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2010年7月の3件の記事

2010年7月31日 (土)

《レオン》 死に至る禁断の愛

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  1994年といえば、《フォレスト・ガンプ》とか《トルゥー・ライズ》、国内では深作欣二の《忠臣蔵外伝四谷怪談》なんかが流行り、巷では所謂オーム真理教の松本サリン事件やルワンダの大量虐殺、前年の冷夏から現在に繋がる猛暑の夏に変転した異常気象の到来の時代でもあった。当方も海外・国内を繰り返していた頃で、旅先の新聞で初めて知ることが少なくなかった。そんな中、何処かで観たことのあるような、しかし、フランスの新鋭監督・リュック・ベンソンのハリウッド一作目《レオン》が公開になった。
 観てすぐに頭に浮かんだのが、M・スコセッジの《タクシー・ドライバー》とジョン・カサベテス監督の《グローリア》であった。特に、カサベテスの嫁さんであるジーナ・ローランズ、チャーミングだけどれっきとした中年おばさんが主人公の《グローリア》はプロットまでがそっくり。マフィアの一員だった小さな少年の親が組織内のもつれで家族全員殺害される。同じアパートの階の元マフィアの愛人グローリアに助けられ、女だてらにピストル片手にマフィアと戦いながら逃げ回るという話。少年が少女に替わり、中年女が中年男に入れ替わっただけ。これは殆どリメークってところだが、そんなクレジット見たこともなく、一体どうなっているのだろう。本物のリメークは別に1998年にシャロン・ストーンが演じていたものがあるらしい。

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 更にロバート・デ・ニーロの《タクシー・ドライバー》の、マフィアから少女を救出するという基本的シチュエーションが同じだし、明らかに意識しているのも映画を観れば了解できる。所謂オマージュって奴だろうか。 《グローリア》はカサベテスが自分の撮りたい映画を作るための制作費捻出のためのコマーシャル映画だったらしけど、この《レオン》もリュック・ベンソンが別の撮りたい映画の資金作りに撮ったものという。確かに、下敷きにした両作品に可愛い少女と殺し屋という取り合わせは、もうそれだけで予めヒットを約束してくれたのだろうし、気鋭のリュック・ベンソンなら尚更だったろう。

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 もう一つ、もっと古いフランス映画《シベールの日曜日》という孤児少女とベトナム帰りの記憶喪失の元フランス軍パイロットの無垢の愛の悲劇譚を観た記憶があって、ラスト近く、ナイフを弄ぶ少女の自己陶酔に満ちた危うい姿態が(それが又セクシャルな陶酔をも髣髴とさせ)、第三者的=世間的には、病んだベトナム帰還兵の恐るべき変質的犯罪として断罪され、悲劇を結果した。シベール(少女の名)のロマンチックな少女的自己陶酔世界に、現実に疎外された帰還兵ピエールが引き込まれてしまったのだ。(尤も、ベトナムといっても、第一次ベトナム戦争の方で、ベトコンではなく、その一世代前の解放勢力ベトミンとの戦い。この図式は、直接的にではないが、《タクシー・ドライバー》の方に引き継がれている)
 《レオン ディレクターズ・カット版》の方では明瞭で、明らかにレオンは、十二才のマチルダの自己陶酔世界に引きずり込まれ、少女の薄い胸の内に滾る"女"(おんな)性に絡め取られてしまっている。近代では、偽善的・自己欺瞞的に禁制・御法度として封じ込まれてしまった思春期女性=少女との恋愛・交歓故に、権力・体制の側からの軛として"死"あるいは"破滅"が結果する。少なくとも、公共媒体である映画に於(お)いては、ある種の約束事ででもあるかのように。

