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2010年8月の3件の記事

2010年8月28日 (土)

ウイグル族の町 カシュガルの《色満賓館》

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       カシュガルのシンボル エイティガール・モスク

  昨年のウルムチ暴動はじめ最近も新疆ウイグル自治区は、独立運動等で揉め続けているが、'90年代前半に何度か訪れた頃には、暴動や爆弾騒ぎに明け暮れていて、カシュガルがその中心地の観を呈していた。以前は住民の殆どがウイグル人だったはずが、最近は如何なのだろう。漢族の植民政策は、チベットだけに留まらず辺境全域に及んでいるようだ。

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 ウルムチは、新疆の省都として発展し今じゃ漢族の方が多くなっているらしく、筆者が最期に訪れた時も、米国のホテル・チェーン、《ホリデー・イン》(今は新疆グランド・ホテルという名に変わったらしい)が出来たばかりの屋上の外壁のラウンドが些かいびつで、「やばそうだなー」と連れの日本人共々見上げ苦笑してしまった。一階にあったカフェだったかレストランに冷やかしで入ってみると、全く慣れていない小姐(ウェートレス)に、客のこっちの方があれこれと教えてやらねばならなかった。それはそれで笑えたし、微笑ましくもあった。それから15年以上の歳月が過って、如何にも貧乏くさいバックパッカー風だと、《ホリデー・イン》でなくとも、一目で見下げられ蔑まされ追い出されかねない昨今の改革開放後の中国だ。

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     ポク、ポク、ポク、ポク

 カシュガルは何よりもウイグル族の町で、砂ぼこりの道をポク、ポク、ロバやラバの牽く馬車が頻繁に行き交い、道の両側に伸びた木々が日陰を作る長閑(のどか)なところで、旅行者に人気の町であった。尤も、本当に長閑な町といえば、やはりパッカー達に人気の風光明媚なトルファンに尽きよう。
 イスラム世界の定番、チャイハネ(茶館)も至る所にあり、通りに面した建物の場合もあれば、ちょっと入った葡萄棚のある木陰の下に絨毯を敷いた場合もある。同じく、鉄串に刺して焼くカバーブも同様、イスラム風味を掻き立てる。バザールも多く、ハミ瓜や西瓜、アンズ、葡萄が並ぶ。

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 カシュガルのパッカー達の定番宿っていえば、もうシーマン《色満賓館》とチニワク《其尼瓦克賓館》だろう。《色満賓館》は本館がイスラミツクな建物で、筆者が泊まったのは売店の隣の建物。これも中国のドミトリーの備わったホテルではよくあるタイプ。綺麗な本館の裏に侘びしく佇んだ燻すんだ建物ってのが相場。リッチな本館の泊まり客達が背後にポツンと佇むショボい建物を見下ろし、「あれ何?」って眉を顰め訝しんで従業員の宿舎か何かと決めつけるような代物。

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 チニワクの方が小綺麗で日本人には人気があったようだけど、ここは又フンジェラール峠を越えてきたパキスタン人達の定宿でもあり、時折若い"男"つまり男子学生が強姦されたりするのでも有名で、そこに泊まっていた女子留学生達に誘われて様子見にドミなんかに訪れたことはあった。そこに泊まっていた日本人の男子学生に訊くと、彼も以前ここで複数のバキ人達に襲われたと告白した。事が事だけに、余り突っ込んで訊く訳にもいかず、うん、うんと神妙な顔して頷くしかなかった。見てるとそれ程の悲壮感も漂ってもいず、むしろ淡々とした口調と表情であった。彼以外にも、もう一人別の日本人学生の"犯された"旨の告白を聴いたことがあった。女はともかく、髭を生やしてない若い男はヤバイ処で、大抵髭を生やしていた筆者は些か安全なのかも知れなかったけど、やはり泊まるのは遠慮させて貰った。ここの売店のドリンク類は比較的よく冷えていたので、冷たいものを飲みたい時だけは寄ってはいたが。

