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2010年5月の4件の記事

2010年5月30日 (日)

《ヒットマン・ファイル》 カッティヤ将軍殺害犯は誰か?

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  何か都合が悪くなってくると、もうそれしかないように軍部クーデターでなし崩しにしてしまうのが、タイの定番、お決まりになって久しいけれど、さすがに今回のタクシン派UDDと軍部=アピシット政権との角逐、争闘は、これまでのあれかこれかの横並び的対立・軋轢と本質を異にし、いよいよタイも貧・富の階級闘争の様相を呈し始めた。新聞によると、タクシン派が口にした"階級闘争"に、タイ王室が不快感を顕わにしているらしい。

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           カッティヤ将軍 

  UDDやタクシン派の多くはタイの東北部、所謂イサーンの人々ということで、日本の東北(戦後はそれほど皆が皆貧農って訳でもないだろうが)同様、貧しい農民達という。そもそも、イサーンの住民達って、ラオ系、クメール系が大半で、ベトナム北部あたり(以前は、中国南部周辺が定説だったのが、言語学的にベトナム北部が有力となっているらしい)から南下してきた所謂"タイ族"の覇王、それも十八世紀末からのチャクリー王朝の国王に拘る理由がないし、いわんや忠誠なんて何の事やらってのが本当のところだろう。
 おまけに、賢王のはずのプミンポン、年齢のせいなのか、あるいは長年の矛盾・軋轢がどうにも煮詰まってしまってもはや国王という特殊性が機能する限界を超えてしまっているからなのか、プレム枢密院議長(プミンポン国王の信任篤い)=クーデター軍政(ソンティ)=アピシットの図式から見えてくるプミンポンのポジション、つまり"中立"の立場を逸脱したすこぶる政治的な行為、それがUDD=アピシット政権の一連の騒乱・90人近くの死者と多くの負傷者を結果してしまい、完全な失策・失政となった。
 イラク・シリア・トルコ・イランのクルドに限らず、タイでも、東北部(イサーン)はじめ、現在でも燻り続けているイスラム系が主流を占める南部、あるいはひょっとして北部すらも、"分離独立"の狼煙(のろし)を挙げかねないってところだろう。問題の所在は、もう、単なる"タクシン復権"を踏み越えてしまっているってことだ。

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 そんな中、騒乱の最中、タクシン派の武闘派と云われたカッティヤ将軍が、よりによって記者のインタビュー中に、それもたった一発の銃弾で狙撃=暗殺されてしまった、もうこれ以上ないくらいの政治的パフォーマンス。確か、以前タクシンも狙われたとか騒いでいたはずで、これには筆者も唖然としてしまった。これじゃ丸でタイ・アクション映画そのものじゃないか、と。軍の中の精鋭にさせたかも知れないし、先を考えて民間人の殺し屋を雇い、軍・警の中に紛らわせた可能性すら考えられる。てっきりUDD・タクシン派が報復に訴えるのかと固唾を呑んで見守っていたけど、結局それはなかった。(少なくとも今現在のところは)

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 この2000年のタイ映画《ヒットマン・ファイル》は、軍部と警察そしてマフィアの相関図さながらのタイ権力の裏面を背景に、元山岳ゲリラの殺し屋タンタイ(チャチャイ・プレンパニット)と当時反共特殊部隊員でタンタイ等と血で血を争ったイット(サランユ・ワンクラチャン)との因縁の相克劇。
 その場その場の都合でどうにでも動く権力、実働部隊としての軍・警察そしてマフィアまで駆使し、あるいは不都合となると当の実働部隊すら処分し闇に葬ってしまうのが何処でも常道。この映画では、その権力が殺し屋をすら利用し、やがて使用済みとして抹殺してしまう。正にカッティヤ将軍狙撃=暗殺の図であろう。アピシットも仲々やるもんだ。勿論実際には軍部が仕組んだのであろうし、その背後に一体誰が隠れているのかを、この映画を観ながらあれこれと詮索・推理するのも悪くはない。だからといって、タイの構図がそのまま、日本や米国あるいは他の国に通用するかは別の話。

