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2010年6月の3件の記事

2010年6月27日 (日)

ニュー・デリー、メインバザールの安宿《ホテル・ヴィシャール》

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   '92年の末頃、ヒンドゥー=モスレムの紛争で、こんな界隈でも爆弾事件が起こり夜間外出禁止令が出たという、ニュー・デリー駅前から真っすぐ伸びたメインバザールの通りの奥まった、外人旅行者(バックパッカー)相手の安宿やレストラン、カフェの連なった一画に、色褪せた旧い佇まいの《ヴィシャール・ホテル》Vishal があった。ダブルで70Rs(ルピー)。
 その建物の一階に"APETITE"と"Lords cafe"という外人向けレストランが通りに面して隣り合っていて、この年あたりから電話一本商売の「長距離電話屋」がメインバザールはじめインド中に雨後の竹の子のように林立し出し、既成のくすんだ佇まいの"Lords"の方にも設えられていた。
 
 ちょっと先を折れた露地のハニーGHやもっと先のグリーンGHより高めの料金だったけど、一応ホット・シャワーが備わっていた。グリーンにもあったが、年々全てがしょぼくなってきて殆どラダック並に"バケツのお湯"に場末ってしまった。冬場は朝晩は確実に寒いニューデリーじゃ、それでもないよりは増しだったが。
 部屋は悪くはないけど、やっぱし薄暗く、屋上も使えず、洗濯物が乾きにくく、部屋で扇風機をかけっぱなしにして乾かすしかなかった。そんな部屋にずっと居れる訳もなく、殆ど外に出、カフェなんかで過ごすしかない。ともかく物価が安いインドだからそれも可能だった。居住性はまだ中庭のあるグリーンの方が若干好かったもののグリーンの建物は造りがチャチで暑熱日には到底天井ファンや扇風機の部屋には居られやしなかった。(グリーンGHのサイトを見つけたら、2005年に改装し、シャワーは全部ホット・シャワーになったとあった。写真見ると、すっかり小綺麗になってしまった。天井の梁をネズミが這ってた粗屋とは雲泥の差。しかし、上に居たアフリカン達どうなったのだろう?)
 
 前夜雨でも降ると、朝からどんよりとした雲の下肌寒く、ぬかるんだ路面を走るオート・リキシャがどす黒い飛沫を跳ね上げる。果物屋やフルーツ・ジュース屋のある角の狭い一画で、人の頭ぐらいの高さに張られたロープの上で、5、6歳くらいの身体の柔らかい妹が竿を両手でもって渡ったりするお決まりの簡単な軽業を披露し、下では7、8歳ぐらいの姉が左右両面の太鼓を叩いて囃したてる。寒空の下、客もまばらで、せいぜい物好きな外人が一ルピー硬貨を渡すぐらい。トボトボと小さな芸人姉妹は、又別な場所へと泥まみれの素足で去っていった。

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 "Lords cafe"の窓から外の通りを眺めると、白っぽい衣裳の子供のサドゥーを装った乞食が通りを頻繁に行ったり来たりし、白人が通るとくっついてまわる。
 足先が骨が折れたようにブラブラした脚に包帯や紐をグルグル巻いて、ゆっくりと牛歩の如く通りを進んでいる十代中頃の乞食の傍を、小さな車が四つ付いた台車の上に胡座をかいて坐った二十歳ぐらいの乞食青年が、小綺麗に整髪された少し長めの黒髪を後ろになびかせながら、両手に持った木製の掻き具で、すーっと通り過ぎていった。なんともブリューゲルの中世ヨーロッパの図だが、以前、ボンベイの通りで、やはり同じ台車に乗った如何にも気の好い三十歳台くらいの乞食が、視線が会うと、にっこり笑い、一掻きで、六、七メートルぐらいをスーッと滑り寄ってきたことがあった。思わず一ルピー渡したけれど、車の軸に十分な潤滑油をやって整備ばんたんという、プロ意識に目覚めた、客の微妙な意識と感情をちゃんと把握している者の所作であった。あっぱれなものだ。所詮デリーの庶民的なパハールガンジ周辺じゃやっぱり知れたもの。第一、道が悪すぎる。
 