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 《色満賓館》の敷地内にあるカフェだったかビア・ホールだったかの隣に葡萄棚なんてあって"お作り"の風情もあった。只、今は知らないけど、当時は水事情が芳しくなく、トイレの水が出ない時もあった。それでも、ここのドミ(20元)は、トイレが個室式で、上海の《浦江賓館》と同様、浴室も付属していて浴槽もあってちゃんとホット・タブに入れた。但し、一人一人なので、朝なんか待つのが面倒で他で用を足さねばならなかった。
 ここの売店の"コールド・ドリンク"は、「冷えてる」と云いながらもたった今水道水で冷やしたと云わんばかりの"コールド"なものばかり。コーラやスプライト風の「峨眉雪」や中国製スポーツ飲料「健力宝」等。オレンジ味の糞不味い(生温いので当たり前ではあったが)健力宝は、旅先のあっちこっちのどんな小さな露店でもコーラと一緒に並んでいて、腹の調子の悪い時にはお世話になった。今現在でも健在の中国オリジナルのドリンクのようだ。

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 食事は当時流行の"オープン"レストラン《利民レストラン》。隣は《色満路レストラン》。
 《利民》という名は中国エリアでは頻(よ)く見掛ける。マレーシアのクワラルンプールのチャイナ・タウンにもそんな名の安宿があった。ここは可愛い小姐のサービスが好くて、テーブルに就くと早速綺麗なコップに茶をいれて持ってきてくれ、オーダーすると西瓜のサービスまであった。大体ここで食事することが多く、朝、現地の男達が隣のテーブルでヨーグルトを堅めのウイグル・パンにつけて食べていた。これは、イランでも朝食にナーンにヨーグルト(あるいは蜂蜜入りヨーグルト)をつけて食べるのと同じ風習。

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       フンジェラール峠近辺の峰々 
 

 【利民レストラン】
 '92年では、牛丼(2.5元)、親子丼(3.5元)、ミルク(1元)、ミルク珈琲(2.5元)目玉焼き(2.5元)、ブレッド&ハニー(2.5元)
 '94年には牛丼(5元)、ミルク(1元)、蜂蜜入りヨーグルト(2元)、ヨーグルト(1.2元)、ライス米飯大椀(1.5元)、黄瓜肉:肉とキュウリの炒め物(6元)、オムレツ(2.5元)、

 100ドル・キャッシュ=844.76元(中国工商銀行)'94

 Jlb

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2010年8月21日 (土)

タイ・ホラーの金字塔《ナンナーク》について

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  タイ・ホラー映画の金字塔となった1999年公開のノンシー・ニミブット監督《ナンナーク》、初めて観たのは翌2000年の春頃であったか。
 時代は、頭上高く銀色に輝くモノレール"スカイ・トレイン"が走り始め、コピーの殿堂MBKもナウく模様替えをし、何か今までとはちょっと違う、敢えて云えば新たな世紀の幕開けって雰囲気が感じられなくもなかった。サイアム・センターの"タワー・レコード"に行くと、《ナンナーク》のビデオがずらり並んでいた。まだDVDの時代ではなく、カセット・ビデオVHS全盛の頃で、早速199バーツで買った。主演のヒロイン、サーイ(インティラー)・チュリンプラの新しいアルバム(カセット・テープ)《D》も出ていて、更にタイの若者の購買力を見せつけるようにピンクのパッケージに収まった、こんなのありかと思わず絶句してしまった"DOJO MUSIC"系のオーイの百万枚記念のアルバム《モースト・ウォンテッド》もこれ見よがしに並んでいた。