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 この映画の見所は、やはり例の学生革命="血の日曜日"以降に山岳部に逃れ共産党ゲリラと合同した学生運動家や市民達の中の一人、タンタイが、やがて他の学生革命グループと同様、共産党主導のゲリラ活動に幻滅し、街に戻り、日々の糧を得るため殺し屋になり、次々と冷酷な殺人に手を染めてゆくのと平行して、山岳共産ゲリラ達を殲滅するためのタイ権力側の特殊部隊の一員としてタンタイ達と死闘・暗闘を繰り広げてきたイットが、山から降り、権力サイドのヒットマン・チームの一員として、殺害を繰り返し続け、やがて宿敵タンタイと一騎打ちまで追いつめて行くところであろうか。
 追いつめられ負傷はしたものの、今度は権力サイドに雇われ、麻薬絡みの大物マフィヤを殺害する。当然のように、口封じのため、権力サイドに自動小銃で抹殺されてしまう。同時に、イットも、イットの上司も。
 "生きるための音楽"=《カラワン》のメンバー、ウィラサク・スントンシーの《カラワン楽団の冒険》(晶文社)に彼自身が入っていった山岳ゲリラの生活の事をあれこれ記しているけど、逆の権力側の、イットの属する特殊部隊、犯罪者や囚人なんかも含んで構成された黒服の反共特殊部隊の事かと思ったけど、灰青色のベレー帽に戦闘服なので違うのかも知れない。因みに当時の山岳ゲリラ=タイ共産に、今回の騒乱の起因ともなった軍部クーデター直後の政権スラユット元陸軍司令官の父親(パヨーム=チュラーノン中佐1980年没)が加わっていたらしい。父子で戦っていたという話だ。

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 肉体派女優、タックことボンコット・コンマライ、冒頭標的を撃つシューティング・シーンがあるんだが、只そのシーンだけで、後はタンタイに殺害の仕事の書類と金を渡すクラブの大人しいママ役ばかり。最期は、イットに枕を押しつけられ射殺されてしまう。
物足りないタック起用だけど、確かに彼女が拳銃片手に活躍してしまうと、権力犯罪的なリアリティーが確実に褪せてしまい、迫力も消えてしまう。
 比較的淡々と描かれていて、ドラマチックさは希薄だけど、悪くはなく、結構好きなタイ・アクション映画の一つだ。

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タンタイ   チャチャイ・プレンパニット
リーマン   ニルット・シリチャンヤ
バーム    タニット・ジットニクン
チャット   サンティスック・プロムシリ
イット   サランユ・ワンクラチャン
チャバー   ボンコット・コンマライ
       ピティサック・ヤオワナーノン
       ソムポップ・ベンジャーティクン 

監督   サナームジット・バンサパン
脚本   サナンジット・バンサパン   
音楽   チャーティチャーイ・ポンプラパーパン
制作   マンポン 2004年(タイ)

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2010年5月23日 (日)

《仁義なき戦い》  百花斉放・造反有理的ヤクザ世界

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  昏迷するタイや迷走しいよいよ末期的情況を呈し始めた民主党始めとする日本の政治などの情況を見るにつけ、改めて七十年代日本映画のある種の不滅の金字塔たる深作欣二監督作品《仁義なき戦い》の普遍性に想いを馳せてしまう。果てしない権力闘争と内部分裂。七十年代初期の連合赤軍リンチ殺人事件・浅間山荘事件等を経た閉塞し始めた時代情況の中から、当然現れるべき作品であったろう。映画的には、長ドス片手の高倉健・鶴田浩二主演の古色蒼然とした東映任侠映画の凋落、もっとリアリティーのある現代物=百花斉放・造反有理的ヤクザ世界という流れ。

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 この35年も前のシリーズ、レンタル・ビデオ屋でも人気があって、何時見ても借り出し中で空白のままって事も多い。今でも東映のドル箱なのだろう。只、それ以後それに匹敵するようなシリーズって仲々ないようで、改めてこの所謂"実録"片のオリジナルであり且つ頂点でもある広島ヤクザ抗争劇映画の普遍性が分かろうというものだ。
 
