら、旧交を温めたりするのだろうか。残念ながら、今だ以て、僕はそんな運命的邂逅は経験したことがなく、もし僕とそっくりとまではいかなくても、似た顔のインド人やケニア人あるいはギリシャ人やアイスランド人とばったり出くわせたら、確かに親近感以上のものと、同じ磁極が反発し合う如く些かの嫌悪めいた感情を覚えたりするのかも知れない。
 つまり、同じ類型的相貌ではあっても≒酷似ってのは殆ど見られないようだが、それでも運命の悪戯、偶然の一致、あるいは確率的可能性として否定し切れない。同じ原型・祖型から出たものであるなら、確かに、理論的には酷似以上の同一と云っていいくらいの相似的個体(バリエーション)の発現もあり得、旅とはそんな異人種と巡り会う可能性をも孕んだ何とも因縁めいた人類史的な業とも云えなくもない。

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2009年11月22日 (日)

崔 健  中国揺滾(ロック)の旗手

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   中国のロック(揺滾)yaogunといえば、今現在も崔健(ツイ・ジェン)がその第一人者であるんだろうが、元黒豹楽隊の竇唯(ドウ・ウェイ)なんかもすっかり御大然としてきて、何とか中国にもロックが根付いたようだ。
 1989年の天安門事件の余燼燻る中、チベットに行くため中国に初めて入った時、チベット行がならず、泊まった四川省都・成都の安宿(建物自体は大きい)でいつも中庭から上階まで響いてきた大音量のロック風の曲、仲々調子が好く、その階の担当者の小姐も一緒に口ずさんでいたぐらい。ひょっとしてこれが名前だけは聞いたことのある崔健の曲かなとシンバルの音もリアルで、下階にディスコでもあってそこで生演奏でもしているのか、あるいはテープを大音量で流しているのか定かでなく、窓際の安っぽいソファーに坐りじっと耳を傾けていた。結局、如何も崔健の曲(オリジナル)ではなかったようだけど、今じゃ如何なメロディーだったかも忘れてしまったが、感じはまだよく覚えている。これが、僕と崔健との音楽との、実際は違っていはしたものの、出合いであった。

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 雲南省なんかの辺境以外の中国の主要都市じゃ崔健のテープ、幾ら捜しても見つからなかった。"禁制"なんだなーとつくづく思わさせられてしまった。皆、雲南の省都・昆明で買ったものばかり。この昆明で彼のコンサートがあったんで聴きに行ったと、同じ雲南省は大理の町の中国揺滾の聴けるカフェ《雨林居》の若きオーナーが自慢げに語っていたけど、幾ら小さいが有名な観光の町大理ではあっても、持参したその崔健の《紅旗下的蛋》のテープをかけて貰い、大きなスピーカーから少し押さえた音量で一曲目のサックスやシンバルの音もけたたましく始まる「飛了」が流れ始めるとつい先っきまで香港のビヨンドなんかを一緒に口ずさんでいた白族の娘達が思わず顔を顰めてしまった。大理で一番進んでいたはずのこの《雨林居》の地元客でこんなものであった。上海や北京の同じ若い娘達ならもう少し違った反応を示したかも知れないが。

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 1989年の所謂《天安門事件》の折、広場を占拠した学生や労働者・市民達が口ずさんでいたのがベトナムと中国の国境紛争「中越戦争」を元に作られたらしい《血染的風采》とこの崔健の《一無所有》だったという。
 洋の東西を問わず、全体主義の跋扈する処では暗喩・隠喩が駆使される。
 この《一無所有》も、只の恋愛物とも政治的なアピールとも採れる。否、崔健の歌詞は皆一様に政治性を帯びていると思っていたら間違いないくらい。これは、彼が丁度《文化大革命》の頃に多感な少年時代を送っていた事とやはり無関係ではなさそうだ。"四人組"が逮捕され文革が終焉すると今度はコロリと価値観が変わってしまって、信用できないと政治に完全にソッポを向きしゃにむに銭儲けや自分達の生活にしか眼を向けなくなってしまうか、逆に政治に嫌でも鋭く視線を向けるようになる両極に振れてしまっても当然だろう。
 崔健は当然後者ってことだけど、やはり中国権力には面白く思われてないようだ。
 見方によっちゃあ、文字通りに文化革命って意味で西洋化された新・紅衛兵って感じしなくもない。むしろ、中国共産党的には、彼を模範音楽あるいは揺滾英雄として讃えなければならないはずなのだが、皆"保守"的な観念と感性・価値観しか持ち合わせてない"旧弊"な官僚ばかりのようで、文革の頃なら、江青や紅衛兵達に"反革命分子"として罵られ、首からプラカードさげさせられ市中引き廻されあげく集団暴行を受けて殺害されかねないところだ。

