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2010年4月の5件の記事

2010年4月30日 (金)

昏いモノクロ世界 《饑餓海峡》

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   錯覚、つまり記憶的錯誤ってのは頻(よ)くあることだ。
 てっきり終戦直後の、まだ仄暗いモノトーンの"闇市"のイメージの残った世界そのままに脳裏に刻印されていたはずが、三国連太郎、伴淳三郎、高倉健などの名前に、思わず"?"と困惑してしまった。終戦直後に高倉健はちょっとおかしい・・・三国と健さんは東映・深作欽二監督の《狼と豚と人間》で共演していたし・・・それが終戦直後はあり得ない。制作年代を確かめてみると、果たして昭和40年(1965)であった。何のことはない三国と健さんが兄弟役を演っていて、十代の北大路欣也や小林稔侍なんかがインド映画ばりにミュージカル・シーンを演っていた《狼と豚と人間》が公開になった翌年だ。何故か、映画の設定時代を制作年代と短絡させていたのだけど、こんな簡単な矛盾を犯してしまうのは、その元情報と可成り疎遠になってしまった記憶の風化に拠るものだろうか。

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 林芙美子・原作、成瀬巳喜夫監督の《浮雲》がその十年前の1955年で、その頃はまだ東京にも戦災の焼け野が原が残っていて画面にも登場したけど、この60年代の《饑餓海峡》にも下町の雑然とした景観が背景として使われている。しかし、終戦直後にしては、登場人物達、いずれも、ふっくらと栄養いき届き、むしろ飽食の感すら呈し始めた風貌と身体じゃ、戦前・戦中・戦後を知り抜いている監督・内田吐夢、さすがそれなりの精細度の当時のフィルムはまずいと、粗い16ミリで撮ったのを35ミリに変換した"東映W106方式"にせざるを得なかった由縁。何しろ"饑餓"海峡なのだから。

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 この映画、初見で、水上勉の原作も未読。
 満映の大御所だった内田吐夢、戦後は東映で《大菩薩峠》、《宮本武蔵》がシリーズ化していたが、この映画の上映時間を東映が短縮してしまい、承伏できず退社。オリジナルを会社側の営業上の理由等で短くカットしてしまうのは洋の東西を問わず何処も同じで、最近じゃ、ビデオで"ディレクターズ・カット"版として復活することが多い。僕が観たビデオもオリジナル版。

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 飢餓海峡。それは日本の何処にでもみられる海峡である。
 その底流にわれわれは、貧しい善意に満ちた人間の、ドロドロした愛と憎しみの執念を 見ることができる。 
 
  と、冒頭、ニュース、ドキュメンタリー調のナレーションが入る。
 青森=北海道間の津軽海峡をのみ意味するのではない、日本中に一般化されたものとしての《饑餓海峡》。この場合、海峡本来の意味は無化され、せいぜい断絶あるいは狭いところでせめぎ合う奔流ぐらいのニュアンスが残るだけだすると、日本=韓国を舞台にしたドロドロした愛と憎しみの執念の因縁譚たる唐十郎の《実録・玄界灘》なんかも、拡張されたものとしてそのカテゴリーに入ってしまうのだろう。        《》
 確かに、戦中・終戦直後は日本中(少なくとも都市部は)皆飢えていたろう。そして、又、社会構造的に、貧しい者達は戦前からでも同様であったろう。一人の"貧しい善意に満ちた人間"に過ぎなかった主人公の復員兵・犬飼(樽見)とヒロイン娼妓・八重は共に戦前から底辺で呻吟し、何としてもその苦境から這い出そうと藻掻き続けてきたのであった。それが、ふとした偶然のきっかけで、大金を得てしまうが、それが容易成らざる出自の金の故に、因果・因縁の展開図さながら、更なる偶然の契機に導かれるように邂逅し一つの環を閉じる。《大菩薩峠》にも通じる仏教的な匂い。

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 昭和22年、津軽海峡で青函連絡船・層雲丸が台風に巻き込まれ沈没し大騒ぎ。それよりちょっと前、日本海側に面した北海道・岩幌町で大火があり、そこの質屋を襲った二人組が放火したのが発端らしい。二人は駅の待合いで待機していた復員兵・犬飼(三国連太郎)の買っていた切符で函館に逃亡。折からの台風と連絡船沈没で騒然たる情況の最中、混乱に紛れて借りた手漕ぎ小舟で対岸の青森・下北半島仏ヶ浦に辿り着く。途中の海峡の上で、網走刑務所を出所したばかりの二人組が仲間割れし犬飼すらを襲おうとして逆に大男の犬飼に荒れた海に叩き落とされてしまい溺死。証拠隠滅のためにか小舟を断崖の上に引き上げ焼却。

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 これは実際には昭和29年(1954)9月26日五隻の青函連絡船と1430名の死亡者を出した《洞爺丸事件》と同年岩内町で起こった台風15号による強風で全家屋の80%を焼失する大火災に見舞われた事件とを元に、未だ混沌とした終戦直後に時代を遡って設定し直したもの。仏ヶ浦は断崖・奇岩で有名でその奇勝に浄土を重ねた名称が付されているという。苦境からの脱出を図った彼等には何とも相応しい場所ではあった。その後方にあの恐山が聳えているという。映画の合間合間にイタコ(口寄せ霊能者)のおどろおどろしいショットが入るのも、一層雰囲気を盛り上げている。