 この作品、発端はオリジナル原作者たる広島抗争事件で辛酸を舐めてきた美能幸三(今年三月に亡くなった)の手記との出遭いらしい。映画化に当たってのプロデューサーや脚本の笠原和夫の幾度にも渡る広島詣での苦労話は有名だけど、主演の菅原文太も週刊誌に連載され始めた飯干晃一の同名小説を読んで、自身で東映に映画化と出演を申し出ていたという。大ヒットし、1973年《仁義なき戦い》、《広島武闘篇》、《代理戦争》、1974年《頂上作戦》、《完結編》と二年で五本も制作。当時はまだ、文字通りのプログラム・ピクチャー時代で、基本的に二本立て興行。シネ・コンプレックスなんて未だ言葉もなかった頃で、それぞれの映画会社の系列館で上映されていた。

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 「昌三、今度お前が(ムショから)出てきた時にゃ、ワシの全財産呉れてやるけーの」

 この映画の面白さの一つは、今までの主人公=脇役=端役という確然としたスター・システムを打ち壊し、上はこのシリーズの顔たる菅原文太から下は殆ど世間には名も知られることもなかった川谷拓三や志賀勝等の大部屋俳優達が、渾然一体となって、それぞれ画面の隅から端っこに至るまで強烈な自己主張・演技に火花を散らす群像劇、集団劇にあるのだろう。監督の深作自身カメラマンの吉田に、「登場人物の全員にピントを合わせてほしい」と要求し、端役にもスター俳優達にすらも、「台詞(セリフ)じゃなくても出てろ、それで台詞のときにはもう一つ出ろ」と過剰なまでの自己表出を求め扇動したらしい。

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 敗戦=終戦の総括なき"戦後"、一切の伝統的あるいはもっともらしい建前が崩落し欺瞞と偽善でしかなったことを白日の下に晒け出され、例え束の間のものであっても、正に混沌、アナーキーとダイナミズムに満ち満ちた時代、仁義も任侠も焼け落ちた焼け跡に自然発生的に群生し始めた愚連隊・若きヤクザ達も、「自分達のやりたいことのできる」組織・世界の構築を目指して、俄然跳梁跋扈し始める。
 偶然古本屋の店頭の百円コーナーで見つけた《キネマ旬報 六二三号》(1974年1月)
の深作・文太・笠原達のディスカッション〈仁義なき戦い・頂上作戦のテーマは何か〉の中で、深作はこう云っている。
 「われわれ自身の、何といったらいいのか、生きざまのオリジンが、やっぱり終戦後に帰っていくことで見出すことが出来るという意味では、笠原さんも私自身もそうだと思いますね。そして、その戦後からずっと引きついできている、しんどさ、くやしさというものは、一庶民として又きわめて低賃金労働の映画人としてあきるほど味わってきているわけですし。それが、笠原さんの脚本家としてのオリジンになっているし、また、ぼくのオリジンにもなっていると思うんですよね」
 更に文太はこうも述べている。
 「企画の段階ではどうであったにしろ、ぼくはこの作品を作さん(深作欣二)が担当する必然性はあったと思いますね。それは『人斬り与太』『人斬り与太・狂犬三兄弟』と、いま田山(力哉)さんがいったように、いままでの東映任侠映画のパターンからはずれて、主人公が汚い部分を多分にもった人間として描かれている作品をいち早く撮ってきているということがある。だから『仁義なき戦い』が制作される時点で、東映の内部であの作品を撮れる人は、作さんしかいなかったということはハッキリいえます。」

