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2010年11月の2件の記事

2010年11月29日 (月)

《ヴェール=ザーラ》二十二年の孤独と追憶そして愛

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  もはや一つのジャンルと化してしまった感のある"在米インド人の一時帰国"、その定番とも謂うべき《サワデス》と同年に前後して封切られた同じシャールーク・カーン主演の些か時代めいた一大恋愛叙事詩《ヴェール=ザーラ》、一昔前の音楽家マダン・モハンの作った曲を全面に散らばせた仲々魅力的な作品に仕上がった秀作だ。
 ヒット・メーカー、ヤシュ・チョプラ監督作品で、二枚組DVDの特典版を観ると、ヤシュ・チョプラ、可成りオリジナルのマダン・モハンの音楽に拘っているようで、全盛期のラータ・マンゲシュカルのパートナーでもあったらしい。それもあってか、彼女もプレイバック・シンガーとして参加している。ソヌー・ニガムやウディット・ナラヤンとマンゲシュカルのかけ合い等もあってこの特典版も面白い。

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 偶然出遭ったパキスタン娘ザーラ(プリティー・ジンタ)とインド空軍兵士ヴェール(シャールーク・カーン)との恋、しかし、娘には故郷に既に許嫁(いいなずけ)が居て、結婚の日取りも決まっていたという設定。お決まりのヒンドゥー=モスレム(イスラム)、インド=パキスタン、親が一方的に決める許嫁・男尊女卑(保守主義)=恋愛の自由と男女平等という様々な要素が、恋愛という一時に収斂してゆき、裏切られ男として最大の侮辱を受け終生その恥辱を背負ってゆかねばならなくなった許嫁の男ラザ・シラジ(マノージュ・バジパイ)に、その故に、ヴェールはどうにも逃げようもない選択を迫られる。インドのスパイに仕立てられてしまったのだ。

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 誰にも知られぬままの永い幽閉の罠、それは又ヴェールのザーラへの愛を彼に証してみせねばならない責務でもあった。それから免れ逃れようとすれば、ザーラを裏切りザーラやラホールでは高名なザーラの家族を貶め、ヴェール自身もラザと同様に永遠の恥辱と屈辱に我が身を灼く羽目に陥ってしまう。けれど煩悶の末、若きヴェールは、自らパキスタン・ラホールの獄に繋がれる方を選んだ。おまけに彼が乗るはずだったバスは途中で断崖絶壁から転落し生存者も居ず、公式にはヴェールはそのバスの乗客として死亡したことに。ヴェールの故郷パンジャブの父母やラホールのザーラも悲嘆のどん底に。

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それから二十二年の後、ラホールの獄、囚人番号786ヴェールの独房に女性弁護士サーミヤが現われた。二十二年の間じっと沈黙を守り、一人静かに獄房の日々を送ってきたヴェールに、閉ざされていた遙か昔の青春の日々が次第に甦り始め、訥々と嘗てのザーラとの出遭いからを語り始める。裁判で無実を晴らすための証人を確保するため、ザーラの両親も亡くなっていて、弁護士サーミヤは、国境を越えインド・パンジャブのヴェールの実家を訪れる。ところが、とっくにヴェールの父も母も亡くなっていた。悄然としてヴェールの家の庭先に佇んだサーミヤの背後に、ふと振り返ると、白髪も混じったザーラが現れ、ついで彼女の乳母だったシャブー(ディヴィヤ・ダット)までも。とうとう二十二年もの永い空白を経て、ラホールの裁判所法廷で、ヴェールとザーラの二人は再び巡り会うことに・・・