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 そんな些かの危うさを含んで、当時フランスの新進気鋭の監督・リュック・ベンソンの《レオン》は、天涯孤独となった少女マチルダと異国から移民してきた殺し屋レオンとのふとした偶然から寝食を共にする羽目になり、齟齬がやがて愛情にまで変容しかなわぬ恋として潰え去る悲劇的恋愛譚を作った。もう一方で、家族を殺された怨みをはらすために、自らの手でそしてレオンに仇であるスタンフィールド麾下の麻薬捜査局DEAの殺害を依頼しレオンが遂行する復讐譚でもある。この復讐という契機が、他の《シベールの日曜日》にも《タクシー・ドライバー》、《グローリア》にもない独自性だろう。ところが、実際には淡々と描かれていて、ジリジリと昏く燃え続ける復讐の紅蓮の炎って作りではない。むしろ復讐は口実に過ぎなくなっている。

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 ヨーロッパから移民してきたレオンはプロの殺し屋。
 トニーのイタリアン・レストランで仕事を受け、英語の読み書きが出来ないため金の大半はトニーに預けていた。ある日、レオンのアパートの同じ階に住む顔なじみになったばかりの少女マチルダの家族の部屋に、怪しげな風体の男達が武器を手に押し入った。麻薬の量を誤魔化したのがばれ、一味から報復を受けたのだった。たまたまレオンに渡す牛乳をついでに買いに外へ出ていたマチルダ以外の家族全員が殺されしまい、戻ってきたマチルダは異変に気付き、ちらりと廊下に倒れていた家族の死体を見てしまい、すがる思いで真っ直ぐレオンの部屋に向かいベルを押す。レオンはためらった。ここでマフィヤなんかと揉めたくはなかったからだが、必死でベルを押し続ける少女の姿に敗け、ドアを開けてしまう。
 そこから少女マチルダと中年殺し屋レオンとの奇妙な関係と生活が始まる。
 マチルダは家族、とりわけ彼女に懐(なつ)いていた弟の仇をとるため、レオンに殺し屋の手ほどきをうけることになる。最初、マチルダをいっそのこと殺してしまおうとしたレオンであったものの、「女と子供は殺さない」をモットーにしていたこともあって果たせず、生来のうぶさもあってずるずるとマチルダのペースに嵌ってゆくことになる。
 そしていつの間にか二人は互いに惹かれ会うようになり恋に陥ってしまう。専らプラトニックなものではあったが。(当然、セクシャルな領域まで踏み込んでゆくことは映画会社としては問題外のことであろうし、資金作りのために作る映画でそんな冒険などベンソンの脳裏を過ぎりもしなかったろう。)

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 そんなある日、マチルダが仇の頭目が、実は麻薬捜査局DEAのリーダーであることが分かり部署の部屋番号まで突き止める。家族の住んでいた部屋の床下から発見した札束と弟の仇をとる依頼を認めた紙切れを一枚添えてテーブルの上に置き、マチルダは単身、銃を隠しイタリアン・フードの出前を装って件のスタンフィールドの部屋に向かう。ところが、見つかってしまい不首尾に終わる。その時、突然レオンが部屋に現れ、部屋に居合わせた刑事達を射殺しマチルダを救出する。
 そして、レオン達の部屋をトニーから聞き出したスタンフィールドの寄こしたスワット部隊が襲うが、てんで歯が立たず、すぐさま市警総動員になる。それでも後一歩という処で、スタンフィールドに背後から撃たれ、とどめを撃とうとして倒れたレオンの上に馬乗りになったスタンフィールドの手に、瀕死のレオンがマチルダからの贈り物を手渡す。こと切れたレオンを見下ろしながら自分の掌に渡されたものを確かめてみると、果たして手榴弾の安全ピンであった。レオンの身体中に手榴弾(爆弾)が吊されているのを発見した直後、大爆発を起こし、スタンフィールドは木っ端微塵となって吹き飛んでしまった。一人、マチルダは以前籍を置いていた私立の特殊学校に舞い戻る。マチルダと巡り会う前までレオンの唯一の心の友だった植木を、学校の校庭に埋めて。

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 この映画、大きな中年男と少女とのアンバランスな関係が面白いのだろうけど、脇役の殺人ブローカーのイタリアン・レストランの経営者トニー役のダニー・アイエロ、スパイク・リーの《ドゥー・ザ・ライトシング》でのピザ屋の経営者サルを想起させ、全く違和感がない。一方、汚職デカの頭目、スタンフィールド役のオールドマンも彼の怪演ではまり役って感じで、前年の《トゥルー・ロマンス》でも可成りエキセントリックなポン引き役で異彩を放っていた。