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 敗戦直後、まだ焼け跡も生々しい広島・呉で、南方帰りの広能昌三は、ひょんな行きがかりから、呉を縄張りとする山守組の若い組員達と知り合い、日本刀を振り回す遊び人を拳銃で射殺する羽目に陥った。その廉で刑務所に。その刑務所で、広島の土井組の若頭・若杉寛と同房になり、義兄弟の盃を交わす。若杉が自殺の真似をして娑婆へ一足先に出、土井組・組長に保釈金を出して貰い仮出所する。
 山守組に身を落ち着け、若頭の坂井鉄也等と山守組を盛り立ててゆく。そんな中、山守組の賭場で、呉の長老・大久保の親戚・愚連隊上田組・組長上田透が因縁をつけ、広能と喧嘩となり、広能が小指を詰め上田が山守の舎弟となって手打ち。
 しかし、大久保の伝手で呉市会議会の政争に深入りし、土井組と反目。その政争=土井組潰しに利用するために、賭場で上田が因縁をつけたに違いないと、若頭・坂井は疑い、組長・山守を指弾する。以前から大久保には気をつけろと警告していたのに、と。土井組の若頭・若杉は義兄弟の広能達と揉めたくはなく、丸く収めようとするも、組長・土井の逆鱗に触れ、結局土井組に居られず、山守組に客分として籍を置くことに。若頭の坂井が不在の間、坂井に代わって組を取り仕切ることに。広能は山守の意を汲み土井組長を射殺。逃亡したが、山守と組員の槙原政吉の術中に嵌って、結局刑務所に舞い戻ってしまう。

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    「山守さん、坂井も悪いが、あんたも悪い!」

 事の成り行きで山守組から土井組に身を置いていた神原精一、広能を隠れ家からおびき出した件で、若杉に報復殺害される。若杉も、隠れ家を山守・槇原の裏切り・密告により、警察に包囲され射殺されてしまう。やがて、恩赦で仮出所した広能、早速山守に呼ばれ、今や飛ぶ鳥を撃ち落とす勢いの、若頭・坂井の殺害を求められる。焼け跡で共に戦った仲間達が互いに殺し合い次々に死んでいっていた。若杉が生きていたら、もう山守の処には戻る気のなかった広能であったが、一応は承諾する。坂井のホテルの部屋を急襲するが多勢に無勢。
ふがいない山守に見切りをつけた坂井、別に組を作るつもりで、広能にも参加を求める。広能が上に居てもいい、嘗て焼け跡でそう想って結集した如く、もう一度、自分達のやりたいことをやれる組織を作ろう、と。坂井は広能を帰し、車で途中下車したおもちゃ屋で、山守の意を受けた組員達に射殺される。  
 ずらり呉の組関係者達が居並ぶ坂井の葬儀に、突然広能が姿を現し、誰もが驚きと敵意に満ちた眼差しで睨め付ける前で、一人坂井の遺影に寂しく語りかける。そして、懐から取り出した拳銃で、坂井や死んでいった仲間達を死に追いやった連中=来賓客の香典に銃弾を撃ち込み、颯爽とその場から去って行く。(了)

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      「昌三、コンナ(おまえ)の考えている事は、理想よ」

 広島ヤクザ抗争と銘打っているものの、広能も山守組も広島市の隣の呉市が本拠地で、広島の土井組、後のシリーズでは、村岡組との絡みで広島へ進出する運びとなったのだけど、やはり小港湾都市・呉よりも広島の方が遙かに利潤も大きく、広島進出の口実を狙ってもいたのであろう。三作目《代理戦争》では、神戸の広域組織・明石組(実際は山口組)まで出てくる。実は、この作品がシリーズ化される以前の最初の企画の際、脚本家の笠原和夫が広島抗争を扱おうとすると不可避的に山口組に触れなくてはならず、その根回しやら何やらのしんどさを厭(いと)って呉だけで済むこの作品一作だけで終わらせようと考えていたらしい。が、ヒットしそうな感触を得、東映が即シリーズ化を決定。本来は主演の文太は広能昌三じゃなくて、松方弘樹演じた坂井鉄也を演る予定であったのを、坂井は死んでしまうので、広能に変更にしたようだ。

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    「山守さん、弾はまだ入っとるがーよ」

 菅原文太の広能、主人公というより、むしろ狂言廻しって感じだが、狂言廻しとは又些か違った役 どころで、このシリーズで唯一カッコ好く演じている(後のシリーズで出てくる小林旭の役どころは謂わば敵役だが、文太に張り合う様にカッコつけている)。
 脚本家・笠原と揉め、ひょっとして菅原文太は最初の一作目のこの作品だけしか出演しなかった可能性もあったらしい。幾ら群像劇といっても、山守の金子信雄、槇原の田中邦衛が頑張ってみせても、あの広能昌三=菅原文太があの細身・長身のクールなキャラクターで一本ピンと筋を通しているからこそ他の出演者も生きていたし、シリーズを代表する顔ともなり得た。この作品だけの出演だとしたら、果たして後のシリーズ如何のくらいヒットしたか分かったものではない。