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 この映画のハイライトの一つでもあるザーラと婚約者ラザがとその家族達が婚約式なのか、イスラム聖人の聖廟に集い聖人の棺に触れる儀式会場に突如嵐の如く中庭に現れる。折から降り始めた雨に濡れ佇んだヴェールにザーラが気付いて、式を放棄してヴェールの傍へ歩み寄ってその胸の中へ飛び込みしっかとヴェールに抱かれるシーン。婚約者ラザや参加者達の強張り呆然とした表情を次から次へと捕らえてゆく巧みなカメラ・ワークともどもに緊張と昂奮を掻き立てるガザール歌手のアハメッド&モハッド・フセイン兄弟の唄う"アヤ・テラ・ダル・パル"が個人的には一番気に入っている。
 この曲はもう一シーン、ザーラとラザの結婚式の場面。婚約式?でこれ以上のない屈辱の辛酸を舐めさせられたラザがインドへ戻るためにバスに乗ろうとしたヴェールをスパイ容疑で警官を使って捕らえさせ出口のない罠に陥れ、自分を裏切り他の男を愛した女=ザーラとの結婚式に内に屈辱と憎悪に燃え上がった紅蓮の炎を秘めたままいどむラザ、そして警察署内の一室で最愛のザーラやパンジャブの両親と二度と会えることのない孤独と幽閉の方途を選び書類にサインをするヴェール。それらの場面をうねりような旋律で畳みかけるフセイン兄弟の唄。

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 ラザ役のマノージュ・バジパイ、2003年の《ピンジャル》では、周囲に迫られて不本意な略奪婚をやらかすが、既に婚約者と結婚式の間近かった娘に対する後ろめたさもあって真底尽くすムスリム男を好演していたのが、ここでは逆にシャールーク演ずるヴェールに許嫁を実質的に取られてしまう謂わば"コキュ"的な、ヴェールの敵役で、苦悶し悲哀に満ちた役どころを巧く演じている。ザーラへの愛を試されることにもなる永い幽閉の罠に自ずから踏み込んだヴェールを浮かび上がらせ輝かせる闇という重要な役どころ。《ピンジャル》の印象的な好演故の抜擢だったのだろう。こんな屈折と悲哀が滲み出たような役がよく似合うバイ・プレーヤーだ。

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 "テレ・リエ"、"ド・ポル"、"メイン・ヤハーン・フーム・ヤハーン"なんかも場面にマッチして仲々聴かせる。"ド・ポル"は、甘い声のソニー・ニガムとラータ・マンゲシュカルのデュエットで、インド側の駅のプラットホームでのヴェールとザーラの別れ際に流れる。典型的な時代がかった恋愛映画の別れの場面なのが、ヤシュ・チョプラの巧みな演出で、違和感なく見せられてしまう。そして、ザーラをパキスタンから迎えに来たラザの暗い眼差しが何か不吉な将来を暗示し、一層哀惜の念を掻き立てる。
 もう一回、ザーラとラザの結婚式前、ラホールの宮殿か何かの建物の前での束の間の再会(逢瀬)=別れの場面で流れるが、やはりプラットホームでのシーンの方がしっくりくる。

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 前半でパンジャブの田舎に住むアミターブ・バッチャンとヘマ・マリニが扮しているヴェールの両親が、ヴェールの伴ってきたザーラに屈託無く接し、明るく幸福な雰囲気に満ちていたのが、弁護士サーミヤが裁判で証人として出廷して貰うため訪れた時、建物はそのまま残っていたもののとっくに二人とも亡くなっていたというその落差が妙に無常と悲哀を感じさせた。二十二年という時間の流れ。死体すら戻ってこなかったヴェールのバス事故死に絶望と悲嘆に暮れ、寂しく相次いであの世に旅立ったであろう二人の姿が、今では村の子供達に解放されてでもいるのか娘達の駆け回る広い庭の向こうに垣間見えてしまう。子供達のざわめきすら遠い潮騒の如く響く静寂な一瞬。そして、突然庭の何処かから「ザーラ!」と叫ぶ少女の声が聞こえてくるのだけど、このかそけき静寂が好い。

