チベットの都ラサ 1994
天空の宮殿 ポタラ宮
三月十日は「チベット民族蜂起記念日」らしい。
1959年からもう半世紀、随分と長い間、ダライ・ラマは国外に出たままだが、今だ前途多難なようだ。「解放」の名の下に侵攻した中国共産党=人民解放軍、今だ居座り続け、どころか一層根を張っていたんじゃ「解放」が「植民化」でしかなかったと指弾されても仕方あるまい。そんな訳で、今月はチベット月間と勝手に銘打つことにした。(尤も、特別な企画がある訳ではないが。)
漢族もウイグル族もチベット族もビリヤードが好きなようだ
そもそも僕が海外旅行をするようになったきっかけが《チベット》だった。
'89年の恰度《天安門事件》の起きた年で、結局チベット行きは実現できず、シルク・ロードつまり新彊ウイグル自治区に変更を余儀なくされてしまったけども、5年後、'94年に漸く天空の国・チベット行が実現できた。
ゴルムドからCITSのバスに乗ってゆっくりとチベット高原を昇っていった。
ラサに入る時は皆洗車を義務づけられていたようで、洗車場でホースの水がチャチな作りの窓の隙間から飛び込んできて服や顔を濡らす乗客達も居て、ずぶ濡れになった者を見て乗客のチベット人達は大笑い。
幾度もチベットには来ていたような日本人青年カメラマンI氏と隣り合って、同じラサのバック・パッカー御用達の安宿《ヤク・ホテル》に投宿。大きな門のある回廊風の建物の一階のドミトリー(7ベッド)で、25元。厚めの掛布団に薄めの枕。昼頃から七時までホット・シャワーが浴びられ重宝した。この日当たりの好いドミは日本人ばかりで、他のドミには欧米人達が泊まっていた。
定番巡礼スタイル(元祖バック・パッカー)
バルコル(八角街)、ヂョカン寺(大昭寺)、ギャタ・ラモチェ(小昭寺)そしてポタラ宮殿と定番観光コースを渉猟した。ポタラ宮入口の坂を昇るのに息切れがし、ふと見ると周囲のチベット人達も同様に息を切らしていたのには笑ってしまった。日本人は1元、外人は25元。千室近くある部屋の限られた部屋だけが公開されているようだった。個人的には、ノルブリンカ(離宮)の現・ダライラマ宮の《タクテン・ポタン》の二階にある赤と緑を基調とした中国風の絵の描かれた大きなサイド・ボードが気に入っていて、じっくりと眺めていると係員に因縁をつけられ追い払われてしまって残念至極。仲々に面白い絵だったのだが。
ポタラ宮の前に陣取った駐屯軍は何とも異様だったが、米第七艦隊じゃあるまいし如何にも「プレゼンス」と云わんばかりはちょっと無神経過ぎるだろう。チベット人達の神経を逆撫でするようなもの。西インドのラダック・レーの町も、パキスタンや中国国境が間近に迫っている関係もあってか、インド軍の大きな基地が控えていて、特に民間と共用の空軍基地は、何とも無粋でせっかくの同じチベット圏のラダックの雰囲気を損なって余りあるのと相似。当時も漢族の店可成り並んでいたが、前年でラサの人口十五万でチベット人は三分の一、現在は四、五十万らしくチベット人比率は惨憺たるもの。これじや如何贔屓目に見ても植民化だ。「解放」に完全に背反する。
七月初め、ジョカン寺前の通りを歩いているといきなりツァンパ(麦粉)をかけられた。恰度インドのホーリーと同じで、通りすがる人達にかけまくり、チベット系の公安すらが顔を真っ白にしていた。走ってくるトラクターの後部の荷台に乗った乗客も反対側から走ってくるトラクターの乗客とかけ合いをする始末。僕は見なかったけど水掛すら行われていたらしい。
ダライラマの誕生日だったらしい。ラサの何カ所かでパコダ風の作りの大きな香炉に香木や油なんかを参詣者達が次から次へと放り込み、広場は白煙で濛々としていた。郊外の橋の辺りにもあって、そっちは危ないという話だったが何も起こらなかった。近くの高台に自動小銃を手にした武装警察らしき姿が見られただけ。
タルチョの小旗はためく丘の上では、ルンタ(神馬)の絵を五色の薄紙に印刷した小さな護符の束を、念仏かマントラを唱えながら頭上高く撒いていた。風で高く舞い上がって遠くまで飛んでゆく様は爽快であり又ある種の感慨を抱かせる。正に絵に描いたようなチベット的光景。
小昭寺斜め前のチベッタン茶店は狭い店内の両側に椅子とテーブルがぎっしりと並べてあり、チャイが零れたりすると直ぐに小姐が布巾で拭いてくれる。薄暗い店内に老若男女がひしめいて、チャイやモモ(チベット餃子)を頬張りながら談笑する。見上げると天井に、イスラムの茶店のそれを想わせるプリント地の布が張ってあった。やがて隣のテーブルの老婆の前に運ばれてきた皿の上の白いモモから仄かにゆったりと湯気が立ち上っていた。
ラサではチャイ(ミルク・ティー)が2角。味は悪くなく、ラサの何処でも飲めるのが嬉しかった。ヤク・ホテルの前の通りから更にジョカン寺方面に折れた小花子路辺りに店が並んでいて、頻く昼食のツクパを食べに通ったけど、今じゃ随分と様変わりしたであろう。
一週間ほどサムイェに滞在し戻ってきてから、二階部屋に《旅行人》編集部一行が現れた。
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