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 予想だにしてなかった大金を手中にした犬飼、ひとまず安全な本土に逃げおおせ、乗り込んだトロッコ電車の中で、小学校を出て直ぐ娼妓の世界に入った八重(左幸子)に出遭う。戦前は小学校卒が一般的な学歴で、その後男女それぞれが商家や工場に働きに赴いたのであって、別段八重が特別な境遇という訳でもないけれど、やはり娼妓は出来るだけ避けられた職域だったであろう。人見知りしない大らかな八重は、親切な犬飼に好感を持ち、物欲しげな飢えた犬飼ににぎり飯をやる。貪ぼる犬飼。その善意と善意の交歓が機縁となって、やがて十年もの間を置いて後の、破滅への邂逅へと収斂してゆくこととなる。同じ社会派推理小説でも松本清張とは又趣きの違った水上勉の作風、と云っても、原作を知らないあて推量だけど、実際は如何なのだろう。

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 八重の部屋で睦み合うというより、一方的に犬飼に惚れた八重がむしゃぶりついたって処だが、犬飼別れ際に大金の幾らかを八重に渡し足早に去って行く。新聞紙にくるんだ札束に仰天した八重は寝間着のまま犬飼を追ったが既に犬飼の姿はなかった。伸びていたので切ってやった犬飼の大きな爪を一つ大事そうに紙に包んで、自分が今まで如何なに足掻いても手に入れられなかった大金、その金で家族の借金も返せ、兄弟にもまとまった額のものを渡せ、後は自分一人の身のことばかりにかまけていれば好い恵まれた境遇にしてくれた犬飼への恋慕と感謝の念を捧げる犬飼の分身として何時までも大事に行李(こうり)の奥に仕舞うことになる。これ以降、犬飼が北陸の町で篤志家として新聞記事に載る日まで十年、杳として行方知れずの犬飼と再会することはなかった。

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 犬飼が去って幾らもしない内に、函館署の刑事・弓坂(伴淳三郎)が現れ、犬飼のことを尋ねるが嘘で誤魔化し、今度こそはと正業に就いてまっとうな生活を送ろうとさっさと東京に向かう。しかし、東京でも結局似たり寄ったりの仕事しかなく結局娼妓に戻ってしまう。そこで五年ほど働き贅沢もせずコツコツと金を貯め、せめて一度でもいいから犬飼に再会し一言礼を云う機会を待ち続けた。
 と、ある日、売春防止法条例発効の日が後半年に迫り、置屋の旦那が今後の女達の身の振り方などを皆で相談しようとした時、ふと拡げてあった新聞に視線を落とした八重は暫し己れの眼を疑った。北陸・舞鶴の篤志家の記事が載っていて、何とそこにあの犬飼によく似た人物の写真があるではないか。犬飼に間違いない、八重は直感した。

 早速舞鶴に向かい件の篤志家・樽見に会いに行く。成功した企業家として様々な慈善事業にも関わってきていて地元では既に高名で、屋敷を訪れると脚の悪い妻が応対に出た。八重の追求に樽見なる男は頑なに犬飼であることを否定し続けたものの、降り出した雨に窓を閉めようとして伸ばした片手親指の傷で八重にバレてしまう。狂ったように男にしがみついた八重に、男も諦め認めてしまい抱き合うが、遂手に力が入ってしまったのか、意図的にか八重の首の骨が折れてしまう。陶酔の極みに死んでしまった故にか愉悦を湛えた八重の死顔に、思わず嗚咽を洩らしてしまう樽見=犬飼。と、そこに茶を持って書生が現れ、詮方なく書生をも首を絞めて殺害してしまう。

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 舞鶴警察(署長・藤田進)の捜査も直ぐに暗礁に乗り上げてしまった。死体確認にわざわざやって来た八重の父親が洩らした言葉に、一縷の光明の如く活路を見出す。十年もの以前、函館警察がひげ面の大男のことを尋ねに来た、と。早速函館に弓坂刑事を訪ねる。例の質屋殺しの網走刑務所を出所した二人を殺害した犯人を取り逃がし既に退職し、つぶしもきかず刑務所職員となって細々と生きていた弓坂であったが、急遽舞鶴署の捜査員(高倉健)と一緒に舞鶴に向かい捜査に協力する運びとなる。一筋縄ではいかなかった樽見であったものの、弓坂の差し出した嘗て仏ヶ浦で三人の乗った小舟を焼いた灰の入った袋包みを見せられ、号泣し崩れ落ちる。
 結局北海道に捜査員達と共に戻り、そこで自分の足取りを明らかにするという樽見の求めに応じ、漸く津軽海峡を青函連絡船で渡ることとなった。弓坂が死者達の冥福を祈るための献花を樽見に渡し自身が先ず昏い色を湛えた海峡に放り投げ読経する中、すっくと立ち上がり施錠したままの樽見も弓坂の横にデッキをゆっくりと歩き出した次の刹那、脱兎の如く手摺りを飛び越え、白波の大きくうねる昏い海へと飛び落ちていった。

 自民党半世紀支配の帰結としての恒久的不況故に、《蟹工船》がもてはやされる時代相、正に列島中《饑餓海峡》的情況の蔓延する現在、半世紀近く過っても、未だ説得力のあるストーリーと映像。
 犬飼=樽見役の三国を観ていると、ふと1973年制作の吉田喜重監督《戒厳令》での三国演じる北一輝を想い出した。妙に病的な北一輝ではあったが。

 監督 内田吐夢
 脚本 鈴木尚之
 撮影 仲沢半次郎
 音楽 富田勲
 
 樽見京一郎/犬飼多吉:三國連太郎
 杉戸八重:左幸子
 弓坂吉太郎刑事・元刑事:伴淳三郎
 味村時雄刑事:高倉健
 杉戸長左衛門:加藤嘉
 荻村利吉東舞鶴警察署長:藤田進
 制作 東映 1965年作品

2010年4月24日 (土)

