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2010年3月27日 (土)

ダライラマの居地 《ダラムサラ》

 

Dalai_lama

  ダライラマのチベット亡命政府の置かれている北インドのダラムサラを一回きり訪れたのは'94年であったが、旅行者や観光客ばかりが騒がしいくらいの山間の静かな小さな町であった。亡命政府故にだからであろうがカンチェン・キションなる官庁街なんて何処にあるのか、否どれがそれなのかも教えられなければ分からないような規模と佇まいであった。別にダライラマのファンじゃないので拝謁の列に加わるわけでもなく、専ら《シャンバラ》関係の書籍や資料を漁りたかっただけ。安宿やレストラン、ハンディークラフトの店の並んだマクロードガンジも、ラダックのレーと同様本当に小さなものであった。

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 宿はロゼリン僧院が営っているらしい宿、ロゼリン・ゲストハウスで、ドミトリー(25ルピー)。三週間近く滞在した。三月四月だからか雨天曇天が多く地階(窓から外は見える)なので湿気が強く必ずしも居心地が好かった訳でもなかったが、やっぱりチベット僧達が従業員として働いていたりしたのもあるのだろう。チベット僧の宿ってのもそうそう体験できるものじゃないからだ。勿論普通の民間人経営の宿の方が快適ではあった。屋上はベランダになっていて遠くの白雪を頂いた嶺々が遠望でき見晴らし良く、天気が好ければ日光浴もできた。

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 この宿にも大画面のテレビは置いてあり、チベット僧やチベット人達が昼真っからスターTVで中国のドラマなんかを観てたりして、皆一応中国語は分かるようだった。やはり英語より中国語の方が慣れているからだろうが、有名な食品会社のCMなんかが流れると「ワハハ」だっか一緒に声を合わせてたりして無邪気なものだった。勿論皆青年僧ばかり。レーの《アムド・カフェ》でも、やはりせっかく話せる言葉をむざむざ死なせたくはないのだろう、日本人と分かっていても、中国語が話せるかどうか訊いてきたりした。中国語=親中国という訳ではなく、かならずしも全てがすべて中国憎しというのでもないくらいは了解できる。つまり、総て中国(共産党)政府が彼等をしてそんな境遇に追いやったのであり、その罪は彼等の云う「中国革命」の死に等しい。

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 宿でも食事はできたが、僧料理で余りに味が淡泊なので、大抵はシャンバラ・カフェやスノーランド・カフェ。元々バナナ・パンケーキ好きだったのもあってシャンバラ・カフェのバナナ・ケーキ、バナナ・パンケーキは常食してしまった。チベット人のカフェやレストランじゃ何故か頻(よ)くケーキのメニューがあるけど、ここのシャンバラ・カフェにもレモンカードやチョコレート・ケーキなんて置いてあった。少し下った静かな場所にもろチョコレート・カフェだったかそこは正にケーキが売り物の少し高級なインド人の店。甘さも適度に抑えた仲々の味ではあった。

 このマクロードガンジでもインド中のどの店と変わることなく、チベタンの店でもインド人少年達が働いていた。(尤もラダックのレーはチベタンが殆どだった)勢い彼等とも顔見知りになり仲良くなってしまうものだけど、後日、僕がダラムサラを出て、リシケシに滞在しデリーに戻ると、ある日本人僧と覚しき中年男に声を掛けられ、一寸前、つまり僕がダラムサラを出てすぐ、何かのトラブルをきっかけにマクロードガンジのインド人達が暴徒化しチベット人や店舗を襲撃し負傷者が出たという。その坊さんの話では、あるチベット人がインド人のタクシー運転手を何かのトラブルで刺殺したのが直接の原因のようだったけど、後に他の旅行者の話を聞くと、身障者のチベット人がサッカーかクリケットの試合でインド・チームが負けたのをからかったのが発端ということだった。それ以前から後から来た難民のチベット人達の方が羽振りがよくなったのが面白くなかったらしい。勿論他にも色々あったろうが、何処の難民地域でも生ずるお決まりの原因とトラブルだ。店舗も投石を受け、シャンバラ・カフェのインド人少年も店の奥で怖くて震えていたらしい。スパイク・リーの《ドゥー・ザ・ライトシング》的情況のど真中にいきなり放り込まれたんじゃそりゃ怖かったろう。一度は、ダライラマも南インドの方に移るような話も出てたらしいが、インド政府も乗りだし、結局そのままダラムサラに留まることになったようだ。当時、マクロードガンジの南に下ったところのダラムサラの住民達が、我々の処に移って来ればいい、大歓迎すると、大半の観光客をマクロードガンジに取られていた麓の地域の商店街の動きも新聞か何かで読んだ記憶がある。

