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2009年12月の4件の記事

2009年12月26日 (土)

《タクシー・ドライバー》  孤独な魂の覚醒と微睡み

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   昨今、この列島でも、《青春の殺人者》あるいは《反社会的テロル》ともいうべき高度成長期以来連綿として社会の底に昏くあるいは紅く沸々と滾り続けてきた青年達の蹉跌と彷徨の果ての一つの意志が蒼白い火花を発し続けている。。
  
 奇しくもと云うより共時性というべくマーチン・スコセッシ監督の《タクシー・ドライバー》と長谷川和彦監督の《青春の殺人者》、同じ1976年の作品。テーマに多少異同があっても、その根底は同じ。そして、両者を繋ぐと言ってしまうと些か語弊があるが、それから十年前に遡る1967年ドアーズの《ジ・エンド》。これはドアーズのメンバーが入れ込んでいたコルトレーンの急逝した年でもある。
 この曲の歌詞、恐らく間違いないと確信しているが、かなり以前観た、ゴールデン・タイムではない昼間に流れていた米国のタイトルは忘れたけど、実際に米国の中西部辺りで起きた事件を元にした主人公の息子が兄弟や両親を銃で殺害する映画を彷彿とさせる。時代的にはジム・モリソンがこの曲を書いた頃のものだろう。モリソンもこの映画を観たのではないかと思っている。但し、大部前のことで記憶の変容って可能性もあり、一応カッコつき。

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 60年代と70年代とでは社会の流れも大部異なるが、その底流に流れているものは、社会構造が同じである限りそう違いはない。例え、昭和から平成、あるいは2000年代に入ってからでも。
 ロバート・デ・ニーロ主演のこの《タクシー・ドライバー》、"オールナイト"の酔醒定かならぬ眼と意識で観ると、一層その世界へ入って行けそうな雰囲気の映画で、これ又一種の"ドラッグ・ムービー"と云えなくもない。薬物に頼らない"トリップ"という訳だ。
 しかし、醒めた眼で観ると、孤独というものが、心の奥底まで、魂まで沁み入ってくる類の映画だ。

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 舞台はベトナム戦争の余燼もまだ燻ぶるニューヨーク。
 あるタクシー会社に、一人のベトナム帰りの男・トラビスが現れる。不眠症を理由に夜専門の運転手として雇われる。粗末なアパートで一人暮らしのトラビスは、仕事のない時はポルノ映画館で時間を潰していた。他の運転手達が嫌う黒人スラム街でも走り続けた。
 そんなある日、折からの大統領選の候補者選挙で、厭戦を唱う進歩派のパランタインの選挙事務所のベッツィに、トラビスは一目惚れしてしまう。正に掃き溜めに鶴って奴だった。とうとう事務所に飛び込み直にベッツィにデートを申し込んだりするが、漸く承諾してくれたデート先が何とトラビスの行きつけのポルノ映画館で、これにはさすがの進歩的なベッツィもおかんむり。席を蹴って帰ってしまう。その後二度と相手にされることはなかった。
 

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  知り合って間もない普通の女とのデートにポルノ映画館ってのは、些か常軌を逸している。トラビス、孤独な毎日に、日常感覚すら麻痺してしまい、一種の視界狭窄に陥っていたようだ。戦場から戻ってきた兵士によくある環境不適応って奴なんだろうし、不眠症もその一つの症状のようだ。保守的な名誉の除隊兵士ってところだが、《ディア・ハンター》の如く幼馴染みや家族の居る地方と違って友人も居ないような大都市ニューヨークでの一人暮らしが戦場と平時との乖離を一層強めていったようだ。
 画面ではフラッシュバックする戦場の光景は見られなかったけど、本当は不眠症の酔醒定かならぬ微睡みに、不意に恐怖と苦痛そして弾薬の匂いを伴なった忘れえぬ戦場の記憶が甦ってきてもおかしくない。それを露骨に画面に出すと、色々と差し障りでもあったのだろうか。映画会社が難色を示すのだろうか。

