« 《狼山喋血記》1936年の黎莉莉と江青(藍苹) | トップページ | 昏いモノクロ世界 《饑餓海峡》 »

2010年4月24日 (土)

追憶の白蘭花 《上海游記》芥川龍之介

  1

  大正十年(1921年)三月下旬から四ヶ月近く、大阪毎日新聞の紀行文執筆のため、中国を旅した芥川龍之介。元々中国趣味の強かった龍之介の中国への憧憬と眼の当たりにした現実の中国との落差と増幅、仲々にシニカルで龍之介の面目躍如として面白い。中国人から見れば些か業腹かも知れない。実際、怒った中国人作家も居たらしい。又、当時の日本人の中国に対する感情と意識が覗けてもいる。大正の日本人の好個の中国・中国人論でもある。

 三月二十一日、門司から、日本郵船の英国製「筑後丸」に乗り、二昼夜かけて魔都・上海へ上陸。(因みに、この「筑後丸」、翌年には需要の増大で豪華船と入れ替わり、南洋航路に配置転換される)
 初めての船旅らしく、玄界灘に入ると早速海が荒れだし船酔いに襲われたものの、見栄で何とかやり過ごせ、翌日には右方に韓国・済州島の島影が望めたらしい。現在の上海=神戸の航路は基本的には四国・鹿児島沖を通過だけど、台風なんかのある時は、関門海峡を通る瀬戸内海ルートに変わるので、やっぱし博多沖を走る折なぞ、遠くにひょっとして済州島の影でも垣間見えるのかも知れない。下手すると、僕も鑑真号か蘇州号の甲板から見ていた可能性もあるけど、十年以上も以前のことなどで定かでない。

 埠頭を出た次の刹那、怒濤のように迫ってくる怪しげな風体の力車曳きの猛攻に遭って、さすがの龍之介もたじろいだのは、僕も初めての旅で上海空港の外に一歩出た時、群がった現在の力車曳きたるタクシーの運転手達が、しかも夜の上に照明が暗くて尚更悪相が際立って殆ど凶相に見えてしまったのと同様。結局龍之介は馬車に乗り、予定のホテルは断り、虹口の日本人ホテル《万歳館》(西華徳路=現・長治路:浦江飯店からフェリー乗り場に向かう大名路の一つ上の通り)に投宿。

2
 
 「その露地を向こうへつき当たると、噂に聞き及んだ湖心亭が見えた。湖心亭と云えば立派らしいが、実は今にも壊れ兼ねない、荒廃を極めた茶館である。その上亭外の池を見ても、まっ蒼な水どろが浮かんでいるから、水の色などは殆ど見えない。池のまわりには石を畳んだ、これも怪しげな欄干がある。我々が丁度其処へ来た時、浅葱木綿の服を着た、辨子の長い支那人が一人、・・・悠々と池へ小便をしていた。陳樹藩が叛旗を翻そうが、白話詩の流行が下火になろうが、日英続盟が持ち上がろうが、そんな事は全然この男には、問題にならないのに相違ない。少なくともこの男の態度や顔には、そうとしか思われない長閑さがあった。曇天にそば立った支那風の亭と、病的な緑色を拡げた池と、その池へ斜めに注がれた、隆々たる一条の小便と、──これは憂鬱愛すべき風景画たるばかりじゃない。同時に又わが老大国の、辛辣恐るべき象徴である。私はこの支那人の姿に、しみじみと少時眺め入った。
 ・・・『ご覧なさい。この敷石に流れているのも、こいつはみんな小便ですぜ。』
 四十起氏は苦笑を洩した儘、さっさと池の縁を曲がって行った。そう云えば成程空気の中にも、重苦しい尿臭が漂っている。この尿臭を感ずるが早いか、魔術は忽ちに破れてしまった。湖心亭は畢に湖心亭であり、小便は畢に小便である、私は靴を爪立てながら、匆々四十起氏の跡を追った。出たらめな詠嘆なぞに耽るものじゃない。」 