 少し遅れて同年にリリースされた《サワ・デス》もA・R・ラヘマンの曲と渾然一体となった秀作で、この2004年はシャールーク、のった年でもあったようだ。
  
ヴェール      シャールーク・カーン
ザーラ       プリティー・ジンタ
サーミヤ      ラニー・ムカルジー
ラザ・シラジ    マノージュ・バジパイ 
ヴェールの父    アミターブ・バッチャン
ヴェールの母    ヘマ・マリニ
ザーラの父     ボーマン・イラニ
ザーラの母     キロン・ケル
ザーラの乳母    ディヴヤ・ダット

"テレリエ"  ラータ・マンゲシュカル&ループ・クマール・ラソッド
"メイン・ヤハーン・フーン・ヤハーン"   ウディット・ナラヤン
"ド・ポル"  ラータ・マンゲシュカル&サヌー・ニガム
"アヤ・テレ・ダル・パル"  アハメッド&モハッド・フセイン

監督 ヤシュ・チョプラ
脚本 アディテイヤ・チョプラ
撮影 アミール・メヘト
音楽 マダン・モハン
   サンジーブ・コリー
制作 ヤシュ・ラジュ・フィルム 2004年(インド)

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2010年11月 9日 (火)

江青 紅色彗星(上海1930年代)的顛末

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    顧夢鶴 王瑩 藍蘋  

 中国現代史に毛沢東と並んで燦然と禍々しく輝く"紅色女皇"江青。
 紅色西太后と揶揄する者すら少なくない。それにしても、政治=権力のあるところ、それを巡って、あるいは、嘗てたった一度すれ違ったというだけで、おどろおどろしい権力の白い魔手に、やがて、市井の陋巷にあろうとも、日々切磋琢磨の芸術的精進に励んでいようとも、じっと狙い澄ました果てにある日突然、悲惨・陰惨の淵に引きずり込まれてしまう。
 
 何故に江青は《文化大革命》で、本来の"革命"から逸脱し、権力闘争にすり替え、反対派どころか自らにとって不都合な・不愉快な者達すら排除・抹殺しつづけ未曾有の被害と犠牲者をだしたのか。勿論、毛沢東的には、失った権力の奪還としての、つまり権力闘争の一環としての《文化大革命》に過ぎなかったろうが。
 嘗て、若き江青が、まだ舞台(話劇)や映画女優をめざし、たとえ束の間であっても、実際にその座を手中にした華麗な文化の都・上海において、様々に彼女のその成功を助け支援してくれた数多の人々をすら、自らの汚点を拭うためにか、次から次へと嬲(なぶ)りの淵へと投げ込んでいった。その凄絶さ故、単に成り上がるために残した恥ずべき足跡の隠滅だけとは到底思量できず、もっと陰陰鬱鬱とした私怨的な憎悪・怨恨劇でも隠されていたのかと猜疑してしまう。巷間、江青のその"私怨"を云う。で、その若き江青の青春と蹉跌とは如何なるものであったか。

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 江青(Jiang Qing)は本名を李進孩あるいは李淑蒙といい、1914年(甲寅)3月、山東省諸城東関の小さな町で生まれた。1914年は日本では大正3年、中国では中華民国3年。甲寅(トラ)の年で、「負けず嫌い。諸事円滑にいきかね、波乱曲折の道を辿りがち」。正に、江青そのものではないか。(1912年生まれという説もあるらしい)
 父親・李徳文は大工で、母親・李欒(Li Luan)はその妾らしく、江青は庶出ということになる。父親は暴力を頻繁に揮い、今で云う家庭内暴力DV家庭だった。母親はそれで彼女を連れて李徳文の下を飛び出したという。尤も、李徳文と死別という説もあるらしく、彼女の姉妹はまだ存命のはずが、少女期の履歴は今一つ曖昧。この少女期のDV的環境は、明らかに後年の江青に影響を与えたであろうし、権力を握った「文革」の頃の江青は正に全開。昨今の我が子虐待や扼殺なんてものじゃない。
 離別後、生活が大変だったらしく、母親はまだ小さな江青を親戚の家に預けて働きに出、戻ってくると空腹を抱えずっと待っていた江青が泣いて抱きついてきて、ようやく乏しい食事をとれるという日々だったようだ。見えぬ母親の姿を捜し、外をウロウロしている時犬に噛みつかれたりして、「少女の頃の記憶って、恐怖に打ち震える毎日で寒々としたものばかり」と述懐している。