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 定宿ではなく、スリウォン通りにある旅行代理店のオフィスに備わったビデオデッキで観させて貰った。そこに元TTゲストハウスの住人だったY君が居た関係でだけど、丁度これも元常連だった別の会社のH君も現れ、傍のソファーでさすが大手、開いたアタッシュ鞄めいっぱい詰まったチケットを慣れた手つきで処理していきながら、大型のテレビ画面をちらりと見遣り、「おっ、ナンナーク」と呟いた。ああ、現地ではこんなふうに発音するのか、と感心してしまったが、彼もY君もまだ映画の方は未見だった。それでも、当時《ナンナーク》は 世界的ヒット作《タイタニック》を抜く興行収入を挙げ、漸くタイのホラー映画も映画界自体も新たな時代に突入することとなった。

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 プラカノンには行った事がないが、すこし手前のエカマイには頻く通い、旧い商店街が並んでいるぐらいなことは知っていた。それが更に百五十年くらい昔だと、もうさっぱり想像もつかない。日本の今現在の地の明治維新の頃の姿を想像する事の困難さを思い合わせれば、ニミブット達の時代考証に拘わったのも至極当然であったろう。当時の写真見ると、バンコクに限らず、タイ一般が上半身裸が普通だったようで、女性も胸当てなど着用したりしなかったり、あるいは特別な時のみ巻いたりしたりって感じだ。けど、幾ら何でも主演の十七才のサーイが乳房も露わって訳にもいかなかったようだ。

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 ヒロインのナーク、オリジナルでは村長の娘だったとは最近知ったのだが、大事な箱入り娘についた虫が、村長の処で庭師として働いていたマーク。そんな使用人と娘の結婚を封建制剥き出しの時代に認められる訳もないだろうけど、これって、女性歌手のトン・パクラマイがヒロインを演じた《クワン&リアム》と似ている。場所もモノレール駅もあるプラカノンからもうちょっと奥へ入ったバーン・カピの、同じチャオプラヤー川に注ぐ遙か昔に開削されたらしいセンセープ運河沿いの、映画では田園地帯って赴きだった。リアムも村長かそれに準ずる位階の娘で、相手のクワンも下位の百姓の息子に過ぎず最期には二人とも死んでしまう悲恋物。但し時代はこっちは戦前の頃で、《ナンナーク》は十九世紀。

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 《ナンナーク》あるいは《メー・ナーク・プラカノン》の一つの作品としの初出は十九世紀中頃で、その元となる事件は、十九世紀の前~中期頃という。
 娘ナークの父親はプラカノンの郡長・クンシーで、夫はチュム・トットカン。夫婦には既に子供が何人か居て、最期の妊娠で母子とも死亡。残された子供達が財産を、父親チュムと再婚する女に奪われてはならないと、プラカノンのあっちこっちで死んだ母親ナークの幽霊騒ぎを起こし、再婚を阻んだ、という事件がオリジナルらしい。それを典拠として所謂「怪談・悪霊譚」としての「ナン・ナーク・プラカノン」が創作されたという。
 津村文彦著《ナンナークの語るもの》によると、近代国家形成過程における仏教の国教化と在来の呪術等に対する取り込みと優位性の「怪談・悪霊譚」的形象化いうことになる。
 けれど、これも逆に、権力の定式、この民心を惑わせるもの(怪事)として、如何にももっともらしい理屈を架構し、合理の粉飾を施した秩序主義的な再構成的産物といえなくもなかろう。つまり、本来の「事件」と説明されていたものこそが、権力サイドが自分達の都合と意志で歪曲・変容し作り上げたもので、所謂「怪談・悪霊譚」としての「ナン・ナーク・プラカノン」の方がオリジナル、あるいはオリジナルなものの淵源的な要素をそのままに構成されたものの可能性もあるということだ。所詮国家権力のやることだから、そこまで穿ち視して漸く物事を論じれるって訳だ。