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 汚濁しきったニューヨークの掃き溜めで見つけた白鶴に逃げられたトラビスではあったが、今度は12歳の少女娼婦アイリスに惹きつけられる。女としてではなく、突如彼のタクシーに闖入してきた強制売春の、ひいては憎むべき腐敗した大都市ニューヨークに抑圧された者の象徴として。
 ポン引きの悪玉スポーツ一派の魔手からアイリスを救い出すことをトラビスは企図する。早速、同じ運転手仲間の紹介で、拳銃の密売人から拳銃を買う。《ダーティー・ハリー》ですっかり有名になっていたS&W社製の大口径.44マグナムが圧巻で、至近距離で顔を撃ったりすれば半分ぐらい吹き飛んでしまいそうだ。何丁も買ってしまうが、このシーン、日本映画でも影響受けた似たようなシーンが見られる。
 ある時、トラビスのタクシーに乗りトラビスと言葉を交わしたこともある大統領候補パランタインの演説会に、すっかり変わり果てた姿のトラビスが一人佇んでいた。
 モヒカン刈りにサングラス、モスグリーンのM65フィールド・ジャケット、ジーンズにカウボーイ・ブーツ。懐には.44マグナム、袖の中に仕掛けたコルト25(実際にはS&WM61らしい)、ブーツにはテープで貼り付けた軍用ナイフ。

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 問題はここのシーンだ。
 胸にパランタインのバッジすら点けていて、やがて演壇から降りてきたパランタインに握手を求める聴衆の列にトラビスも近づき始めた次の刹那、トラビスの表情が突如強張り懐に片手をグッと差し入れたのを目聡く見つけたパランタインの警備員が即部下に指示を出し、部下がトラビスの方へ急行。トラビスは慌てて逃げ出す。
 画面の中で、彼が"大統領候補パランタインを殺そうとした"、なんて言葉何処にあったのだろう?
単に懐に片手をグッと伸ばしただけであった。
確かに、あの強張った表情と仕草は「殺意」と解されても仕方ないかも知れないが。

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そもそも、ベッツィに嫌われはしたが、それでパランタインを怨んだって流れではなかったし、むしろ彼のタクシーに乗り込んできたパランタインにトラビスの方から笑顔を交えて話掛けたぐらいだ。
 トラビスは保守的なモラルの持ち主で、少女娼婦アイリスに`スクウェヤー`と馬鹿にされる。トラビスもその言葉に頭に来て「お前の方こそスクウェヤーだ」と喰ってかかるが、゛コミューン゛を口にするぐらいのヒッピー風の娼婦にそれは意味を成してない。悔し紛れって訳だ。これが、ポール・シェイダーとスコセッシの`トラビス`の人物設定なのだ。
平均的な米海兵隊員のモラルってところだろが、救いようのない現実で唯一救いを見出した美=掃き溜めの鶴との束の間の幻想も掻き消え、自己(おのれ)の死をも内包した投企(テロル)へとひた走ることになる。只、それが12歳の家出少女アイリス救出=ゴロツキ一派の殲滅と見るのか、大統領候補パランタイン暗殺と見るのか。
 タクシーの中でパランタインが「このドブ溜めみたいな街をどうにかしてほしい」というトラビスの要望に「それは仲々困難な問題だが・・・」と月並みな、逃げ口上とも採れる返答に失望を覚えはしたろう。さりとて、それがパランタイン暗殺には結びつくまい。例え更にパランタインがベトナム戦争に否定的な発言をしていたにしても。

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 演説会場でモヒカン刈りになったトラビスは、勝手に私設シークレット・サービスになったつもりで武装していたに過ぎず、パランタインに握手しようと近づいていったと見るのが妥当だろう。その以前のシーンで、パランタインのシークレット・サービスに声を掛けたりしたのもそんな運びなのだろう。勿論デ・ニーロの怪しげな演技がそれとは逆の一触即発的な緊張と危機感に満ちた場面にしているのも事実。隙さえあれば.44マグナムの引金を引きかねない殺意を燻らせながらの下見という解釈も成り立つ。
 で、件のパランタインに近づきながら懐に手を伸ばし、表情が突如強張ってしまった一瞬が問題になる。トラビスが自室の鏡に映った自身に向かってくどくどと話かけたりするシーンを伏線と見ると、半ば自己演技あるいは自己陶酔していて、あれも単なるトラビスなりのパランタインへの好意の顕れなのだろう。自分がこんな凄い拳銃を持って警護しているんだという自慢。
 只、しかし、ある一瞬、人間ってものは自身が思いもしない方途へと傾いたり赴いたりする場合がある。それを跳躍と呼ぶ人もいる。そしてそれはやはり自身に予め内包されていた契機に過ぎず、あるきっかけさえあれば、いとも容易に発現してしまう質のもの。あたかもかのアルベーユ・カミュの《異邦人》の主人公ムルソーがアルジェリアの乾いた暑熱と太陽に誘発されたように引金を引いた如く。
 但し、トラビスはいずれにしても、そこでは.44マグナムの引金を引くことはなかった。脱兎の如く逃げ出した。

