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2010年2月の5件の記事

2010年2月28日 (日)

B級ハリウッド・リメイク 《バンコク・デンジャラス》

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  慢性不況の故にか、レンタル・ビデオ屋も青息吐息のようで、偶々入ったビデオ屋で準新作のビデオまでが一週間80円のスペシャル・サービス・デーだつたので、何本か借りてしまった。オキサイド・パン自身の旧作のハリウッド・リメイク《バンコク・デンジャラス》とボリウッド(インド)=ハリウッドの中国が舞台の《チャンドニーチョーク・トゥー・チャイナ》を観てみた。

 この二本ともハリウッドの息がかかった作品で、しかし、残念ながらこの東の果ての列島の我が南西辺境州ではどのシネコンでも上映してなかったようで、レンタルのDVDで漸く観ることが出来た。それも地元の町じゃ以前は何軒もあったのが次々に潰れてゆきとうとうつい先日最期の零細レンタル屋もシャッターを降ろしてしまい、安いので頻く利用していた隣町の比較的大きなチェーン店のレンタル屋で借りた代物。

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  1999年オキサイド・パンがタイで撮った《レイン》のハリウッド・リメイク《バンコク・デンジャラス》、モンコンビシット主演のオリジナルは仲々面白く好きな映画の一つだけど、やたら出まくりの二枚目半のハリウッド・スター=ニコラス・ケイジが主演と聞いて、《レイン》が殺し屋物ではあっても青春映画だったので、あれ?と妙な違和感を覚えていた。実際にビデオを観てみると、果たしてニコラス・ケイジに合わしたような何処か冴えない中年のイメージそのままに、何とも妙ちくりんな代物と化していた。オキサイド・パン、一体如何してしまったのか?

 兎にも角にも、この映画、ポイントは薬屋に勤めている娘フォンだろう。
 《レイン》では、若々しくて愛らしい美形のプリムシニー・ラタナソパァーが好演していて、聾唖の主人公コン(パワリット・モンコンビシット)に一語一語丁寧にゆっくりと分かり易く身振りも交えて話す仕草が彼女の魅力を際立たせ、故無くしてコンが就いた殺し屋という冷酷な現実とのギャップが一層ドラマチックな効果をあげていた。
 ところが、リメイク版ではチャーリー・ヤン(楊采妮)という中年の台湾女優がフォン役を演っていて、最初薬屋のシーンで思わず我が眼を疑った。どれがフォンなんだと画面を捜しまくり、しかしどうやらその中年女がフォンらしいと分かって眼が点になった。マジかよ!
 若くて色白な如何にも生娘って感じが初々しいプリムシニー(クリーム)のイメージが強すぎて、何とも冴えない煤けたそこら辺のパートのおばさんみたいなのじゃ、幾らケイジの年齢に合わせたからって、他に女優居なかったのだろうか? 肝心のヒロインがこんなじゃ・・・
  おまけに、ケイジ扮する殺し屋ジョー、フォンとの関係の、紳士的ってのを通り越して何とシャイなことだろう。これはアジア的って事なのだろうか。「レイン」は若い二人だったから(ベッド・シーンのない)純愛路線も好かった。これはケイジ=ハリウッド側が求めたものなのか、それともオキサイド・パンが決めつけたものなのだろうか。これも妙なつまらなさに貢献しているもう一つの要素だろう。

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 そもそもこの映画で関心があったのが、チャークリット・イェムナムだった。
 タイ映画の主演級の中堅どころって位置のイェムナム、やはりハリウッドのカラテ親爺=スティーブン・セガールの2004年の《沈黙の聖戦》が同じくタイを舞台にしていて、セガールの娘のタイ人の恋人役で出たのがイェムナムだった。けど、出てすぐに死んでしまった・・・ほんの端役だったのだ。王家衛の《2046》に出演したはずのタイのスーパースター=バード・トンチャイと同様、タイの俳優ってまだまだそんな扱いなのかと随分と情けない思いをしたことがあって、予告編観ると結構ケイジと絡んでるなーと喜びそれなりに期待はしていた。
 この映画じゃ出演時間はちゃんとした脇役の出演頻度だったのに、演出がおざなりでぎこちなく中途半端な役処。丸でイェムナムなんて俳優見たこともないようなハリウッド監督がお義理で使っているみたいだった。タイだとイェムナムが殺し屋ジョー役を演ってもおかしくはないのに。
 おまけにシナリオも随分といい加減で、総じてオキサイド・パン(ダニー)自身とは別の処からの意向が働いていると云わんばかり。これじゃてんで話にならない。銭儲けとしては好いのかも知れないけど、監督=作品として考えると、もうそろそろ"ハリウッド"という錦の旗なんかに拘るのも止めてもいいのではないか。

