ニュー・デリーの下町パハールガンジの安宿《グリーン・ゲストハウス》
'91年の初頭、パキスタンのラホールから初めてインドに入国した。
ニュー・デリーのメイン・バザール(パハールガンジ)の安宿をあれこれ捜して廻って右の路地に折れた"ハニー・ゲストハウス"のもっとずっと奥に"(エバー)グリーン・ゲストハウス"があった。プロレス好きのシークの親爺と切り盛りの肥えたおばさん、そしてアフリカン達の定宿でも有名で、当時はまだアフリカン達は上階(三階)だけで、下階(二階)には白人や日本人が泊まっていた。次第に下階もアフリカン達に浸食され始め、最期に泊まった時なんか僕以外は総てアフリカンに占められていて、今やすっかりアフリカン宿として定着してしまったようだ。
リキシャ屋すらメインバザールと言うと嫌な顔をし、断わられることすらあるぐらいに狭い道に人や牛やリキシャ、バイク、車が夜遅くまで犇(ひし)めいている。メインバザールのレストランのテーブルに坐ってリムカをちびちび飲みながら、前の通りを行き交う様々なインド人達を眺めているだけでも飽きることはない。そのメイン通りから横町に入っても人通りは多く、"グリーン・ゲストハウス"の入口はそこから更に一歩入った細路にある。ここの一階に家族の部屋があるが、場合によってはここに泊まらさせられることもある。別に自分達用の家がある訳ではなく、自分達の家をゲストハウスにしただけで、家族は経済的にはともかく、普通の家庭よりも不如意な生活を余儀なくされているようだった。
家族構成の詳細はつまびらではないが、二人の息子と娘、そして下働きの初老の親爺さんも一人居て、諸事万端をこなしていた。ある日本人が、おばさんが夫婦喧嘩して大きな瞳から涙を零していたと教えて呉れたこともあった。気丈な女将って感じの肥えたおばさんだが、やはりインドでも女は弱い立場にあるんだなーと同情しながら感心したこともあった。この家に嫁いできた時、まさか後年そんな到底リッチとはいえない白人や日本人、アフリカン達の泊まり客を相手に遣り繰りするようになるとは予想だにしてなかったろう。年々設備のあれこれ一切が摩耗し朽ち機能不全を起こし続け、文字通りの場末宿の赴きを呈し始めるなんて。
ここは思い出したように部屋代を請求してくる。アフリカン達の処にも赴いて払わせていた。何か急に入り用でも出来たのかと思わず勘ぐってしまうけど、しかし、僕は更に、自分の手元に現金を置いているよりも、泊まり客の懐に置いていた方が安全だとおばさん決め込んでいたのではなかろうかと勘ぐった。それがパハールガンジ的な処世の知恵って奴なんだろう、と。インドも年々物価が上昇し生活し辛くなってきてもいるのだし。
稀に二階の部屋の半分近く、インド人が泊まっていたこともある。如何もここの家族の親戚関係らしく、ある時、日本の芦屋でインディアン・フード・レストランを開いていたという中年の男に声を掛けられたことがあった。日本人の嫁さんと一緒に頑張っていたのが、例の神戸大震災で建物が潰れ、保険も降りなかったと嘆いていた。
僕は大抵通り側のダブルに泊まっていて、お世辞にも綺麗とは言い難い燻すみ汚れた、偶にネズミも出没する部屋であったものの、通りの向かいのチャイ屋に持参のホーローカップに入れて貰ったチャイを飲みながら、下の通りを行き交うインドの庶民や牛を眺めるという愉悦の一時を過ごすことが出来た。
チャイ屋が朝早くやってきて、民家の壁際に店を開き、棚にビスケット・クッキーの類のそれぞれ入った瓶が並び、坐って飲む常連、買いに来る近所の住民。登校の子供達が日本と変わらぬ速度と生態でヨーロッパ風のカバンを背に次々に通り過ぎてゆく。
ある時、反対側から中年の鼻髭はやした男の乗ったスクーターが走ってきた。と、一人の登校中の少女がそのスクーターに撥ねられた。倒れて泣く少女の処にチャイ屋の初老の親爺さんが駆けつけ、暫くして迷惑そうにスクーターの男がやってきた。少女は起きあがれたものの、実際には如何な負傷を負ったか知れたものではないにも拘わらず、男は謝罪する訳でもなく、さっさと行ってしまった。少女も泣く泣く一緒だった友達と学校の方へトボトボと歩いて行った。後で如何な後遺症、否、症状が出るかも知れないのに。
全く呆れ果てたスクーター野郎だが、チャイ屋の親爺さんもその男に咎め立てするような態度は取らなかった。恐らく、スクーターの男のカーストが少女のカーストより上だったのだろう。況や、チャイ屋の親爺さんよりも。
これがインドなのだ。メイン・バザールの通りでも、スクーターでぶつけた方がぶつけられた方よりいけだかで、場合によっては暴力まで揮う時すらあるのも実際に目撃したことがある。つくづく不平等の何たるかが、如実に眼前に突きつけられ、今さらの如く怒りを覚えてしまう。
昨年だったか、ビハール州で、不可触民カーストの少年が上級のカーストの少女にラブ・レターを出し、親に見つかって、散々暴力を受け、町中を引きずり回され、走っている電車の前に放り込まれ殺害された事件を想起させる。
又、ここは二階が中庭になっていて、階段側に乗っかった三階の建物の上、つまり屋上も生活の場になり、直接日光に当たるオープンな造りで、これもここにアフリカン達が溜まるようになった理由の一つではないかと勝手に解釈している。彼等はその屋上で、アフリカン・ミュージックを流しながら、料理を作ったりしている。ともかく、雨さえ降ってなければ、彼等はそこで何時までも駄弁り続けている。ごく偶に暴力沙汰に至ったりすると、聞きつけたおばさんが二階から大声で怒鳴り止めさせる。
ダブルで35ルピー、一人で占有すると50ルピーであったのが、'96年頃には80ルピー。ここには形だけでもホット・シヤワーがあって、デリーは冬場は結構寒いので重宝した。けど、それも次第に場末ってきてバケツにぬるま湯になってしまった。それで日本人や白人達の姿が減っていったのかも知れない。逆に、熱い季節には50℃ぐらいにもなるのでインド製の一昔前の大きな箱形の水冷式の冷房が部屋によっては備わっていて、これも段々と故障が多くなり冷却度も落ちてきていよいよ場末ってきていた。今現在、如何なっているのか皆目定かでない。完全にアフリカン宿になっているらしいので、情報がもたらされる可能性は殆どゼロ。
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