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 そして、ポン引きのヒッピー風の出で立ちで佇んでいるスポーツの腹に.38スペシャル弾を一発撃ち込み、建物の中に居る受付役の男に.44マグナムを向けて撃つ。弾は男の手を吹き飛ばし、よろけながら入ってきたスポーツが撃った拳銃の弾がトラビスの首を撃ち抜く。
重い.44マグナムは滑り落ち、S&W.38スペシャルでスポーツに反撃し射殺。と、アイリスの部屋に居た汚職刑事が近づいてきてトラビスの肩を撃ち、倒れ.38スペシャルも落としてしまって最期のモスグリーンのフィールド・ジャケットの広めの袖口から25を滑らせ、刑事に何発も撃ち込む。刑事は背後に滑るようにしてアイリスの部屋まで行き倒れる。
 すっかりパニクった受付の男は「殺してやる!」と叫びながら残った片手でトラビスにしがみつきアイリスの部屋のソファーまでついてくる。刑事のピストルを拾い、「撃たないで!」と悲痛に叫ぶアイリスの声も空しく、男の頸部から頭へと撃ち抜き鮮血が背後の壁を染める。
 トラビスは空になったコルトで自分を撃とうとするがカチャ、カチャと撃鉄の機械音だけが部屋に響くだけ。やがてゆっくりと駆けつけたポリス達が拳銃をかまえたまま姿を現す。トラビスは血に塗みれた片手で自分を撃つ真似をし意識を失ってゆく・・・

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 この映画のもう一人の女優、少女娼婦役のジョディ・フォスター、仲々チャーミングでこの役で有名になってしまった。この時代、もう一人の有名美少女女優・ブルック・シールズが居たけど、ジョディより確かに美人なんだが、くっつきの母親のせいもあるのだろう今一つだった。やはり普通の可愛い娘って風貌と演技力で、ジョディ、人気を不動のものにしてしまった。彼女と一緒だったもう一人の少女娼婦役の娘、確か本物の少女街娼だったはず。スコセッシが敢えて起用したらしい。

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 トラビス    ロバート・デ・ニーロ
 ベッツィ    シビル・シェパード
 アイリス    ジョディ・フォスター
 ウィザード   ピーター・ボイル
 トム      アルバート・ブルックス
 スポーツ    ハーベイ・カイテル

 監督   マーティン・スコセッシ
 脚本   ポール・シェイダー
 撮影   マイケル・チャップマン
 音楽   バーナード・ハーマン
 制作   コロンビア・ピクチャーズ 1976年(米国)

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2009年12月19日 (土)

九死に一生のフィールドジャケット

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     チトラール(アフガンのワハーンと繋がっている)

 なんだかんだいったところで、バスって乗り物は、やっぱし今一。
 インドや中国の悪路とお粗末な車体の相乗効果で、飛んだり跳ねたりそして突如のエンコの底なし状態。                怖いのが、やがてそれがむしろ旅の醍醐味とか常識なんてものに転倒してしまいかねない旅人の性。それでも、時代の波は刻々と打ち寄せ変遷してゆき、道も良くなり車体も少なくとも見てくれだけはハイカラになってきた。只、それでも道路のせいか車体のせいか、やっぱし乗り心地は今一。それは日本でも同じで、未だにバスに乗って缶珈琲を落ち着いて飲むことが出来ない。況やカップ珈琲なんて悲惨な結果があるのみ。
 
 先日そんな国内の路線バスに揺られていて、ふと自分の着ていたアーミーのジャケットの腕のところに異変を覚えた。何だろうと、眼を凝らしてみたら、継ぎ目の部分がずっと縫い糸がほつれぽっかりと綻んでいるではないか。驚いて反対側を見るとそっちも同じ肘の処が情けないくらいにほつれ解けていた。
 このモスグリーンのフィールド・ジャケット、内張りがしてあって、インナーを装着するボタンも付いている少し重いが、暖ったかく、旅先では仲々重宝した。かれこれ、十年近く着続けてきた代物。次第に国外の旅には欠かせなくなってきて、それが三着目だった。
 もう旅に出かけなくなって何年も過ってるけど、とうとう限界が来て、美事なくらいに一斉に全体の縫い糸がほつれて始めた。やっぱし十年が限界のようだ。