 "APETITE"と"Lords cafe"は隣り合わせていて壁をくりぬいた出入り口から簡単に行き来できるのだが、以前短期間だったけど、二十歳前くらいの娘達が三人、ウェイトレスとして働いていたことがあった。インドのこの手のバックパッカー相手のカフェやレストランは、大抵厨房関係は云うに及ばず、客あしらいのウェイターやキャシャーの類は皆男達ばかり。この二つの店だけが例外的に、若い娘を雇っていたに過ぎない。
 見た感じも学生っぽく、教科書みたいのを拡げていたこともあった。恐らく、アルバイトの類だろうが、しかし、画期的と言えば画期的だろう。ウェイトレス&レジだったけど、一人は細い黒縁眼鏡をかけた色白娘で、薄い小麦色した小柄なすらりとした娘はいつもサリーやパンジャビー・ドレス身に纏っていた。その娘のお気に入りの色なのか、ほっそりとした身体にフィットした緑色のサリーなんて仲々好いものだった。和気あいあいで、頻く喋った。
 ある時、"Lords cafe"の方で、猿回しの小猿を厨房の男が借りてきて、いきなり眼鏡をした娘の前に持っていくと、「ギャーッ!!」と物凄い叫び声をあげ、そのまま隣の"APETITE"の奥まで遁走したことがあった。幾ら都市部の若い娘とは云え、凶暴な赤顔のバンダル猿とは別種のおとなしそうな小猿なのに、インド娘が日本人の女達と同様な反応を示したことに、思わず感心してしまった。そんなものなのか、と。猿=凶暴ってイメージや固定観念でもあるんだろうか。インドも都市部じゃ、見掛けるのはせいぜい野良牛ぐらいで、自然と疎遠なのだろう。バナラシーやプシュカルだと、又反応も違ったものになるのだろうが。

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2010年6月18日 (金)

晋作&龍馬の開国戦争1866年

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       龍馬。板塀の後ろの隣家が妙にリアル。

  慶応二年(1866年)六月十七日未明、蒸気機関の丙寅(へいいん)丸に乗り込んだ高杉晋作率いる帆船の癸亥(きい)丸、丙辰(へいしん)丸が、関門海峡をはさんだ対岸の譜代・小倉藩領=田野浦・新開・大久保へ、坂本龍馬・海援隊乗り込む蒸気機関・乙丑(いっちゅう)丸、帆船庚申(こうしん)丸が楠原(門司)へ突如一斉に激しく艦砲射撃を加え、小舟に乗り込んだ長州軍がなだれをうって上陸を開始した。
 
 浦賀沖のペリー率いる黒船来航以来、数百年続いた幕藩体制も佐幕だ攘夷だ開国だと揺れ続け、関門海峡をはさんで、外様であり尊皇攘夷派の急先鋒・長州と、譜代の佐幕派・小倉藩は、徳川幕府の出した「攘夷の儀」に関する幕令による解釈の相違に端を発したといわれる四カ国連合艦隊に対する攘夷砲撃事件、所謂「下関戦争」以降互いににらみ合いが続いていた。艦隊が直接攻撃しかけてきた訳ではないので「襲来」と認めなかった小倉藩は、門司側からの砲撃を求める長州藩の再三の要請を無視し続けた。
 どころか、フランス海軍の報復攻撃の際、門司・田野浦の山や海岸に、小倉藩の侍や地元の農町民達が物見游山宜しく陣取って見物三昧。更に四カ国連合艦隊勢揃いでの報復攻撃の際には、小倉藩士達が、源平合戦の折の要害の山城のあった海峡を一望できる古城山に酒まで持参し居並び、連合艦隊の砲弾が長州の陣地や砲台に命中する毎に、大きく歓声をあげたりしたという。結果は長州側の惨敗。高杉晋作も、この事件で、欧米帝国主義列強の力量を悟り、いたずらな攘夷からいっそ開国に転じ、藩内でも浮いた存在となって、他藩へ身をかわさざるを得なくなった。

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      高杉晋作と伊藤俊輔(博文)