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     若き江青

   母親が下働きしていた「張」家(大地主)は、諸城"四大家"と呼ばれ、そこの二少爺(次男坊)=張少卿(後年、康生と名乗り、モスクワで仕込まれた諜報部の拷問・尋問術を駆使し、多くの人々を投獄しあるいは殺害し、あのポル・ポトの支援者でもある札付きの赤色殺戮者(テラー)として最期には権力ナンバー4、5にまで昇りつめ、江青を影で支えた碌でもない師であった。尤も当時はまだ青年的客気にはやった革命青年に過ぎなかった)が共産党員で、後の江青の「革命生涯」に影響を与えたというが、江青は地元の小学校に入り五年生まで在学。その頃、李雲鶴なる学名を校長に授かる。(「わたしはこの李雲鶴という名前がすごく気に入っているの。白雲漂う蒼空に,高く飛翔する一羽の仙鶴って何て美しいんでしょう!」)

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      若き江青の憧れた大女優・俞珊 

 1926年江青12才の時、母親が彼女を連れ天津の姉の家に移る。姉の夫は軍閥の軍官で、後1929年春、山東省済南に移動。江青母娘も一緒に移る。江青15才、ここで彼女の人生の一大転機ともいうべき、《山東省実験劇院》に入る。伝統的な京劇・昆劇および話劇の授業があり、当時はまだ女性演員は少なかったようで、学費と食費が免除されその上毎月二元の手当まで貰い、そこで古典音楽と戯劇を学ぶ。当時彼女は訛りがひどかったという。京劇班に属して済南、青島、煙台等の公演に参加。その学院の院長・趙太侔は、高名で、国民党(前年、蒋介石が実権をにぎり国民政府を樹立するも不安定)山東省党務指導委員も努めていて、後ち延安に去るまで江青をあれこれ援助してくれた人物らしい。
 やがて、政治的経済的不安定の故にか、劇院は閉鎖、一部の教師と学生達で作られた巡回活劇団が、北平(北京)公演を実施し、江青も参加。
 「当時わたしは未だ16才、北京は散々だったわ。家で一番良いものを着ていったんだけど、寒くて堪らなかったし、一面黄砂で、夜も暗かった。政治のことなんてさっぱり。自分のことで精一杯で、頭の中は話劇のことだけよ」

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    俞啓威(後の黄敬) 街頭宣伝中か? 

 1931年春、一人の青年が《湖上の惨事》の舞台での李雲鶴(江青)を見てすっかりファンになり、彼女に言い寄った。地元済南の商家の芝居好きの御曹司で、江青の家の事情もあってか"貰われ"ていった。17才の江青の最初の結婚。しかしながら、新思潮に傾倒した江青が、旧態然とした保守的な商家の家に嫁入りしうまくいく訳もなく、「怠け者」とか「母親に対する礼儀も知らぬ」と睨め付けられ、わずか二ヶ月で破綻。

 一層の情況悪化に、江青、青島大学の学長でもあった院長・趙太侔の下へ赴いた。趙は彼女に大学図書館の職員の仕事を与えた。図書館長の月給400元、江青は30元。図書館員として働きながら、大学で中文系を聴講し、とくに民主戦士でもある新月派の代表的な詩人・聞一多の講義は貪るように聴いた。彼女にとって様々な知識を海綿のように吸収していった時期であったのだろう。 
 そして、ここで江青が初めて愛した男・俞啓威(後の黄敬)と出遭うことになる。
 江青の恩師・趙太侔の妻、当時話劇の《沙楽美》(サロメ)や《卡門》(カルメン)で一世を風靡していた大女優・俞珊(Yu Shan)の弟で、俞家自体は紹興出身の名門であったのが父親の代ですっかり傾いてしまっていた。その俞珊こそが江青の憧れの女優であった。すっかり夢見心地に舞い上がったところに、今度はその俞珊のまだ学生だった実弟と出会い、たちまち相思相愛の間柄に陥ってしまった。貧しさが脚元を洗っていても、これ以上の至福はなかったであろう。恐らくその原体験が、後、如何なる美男・高名人と浮き名をながしても、所詮その場限り以上の関係ではありえなくさせた一因ではなかろうか。