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 世界を股に掛けて殺人に勤(いそ)しんできた殺し屋ジョー、そろそろ脚を洗う潮時と最期の荒稼ぎとばかりタイに赴く。何件もの仕事をこなさなければならず、現地の使い捨ての男を捜す。それがコン(チャークリット・イェムナム)であった。現地のマフィヤとの連絡係の仕事をさせ、最期には証拠隠滅とばかり消してしまう目論見であった。
 多少の紆余曲折はあっても仕事は順当に昇華していったが、最期のターゲット、コンも正義の人と賞賛する政治家の時になって、元々政治絡みはやらない主義であったのもあって、ジョーは土壇場で放棄する。が、警戒中の警察に発見され、負われる羽目に。同時に、そんな政治家暗殺すら請け負った現地のマフィアも身の危険を覚え、コンを捕まえ白状させ、ジョーは警察とマフィヤの両方から追われることにななってしまう。それでもマフィヤを全滅しボス一人だけ、自身も被弾し、マフィヤのアジトの前に停めた車の中で、最期の力を振り絞って自分とボスの両方の頭を撃ち抜く。
 「レイン」だと、フォン(プリムシニー)が必死に駆け寄り、警察に阻まれてしまうシーンが効果的だったのが、このハリウッド版だと中年のフォンは姿も見せない・・・

 興行的には冴えなかったようだが、こんなのがヒットしたりしたら、世界中のピンキリ監督にもチャンスは無限ってところだろう。ホラー映画だと、ハリウッド・リメイクもオリジナルのそれぞれの地域の独自の特殊性=情緒は希薄になるものの、ドライでパワフルなリアリティーを獲得し大抵面白くなるけど、アクション物だと仲々そうはいかないようだ。(勿論例外も多々あるが)

ジョー  ニコラス・ケイジ
コン   チャークリット・イェムナム
フォン  チャーリー・ヤン(楊采妮)

監督   オキサイド&ダニー・パン
脚本   オキサイド&ダニー・パン、ジェイソン・リッチマン
撮影   デーチャー・スィーマントラ
制作   (米国)2008年

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2010年2月21日 (日)

清末義侠 《投名状》

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   数千万人(映画では七千万人)の犠牲者が出たという百五十年前の中国で燎原の火の如く拡がっていった《太平天国の乱》、日本では幕末の頃、上海に上陸した幕府の御用船千歳丸の乗組員だった高杉晋作等もリアル・タイムで、太平天国軍の蜂起に呼応して起ち上がった上海《小刀会》が潰え去って後の、太平天国軍と租界の欧米列強との戦いを眼の辺りにしただろう。
 教祖・洪秀全の夢に端を発した一応はキリスト教の至福千年王国実現運動らしく、教義的には洪秀全をイエス・キリストの弟として据え、欧米列強にすら認めるように迫ったらしい。傲岸・悪辣な欧米列強の侵略の一環たるアヘン戦争、アロー号事件等で清朝の疲弊・腐敗も極地に達し、民・百姓達が呻吟していた時代、唯一神の下での万民平等の旗印に虐げられた人々は一縷の甜い夢・希望を托したのであろう。

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 そんな太平天国軍と弾圧する清朝軍(後には欧米列強軍も)との死闘の最中、パン・チンユン将軍(ジェット・リー)率いる清朝軍が魁(クイ)将軍の裏切りに遭い、鶴川(ホーチュワン)の戦いで将軍一人を残して太平天国軍に殲滅されてしまった。そこから映画は始まる。
 一人よろよろと彷徨い倒れたところを行きづりの女・蓮生(徐静蕾)に助けられる。その元痩馬(一人前の芸妓にするため幼い内から買い取られ厳しい修練を積まされる娘達)の女の家で、介抱され、互いに惹き合うものがあったのか肉体関係までもってしまう。
 やがてそこを出、小さな集落で、匪賊の頭目アルフ趙ニ虎(アンディー・ラウ)とウーヤン姜午陽(金城武)に出遭い、三人で義兄弟の契りを結ぶ。捕らえられた通りすがりの商人三人をそれぞれが殺し血盟を交わした。罪もない商人を殺害するのにパン将軍は些か躊躇い、「俺の顔をよく覚えておけ。冥途で仇を討て」と伝え一気に首を掻き切った。