 《レオン》以前、リュック・ベンソンはフランス国内で、《ニキータ》を撮っていて、この成功がハリウッドに認められたのだろう。確かにあらゆる面でナウい気鋭ではあるけど、個人的にはニキータ自身が余りに情けなさ過ぎて白けるばかり。要は脚本の問題なのかも知れないが、ヒーローどころか、イジイジと権力の走狗になり落ちてしまう。そんなのが面白い訳もなく、フランスの情況とはそんなものかと訝ったものだ。
 

 レオン          ジャン・レノ
 マチルダ         ナタリー・ポートマン
 トニー(殺人ブローカー) ダニー・アイエロ
 スタンフィールド(DEA) ゲイリー・オールドマン
 マーキー    (DEA) ピーター・アペール
 マチルダの父親      マイケル・バダルコ

  監督 リュック・ベンソン
 脚本 リュック・ベンソン
 撮影 ティエリー・アルボガスト
  音楽 エリック・セラ
 制作 ガウモント (米・仏合作)1994年

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2010年7月25日 (日)

バックパッカーの楽園 上海《浦江飯店》

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  上海といえば、バックパッカー達にとって、以前はアジア大陸から陸路で延々とユーラシア大陸・アフリカに至る玄関口であり、とりわけ貧乏旅行を旨とするパッカー達にとっては廉価な海路の玄関口でもあった。(新)鑑真号・蘇州号で上海に入るパッカー達にとって、港から歩いてたった五分の"プージャン"《浦江飯店》は、南京東路や外灘ワイタンも近いこれ以上利便性のある宿は他になかった。そして、何よりも佇まいが、真向かいに聳える名所・上海大厦シャンハイ・マンションよりもクラシックで情緒があった。ここにパッカー相手のドミトリーがあるなんて知らない人には信じられない事だったろう。2005年にドミトリーは廃止され、すっかり改装されて、今現在は百ドル前後の高級ホテル《アスターハウス・ホテル》として、嘗ての租界時代の華やかな頃の佇まいを取り戻したようだ。アインシュタインやチャップリンも泊まった部屋ってのもあるらしい。

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 けど、我々バックパッカーにとっては、革命後国有化され、文革や上海コミューン等の動乱を経て、《上海大厦》や《和平飯店》等の大ホテルとは異なる、そこから漏れたようなもっとチーパーな客層を対象にしたチマチマと外貨獲得するための中級ホテルとしての《浦江飯店》が馴染みやすい。勿論、当時その近くにもっとはるかに廉価な小さな人民招待所の類はあった。ただ、筆者もアプローチしたことはあったけど、IDカードを見せる段階で、外人は泊まれないとすげなく断られるのが通常。留学生はどうだったのだろう。それにその招待所は雰囲気が如何にも怪しげで、そんな雰囲気が好きな連中には涎が出るような逸品だった。

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筆者がプージャンに泊まるようになったのは九十年代の前半で、この頃はまだ上海自体が漸く近代的な街に変貌し始めた時期で、南京路も嘗ての古色蒼然とした人民中国的な燻(く)すんだ佇まいが一種独特の雰囲気を醸し出していて、それが外人旅行者達には魅惑的でもあったのが、段々と近代的な西欧的な意匠に変容してゆき、世界の何処にでも有るようなお決まりばかりが聳えるような街に変わっていった。
 十九世紀にオリジナルが建てられ、二十世紀初頭、蘇州川に外白渡橋(ガーデンブリッジ)が架かると、今の位置に移ったという。今年が丁度百年だろうか。その頃は上海でもダントツにナウく人気のあるホテルだったらしい。