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 黄敬は当時知る人ぞ知る存在だった田漢(Tian Han)の《南国社》(戯劇・映画・文学・絵画・音楽等のジャンルを包む)の演員であり、又自ら青島で《海鴎劇社》を組織。
 1931年9月18日、《満州事変》が勃発し、東三省を占領。忽ち中国各地に「日本侵略反対」「蒋介石の"不抵抗主義"反対」の運動が起こり、黄敬と江青も参加した。この後、黄敬は共産党に加入。暫くして、江青も時代の潮流や黄敬の強い影響もあって共産党に入党する。二人は正式に結婚せず、同棲。二人とも"新潮流"的な考え方で"結婚"という形式主義的な規範に拘泥しなかったらしいけれど、同時に黄敬の親や親族が名門的家柄に貧民階級出の江青がそぐわないという封建的な意思で江青を拒んだということもあったようだ。国民党の特務に目をつけられていた黄敬、やがて逮捕され、江青上海に逃亡。 

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 船で上海に渡った江青を、《海鴎劇社》の伝手(つて)で映画監督の史東山(1931年に《銀漢双星》を撮った)が出迎えてくれたものの、本来なら俞家の上海にある寓居に向かうはずが、何しろ俞家の方がけんもホロロで、《山東省実験劇院》の先輩だった魏鶴齢の家に暫くやっかいになる他なかった。江青は、上海といえば大御所・田漢で、何としても会いたがったという。
 で、ある日、本当に俞珊に伴われ、田漢の邸を訪れる僥倖に恵まれる。田漢は実弟に彼女の面倒を見させた。女工達のための一種の夜間学校《晨更工学団》をすすめられ、そこで住み込みで働くことになる。"店員識字班"に配属され、娘達に唱歌・演劇や読み書きを教えたが、三食が出るだけで無給。平行して、田漢の編劇を近郊農村で上演する活動も行う等活発に仕事をこなしていた反面、宿舎では不平を洩らすこともあったらしい。この頃の江青、すらりと伸びた身体に藍布の旗袍(チーパオ)、化粧気はなく、短髪で、黒髪を毎日井戸水で洗うことをかかさず、黄敬のラブレターを大事に隠していて、取り出しては厭きもせず眺めていたという。
 1933年冬。綿袍(綿入れ)を着た男が《晨更工学団》を訪れた。黄敬であった。入獄後、父親が国民党幹部に掛け合って"養病"の口実の下出獄。青島での活動は困難と、上海にやってきたのだった。二人は静安寺ちかくの素屋に住まい、江青は《晨更工学団》に通った。しかし、翌年早々、「一・二八(第一次上海事変)抗戦二周年」の示威行進があり逮捕者が出、《晨更工学団》も当局に睨まれ、江青・黄敬ともども北平(北京)に逃れた。北平の西単にも俞家の邸があったが両親が許さず、黄敬も姉の俞珊に金を借りるのが精々で、幾らもしないうちに、江青、生活のために単身再び上海に舞い戻る他なかった。

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    当時既に売れっ子だった趙丹

 ところが《晨更工学団》には江青と仲の良かった以前の責任者も他に移っていて、"基督(キリスト)教上海女青年会労工部"によって少沙渡路(西康路)の《女工夜校》の教員の職を斡旋される。女工達に唱歌や読み書きを教えた。この頃、偽名・張淑貞を名乗る。
 そしてその年の晩秋、兆豊花園(中山公園)ジェスフィールド・パーク附近でひょんなことから特務に逮捕される。一月近く放り込まれていたものの、《晨更工学団》関係の奔走によって、"基督教上海女青年会労工部"籍で釈放される。出獄後、行く当てもなく、黄敬の俞家を頼り、黄敬と一緒に暫く邸の一隅で同棲。
 