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 随分と抑えたベッドシーンの示唆程度のジェット・リーとシュー・ジンレイとの濡れ場は、頻(よ)くある付け足しみたいなおざなりさを排除していて違和感がなかったけど、この二人の関係が最期までずっと尾を曳いてゆく。時間の制約もあるのだろうが、サラッと流し過ぎたきらいはある。も少し掘り下げてればもっと盛りあがったはず。
 所詮総勢千人にも満たない小匪賊の故、パン将軍が謀られた魁将軍の配下の部隊にせっかく太平天国軍から略奪した食料も横取りされ、苦杯を舐めた頭目アルフに、パン将軍は清朝軍への参加を提案する。食料も手にはいるし村人達も飢えずに済む、と。乱世故その日の食物すら事欠くありさまでは他に選びようもなく、アルフはチェン大臣の緑軍に参加する腹を決める。
 大臣達の前で十日で舒城(シューチャン)を手に入れてみせると断言してみせたパン将軍達は、「山軍」の軍旗を貰い、チェン大臣の配下の部隊をも貰い受け、みごと舒城を下す。
 ここの戦闘場面、仲々巧くできていて面白い。最近のハリウッドの古代スペクタクル映画テクニックを彷彿とさせる。何よりも、やっぱしジェット・リーが最高に素晴らしい。これは、幾らハリウッドが機材的ハード的テクニックを行使しても及ば ない。金城武も騎馬じゃなく盾を翳して先頭をきって突っ走る歩兵の突撃隊長ってところで、敵の太平天国軍の指導者を手裏剣(短刀)で倒し、その首を掻き切って高々と掲げるシーンも悪くはない。
 この手裏剣、ウーヤンの実在のモデル張分祥は、アルフ(実際は曹二虎)の嫁を寝取って邪魔なアルフを屠った実際のモデル馬新貽(パン将軍)を恨み、暗殺を決意し、少林寺で修行した覚海寺の武僧・潮音大師に弟子入りし手裏剣術を習得して美事馬新貽を毒塗りの手裏剣で殺害した故事に倣ったのだろう。

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 膠着し長期戦に陥った蘇州城攻略では水と食料不足に山軍も太平天国軍双方すっかり疲弊してしまい、アルフが単身城内に忍び込み、太平天国軍の司令に遭って、太平天国軍の何人も傷つけないという条件の下に無血開城を勝ち取る。が、パン将軍、それに否を云い、ウーヤンすらパン将軍が正しいとアルフに迫る。正に義理と人情。義理=パン将軍、人情=アルフ、その間に立って板挟みのウーヤンの図式だけど、ウーヤン、パン将軍の貧窮に喘ぐ者達を救うという理念に傾倒しパン将軍に付く。約束を信じて武装解除し城内に群れた太平天国軍に対し、城壁から弓矢で一人残らず殺してしまう。これは太平天国軍八千人殲滅として有名な話らしい。

 南京(天京=太平天国の都)を陥落(史実的には、太平天国軍側の老若男女二十万人が虐殺されたらしい)させ、今や飛ぶ鳥を撃ち落とす勢いのパン将軍、両江総督にまで昇り詰めた。ところが、大臣達がアルフ抹殺を仄めかし、更にウーヤンにアルフの妻との密会現場を目撃されてしまう。万事休したパン将軍、アルフを騙して一人おびき出し殺害し、ウーヤンは義兄弟の契りの阻害物と決めつけて蓮生を刺し殺してしまう。そして、ついには、登城途中のパン将軍がウーヤンに刺殺される。パン将軍の方が腕が勝っていて悉くウーヤンの繰り出す短刀による攻撃をかわしていたが、突如背後から鉄砲で撃たれ、その寸秒後にウーヤンの短刀が襲ってきてパン将軍の身体に深く突き刺さる。何度も何度も銃弾とウーヤンの短刀がパン将軍の身体を貫いていき・・・
 ウーヤンこと張分祥、捕らえられて凌遅刑(時間をかけて手足をバラバラ切り刻まれる酷刑)に処されたようだ。但し、史実的には、 張分祥の馬新貽(パン将軍)暗殺の動機は必ずしもはっきりしてないらしく、大臣達やらの政治的な謀殺の可能性もあり、映画でも背後から撃ち込まれる銃弾がそれを暗示している。