監督 深作欽二
脚本  笠原和夫
原作  飯干晃一(手記・美能幸三)
企画  俊藤浩滋 、日下部五朗
撮影  吉田貞次
美術  鈴木孝俊
音楽  津島利章
疑闘  上野隆三
  
広能昌三  菅原文太
坂井鉄也  松方弘樹
神原精一  川地民夫
槙原政吉  田中邦衛
山方新一  高宮敬二
新開宇市  三上真一郎
矢野修司  曽根晴美
有田俊雄  渡瀬恒彦
上田透   伊吹吾郎
岩見益夫  野口貴史
山守義雄  金子信雄
山守利香(山守の妻)木村俊恵
土居清   名和宏
若杉寛   梅宮辰夫
国広鈴江(若杉の妻)中村英子
大久保憲一 内田朝雄
江波亮一  川谷拓三
横川信夫  志賀勝
ナレーター 小池朝雄
制作  東映 1973年

 [続編]
山城新吾  北大路欣也  千葉真一  成田三樹夫  梶芽衣子
前田吟   小松方正     加藤嘉   室田日出夫
小林旭   加藤武    丹波哲郎  山本麟一   汐路章
黒沢年男  中原早苗   夏八木勲  小倉一郎   小林稔侍
桜木健一  宍戸錠    山田吾一  織本順吉   天津敏
                 

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2010年5月17日 (月)

門司港=釜山フェリー再開、あるいは関門海峡フェリー・ラッシュ

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   釜山に本社を置く《グランドフェリー》の《セコ・マル》Seco maru(1万1550トン)、真新しい白塗りの大きな船体の船首横に記された"secomaru"のハングルの下に、以前の持ち主の時の名前"KC RAINBOW"が薄っすらと浮かんで見えていた。

 今朝九時頃、漸く平屋建てプレハブ・カスタムのパチンコ屋の新装開店かと見間違うくらいに花輪が立ち並んだ入口から、百人弱くらいの韓国側からの乗客達が姿を現した。それまで狭いエンタランスで、申し訳程度の報道関係者達も中に入って、セレモニーやインタビューらしきものをやっていたようだった。皆、一様にリュックなんか担いだパッカーというよりハイキングかトレッキング仕様の出で立ちで、数十人の子供達も小さな段ボールを携帯手押し車に乗せてたりしていて、如何も観光というより、ハイキングかトレッキングに行く雰囲気で、待たせてあったバスに次から次へと乗り込んでいた。曇りという天候のせいもあるのか、何とも寂しい、カラフルな花輪ばかりが空々しく風に微動していたオープンであった。 

 やはりカーフェリーだけあって、後部の貨物搬入口は大きい。鑑真号や蘇州号に乗っていた頃には気にもしてなかったが。貨客船の場合、人よりも貨物の方が利幅も大きく、客は副次的な代物で、客の多寡だけでその航路を云々するのは早計だろうが、時代が下るにつれて段々と蘇州号の客室の空きが増えていき、大丈夫かなと心許なくなった記憶がある。今は如何なのだろう。せっかちに皆飛行機で飛ばしまくってるのだろうか。
 17日の昨夜(月曜)釜山出航から本格的就航となり、今朝門司港に到着し、正午に門司港からの初出航。

 門司発 12:00 → 釜山着 19:00
 釜山発 23:00 → 門司着 08:30
 
 釜山 月~土  門司 火~日 (週6往復)
 定員640名。
 料金が六月末までの便は、特別割引の二等往復9800円、一等往復12000円で、対岸の下関から出る関釜フェリーだと二等往復17100円らしく、可成り格安。距離的に同じくらいの(実際は岡山ぐらいだが)国内便の新門司=大阪が、二等片道6000円。因みに前回の門釜フェリー「C&クルーズ」の二等片道8000円。七月からは本来の料金なのだろうが、いくらかは不明。