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        高僧ルアン・ポー・トー
   

 更にこの映画をうがち視すると、監督のノンシー・ニミブットは王族で、元々タイの映画にはタイ映画の創生期からして深くタイ王族が関わっていて、勃興期の作品の少なからずが彼等の手によって作られてもいたし、今現在もタイ映画界には王族の制作者・俳優も居る。ノンシー・ニミブットもその一人に過ぎないが、この《ナンナーク》の後、タイの古典的歴史絵巻《スリヨ・タイ》が未曾有の大ヒットし、学校からも劇場に観にゆく程。
 伝説中の王妃の「対ミャンマー戦争」の渦中での愛国的活躍そして死(殉教・犠牲)を見え見えの愛国主義的プロパガンダ一色には描いてないものの、やはり主演の王妃とその夫たる国王には王族俳優がなり、監督も王族、そもそもの資金提供者も王室という正にタイ王室御用映画って代物には違いない。

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 そして、その数年後にはその《スリヨ・タイ》の後を引き継ぐように、伝説的なタイの英雄的国王ナレスワンの物語《キング・ナレスワン》が三部構成で作られた。《スリヨ・タイ》同様、国家的危機に直面しての"挙国一致"的愛国主義的プロパガンダということだろう。正にタイの政治経済的情況に対応した映画作りって訳だ。映画的には、外人にはああ昔はああだったんだこうだったんだと興味津々の《スリヨ・タイ》ではあったものの、国王に対する諸侯・従者達の挨拶の仕方なんか幾度も見せられていると些か辟易させられてしまう。
 《キング・ナレスワン》までくると、もう勘弁してくれってところだ。そんな中、ノンシー・ニミブットの紛争の渦中タイ南部を舞台にした還俗僧が普通の人々に戻っていく物語《OK ベイトン》は、国教である仏教が、南部ではイスラムとの狭間でもはや機能をなさなくなってしまって、むしろ只の市井の一人間に戻ってゆく他なくなった現実情況を逆説的に描いていて面白い。つい最近の赤シャツVSアピシット政府的動乱においてプミンポン国王のポジションが一層脆くなってしまって、又ぞろ新たな御用達映画でも作るのだろうか。

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   ポップ歌手ナット主演の舞台劇

 嘗てバンコクの外れ、奥深い運河の畔に、ナークとマークの若い夫婦が住んでいた。
 ナークが身籠もり、マークは戦場へ駆り出され、夫婦別々になってしまった。やがて、ナークは臨月近くに死産し、母子共にこの世のものではなくなってしまい、精霊・呪術信仰の強い村人達は、二人が迷ってあの世に昇らず、プラカノンに居着いたまま悪霊として禍事を起こすのを畏れ、丁重に葬った。その内、戦場で負傷し、生死の間を彷徨っていたマークがバンコクの高僧トー(ルアン・ポー・トー)の寺で療養し癒え、戻ってきた。運河を遡り、わが家に着くと、小さな赤ん坊を抱いたナークが迎え、親子三人水入らずの生活に戻れた。が、村の住民達がそのことに気付き、マークの友人がナークはとっくに母子共に死産し村の外れに埋葬したと教えたものの、てんで相手にもされず、仕舞いには怒ってしまう。ナークがその事を知り、その友人を死に至らしめる。ふとしたことからマークはクがやはりこの世のものではないのを悟り慌てて、マハーブット寺に駆け込み助けを求める。その頃、最初恐れおののいていた村人も遂に堪忍袋の緒を切って、男達がナーク達の家に火を点け、焼き払ってしまった。しかし、ナークは男達をその業火で焼き殺し退散させた。
 村人が雇った呪術師がナークの墓を暴こうとすると、ナークに逆襲され狂死してしまい、とそこにマークの深傷を治した高僧トーが現れ、ナークに語り聞かせ、ようやくナークもこの世への未練を断ち切り、あの世に昇ることになり、マークと互いに涙を流しながら今生の別れをし、元の屍に戻っていった・・・

 ナーク    インティラー(サーイ)・チャリンプラ
 マーク    ウィナイ・クライブット
 
 監督   ノンシー・ニミブット  
 脚本   ウィシット・ササナティエン
 撮影   ナタナウット・キッティクン
 音楽   チャッチャイ・ポンプラパパン
      パカワット・ヴァイヤヴィット
 美術   アカデェジュ・ケーウォッド
 制作  タイ・エンターテイメント 1999年(タイ)