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 京劇でも《刺馬案》の演目があるらしく、事件後直ぐに芝居にかかったというぐらいに当時の中国の人口に膾炙していたようだ。腐敗し疲弊し荒廃しきった西太后の清末って、事件・話題も多く映画の舞台・素材にはうってつけだけど、ジェット・リーが仲々決まっているし、アンディー・ラウも《墨攻》は全く詰まらなかったけど、この映画で結構見直してしまった。それにしても、あの軟派なはずのフルーツ・チャンがこんな"正宗"武侠映画を撮るとは、さすが映画監督ではある。

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   監督 陳可辛(ピーター・チャン)

 

 脚本  須蘭、秦天南、オーブリー・ラム

 撮影  アーサー・ウォン

  パン将軍 ジェット・リー

  アルフ   アンディー・ラウ

  ウーヤン  金城武

  蓮生    徐静蕾

  制作   中国電影集団、寰亜電影有限公司(2007年)

 

 

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2010年2月18日 (木)

タイの暴走する職業訓練校生  造反有理それとも群犬(マー・ムー)?

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  去る2月13日、あのタクシー運転手シリポン容疑者のバンコク日系少年バラバラ死体事件の母親の射殺体が発見された同じバンコクの隣パトゥム県で、今やすっかり悪名高くなってしまった職業訓練校同士の抗争事件があったらしい。
 今時職業訓練校生による暴力沙汰や犯罪は珍しくはなく、走行中のバスの中で、若い娘が彼等のグループに強姦されたなんて事件ざら。以前頻く泊まっていたバンコク・シープラヤーのゲストハウス近くのゲーム屋に朝から別に客という訳でもない若い二十歳前くらいの私服の手に教科書なんか持った十数人近くの男女がいつも待ち合わせしていて、ああ一人や数人だと危険なんでそれなりの人数で固まっての集団登校なんだなと、如何にも他人事のように軽く眺めていたけど、彼等にとっては決してそんな甘いものではなかったようだ。

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    事件は、バス停でバスを待っていたドゥシット・テクノロージー校の学生20人近くに、凶器を所持したパトゥムターニー・テクノロジー校の学生グループが襲いかかり、総勢50人近くの乱闘騒ぎとなった。駆けつけた警察にパトゥムタニー校の学生11人が逮捕され、手製爆弾も押収されたという。所謂ピンポン爆弾らしい。更に、その際負傷したドゥシット校の学生3人が収容された病院にも、同じパトゥムタニー校の学生10人近くが襲撃を加え、学生達に暴力を揮い、あげくピンポン爆弾を投げつけ逃走したという。但し、その爆弾が破裂したのかどうか、一般患者や病院職員達にも被害が及んだのかどうかは詳(つまび)らかではない。
 そしてその日の夜、バンコクのファッション・アイランド近くで、バイクで走っていたドゥシット校の二人連れに、背後から走ってきたバイクの男が銃撃し、ドゥシット校学生の一人は死亡、一人は重傷を負ったという。警察は件のバス停事件との絡みで捜査しているらしい。

 それにしても物凄い事件だ。
 バス停での乱闘時には拳銃を持っていた連中もいたのだし、下手すると街頭での銃撃戦にすら発展しかねなかったということだ。それにピンポン爆弾が飛び交った日にゃ、周りの通行人やバス待ち客達も堪ったもんじゃあるまい。数年前のタイ警察がデモ隊に投擲した中国製の催涙ガス弾でデモ隊の参加者が幾人も脚を引き千切られたりした事件を想起させる。その催涙弾がRDX(高性能爆薬)を使用していたんじゃ、「非殺傷性」のガスは単なる付けたしで実際はグレネード(手榴弾)でしかない飛んでない代物。(中国政府はこんな代物を暴徒鎮圧用と称して国内でも使用していたのだろうか?)
 タイは銃器は市販しているし、軍・警関係から幾らでも横流しもあるだろうし、更に南部からでも可成りな武器も入手できるのだから、早晩ピストルからマシン・ピストル→自動小銃→ロケット弾なんて、もうハリウッド映画並の展開になりかねない。政治的抗争の場じゃ、米軍のお下がりなのかグレネード弾発射装置M79すらもう常識になりつつあるのだから。こうなるとバスもおちおち乗ってられなくなってしまう。敵対校の学生達が乗ってるからって、ロケット弾をぶち込まれた日にゃ、五体もすっ飛んでしまうだろう。