 大女優・俞珊に憧れ戯劇の世界に入ってきたはずがすべて道が閉ざされ、鬱々とした日々を送っていた江青の下に、1935年春、突如、闇から一条の光りが射してきた。出来たばかりの《上海業余劇人協会》の話劇《娜拉》(ノラ:イプセンの《人形の家》)のヒロイン=ノラに抜擢されたのだ。名前も藍蘋(ランピン)に変え、懐胎していた黄敬との子も堕して挑んだ。
 1935年6月27日夜、上海金城大戯院に"趙丹、藍蘋 領衛主演"の巨大なポスターが並び、話劇《娜拉》が上演された。魯迅すら観に来たという。評判は上々で、新聞も趙丹や江青を賞賛した。既に有名だった趙丹以上に、二十一才の新人・江青は注目されもてはやされた。
 崔万秋、上海《大晚報》の文芸副刊《火炬》の編集長で,有名な日本通でもあるが、江青と同郷の山東出身。その故もあってか、江青に好意的な評価をしていたという。実際に会った時の印象をこう語っている。
 「とびっきり美人という訳でもないが、すらりとした長身の、輝く瞳に紅い唇、聡明怜悧で、好い貌をしている。只、惜しむらくは、犬歯が黄色いのが玉にキズ。」
 
 後に新中国の国歌ともなった作詞・田漢、作曲・聶耳《義勇軍行進曲》で有名な許幸之監督の映画《風雲児女》が完成したのと入れ替えに、江青は当時左翼映画の牙城といわれた《電通影業公司》に入った。青島から船で上海にやって来た江青を波止場に出迎えた史東山が彼女を《電通》に紹介したらしい。脚本・夏衍、監督・司徒慧敏の処女作《自由神》が最初の作品で、"ライバル"王瑩(ワン・イン)や顧夢鶴と共演。江青は端役で、女兵士・余月英。ヒロインは王瑩。当然、一躍寵児となった江青には業腹な扱いだったろう。

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  江青が目の敵にしていたらしい才媛・王瑩
 
 ある蒸し暑い夜、一人唐納(タン・ナー)が霞飛路(准海路)を散策していると、前髪垂らしシルクの旗袍(チーパオ)にその細身を包んだ江青を見掛けた。互いに顔は知っていて、唐納が「《娜拉》は素晴らしかった」と賞めると、江青も唐納の作家としての高名を賞め、「わたしは革命党なの」と一言云った。唐納は、その大胆さに感服し、恋愛感情を抱いた。その内、江青が《電通影業公司》に唐納を訪れるようになり、彼は江青の「新鮮で、積極的な態度」に魅了され、すっかり夢中になってしまった。やがて手に手を取って肩を並べて歩くようになり、二人の同居は《電通影業公司》でも公認のものとなった。
 唐納は江青と同じ歳で、映画評論・制作・俳優として多彩多芸・眉目秀麗の新鋭で、袁牧之監督の中国最初の"音楽喜劇"《都市風光》で主人公・李夢華を面目躍如として演じた。江青も端役で参加。
 ところが、1935年12月7日の《娯楽周報》に、江青を指弾する記事が既に載っていた。
 『藍蘋は北平に夫が既に居るらしい。二人が同居であって、結婚ではないなら好いだろうが、もしそうでないのなら、藍蘋は重婚罪を犯しているのではないか?』
 江青はすぐに〈結婚反対〉の声明を出した。新思潮的な結婚制度自体への反対であった。それでも、1936年4月26日午前8時半、杭州・銭塘江畔の六和塔で、映画関係者三組のカップルの合同結婚式に参加。三組六人=六和六合のこじつけらしい。メンバーは、趙丹・叶露茜、顧而己・杜小鵑、唐納・藍蘋。唐納が江青に再三に渡って結婚を求めたものの頑なに拒まれ続け、趙丹達が合同結婚式を考え出したという。しかし、江青だけ、結婚証明書にサインをしなかった。