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 崔健、デビューしてもう二十年以上過つのに、まだ5枚くらいしかアルバム出してない。彼自身、せわしなく汲々とした西側風の商業主義は嫌っているようで、実にのんびりと、漫々的に、やはりこれはタイ風に"サバーイ・サバーイ"と呼ぶべきか、活動しているようだ。尤も、彼のブログ見ると、随分と精力的にあっちこっちで活躍しているようにも見受けられる。良きにつけ悪しきにつけ改革開放もすっかり馴染んでしまった昨今の中国、さしもの崔健すらを以前のようにはのんびりとさせてくれなくなってしまったのかも知れない。

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 デビュー・アルバムの《一無所有》(中国タイトル《新長征路上的摇滾》)、一、二曲目の「一無所有」「仮行僧」がダントツに素晴らしく、今聴いても色褪せることがない。
 とりわけ「一無所有」のイントロ、これはもう如何にも"アジアン"、日本人にとって同種の体臭と匂りを覚えつつも同時にエキゾティシズムをも感じさせてくれ、アジア・ロック史に残る一曲と云っても過言ではないと思う。
 二曲目の「仮行僧」は、些か個人的に溺しているのだが、でもこれは、汎アジアというより東アジア(東亜)的な了解性において成り立つ作品ではなかろうか。"行僧"という語自体が正にそれ。後「出走」、「不再掩飾」が気に入っている。
 3枚目の《紅旗下的蛋》はアルバム的には以前の二作とかなりサウンドを異にした、ラップ的要素が強くなってきた、しかし、彼のバンドの面目躍如とした傑作。
 「寛容」、「紅旗下的蛋」、「盒子」、「最后的抱怨」、「彼岸」なんかが好い。米国の"パブリック・エネミー"とは赴きは異なるものの何処か彷彿とさせるものがある。
 4枚目の《無能的力量》は何とも云えない作品で、殆ど聴いたことがない。
 5枚目のアルバム《給你一点顔色》は、音も好いし洗練され凝った造りの余裕の一作って奴だろう。崔健の声質は、ラップ風に合うようだ。冒頭の「城士船夫」も面白いし、八曲目の「農村包囲城市」も個人的には気に入っている。毛沢東の「農村は都市を包囲する」って革命理論らしい。六曲目に「網絡処男」ってのがあって、ネット・カフェの男かと思ったら、英語で"Net  Virgin"と記されていて、処女ならぬ処男だった。
 これは、2005年の発売で、以降現在まで、新しいアルバムは出てないようだ。もうそろそろ出ても好い頃だろう。
   
 因みに、崔健、来月の十二月二十四日に北京の展覧館で、コンサート・ツアー「新長征路上的揺滾V21」北京演唱会を演るらしい。

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2009年11月16日 (月)

《暗殺》 転回の策謀

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   以前何処かの安売りコーナーで千円くらいで買った篠田正浩監督のDVD、久し振りに観てみた。出演俳優の殆どが既に鬼籍に入ったか、単に僕が知らないだけって感じで、監督の篠田自身何時死んだのだろうと日付を知ろうとネット・チェックしてみたら、何とまだ生きていた。嘗てインドの映画俳優ナナ・パーテカルで失敗し、出来る限り確認取ることにしているんだけど、そうか篠田ってまだ現役なのか・・・それにしては、さっぱり見ないな。嫁さんの岩下志麻もそう言えば余り姿を見なくなった。歳喰っても変わらずの可愛い感じの色っぽさが魅力のお志麻さんだけど、この1964年作品《暗殺》でも、主人公・清川八郎の女郎上がりの嫁さん「お蓮(れん)」を演じていて、当時の幕末の志士達の嫁さん・愛人って皆気丈な女性ばかり。捕らえられ番所で散々拷問にあっても夫・清川のことを一言も吐くことなく死んでゆく。