  尊皇攘夷派主導の長州藩が、孝明天皇・幕府あるいは薩摩藩などの公武合体派(旧態依然の保守派)から京都から追放され、長州藩士達が藩主の赦免を求めて京都に軍事侵攻すると、孝明天皇は長州を「朝敵」として指弾し、幕府に長州征伐を命じた。
 動揺した長州藩の実権を保守派(俗論派)が握り、征長軍参謀の西郷隆盛の出した条件、攘夷派の三家老の切腹、山口城の破棄などを呑み、何とか事なきを得た。が、高杉晋作等は、早速下関で蜂起し、実権を握り、尊皇倒幕の旗印を鮮明にした。更に西洋式軍制を導入するため農町民達から志願者を募って「奇兵隊」を組織し、薩摩藩経由で最新式の武器を大量に購入した。

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 如何にも出来の悪い工業高校の面々って面構えが笑わせる。違いは、やはり凛としたものが窺えるところ。

  慶応二年(1866年)六月、第二次長州征伐、所謂「四境戦争」が、将軍・徳川家茂の命によって為された。長州を四カ所から攻撃するというもので、六月七日から十六日まで断続的に行われて長州側の優勢に終わり、十七日、"下関口=小倉口攻撃"が最期の決戦の場となった。
 関門海峡をへだてた小倉藩は代々の譜代大名で、幕軍は征長先鋒総督・紀州藩主・徳川茂地承、九州諸藩監軍・老中小笠原長行の下、肥後熊本藩はじめ九州諸藩、小倉藩の諸隊が布陣し、圧倒的な海軍力をももって待ち構えていた。
 開戦間近になってユニオン号(乙丑丸)で駆けつけた坂本龍馬と海援隊は、高杉晋作の要望もあり参戦することとなったらしい。但し、実は龍馬はこの日の戦いには参加してなくて、下関側の山(火の山?)に登って、この歴史的な戦を俯瞰・観戦していたという説もある。彼の書き残したその日の戦いの図絵が残されているからのようだが、兄の「坂本権平・一同宛」の書状に認めた絵図に、
 「私の乗りたる蒸気船
  桜嶋と云う船は蒸気輪に縄巻き付き
  進退出来ざる あり。此処?(しんにゅうに占)流れ来たりしに碇を
  おろしても引塩なれば船足止まらず。」
 とあり、やはりユニオン号=桜嶋丸=乙丑丸に乗船していた。トラブルで航行不能に陥り潮に流されてしまったが、敵の幕府・小倉軍が戦慣れしてなくて難なきを得たようだ。

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       手前が長州=下関側、向かいの小さな岬が門司側 

 この龍馬の手書きらしい絵図(龍馬は送った先にその書状のコピーを造らせ、他の人物にそのコピーを送らせていたらしい)には、更に、門司側の楠原(現在のレトロ海岸エリア)に上陸した長州軍の一糸乱れぬ隊列の動きに感服し、小倉藩士達の楯を構え右往左往するばかりを見苦しいと一喝。時代遅れな装備の小倉・幕府軍の敗走を尻目に、高杉晋作は深追いせず、全軍下関引きあげを命令。門司側の田野浦・楠原の民家や小倉・幕府軍の陣屋を焼き払ったようだ。龍馬の絵図には、上記の二カ所に、「此日此処焼きつくす」と記している。又、こうも書いている。
 「小倉より長府をせむると
  聞より十七日の暁天此方より攻たり。」
 つまり、小倉・幕軍が翌日長府(下関)に上陸する計画なのを事前に知って、晋作が逆を狙って未明の内に艦砲射撃と上陸を決行し、小倉・幕軍は寝耳に水で大騒ぎ、あれよあれよと云う間に、装備と近代と中世の戦法の差がものをいって大勝。田野浦海岸に繋いであった無数の船も焼き払われてしまったようだ。

