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2010年6月18日 (金)

晋作&龍馬の開国戦争1866年

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       龍馬。板塀の後ろの隣家が妙にリアル。

  慶応二年(1866年)六月十七日未明、蒸気機関の丙寅(へいいん)丸に乗り込んだ高杉晋作率いる帆船の癸亥(きい)丸、丙辰(へいしん)丸が、関門海峡をはさんだ対岸の譜代・小倉藩領=田野浦・新開・大久保へ、坂本龍馬・海援隊乗り込む蒸気機関・乙丑(いっちゅう)丸、帆船庚申(こうしん)丸が楠原(門司)へ突如一斉に激しく艦砲射撃を加え、小舟に乗り込んだ長州軍がなだれをうって上陸を開始した。
 
 浦賀沖のペリー率いる黒船来航以来、数百年続いた幕藩体制も佐幕だ攘夷だ開国だと揺れ続け、関門海峡をはさんで、外様であり尊皇攘夷派の急先鋒・長州と、譜代の佐幕派・小倉藩は、徳川幕府の出した「攘夷の儀」に関する幕令による解釈の相違に端を発したといわれる四カ国連合艦隊に対する攘夷砲撃事件、所謂「下関戦争」以降互いににらみ合いが続いていた。艦隊が直接攻撃しかけてきた訳ではないので「襲来」と認めなかった小倉藩は、門司側からの砲撃を求める長州藩の再三の要請を無視し続けた。
 どころか、フランス海軍の報復攻撃の際、門司・田野浦の山や海岸に、小倉藩の侍や地元の農町民達が物見游山宜しく陣取って見物三昧。更に四カ国連合艦隊勢揃いでの報復攻撃の際には、小倉藩士達が、源平合戦の折の要害の山城のあった海峡を一望できる古城山に酒まで持参し居並び、連合艦隊の砲弾が長州の陣地や砲台に命中する毎に、大きく歓声をあげたりしたという。結果は長州側の惨敗。高杉晋作も、この事件で、欧米帝国主義列強の力量を悟り、いたずらな攘夷からいっそ開国に転じ、藩内でも浮いた存在となって、他藩へ身をかわさざるを得なくなった。

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      高杉晋作と伊藤俊輔(博文)

  尊皇攘夷派主導の長州藩が、孝明天皇・幕府あるいは薩摩藩などの公武合体派(旧態依然の保守派)から京都から追放され、長州藩士達が藩主の赦免を求めて京都に軍事侵攻すると、孝明天皇は長州を「朝敵」として指弾し、幕府に長州征伐を命じた。
 動揺した長州藩の実権を保守派(俗論派)が握り、征長軍参謀の西郷隆盛の出した条件、攘夷派の三家老の切腹、山口城の破棄などを呑み、何とか事なきを得た。が、高杉晋作等は、早速下関で蜂起し、実権を握り、尊皇倒幕の旗印を鮮明にした。更に西洋式軍制を導入するため農町民達から志願者を募って「奇兵隊」を組織し、薩摩藩経由で最新式の武器を大量に購入した。

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 如何にも出来の悪い工業高校の面々って面構えが笑わせる。違いは、やはり凛としたものが窺えるところ。

  慶応二年(1866年)六月、第二次長州征伐、所謂「四境戦争」が、将軍・徳川家茂の命によって為された。長州を四カ所から攻撃するというもので、六月七日から十六日まで断続的に行われて長州側の優勢に終わり、十七日、"下関口=小倉口攻撃"が最期の決戦の場となった。
 関門海峡をへだてた小倉藩は代々の譜代大名で、幕軍は征長先鋒総督・紀州藩主・徳川茂地承、九州諸藩監軍・老中小笠原長行の下、肥後熊本藩はじめ九州諸藩、小倉藩の諸隊が布陣し、圧倒的な海軍力をももって待ち構えていた。
 開戦間近になってユニオン号(乙丑丸)で駆けつけた坂本龍馬と海援隊は、高杉晋作の要望もあり参戦することとなったらしい。但し、実は龍馬はこの日の戦いには参加してなくて、下関側の山(火の山?)に登って、この歴史的な戦を俯瞰・観戦していたという説もある。彼の書き残したその日の戦いの図絵が残されているからのようだが、兄の「坂本権平・一同宛」の書状に認めた絵図に、
 「私の乗りたる蒸気船
  桜嶋と云う船は蒸気輪に縄巻き付き
  進退出来ざる あり。此処?(しんにゅうに占)流れ来たりしに碇を
  おろしても引塩なれば船足止まらず。」
 とあり、やはりユニオン号=桜嶋丸=乙丑丸に乗船していた。トラブルで航行不能に陥り潮に流されてしまったが、敵の幕府・小倉軍が戦慣れしてなくて難なきを得たようだ。