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 清川八郎って知る人ぞ知るって存在で、知らない人の方が多いのだろう。
 北辰一刀流の免許皆伝の文武に優れた野心家で、映画では丹波哲郎が演っていて正にはまり役だけど、あの〈新撰組〉の前身である〈浪士組〉の発案者。
 水戸の浪士達が井伊直弼を暗殺した【桜田門外の変】以来江戸市中に溢れた浪人達を持て余した江戸幕府が、、その浪人達を厄介払いする方便として作ったやがて上洛する将軍の安全のため物情騒然とした京都の治安警護の名目の組織〈浪士組〉を、清川八郎が、京都に入るや否や、新徳(禅)寺において「尊皇攘夷」の旗を掲げ、幕府にその矛先を向けるという大胆極まりない策謀を画し成功する。天皇から「尊皇攘夷」の勅諚(ちょくじょう)を得ることができたからだ。それに背けば、例え幕府といえども朝敵となってしまい、幕府側も如何とも出来なくなってしまった。

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 元々彼は、「尊皇攘夷」派であって、幕臣でありながら志を有する山岡鉄舟や諸藩士・浪士達で結成された〈虎尾の会〉の主催者でもあった。この〈虎尾の会〉には、薩摩藩士・益満休之助もいて、後に山岡鉄舟とともに【江戸無血開城】の立役者として奔走することになる。

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 この京都での変の際、佐幕派の芹沢鴨や近藤勇、土方俊三なんかが〈浪士組〉から別れ、後に〈新撰組〉となる。芹沢鴨以外のメンバーが画面に顔を出すこともなく、専ら映画は、清川八郎のこの策謀的義挙と松平主税介の放った刺客・佐々木只三郎の清川八郎攻略の変遷が主軸。
 この佐々木(木村功)、元会津藩士の旗本で、幕府講武所の剣術師範をやっていた。映画では、清川に講武所の道場で弟子達が見ている前で手合わせをし、二度も叩かれてしまい、すつかり面目を失い、清川に遺恨を抱き、松平主税介に清川暗殺を願い出る。これは、フィクションなんだろう。
 清川も可成りの腕前だったらしいけど、佐々木も幕府講武所の剣術師範だったくらいの相当の腕の持ち主で、尊皇攘夷派となってしまった数百人もの〈浪士組〉をそれ以上京都に置いていることを危惧した幕府は、再び江戸に帰させる。そこで、清川、一人になったところを麻布の路上で、佐々木ら5、6人のメンバーで襲い殺害。首級(生首)をすら取ったらしい。実際には、いきなり背後から他の者が斬りかかったようだが、画面では、京都・新徳(禅)寺での〈浪士組〉の尊襄派的転回の義挙と並んでこの映画のハイライトの暗殺シーン。

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 尋常の立ち合いでは既に破れているので、清川の一瞬の隙を狙っての抜刀術。日本的剣劇の真骨頂だ。篠田監督、仲々巧く撮っている。この頃が、日本の時代劇の剣劇の一番高揚していた時期ではなかろうか。
 佐々木は再び京都に戻り、〈京都見廻組〉の隊長(与頭)となって〈新撰組〉ともども、倒幕派の志士達を脅かし続けた。〈新撰組〉は一般の町民達のエリアで、〈見廻組〉は官庁エリアと分担されていたらしいが、数年後、京都・近江屋の二階で坂本龍馬・中岡慎太郎等を暗殺したとも言われている。

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 坂本龍馬にあの佐多啓二が扮している。
 些か洗練されているけど、颯爽としたところが好い。
 野心満々の丹波清川に対して颯爽淡泊な佐多龍馬って対称だろうか。
 あの蜷川幸雄 も若々しい志士姿で出ていて笑わせる。

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 清川八郎   丹波哲郎
 お蓮     岩下志麻
 佐々木只三郎 木村功
 山岡鉄舟   保積隆信
 坂本龍馬   佐田啓二(特別出演)
 松平主税介  岡田英次(ナレーション)
 板倉周防守  小沢栄太郎
 芹沢鴨    織本順吉