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 似たような派手な事件は、昨年2月、あのバンコクのコピー商品の殿堂たる「マーブンクロン・センター」前で、ラーチャモンコン技術大学ウテーントゥワーイ校とパトゥムワン高等技術学校の100~200人近くの学生達が銃声や爆発音を立てながら乱闘を繰り広げた事件もあった。こっちは、職業訓練校と大学の学生間の抗争だけど、元々は職業訓練校と大学生達との諍(いさか)いが有名だったのだ。まだまだ階級社会の軛(くびき)が強く作用しているタイにあって、中流以上に対する下層中・上流階層の職業訓練校生達のコンプレックスって根深く、一朝一夕には解消されることはないようだ。クロントイの市場ですら開発業者と市場の連中とが頻繁に殺傷沙汰を起こし続けている如く、社会状況は逆に一層の軋轢を生み出し荒廃し続けている。(市場の連中が暴力的な悪徳業者に対抗するというのは、逆に荒廃化を突き抜ける契機を内包しているとも云えようが)

 それに事態はもっと低学年の小学校にすら及んでいて、昨年秋、南部クラビーの小学校の敷地内で生徒同士が喧嘩しているという通報で駆けつけた警察が何人かを拘束してみたら、ある六年生の生徒が、ナイフと拳銃を持っていたという。敵対する同学年の生徒達に使うために隠し持っていたらしい。いやはや、意外と高インフレ国家ブラジルの映画《シティー・オブ・ゴッド》的情況もそう遠くない日のタイなのかも知れない。

 そうなると、あの微笑みの国って一体如何なってしまうのだろう・・・

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2010年2月14日 (日)

行雲流水一孤僧 《蘇曼殊》

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  中国揺滾(ロック)の雄・崔健の《仮行僧》「邦題・偽和尚」じゃないけれど、清末民初(明治後期-大正初め)の頃、つまり中国中を揺るがせた《義和団の乱》から《辛亥革命》、清朝崩壊から共和制の中華民国への変転の時代に、日本・横浜に生まれ、以降中国と日本を頻繁に行き来しながら、自ら「糖僧」と称し、革命と文学・芸術に独特の足跡を残した蘇曼殊という僧形の青年が居た。
 
 辻潤や金子光晴達と似た体臭を漂わせ、仄昏い時代を飄々と生き抜いた漂泊の遊子・旅人であり、在日中国革命派の陳独秀等と同時代の、テロリスト的心性を抱懐した詩人である幼名・三郎の蘇曼殊は、1884年(光緒10年、明治17年)、広東出身の横浜「万隆茶行」の買弁の父・蘇傑生の第一妾・河合仙の子(実際は仙の妹わかの子らしい)として生まれたようだ。彼の出自は甚だ曖昧で、日・中の研究者の間でも、二転三転して今だ定まらずの状態。わかの子であったなら、確かにひた隠し物だろうし、ごく一部の家族以外知ることもなく、況んや外部の者達をやだ。下手すると、当の曼殊自身も知らされてなかったのかも知れない。
 この出自の曖昧性は、彼の数少ない小説に繰り返し出てくるモチーフで、以前にも触れたつげ義春の不安の根源でもあり、人とは己の出自というものに拘ってしまう性向を有しているもののようだ。考えてみれば、誰しも自分の出自は自分の両親からのものと疑うこともない自明のものだけど、さてその真実のところはと一度疑念すると、タマネギの皮を剥くように何処まで行っても確とした物証的確信は得られないことに気付く。生まれた赤ん坊がリアルタイムで知るこが出来る訳もなく、後年に提示された証拠も、それが本当に自分のものであるのか、真実なものであるのか保証する何物も存在しないからだ。例えDNAを持ち出されても、自分の手で調べたものでない限りには。
 出自の曖昧性が存在の曖昧性に連なり、更に不安という鬱々とした心理に脅かされるようになってしまう。