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  チトラールのバザールで出会ったアフガン人達。歩いて国境を越えてきたらしい。

 まだアフガンにソ連軍(シュラビとアフガン人は呼んでいた)の残影が燻すぶり、マスード派とパシュトン側のヘクマチアール派が凌ぎを削っていた頃、パキスタンのアフガン国境近くのチトラールから、アフガン経由でペシャワールに行くミニ・バスがあって、一緒の宿に泊まっていた日本人娘がそのバスに乗り、丁度中国のゴルムドからラサ行きの外人は原則的に乗れないことになっていた人民バスと同じで、地元の乗客達がポリスの眼から隠してくれたりして難なく最期まで無事着けていた。アフガンといってもパキスタンとの国境地帯沿いに走るだけだが、アフガンの小さな町か村で一泊するような話でもあった。
 で、単純な僕は、よしその町で降り、別途にカブールまで行き、せめてバーミアンか、バーミアンに向かう途中の峠が危ないという情報もあったので、殆ど廃墟と化した南の要衝カンダハールに下りそこからパキスタンのクエッタに抜けようなんて計画を立てて、パキスタンの衣装シャルワール・カミーズとアフガン帽まで被って乗り込んでみた。
 ところが、最初のパキスタン側のチェック・ポストで車内に乗り込んできたポリスの眼は如何にか誤魔化せたものの、よりによってそこでバスは小休止し、些かの尿意を催して、他の乗客達の大半が降りていたのに誘われて小用を足し戻ろうとしてバスのドアのところに至った正にその時、同じヒョロンとしたノッポのポリスが突然驚いたように何か口走り、つかつかと傍に寄ってきて一言。
 「ジャパニー!!」
 結局、そこで降ろされ、カブール方面からやってきたミニ・バスに強制的に乗せられ、再びチトラールへ戻ることに。しかし、如何見ても中国系としか見えない娘が通過できて、イランじゃアフガン少年に道を尋ねられたこの僕の方がバレてしまうとは・・・でも、かくいう僕自身如何見てもピュアーな黄色人種面ではあった。

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   アフガン国境ゲート(トルハム)  「いらっしゃい」と手で案内しているのではない。

    「ストップ」と制止する肩にカラシニコフを提げたガードマン。   

 そのミニ・バスはペシャワールで野菜を満載してカブールに向かい、今度は他の荷物を積んでチトラールへやってきたアフガン人のミニ・バスで、もう一人運転席の隣の席に坊主頭のモンゴル系のアフガン人を乗せていた。僕は真ん中の席に坐り、無念さに苦り切っていたのだけど、何しろ渓谷を削って作ったガードなんて何もない道路ばかりが続いていて、時たま遙か下の方にゴオゴオと流れる谷底の濁流が覗け、運転手は横の丸顔とのお喋りに夢中で、くねくねと八の字カーブが続く二台ぎりぎりの巾の道路の向こうから突如トラックが現れては慌ててハンドルを切るヤバイ運転に、妙な胸騒ぎを覚え、一難去って又一難かよと、こんどは前の話し好きなアフガン運転手に苦り切ってしまった。
 何故、内側を走らないのだろう、外側だとヤバイだろ・・・と内心毒づいてみても、こっちじゃ左側通行なんだろうと言い聞かす他ない等と自分に言い聞かした次の刹那、カーブから突如トラックが現れた。運転手が慌ててハンドルを切った。トラックは脇を通り過ぎ、ミニ・バスはしかし、カーブを描いて曲がるはずが曲がらず、ズズズッと滑るように道路の端を越え、ふと運転席の窓の向こうに何と真下を流れているはずの濁流が覗けてしまった。
 「エエエッ! 嘘だろうー・・・」
 そして「こりゃ駄目だ・・・」と思わず諦念を覚えた。

 運転席の隣に坐っていた坊主頭が血相を変えて通路を後部に逃げようとした次の刹那、グラッと運転席の窓いっぱいに何故か空が拡がった。
 「何故空が・・・・」
 と眼が点になり思考停止に陥った。
 