 監督     篠田正浩
 脚本     山田信夫   
 原作     司馬遼太郎『奇妙なり八郎』
 撮影     小杉正雄
 音楽     武満徹  
 美術     大角純一
 制作     松竹 1964年作品 

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2009年11月11日 (水)

選ばれし者達の挽歌  デイゼル・ワシントン《悪魔を憐れむ歌》

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   この日本だけでも、宇宙人に憑かれた、悪魔に憑かれたとかいう動機で犯された凶悪あるいは殺人事件決して無いわけではないけれど、世界になると少々じゃないようだ。
 俗にいう"憑依"って奴だ。
 嘗ては、"憑依"を口実に魔女狩りなんかが洋の東西を問わず権力も深く関わって民衆によって行われてきたのが、"近代"という"合理主義"を勿体ぶるようになってからは、逆に被疑者達の訴える"憑依"を「虚言」あるいは「妄想」の類として指弾するようになった。
 しかし、所詮それは同じメタルの表裏の関係に過ぎず、同じ心性でしかなかったという事実を実証し続けてきた少なくとも"戦後"史ではあった。

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 ある夜、殺人犯のリースの死刑が執行される直前、彼を逮捕した俊腕刑事・ホブスがリースの独房に呼ばれる。撮影班が撮影する中、リースが彼に意味ありげに云う。
 「よく覚えておけ・・・一日後、一週間後、一ヶ月後、霊は次々と乗り移る」
 ホブスは苦笑し独房を後にする。
 やがてリースが巨体の守衛達にはさまれ、監獄から執行室に向かう時、リースがローリング・ストーンズの"Time is on my side"を唄い始める。時は、時間は、俺の方にある、と。
 ホブスや上役の警部補・スタントン等関係者達が見守る中、毒ガスによる死刑が執行される。

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 ある日、ホブスの処に匿名電話がかかり、現場に赴いてみると果たして浴槽に毒物を注射された屍体が横たわっていて、ホブスの相棒・ジョンジーがドアの影になった壁に書きなぐられた文字を発見。
「ライオンズ ? ? ?  スパコウスキー」
 ホブスは唖然とする。刑死したリースが独房で彼に云った謎めいた言葉、"ライオンズとスパコウスキーの間の空白って何だ"、"お前ならきっと分かるはずだ"を想い出した。と、最近余所の部署から移ってきた刑事・ルーに、以前飾られていた表彰警官を顕彰したボードに名前が乗っていたと教えられ、倉庫で探し出すと、その二人の名前の間にあったはずの名前が抉られていた。
 ホブスはミラノというその表彰されて後、山荘で自殺した刑事を追求し始める。が、上司のスタントンから、事件のことを忘れろ他の者に絶対に洩らすなと再三釘を差され、漸く捜しだしたミラノの娘、神学者のグレタは「大事な人がいるのなら関わらないこと」とにべもない。ミラノが自殺した山荘を確かめてみると、塗り潰した壁の下に"アザゼル"の文字が書かれてあった。グレタに尋ねると、悪魔だと答える。

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 実は、悪魔アザゼルは、人や動物に憑依し、連綿と古代から生き続けてきていたという。 ホブスの同僚のルーが突然彼の傍にやって来て不可解な質問をし最後に例の"タイム・イズ・オン・マイ・サイド"を口ずさみ始め、そして身体接触した者に次々と乗り移ってゆく様を目撃し、グレタも同様の目に遭い、いよいよアザゼルの攻囲が迫ってきた。
 憑依されたリースが独房でホブスに握手を求めてきたのは、彼に乗り移ろうとしてだったのだけど、ホブスは決して汚職をしないミラノと同様の謹厳実直な刑事だったので、つまり「選ばれた者」だったので悪魔アザゼルが憑依出来なかった。只、それはあくまで憑依した人体からの接触では不可能だっただけで、一旦体外に出て本来のアザゼルに戻ってしまうと簡単に憑依出来るのだった。

