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2010年2月14日 (日)

行雲流水一孤僧 《蘇曼殊》

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  中国揺滾(ロック)の雄・崔健の《仮行僧》「邦題・偽和尚」じゃないけれど、清末民初(明治後期-大正初め)の頃、つまり中国中を揺るがせた《義和団の乱》から《辛亥革命》、清朝崩壊から共和制の中華民国への変転の時代に、日本・横浜に生まれ、以降中国と日本を頻繁に行き来しながら、自ら「糖僧」と称し、革命と文学・芸術に独特の足跡を残した蘇曼殊という僧形の青年が居た。
 
 辻潤や金子光晴達と似た体臭を漂わせ、仄昏い時代を飄々と生き抜いた漂泊の遊子・旅人であり、在日中国革命派の陳独秀等と同時代の、テロリスト的心性を抱懐した詩人である幼名・三郎の蘇曼殊は、1884年(光緒10年、明治17年)、広東出身の横浜「万隆茶行」の買弁の父・蘇傑生の第一妾・河合仙の子(実際は仙の妹わかの子らしい)として生まれたようだ。彼の出自は甚だ曖昧で、日・中の研究者の間でも、二転三転して今だ定まらずの状態。わかの子であったなら、確かにひた隠し物だろうし、ごく一部の家族以外知ることもなく、況んや外部の者達をやだ。下手すると、当の曼殊自身も知らされてなかったのかも知れない。
 この出自の曖昧性は、彼の数少ない小説に繰り返し出てくるモチーフで、以前にも触れたつげ義春の不安の根源でもあり、人とは己の出自というものに拘ってしまう性向を有しているもののようだ。考えてみれば、誰しも自分の出自は自分の両親からのものと疑うこともない自明のものだけど、さてその真実のところはと一度疑念すると、タマネギの皮を剥くように何処まで行っても確とした物証的確信は得られないことに気付く。生まれた赤ん坊がリアルタイムで知るこが出来る訳もなく、後年に提示された証拠も、それが本当に自分のものであるのか、真実なものであるのか保証する何物も存在しないからだ。例えDNAを持ち出されても、自分の手で調べたものでない限りには。
 出自の曖昧性が存在の曖昧性に連なり、更に不安という鬱々とした心理に脅かされるようになってしまう。

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 横浜の傑生の家では、第一妾の仙と当時17歳の第二妾・大陳氏が同居していて、更に2年後には広東から本妻の黄氏が移ってきて同居という物凄い情況になっていたようだ。当時の中国商人達の家では普通だったのだろうが。6歳になって、黄氏が広東に曼殊を連れて帰り、9歳の時「万隆茶行」が倒産し、傑生、仙を残して大陳氏と第三妾の小陳氏をともなって帰国。
 1898年曼殊15歳の年に親戚と共に横浜に戻り大同学校に入学。四年後、早稲田大学高等予科に入学。陳独秀らの留日学生革命団体《青年会》に参加。翌年《抗露義勇隊》に参加し、在留の親族達の知るところとなり中国に送り返されてしまう。上海・香港の革命派の新聞社を転々とし、その年の末、広東・恵州の寺で僧となる。
 が、翌春貧しい僧生活に堪えられず?香港に出奔、保皇党(立憲君主派)の頭目・康有為の暗殺を謀るが止められ、三月中旬父・傑生死去も帰郷せず、下旬シャム・セイロン等に南遊・・・
 以降、中国のあっちこっちの学校の教師や出版関係の仕事をしながら、上海=日本を頻繁に行き来し、詩・小説・翻訳・絵等を発表し続ける。
 1918年春、上海・フランス租界の広慈病院で死去。享年35歳の早逝。

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    当時売れっ子だった芸妓の百助の絵はがきの上に記したもの。

 6歳の時に中国・広東の傑生の実家に移り住むようになってから、妾の、それも漢族=中国人ではない日本人の血を引いた混血児故に、煩瑣・複雑な因習的大家族制の束縛・抑圧に晒され続けたのだろう。もう一つの出自、民族という、突き詰めるとこれも甚だ曖昧朦朧としてしまう質のものであっても、中国と日本の血の混じった、一体どちらが正系なのか、おのれは中国人なのか、それとも日本人なのか、というアイデンティティー・帰属の問題。
 革命を問題にしようとすると、先ず問われるのがそれで、遠く離れた国と国ならまだしも、隣国のたったこの前の戦争(日清戦争)までし、その上片方の国の一部を植民地化している場合、随分とややこしくなってくる。6歳の時中国に連れて行かれそこで教育を受け生活してきて、すっかり中国人となってしまい彼のアイデンティティーも中国にあるのだろうが、まだ孫文の時代なのでそれで済んだのだろう。もう少し時代が下ってくれば、日中の関係も一層きな臭くなり、蘇曼殊もその振幅に増々翻弄されることになったであろう。

