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2010年3月の4件の記事

2010年3月27日 (土)

ダライラマの居地 《ダラムサラ》

 

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  ダライラマのチベット亡命政府の置かれている北インドのダラムサラを一回きり訪れたのは'94年であったが、旅行者や観光客ばかりが騒がしいくらいの山間の静かな小さな町であった。亡命政府故にだからであろうがカンチェン・キションなる官庁街なんて何処にあるのか、否どれがそれなのかも教えられなければ分からないような規模と佇まいであった。別にダライラマのファンじゃないので拝謁の列に加わるわけでもなく、専ら《シャンバラ》関係の書籍や資料を漁りたかっただけ。安宿やレストラン、ハンディークラフトの店の並んだマクロードガンジも、ラダックのレーと同様本当に小さなものであった。

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 宿はロゼリン僧院が営っているらしい宿、ロゼリン・ゲストハウスで、ドミトリー(25ルピー)。三週間近く滞在した。三月四月だからか雨天曇天が多く地階(窓から外は見える)なので湿気が強く必ずしも居心地が好かった訳でもなかったが、やっぱりチベット僧達が従業員として働いていたりしたのもあるのだろう。チベット僧の宿ってのもそうそう体験できるものじゃないからだ。勿論普通の民間人経営の宿の方が快適ではあった。屋上はベランダになっていて遠くの白雪を頂いた嶺々が遠望でき見晴らし良く、天気が好ければ日光浴もできた。

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 この宿にも大画面のテレビは置いてあり、チベット僧やチベット人達が昼真っからスターTVで中国のドラマなんかを観てたりして、皆一応中国語は分かるようだった。やはり英語より中国語の方が慣れているからだろうが、有名な食品会社のCMなんかが流れると「ワハハ」だっか一緒に声を合わせてたりして無邪気なものだった。勿論皆青年僧ばかり。レーの《アムド・カフェ》でも、やはりせっかく話せる言葉をむざむざ死なせたくはないのだろう、日本人と分かっていても、中国語が話せるかどうか訊いてきたりした。中国語=親中国という訳ではなく、かならずしも全てがすべて中国憎しというのでもないくらいは了解できる。つまり、総て中国(共産党)政府が彼等をしてそんな境遇に追いやったのであり、その罪は彼等の云う「中国革命」の死に等しい。

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 宿でも食事はできたが、僧料理で余りに味が淡泊なので、大抵はシャンバラ・カフェやスノーランド・カフェ。元々バナナ・パンケーキ好きだったのもあってシャンバラ・カフェのバナナ・ケーキ、バナナ・パンケーキは常食してしまった。チベット人のカフェやレストランじゃ何故か頻(よ)くケーキのメニューがあるけど、ここのシャンバラ・カフェにもレモンカードやチョコレート・ケーキなんて置いてあった。少し下った静かな場所にもろチョコレート・カフェだったかそこは正にケーキが売り物の少し高級なインド人の店。甘さも適度に抑えた仲々の味ではあった。

 このマクロードガンジでもインド中のどの店と変わることなく、チベタンの店でもインド人少年達が働いていた。(尤もラダックのレーはチベタンが殆どだった)勢い彼等とも顔見知りになり仲良くなってしまうものだけど、後日、僕がダラムサラを出て、リシケシに滞在しデリーに戻ると、ある日本人僧と覚しき中年男に声を掛けられ、一寸前、つまり僕がダラムサラを出てすぐ、何かのトラブルをきっかけにマクロードガンジのインド人達が暴徒化しチベット人や店舗を襲撃し負傷者が出たという。その坊さんの話では、あるチベット人がインド人のタクシー運転手を何かのトラブルで刺殺したのが直接の原因のようだったけど、後に他の旅行者の話を聞くと、身障者のチベット人がサッカーかクリケットの試合でインド・チームが負けたのをからかったのが発端ということだった。それ以前から後から来た難民のチベット人達の方が羽振りがよくなったのが面白くなかったらしい。勿論他にも色々あったろうが、何処の難民地域でも生ずるお決まりの原因とトラブルだ。店舗も投石を受け、シャンバラ・カフェのインド人少年も店の奥で怖くて震えていたらしい。スパイク・リーの《ドゥー・ザ・ライトシング》的情況のど真中にいきなり放り込まれたんじゃそりゃ怖かったろう。一度は、ダライラマも南インドの方に移るような話も出てたらしいが、インド政府も乗りだし、結局そのままダラムサラに留まることになったようだ。当時、マクロードガンジの南に下ったところのダラムサラの住民達が、我々の処に移って来ればいい、大歓迎すると、大半の観光客をマクロードガンジに取られていた麓の地域の商店街の動きも新聞か何かで読んだ記憶がある。