  

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 前回たった二ヶ月間の門司港=釜山フェリー、実は隣の小倉でも走っていた釜山行きの高速フェリー同様、韓国側企業の経営不振でポシャッてしまったのだが、絵に描いたような韓国五千万総ベンチャー化時代の到来で、猫も杓子も目先の銭儲けに狂奔する正に末期資本主義の奈落って訳だ。今回漸く就航となった《セコ・マル》のフェリー便、前回同様たった一隻の日本製中古フェリーを昼出航・翌朝帰りというピストン輸送の使い廻し綱渡り操業。果たして何時まで持つのやらと、あらぬ心配までさせられてしまう。(前回が、たった二ヶ月で最初エンジンの不調を口実にして運休したし、小倉の方も惨憺たるものだったらしい。)
 何故、小型フェリーでたった五分で渡れる対岸に昔からある関釜フェリー(こちらは、ちゃんと日韓それぞれ一隻づつ計二隻で運行)と重複してまでも門司港なのかと不思議に思っていたら、如何も、韓国側が、人気の日本国内の港へ参入するには門が狭く色々煩雑なので、とりあえず手薄で近場の門司港という事らしい。車や貨物便の流通の面でもリーズナブルなのであろう。船体を見ると、モロ"貨客船"って感じのごっつい作り。所謂(いわゆる)カーフェリーらしい。

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  戦前は、門司港からも、大阪~神戸~門司~清津~羅津~雄基という当時「北鮮三港」と呼ばれていた基幹港を巡る航路もあったようだ。朝鮮半島はやはり、北陸の敦賀とともに関釜連絡船で有名な下関の独壇場。戦前の昭和五年からは麗水との関麗連絡船(川崎汽船)も運行していた。
 門司港は、北は樺太・ウラジオストック、中国は青島・大連・天津・上海・海口、台湾(基隆)、北米(シアトル)、南米、ケープタウン、オーストラリア、インドネシア、バンコク等の航路の中継点として繁華な国際的な港湾都市であったらしい。例えば、大阪商船のバンコク航路では、横浜~名古屋~大阪~神戸~門司~基隆~海口~ハイフォン~サイゴン~バンコクの諸港を巡ったようで、台湾、(中国)海南島、ベトナム、バンコクなんて現在でも食指が動いてしまう。《盤谷丸》(五千トン級)はチャオプラヤー川を遡るための特別あつらえという。                                        《》
 現在でも、貨物船は操業していて、以前はそれでもまだ可能ではあったらしい船客としての乗り込みも、年々管理主義やコスト・リスクの問題で難しくなっているようだ。
 例えば、次のような航路もあるらしい。
 上海-博多-門司-新港-煙台-大連-門司-博多
 博多-門司-釜山-上海-寧波-マニラ-厦門

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 又、釜山に比較的近く、光陽製鉄所があり、サッカーKリーグのスタジアムもあるらしい韓国・光陽市が定期カーフェリー航路の開設先として下関、門司の両港を検討していて、今月中にはどちらか決定するという。 台林海運(釜山市)が運行するらしく、こことは下関が既に鮮魚運搬定期航路を操業していて、普通ならば光陽=下関フェリーとなるのだろうが、光陽市側の荷主が鋼材輸送なんかの場合、設備の整った門司側になる可能性もあるようだ。15000トン級、旅客700人のカーフェリーで、今年末か遅くとも来春の就航を目途にしているという。
 下関からは、既に釜山だけでなく、中国・大蒼、青島にもフェリーが操業中で、先だっての護衛艦くらまと韓国コンテナ船の衝突炎上事件で分かる通りの狭い関門海峡、正にフェリー・ラッシュといったところ。しかし、そこに一縷の不安材料が伏在していて、他ならぬ既に悪名ばかり高い無責任集団=海上保安庁が、以前と違ってもはや強権的に管理する体制に入っていて、果たして一体如何なるのやらとも、何よりもそっちの方が案じられてならない。

