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2009年11月 5日 (木)

韓国映画 《西便制》 について

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   以前、このブログでも紹介した林権沢監督の1993年作品《西便制》ソピョンジェ、韓国ではメガ・ヒットした割には、レンタル屋の韓流コーナーで見掛けたこともなく、韓国伝統歌謡パンソリを中心に作られた仲々面白い作品だけに、非常に残念。
 何故、今頃再び《西便制》かというと、つい先日気まぐれに入った図書館で、映画評論家・佐藤忠男の《韓国映画の精神 林権沢監督とその時代》(岩波)なる本を見つけ《西便制》に関して言及していたからだ。

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 佐藤はこの《西便制》を林監督作品中の白眉として位置づけていて、中でもこの映画のハイライトといってもいい親子三人が郊外の低い丘の細い道を、長廻しで、アリ アリラン スリ スリランと唄い奏し踊りながらえんえんと下ってくる場面を、「映画史上稀に見る至福の表現」とまで賞賛している。
 周囲では次第に新しい西洋音楽の波が打ち寄せ始め、旧い伝統音楽パンソリなんて色褪せた過去の遺制の如く路傍に追いやられ出したのを、行く先々の町や村でひしひしと肌身に感じ取りながら、パンソリ芸人としてプライド高く、自分にも二人の子供にも厳格な父親ユボンの下での、貧しく厳しい旅芸人としてますます明日の見えなくなってきた流浪の旅を続ける中でのある一つの点景。

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 映画の中での流れからすると、これは明らかに齟齬を来していて違和感を覚えざるを得ない光景だ。勿論、如何な暴力家庭であっても、崩壊寸前のボロボロな家族にあっても、ふとしたある一瞬そんな家族の心和んだ"ひととき"ってあるものだろう。しかし、それじゃ、その後に、太鼓叩きの、そしてこの映画の語り部たる弟ドンホが、そんな先細りの自滅すら垣間見えた生活に絶望し逃げ出してゆく流れと、やはり矛盾する。
 だから、これは、何としても、そんな父ユボンと姉ソンファを見捨てて逃げ出した弟ドンホの、無い物ねだりとも謂うべき、一つの潜在的な願望、ドンホが長年心の内で希求してきた親和的家族のイメージに過ぎない。イリュージョンなのだ。それ故に、至福的なのであろう。

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 佐藤はこの原作を読んでいて、原作ではドンホは父ユボンを恨み殺意すら抱いていたようだ。だから、ユボンもそれを知っていて、刺し殺すならサア刺し殺せとばかり朗々とパンソリを歌いあげ、そのユボンとそのパンソリの迫力に敗け、結局果たせずに逃げ出すに至ったらしい。後年、行方を捜し当て訪れた居酒屋で、唄い手の姉ソンファに対した時も、(原作では妹になっている)盲目になったソンファは、ドンホの叩く合いの手の太鼓にあわせて唄いながらも、ドンホの自分に対する殺意をひしひしと感じ取っていたことになってるという。何とも凄まじい関係だけど、それ故に一層映画のその"至福"的場面は、違和感に満ちたものとなってしまう。

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 ドンホが逃亡して後、傷心の余り病に伏し唄を唄えなくなった娘ソンファを看病しながらも、ある時、薬と称して視力を奪う毒薬を飲ませる。やがて、ソンファは視力を失い、盲目となってしまう。
 原作では「眠っていた娘の目に塩酸を流し込んで失明させた」だけど、その理由が、ソンファの唄うパンソリには《恨》(ハン)が足りない、という事なのだ。
 ドンホが逃げ出すほどの辛い日々だったにも拘わらず、ソンファはむしろ三人の生活が何物にも代え難く、怨むことも恨(かな)しむこともなかったのだ。それ故に《恨》の真底の悲しい響きを帯びることのない、透明な湧き水のような純粋さばかり。人間としてはともかく、パンソリ歌手として、人々の共感を、汚濁した淀んだ心の底の琴線に触れる唄とはなり得ない。それ故に、不条理な天のもたらした災厄に、更に苦しみ呻吟し、純な心性をありと全ゆる悪業処業ですっかり汚染されきった暗く淀んだ流れの底深く沈め込み続け、その果てにおいて漸く体得できる《恨》なのだろう。

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    僻地のあばら屋でユボンの盲いたソンファに対する厳しい稽古はつづく

  原作で、居酒屋でそこのパンソリの唄い手の女将を前に男(ドンホ)はこう呟く。(但し、この女将はソンファではない)
 「人の《恨》というものは、そうやって植えつけようとして植えつけられるものではないはずです。人の《恨》とは、そんなふうにだれから与えられるものではなく、人生という長い長い年月を生き抜くあいだに、ほこりのように積もり積もってできるものなのです。・・・・
 故人にこんなことをいって申し訳ありませんが、たぶん、娘さんの声のためというより、娘さんが自分のそばを離れられないようにしておきたいという考えの方が先に立っていたのかもしれない」
 そして男はさいごに、深い感慨をこめてひとり言のように、こう言う。
 「しかし、いずれにせよ、娘さんが父親を許したというのは幸いなことだったかもしれません。父親のためにも、娘さん自身のためにも・・・。娘さんが父親を許すことができなければ、その思いはまさに怨念になり、唄のための《恨》にはなりえないではありませんか。父親を許したからこそ、娘さんの《恨》はいっそう深まったのでしょう・・・」

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           ソンファとドンホ

 エンディングで、長く住み着いた居酒屋を後にする盲いたソンファが幼い恐らく彼女が身籠もった娘に先導されて、雪景色の中をトボトボと旅だってゆく姿は、悲しさ寂しさというよりも、むしろ淡々として己が方途を歩み続けるひたむきさであろう。      
 テーマは違うが、同じ盲目の、東北地方を中心に放浪を続ける旅芸人=瞽女(ごぜ)を主人公にした篠田正浩監督の《はなれ瞽女おりん》も確かそんなラスト・シーンだったように記憶するが定かではない。

 尚、この映画のDVD、゙YES ASIA゙で取り寄せが可能。日本語字幕もついている。但し、リージョン・コードが違うので、フリー化できるソフトが必要。著作権云々するなら、ユーザーが入手し易いように努力するのが企業の責任のはずなんだが。

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