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2010年4月10日 (土)

血塗れの癒し物語《アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン》

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   トラン・アン・ユン監督の新作、予告編なんかではかなり商業主義性の強いアクション映画って感じで、これはフランス映画だが、ハリウッド狙いかとそっちの期待を抱いて観てみたんだけど、到底商業主義からは遠く、トラン・アン・ユン監督のお決まりのモチーフは相変わらずで、キムタクが擬せられた新イエス・キリストが妙に唐突の、いかにも゛現代゛風のテーマではある。

 なぜキムタクか、は監督自身の問題だけど、他に韓国のイ・ビョンホン、米国のジョシュ・ハーネストの三人皆それぞれ売れっ子俳優らしい。ホモセクシャルな香りを漂わせ、三人の若い男達は、裸身を晒け出し、傷つけられた傷口から真紅の血が滴り落ちる。この映画、嫁さんのトラン・ヌー・イエン=ケーと香港のトニー・レオンが共演した《シクロ》と同じモチーフが更に鮮明な形で現れている。《シクロ》じゃちょっとベトナム=フレンチ風の耽美主義って趣きだったのが、ここではエグイまでに、しかし、描写にかなりブレがあって、それが如何もしっくりこなく、も一つ曖昧。

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 《悪魔を憐れむ歌》の冒頭、ちょっとエキセントリックな死刑囚の役がはまっていたイライアス・コティーズ、ここでもエキセントリックな連続猟奇殺人犯のアーチスト役が決まっている。冒頭、拳銃を構えた刑事クライン(ジョシュ・ハーネスト)が電話で呼び出されて現れる彼のアトリエで、彼、二十四人も殺害しそれを素材に自らの彫像を作り上げた自称芸術家ハスフォードは、自らの芸術の最終的完成をたくらんで待っていた。そして、バットでクラインを襲い、滅多打ちにし、
 「イエスの苦悶は 終末まで続く」
 と意味ありげに呟いてみせる。
 クラインはハスフォードに仕組まれたかのように、ハスフォードを射殺し更に首まで切り落としてしまっていた。アトリエに配された被害者達のグロテスク且つエキセントリックに誇張されねじれた彫像の一素材の如く。斬首のシーンはもっと後に出てくるのだが、連続猟奇殺人犯の射殺の手柄で、刑務所にも精神病院にも行かずに済んだようだ。

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 それから二年後、ある世界的な製薬企業経営者の息子シタオ(キムタク)の捜索・連れ戻しの依頼を、殺人犯ハスフォード殺害で精神障害をきたして免職になったクラインが受けることになる。行方不明になったシタオを捜してフィリピンに赴くが、そこでシタオが射殺され死体をジャングルに放置されたと聞かされる。父親の送金でシタオは孤児院を開いていたけど、その金が尽きると、地元の資産家達の屋敷を訪れ資金提供を求めて回るようになり、質の悪い輩の処に向かいそこで拉致されジャングルで射殺されたという。
ところが香港での消息が明らかになり、クライン早速香港に飛ぶ。
 旧友の刑事メン・ジー(ショーン・ユー )を訪ねて香港警察に向かう。
 おりから地元のマフィア、ス・ドンポ(イ・ビョンホン)一味を捜査中のメン・ジー、彼のオフィスのガラス壁越しの隣室で、シタオが身体の無数の傷跡の写真を撮っていたのだった。クラインはシタオの脱ぎ忘れたままの上着を見つけ、シタオが香港でまだ生きているのを確信する。

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 ス・ドンポのアジトから、ひょんなことから野原に住み着いたシタオの掘っ立て小屋で助けられることとなったス・ドンポの愛人リリ、麻薬中毒の禁断症状が出て、懸命なシタオの介抱のお陰で快癒する。実は、シタオは他人の苦痛を身代わりに引き受ける能力を持っていたのだった。小屋の外には既に多くの苦痛を抱えた人々が待っていた。
 しかし、ス・ドンポは最愛の女リリを奪われたと、シタオを小屋の中で射殺する。が、シタオは死ぬこともなく、撃ち込まれた弾痕から血が流れながらも、ス・ドンポに、
 「お前は俺が怖いんだ」
 と呟く。ス・ドンポの配下が、一枚の板の上に交差して寝かせ、両掌を釘で打ちつける。
 泣き叫ぶリリを連れてス・ドンポは退ち去り、「現在の救世主」を求める芸術家が現れ救世主の印の金泥を塗りたくってゆく。最期にクラインがやってきて、恰度十字架の形に地面に横たわったシタオの傍に近づいてゆき、シタオが何者か尋ねると、
 「父上の遣いとしてやってきた」
 と応える。
 これは、正に死に往くキリストの傍に天界から駆け寄ってきた使いの言葉ってアナロジーなんだろう。勿論シタオがそこで死んだかどうかは詳びらかにされることなく映画は了わる。

