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2010年9月の1件の記事

2010年9月13日 (月)

天国への闇ブローカー  《悪霊喰い》Sin Eater 

  Sin_eater_1

  ホラー・オカルトにも様々なジャンルがあるけど、一応キリスト教を前提としたエクソシスト神父が主人公の「罪喰い」という余り聞き慣れないジャンル。完全なフィクションじゃなくて、実際にキリスト教圏(カトリック系)に、細々と実在するという。
 監督は、《エルム街の悪夢4》や《LAコンフィデンシャル》、最近では《グリーン・ゾーン》や《ソルト》の脚本や、、《ロック・ユー》(2001年)の監督の、ブライアン・ヘルゲランド。主演も、《ロック・ユー》の時と同様、ヒース・レジャー。
 我々から見ると、カトリックであれプロテスタントであれ、キリスト教は、死ぬと天国へ行けるらしいという先入観があるけど、実際のキリスト教ではそんな簡単なものではないようだ。特に、エクソシストが職掌として存在するカトリック系は、あれこれ教義やしきたりにうるさく死ぬ直前に、「告解」と呼ばれる、神父に懺悔し、キリスト=神の赦しを得て貰わなければ、死後天国へ入れないという。ところが、これも一口に天国といっても、キリスト教の教義では、世の終焉(おわり)に際し、キリストが再臨し、死者が肉体を持って甦り現存の生者ともども、所謂「最後の審判」がキリストによって行われ、地獄行きと天国=神の国行きが峻別される。つまり、死後直ぐにってのは、それ以前の、肉体から遊離した霊魂が一時的に、謂わば最後の審判を「待機」する場ということになる。カトリックだとそれが更に細分化され、天国、地獄、煉獄etc。(ネット上のキリスト教関係の記述をあれこれ調べてみても告解やこの辺の項目は甚だ曖昧)

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 カトリックだと自殺者には教会側が「告解」を拒否するらしい。その人間が弱いから自殺するんだという巷説ともどもにこれは不合理で、皆それなりに悩みに悩んだ末、場合によってはもうそれしか自他を救う方途がないという、「苦渋」なんて言葉アメ玉に等しいような絶対的土壇場すらあり得るにもかかわらず、そんな機械的な振り分けは、彼等自身が宣揚する「悩める者を救う宗教」といううたい文句からしてもおかしい。むしろ、普通に考えれば、万能のはずのイエス=神の至らなさ、無能・不能故に生じた破綻というのが本当のところではあるまいか。ならば、逆に率先して神父は彼を天国へ送るべく告解してやるべきだろう。ところが、現実は、中世だけに止まらぬ魔女裁判の類が後を絶たず、特殊な状況に陥って最期の瞬間に教会を頼ってきた信者達を見捨てる教会。

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 そんな理不尽故に、臨終に至った信者の犯してきた全ての罪を呑み込み、自分一身の肩へ背負い込んで、信者の罪を贖(あがな)ってやり、信者は死後、晴れて天国へと昇ってゆける。それが「罪喰い」と呼ばれる、教会側から見れば、神と教会を冒涜する者=異端=悪魔ということになる。これはプロテスタント系にはない事柄のようで、やはりカトリックってのは、ホラー・オカルト映画の「種」の宝庫って訳だ。「米国南部」の「カトリック」教会なんてきた日にゃ、もうそれだけでホラー映画の禍々しい雰囲気が溢れだす由縁。尤も、この映画の舞台は、バチカンのあるイタリアのローマ。

 エクソシズムを事とするカロリング派、異端としてバチカンからは疎まれていたが、ある日その代表者ドミニクがローマで自殺体として発見された。その日、ニユーヨークで司祭をしていた同じ修道会のアレックス(ヒース・レジャー)の処に突然初対面のバチカンの枢機卿ドリスコルが現れ、ドミニクの自死を知らせ、その不可解な死を調べてくれと頼まれる。更に、以前悪魔払いをした際の娘マーラが精神病院から抜け出し現れ、自分をローマに一緒に連れて行けと迫る。アレックスに銃を向け撃ち放して入院させられていたらしいけど、その事件とやらがどんなものだったのかも不明なままで、ローマに一緒に向かう。以前恋人同士っだったんでなければ、かなり強引な筋の運び。総ては予め仕組まれていたという構造であっても、も一つしっくりこない。