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       手前が長州=下関側、向かいの小さな岬が門司側 

 この龍馬の手書きらしい絵図(龍馬は送った先にその書状のコピーを造らせ、他の人物にそのコピーを送らせていたらしい)には、更に、門司側の楠原(現在のレトロ海岸エリア)に上陸した長州軍の一糸乱れぬ隊列の動きに感服し、小倉藩士達の楯を構え右往左往するばかりを見苦しいと一喝。時代遅れな装備の小倉・幕府軍の敗走を尻目に、高杉晋作は深追いせず、全軍下関引きあげを命令。門司側の田野浦・楠原の民家や小倉・幕府軍の陣屋を焼き払ったようだ。龍馬の絵図には、上記の二カ所に、「此日此処焼きつくす」と記している。又、こうも書いている。
 「小倉より長府をせむると
  聞より十七日の暁天此方より攻たり。」
 つまり、小倉・幕軍が翌日長府(下関)に上陸する計画なのを事前に知って、晋作が逆を狙って未明の内に艦砲射撃と上陸を決行し、小倉・幕軍は寝耳に水で大騒ぎ、あれよあれよと云う間に、装備と近代と中世の戦法の差がものをいって大勝。田野浦海岸に繋いであった無数の船も焼き払われてしまったようだ。

 後、七月三日の大里(門司側)上陸作戦の際にも、浜側や少し入った観音山周辺に展開した幕軍に、大里沖に待機していた幕府海軍の艦船を籠絡しながら艦砲射撃し、八百人規模の長州軍上陸を援護し、二十七日の「赤坂の戦」の折にも、大里・彦島沖で、幕府軍艦を牽制しながら龍馬指揮する長州海軍三艦から砲撃を加え、高杉晋作や山縣狂介(有朋)、伊藤俊輔(博文)達を上陸させ、翌・二十八日には大里から龍馬は上陸し、晋作と一緒に観戦していたらしい。
 「先手、しばしば敗れしより、高杉晋作、東の陣より錦の手のぼりにて下知し、薩州の使者、村田新八と色々咄(はな)しいたしなどし、へたへた笑いながら気をつけて居る。敵は肥後兵などにて強かりしければ、晋作、下知して酒樽をかきいだして、戦場にこれを開かせなどして、しきりに戦わせ、とうとう、敵を打ち破り、肥後の陣幕、旗など残らず分取りいたしたり。」  
  前日二十七日に、古色蒼然とした戦国時代の甲冑に身を固めた幕軍にあって、唯一最新鋭のアームストロング砲やら小銃で武装した肥後藩の猛攻の前に退却を余儀なくさせられた長州軍が、再度晋作の指揮の下、折り重なる屍を乗り越えて漸く活路が開かれた時の、悠揚迫らぬ晋作の様を傍で眺めていた龍馬の活写。

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     寂れた現在の田ノ浦の静かな佇まい

  その後、それまで秘められていた将軍・家茂の死去の報を内密理に聞き知った幕軍の総帥・老中小笠原長行が遁走し、肥後軍はじめ九州諸藩の軍勢も潮が引くように引きあげ、残った小倉藩も、小倉城を焼き、城下の町民達すら一斉に山岳部へと逃れた。戦はゲリラ戦の様相を呈し始め、そうなると小倉藩側も本来の力を発揮でき互角の消耗戦が続いたものの、所詮本拠地を喪った小倉藩側の先は見えていて、薩摩・肥後藩が仲介し、和議が成立。この戦の敗北で、数百年続いた徳川幕府の命運は完全に尽き、翌慶応四年に明治新政府が誕生することとなる。その前年の慶応三年四月に高杉晋作は下関で病死し、十一月には龍馬が京都・近江屋で暗殺された。時代の趨勢、世界の趨勢であった開国、封建制を覆し四民平等の社会を求めた一つのエポック、そしてそれがやがて富国強兵→欧米帝国主義列強の一員となり、アジアを浸食し始める礎ともなってしまった歴史の逆説。

    参考文献 「幕末異国船出没と高杉・島村の長倉戦争」田郷利雄

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