  七十年ほど前(当時から)の小刀会・太平天国の乱の頃に破壊・荒廃があって後復興したらしいけど、この頃はもう随分と惨憺たる状態になっていたようだ。今じゃ豫園の湖心亭は有名観光コース。大正の時代でも既にそうだったらしい。僕も好きで三回ぐらいは菓子付きのセット・メニューを頂いたが、時間が遅くなると団体客で溢れ返るのが嫌で、いつも早めに開店と同時に訪れ、ゆったりと烏龍茶と周りの豫園の風景を満喫したものだった。中国もすっかり様変わりし小綺麗になって、今時あの池に立ち小便する中国人って居るだろうか?それこそ公安や民警にしょっ引かれかねない。

Photo

 「(京劇役者の)蓋叫天だの小翠花だのは、もう引き合いに出して置いたから、今更別に述べる事はない。が、唯一つ書いて置きたいのは、楽屋にいる時の緑牡丹である。私が彼を訪問したのは、亦舞台の楽屋だった。いや、楽屋と云うよりも、舞台裏と云った方が、或いは実際に近いかも知れない。兎に角其処は舞台の後の、壁が剥げた、蒜臭い、如何にも惨憺たる処だった。何でも村田君の話によると、梅蘭芳が日本へ来た時、最も彼を驚かしたものは、楽屋の綺麗な事だったと云うが、こう云う楽屋に比べると、成程帝劇の楽屋なぞは、驚くべく綺麗なのに相違ない。おまけに支那の舞台裏には、なりの薄きたない役者たちが、顔だけは例の隈取りをした儘、何人もうろうろ歩いている。それが電燈の光の中に、恐るべき埃を浴びながら、往ったり来たりしている容子は殆百鬼夜行の図だった。 ・・・舞台では細面に見えた顔も、今見れば存外華奢ではない。寧ろセンシュアルな感じの強い、立派に発育した青年である。背も私に比べると、確に五分は高いらしい。
 ・・・私は彼に、玉堂春は面白かったと云う意味を伝えた。すると彼は意外にも、『アリガト』と云う日本語を使った。そうして──そうして彼が何をしたか。私は彼自身の為にも又わが村田烏江君の為にも、こんな事は公然書きたくはない。が、これを書かなければ、折角彼を紹介した所が、むざむざ真を逸してしまう。それでは読者に対しても、甚済まない次第である。その為に敢然正筆を使うと、──彼は横を向くが早いか、真紅に銀糸の繍をした、美しい袖を翻して、見事に床の上へ手洟をかんだ。」
 (注・緑牡丹は出版社の誤殖らしく、初出は白牡丹と明記されていたらしい。二人は全く別の役者。)

Photo_2
 
 この白牡丹(本では誤植の緑牡丹)、かの梅蘭芳と並ぶ四大名旦の一人で、なよとしたすこぶる美形だったらしい。龍之介の記述によれば、少なくとも舞台の上では。それが鬘を外すと、すらりとした好青年で、会話の途中で、チン!と手洟(手ばな)をかんでみせた。すっかり京劇・高名な名旦に魅入られていた龍之介には、何ともショッキングな体験だったに違いない。丁度最近映画にもなった梅蘭芳が、あの華麗な衣装のまま、ふと横を向き手洟をかむのと同じなのだから。
 日本では少なくとも室町時代ぐらいからは洟紙は懐に忍ばせていたらしい。17世紀のヨーロッパですら庶民はハンケチでなけりゃ手洟で、和紙の発明国たる中国も気候の関係でそれほど大量に生産は出来ず、そんな習慣が一般化することはなかったようだ。あの魯迅も毛沢東も江青もそうだったんだろうか。
 否、これは、何も戦前の事情というばかりじゃなく、今現在も、中国人達の大半がそうという話だ。幾ら何でも女達はティッシューかハンケチを使うだろうが如何も男達って相変わらず。尤も、それはあくまで大陸の方であって、他の中国圏は別と思う。僕も中国で中国人が手洟をかんでいる光景なんてお目にかかったことはそれほど多くはない。その代わり吐痰はあっちこっちで見掛けたし有名。でも日本国内でも事情は似たり寄ったりの程度問題。