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 やがて、憑依された学校教師が突然ホブスに拳銃発砲しホブスに射殺された事件で、警察の手がホブスに及び、ホブスは山荘に籠もってアザゼルが襲ってくるのを待った。
 やがて現れたのは、上司のスタントンと相棒ジョンジーだった。
 スタントンは単に学校教師殺害の件で身柄を拘束しようとしただけであったのが、いきなりジョンジーがスタントンを射殺する。ジョンジーに乗り移っていたのだ。ホブスと仲の良かったのを知っていての憑依だったのだろう。

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 不退転の決意をしていたホブス、親友のジョンジーの胸に躊躇うことなく銃弾を撃ち込み、その面前で悠然と今まで辞めていた煙草を一本燻らせてみせる。その煙草には、アザゼルがホブスの弟を殺したのと同じ毒が仕込まれていて、ホブスは、自分の命を棄てて、アザゼルをこの人里離れた山荘におびき寄せていたのであった。つまり、死んだジョンジーの身体からホブスに乗り移ってもホブスは虫の息って策だった。乗り移られたホブス、慌てて車のキーを捜すがあえなく息絶えてしまう。忽ち、体外に出たアザゼル、人里離れた森の中で人影を捜そうにも見つかる訳もなく、とうとう数千年の憑依"生"もピリオドかと思われた次の瞬間、何処かから入り込んできたのか山荘の破れ穴から一匹の猫が踊り出した。アザゼルの憑依は、人間だけに限られたものでなく動物もその範疇に入っていたのを、無知なのか混乱時の油断だったのか、ホブスの計算には入ってなかった。猫に限らず、森は動物の住処。
 結局、アザゼルは又しても目障りな「選ばれし者」を一人この世から抹殺し、更なる延命を果たせた、という訳だ。

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 筋だけ記しても面白さは半分も伝わらないであろう。
 おどろおどろしいオカルト物とは些か趣きを別にした、むしろクールに、淡々と物語は進行してゆく。デイゼル・ワシントンを主役にしたっていうのが、クールさを狙ってのキャスティングだったろう。おまけに、その脇役人が渋い連中ばかりで固められ、浮薄に流れ易い「悪魔」物をきっちりとサポートとしていて観ていて飽きさせない。
 大御所ドナルド・サザーランドからジョン・グッドマン、ジエームス・ガンドルフィニ、イライアス・コティーズ。イントロの死刑囚リース役のコティーズ、チャン・アン・ユン監督の近作《アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン》でキムタクやイ・ビョンホ等と共演しているらしいが、毒ガス刑の場面なんかも仲々決まっている。

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 アザゼルって、日本人には余り馴染みはないが、ベゼルブブと同様悪魔の一人らしい。 悪魔(サタン)の親玉って、ルシファーが有名だけど、書物・宗教宗派によって色々違うようだ。確かに、何にでも憑依して生き伸びてゆかねばならないこのアザゼル、浅ましいレベルの悪魔・悪霊で、その悪魔界での位階も低いのだろう。キニア・リーブス主演《コンスタンティン》のルシファー、随分と余裕で、姿こそ現さなかったイエスなのかエホバだったか忘れたが、互角にいい勝負をしていた。
 つまり、それが本来の悪魔であって、神と互角、陰と陽、明と暗、つまりこれも同じ一枚のメタルの表裏の関係でしかない。元々は以前に膾炙し流布していた土着の神々が吸収されて"神"の一要素あるいはそれなりの位階の準神として再配置されていたのが、時代が下るにつれて異教=邪教として敵対物として俎上に乗せられるようになったのだろう。
  憑依する悪霊(悪魔)・精霊って、世界中に流布しているだろうし、中国・雲南省のタイ族あるいはタイ国なんかにも、森の精霊・"ピーパー"が森の動物や人間に憑依してゆくので有名。

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 この手のものは、詳細に穿(うが)とうとしては不味い。
 《オーメン》の如く、権力者達に憑依し世界を支配するって悪魔に比して、何ともチマチマしいそこら辺の小便臭い暗がり殺人ばかりに腐心して、それをさも得意気に喋々する悪魔は如何考えても、最下等の悪魔って感すらあって随分と情けない代物だが、それを問うては、ホブスやグレタの、"選ばれた者"の決死の活躍が、えらく一人よがりな滑稽な代物になってくる。尤も、この"選ばれし者"ってグレタが勝手に云ってるだけで何の根拠もない。彼女が神学者なので、旧約聖書辺りから勝手に敷衍したに過ぎないのだろう。彼が署内で清廉潔白な存在とかアザゼルが間接的に憑依出来ないという理由だけではちょっと。でも、現実的には、例えばイスラエルなんか見れば分かるように、(嘗てのナチスや大日本帝国も似たり寄ったりの言辞弄していたらしいし)そんな随分と一人よがりな連中の、一人よがりな産物のようだ。