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 芥川龍之介は大正末に門司港から日本郵船の英国製「筑後丸」に乗船し上海に向かったらしいけど、金子光晴は嫁さんの里の長崎港から、同じく郵船の「長崎丸」・「上海丸」(五千トン級)で上海へ。昭和七年頃だと、長崎を午後一時に出て、翌午後三時には上海に到着したらしい。
 辻潤・まこと父子は、昭和はじめに、神戸から日本郵船の「榛名丸」(一万トン級)で上海・香港・シンがポール経由でマルセーユまで。
 大阪商船のインドネシア航路も面白そうだ。「バタビヤ丸」(四千トン級)で、阪神~門司~基隆~厦門~香港~マニラ~サンダカン~バタビヤ~サマラン~スラバヤ~マカッサ~サンダカン。これが長崎からの便だと、「唐行きさん」コースってところだろうか。

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2010年5月10日 (月)

迷走するタイ  アピシットから辻政信まで

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 タイの政治、相も変わらず昏迷し権謀術策に明け暮れ続けているようだけど、漸くアピシット民主党首相が、タクシン派に譲歩し晩秋に総選挙を実施することで一応落ち着いたようだ。
 先月、バンコクでの治安部隊とタクシン元首相の支持団体反独裁民主統一戦線(UDD)のデモ隊の衝突で日本人カメラマンを含む23人が死亡、800人以上がけがをした衝突事件の余燼消え去らぬ中、又、7日深夜サーラーデーン交差点付近とルンピニー公園第4ゲート付近で銃撃と爆発が起こり、警官が二人死んだらしい。
 タイの政治、大小様々な政党入り乱れていて、住んでいる訳でもいないし、元々"政局"や"政治屋"なんぞには日本のも含めて、余りに無内容且つ下劣過ぎて、てんで興味を持ってないのだけど、軍事クーデターでタクシン(派)を政権から追い出して、タイの特権的保守主義者や軍部、エリート輩の後ろ盾でその座に就いた民主党・アピシット首相、日本の民主党ともどもに何とも胡散臭い。別にタクシンやタクシン派を擁護する気も義理もないのだけど、元(げん)タイ人たるタイ東北(イサーン)の貧しい農民達に、今まで一度たりとも得られなかった医療やら何やらの優遇策、例え「ばらまき」であったとしても、彼等農民が当然に受けてなければならなかったはずのもの故、漸く農民達も政治意識に目覚め始めた、なんて話何処かで読んだ。

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 アピシット(政権)、何かといえば、あたかも錦の御旗の如く、「不敬罪」や「テロリスト」なるレッテル張りを連発し、タクシン派=UDDを貶め陥れ続けている。札付きの強権的権力主義者達の十八番だ。如何にも英国留学帰りのセリ・タイ(自由タイ)然とした英米の傀儡宜しく、少しは西欧民主主義の粉飾でもひけらかすのかと思いきや、札付きの保守主義者、つまり封建主義的な全体主義者でしかなかった。今時。
 「不敬罪」を政敵にやたらめった張り付けようとする輩にろくなのが居る訳もなく、よくそれでデモクラット面してられるなと呆れるばかり。タイは今でも立憲君主主義で、王政。つまり、いいとこ19世紀までの政体。日本ですら、例え形だけの物であったとしても、敗戦で制度としての天皇制とは一応離れていて、タイは封建時代の心性を未だ引き摺っているということでもあって、これは恥ずかしいことだろう。

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 そういえば、現国王のプミンポン=ラーマ九世、1946年6月9日朝、ボロマビマン宮殿の寝室で一発の銃声とともに兄・ラーマ八世マヒドン国王が、「銃弾が上腕部を貫通して頭部に達し」死亡するという突発事で、急遽王位を継承する羽目となった。彼自身は余り国王なんて職掌に着きたくはなかったらしい。
 九歳で即位し、二十歳で崩御したその若きマヒドン国王の変死事件、拳銃を持ち遊んでの事故説や殺害説等、事件の真相に迫ろうとすると「不敬罪」が立ちはだかり、今現在も尚、少なくともタイ国内では何人たりともアプローチ出来ず、やろうとすると忽ち官憲に捕縛され刑務所入りとなる。
 考えてみれば、自国の国王の暗殺事件なのにも拘わネらず、解明しようと試みると監獄に放り込まれるって何とも筋が通らなさ過ぎて、誰しも首を傾げざるを得ない。非合理に過ぎているからだが。しかし、何処の国にあっても、そんな憲兵尽く・不可解な強権発動って、必ずと言っていいほど、その裏に訝しい情実が蠢いているもの。