  「・・・私が大勢美人を見たのは、神州日報の社長余洵氏と、食事を共にした時に勝るものはない。此も前に云った通り、小有天の楼上にいた時である。小有天は何しろ上海でも、夜は殊に賑やかな三馬路(現・漢口路 :福州路(=四馬路)の一つ上の通り)の往来に面しているから、欄干の外の車馬の響は、殆一分も止む事はない。楼上では勿論談笑の声や、唄に合わせる胡弓の音が、しっきりなしに湧き返っている。
 ・・・林黛玉の梅逢春がやっと一座に加わったのは、もう食卓の鱶の鰭の湯が、荒らされてしまった後だった。彼女は私の想像よりも、余程娼婦の型に近い、まるまると肥った女である。顔も今では格段に、美しい器量とは思われない。頬紅や黛を粧っていても、往年の麗色を思わせるのは、細い眼の中に漂った、さすがにあでやかな光だけである。しかし彼女の年齢を思うと、──これが行年五十八歳とは、どうも考えても嘘のような気がする。まず一見した所は、精々四十としか思われない。特に手なぞは子供のように、指の付け根の関節が、ふっくりした甲にくぼんでいる。・・・それが耳環にも腕環にも、胸に下げた牌(メダル)にも、べた一面に金銀の台へ、翡翠と金剛石とを嵌めこんでいる。中でも指環の金剛石なぞは、雀の卵程の大きさがあった。これはこんな大通りの料理屋に見るべき姿じゃない。罪悪と豪奢が入り交じった、たとえば『天鵞絨の夢』のような、谷崎潤一郎氏の小説中に、髣髴さるべき姿である。」
 「・・・やや退屈を覚えた私は、部屋の中をあちこち歩いた次手に、そっと次の間を覗いて見た。すると其処の電燈の下には、あの優しい花宝玉が、でっぷり肥えた阿姨と一しょに、晩餐の食卓を囲んでいた。食卓には皿が二枚しかない。その又一つは菜ばかりである。花宝玉はそれでも熱心に、茶碗と箸とを使っているらしい。私は思わず微笑した。小有天に来ていた花宝玉は、成程南国の美人かも知れない。しかしこの花宝玉は、──菜根を噛んでいる花宝玉は、蕩児の玩弄に任すべき美人以上の何物かである。私はこの時支那の女に、初めて女らしい親しみを感じた。」

Photo_3

  南国の美人の章では、心なし龍之介の筆致も些か弾んで見える。
 内装は今一の《小有天》で愛春という美人や燦然と着飾った鴻、薄命の美人・洛娥、天竺という名の小玉等次から次へと妓女達が現れる。如何も龍之介は花宝玉が一番気に入っていたようで、支那の女の一番の美しいのは耳で、これは日本の女達の到底敵う所ではないと断じ、花宝玉の耳を「丁度小さい貝殻のような、世にも愛すべき耳」と賞賛することしきり。ふと垣間見た、その美人妓女の黙々と二皿の食事に余念のない姿に、思わず龍之介は、安心を覚えたのだろう。そして更なる親密さを抱かしめたのでもあろう。
 上海を離れ、安徽省・蕪湖を訪れるべく長江(揚子江)を遡航する鳳陽丸に乗り込んで、龍之介は、暗い黄浦江の水に厭いて、人気のないサロンでふと、ポケットから取り出した前夜赴いた支那芝居の戯単(プログラム)の間から落ちた白蘭花を拾いあげた。
 
 「『白蘭花、白蘭花』──そう云う花売りの声を聞いたのも、何時か追憶に過ぎなくなった。この花が南国の美人の胸に、匂っているのを眺めたのも、今では夢と同様である。私は手軽な感傷癖に、堕し兼ねない危険を感じながら、素枯れた白蘭花(パレエホア)を床に投げた。」

             芥川龍之介《上海游記・江南游記》(講談社文芸文庫)

|

« 《狼山喋血記》1936年の黎莉莉と江青(藍苹) | トップページ | 昏いモノクロ世界 《饑餓海峡》 »

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事