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 如何にもお坊ちゃんって感じで、辛どい僧堂の苦行は苦手のようだし、年から年中アメ玉を頬張っていて自らも「糖僧」とすら称するぐらいの甘党。それが禍して病に臥すことになってしまう。酒・煙草の依存症はざらだが、アメ玉依存症ってのは、しかし、一種の風流って赴きもなきにしもあらず。
 彼の年表を見ていると、あの大正の前期にあって如何にも簡単・頻繁に上海と日本を往来していて驚かされるけど、実際は当時、長崎=上海は一昼夜の航程で、関門連絡船を中途で使って、長崎から横浜・東京は殆ど鉄道一本。金子光晴が頻く使ったルートだ。おまけに、当時は日清戦争の下関条約がまだ生きていて、中国人もパスポートは不要だったらしいので尚更。
 シャム(タイ)やジャワ(インドネシア)、マレーシアまで脚を延ばし、セイロンでは梵語(サンスクリット語)の学習、ジャワでも短期間ではあるが中華学校で英語教師をしている。タイのバンコクにも滞在し、そこで画家・西村澄に「耶馬渓夕照図」を貰い、曼殊も描いて西村に贈呈したという。南遊の詳細を知りたいものだが、中国本《曼殊大師全集》あたりじゃないと無理なのかも知れない。

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 そもそも蘇曼殊su manshuの曼殊は僧(法)号で、本名は蘇子穀、のち元瑛。尤も、僧号の曼殊は彼が自分で勝手に命名し称したという説もあるらしく、彼の僧籍関係は何とも怪しげ。末期帝政ロシア(考えてみたら曼殊と同時代)に暗躍した怪僧ラスプーチンとは以て非なる、破天荒ではあってもその根底は生真面目な曼殊。その足跡を辿れば一目瞭然。陳独秀や章炳麟等革命派連中の前に坊主頭に僧の衣服を纏って現れて、皆が空しい机上の空論を喧々諤々口角泡を飛ばしている最中、一人斜に構え、熱くなった頭を冷やすように一言二言嘯いてみせるのが真骨頂ってところだったようだ。

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 当時、そして'20年代'30年代にも詩人・小説家として人気はあったらしく、彼のファンだった彼の親戚の娘なんて、彼の死後、後追い自殺すらしたらしい。
  1912年から上海の新聞『太平洋報』に連載が始まった彼の処女小説《断鴻零雁記》、後年時代を席巻し始める魯迅達の口語白話体の小説とは異なり、謂わば最期の文言体小説として、しかし時代の新しい風潮・感覚を十二分に取り込んだ既成の文言小説とは一線を画したものとして当時の青年達に受容された。後、1915年7月、8月に《甲寅雑誌》に発表された《絳紗記》、《焚剣記》ともども作者の曼殊の分身が主人公で、ヒロインすら同じキャラクターのバリエーションで、一辺に読んだりすると関係・筋運びが相似しているのでどれがどれか混乱してしまいかねない。『聊斎志異』なんかの伝統的な文言体の志怪・幻奇小説のカテゴリー中のもので、些か抹香臭い因果応報・流離辛苦的な構成ってのが結構面白い。魯迅すら一編認めたという武侠片、タイトルからしてもうそのものの《焚剣記》、しかし、これは一応その体裁を取っているものの剣戟シーンがある訳でもなく、形だけ。それでも一種独特の時間概念、完全に一つの作品世界を創出していて気に入っている。
 魯迅が日本留学時に出版を企図していた《新生》に曼殊が同人として参加していたという。結局《新生》は日の目を見ず残念なことではあったけど、魯迅の弟の周作人は曼殊の詩文を賞め、章炳麟は曼殊の画集《曼殊遺画弁言》で「子穀、芸事を善くし、最も絵画にたくみ」と賞めている。

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 又、西欧の詩や小説も翻訳・紹介していて、就中、フランスのビクトル・ユゴーの《ラ・ミゼラブル》、《惨世界》のタイトルで上海の《国民日日報》に1903年10月から連載されたのだが、途中から曼殊の小説になってしまい排満(反清)的な寓意の、革命党員がナポレオン三世を暗殺する話に逸脱しているようだ。ユゴー的展開に飽き足らなくなったのだろうか。これも彼の真面目ってところで、是非読んでみたいものだ。

    過若松町有感示仲兄            若松町を過ぎて感あり、仲兄に示す

   契闊死生君莫問                  死ぬも生きるも 問うなかれ
   行雲流水一孤僧                  行雲流水 ただひとり
   無端狂笑無端哭                  泣くも笑うも 狂おしく
   縦有歓腸已似冰                  おどる心も 凍てつきぬ

   仲兄=陳独秀
      契闊(けいかつ)=つとめ苦しむ
      冰=氷

  「断鴻零雁記」 蘇曼殊 訳・飯塚朗 東洋文庫(平凡社)

  『櫻の橋』 中薗英助(河出書房新社)

  

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