 途端ゴロ、ゴロっとミニ・バスが横転し出した。椅子のアームにしっかり掴まったまま回転し、その内、窓ガラスが崖の岩に当たって割れ、そのまま掴まっていたら岩や割れたガラスにやられると思って、手を離し真ん中の通路側に寄るようにした。途端大きく身体が回転し足先が反対側の椅子のアームに打ちつけられた。苦痛はなかったが、ひょっとして骨折でもしたかも知れないと思ったのが最期で、後は激しく回転し続け定かでなくなった。
 と、気付くと回転は止まっていた。

 窓の景色からしてどうも崖の途中の樹に引っ掛かったようで、傍に運転席の近くに居たはずの坊主頭が荷物の下敷きになって倒れていた。完全に意識を失っていて、ミニ・バスは仰向けになつているのがわかった。奥の運転席から運転手が脇腹を押さえやって来て、坊主頭の上の荷物を無造作に除け始めた。木に引っ掛かっている状態でそれは不味いと止め、ふと見遣ると、逆になった運転席に上からガソリンらしきものがポタポタ漏っていて、これは映画で観たお決まりパターンじゃないか、と取り敢えず直ぐ外に出よう、助けるのはそれからにしろ、と言ったのだが、彼は肯んぜず、飛んでもないと言わんばかりに荷物をドタ、バタ取り除きはじめた。ヤバイので僕は取り敢えず外に出た。
 と、そこは崖に作られた細い段々畑で、端の大きな樹の根っこにミニ・バスは引っ掛かっていた。もしその樹がなかったら弾みがついて谷底まで転落していただろう。正に紙一重。驚いたのは、たんなる崖っぷちのはずが、地元の人々が走り寄ってきていて、もう車内から二人を助け出そうとしていた。
 僕は先ず足先を確かめてみた。何ともないようだった。厚いトレッキング・ブーツのお陰だった。踝の部分をクッションで蔽っていて踵の部分もハードな造りで、あの衝撃から足を救ってくれたのだ。これが普通のスニーカーだったら如何なっていたか分かったものじゃない。
 パキスタンやアフガンでも着られているシャルワーズ・カミーズは薄く、その上のモスグリーンのフィールドジャケットと頭に被ったアフガン帽にも助けられたのだろう。アフガン帽は額の部分を何重にも巻いた羊か山羊の毛皮で作ったもので、それがクッションになって頭部も守ってくれたのだろう。それでも、頭部にチクリと痛みを覚えたので何かと思って指先で取ってみたら、微細なガラスの破片であった。僕の被害はたったそれだけ。その後も何処かが痛くなったってこともなかった。
 現地人が渡してくれたリュックを担ぎ上の道路まで昇っていくと、他の乗客を乗せたミニ・バスが止まっていて、崖下に引っ掛かったミニ・バスを見にぞろぞろと乗客が降りてきていた。
 正に、九死に一生を得たって奴だった。
 そんな想い出深いフィールドジャケットであったのだが。

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2009年12月12日 (土)

ニュー・デリーの下町パハールガンジの安宿《グリーン・ゲストハウス》

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  '91年の初頭、パキスタンのラホールから初めてインドに入国した。
 ニュー・デリーのメイン・バザール(パハールガンジ)の安宿をあれこれ捜して廻って右の路地に折れた"ハニー・ゲストハウス"のもっとずっと奥に"(エバー)グリーン・ゲストハウス"があった。プロレス好きのシークの親爺と切り盛りの肥えたおばさん、そしてアフリカン達の定宿でも有名で、当時はまだアフリカン達は上階(三階)だけで、下階(二階)には白人や日本人が泊まっていた。次第に下階もアフリカン達に浸食され始め、最期に泊まった時なんか僕以外は総てアフリカンに占められていて、今やすっかりアフリカン宿として定着してしまったようだ。

 リキシャ屋すらメインバザールと言うと嫌な顔をし、断わられることすらあるぐらいに狭い道に人や牛やリキシャ、バイク、車が夜遅くまで犇(ひし)めいている。メインバザールのレストランのテーブルに坐ってリムカをちびちび飲みながら、前の通りを行き交う様々なインド人達を眺めているだけでも飽きることはない。そのメイン通りから横町に入っても人通りは多く、"グリーン・ゲストハウス"の入口はそこから更に一歩入った細路にある。ここの一階に家族の部屋があるが、場合によってはここに泊まらさせられることもある。別に自分達用の家がある訳ではなく、自分達の家をゲストハウスにしただけで、家族は経済的にはともかく、普通の家庭よりも不如意な生活を余儀なくされているようだった。
  