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 パッカー達が泊まれるドミトリー(多人房)って高が知れていて、それ以外の部屋は(普通の)個人旅行者やビジネス関係の連中が入り、中には放送局のような機器がびっしり設えられた訳の分からぬ部屋もあって、一体ここはなんだろうとあれこれ想像力を巡らせなければならなぬミスティックなホテルではあった。ひょっとして、即物的に株関係の設備だったのかも知れないが。時代を感じさせる燻すんだビクトリア朝風の装飾、歩くとミシミシと床板が軋んだりして、やたら情緒を刺激してくれた。映画撮影にはもってこいのこんな立派且つ骨董品的価値ある建物に僅かな料金で泊まれるのだから信じられない話で、中国の他の都市・町ではまずあり得ない。老朽化し旧い建物だけなら洛陽にもあったけどちょっと比較にならない。それに何しろここはオールド・ファッションつまり旧欧米帝国主義的形式の名残の個室トイレだったので、他のパッカー及び人民宿の定番の"総て丸出し"人民厠的なプレッシャーからは免れていたのも長所の一つだったかも知れない。

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 部屋によっても違うが、エアコンや天井ファン、バスタブやシャワーの設備があったりなかったり。93年に30元だった五階の十人部屋にはテレビやバスタブが付いていて、窓の真向かいに薄茶の《上海大厦》が聳え、蘇州川を通る船の音が聞こえてきたりした。バスタブはトイレが併設されていた関係もあって面倒で、大抵は三階にあるシャワー室を使っていた。偶に部屋代に朝食券が付くことがあり、朝、中途半端な空間の軽食レストランのテーブルに就くと、小さな堅めに焼いたトースト二枚、バター&ジャム、目玉焼き二枚、珈琲のセット・メニューが出てきた。

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 浦江飯店のある虹口エリアは、一般の居住区で、十九世・二十世紀初頭に欧米の企業が大量に売り出した建売り集合住宅がひしめき、百年の歴史を刻んで醸し出された燻んだ佇まいが旅行者には好餌の観光エリアで、北側の魯迅公園や内山書店址辺りまで興味が尽きない。勿論時代と伴に、特に昨今急速に開発が進んで、昆明の旧市街と同じ運命を辿りつつあるらしい。九十年代当時は、浦江飯店のすぐ裏手に、当時肝炎の元凶と畏れられた割り箸ではない茶色に変色した使い回し箸の備わった小さな小龍包子の店やなんかがあったけど、今ではどうなったやら。(割り箸普及は、辺境のウイグル自治区の方が早かったのは笑わせる。)

 因みに、'94年 新鑑真号  神戸行 二等西式 1620+30=1650元

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2010年7月 9日 (金)

《フレイルティー/妄執》 エホバの悪魔狩り故事

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  つい先だっても広島のマツダ工場で十人以上の死傷者を出した所謂「通り魔無差別殺人事件」があったけど、今一つその動機が曖昧・不可解で、それこそが時代の反映であり、時代相そのものでもあった。この不可解さが如何なるものであったのか、当人より他知る由もないのだろうし、あるいは又、当人自身にも定かならぬものかも知れない。
 その不可解さの間隙に伏在していたものとは、かの元派遣社員の期間工氏が、何かに憑かれてしまったのか、あるいはこの世のものならぬ超越的な何ものかに使嗾(しそう)され誘われたものであったも知れないという推論も成り立ち得よう。
 
 2001年のこの《フレイルティー/妄執》、映画的には地味な作品で、最近リニューアルした《エルム街の悪夢》の1984年から2003年までのオリジナルなんかと較べようもない程、ホラー映画のオドロオドロしさは皆無。
 この映画の面白さは、専らストーリー・プロットにあって、自分達の家族の耕作地を拡げるために手作業で一つ一つ地雷を撤去してゆく緊迫感に満ちた2005年作品ベトナム映画《癒された地》なんかと同様、低予算ながらも仲々にスリリングで飽かせない。意匠や映像で(更に音響効果で)驚かせ怖がらせる感覚的イメージ的恐懼とは別の、むしろオーソドックスといっていいくらいに人間の心理にジリジリと迫ってくる心理的恐懼タイプ。