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 横浜の傑生の家では、第一妾の仙と当時17歳の第二妾・大陳氏が同居していて、更に2年後には広東から本妻の黄氏が移ってきて同居という物凄い情況になっていたようだ。当時の中国商人達の家では普通だったのだろうが。6歳になって、黄氏が広東に曼殊を連れて帰り、9歳の時「万隆茶行」が倒産し、傑生、仙を残して大陳氏と第三妾の小陳氏をともなって帰国。
 1898年曼殊15歳の年に親戚と共に横浜に戻り大同学校に入学。四年後、早稲田大学高等予科に入学。陳独秀らの留日学生革命団体《青年会》に参加。翌年《抗露義勇隊》に参加し、在留の親族達の知るところとなり中国に送り返されてしまう。上海・香港の革命派の新聞社を転々とし、その年の末、広東・恵州の寺で僧となる。
 が、翌春貧しい僧生活に堪えられず?香港に出奔、保皇党(立憲君主派)の頭目・康有為の暗殺を謀るが止められ、三月中旬父・傑生死去も帰郷せず、下旬シャム・セイロン等に南遊・・・
 以降、中国のあっちこっちの学校の教師や出版関係の仕事をしながら、上海=日本を頻繁に行き来し、詩・小説・翻訳・絵等を発表し続ける。
 1918年春、上海・フランス租界の広慈病院で死去。享年35歳の早逝。

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    当時売れっ子だった芸妓の百助の絵はがきの上に記したもの。

 6歳の時に中国・広東の傑生の実家に移り住むようになってから、妾の、それも漢族=中国人ではない日本人の血を引いた混血児故に、煩瑣・複雑な因習的大家族制の束縛・抑圧に晒され続けたのだろう。もう一つの出自、民族という、突き詰めるとこれも甚だ曖昧朦朧としてしまう質のものであっても、中国と日本の血の混じった、一体どちらが正系なのか、おのれは中国人なのか、それとも日本人なのか、というアイデンティティー・帰属の問題。
 革命を問題にしようとすると、先ず問われるのがそれで、遠く離れた国と国ならまだしも、隣国のたったこの前の戦争(日清戦争)までし、その上片方の国の一部を植民地化している場合、随分とややこしくなってくる。6歳の時中国に連れて行かれそこで教育を受け生活してきて、すっかり中国人となってしまい彼のアイデンティティーも中国にあるのだろうが、まだ孫文の時代なのでそれで済んだのだろう。もう少し時代が下ってくれば、日中の関係も一層きな臭くなり、蘇曼殊もその振幅に増々翻弄されることになったであろう。

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 如何にもお坊ちゃんって感じで、辛どい僧堂の苦行は苦手のようだし、年から年中アメ玉を頬張っていて自らも「糖僧」とすら称するぐらいの甘党。それが禍して病に臥すことになってしまう。酒・煙草の依存症はざらだが、アメ玉依存症ってのは、しかし、一種の風流って赴きもなきにしもあらず。
 彼の年表を見ていると、あの大正の前期にあって如何にも簡単・頻繁に上海と日本を往来していて驚かされるけど、実際は当時、長崎=上海は一昼夜の航程で、関門連絡船を中途で使って、長崎から横浜・東京は殆ど鉄道一本。金子光晴が頻く使ったルートだ。おまけに、当時は日清戦争の下関条約がまだ生きていて、中国人もパスポートは不要だったらしいので尚更。
 シャム(タイ)やジャワ(インドネシア)、マレーシアまで脚を延ばし、セイロンでは梵語(サンスクリット語)の学習、ジャワでも短期間ではあるが中華学校で英語教師をしている。タイのバンコクにも滞在し、そこで画家・西村澄に「耶馬渓夕照図」を貰い、曼殊も描いて西村に贈呈したという。南遊の詳細を知りたいものだが、中国本《曼殊大師全集》あたりじゃないと無理なのかも知れない。

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 そもそも蘇曼殊su manshuの曼殊は僧(法)号で、本名は蘇子穀、のち元瑛。尤も、僧号の曼殊は彼が自分で勝手に命名し称したという説もあるらしく、彼の僧籍関係は何とも怪しげ。末期帝政ロシア(考えてみたら曼殊と同時代)に暗躍した怪僧ラスプーチンとは以て非なる、破天荒ではあってもその根底は生真面目な曼殊。その足跡を辿れば一目瞭然。陳独秀や章炳麟等革命派連中の前に坊主頭に僧の衣服を纏って現れて、皆が空しい机上の空論を喧々諤々口角泡を飛ばしている最中、一人斜に構え、熱くなった頭を冷やすように一言二言嘯いてみせるのが真骨頂ってところだったようだ。