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 マクロードガンジからちょっと行った先に一般に開放された付属図書館があり、同じ敷地内に外人用のレストランまで備わっていて、ともかくシャンバラ関係の資料を探すことに腐心したものの、チベット語はてんで駄目だし、英語も辞書片手ってところでの資料探しは難儀。それでも、英語等で書かれた書物の並んだ外人向けの閲覧室にはニコライ・レーリッヒのやゲサル・リンに関する本はあってもシャンバラに関する文献は発見できなかった。残念至極であった。恐らく、もう一方のチベット語書籍の閲覧室に多々眠っているのだろう。日本語のミラレパの本があり、それを来ては読んでいた。ミラレパは欧米人に人気があるようだった。書店でも何冊か見た気がする。確かに面白い。映画もあるらしいが未見。

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 この図書館と同じ敷地内レストランの下の階に僧堂があって、ある日、ビッグ・ホーンの音が響いてきたので行ってみると、果たして僧達が並んで読経と楽器を奏でている真っ最中であった。白人のカップルが既に端に立っていてその横に並んで聴いていると、坊さんがやってきてマットレスを出してくれ我々は坐って聴くことができた。間近で聴く二台のビッグホーンの響きは素晴らしく、レーの夜のしじまに低く響き渡ったビッグホーンのを想い出した。シンバル、ホーン、チャルメラ(各×2)、太鼓×4、他に小さな鐘の類。途中で演奏を中止し、皆の椀に大きなアルミの薬缶からなみなみとミルク・ティーが注がれていった。我々の前の椀にも。飲み干し再び長々と演奏は続いていった。
 その曲には覚えがあった。ハリウッド映画《アルタード・ステーツ》で使われていた音楽で、何しろライブなので迫力があり素晴らしかった。曲名は分からずじまい。チベット仏教的には曲とは云わないのだろうが。

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 アフガン人と同様人懐っこくいやでも話す機会があり、一人はポカラで事業をやっていて、何年かしたらダラムサラから少しくだった処で技術学校を開設する予定とも話した。「ハンディークラフトばかりじゃ、チベットの発展がない」らしい。ボン教徒の学生も居て、現在のチベットにもまだ生きているとのことであった。
 ある早朝ステートバンク前の通りに差し掛かると、三角旗と白煙がもうもうと立ち籠めていて、何かと思って尋ねるとダライラマが通るという。次第に白布や二本の線香を掲げた人垣も大きくなってゆき大部経って向こうからランドクルーザーがゆっくり走ってきた。運転席の隣に坐った例によって愛想の好いダライラマが覗けていて、映像や写真で見るのと寸分も違わぬ彼であった。

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 この時期、そのルートになっているのか、一日中昼夜の別なく無数の蝶々が下の谷から昇ってきてロゼリンなんかの上を越して反対側の谷の方へ飛び続けていた。こんなのは生まれて初めてお目にかかったが、蝶の道とも呼ぶらしい。上空を茶色の猛禽類がゆっくりと旋回していたりして、正にヒマラヤの麓って雰囲気がもうそれだけで癒しになってしまうダラムサラであった。

 中国政府が次のダライラマを自分達の手中にしようと、眈々と現十四世ダライラマの死後に照準を合わせあれこれ画策しているらしい。ダライラマ側とまともに話し合いをする訳もなかった由縁だ。以前パンチェンラマの選定の時も、ダライラマが選んだパンチェンラマを中国政府が認めるのを拒み、勝手に自分達でデッチあげてしまった事件があった。
 マルクス主義者とか唯物論者を自から認じた権力が、宗教的行事に関与し認めるとか認めないとか強権発動していた日にゃ、信仰の自由が聞いて呆れてしまううが、それ以上に中国共産党が「現実」を前にして思想的に敗北したとも見越されても仕方がない。
 それでもダライラマ、もう可成り高齢で、いいかげん悪名高い米英権力詣でを続ける無能・愚策・失策から卒業すべき時期にきているのではなかろうか。彼の周囲は、下手するとそんな米英の傀儡でがっちり固められている可能性すらありえる。そんなんじゃ、英米企業がチベットに眠る資源狙いに内外チベット人達を操って、第二のイラクにするのも意外と時間の問題かも知れないが、中国も傍観しつづけるばかりではあるまい。