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 この映画の面白さの要因の一つは、主人公の少年時代、子供であることにあろう。
 父親と息子、という関係だが、ツルゲーネフの『父と子』はよく知らないけど、キリスト教国では、旧約聖書のアブラハムとその息子の関係ってのが、一つの了解性として成り立っているのかも知れない。ユダヤの神ヤッウェの敬虔なる僕(しもべ)アブラハムがその一人息子イサクを神に云われて神に生贄として差し出すため、正に薪の上に横たわらせたイサクを刀で屠ろうとした次の刹那、神の使い=天使が現れて、アブラハムの忠実さを褒め称え止めさせたというユダヤ教的故事。全能の割には随分と姑息で小賢しい神のようで、ヤッウェ=YHWH=エホバの同根の神故に、キリスト教もこの「試し」って幼稚な詭弁(詐欺のイロハ)を自家薬籠中のものとして多用している。
 勿論この映画で父親が我が子を直接生贄として差し出すというシーンはないものの、子供の自立性を無視し監禁したりして、「神に選ばれた者」としての観念を強権的に押しつけ続け植えつけた。世にごまんと似たり寄ったりの事件・事象が起き続けているのは周知の如く。
 背景になった米国南部ってのがミソで、米国の南部って、南北戦争・黒人問題なんかも含めて、映画的には、《イージー・ライダー》以来、保守性・閉鎖性・欺瞞的キリスト教が跋扈する鬱々としてどんよりと籠もった何が起こるか定かならぬ不気味な異郷のイメージが強いらしい。南部なら何でもありって訳で、今じゃホラー映画の舞台のメッカの観すら呈している。

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 ある日、FBIの事務所に一人の男が現れる。
 世間を恐怖のどん底に陥れている《神の手》と名乗る連続猟奇殺人犯を知っていると男は、応対に出た捜査官に告げる。捜査官は半信半疑。じっくり男の素性を知ろうとする。
 実は犯人は、彼の弟で、彼に自殺予告をして既に死んでいて、バラ園に埋めたという。そして、長々と弟が何故そんな挙に出るようになったのか、少年時代にまで遡って話はじめた。
 母親が死んで、父親と彼と弟の三人家族。
 ある日、父親が自分は神の声を聴いた、と二人に告げた。そして、自分を神に選ばれた者と称し、神の選んだ斧と革手袋、そして神が選んだ神の敵=悪魔達の名の連ねられたメモを見せた。父親は、メモに連ねられた人物=悪魔の居場所を探し始める。兄たる少年は、最初父親が母親の死やなんかでおかしくなっているんだと思った。ところが、事態はやがてどう逃れようもないほどにのっぴきならぬ処まで至った。ある晩、突然父親が、倉庫に縛られ口にテープを貼られた見知らぬ女を連れ込んだ。そして、二人をその女の前に連れて行き、この女が悪魔なんだといい、片手で恐る恐る蹲った女の頭に触れた瞬間、父親は電流に撃たれたようになって慌てて手を引いた。そして、手にした大きな斧で満身の力をこめて女の頭上に振り下ろした。少年は呆然とした。父親が完全に狂ってしまったと思い、恐怖に戦いた。
 それ以来、父親は息子二人を連れて、神の教えてくれた名前の人物を捜し出しは、倉庫に連れ込み殺害し続けた。まだ小さく訳の分からぬ弟は、父親におもねるように僕にも感じると云いだし、一人彼だけが神の声が聴こえぬまま、孤立してしまう。彼は正気を失った父親を狂人呼ばわりし罵った。そしてとうとう、父親に倉庫の真っ暗な地下に監禁されてしまう・・・そして、父親に告げた。僕にも神の声が聴こえると。そして、次の獲物=悪魔を連れ込むと、父親は彼に斧を渡し、お前が殺れと命ずる。逡巡していたものの、覚悟を決め、頭上高々と振り上げた斧を打ち下ろしたものの、途中で横にいた父親の腹に思いっきりぶち込んだ。父親は崩れ落ち、動顛する弟を呼び何かを囁いた。獲物にされた男の縄をほどこうとした次の瞬間、弟が斧を高く掲げ突っ走ってきて獲物の男に襲い掛かった・・・
 話を聞き終わっても捜査官は疑いを捨てず、結局二人でバラ園に来るまで確かめに行くことになった。スコップで地面を掘り始めた男が、捜査官に、彼の事務所に飾ってあった彼と一緒に並んだ母親の事を尋ねる。そして、捜査官の身体に触れ、電撃が走ったように男は痙攣し、捜査官が自分の母親を殺害する光景が脳裏に過ぎった。そして、捜査官を殺害する。最初から、その捜査官も、男の手にした悪魔の名の連なったメモに名が記されていて、計画的にバラ園におびき寄せたに過ぎなかった。
 後日、FBI事務所は大騒ぎ。男に接したもう一人の捜査官は杳としてその男の顔を思い出せず、何台もの監視カメラに映っている男の姿は肝心なところで映像が乱れていて、全然使い物にならなかった。・・・