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 冒頭のハスフォードの「イエスの苦悶は 終末まで続く」が、イエスの「死」=終末でなく世界の終末を意味しているなら、シタオは死ねず、更に生き続けることになる。
 シタオの小屋の外に無数の悩める人々がシタオに癒されようと群らがる光景に、シタオの死を予感したのかそれとも余りに凄絶なシタオの痛苦に堪えられずリリは怯え、必死でシタオから引き離そうとするが所詮多勢に無勢。その上、シタオはひたすら皆を救おうとし続ける。シタオは二度も銃弾による死を乗り越え、もはや永遠に死ぬことのない、もっぱら他者救済のために痛苦を引き受け続けなければならなくなってしまったのであろうか。

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 ところで、トラン・アン・ユンは、キリスト教徒なのだろうか。それともキリスト教すら内包するカオダイ教徒であろうか。香港監督ツイ・ハークと同様、ベトナム戦争を避けて国外に逃げ出した家族の子弟らしい。ツイ・ハークはかなり屈折した性格のようで色々とゴシップが後を絶たないけど、トラン・アン・ユンは見方に拠ると、嗜虐趣味とも採れかねない傾向もあるのも事実。今度の映画ではしなくもその性向が顕わになった感じだけど、偶然に、このビデオを観る数日前に、メル・ギブソンの《パッション》を観ていて、あの執拗なまでのリアルなキリストに対する笞刑や磔刑シーンに些か辟易していた後だけに、妙な了解性すら成り立ってしまったぐらい。
 正に現代とは暴力と苦痛の氾濫とその常態化だろう。
 そして人々の痛苦ををシタオは一身に己れに引き受け苦悶し続ける。他人の痛苦を引き受けるとは、その他人は痛苦から解放されるということなのか。受けた傷自体ではなく、そこから生じた痛苦なのだから、傷自体が癒されることはないのだろうか。そこら辺は映画では明らかにされぬまま進行してゆく。

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 イエスは如何だったのだろう。
幾人かの病を癒したって説話はあるようだ。
ユダヤ教徒達はそれを恐れたのであろうか。
 彼等とてダビデ王の子孫たる救世主メシアの到来を心待ちにしていたはず。ダビデ王の血を引く末裔たるものが大工の小倅なはずもないと断じたのだろう。そんな大工風情が自らを「神の子」とぬけぬけと称して憚らぬ故、「癒す」という人心をたぶらかす悪魔の仕業故に、神をも畏れぬ輩として磔刑を求めたのであろう。そして十字架の上でイエスが呼べど叫べどもいっかな我が父=神はその威力も御業もその姿すら顕わすこともなかった。仕舞いにはイエスも神を罵ったようだ。しかし今更詮方なく、観念し、毒を喰らわば皿までと「神にこの身を任せます」と云ってのけもしたのだろう。現実とはそんなものだ。恰度テレビに出た超能力者と称する者達が決まってその自らの不能を証してしまう結果をばかり生み続けている如く。例え、イエスに癒し能力があったとしても、只それだけであったのだろう。
 神とは神の子とは、メシアがそうである如く、すぐれて物理的な実在的な問題であって、観念的な我が心の内の存在なんかではないと謂うことだ。万物を創造した万能の神とは。勿論イエスには隣人愛や平等(あくまで神の下での、という限定付きであるが)の思想がありはしたが。

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 サスフォードは自身をキリストと見なしていたのか。
 二十四人は十二の倍数だが、それら悩める人々を殺害することで苦痛から救ってやったのだろうか。それとも終末まで続く苦痛を刑事クラインに托したのか。
 サスフォードは預言者ヨハネで、クラインを使いとしてキリスト=シタオの下に遣ったのだろうか。

 クラインに射殺される直前サスフォードが呟く。
 「ゴルゴダの丘
  そこに至高の木が立つ
  十字架だ
  そして至高の肉体

  肉体の完成には
  人類の苦痛が必要だった

  キリストの受難の完成だ」   
 
 
 監督  トラン・アン・ユン
 脚本  トラン・アン・ユン
 撮影  ファン・ルイス・アンシア
 音楽  ラディオ・ヘッド
         グスターボ・サンタオラヤ

 クライン    ジョシュ・ハートネット
 シタオ     木村拓哉
 ス・ドンポ   イ・ビョンホン 
 リリ      トラン・ヌー・イェン・ケー   
 メン・ジー   ショーン・ユー 
 ハスフォード  イライアス・コティーズ    
 制作      2009年(フランス)

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