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2010年3月20日 (土)

映画《チベットの女》 歌姫と僧侶・領主そしてカムパ

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  所謂「解放」前のチベットを描いた田壮壮の《盗馬賊》とは又些かニュアンスの違った解放前からのあるチベット女性が辿ってきた、三人の男達を巡る軌跡。原作者が(一応)チベット人のザシダワであったから好かったものの、これが監督と同様漢族だったら、チベット人達が騒いだかも知れない可能性はあったろう。勿論゛三人の男゛という部分だ。
チベットは基本的に母系制(地域によって一定はしないようだけど)の名残りのせいか性に開放的らしい。人民中国下では潰えた制度だろうし、他の国(地域)のチベット族も今じゃ一婦一夫制だろう。性的に開放的な性向の少数民族って少なくはなく、漢族の作家達がそれを好餌とばかりイマジネーションを膨らませて描いたりして、書かれた少数民族に抗議されるって事件時々見掛ける。とりわけ拮抗する民族間だと一層その可能性は高い。

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 この映画、原作では如何描かれているのか祥びらかでないけど、1959年のエピソード中に、荘園領主の屋敷に、ダライラマと覚しき風体の青年が出てくる。勿論セリフもなく奥の部屋で領主の息子とヒソヒソ小声で話し合っている光景や屋敷から抜け出す場面が引いた位置から描かれているだけ。主人公の娘イシが誰だろうと遠くから覗いている設定で。
 悪辣には描かれてないけどあくまで封建制的搾取の「特権階級」としての荘園領主の屋敷という前提のものであったから可能だったのであろう。でなければその場面はカットされたか映画自体が日の目を見なかったであろう。その辺りを知悉した謝飛監督の面目躍如というところだろうか。

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 解放以前、チベットのロト村に、カムパ(カム人)の隊商が現れる。村の外れの切り立った絶壁の細路でロトの荘園領主の一行と途中で鉢合わせし、どちらも引かず、結局荘園の幹部がこんな断崖絶壁で争った日には皆谷底へ馬もろとも落ちてしまうと領主をなだめ、領主側が片側に身を寄せ、その更に狭まった細路をカムパの隊商が進んで行くことで決着。

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 ところが、そのカムパの隊商の首領・ギャツォは、村の歌姫・イシに一目惚れする。おりから、村の荘園領主の息子・クンサンに見初められ、既に嫁が居るにもかかわらず強引にイシを屋敷に正式に呼び寄せらていた。クンサンも、イシの美貌とその歌声に惚れ込んでいたのだ。翌日、イシの母親に引き出物の大きなダイヤモンドを渡し、荘園領主の息子の処へ赴いてイシを嫁として貰い受ける旨通達し、後日、イシを略奪し遠くへ連れ去って行く。略奪婚ってものだろう。イシも、前世での自分の行いが悪かったせいだと諦め、ギャツォをに尽くすようになる。

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 この映画は基本的に現在のラサを舞台にしたイシの回想形式で構成され、伴侶の老いたギャツォの姿の後に、何とも若々しい無頼のカムパそのものってイメージは新鮮。荘園主の屋敷でのギャツォの仲間と領主側の衛兵達との例のチベット長刀の柄に手を掛け少し抜いて鈍く輝く刀身を見せての対峙って、日本や中国とは又異なる作法と赴きがあり、迫力もある。正に若きカムパ、ギャツォの面目躍如が、現在の老いて息をゼーゼー鳴らす好々爺ギャツォとの対比が、嫌でもイシの辛酸・辛苦の長かった人生の変転を想わせる。