 家族構成の詳細はつまびらではないが、二人の息子と娘、そして下働きの初老の親爺さんも一人居て、諸事万端をこなしていた。ある日本人が、おばさんが夫婦喧嘩して大きな瞳から涙を零していたと教えて呉れたこともあった。気丈な女将って感じの肥えたおばさんだが、やはりインドでも女は弱い立場にあるんだなーと同情しながら感心したこともあった。この家に嫁いできた時、まさか後年そんな到底リッチとはいえない白人や日本人、アフリカン達の泊まり客を相手に遣り繰りするようになるとは予想だにしてなかったろう。年々設備のあれこれ一切が摩耗し朽ち機能不全を起こし続け、文字通りの場末宿の赴きを呈し始めるなんて。
 ここは思い出したように部屋代を請求してくる。アフリカン達の処にも赴いて払わせていた。何か急に入り用でも出来たのかと思わず勘ぐってしまうけど、しかし、僕は更に、自分の手元に現金を置いているよりも、泊まり客の懐に置いていた方が安全だとおばさん決め込んでいたのではなかろうかと勘ぐった。それがパハールガンジ的な処世の知恵って奴なんだろう、と。インドも年々物価が上昇し生活し辛くなってきてもいるのだし。

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 稀に二階の部屋の半分近く、インド人が泊まっていたこともある。如何もここの家族の親戚関係らしく、ある時、日本の芦屋でインディアン・フード・レストランを開いていたという中年の男に声を掛けられたことがあった。日本人の嫁さんと一緒に頑張っていたのが、例の神戸大震災で建物が潰れ、保険も降りなかったと嘆いていた。
 
 僕は大抵通り側のダブルに泊まっていて、お世辞にも綺麗とは言い難い燻すみ汚れた、偶にネズミも出没する部屋であったものの、通りの向かいのチャイ屋に持参のホーローカップに入れて貰ったチャイを飲みながら、下の通りを行き交うインドの庶民や牛を眺めるという愉悦の一時を過ごすことが出来た。
 チャイ屋が朝早くやってきて、民家の壁際に店を開き、棚にビスケット・クッキーの類のそれぞれ入った瓶が並び、坐って飲む常連、買いに来る近所の住民。登校の子供達が日本と変わらぬ速度と生態でヨーロッパ風のカバンを背に次々に通り過ぎてゆく。
 ある時、反対側から中年の鼻髭はやした男の乗ったスクーターが走ってきた。と、一人の登校中の少女がそのスクーターに撥ねられた。倒れて泣く少女の処にチャイ屋の初老の親爺さんが駆けつけ、暫くして迷惑そうにスクーターの男がやってきた。少女は起きあがれたものの、実際には如何な負傷を負ったか知れたものではないにも拘わらず、男は謝罪する訳でもなく、さっさと行ってしまった。少女も泣く泣く一緒だった友達と学校の方へトボトボと歩いて行った。後で如何な後遺症、否、症状が出るかも知れないのに。
 全く呆れ果てたスクーター野郎だが、チャイ屋の親爺さんもその男に咎め立てするような態度は取らなかった。恐らく、スクーターの男のカーストが少女のカーストより上だったのだろう。況や、チャイ屋の親爺さんよりも。
 これがインドなのだ。メイン・バザールの通りでも、スクーターでぶつけた方がぶつけられた方よりいけだかで、場合によっては暴力まで揮う時すらあるのも実際に目撃したことがある。つくづく不平等の何たるかが、如実に眼前に突きつけられ、今さらの如く怒りを覚えてしまう。
 昨年だったか、ビハール州で、不可触民カーストの少年が上級のカーストの少女にラブ・レターを出し、親に見つかって、散々暴力を受け、町中を引きずり回され、走っている電車の前に放り込まれ殺害された事件を想起させる。

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 又、ここは二階が中庭になっていて、階段側に乗っかった三階の建物の上、つまり屋上も生活の場になり、直接日光に当たるオープンな造りで、これもここにアフリカン達が溜まるようになった理由の一つではないかと勝手に解釈している。彼等はその屋上で、アフリカン・ミュージックを流しながら、料理を作ったりしている。ともかく、雨さえ降ってなければ、彼等はそこで何時までも駄弁り続けている。ごく偶に暴力沙汰に至ったりすると、聞きつけたおばさんが二階から大声で怒鳴り止めさせる。