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2010年8月 9日 (月)

グル・ダッドの《十四夜の月》1960年インド映画

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  前年('59)の《紙の花》Kaagaz Ke Phoolの興行的不振を取り戻すように、イスラムの男達の何よりも重んずる"信義"をテーマに、インドのイスラム世界の男女の三角関係を描いたヒット作。以前、ギータ・バリが女海賊として男勝りに活躍した共演作《バーズ》鷹'53を紹介したが、今回は、グル・ダッドと切っても切れない運命的女優ワヒーダ・レヘマンとこれもお決まりの喜劇俳優ジョニー・ウォーカー、そして長年の友・ボリウッド俳優レヘマンの三人の親友の一人の美女を巡っての錯綜した齟齬と運命的悲劇。

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 似たような設定、ボリウッドに限らずあっちこっちで見られるが、例えばマニ・ラトナム監督の《ボンベイ》なんかも出遭いはブルカを被った女(マニーシャ・コイララ)だったし、何よりも女の顔をすっぽり覆った、イスラム社会特有の成人女性の外套とも云うべきブルカ(中世インドを席巻したアフガン王朝以来なのであろう)故に成り立つ筋立て故に、一般的なヒンドゥー社会ではなくイスラムだったのだろう。「取り違い」のコミカルな話の筋立てには恰好の道具だけど、グル・ダッドとイスラム世界に造詣の深いらしい監督モハマッド・サディーク、脚本のサギィール・ウスマニ達は、逆にシリアスな悲劇に仕立てた。尤も、シリアスであっても、話のネックが「取り違い」なので、シリアスに作れば作るほど滑稽味が増し、「人間」=社会にシニカルな眼を向けているダッドには計算尽くなのであろう。

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 インド北部、ネパールの真下に位置するウッタル・プラデーシュ州の州都ラクノウの街のイスラム社会が舞台。同じ州に1992年のバーブリー・モスク襲撃事件のあったヒンドゥーの聖地アヨーディヤもある。ヒンドゥー=モスレム(イスラム)の諍いは、この映画が作られた頃('60)の方がまだ生々しかったはず。インド独立―パキスタン分離独立はその10年前に過ぎない。もっと間近な時代の《バーズ》('53)のヒロインの殺された父親もイスラム商人だった。ダッドには、ヒンドゥー=モスレムの共生の思想があるのだろう。

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 ある日、繁華街を歩いていた親友同士のナワブとミルザ、ふとした事から、警視の息子ミルザが目聡く盗人がブルカを纏った女の手首から腕輪を盗む現場を見つけ、盗人を捕まえ、盗んだ腕輪を女に返す。その中年の女の脇にいた娘が驚き、ブルカの顔の部分のベールを上げた。その余りの美貌に、ナワブはすっかり魅入られてしまった。この後、人混みの向こうでもう一度ベールを上げるのだが、この構図もマニ・ラトナム監督の《ボンベイ》でのマニーシャ・コイララのやる仕草と殆ど相似。更に後に出てくる結婚式でも、子供達がチョロチョロ走り廻る所作・描き方が同様に相似で、どうもマニ・ラトナム、この映画に意識的か無意識的にか相当に影響を受けているようだ。