追憶の白蘭花 《上海游記》芥川龍之介

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  大正十年(1921年)三月下旬から四ヶ月近く、大阪毎日新聞の紀行文執筆のため、中国を旅した芥川龍之介。元々中国趣味の強かった龍之介の中国への憧憬と眼の当たりにした現実の中国との落差と増幅、仲々にシニカルで龍之介の面目躍如として面白い。中国人から見れば些か業腹かも知れない。実際、怒った中国人作家も居たらしい。又、当時の日本人の中国に対する感情と意識が覗けてもいる。大正の日本人の好個の中国・中国人論でもある。

 三月二十一日、門司から、日本郵船の英国製「筑後丸」に乗り、二昼夜かけて魔都・上海へ上陸。(因みに、この「筑後丸」、翌年には需要の増大で豪華船と入れ替わり、南洋航路に配置転換される)
 初めての船旅らしく、玄界灘に入ると早速海が荒れだし船酔いに襲われたものの、見栄で何とかやり過ごせ、翌日には右方に韓国・済州島の島影が望めたらしい。現在の上海=神戸の航路は基本的には四国・鹿児島沖を通過だけど、台風なんかのある時は、関門海峡を通る瀬戸内海ルートに変わるので、やっぱし博多沖を走る折なぞ、遠くにひょっとして済州島の影でも垣間見えるのかも知れない。下手すると、僕も鑑真号か蘇州号の甲板から見ていた可能性もあるけど、十年以上も以前のことなどで定かでない。

 埠頭を出た次の刹那、怒濤のように迫ってくる怪しげな風体の力車曳きの猛攻に遭って、さすがの龍之介もたじろいだのは、僕も初めての旅で上海空港の外に一歩出た時、群がった現在の力車曳きたるタクシーの運転手達が、しかも夜の上に照明が暗くて尚更悪相が際立って殆ど凶相に見えてしまったのと同様。結局龍之介は馬車に乗り、予定のホテルは断り、虹口の日本人ホテル《万歳館》(西華徳路=現・長治路:浦江飯店からフェリー乗り場に向かう大名路の一つ上の通り)に投宿。

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 「その露地を向こうへつき当たると、噂に聞き及んだ湖心亭が見えた。湖心亭と云えば立派らしいが、実は今にも壊れ兼ねない、荒廃を極めた茶館である。その上亭外の池を見ても、まっ蒼な水どろが浮かんでいるから、水の色などは殆ど見えない。池のまわりには石を畳んだ、これも怪しげな欄干がある。我々が丁度其処へ来た時、浅葱木綿の服を着た、辨子の長い支那人が一人、・・・悠々と池へ小便をしていた。陳樹藩が叛旗を翻そうが、白話詩の流行が下火になろうが、日英続盟が持ち上がろうが、そんな事は全然この男には、問題にならないのに相違ない。少なくともこの男の態度や顔には、そうとしか思われない長閑さがあった。曇天にそば立った支那風の亭と、病的な緑色を拡げた池と、その池へ斜めに注がれた、隆々たる一条の小便と、──これは憂鬱愛すべき風景画たるばかりじゃない。同時に又わが老大国の、辛辣恐るべき象徴である。私はこの支那人の姿に、しみじみと少時眺め入った。
 ・・・『ご覧なさい。この敷石に流れているのも、こいつはみんな小便ですぜ。』
 四十起氏は苦笑を洩した儘、さっさと池の縁を曲がって行った。そう云えば成程空気の中にも、重苦しい尿臭が漂っている。この尿臭を感ずるが早いか、魔術は忽ちに破れてしまった。湖心亭は畢に湖心亭であり、小便は畢に小便である、私は靴を爪立てながら、匆々四十起氏の跡を追った。出たらめな詠嘆なぞに耽るものじゃない。」 

  七十年ほど前(当時から)の小刀会・太平天国の乱の頃に破壊・荒廃があって後復興したらしいけど、この頃はもう随分と惨憺たる状態になっていたようだ。今じゃ豫園の湖心亭は有名観光コース。大正の時代でも既にそうだったらしい。僕も好きで三回ぐらいは菓子付きのセット・メニューを頂いたが、時間が遅くなると団体客で溢れ返るのが嫌で、いつも早めに開店と同時に訪れ、ゆったりと烏龍茶と周りの豫園の風景を満喫したものだった。中国もすっかり様変わりし小綺麗になって、今時あの池に立ち小便する中国人って居るだろうか?それこそ公安や民警にしょっ引かれかねない。

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 「(京劇役者の)蓋叫天だの小翠花だのは、もう引き合いに出して置いたから、今更別に述べる事はない。が、唯一つ書いて置きたいのは、楽屋にいる時の緑牡丹である。私が彼を訪問したのは、亦舞台の楽屋だった。いや、楽屋と云うよりも、舞台裏と云った方が、或いは実際に近いかも知れない。兎に角其処は舞台の後の、壁が剥げた、蒜臭い、如何にも惨憺たる処だった。何でも村田君の話によると、梅蘭芳が日本へ来た時、最も彼を驚かしたものは、楽屋の綺麗な事だったと云うが、こう云う楽屋に比べると、成程帝劇の楽屋なぞは、驚くべく綺麗なのに相違ない。おまけに支那の舞台裏には、なりの薄きたない役者たちが、顔だけは例の隈取りをした儘、何人もうろうろ歩いている。それが電燈の光の中に、恐るべき埃を浴びながら、往ったり来たりしている容子は殆百鬼夜行の図だった。 ・・・舞台では細面に見えた顔も、今見れば存外華奢ではない。寧ろセンシュアルな感じの強い、立派に発育した青年である。背も私に比べると、確に五分は高いらしい。
 ・・・私は彼に、玉堂春は面白かったと云う意味を伝えた。すると彼は意外にも、『アリガト』と云う日本語を使った。そうして──そうして彼が何をしたか。私は彼自身の為にも又わが村田烏江君の為にも、こんな事は公然書きたくはない。が、これを書かなければ、折角彼を紹介した所が、むざむざ真を逸してしまう。それでは読者に対しても、甚済まない次第である。その為に敢然正筆を使うと、──彼は横を向くが早いか、真紅に銀糸の繍をした、美しい袖を翻して、見事に床の上へ手洟をかんだ。」
 (注・緑牡丹は出版社の誤殖らしく、初出は白牡丹と明記されていたらしい。二人は全く別の役者。)