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     六和塔合同結婚式 (後ろの二人が唐納と藍蘋) 
 
 結婚後、二人は唐納の蘇州の実家に半月ほど滞在したが、上海の環龍路に戻ってからというもの、喧嘩が絶えず、『唐藍婚変』と題して報じられるようになった。二ヶ月後の6月末、済南にある江青の実家に、唐納が現れ、江青の消息を尋ねた。5月末に彼女が母親が病に倒れたので様子を見に行くと言い出し、上海駅まで彼女を送っていったきり、それ以降プッツリと音沙汰がなかったからだ。ところが、岳母も姉も知らず、だいぶ前に出て行ったきりとだけ答えるばかり。済南賓館(ホテル)に泊まり、再三訪れるが、杳(よう)として行方は知れず。

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     時代の寵児だった唐納
         
 悄然とし、ふと、自らが演じた映画《都市風光》の中で、主人公・李夢華が張小雲に失恋して薬酒を何杯も呷って自殺を図ったのを想い出した。薬屋に赴き、消毒用アルコールとマッチを買い、ホテルに戻った。ためらったあげく、その両方を胃の腑に流し込んだ。人事不省に陥っているところを発見され、一命は取り留めた。病院に見舞いに訪れた江青の姉がそっと小声で唐納に耳打ちをした。
 「藍蘋は小俞に逢いに天津に向かったみたい」 (小俞=俞啓威こと黄敬)
 新聞にも『唐藍事件』として唐納の自殺が報じられ、姉からも電報が来て、江青が唐納の前に姿を現した。二人は言葉もなく黙ったまま。六和塔の合同結婚式の立会人でもあった唐納の友人・鄭君里が口を開いた。
 「阿藍(藍蘋の愛称)、上海に戻ろう!」
 「あなた達は先に行って、わたしも後から追っかけるから」
 と、江青が応えると、鄭君里、二人の手を取って促した。
 「駄目だ、皆一緒に戻るんだ」
 「今日戻るの?」
 「今日だ、今戻るんだ!」
 二人はフランス租界で再び同居を始めたが、当時の紙誌は、二人の性格の不一致が齟齬・軋轢の原因と見ているのが大勢。
 『唐納は進歩的積極的思想の持ち主だけど、性格が非常に軟弱。ひるがえって、藍蘋は豪放で、畏れることも屈服することもなく、剛強、豪爽な性格の娘。又、非常に熱しやすい。"天真、熱誠"的な女性』
 江青にはすこぶる好意的で唐納には"軟弱"の一言。