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 パリに居た友人の同じ修道会のトーマスをも呼び寄せ、ローマのドミニクの住処だった旧い建物を根城に、ドミニクの不審死の調査を始める。
 結局、ドミニクの不審な自殺は、「罪喰い」と呼ばれる異端者の仕業らしいと分かり、ドリスコルにバチカンの倉庫に数百年も隠されていた「罪喰い」を刺殺する短剣を渡される。しかし、やがて姿を現した「罪喰い」イーデンをアレックスは殺せず、逆に何百年も他人の罪ばかり喰い続け、不老不死は得られたもののさすがに疲れ果て、普通に死にたいと、継承者としてアレックスに白羽の矢をたてた。否、とっくにアレックスがこの世に生まれ出た時から、イーデンによって総ては仕組まれていたのだった。アレックスが司祭の職を投げ打って得た恋人マーラの死すら。マーラの死に怒りイーデンを聖堂で短剣で刺し殺したアレックス。ところが、その短剣は、実は「罪喰い」を殺すためのものではなく、新しく「罪喰い」になるためのイニシエーション用の短剣だったのだ。イーデンに見事嵌められてしまった。
 実は腐敗堕落した闇世界の法王でもあった枢機卿ドリスコル、イーデンと四百年前に失った短剣と引き替えに新しいローマ法皇になる取引をしていて、とうとう新法皇になろうとした直前、アレックスの画策で破門され、屈辱と絶望に自死の途しかなくなって、「罪喰い」が呼ばれイーデンの代わりにアレックスが現れた。アレックスはしかし、「罪喰い」の儀式を途中で放棄し、一つ残らずのドリスコルの罪を全て吸い取った一片のパンを、自分の口にではなく、ドリスコルの口の中に放り込んで口を塞いだ。ドリスコルは自身の罪を背負い込んだまま、地獄と煉獄の狭間を最期の審判まで彷徨い続けることとなってしまった。アレックス、とうとう本物の「罪喰い」となって、世の闇に君臨することとなる。

 邦題はともかく、問い詰めようとすると、スルリと何処かへ滑り落ちてゆく類の映画だが、一応はやはりホラー=オカルトの類。ダリオ・アルジェント張りの虚仮脅かしとは無縁の、申し訳程度のホラー的オカルト的意匠に、キリスト教的共同幻想と些かの推理物的筋道。で、やはり異端の「罪喰い」ってところに尽きる。
 「キリストの再臨」なんて考えてみれば随分といい加減を通り越して、デタラメといっても過言ではないくらいに人舐めな大デマ。大体イエス・キリスト自身が自分で「再臨」なんかを口にしたのだろうか。したとしたら何時? 彼が磔刑で死んだ三日後に復活したのは、再臨とは別なのか。イエスは、だから、その二つ復活を、明瞭にその差違をつまびらかにし確言していなくてはならないのだけど、信者でもないこともあるが寡聞にして聞いたことない。(三日後復活は、常識的に推論すれば、磔刑に処され瀕死ではあったものの死んではいなかった、つまり仮死状態にあっただけってところだろう。)
 況や、「最後の審判」なんてマジ?って腰抜かしもの。これは世の終わりを前提としていて、所謂「終末」で、死んで墓場に埋められていようがいまいが、今まで死んだ者達全員が、一斉にこの世に肉体を持って甦るってそれだけで並のゾンビー映画なんて束になって吹き飛んでしまう一大スペクタクル、大パノラマだ。百億近い死者の復活というわけだけど、そんなのが地上に突然湧いて出て徘徊し始めるのだから、やはり終末世界じゃないと通りや広場に溢れかえってしまう。そして元々の生存者達と合わせて、我等がイエス・キリスト=エホバ神が何処からか光り耀きながら現れ、善行のものは「神の国=天国」へ、悪行の者は「地獄」へと最終的に仕分けされるという。

Sin_eater_4

 尤も、何故、仕分け場が、終末のこの世、つまり地上でなくてはならないのか?
 その肝心な点も不明なままのようだし、如何にもこれ見よがしなユダヤ=キリスト教的な感性ではある。ゾンビー映画で墓場に眠っている死者達がムクムクと墓場から起き上がりゾロゾロと彷徨い徘徊し始める光景って、そんなイメージの映像化なのだろうが、キリスト教的には、「待機」空間としての「天国」や」「煉獄」等から舞い降りて来るのか、異空間からの移動って感じで突如姿を現すのか定かでないけど、生前の肉体をもって甦る。
 この最終的な峻別って、まるで養豚業者が牧場に豚を放し飼いし、大きく肥え太ったところで、商品になるのとならないのを選別するようなもので、「万能」や「万物の創造者」、「善の根源」としての神というより、むしろその欠如や不能・無能を覆い隠すための横暴な暴君、専制支配者って趣き。そもそも、君臨した神としての責任・モラリティーってのが無さ過ぎよう。これじゃ、閻魔大王が、過去帳やら何やらとにらみ合わせ、官僚的に峻別するのと些かも違わない。何としても遠慮させて欲しい系列の神様だ。
 
 映画自体はそれなりに面白く出来ている。虚仮脅かしでも、おどろおどろしい意匠で誤魔化そうとする訳でもないからだろう。但し、例えば「罪喰い」が何故何百年も歳も取らずに長生きできるのかとか、世の動きを自在に見あるいは仕掛けたりできるのか等とシナリオ的な疑問点を追求しては駄目。むしろ、自身で想像力を駆使して「解釈」しつなぎ合わせてみるべきで、そうすると意外な全体像が明らかになったりするのかも。
 
 
ヒース・レジャー    アレックス
シャニン・ソサモン   マーラ
ベンノ・フュルマン   イーデン
ピーター・ウェラー   ドリスコル
マーク・アデイ    トーマス

監督     ブライアン・ヘルゲランド
脚本     ブライアン・ヘルゲランド
撮影     ニコラ・ペコリーニ
音楽     デヴィッド・トーン
制作 二十世紀フォックス(米・独合作)2003年

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