 ダブルで35ルピー、一人で占有すると50ルピーであったのが、'96年頃には80ルピー。ここには形だけでもホット・シヤワーがあって、デリーは冬場は結構寒いので重宝した。けど、それも次第に場末ってきてバケツにぬるま湯になってしまった。それで日本人や白人達の姿が減っていったのかも知れない。逆に、熱い季節には50℃ぐらいにもなるのでインド製の一昔前の大きな箱形の水冷式の冷房が部屋によっては備わっていて、これも段々と故障が多くなり冷却度も落ちてきていよいよ場末ってきていた。今現在、如何なっているのか皆目定かでない。完全にアフリカン宿になっているらしいので、情報がもたらされる可能性は殆どゼロ。

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2009年12月 5日 (土)

ダマスカスの青春グラフィティー  《蝿の乳しぼり》ラフィク・シャミ

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   「『わしは自分の下着を怖がったりはせん。政府なんてものは、その下着を着替えるよりもころころはやく交代するじゃないか。そのどこが怖いっていうんだ?』
 たしかにダマスカスではときどき、権力者は映画館にかかっている映画よりはやく交代した。《風と共に去りぬ》は、三つの政府を生き抜いた。シリアとイタリアとボリビアは、政府交代の数を競争しているようだった。」         《怖がらせ屋が怖がるとき》
 
 今現在も揉めているタイなんかクーデターが日常茶飯のように言われてきたものの、実際はそれほどでもなく、ボリビアなんて戦後、タイの倍の三十数回もクーデターが起こり目まぐるしく政府が変わってきたという。ラフィク・シャミの母国シリアは長いオスマン帝国やフランスの支配から脱却した独立後二十回近くのクーデター。
 
 シリアの首都、"中東の真珠"と嘗ては呼ばれたダマスカスの旧市街の一角、ラフィク・シャミの若き時代の主人公"ぼく"の家の近所に薄い夏服の下にピストルが透けて見える密偵の一家が越してきた。
 
 「そいつがやって来るまでは、近所の人たちは大声で罵っていたし、物価があがったことや戦争に負けたことに、いちいち目くじらを立てていた。だけどそいつがきてからは、みんな、ひそひそ声で話すようになって、自分の意見を誰か知らない人がいっていたように遠回しにいうようになった。つまり、『おれの考えは・・・』といっていたのが、急に『おれはよくわからないんだ。聞いた話なんだが・・・』っていうあいまいないいまわしに変わったんだ」《怖がらせ屋が怖がるとき》

 結局、その密偵=「怖がらせ屋」は、《ゴンドラ酒場》でお忍びで酒を飲みに来ていた空軍大将の政府に対する暴言を耳にし、早速近くの交番にしょっ引いて行って、逆に自分の方がそこの留置所に放り込まれてしまう。その事件以降、近所の住民達は密偵が傍を通りかかると、聞こえよがしに、あたかも自分の親戚に軍部の偉いさんが居るように叫ぶようになり、以前と同様政府のあれこれを声高に罵るようになったという。

 中東から欧州に移住し作家になったりする者も少なくないようだけど、言葉の問題は如何なんだろう。中国でも、チベット人作家なんて、チベット語で認める作家も居なくはないらしいけど、やはり色波(ソーポー)やザシダワ等中国語で書くのが一般的なようだ。勿論チベット内では反発があるが、チベットの中国化が進むに連れ、話せてもチベット語で表現出来ない者達が増大してきているらしい。
 ドイツの小説家ラフィク・シャミは、1946年シリアの首都ダマスカス、アラム語を話すキリスト教徒のパン屋の家庭に生まれ、ダマスカスで反政府的な壁新聞"アル・ムンタレク"を発行していたのが、1970年に発禁になってしまい、翌年(西)ドイツに移住。'77年頃からドイツ語で小説を書き始め、次第に頭角を現し、今ではミヒャエル・エンデと並ぶ存在となっているらしい。彼の母国、シリアでは彼に対する評価は如何なのだろう。