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 この白牡丹(本では誤植の緑牡丹)、かの梅蘭芳と並ぶ四大名旦の一人で、なよとしたすこぶる美形だったらしい。龍之介の記述によれば、少なくとも舞台の上では。それが鬘を外すと、すらりとした好青年で、会話の途中で、チン!と手洟(手ばな)をかんでみせた。すっかり京劇・高名な名旦に魅入られていた龍之介には、何ともショッキングな体験だったに違いない。丁度最近映画にもなった梅蘭芳が、あの華麗な衣装のまま、ふと横を向き手洟をかむのと同じなのだから。
 日本では少なくとも室町時代ぐらいからは洟紙は懐に忍ばせていたらしい。17世紀のヨーロッパですら庶民はハンケチでなけりゃ手洟で、和紙の発明国たる中国も気候の関係でそれほど大量に生産は出来ず、そんな習慣が一般化することはなかったようだ。あの魯迅も毛沢東も江青もそうだったんだろうか。
 否、これは、何も戦前の事情というばかりじゃなく、今現在も、中国人達の大半がそうという話だ。幾ら何でも女達はティッシューかハンケチを使うだろうが如何も男達って相変わらず。尤も、それはあくまで大陸の方であって、他の中国圏は別と思う。僕も中国で中国人が手洟をかんでいる光景なんてお目にかかったことはそれほど多くはない。その代わり吐痰はあっちこっちで見掛けたし有名。でも日本国内でも事情は似たり寄ったりの程度問題。

  「・・・私が大勢美人を見たのは、神州日報の社長余洵氏と、食事を共にした時に勝るものはない。此も前に云った通り、小有天の楼上にいた時である。小有天は何しろ上海でも、夜は殊に賑やかな三馬路(現・漢口路 :福州路(=四馬路)の一つ上の通り)の往来に面しているから、欄干の外の車馬の響は、殆一分も止む事はない。楼上では勿論談笑の声や、唄に合わせる胡弓の音が、しっきりなしに湧き返っている。
 ・・・林黛玉の梅逢春がやっと一座に加わったのは、もう食卓の鱶の鰭の湯が、荒らされてしまった後だった。彼女は私の想像よりも、余程娼婦の型に近い、まるまると肥った女である。顔も今では格段に、美しい器量とは思われない。頬紅や黛を粧っていても、往年の麗色を思わせるのは、細い眼の中に漂った、さすがにあでやかな光だけである。しかし彼女の年齢を思うと、──これが行年五十八歳とは、どうも考えても嘘のような気がする。まず一見した所は、精々四十としか思われない。特に手なぞは子供のように、指の付け根の関節が、ふっくりした甲にくぼんでいる。・・・それが耳環にも腕環にも、胸に下げた牌(メダル)にも、べた一面に金銀の台へ、翡翠と金剛石とを嵌めこんでいる。中でも指環の金剛石なぞは、雀の卵程の大きさがあった。これはこんな大通りの料理屋に見るべき姿じゃない。罪悪と豪奢が入り交じった、たとえば『天鵞絨の夢』のような、谷崎潤一郎氏の小説中に、髣髴さるべき姿である。」
 「・・・やや退屈を覚えた私は、部屋の中をあちこち歩いた次手に、そっと次の間を覗いて見た。すると其処の電燈の下には、あの優しい花宝玉が、でっぷり肥えた阿姨と一しょに、晩餐の食卓を囲んでいた。食卓には皿が二枚しかない。その又一つは菜ばかりである。花宝玉はそれでも熱心に、茶碗と箸とを使っているらしい。私は思わず微笑した。小有天に来ていた花宝玉は、成程南国の美人かも知れない。しかしこの花宝玉は、──菜根を噛んでいる花宝玉は、蕩児の玩弄に任すべき美人以上の何物かである。私はこの時支那の女に、初めて女らしい親しみを感じた。」

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  南国の美人の章では、心なし龍之介の筆致も些か弾んで見える。
 内装は今一の《小有天》で愛春という美人や燦然と着飾った鴻、薄命の美人・洛娥、天竺という名の小玉等次から次へと妓女達が現れる。如何も龍之介は花宝玉が一番気に入っていたようで、支那の女の一番の美しいのは耳で、これは日本の女達の到底敵う所ではないと断じ、花宝玉の耳を「丁度小さい貝殻のような、世にも愛すべき耳」と賞賛することしきり。ふと垣間見た、その美人妓女の黙々と二皿の食事に余念のない姿に、思わず龍之介は、安心を覚えたのだろう。そして更なる親密さを抱かしめたのでもあろう。
 上海を離れ、安徽省・蕪湖を訪れるべく長江(揚子江)を遡航する鳳陽丸に乗り込んで、龍之介は、暗い黄浦江の水に厭いて、人気のないサロンでふと、ポケットから取り出した前夜赴いた支那芝居の戯単(プログラム)の間から落ちた白蘭花を拾いあげた。
 
 「『白蘭花、白蘭花』──そう云う花売りの声を聞いたのも、何時か追憶に過ぎなくなった。この花が南国の美人の胸に、匂っているのを眺めたのも、今では夢と同様である。私は手軽な感傷癖に、堕し兼ねない危険を感じながら、素枯れた白蘭花(パレエホア)を床に投げた。」

             芥川龍之介《上海游記・江南游記》(講談社文芸文庫)

2010年4月17日 (土)

《狼山喋血記》1936年の黎莉莉と江青(藍苹)