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 結局、ナワブの意中の娘ジャミーラに、成り行き・行き違いで、仲々行き着けず、その間に持ちかけられた見合いをナワブは、もう一人の親友アスラムに持ちかける。こんな結婚をさせられたら俺はもう終わりだよ。お前が本当に俺の親友なら、お前が貰ってやってくれ、と。幾ら何でも随分と虫のいい親友噺にもかかわらず、アスラムは気軽に引き受ける。その結婚相手が、実はナワブの恋いこがれていたジャミーラその人であった。
 アスラムも結婚当日の夜に漸く初めて結婚相手の素顔を、当然花嫁の方も、初めて見ることとなる。恥ずかしがって俯いたまま容易にベールを上げて見せてくれぬ花嫁に、俺の顔は真っ黒で、出っ歯でとか散々不安がらせ、堪らず花嫁が顔を上げ、ベールを引きあげると、その輝くような美しさにアスラムは暫し言葉を失い、そして感嘆して呟く。十四夜の月(イスラムでは満月)のように美しい、と。「月のように美しい」とは、別に丸顔を謂うのではなく、専ら夜空に輝く満月の如く美しいという意味で、タイでも女性美の極致を現す定型句。(尤も、グル・ダッドが他のニュアンスをも含んで使っているのかどうかは定かでない)

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 やがて、アスラムはナワブに頼まれ貰った自分の嫁ジャミーラこそが、ナワブが想い患っていた娘だと分かってしまい、苦慮し、妻のジャミーラに、ジャミーラを宝石と言い換えて自分の採るべき方途を尋ねる。そんな事とは知らず、ジャミーラは、宝石は親友に返すべき、と応える。その後ある人物に、妻に嫌われる方法を尋ね、夜毎巷間を徘徊し、踊娘の処にも通うようになる。ジャミーラに嫌われ、別れ、ナワブと再婚させようとしたのだろう。
 その内、ナワブも老いた母親の懇願にとうとう負け、渋々意に反してアスラムの妹と結婚する羽目に。結婚式の当日、仲々姿を現さない親友アスラムを迎えに、母親の止めるのも聞かず馬車で突っ走っる。ところが、アスラムはナワブと妹の両方が傷つくことになるその結婚が堪えられず、拳銃で自殺し、残ったジャミーラがナワブと結ばれることを謀り、正に引き出しから取り出した拳銃の引き金を引こうとした次の刹那、ジャミーラが現れる。死ぬ前にせめてもう一度ジャミーラの花嫁姿を見ておきたいとジャミーラに頼み着替えて戻ってきた時、ナワブが馬車で駆けつけ、アスラムの家にずかずか入ってきて、丁度大きな鏡に二人の姿が映し出され、アスラム夫婦の話し声が聞こえてきた。ふと覗き見ると、アスラムの前に坐っていた彼の妻の顔が持ち上げたベールの下に顕わになっていた。一瞬ナワブは彼の目を疑った。誰あろう、彼女こそが、自分が嫌がりアスラムに押しつけた結婚相手こそが、意中のジャミーラであったのを漸く知り、愕然とし、馬車で結婚会場と化した自分の家に戻っていった。そしてそのまま、自分の部屋に籠もり毒を呷った。アスラムが駆けつけた時には、もう虫の息であった・・・

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 頻(よ)くある三角関係ものの一つの定型と云ってしまえばそれまでだが、要はそれをどう撮るか演ずるか作るかってことだろう。《バーズ》も嫌いではないが、これも又違った風味の悪くはない作品だと思う。ワヒーダ・レヘマン、初めて観る女優だけど、所謂美形女優で、何処か可愛さもあって、ダッドが寵愛したのも当然だろう。本妻のプレイバック・シンガー=ギータ・ダッドも美形なんだけど、やがて二人とも疎遠になり、酒(煙草)に耽溺し、常用していたらしい睡眠薬との相乗効果で帰らぬ人となってしまったという。

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 グル・ダッド         アスラム
 ワヒーダ・レヘマン            ジャミーラ
 レヘマン                      ナワブ
 ジョニー・ウォーカー          ミルザ
 ミヌー・マムタズ              レハナ
  
 監督 モハマッド・サディーク
 脚本  サギィール・ウスマニ
 撮影 V.K.マーティ
 音楽 ラビィ
 プレイバック・シンガー  モハンマッド・ラフィ
              ラータ・マンゲシュカル
              アシャ・ボスル 
  制作 グル・ダッド・フィルムズ 1960年(インド)

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    歌姫ギータ・ダッド

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