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 当時、そして'20年代'30年代にも詩人・小説家として人気はあったらしく、彼のファンだった彼の親戚の娘なんて、彼の死後、後追い自殺すらしたらしい。
  1912年から上海の新聞『太平洋報』に連載が始まった彼の処女小説《断鴻零雁記》、後年時代を席巻し始める魯迅達の口語白話体の小説とは異なり、謂わば最期の文言体小説として、しかし時代の新しい風潮・感覚を十二分に取り込んだ既成の文言小説とは一線を画したものとして当時の青年達に受容された。後、1915年7月、8月に《甲寅雑誌》に発表された《絳紗記》、《焚剣記》ともども作者の曼殊の分身が主人公で、ヒロインすら同じキャラクターのバリエーションで、一辺に読んだりすると関係・筋運びが相似しているのでどれがどれか混乱してしまいかねない。『聊斎志異』なんかの伝統的な文言体の志怪・幻奇小説のカテゴリー中のもので、些か抹香臭い因果応報・流離辛苦的な構成ってのが結構面白い。魯迅すら一編認めたという武侠片、タイトルからしてもうそのものの《焚剣記》、しかし、これは一応その体裁を取っているものの剣戟シーンがある訳でもなく、形だけ。それでも一種独特の時間概念、完全に一つの作品世界を創出していて気に入っている。
 魯迅が日本留学時に出版を企図していた《新生》に曼殊が同人として参加していたという。結局《新生》は日の目を見ず残念なことではあったけど、魯迅の弟の周作人は曼殊の詩文を賞め、章炳麟は曼殊の画集《曼殊遺画弁言》で「子穀、芸事を善くし、最も絵画にたくみ」と賞めている。

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 又、西欧の詩や小説も翻訳・紹介していて、就中、フランスのビクトル・ユゴーの《ラ・ミゼラブル》、《惨世界》のタイトルで上海の《国民日日報》に1903年10月から連載されたのだが、途中から曼殊の小説になってしまい排満(反清)的な寓意の、革命党員がナポレオン三世を暗殺する話に逸脱しているようだ。ユゴー的展開に飽き足らなくなったのだろうか。これも彼の真面目ってところで、是非読んでみたいものだ。

    過若松町有感示仲兄            若松町を過ぎて感あり、仲兄に示す

   契闊死生君莫問                  死ぬも生きるも 問うなかれ
   行雲流水一孤僧                  行雲流水 ただひとり
   無端狂笑無端哭                  泣くも笑うも 狂おしく
   縦有歓腸已似冰                  おどる心も 凍てつきぬ

   仲兄=陳独秀
      契闊(けいかつ)=つとめ苦しむ
      冰=氷

  「断鴻零雁記」 蘇曼殊 訳・飯塚朗 東洋文庫(平凡社)

  『櫻の橋』 中薗英助(河出書房新社)

  

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2010年2月 6日 (土)

関門海峡相克史 ( 新・源平合戦 ) 

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 ちょっと前、関門海峡で深夜、海上自衛隊の護衛艦と韓国のコンテナ船が衝突し、炎上する事件が起き、また海上自衛隊か、と思ったら、その海域を担当している第七管区海上保安庁(門司)の誤誘導だった。只、そんな単純な事件でしかないのに、東京湾沖イージス艦激突殺人事件と同様、頑なに自らの責任を認めないという権力・官憲のお決まりパターンを決め込もうとして問題をややこしくしてしまった。
 ここは下関港から韓国・釜山や中国・青島、蘇州太倉行きの国際フェリーが通り、上海=神戸・大阪のフェリー鑑真号も時折通過したりする川並に狭い国際航海路、今年辺りからその海上保安庁の指示・警告が法的強制力を持つようになるらしい。デタラメ・無責任を絵に描いたような彼等が憲兵づくに管理するんじゃ堪ったもんじゃないけど、これから先、さて一体如何なることやら・・・

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      門司カスタム岸壁に繋留中の護衛艦くらま

 その事件の報を聞いて、わざわざ海峡まで足を運んだ折、先端の変形し黒く焼け溶けた護衛艦の繋留した岸壁が、他でもない、依然このブログでも触れた、たった二ヶ月間の門司=韓国・釜山の定期フェリーの発着するチャチなプレハブのカスタムハウスの岸壁であった。カスタムの入口のガラス戸を確かめてみたら既にフェリーのポスターは剥がされていた。正式にこの航路、廃止になったようだ。
 前代未聞のたった二ヶ月間の国際定期航路って、ギネスものではなかろうか。
 それも、石を投げると届きそうな直ぐ対岸の下関にはとっくに戦前から有名な関釜フェリーが運行されているのにも拘わらずの、何とも殺伐とした一億総ベンチャー化時代の遣り口ではある。