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   1930年代の中国映画界、阮玲玉や周旋等大明星(大スター)と並んで人気のあった黎莉莉(リー・リリー)も周旋(チョウ・シュワン)と同様、上海の《明月歌舞団》で頭角を現し、王人美、胡笳并等と共に゛四大天王゛と呼ばれ、王人美(ワン・レンメイ)は歌唱で、黎莉莉は舞踏に秀でていたという。
 阮玲玉(ルアン・リンユィ)とも《小玩意》や《国風》で共演したことがあり、《体育皇后》、《大路》(1934)や《孤岛天堂》(1939)等が代表作。

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   北京(当時は北平と呼ばれていた)生まれで、両親が中国共産党の地下活動家、家で秘密会議が開かれている時などまだ小さな莉莉は家の前で見張り役なんかさせられていたらしい。そんな不安定な家庭で孤児院にすら預けられたりもし、不遇な少女時代を余儀なくさせられたものの、1926年十一才の折《燕山侠隠》に出演。十二才の時、上海の黎錦暉主催の《明月歌舞団》に加入し、彼女の本領発揮の舞台・銀幕女優としての人生が始まることとなる。舞踏(ダンス)に傑出していたようで、可愛い容貌でもあり、北京生まれなので綺麗な北京語も話せ、団長の黎錦暉にすっかり気に入られてしまって、中国各地・東南アジアの国々に公演の旅に出ることにも。
 歌舞団が1931年、映画会社の名門《聯華影業公司》とタイアップし、彼女も銀幕女優としての道を歩み出すことになる。翌年、早速、孫瑜監督《火山情血》で主演。《体育皇后》でブレーク。この《体育皇后》で阮玲玉等と共にすっかり「摩登女郎(モダン・ガール)」の象徴としてのポジションを獲得。そしてこの費穆(ムー・フェイ)監督《狼山蝶血記》、1936年一月に結成された《上海電影救国会》の日本軍の中国侵略に抗する民族解放=国防映画として作られた作品で、かの文革四人組の女帝・江青が助演している作品でもある。

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    黎莉莉(小玉)と藍苹(劉三の妻)

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 藍苹=江青のクローズ・アップ  恐らく藍苹が監督に執拗に無理強いしたのだろう。 

 ある山奥の村に狼が群れなして出没するようになり村人や家畜が襲われたりして困っていた。一人狼と戦い続けてきた猟師の老張や勇気ある何人かの者達が鉄砲(猟銃というより鉄砲)を片手に狼達を成敗し始めたものの、多勢に無勢、一向に成果も上がらず、やがて主人公・小玉(黎莉莉)の父・李老爺や劉三の赤ん坊、茶館の親爺(老板)・趙二の息子までが相次いで狼群に襲われ殺されてしまう。嘗て幼い頃実の兄をも狼に喰い殺されていた小玉が村の者達に叫ぶ。
 「みんな、こんな風に死んでゆくのを待つだけ!」               
 集まった村人達も次から次へと鉄砲や武器を取り、悪辣・凶暴な狼達を殲滅するぞとばかり一斉に狼狩りに出発する。「お前も、俺も、みんな狼どもをやっつけよう・・・」と、《打狼歌》を唄いながら。

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 ストーリーは単純で分かり易く、凝った作りはしてない。
 基本的には抗日運動のプロパガンダ映画なので、出来るだけ多くの大衆に観て理解して貰わなければならないから当然だろうが、解放後の中華人民共和国が成立してからの、共産党独裁的な「プロパガンダ映画」とは一線を画した、あくまで民族解放運動としてのだから教条主義的ではなく、まだ観れる作りではある。この手の映画って、ハリウッド映画にも日本映画にも頻くあるパターンで、問題は如何に作るかだろう。
  費穆監督のこの映画、一回観た限りでは、特筆するようなものではなかった。中国の「国防映画」というあくまで歴史的記念碑的作品というところに意味があるのだろう。
  勿論、狼とは侵略してきた日本軍の寓意。簡単に誰にでも分かる例え話だ。況んや当時の中国人達には。日本軍に武器を取って起ち上がろう、という素朴なプロパガンダ。もはや新人ではない、《体育皇后》で水着姿を披露し、雑誌にすら水着姿を載せてその大胆さが話題になった、今風に云えばグラビア・アイドルってとこだろうか、正にモダン・ガール、モガの代表的女優となっていた莉莉、それが村の娘役で愛国映画に主演するとは、阮玲玉や周旋も同様であったが、正にそんな時代の中国の情況ではあったのだろう。

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    黎莉莉 「甜姐」と呼ばれたらしい。

  この映画のもう一つの見所は、《紅色女皇》こと、西太后とその凶悪を並び称される毛沢東の妻たる若き江青が出演しているってところだろう。江青は延安に去ってからの名で、演劇・映画界の頃は、藍苹(ランピン)。江青って何故か小柄なイメージがあるが、当時から大柄な女で、中国で一番最初に女性のヌード・モデルをつかって絵を描いたといわれる劉海粟が彼女のヌードを描いたらしく、彼に云わせると、間違っても美人じゃないけど、衣服を脱ぎ捨てた彼女の裸体・身体は素晴らしいものだったらしい。そしてセクシャルな意味でも「好い」らしく、多くの男達が群がったようだ。当然彼女自身も「泥棒猫」呼ばわりされてたらしい。あの《街角の天使》に主演した当時の中国映画界屈指の人気男優・趙丹も、1934年に彼も参加した話劇《ノラ(人形の家)》に藍苹が主演に抜擢され、好評だった頃だろうか、如何も同棲していた噂もあるらしく、そうなると、後日の1936年四月の杭州・六和塔での集団結婚式でも趙丹、藍苹は別々の伴侶と参加しているし、更に有名な文化大革命時の藍苹=江青の趙丹を投獄しての苛烈な仕打ちも、単に証拠隠滅だけじゃなく、もっとドロドロした、あたかも実は刑死してなかった川島芳子と初恋の山家亨少佐との関係にも似た骨肉の怨念的確執という面もあったのかも知れない。当然、美専の校長・劉海粟も文革時には難を蒙っている。