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 やがてイシは娘を産み、上記の1959年のラサ暴動=人民解放軍の侵攻の折、産んだばかりの長男を領主の息子の子として奪われ、ギャツォがそれと知って怒って娘を連れて戻っていたカムへすっかり酒に溺れてしまったギャツォを救いに赴く。道中、僧となっていたイシの幼馴染み、初恋の人サムチュに助けられ、近くまで同道するが、イシの恋慕に危うさを覚えたのか、恰度開祖パドマサンバヴァが修行した断崖の岩窟に籠もっての修行に入り、イシは仕方なく一人でカムへの旅を続ける。娘が北京の学校に行ってしまい一人酒に潰え去るばかりのギャツォを見つけ出した・・・

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 現在、イシとギャツォは、役人になった娘のお陰で以前のチベット民家の官舎に入れ、直ぐ向こうに大きく聳えているポタラ宮を眺めながらの毎日を送っていた。北京から遊びに来た孫娘に、自分の昔話を語って聞かせ始める。そんな回想の断片断片が挿入され、博物館の外人相手の解説の仕事に就いていた亡命先から戻った嘗ての荘園領主の息子、今では大僧正にまでなったサムチュ達とギャツォの死を絡ませての再会そしてイシの死。

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 チベットのあっちこっちの景色が織り込まれ、それだけで一幅の絵になってしまうが、ハイビジョンの現在では些か色褪せて見えてしまうのは仕方ない。チベットものを撮りたがる監督って大抵あの素晴らしい自然とチベット人達の景観を何よりも撮りたいのだろう。もうそろそろカイラスとマナサロワール湖も好いのではないか。聖地故にチベット人的には冒涜になってしまうのだろうか。(中国政府のカイラスを通る道路建設に世界から反対の声が挙がっているらしいのも恐らくそんな関係だろう。確かに、観光客にとっては便利だけど、雲南の虎飛峡のようになっちまっては風情も何も失せてしまう)

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 これも一種の女性映画と云えなくもないが、作りも悪くなく出演者もチベット人ばかりで、《盗馬賊》や《ココシリ》と同様秀作だろう。゛Song of Tibet゛のタイトル通り、白雪の嶺々に谺するイシの歌声に、男達は魅せられるのだが、日本の山岳地帯の民謡の響きにも通うものがあり、妙に親近感が湧いてしまう。

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  イシ        テンジン・ドカー
  イシ(娘時代) ラクチュン
 ギャツォ       オンドゥ
 ギャツォ(青年)リンチェン・トゥンドゥプ
 クンサン    ツェリン・ドジェ
 ナムチュ        チュンベー・ロサン
 イシの孫娘  ダトゥン

 監督 謝飛
 原作 ザシダワ
 脚本 謝飛、ザシダワ
 撮影 傳靖生
 音楽 張千一
 歌  ラモツォ

 制作 中国(2000年)

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2010年3月13日 (土)

チベットの都ラサ 1994

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    天空の宮殿 ポタラ宮

 三月十日は「チベット民族蜂起記念日」らしい。
 1959年からもう半世紀、随分と長い間、ダライ・ラマは国外に出たままだが、今だ前途多難なようだ。「解放」の名の下に侵攻した中国共産党=人民解放軍、今だ居座り続け、どころか一層根を張っていたんじゃ「解放」が「植民化」でしかなかったと指弾されても仕方あるまい。そんな訳で、今月はチベット月間と勝手に銘打つことにした。(尤も、特別な企画がある訳ではないが。)

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     漢族もウイグル族もチベット族もビリヤードが好きなようだ

 そもそも僕が海外旅行をするようになったきっかけが《チベット》だった。
 '89年の恰度《天安門事件》の起きた年で、結局チベット行きは実現できず、シルク・ロードつまり新彊ウイグル自治区に変更を余儀なくされてしまったけども、5年後、'94年に漸く天空の国・チベット行が実現できた。
 ゴルムドからCITSのバスに乗ってゆっくりとチベット高原を昇っていった。
 ラサに入る時は皆洗車を義務づけられていたようで、洗車場でホースの水がチャチな作りの窓の隙間から飛び込んできて服や顔を濡らす乗客達も居て、ずぶ濡れになった者を見て乗客のチベット人達は大笑い。
 幾度もチベットには来ていたような日本人青年カメラマンI氏と隣り合って、同じラサのバック・パッカー御用達の安宿《ヤク・ホテル》に投宿。大きな門のある回廊風の建物の一階のドミトリー(7ベッド)で、25元。厚めの掛布団に薄めの枕。昼頃から七時までホット・シャワーが浴びられ重宝した。この日当たりの好いドミは日本人ばかりで、他のドミには欧米人達が泊まっていた。

