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2010年5月10日 (月)

迷走するタイ  アピシットから辻政信まで

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 タイの政治、相も変わらず昏迷し権謀術策に明け暮れ続けているようだけど、漸くアピシット民主党首相が、タクシン派に譲歩し晩秋に総選挙を実施することで一応落ち着いたようだ。
 先月、バンコクでの治安部隊とタクシン元首相の支持団体反独裁民主統一戦線(UDD)のデモ隊の衝突で日本人カメラマンを含む23人が死亡、800人以上がけがをした衝突事件の余燼消え去らぬ中、又、7日深夜サーラーデーン交差点付近とルンピニー公園第4ゲート付近で銃撃と爆発が起こり、警官が二人死んだらしい。
 タイの政治、大小様々な政党入り乱れていて、住んでいる訳でもいないし、元々"政局"や"政治屋"なんぞには日本のも含めて、余りに無内容且つ下劣過ぎて、てんで興味を持ってないのだけど、軍事クーデターでタクシン(派)を政権から追い出して、タイの特権的保守主義者や軍部、エリート輩の後ろ盾でその座に就いた民主党・アピシット首相、日本の民主党ともどもに何とも胡散臭い。別にタクシンやタクシン派を擁護する気も義理もないのだけど、元(げん)タイ人たるタイ東北(イサーン)の貧しい農民達に、今まで一度たりとも得られなかった医療やら何やらの優遇策、例え「ばらまき」であったとしても、彼等農民が当然に受けてなければならなかったはずのもの故、漸く農民達も政治意識に目覚め始めた、なんて話何処かで読んだ。

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 アピシット(政権)、何かといえば、あたかも錦の御旗の如く、「不敬罪」や「テロリスト」なるレッテル張りを連発し、タクシン派=UDDを貶め陥れ続けている。札付きの強権的権力主義者達の十八番だ。如何にも英国留学帰りのセリ・タイ(自由タイ)然とした英米の傀儡宜しく、少しは西欧民主主義の粉飾でもひけらかすのかと思いきや、札付きの保守主義者、つまり封建主義的な全体主義者でしかなかった。今時。
 「不敬罪」を政敵にやたらめった張り付けようとする輩にろくなのが居る訳もなく、よくそれでデモクラット面してられるなと呆れるばかり。タイは今でも立憲君主主義で、王政。つまり、いいとこ19世紀までの政体。日本ですら、例え形だけの物であったとしても、敗戦で制度としての天皇制とは一応離れていて、タイは封建時代の心性を未だ引き摺っているということでもあって、これは恥ずかしいことだろう。

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 そういえば、現国王のプミンポン=ラーマ九世、1946年6月9日朝、ボロマビマン宮殿の寝室で一発の銃声とともに兄・ラーマ八世マヒドン国王が、「銃弾が上腕部を貫通して頭部に達し」死亡するという突発事で、急遽王位を継承する羽目となった。彼自身は余り国王なんて職掌に着きたくはなかったらしい。
 九歳で即位し、二十歳で崩御したその若きマヒドン国王の変死事件、拳銃を持ち遊んでの事故説や殺害説等、事件の真相に迫ろうとすると「不敬罪」が立ちはだかり、今現在も尚、少なくともタイ国内では何人たりともアプローチ出来ず、やろうとすると忽ち官憲に捕縛され刑務所入りとなる。
 考えてみれば、自国の国王の暗殺事件なのにも拘わネらず、解明しようと試みると監獄に放り込まれるって何とも筋が通らなさ過ぎて、誰しも首を傾げざるを得ない。非合理に過ぎているからだが。しかし、何処の国にあっても、そんな憲兵尽く・不可解な強権発動って、必ずと言っていいほど、その裏に訝しい情実が蠢いているもの。

  マヒドン国王が死んだ時は、比較的リベラルらしいプリーディー(政権)で、保守主義者達から"共産主義者"というレッテルを貼られていたらしい。この事件で、プリーディーが殺害犯だという噂すら流され、その後起きた軍部クーデターで、彼は国外に逃亡を余儀なくされたらしい。その後、権力の座に就いたのが、悪名高いピブン・ソンクラームだった。ピブンソンクラームって、軍官僚出身で、1938年に首相に就任した翌年、政敵を一斉に逮捕し、逮捕された51人の中には王族すら含まれていて、18人を処刑したという札付き軍部強権政治の典型。それだけでも、あっ、やっぱりと人は推量し様々の不可解を了解してしまうものだが、普通所謂本当の愛国者だったら、なんとしても真相解明に努めるだろうし、民間人達のそんな試みすら無碍に抹殺しようとしたりすることはあり得ない。で、余り信憑性の見られない侍従達が死刑台に登らさせられただけで事件は終止符を打たれ、以後何人たりともこの事件に触れることができなくなった。
 
 プミンポン=ラーマ9世の協力の下で英国の小説家・ジャーナリストであるウィリアム・スティーブンソンが書いた《革命の王》じゃ、殺害犯として、これ又日本軍史に燦然と輝くぐらいに悪評高い旧大日本帝国軍参謀・辻政信を挙げているらしい。理由を「阿片」としているらしいが、詳細は読んでないので不明。戦前の日本軍や満州はもろアヘンに手を染めその中国人から吸い上げた膨大な利益を手中に収めていたし、タイも清国同様に英国等の圧力で国内に何千軒もの阿片窟を作らされていた。その権益がらみのことなのだろうか。

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  ブログ等見ると、殆どが判で押したように「辻はその頃タイには居ず中国に居たので不自然」と決めつけているけど、これもブログで見たもので直に読んだものではないけど、彼の《敵中三千里》に、1946年3月19日の項に、中国・重慶のホテル《勝利大厦》で蒋介石の国民党と毛沢東の共産党、そして米国政府首脳が集まって協議している折、タイのマヒドン国王もお忍びで飛行機でやって来て、別館に泊まっていたとある。マヒドン国王も参加したのかは定かでないが、陸路はともかく、空路ではそれほど難しくないというのが分かる。マヒドンは国王なので、乗り心地の悪い軍用機に乗ったとも思えず、辻だと実用本位の軍用機だろうから、もっと効率よくバンコクまで行けたはず。辻がバンコクまで極秘裏に潜行するというのは、蒋介石の国民党の支援の下でのみ可能だろう。勿論国民党も阿片利権には拘わっていたろうし、国民党の後ろには米国が居て、本を読んでないので推測を出ないけど、《革命の王》という形容から見て、マヒドン国王は、スイス生活が長く、リベラルな思想・信条を持っていたであろうし、それが国民党・米国には「容共」(共産主義を容認するというより、社会主義的な傾向)的と映り、折からインドシナ始め共産化し始めている危機感から十分に考えられる方途でもある。
 当時の国民党が腐敗・堕落し切っているのを目の当たりにしていた辻ではあるが、保身のため、反共主義のために実行役を肯った可能性は高いし、断る可能性の方が低い。尤も、果たしてそれなら辻である必要があったかどうか。それでも、遙か遠い中国からだから、秘密性・機密性が保たれるという側面は説得力もあるし、"謀略"という観点からしてもそっちの方が妥当性があるだろう。それで、"戦犯"辻政信は、米国の工作員として、英国の身柄引き渡し要求を退けて、戦後日本での生と活躍が保証されたのだろう、と納得できよう。

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