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 藍苹=若き江青。 不遇な環境から抜け出せ、束の間の得意の時代。

  この映画で藍苹と共演したお陰で、黎莉莉は難を免れたという。
 確かに、四人組の女帝・江青が出演していたから誰も批判は憚られたろう。下手すると「反革命罪」で投獄・死刑が待っているだろうから。それでも、黎莉莉の夫・羅静予は捕らえられ自殺してしまったらしいが。監督の費穆、撮影当時、藍苹が出番が少くな過ぎると五月蝿くて難儀したらしいけど、映画観れば一目瞭然、《街角の天使》に当時演劇界で脚光を浴び始めた小雲役の趙慧深の同じ脇役でもが出番と役回りが較べようもないくらいの端役に過ぎない。これはプライドだけは人一倍強そうな藍苹=江青の恨みを買ったろう。 それ故にか、趙慧深、文革で可成り散々な目に遭わされ恨みを呑んで自殺を余儀なくされたのが、監督の費穆の方は、解放=中華人民共和国成立後幾らもしない内に死去してしまい、幸いにも文革での苛烈な憂き目を見ないで済んだ。恐らく、生きながらえていれば、殺害=自死の定かならぬ死が待ち受けていたろう。 因みに、藍苹、《明月歌舞団》の入団試験を受け落ちたという話もあるらしい。

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 時代の寵児・才媛=王瑩。江青の奸策により文革期に獄死(=殺害) 

  ところで、この《狼山喋血記》の頃、藍苹の居た《業余劇人劇団》で夏衍の゛国防戯劇゛《賽金花》の主役の座を巡って藍苹と以前からの才媛の売れっ娘・王瑩(ワン・イン)と争い、結局王瑩達が劇団を出て《四十年代劇社》を結成し《賽金花》を上演。李鴻章役に金山。大当たりしたようだ。藍苹は《業余劇人劇団》で《大雷雨》のヒロイン・カテリーナを演じたものの声望は下り坂。
 王瑩、この頃既に話劇に映画に活躍していて、後も多芸多才振りを発揮し、東南アジアや米国にすら脚を延ばしていたけれど、文化大革命で、当然藍苹=江青のその《賽金花》の主役争いの恨みを晴らされ、【三十年代黒明星】や【米国のスパイ】とかの嫌疑の下に夫と共に逮捕・投獄され七、八年もの獄中生活の末怨みを呑んで獄死。
 正に文革こそ《狼山喋血》ではなかったろうか。

   周旋=旋は、左に王偏が付く。  喋血=血塗れ。

   「明月歌舞団」は、ブログ「北京東京趣聞博客」が比較的詳しい。

   

 黎莉莉   小玉
 張翼    老張
 劉琼    劉三   
 藍苹    劉三妻
  洪警鈴   趙二先生
  尚冠武  李老爺

 監督   費穆
 脚本   沈浮・費穆
 撮影   周達明
 作曲   任光 ....
 作詞   安娥   
  制作   聯華影業公司 1936年(上海)

2010年4月10日 (土)

血塗れの癒し物語《アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン》

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   トラン・アン・ユン監督の新作、予告編なんかではかなり商業主義性の強いアクション映画って感じで、これはフランス映画だが、ハリウッド狙いかとそっちの期待を抱いて観てみたんだけど、到底商業主義からは遠く、トラン・アン・ユン監督のお決まりのモチーフは相変わらずで、キムタクが擬せられた新イエス・キリストが妙に唐突の、いかにも゛現代゛風のテーマではある。

 なぜキムタクか、は監督自身の問題だけど、他に韓国のイ・ビョンホン、米国のジョシュ・ハーネストの三人皆それぞれ売れっ子俳優らしい。ホモセクシャルな香りを漂わせ、三人の若い男達は、裸身を晒け出し、傷つけられた傷口から真紅の血が滴り落ちる。この映画、嫁さんのトラン・ヌー・イエン=ケーと香港のトニー・レオンが共演した《シクロ》と同じモチーフが更に鮮明な形で現れている。《シクロ》じゃちょっとベトナム=フレンチ風の耽美主義って趣きだったのが、ここではエグイまでに、しかし、描写にかなりブレがあって、それが如何もしっくりこなく、も一つ曖昧。

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 《悪魔を憐れむ歌》の冒頭、ちょっとエキセントリックな死刑囚の役がはまっていたイライアス・コティーズ、ここでもエキセントリックな連続猟奇殺人犯のアーチスト役が決まっている。冒頭、拳銃を構えた刑事クライン(ジョシュ・ハーネスト)が電話で呼び出されて現れる彼のアトリエで、彼、二十四人も殺害しそれを素材に自らの彫像を作り上げた自称芸術家ハスフォードは、自らの芸術の最終的完成をたくらんで待っていた。そして、バットでクラインを襲い、滅多打ちにし、
 「イエスの苦悶は 終末まで続く」
 と意味ありげに呟いてみせる。
 クラインはハスフォードに仕組まれたかのように、ハスフォードを射殺し更に首まで切り落としてしまっていた。アトリエに配された被害者達のグロテスク且つエキセントリックに誇張されねじれた彫像の一素材の如く。斬首のシーンはもっと後に出てくるのだが、連続猟奇殺人犯の射殺の手柄で、刑務所にも精神病院にも行かずに済んだようだ。