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 それにしても、悪魔の跳梁跋扈、それも半分は神の名の下に為されてきたのを許している、あるいは数千年も傍観してきた"神"ってなんなんだろう。普通に考えれば、何一つ打つ手も能もない存在ってとこだろう。それが"万能"って称されているのは、逆に反語的な意味付与って訳になる。だから、邦題の《悪魔を憐れむ歌》って、《神を憐れむ歌》でもあるって穿ち見も出来る。

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 この映画、大作とは無縁の小品だけど、好い演技人が揃ってるのもあって、肩の凝らない何度観ても飽きることのない佳作ってとこだ。何故、ローリング・ストーンズの"タイム・イズ・オン・マイ・サイド"なのか。正に、時は、我が方にありってことなのだろう。この曲、アーマ・トーマスというゴスペル系の女性歌手が先行してリリースされていてこっちも悪くない。YOU TUBEで聴くことが出来る。映画のエンディングが邦題と同じストーンズの《悪魔を憐れむ歌》。

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          アザゼル 

 ホブス刑事     デイゼル・ワシントン
 スタントン警部補  ドナルド・サザーランド
 ジョンジー刑事   ジョン・グッドマン
 ルー刑事      ジエームス・ガンドルフィニ
 グレタ・ミラノ   エンベス・デイビッツ
 リース       イライアス・コティーズ

 監督   グレゴリー・ホブリット
 撮影   ニュートン・トーマス・シーゲル
 美術   ウィリアム・クルーズ
 音楽   タン・ドゥン
 制作   ターナー・ピクチャー(米国)1998年作品

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2009年11月 5日 (木)

韓国映画 《西便制》 について

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   以前、このブログでも紹介した林権沢監督の1993年作品《西便制》ソピョンジェ、韓国ではメガ・ヒットした割には、レンタル屋の韓流コーナーで見掛けたこともなく、韓国伝統歌謡パンソリを中心に作られた仲々面白い作品だけに、非常に残念。
 何故、今頃再び《西便制》かというと、つい先日気まぐれに入った図書館で、映画評論家・佐藤忠男の《韓国映画の精神 林権沢監督とその時代》(岩波)なる本を見つけ《西便制》に関して言及していたからだ。

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 佐藤はこの《西便制》を林監督作品中の白眉として位置づけていて、中でもこの映画のハイライトといってもいい親子三人が郊外の低い丘の細い道を、長廻しで、アリ アリラン スリ スリランと唄い奏し踊りながらえんえんと下ってくる場面を、「映画史上稀に見る至福の表現」とまで賞賛している。
 周囲では次第に新しい西洋音楽の波が打ち寄せ始め、旧い伝統音楽パンソリなんて色褪せた過去の遺制の如く路傍に追いやられ出したのを、行く先々の町や村でひしひしと肌身に感じ取りながら、パンソリ芸人としてプライド高く、自分にも二人の子供にも厳格な父親ユボンの下での、貧しく厳しい旅芸人としてますます明日の見えなくなってきた流浪の旅を続ける中でのある一つの点景。

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 映画の中での流れからすると、これは明らかに齟齬を来していて違和感を覚えざるを得ない光景だ。勿論、如何な暴力家庭であっても、崩壊寸前のボロボロな家族にあっても、ふとしたある一瞬そんな家族の心和んだ"ひととき"ってあるものだろう。しかし、それじゃ、その後に、太鼓叩きの、そしてこの映画の語り部たる弟ドンホが、そんな先細りの自滅すら垣間見えた生活に絶望し逃げ出してゆく流れと、やはり矛盾する。
 だから、これは、何としても、そんな父ユボンと姉ソンファを見捨てて逃げ出した弟ドンホの、無い物ねだりとも謂うべき、一つの潜在的な願望、ドンホが長年心の内で希求してきた親和的家族のイメージに過ぎない。イリュージョンなのだ。それ故に、至福的なのであろう。