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 マクロードガンジからちょっと行った先に一般に開放された付属図書館があり、同じ敷地内に外人用のレストランまで備わっていて、ともかくシャンバラ関係の資料を探すことに腐心したものの、チベット語はてんで駄目だし、英語も辞書片手ってところでの資料探しは難儀。それでも、英語等で書かれた書物の並んだ外人向けの閲覧室にはニコライ・レーリッヒのやゲサル・リンに関する本はあってもシャンバラに関する文献は発見できなかった。残念至極であった。恐らく、もう一方のチベット語書籍の閲覧室に多々眠っているのだろう。日本語のミラレパの本があり、それを来ては読んでいた。ミラレパは欧米人に人気があるようだった。書店でも何冊か見た気がする。確かに面白い。映画もあるらしいが未見。

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 この図書館と同じ敷地内レストランの下の階に僧堂があって、ある日、ビッグ・ホーンの音が響いてきたので行ってみると、果たして僧達が並んで読経と楽器を奏でている真っ最中であった。白人のカップルが既に端に立っていてその横に並んで聴いていると、坊さんがやってきてマットレスを出してくれ我々は坐って聴くことができた。間近で聴く二台のビッグホーンの響きは素晴らしく、レーの夜のしじまに低く響き渡ったビッグホーンのを想い出した。シンバル、ホーン、チャルメラ(各×2)、太鼓×4、他に小さな鐘の類。途中で演奏を中止し、皆の椀に大きなアルミの薬缶からなみなみとミルク・ティーが注がれていった。我々の前の椀にも。飲み干し再び長々と演奏は続いていった。
 その曲には覚えがあった。ハリウッド映画《アルタード・ステーツ》で使われていた音楽で、何しろライブなので迫力があり素晴らしかった。曲名は分からずじまい。チベット仏教的には曲とは云わないのだろうが。

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 アフガン人と同様人懐っこくいやでも話す機会があり、一人はポカラで事業をやっていて、何年かしたらダラムサラから少しくだった処で技術学校を開設する予定とも話した。「ハンディークラフトばかりじゃ、チベットの発展がない」らしい。ボン教徒の学生も居て、現在のチベットにもまだ生きているとのことであった。
 ある早朝ステートバンク前の通りに差し掛かると、三角旗と白煙がもうもうと立ち籠めていて、何かと思って尋ねるとダライラマが通るという。次第に白布や二本の線香を掲げた人垣も大きくなってゆき大部経って向こうからランドクルーザーがゆっくり走ってきた。運転席の隣に坐った例によって愛想の好いダライラマが覗けていて、映像や写真で見るのと寸分も違わぬ彼であった。

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 この時期、そのルートになっているのか、一日中昼夜の別なく無数の蝶々が下の谷から昇ってきてロゼリンなんかの上を越して反対側の谷の方へ飛び続けていた。こんなのは生まれて初めてお目にかかったが、蝶の道とも呼ぶらしい。上空を茶色の猛禽類がゆっくりと旋回していたりして、正にヒマラヤの麓って雰囲気がもうそれだけで癒しになってしまうダラムサラであった。

 中国政府が次のダライラマを自分達の手中にしようと、眈々と現十四世ダライラマの死後に照準を合わせあれこれ画策しているらしい。ダライラマ側とまともに話し合いをする訳もなかった由縁だ。以前パンチェンラマの選定の時も、ダライラマが選んだパンチェンラマを中国政府が認めるのを拒み、勝手に自分達でデッチあげてしまった事件があった。
 マルクス主義者とか唯物論者を自から認じた権力が、宗教的行事に関与し認めるとか認めないとか強権発動していた日にゃ、信仰の自由が聞いて呆れてしまううが、それ以上に中国共産党が「現実」を前にして思想的に敗北したとも見越されても仕方がない。
 それでもダライラマ、もう可成り高齢で、いいかげん悪名高い米英権力詣でを続ける無能・愚策・失策から卒業すべき時期にきているのではなかろうか。彼の周囲は、下手するとそんな米英の傀儡でがっちり固められている可能性すらありえる。そんなんじゃ、英米企業がチベットに眠る資源狙いに内外チベット人達を操って、第二のイラクにするのも意外と時間の問題かも知れないが、中国も傍観しつづけるばかりではあるまい。

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