 後、七月三日の大里(門司側)上陸作戦の際にも、浜側や少し入った観音山周辺に展開した幕軍に、大里沖に待機していた幕府海軍の艦船を籠絡しながら艦砲射撃し、八百人規模の長州軍上陸を援護し、二十七日の「赤坂の戦」の折にも、大里・彦島沖で、幕府軍艦を牽制しながら龍馬指揮する長州海軍三艦から砲撃を加え、高杉晋作や山縣狂介(有朋)、伊藤俊輔(博文)達を上陸させ、翌・二十八日には大里から龍馬は上陸し、晋作と一緒に観戦していたらしい。
 「先手、しばしば敗れしより、高杉晋作、東の陣より錦の手のぼりにて下知し、薩州の使者、村田新八と色々咄(はな)しいたしなどし、へたへた笑いながら気をつけて居る。敵は肥後兵などにて強かりしければ、晋作、下知して酒樽をかきいだして、戦場にこれを開かせなどして、しきりに戦わせ、とうとう、敵を打ち破り、肥後の陣幕、旗など残らず分取りいたしたり。」  
  前日二十七日に、古色蒼然とした戦国時代の甲冑に身を固めた幕軍にあって、唯一最新鋭のアームストロング砲やら小銃で武装した肥後藩の猛攻の前に退却を余儀なくさせられた長州軍が、再度晋作の指揮の下、折り重なる屍を乗り越えて漸く活路が開かれた時の、悠揚迫らぬ晋作の様を傍で眺めていた龍馬の活写。

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     寂れた現在の田ノ浦の静かな佇まい

  その後、それまで秘められていた将軍・家茂の死去の報を内密理に聞き知った幕軍の総帥・老中小笠原長行が遁走し、肥後軍はじめ九州諸藩の軍勢も潮が引くように引きあげ、残った小倉藩も、小倉城を焼き、城下の町民達すら一斉に山岳部へと逃れた。戦はゲリラ戦の様相を呈し始め、そうなると小倉藩側も本来の力を発揮でき互角の消耗戦が続いたものの、所詮本拠地を喪った小倉藩側の先は見えていて、薩摩・肥後藩が仲介し、和議が成立。この戦の敗北で、数百年続いた徳川幕府の命運は完全に尽き、翌慶応四年に明治新政府が誕生することとなる。その前年の慶応三年四月に高杉晋作は下関で病死し、十一月には龍馬が京都・近江屋で暗殺された。時代の趨勢、世界の趨勢であった開国、封建制を覆し四民平等の社会を求めた一つのエポック、そしてそれがやがて富国強兵→欧米帝国主義列強の一員となり、アジアを浸食し始める礎ともなってしまった歴史の逆説。

    参考文献 「幕末異国船出没と高杉・島村の長倉戦争」田郷利雄

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2010年6月 5日 (土)

《イザベラ》伊莎貝拉  1999年マカオ返還故事

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  香港にも行ったこともないけど、マカオも未踏で、タイのペン・エーク監督、浅野忠信主演《インヴジブル・ウェーブ》でほんのちょっとだけマカオの街並みが垣間見えたぐらい。マカオというと"ギャンブル"の町ってイメージしかなく、香港に較べて今一つ印象が薄い。ザビエルのイエズス会がアジアに跋扈した頃、長崎との交易で国際港として繁栄を極めていたらしいが、徳川幕府が鎖国令を出して後、次第に凋落していったという。人口50万で人口密度も高い植民地都市だったのが、1999年に中国に返還され、中国の特別区ではあるけど人口の95パーセントが中国人の一都市に落ち着いてしまったようだ。因みに、現在のマカオの住民一人当たりの購買力は日本より勝っているという。

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 もろマカオの1999年の中国への返還期を舞台にしたこの2006年の作品《イザベラ》で、マカオの大体の雰囲気は分かったものの、この手の映画は可成り切り抜かれて構成されてしまうので、例えば、ジャ・ジャンクー(賈樟柯)の彼の故郷たる山西省汾陽市の埃っぽい雑然とした典型的な中国の地方都市をこれ見よがしにぐらいに丸ごと呈示してみせるのと相違し、見えない部分ってのが気にかかってしまう。
  監督のパン・ホーチョンの美意識なのか、あるいは撮影のチャーリー・ラムのものなのか、独特の落ち着いた色調が仲々好い。ペン・エークやフランス=ベトナムのトラン(チャン)・アン・ユンに似た感じ。劇場では観てないが、DVDとYOU TUBEで観た。しかし、YOU TUBEの小さなウィンドウで街並みは些かしんどい。最近はYOU TUBEでも、高品質画面のも出始め、画面もそれなりに大きく、それだと背景の街並みも何とか"観"れるようになったけど。