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    定番巡礼スタイル(元祖バック・パッカー) 

 バルコル(八角街)、ヂョカン寺(大昭寺)、ギャタ・ラモチェ(小昭寺)そしてポタラ宮殿と定番観光コースを渉猟した。ポタラ宮入口の坂を昇るのに息切れがし、ふと見ると周囲のチベット人達も同様に息を切らしていたのには笑ってしまった。日本人は1元、外人は25元。千室近くある部屋の限られた部屋だけが公開されているようだった。個人的には、ノルブリンカ(離宮)の現・ダライラマ宮の《タクテン・ポタン》の二階にある赤と緑を基調とした中国風の絵の描かれた大きなサイド・ボードが気に入っていて、じっくりと眺めていると係員に因縁をつけられ追い払われてしまって残念至極。仲々に面白い絵だったのだが。
 
 ポタラ宮の前に陣取った駐屯軍は何とも異様だったが、米第七艦隊じゃあるまいし如何にも「プレゼンス」と云わんばかりはちょっと無神経過ぎるだろう。チベット人達の神経を逆撫でするようなもの。西インドのラダック・レーの町も、パキスタンや中国国境が間近に迫っている関係もあってか、インド軍の大きな基地が控えていて、特に民間と共用の空軍基地は、何とも無粋でせっかくの同じチベット圏のラダックの雰囲気を損なって余りあるのと相似。当時も漢族の店可成り並んでいたが、前年でラサの人口十五万でチベット人は三分の一、現在は四、五十万らしくチベット人比率は惨憺たるもの。これじや如何贔屓目に見ても植民化だ。「解放」に完全に背反する。

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 七月初め、ジョカン寺前の通りを歩いているといきなりツァンパ(麦粉)をかけられた。恰度インドのホーリーと同じで、通りすがる人達にかけまくり、チベット系の公安すらが顔を真っ白にしていた。走ってくるトラクターの後部の荷台に乗った乗客も反対側から走ってくるトラクターの乗客とかけ合いをする始末。僕は見なかったけど水掛すら行われていたらしい。
 ダライラマの誕生日だったらしい。ラサの何カ所かでパコダ風の作りの大きな香炉に香木や油なんかを参詣者達が次から次へと放り込み、広場は白煙で濛々としていた。郊外の橋の辺りにもあって、そっちは危ないという話だったが何も起こらなかった。近くの高台に自動小銃を手にした武装警察らしき姿が見られただけ。
 タルチョの小旗はためく丘の上では、ルンタ(神馬)の絵を五色の薄紙に印刷した小さな護符の束を、念仏かマントラを唱えながら頭上高く撒いていた。風で高く舞い上がって遠くまで飛んでゆく様は爽快であり又ある種の感慨を抱かせる。正に絵に描いたようなチベット的光景。

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 小昭寺斜め前のチベッタン茶店は狭い店内の両側に椅子とテーブルがぎっしりと並べてあり、チャイが零れたりすると直ぐに小姐が布巾で拭いてくれる。薄暗い店内に老若男女がひしめいて、チャイやモモ(チベット餃子)を頬張りながら談笑する。見上げると天井に、イスラムの茶店のそれを想わせるプリント地の布が張ってあった。やがて隣のテーブルの老婆の前に運ばれてきた皿の上の白いモモから仄かにゆったりと湯気が立ち上っていた。
 ラサではチャイ(ミルク・ティー)が2角。味は悪くなく、ラサの何処でも飲めるのが嬉しかった。ヤク・ホテルの前の通りから更にジョカン寺方面に折れた小花子路辺りに店が並んでいて、頻く昼食のツクパを食べに通ったけど、今じゃ随分と様変わりしたであろう。
 一週間ほどサムイェに滞在し戻ってきてから、二階部屋に《旅行人》編集部一行が現れた。

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2010年3月 6日 (土)

新シャンバラ譚《チベット、革紐の結び目につながれた魂》ザシダワ

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      カルキ(シャンバラ王)