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         馬関戦争(四国連合艦隊と向こう側下関)

  その頃、そしてその大部前にもその関門海峡を挟んだ門司と下関との互いに別の県ではあるが合併問題が浮上していたようだ。恐らく今後も再び。
 嘗てこの門司港の観光エリアの一画に佇む中国・大連風洋館の東アジア図書館に立ち寄った時、瞥見した郷土史書を興味深く読まさせてもらった記憶がある。大正末の書物にも、この福岡県と山口県の別々の街の合併が認められていて、その動きは古くは鎌倉末期まで遡るという事であった。地理的位置故の必要性なのであろうか。それは、しかし、為政者・経営者的な立場でのものであって、それぞれの住民達の希望・思惑とはまた異なるものであろう。互いの市民が隣人愛に溢れていたり友好的であったりした歴史的背景ってあったのだろうか?

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   下関漁港に面した昔日の面影残る細路(伊崎町)

   他の書籍を散見した感じでは、如何もそんな感触ではなかった。
 好くて普通、悪くて反目と云ってしまうとちょっと大袈裟だが、例えば、上記の釜山フェリーにしても、あるいは、《放浪記》で有名な大正時代の作家・林芙美子の出身ですら対岸同士で張り合ってでもいるのか互いに自分の街の出自を譲らないようだ。更にも少し昔に遡れば、今は建物だけ下関に残っている英国領事館、明治に設置が決定された時も、この両市で争い、下関側が英国代表に次のような優越感に満ちた具申書を送付したという。
 
 「人口はほぼ同じだが、下関は商人および小売人を以って充されているが、門司の住民の半ばは石炭積込みの労働者及び日本における最下級に属する人物なり・・・」《関門海峡渡船史》澤忠宏(梓書院)

 当時、数百年北前船貿易で繁栄してきた下関も漸く翳りを見せ始め、逆に数百年の間一寒村でしかなかった門司は明治政府の石炭積出し・国際貿易港政策に乗って躍進し始めていた、どちらも自らのステータス・シンボルとばかりに欧米一等国の領事館設置に飛びつき争って難航したらしい。まだ半世紀も過ってなかった馬関戦争で欧米海軍と闘い敗北した長州=下関がその四国連合国艦隊側のトップ英国の領事館設置を争うとは何とも皮肉な話だ。

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       伊崎町の民家

  そして、その馬関戦争のちょっと前、長州軍が度々門司側に攻め込み、地元の漁師・農民から略奪等を働き、門司の住民から疎まれていて、四国連合艦隊が門司の田野浦沖(源平合戦・壇ノ浦の戦いの場)に現れた折、長州退治を願い出てたりしたらしい。これは出典は忘れてしまったけど、知って驚いてしまった。後、長州征伐・長州=小倉藩戦争の折、門司側に上陸した長州軍=奇兵隊(高杉晋作)・海援隊(坂本龍馬)に門司の農民代表が住民殺害の噂を恐れて進物を携えて機嫌伺いに赴くと、晋作が目的は小倉藩打倒と噂を一笑に付し、その旨農民達に伝えるようにと応えたという。
 薩長官軍の略奪行為はその虚実はともかく時折書物に見掛けたけど、こんな処で、つまり地元で既にそんな出自があったのかと思わず唸ってしまった。
 (長州=奇兵隊も、高杉晋作一人が傑出していて、後は伊藤博文・山縣有朋等の碌でもない権力志向ばかり、晋作早逝が禍根をばかり残した。あるいは、も少し長生きしていれば孤立し疎まれやはり闇に葬られたのかも知れない。)

  ともあれ、如何見ても目先の利害・打算の上のものとしか想えない両市の前代未聞の他県同士の合併、再び同じ理由で霧散しかねないものの成り行き如何(いかん)?

 (注) 上記の「長州軍=奇兵隊(高杉晋作)・海援隊(坂本龍馬)」の海援隊(坂本龍馬)は、どうも出典が怪しそうで、普通は長州軍と連携し、龍馬=海援隊=亀山社中がユニオン号や庚申丸から門司の幕府側に砲撃を加える等の援護ってところがお決まり。中には、龍馬自身は船には乗らず、下関側の山(火の山か?)と高見の見物を決め込み、実戦を俯瞰し後学の資としたという論もあるようだ。

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    門司(田野浦)の細路に面した民家

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