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 タケシの作品にも頻(よ)くあるけど、"遊び"があっちこっち頻繁に挿入されていて、むしろコミカルな仕様と云えなくもない。小肥りした坊主頭の停職中のヤサグレ刑事役のチャップマン・トーのキャラクターも影響しているだろう。部屋代溜めて追い出された娘ヤンのズックの後ろを踏み潰した素足履きには香港=マカオでもそういう風潮・風俗ってあるのかと感心しつつ、実際は17歳の女子高生だったイザベラ・リョン、"マカイエンサ"と呼ばれる中国=ポルトガルのハーフ、スラリとした伸びやかな肢体の可成りの美形で、このアンバラスがよりコミカルに見せているに違いない。

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 返還前のマカオは文字通り香港と並ぶマフィア=犯罪の巣窟だったようで、社会主義=人民中国に返還される直前にはポルトガルの世間体もあってか、粛正やら色々あったようだ。香港とは又一味違ったマカオの返還時の一つのエピソードってところだろうか。
 タイトルを、娘ヤンの飼っていて、家賃滞納で部屋を追い出された折、逃げだして行方不明になり、ある少女に拾われて飼われ、名も"ドンドン"と変えられてしまった飼い犬"イザベラ"にしたのは、父親知らずに母親の手で育てられてきて、その母親も死んで天涯孤独の独り身になったヤンの運命ともどもに、中国への返還=帰属を前にした、マカオの人々の孤独と不安の心象風景、その点描ってところなのか。

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 物語は、1999年返還の直前のマカオ、汚職で停職中の刑事スンは、先の見えない日々を女や博打、酒にうつつを抜かしていた。そんなある日、飲み屋で、見慣れない若い娘が現れ、一晩ベッドを伴にすることに。ところが、その娘ヤン、実はスンの若い頃、恋人エラに産ませた実の娘だと告げ、スンは呆然。それ以降、家賃滞納で部屋を追い出され行くところもなくなったヤンと一緒に父娘の生活を余儀なくされてしまう。
 その内次第に互いの心もうち解け、親密な普通の親子関係になってゆくが、嘗ての恋人エラが、スンの後に付き合っていた男の処に赴いて確かめてみると、何とヤンはスンの娘じゃなくて、その男との娘であったのだ。男は今更名のり出る気もなく、スンはヤンにそのことは告げず、今まで通りの関係を続ける。
 結局、裁判を避けるためのバンコクへの国外逃亡を断念し、潔く裁判を受け、数年で出れるはずと、ヤンの運転するスクーターの後ろに乗って裁判所へ向かう・・・

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 三回ほど、唐突に画面に現れる必ず何かを無心に口いっぱいに頬張りながら、その食べ物の注釈じみた講釈をする何処かで見たことのある厳つい顔・・・"香港人も香港も大嫌い"な香港映画悪役男アンソニー・ウォン。この映画の雰囲気にちょっと唐突なカットが面白い。手法的にはもはや陳腐なのだろうが、しかしアンソニー・ウォンのキャラクター故に効果的。ともかく、中国人って貪欲なくらいに食べることが好きのようで、そのパワーたるや世界を、とりわけ唯我独尊的に世界を搾取し奢侈に耽ってきた西側先進国を震え上がらせたくらいだが、スンやヤンのように取り澄ました食べ方じゃなく、スンのボス役のアンソニー・ウォン、しゃにむに掻っ喰らい続ける。このシーンを観た白人達や名誉白人達が、十何億ものそんな蚕が一斉にひたすらガツガツと世界中の食物を蚕食してゆくような脅威を覚えてしまいかねない。

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セン(刑事) チャップマン・トー
ヤン(娘)  イザベラ・リョン
センの上役  アンソニー・ウォン

監督  パン・ホーチョン(彭浩翔)
脚本  パン・ホーチョン、キーラン・パン、
    デレク・ツァン、ジミー・ワン
撮影  チャーリー・ラム
音楽  ピーター・カム
制作  不是兄弟有限公司   2006年(香港) 

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