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 それから二年後、ある世界的な製薬企業経営者の息子シタオ(キムタク)の捜索・連れ戻しの依頼を、殺人犯ハスフォード殺害で精神障害をきたして免職になったクラインが受けることになる。行方不明になったシタオを捜してフィリピンに赴くが、そこでシタオが射殺され死体をジャングルに放置されたと聞かされる。父親の送金でシタオは孤児院を開いていたけど、その金が尽きると、地元の資産家達の屋敷を訪れ資金提供を求めて回るようになり、質の悪い輩の処に向かいそこで拉致されジャングルで射殺されたという。
ところが香港での消息が明らかになり、クライン早速香港に飛ぶ。
 旧友の刑事メン・ジー(ショーン・ユー )を訪ねて香港警察に向かう。
 おりから地元のマフィア、ス・ドンポ(イ・ビョンホン)一味を捜査中のメン・ジー、彼のオフィスのガラス壁越しの隣室で、シタオが身体の無数の傷跡の写真を撮っていたのだった。クラインはシタオの脱ぎ忘れたままの上着を見つけ、シタオが香港でまだ生きているのを確信する。

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 ス・ドンポのアジトから、ひょんなことから野原に住み着いたシタオの掘っ立て小屋で助けられることとなったス・ドンポの愛人リリ、麻薬中毒の禁断症状が出て、懸命なシタオの介抱のお陰で快癒する。実は、シタオは他人の苦痛を身代わりに引き受ける能力を持っていたのだった。小屋の外には既に多くの苦痛を抱えた人々が待っていた。
 しかし、ス・ドンポは最愛の女リリを奪われたと、シタオを小屋の中で射殺する。が、シタオは死ぬこともなく、撃ち込まれた弾痕から血が流れながらも、ス・ドンポに、
 「お前は俺が怖いんだ」
 と呟く。ス・ドンポの配下が、一枚の板の上に交差して寝かせ、両掌を釘で打ちつける。
 泣き叫ぶリリを連れてス・ドンポは退ち去り、「現在の救世主」を求める芸術家が現れ救世主の印の金泥を塗りたくってゆく。最期にクラインがやってきて、恰度十字架の形に地面に横たわったシタオの傍に近づいてゆき、シタオが何者か尋ねると、
 「父上の遣いとしてやってきた」
 と応える。
 これは、正に死に往くキリストの傍に天界から駆け寄ってきた使いの言葉ってアナロジーなんだろう。勿論シタオがそこで死んだかどうかは詳びらかにされることなく映画は了わる。

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 冒頭のハスフォードの「イエスの苦悶は 終末まで続く」が、イエスの「死」=終末でなく世界の終末を意味しているなら、シタオは死ねず、更に生き続けることになる。
 シタオの小屋の外に無数の悩める人々がシタオに癒されようと群らがる光景に、シタオの死を予感したのかそれとも余りに凄絶なシタオの痛苦に堪えられずリリは怯え、必死でシタオから引き離そうとするが所詮多勢に無勢。その上、シタオはひたすら皆を救おうとし続ける。シタオは二度も銃弾による死を乗り越え、もはや永遠に死ぬことのない、もっぱら他者救済のために痛苦を引き受け続けなければならなくなってしまったのであろうか。

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 ところで、トラン・アン・ユンは、キリスト教徒なのだろうか。それともキリスト教すら内包するカオダイ教徒であろうか。香港監督ツイ・ハークと同様、ベトナム戦争を避けて国外に逃げ出した家族の子弟らしい。ツイ・ハークはかなり屈折した性格のようで色々とゴシップが後を絶たないけど、トラン・アン・ユンは見方に拠ると、嗜虐趣味とも採れかねない傾向もあるのも事実。今度の映画ではしなくもその性向が顕わになった感じだけど、偶然に、このビデオを観る数日前に、メル・ギブソンの《パッション》を観ていて、あの執拗なまでのリアルなキリストに対する笞刑や磔刑シーンに些か辟易していた後だけに、妙な了解性すら成り立ってしまったぐらい。
 正に現代とは暴力と苦痛の氾濫とその常態化だろう。
 そして人々の痛苦ををシタオは一身に己れに引き受け苦悶し続ける。他人の痛苦を引き受けるとは、その他人は痛苦から解放されるということなのか。受けた傷自体ではなく、そこから生じた痛苦なのだから、傷自体が癒されることはないのだろうか。そこら辺は映画では明らかにされぬまま進行してゆく。

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 イエスは如何だったのだろう。
幾人かの病を癒したって説話はあるようだ。
ユダヤ教徒達はそれを恐れたのであろうか。
 彼等とてダビデ王の子孫たる救世主メシアの到来を心待ちにしていたはず。ダビデ王の血を引く末裔たるものが大工の小倅なはずもないと断じたのだろう。そんな大工風情が自らを「神の子」とぬけぬけと称して憚らぬ故、「癒す」という人心をたぶらかす悪魔の仕業故に、神をも畏れぬ輩として磔刑を求めたのであろう。そして十字架の上でイエスが呼べど叫べどもいっかな我が父=神はその威力も御業もその姿すら顕わすこともなかった。仕舞いにはイエスも神を罵ったようだ。しかし今更詮方なく、観念し、毒を喰らわば皿までと「神にこの身を任せます」と云ってのけもしたのだろう。現実とはそんなものだ。恰度テレビに出た超能力者と称する者達が決まってその自らの不能を証してしまう結果をばかり生み続けている如く。例え、イエスに癒し能力があったとしても、只それだけであったのだろう。
 神とは神の子とは、メシアがそうである如く、すぐれて物理的な実在的な問題であって、観念的な我が心の内の存在なんかではないと謂うことだ。万物を創造した万能の神とは。勿論イエスには隣人愛や平等(あくまで神の下での、という限定付きであるが)の思想がありはしたが。