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   唯一の主演級映画[王老五]での江青  

 江青、《六和塔合同結婚式》や《唐納済南自殺》ですっかり知名度も高まったものの、費穆(フェイ・ムー)監督の映画《狼山蝶血記》でも主役・劉三の妻という端役で、蔡楚生監督《王老五》で漸く主人公・王老五の妻の役で主役級の座を得ることが出来た。劇中歌まで唄っている。
 話劇でも《娜拉》では新進気鋭の女優ってところのはずが、《欽差大臣》では冴えない端役で、雑誌で読んだ夏衍の"国防戯劇"《賽金花》をすっかり気に入って早速その主役を狙ったのが、ライバル王瑩(ワン・イン)とその役を巡って対立。作者の夏衍が困り果て、思いついたのが、A、Bの二つの組に分けての上演方式。
 A組 王瑩と金山
 B組 藍蘋と趙丹
 ところが、王瑩、金山等が突然《上海業余劇人協会》を脱退し、別に《四十年代劇社》を結成。金城大戯院と契約し、1936年11月19日に《賽金花》を上演。賽金花=王瑩、李鴻章=金山。大ヒットしたという。翌年2月《上海業余劇人協会》側も、ロシア演劇の父と言われるアレクサンドル・オストロフスキー原作・大御所章泯演出の《大雷雨》で対抗。趙丹がチーホン、藍蘋がカトリーナ。それなりには受けたらしいが、ここでも江青がらみの問題が発生した。江青が今度は章泯とデキているのが発覚したのだ。章泯、長年連れ添ったおしどり夫婦の典型のように言われていた妻との関係に終止符をうち、妻と子供達を捨てて、公然と23歳の江青と同棲。
 そんな中、1937年5月27日、唐納、上海は呉淞(ウースン)の岸壁から水中に飛び込み自殺を図った。勿論理由は江青と章泯との不倫。幸運にもこの時も一命をとりとめた。
さすがに、周囲は藍蘋=江青から離れていき、江青は孤立していった。更に映画会社からも解雇され、いよいよ身の置き所もなくなってか、忽然と上海から姿を消した。
 1938年元旦,雑誌《戯》に短い記事が載った。
《明星(スター)達の近况》
 『聞くところによると、二ヶ月前、藍蘋は上海を離れ、陕北に向かったという。一目、毛沢東に遭うために・・・』

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  劉海粟の描いた江青=藍蘋のヌードと言われているが

 
 以上ざっと江青の青春時代を見てきたけど、後に文革において死神の如く、真紅に返り血に染まった、それこそ"喋血"の「旗手」として中国現代史に禍々しく惨然と輝く存在として屹立することになったその契機は、しかし、明瞭ではない。
 仔細に見ていけばそれなりの要因・契機は意外と読み取ることが出来るのかも知れないが、何しろそんな資料が手元になく、嘗てはあっちこっちで見掛けたはずの「江青」関係の書籍もいつの間にやら姿を消していて、それは諦めた。
 若き江青=藍蘋の文字通りの栄光と挫折ではあったが、所謂"成り上がり"の定式を出るものではなかった。畢竟するところ、問題の所在は、中国共産党の根拠地「延安」以降ってところだろう。やはり、《権力》であろう。実際に権力に関わり始めてから、権力の論理と政治的力学の坩堝の只中に身を置くようになってから、嘗てナチスがそうであった如く、ソ連がそうであった如く、中南海でも、上海でも、中国中でそうだったのだ。権力の論理的帰結、あるいはその一様態。《狼山喋血》ならぬ《唐山喋血》って訳だ。
 
 江青=藍蘋のヌードを描いたので有名な当時の美術学校校長・劉海粟の回想だと、趙丹も彼女と一時同棲していたようだ。彼女の最愛の黄敬は早死にし、唐納はずっとパリに移り住んでたので免れたものの、趙丹や章泯達は軒並み『文革』時に江青の魔手にかかり投獄された。
 藍蘋=江青は、利発だったようで、拍(う)てば響く煥発さが気に入られることも多かったようだ。確かに、後年、魑魅魍魎の巣窟たる中南海、権力者達の只中にあって、一分の引けも取らなかったのは、そんな利発さが無ければ不可能であったろう。

 《一通の公開状》の中で、江青=藍蘋は唐納に宛ててこう記した。
 『わたしの処には一本の果物ナイフとハサミをのぞけば武器なんて何もない。怖がることはないわ、いらっしゃい。絶対に逃げ隠れはしない!・・・わたしは決して阮玲玉みたいに「人の噂は怖い」って自殺したり怯(ひる)んだりはしないわよ』
 
 (注) 阮玲玉(ユアン・リンユィ): 1920-30年代の代表的女優。「人の噂は怖い」と遺書を残して自殺。魯迅すら言及。尤もこの遺書は愛人・唐季珊が自分に都合のいいように作ったものと判明。藍蘋も彼女のファンであったようだ。     
                    

                           ☆大半を「叶永烈《江青伝》」に負った。 

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