  以前に田中真知の《理想郷シャンバラ》を紹介したが、今回はチベット人作家として今じゃすっかり有名になったザシダワの短編小説《チベット、革紐の結び目につながれた魂》を紹介したい。
 映画《チベットの女 イシの生涯》(2000年)の原作・脚本も手がけ、《ココシリ》(2004年)の制作にも関わっていたようだ。ソーポー(色波)と同様片親が漢人で、二人とも中国語で原稿を書いているようで中国語教育でチベット語も喋れない若いチベット人世代も現れてきているらしい情況じゃ、チベット語で書かれたものこそが真のチベット文学という定式は増々影の薄い非現実的なものとなっているようだ。正に危惧すべき事態。

 JICC出版局から出ている《発見と冒険の中国文学8: 新しいチベット文学風馬の耀き》に掲載されたザシダワの短編集から冒頭の《チベット、革紐の結び目につながれた魂》(1985年)、もうかれこれ二十五年も前の作品だけど、仲々チベット作家の小説ってお目にかかれない情況では選びようもない。それに、この短編、シャンバラをテーマにしていて、今風のシャンバラ探求譚って処だろうか。最近のチベット文学だとその様相も大部変わってきているのかも知れないが、この頃は、圧倒的な中国文学と断絶し、ボルヘス等のラテン・アメリカの魔術的リアリズムを採り入れたりして、新たなチベット文学の方途を模索し始めた時期のようだ。

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 「革紐の結び目」とは腰に下げた革紐に毎日結び目を作って日付(カレンダー)を確認するためのものらしく、古からの遊牧民達の生活の知恵。それに「つながれた魂」とは連綿と続いてきたチベット人達の生活・風俗・歴史の上に繋がれた今現在の作者をも含んだチベット人達の魂ってことだろうか。筆者には、「つながれた魂」というフレーズは直ぐ嘗て米国中で燎原の炎の如く燃え上がった黒人達の暴動・解放運動の「長く熱い夜」、その象徴ともいえる゛ブラック・パンサー゛のエルドリッジ・クリーバー著"Soul on Ice"《氷上の魂》が想起されるけど、余りザシダワと繋がりそうもない。

 「のんびりした素朴なペルー民謡《コンドルは飛んでいる》は近頃めったに耳にすることもなくなった。しかしぼくのテープにはちゃんと録音してある。聴くたびに、目の前に高原の谷間の風景が浮かんでくる。・・・」
 冒頭の如何にも牧歌的な景色の描写が、実はペルーではなくて、嘗て作者が訪れたことのあるチベット南部のものだった。否、実際はそれも勘違いで、後に十九世紀の英国風景画家コンスタブルの描いた風景画の記憶だった。現実のそのチベット南部の山間のパプナイカン山区は、週5便のヘリコプター定期便すら飛んでいる改革開放政策の草創期。怒濤の如く浸食し始めた現代文明と今だ連綿と古から続く旧態依然とした地場のチベット人達。

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 ザト寺の九十六歳になる第二十三世転世活仏サンチェダプ活仏が死に瀕していた。
 転世活仏の制度がなくなるとやがてチベット仏教(ラマ教)も潰え去ってしまうのではないかというテーマの下のルポを認めるために活仏にインタビューを試みると、果たしてその老僧は、口を開いた。
 「・・・幻覚状態に入り、目の前の見えないだれかに向かって話している。
 『シャンバラの、』彼は唇をかすかに動かした。『戦争はもう始まった』」
 
 「おまえはカールン雪山を越え、蓮華生大師の掌紋のなかに立ったとき、追い求めてはならなぬ、捜し求めてはならぬ、祈りの中で悟れ、悟りの中で幻影を得る。縦横に交差する掌紋のなかで、ただ一筋だけがこの世の浄土に通じる生存の道だ」
  そして、更に続けた。
 「『カムパの若いふたりが、シャンバラへ行く道を探しにきた』活仏が言った。
 ぼくは疲れ切って彼を見ていた。
 『それは、一九八四年に、ここにカムパ人がふたり、男と女がきたということ?』とぼくはたずねた。」