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 サスフォードは自身をキリストと見なしていたのか。
 二十四人は十二の倍数だが、それら悩める人々を殺害することで苦痛から救ってやったのだろうか。それとも終末まで続く苦痛を刑事クラインに托したのか。
 サスフォードは預言者ヨハネで、クラインを使いとしてキリスト=シタオの下に遣ったのだろうか。

 クラインに射殺される直前サスフォードが呟く。
 「ゴルゴダの丘
  そこに至高の木が立つ
  十字架だ
  そして至高の肉体

  肉体の完成には
  人類の苦痛が必要だった

  キリストの受難の完成だ」   
 
 
 監督  トラン・アン・ユン
 脚本  トラン・アン・ユン
 撮影  ファン・ルイス・アンシア
 音楽  ラディオ・ヘッド
         グスターボ・サンタオラヤ

 クライン    ジョシュ・ハートネット
 シタオ     木村拓哉
 ス・ドンポ   イ・ビョンホン 
 リリ      トラン・ヌー・イェン・ケー   
 メン・ジー   ショーン・ユー 
 ハスフォード  イライアス・コティーズ    
 制作      2009年(フランス)

2010年4月 3日 (土)

〔門司港=釜山フェリー〕リバイバル

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    フェリー乗り場の隣の岸壁に停泊中のカンボジア船籍リッチ・クイーン号

  以前、韓国の「C&クルーズ」なる企業が釜山=門司港間の定期フェリー通称゛門司ライン゛なるものを運行し、たった数ヶ月で潰え去った記事を書いたことがあったけど、懲りもせず、韓国の自動車部品メーカーが中心になって起こした「ソージン・フェリー」なるフェリー会社が、早ければ今月末には門司港=釜山の定期航路を運行するというニュースをブログで知った。

 元々海運やフェリー関係の業務に携わっていた企業ではないようで、詳細ははっきりしないが、日本が゛一億総ベンチャー化゛時代に突入したように、隣国韓国も、゛五千万総ベンチャー化゛時代に入ったのだろう。゛ビジネス゛って訳だろう。一万トン級の日本の中古フェリーをリースするらしく、乗客は六百人ぐらいらしい。予定では、週6往復もするらしいけど、如何も怪しい。大観光地は韓国人達も食傷気味故の、各地に点々と伏在する穴場・ミニ観光地巡りとしてすら成り立つか否かも危うい門司港、そこを起点に他の観光地・穴場に向かう他ない。だったら、大声を出せば聞こえそうな対岸の下関にちゃんと戦前からの関釜フェリーが運行しているので全く必要はない。正に生き馬の目を抜く末期資本主義のなせる業なのだろう。

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 明らかに衝突した痕跡。乗組員は中国人ばかり。側舷を溶接で修理していた。

 で、取り敢えず、門司港のフェリー乗り場へ赴いた。
 三月三十日現在、フェリー乗り場は、銀色に輝くフェンスの向こうでガラーンとして人気もなく、プレハブ風のカスタム事務所のガラス張りの玄関口の奥も薄暗く、ガラス戸にも件の「ソージン・フェリー」のポスターすらなく、只、一枚嘗ての「C&クルーズ」の廃止の断り状の貼り紙が侘びしく色褪せているばかり。つまり、もう三週間ぐらいしか猶予のない就航を想わせる何物も存在してないのだ・・・尤もカスタムは既に出来上がって有るので、後は実就航を待つばかりなのだろうが、以前が以前だった故に如何も全てが胡散臭く想えてしまう。しかし、この町、巾狭く潮の流れの速い関門海峡以外他に何があるのだろうか。確かに、そんな景観を束の間楽しむというのも゛通゛なのかも知れないけど。対岸の下関には、韓国人達には、否、中国人達にも歴史的な遺物が少なくなく、伊藤博文=春帆楼なんかを前にして、些かの屈辱と怨嗟を肴にして飲むビールの味も又格別なのかも知れない。

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 就航間近という割には、取り付く島もないくらいに何一つ手掛かりもないフェリーは諦め、帰りにその後が気になっていた藤原新也指定の麺館《朋友》によってみると、直ぐ先の移転先はともかく、嘗ての本来の旧い佇まいの朋友の建物、もはや完全に廃墟化してしまっていた。壊して再建するって感じではなく、このまま朽ちるに任せているって随分と場所柄的には危ない方途を辿っていて、確かに半世紀にもわたる自民党政治の恩恵たる恒久不況の時節柄、朋友といえども如何ともし難いのであろう。
 繰り言めくが、あんな社用族相手の高級料亭・三宜楼よりもこんな市井の味わい有る建物の保存をこそして欲しかったのだけど、それにしても異常気候も関係しているのか、驚くほどに老朽化が早く、表通りに面した軒下の板が殆ど外れ落ちていて、残っている板もいつ何時落下してくるか分からないような危うさ。そして、眼を凝らすと、その板の外れ落ちた軒の隙間から、二階の部屋の天井らしきものすらがとっくに朽ち落ちているのか、漆黒の闇となっていて、奥に何と光が点々と覗けているのだ。つまり、空の光ってことは・・・もう屋根自体に穴が穿いているってこと?

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 さしもの旧館・朋友も時代の波には逆らえなかったようで、早晩潰え去るのみの趣きで、又、一つ昭和の生き証人が姿を消してしまうのだろう。建物を仔細に眺めてみると、最初からというより、比較的最近、と云っても、二、三十年くらいなのだろうか、大通りに面した危ない軒下の一画は、麺館とは板張りの壁で仕切っているようだ。又、露地に面した正面側も端っこが二つに仕切られ、それぞれ間口の狭い飲み屋・飯屋のとっくに朽ち果てた看板と店構えが侘びしく佇ずむばかり。二階は貸室だったらしく、往事は地元の様々な団体が会合等を設けたりしたのであろう。

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