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 佐藤はこの原作を読んでいて、原作ではドンホは父ユボンを恨み殺意すら抱いていたようだ。だから、ユボンもそれを知っていて、刺し殺すならサア刺し殺せとばかり朗々とパンソリを歌いあげ、そのユボンとそのパンソリの迫力に敗け、結局果たせずに逃げ出すに至ったらしい。後年、行方を捜し当て訪れた居酒屋で、唄い手の姉ソンファに対した時も、(原作では妹になっている)盲目になったソンファは、ドンホの叩く合いの手の太鼓にあわせて唄いながらも、ドンホの自分に対する殺意をひしひしと感じ取っていたことになってるという。何とも凄まじい関係だけど、それ故に一層映画のその"至福"的場面は、違和感に満ちたものとなってしまう。

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 ドンホが逃亡して後、傷心の余り病に伏し唄を唄えなくなった娘ソンファを看病しながらも、ある時、薬と称して視力を奪う毒薬を飲ませる。やがて、ソンファは視力を失い、盲目となってしまう。
 原作では「眠っていた娘の目に塩酸を流し込んで失明させた」だけど、その理由が、ソンファの唄うパンソリには《恨》(ハン)が足りない、という事なのだ。
 ドンホが逃げ出すほどの辛い日々だったにも拘わらず、ソンファはむしろ三人の生活が何物にも代え難く、怨むことも恨(かな)しむこともなかったのだ。それ故に《恨》の真底の悲しい響きを帯びることのない、透明な湧き水のような純粋さばかり。人間としてはともかく、パンソリ歌手として、人々の共感を、汚濁した淀んだ心の底の琴線に触れる唄とはなり得ない。それ故に、不条理な天のもたらした災厄に、更に苦しみ呻吟し、純な心性をありと全ゆる悪業処業ですっかり汚染されきった暗く淀んだ流れの底深く沈め込み続け、その果てにおいて漸く体得できる《恨》なのだろう。

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    僻地のあばら屋でユボンの盲いたソンファに対する厳しい稽古はつづく

  原作で、居酒屋でそこのパンソリの唄い手の女将を前に男(ドンホ)はこう呟く。(但し、この女将はソンファではない)
 「人の《恨》というものは、そうやって植えつけようとして植えつけられるものではないはずです。人の《恨》とは、そんなふうにだれから与えられるものではなく、人生という長い長い年月を生き抜くあいだに、ほこりのように積もり積もってできるものなのです。・・・・
 故人にこんなことをいって申し訳ありませんが、たぶん、娘さんの声のためというより、娘さんが自分のそばを離れられないようにしておきたいという考えの方が先に立っていたのかもしれない」
 そして男はさいごに、深い感慨をこめてひとり言のように、こう言う。
 「しかし、いずれにせよ、娘さんが父親を許したというのは幸いなことだったかもしれません。父親のためにも、娘さん自身のためにも・・・。娘さんが父親を許すことができなければ、その思いはまさに怨念になり、唄のための《恨》にはなりえないではありませんか。父親を許したからこそ、娘さんの《恨》はいっそう深まったのでしょう・・・」

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           ソンファとドンホ

 エンディングで、長く住み着いた居酒屋を後にする盲いたソンファが幼い恐らく彼女が身籠もった娘に先導されて、雪景色の中をトボトボと旅だってゆく姿は、悲しさ寂しさというよりも、むしろ淡々として己が方途を歩み続けるひたむきさであろう。      
 テーマは違うが、同じ盲目の、東北地方を中心に放浪を続ける旅芸人=瞽女(ごぜ)を主人公にした篠田正浩監督の《はなれ瞽女おりん》も確かそんなラスト・シーンだったように記憶するが定かではない。

 尚、この映画のDVD、゙YES ASIA゙で取り寄せが可能。日本語字幕もついている。但し、リージョン・コードが違うので、フリー化できるソフトが必要。著作権云々するなら、ユーザーが入手し易いように努力するのが企業の責任のはずなんだが。

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