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 最期は思わせ振りだけど、要するに大どんでん返しで、何と彼も獲物=悪魔達を見極める能力の備わった神に選ばれた者だったという落ち。仲々面白く作られていて、例えば、逃げようと思えば逃げ出せる兄少年が、兄に対抗するように父親に靡(なび)いてみせる小さな弟を、気の狂った父親の下に置いたまま逃げることができない些か類型的な兄弟的心理を巧く使って、不安と恐怖を演出している。
 けれど、それはあくまで最期の決定的確証を薄皮一枚残してのストーリー展開であって、
実は父親の吹聴し、すり込んだ「神の御業」とは、人生に疲れた父親の総て想い込みに過ぎなかった、つまり息子達もマインド・コントロールされ、想い込みを現実と取り違えていた心的倒錯という可能性を排除できない。 
 
 関西の方では、二年前からプロテスタント系の教会に、爆弾でも火炎瓶でもない、消化器が投げ込まれる事件が70件近くも頻発し、最近漸く捕まった男は、以前様々な問題を抱え逆境に喘いでいた頃、ある牧師と出遭い、信仰に目覚めて後、「善き信者」となったという。それが、何年かして件の神父が訪米してしまい、すっかり気落ちし、彼の家族や周辺で不幸が続けて起きるようになり、神の無能と悪辣に怒りを覚え、「神の声が聞こえる」と夜毎出歩くようになったらしい。件(くだん)の教会襲撃事件だ。
 これは、超越的な何ものかが、御利益どころか逆に不幸と失意をもたらし、全能の「神」としての失格と更なる「恩寵」ならぬ「悪果」を阻止すべく、神の家たる教会を攻撃し続けた忘恩・悪逆な神への怒りと鉄槌であろう。映画とは逆の様相。実に「宗教」的な行為であって、俗世界的な規範で罰するというのは、些か筋違い。当然に協会側は、その信者の心からの指弾を、教会として、神の代弁者として責任を取らねばならぬ立場であって、間違っても警察に訴える挙に出ることは許されまい。ところが、彼は警察に捕縛され、教会側が訴えを取り下げたというニュースは寡聞にして聞かない。どんな種類の「神」なのか知らないが、何ともさもしい神の家もあったもんだ。そんなのは普通「宗教産業」と呼ぶ。彼も、弱みにつけ込まれ、えらい眼にあったもんだ。嘗ては常にスペイン軍とともにあって、スペイン軍に侵略され虐殺され陵辱され収奪され尽くしとうとう叛旗の狼煙をあげようとした現地民達の前に立ちふさがり、高らかに「隣人愛」を説き続けたイエズス会、間違っても剣を振り上げたスペイン軍の前に立ちはだって、扼殺され恥辱を受けようとする現地民を守ろうとした事は決してない神の密使達=イエズス会と同類の手合いは種々様々な仮面で覆って世界中に瀰漫している。

  
監督 ビル・パクストン
脚本 ブレント・ハンリー
撮影 ビル・バトラー
音楽 ブライアン・タイラー

マシュー・マコノヒー   フェントン・ミークス
パワーズ・ブース     FBI捜査官ウェイスリー・ドイル
ビル・パクストン     ミークス(父親)
マット・オリアリー    フェントン・ミークス(少年)
ジェレミー・サンプター  アダムス・ミークス(少年)
ルーク・アスキュー    保安官
制作 2001年(米国)

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