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2009年11月22日 (日)

崔 健  中国揺滾(ロック)の旗手

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   中国のロック(揺滾)yaogunといえば、今現在も崔健(ツイ・ジェン)がその第一人者であるんだろうが、元黒豹楽隊の竇唯(ドウ・ウェイ)なんかもすっかり御大然としてきて、何とか中国にもロックが根付いたようだ。
 1989年の天安門事件の余燼燻る中、チベットに行くため中国に初めて入った時、チベット行がならず、泊まった四川省都・成都の安宿(建物自体は大きい)でいつも中庭から上階まで響いてきた大音量のロック風の曲、仲々調子が好く、その階の担当者の小姐も一緒に口ずさんでいたぐらい。ひょっとしてこれが名前だけは聞いたことのある崔健の曲かなとシンバルの音もリアルで、下階にディスコでもあってそこで生演奏でもしているのか、あるいはテープを大音量で流しているのか定かでなく、窓際の安っぽいソファーに坐りじっと耳を傾けていた。結局、如何も崔健の曲(オリジナル)ではなかったようだけど、今じゃ如何なメロディーだったかも忘れてしまったが、感じはまだよく覚えている。これが、僕と崔健との音楽との、実際は違っていはしたものの、出合いであった。

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 雲南省なんかの辺境以外の中国の主要都市じゃ崔健のテープ、幾ら捜しても見つからなかった。"禁制"なんだなーとつくづく思わさせられてしまった。皆、雲南の省都・昆明で買ったものばかり。この昆明で彼のコンサートがあったんで聴きに行ったと、同じ雲南省は大理の町の中国揺滾の聴けるカフェ《雨林居》の若きオーナーが自慢げに語っていたけど、幾ら小さいが有名な観光の町大理ではあっても、持参したその崔健の《紅旗下的蛋》のテープをかけて貰い、大きなスピーカーから少し押さえた音量で一曲目のサックスやシンバルの音もけたたましく始まる「飛了」が流れ始めるとつい先っきまで香港のビヨンドなんかを一緒に口ずさんでいた白族の娘達が思わず顔を顰めてしまった。大理で一番進んでいたはずのこの《雨林居》の地元客でこんなものであった。上海や北京の同じ若い娘達ならもう少し違った反応を示したかも知れないが。

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 1989年の所謂《天安門事件》の折、広場を占拠した学生や労働者・市民達が口ずさんでいたのがベトナムと中国の国境紛争「中越戦争」を元に作られたらしい《血染的風采》とこの崔健の《一無所有》だったという。
 洋の東西を問わず、全体主義の跋扈する処では暗喩・隠喩が駆使される。
 この《一無所有》も、只の恋愛物とも政治的なアピールとも採れる。否、崔健の歌詞は皆一様に政治性を帯びていると思っていたら間違いないくらい。これは、彼が丁度《文化大革命》の頃に多感な少年時代を送っていた事とやはり無関係ではなさそうだ。"四人組"が逮捕され文革が終焉すると今度はコロリと価値観が変わってしまって、信用できないと政治に完全にソッポを向きしゃにむに銭儲けや自分達の生活にしか眼を向けなくなってしまうか、逆に政治に嫌でも鋭く視線を向けるようになる両極に振れてしまっても当然だろう。
 崔健は当然後者ってことだけど、やはり中国権力には面白く思われてないようだ。
 見方によっちゃあ、文字通りに文化革命って意味で西洋化された新・紅衛兵って感じしなくもない。むしろ、中国共産党的には、彼を模範音楽あるいは揺滾英雄として讃えなければならないはずなのだが、皆"保守"的な観念と感性・価値観しか持ち合わせてない"旧弊"な官僚ばかりのようで、文革の頃なら、江青や紅衛兵達に"反革命分子"として罵られ、首からプラカードさげさせられ市中引き廻されあげく集団暴行を受けて殺害されかねないところだ。

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 崔健、デビューしてもう二十年以上過つのに、まだ5枚くらいしかアルバム出してない。彼自身、せわしなく汲々とした西側風の商業主義は嫌っているようで、実にのんびりと、漫々的に、やはりこれはタイ風に"サバーイ・サバーイ"と呼ぶべきか、活動しているようだ。尤も、彼のブログ見ると、随分と精力的にあっちこっちで活躍しているようにも見受けられる。良きにつけ悪しきにつけ改革開放もすっかり馴染んでしまった昨今の中国、さしもの崔健すらを以前のようにはのんびりとさせてくれなくなってしまったのかも知れない。

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 デビュー・アルバムの《一無所有》(中国タイトル《新長征路上的摇滾》)、一、二曲目の「一無所有」「仮行僧」がダントツに素晴らしく、今聴いても色褪せることがない。
 とりわけ「一無所有」のイントロ、これはもう如何にも"アジアン"、日本人にとって同種の体臭と匂りを覚えつつも同時にエキゾティシズムをも感じさせてくれ、アジア・ロック史に残る一曲と云っても過言ではないと思う。
 二曲目の「仮行僧」は、些か個人的に溺しているのだが、でもこれは、汎アジアというより東アジア(東亜)的な了解性において成り立つ作品ではなかろうか。"行僧"という語自体が正にそれ。後「出走」、「不再掩飾」が気に入っている。
 3枚目の《紅旗下的蛋》はアルバム的には以前の二作とかなりサウンドを異にした、ラップ的要素が強くなってきた、しかし、彼のバンドの面目躍如とした傑作。
 「寛容」、「紅旗下的蛋」、「盒子」、「最后的抱怨」、「彼岸」なんかが好い。米国の"パブリック・エネミー"とは赴きは異なるものの何処か彷彿とさせるものがある。
 4枚目の《無能的力量》は何とも云えない作品で、殆ど聴いたことがない。
 5枚目のアルバム《給你一点顔色》は、音も好いし洗練され凝った造りの余裕の一作って奴だろう。崔健の声質は、ラップ風に合うようだ。冒頭の「城士船夫」も面白いし、八曲目の「農村包囲城市」も個人的には気に入っている。毛沢東の「農村は都市を包囲する」って革命理論らしい。六曲目に「網絡処男」ってのがあって、ネット・カフェの男かと思ったら、英語で"Net  Virgin"と記されていて、処女ならぬ処男だった。
 これは、2005年の発売で、以降現在まで、新しいアルバムは出てないようだ。もうそろそろ出ても好い頃だろう。
   
 因みに、崔健、来月の十二月二十四日に北京の展覧館で、コンサート・ツアー「新長征路上的揺滾V21」北京演唱会を演るらしい。

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