  マヒドン国王が死んだ時は、比較的リベラルらしいプリーディー(政権)で、保守主義者達から"共産主義者"というレッテルを貼られていたらしい。この事件で、プリーディーが殺害犯だという噂すら流され、その後起きた軍部クーデターで、彼は国外に逃亡を余儀なくされたらしい。その後、権力の座に就いたのが、悪名高いピブン・ソンクラームだった。ピブンソンクラームって、軍官僚出身で、1938年に首相に就任した翌年、政敵を一斉に逮捕し、逮捕された51人の中には王族すら含まれていて、18人を処刑したという札付き軍部強権政治の典型。それだけでも、あっ、やっぱりと人は推量し様々の不可解を了解してしまうものだが、普通所謂本当の愛国者だったら、なんとしても真相解明に努めるだろうし、民間人達のそんな試みすら無碍に抹殺しようとしたりすることはあり得ない。で、余り信憑性の見られない侍従達が死刑台に登らさせられただけで事件は終止符を打たれ、以後何人たりともこの事件に触れることができなくなった。
 
 プミンポン=ラーマ9世の協力の下で英国の小説家・ジャーナリストであるウィリアム・スティーブンソンが書いた《革命の王》じゃ、殺害犯として、これ又日本軍史に燦然と輝くぐらいに悪評高い旧大日本帝国軍参謀・辻政信を挙げているらしい。理由を「阿片」としているらしいが、詳細は読んでないので不明。戦前の日本軍や満州はもろアヘンに手を染めその中国人から吸い上げた膨大な利益を手中に収めていたし、タイも清国同様に英国等の圧力で国内に何千軒もの阿片窟を作らされていた。その権益がらみのことなのだろうか。

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  ブログ等見ると、殆どが判で押したように「辻はその頃タイには居ず中国に居たので不自然」と決めつけているけど、これもブログで見たもので直に読んだものではないけど、彼の《敵中三千里》に、1946年3月19日の項に、中国・重慶のホテル《勝利大厦》で蒋介石の国民党と毛沢東の共産党、そして米国政府首脳が集まって協議している折、タイのマヒドン国王もお忍びで飛行機でやって来て、別館に泊まっていたとある。マヒドン国王も参加したのかは定かでないが、陸路はともかく、空路ではそれほど難しくないというのが分かる。マヒドンは国王なので、乗り心地の悪い軍用機に乗ったとも思えず、辻だと実用本位の軍用機だろうから、もっと効率よくバンコクまで行けたはず。辻がバンコクまで極秘裏に潜行するというのは、蒋介石の国民党の支援の下でのみ可能だろう。勿論国民党も阿片利権には拘わっていたろうし、国民党の後ろには米国が居て、本を読んでないので推測を出ないけど、《革命の王》という形容から見て、マヒドン国王は、スイス生活が長く、リベラルな思想・信条を持っていたであろうし、それが国民党・米国には「容共」(共産主義を容認するというより、社会主義的な傾向)的と映り、折からインドシナ始め共産化し始めている危機感から十分に考えられる方途でもある。
 当時の国民党が腐敗・堕落し切っているのを目の当たりにしていた辻ではあるが、保身のため、反共主義のために実行役を肯った可能性は高いし、断る可能性の方が低い。尤も、果たしてそれなら辻である必要があったかどうか。それでも、遙か遠い中国からだから、秘密性・機密性が保たれるという側面は説得力もあるし、"謀略"という観点からしてもそっちの方が妥当性があるだろう。それで、"戦犯"辻政信は、米国の工作員として、英国の身柄引き渡し要求を退けて、戦後日本での生と活躍が保証されたのだろう、と納得できよう。

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