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 シャミの作品、邦訳で幾冊も出ているようで、ダマスカスの近所の住民や同級生達を中心にした寓話的な物語が多いようだ。少年時代の彼の尊敬すべき友人、嘗ては馬車の馭者をしていて兵役すら拒んで逃げ込んだ山に何年も籠もったのが自慢でもある"サリムじいさん"なんかは仲々に面白く愛すべき存在。
 タイトル作品《蝿の乳しぼり》で、シャミの化身たる"ぼく"もサリムじいさんが若い頃、徴兵検査で、何の義理もない権力の為に戦場に送られるのが嫌で、耳の聞こえない身障者の真似をして徴兵を逃れようと画策し、最期の土壇場でバレてしまって全速力でそこから逃亡した顛末を聴き、さて自分は如何しようかと迷ってしまう。
 頭の足りない狂人を装う事を思いつき、官憲との問答を想定してみる。職業を聞かれると、"蝿の乳搾り"と答えようかと思いついたが、もしひょっとして官憲がその答えをまともに信じてしまったひには如何しよう・・・小心翼々な猜疑の輪が拡がってゆくばかり。
 大正・昭和の流浪詩人・金子光晴も、自分の息子に徴兵の赤紙が来ると、断じて行かせまいとあの手この手の涙ぐましい努力をし息子を病気にしたりして結局兵役には就かせなかったようで、洋の東西を問わず、国家・権力の為の"人殺し"の先兵に成るのを肯んじない人々って結構居るようだ。

そんな寓話の中に、一篇《炎の手》というラブ・ロマンスあるいは不倫物があって、これも淡々とした筆致だけど面白い。ダマスカスの昼下がりの十六歳の情事。
 ダマスカスの下町じゃ、土曜日は何処も湯浴(あ)みをするらしく、あっちこっちから、身体をゴシゴシ擦られて悲鳴をあげる子供達の叫び声が響き渡ってくる。浴室のある家は中流以上で、ヤカンで沸かした湯を使うのが一般的。小さな中庭があるくらいの家じゃ台所にブリキの湯船を持ち出して湯浴みするようだ。主人公のしがないパン屋の家じゃ湯船なんて高嶺の花。
 そんな土曜の午後、ある建物の二階から淡黄色のタオルが風に舞い落ちてきて、その持ち主=この界隈一の美人(妻)サルマに届けに行った時から、関係が始まる。
 三十代の人妻サルマが台所で湯浴みの真っ最中、
 「でも、サルマは悲鳴をあげなかった。にっこりほほえむと、スポンジを床に置いた。ぼくは敷居のところでぽかんと口をあけて棒立ちになり、弁解のつもりで自分でもわからないことを口走りながら、濡れたタオルをさしだした。
 『なかに入って、ドアを閉めて。風が冷たいわ』
 サルマは小さな声でそういうと、腕で胸を隠した。
 ・・・ぼくががくがく膝を震わせながら、サルマの背後にひざまずき、スポンジと石鹸を手にとって彼女のほのかに光るなめらかな肌を洗いはじめた。くすぐったかったのか、サルマはうれしそうに笑った。」
                                                                                      《炎の手》

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           ラフィーク・シャミ

 結局、暴力的な夫に嫌気が差していたサルマに駆け落ちを求められ、"ぼく"が逡巡している内、"ぼく"に愛想を尽かしてある日突然蒸発してしまった。"ぼく"は己の優柔不断さに辟易してしまうのだけど、"ぼく"の母親はサルマとの不倫を知ると、デートの時なんか二リラも渡し、「サルマにいいとこみせるんだよ」と怒るどころか逆にエールを送ってしまう。
 これは一体ドイツ人向けに、彼等の感覚・モラルに合わせて書いたものなのか、それとも単に作者ラフィク・シャミ自身、つまりシリア人として、自らに忠実に書いたものに過ぎないのか。シリアに限らず、中東・イスラム社会では「不倫」は、今現在でも厳しく罰せられ、最近もニュースになっている。男はともかく、女の方は残忍な「石打ち刑」に処され殺害されたりするのが定式らしい。
 これは知っている旅行者も多いと思うけど、大部前、イランで旅行者の日本人娘がイランのナイス・ミドルと不倫関係に陥り発覚して男の方は何ら罰せられなかったらしいけど、その娘はやはり「石打ち刑」で、外人という事で手加減されたのか殺害からは免れたものの重傷を負ってしまった。
 この人妻サルマとの不倫、だから如何も不可解で、ダマスカスのような大都市だともう西洋化されているのか、あるいは又、ダマスカスのキリスト教徒達の社会は、イスラム教徒達ほどには閉鎖的ではないのかも知れない。(でもやっぱり、古い形のキリスト教って結構保守的だったと思ったけど)

  《蝿の乳しぼり》 ラフィク・シャミ 訳・酒寄進一  (西村書店)

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