 活仏は以前このパプナイカン山区にその二人連れがやって来た折の事を想い出し、その二人が道中での出来事を活仏に語った話の内容が、何と作者(ぼく)が書いた小説の内容と同じで老僧は只筆者の「小説を暗唱しているだけ」だった。
 ぼくはその小説を他人に見せることもなく鍵をかけてしまってあった。ところが一言一句同じなのだ。只、唯一、最期に道(蓮華生の掌紋)に関して老人と老僧の対応の相違があっただけ。
 「すなわち客観的事物の事象がイデーの力を通して生物的感応の情報となって作者の大脳に伝達されることである。なにかの黙示録のようにるぼくはかつてふたりのカムパ人がパプナイカンにやってきた経過をリアルタイムで記録した。その後のことがあまりはっきりしないのは、なにかの情報に乱れが生じたためにちがいない。・・・」

 事態は曖昧朦朧として韜晦され、メビウスの輪の如く如何辿ってみても堂々巡りするだけ。正に蓮華生(パドマサンバヴァ)の掌紋に迷い込んだ如く。

  前世に赤い糸で結ばれてでもいたように《ケサル王叙事詩》語りの芸人の娘チョングとカムパの青年ターペイのふとした遭遇と巡礼を想わせる何かを求めての長い彷徨。やがて、娘チョングがいつ果てるとも知れぬ旅に厭き、町の電卓を手にした男に誑かされてしまう。片や昔ながらの革紐、片や最新式分明の利器「電卓」って処がミソなのだろう。若い娘は探求よりも嗜好に眼が向きがち。それでも、結局再びターペイの傍に戻ってしまう。
 そしてジアという干魃に見舞われた村に至る。若い二人連れが現れると雨が降るというお告げに村民達は儀仗隊すら組織して歓迎する。白ターラー(教度母神)に似た容貌のチョングは特に歓待され、ターペイは拗(す)ねて酒場に入る。そこで遭った老人に、誰一人として戻ってきた者のないカールン雪山の向こうにあると云われている蓮華生の掌紋の話を聞かされる。己が行こうとしていたのがそれだと漸くターペイは気付き、そこへ向かうことを決意する。が、その村で文明の象徴たる「トラクター」にはねられ内蔵をやられてしまう。そこはカムパ男らしく、何ともないと駆け寄ってきた人々を振り払い、チョングを残し、一人敢然と蓮華生の掌紋=シャンバラに向かう。

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      カルキ

 「小説はここで終わっていた。
 パプナイカンに戻り、カールン雪山を越え、蓮華生の掌紋の地に行ってわれらの主人公を探すことにした。」

 カールン雪山を滑り落ちて作者は瀕死のターペイを探しだし、作者はシャンバラが空想の産物に過ぎないと説いてみせるが所詮せんないことと悟り、戻ってきていたチョングと共にターペイの最期を看取る。

 「ぼくはターペイに代わった。チョングがあとからついてくる。ぼくたちはいっしょにもと来た道を引き返す。時間はまた最初から数えなおすのだ。」

 時代設定は1984年、ロサンゼルス・オリンピックの年。ターペイが何処かから聞こえてくるラジオからだろうか開会式の英語の実況中継の音声を神の声と云う。死を間近にしたターペイに事実を教えたところで意味がないと作者は否定もしなかった。これが、この短編での作者の基本的スタンス。それは必ずしも、中国共産党的論理に乗っ取ったということではなく、ザシダワ自身の考えでもあろう。ダライラマすらシャンバラを現実に実在するものとは考えてない旨明らかにしているぐらいで、所詮説法的方便・説話の類だろう。 それは何処其処に在るものではなく、自身の心の内に在るもので、それはしかし又、やがて現実に実現するものという開かれた可能性を決して排除するものでもあるまい。

 ザシダワの父親もチベットの共産党幹部だったらしいが、チベット地域内でも政治性を帯びた問題を扱うような創作活動は色々と困難が多いらしく、ウイグル自治区等の他の少数民族エリアより厳しいという話もあり、その中で如何に自身のイメージとメッセージを造型してゆくか、依然として暗喩と隠喩に満ち満ちた仄暗いトーンを引き摺らざるをえないようだ。                            

 《発見と冒険の中国文学8: 新しいチベット文学風馬の耀き》 
                ザシダワ・ソーポー(色波)
                      訳・牧田英二(JICC出版局)

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