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2011年1月14日 (金)

《マイ・ネーム・イズ・カーン》 9.11的アメリカン=マサラ・ムービー

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  久し振りにレンタル屋でインド物を見つけた。シャールーク・カーン主演の昨年初めインドで封切られた《マイ・ネーム・イズ・カーン》で、当時インドではイスラム教徒のシャールークの言動にヒンドゥー教原理主義者達が反発し、上映阻止運動まで起こった曰く付きの作品。人気あるらしいカラン・ジョハール監督のインドの一般大衆向けというより、国外を視野に入れたコスモポリタン仕様って造り。

 この手の映画のお決まりの如く在外インド人達の世界が舞台で( 多分にハイソ志向の臭みが鼻について筆者は必ずしも好きではないが )、これもハリウッドを中心にもはや一つのジャンルと化してしまったとも謂える"9・11"物で、それもインド故にヒンドゥー=イスラムの問題が絡んできて、それだけでも普通に作っても緊張感のある映画が出来そうなくらい。(勿論実際にはそう簡単にいく訳もないだろうが。)
 ところがこのカラン・ジョハールの作品は、更に主演のシャールークにアスベルガー症候群という知能的には普通の自閉症の類を患っているというハンディーを背負わせた。映画を観てすぐに思い至ったのが、ダスティン・ホフマンとトム・クルーズ共演の《レイン・マン》だ。シャールークの仕草の逐一が正にダスティン・ホフマン演ずる特殊知能が天才的に優れている(サヴァン症候群)自閉症者のそれと殆ど酷似といっても過言ではないくらいなのには些か驚かされてしまった。単にそんな病的様態を呈している病なのか、シャールークが《レイン・マン》でのホフマンの演技に心酔してしまっただけなのか知るよしもないけれど。そして《レイン・マン》と同様"ロード・ムービー"的な展開でもある。

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 子供の時からアスベルガー症候群を患っていたものの、特定の分野での知能が抜群で、何でも修繕出来るリズワン・カーン(シャールーク)にはサンフランシスコに弟が移住していて、母親の死後、弟を頼って訪米する。弟は化粧品会社を営っていて、リズワンはセールスを担当させられる。そんな先で出遭った美容院オーナーのマンディラ(カジョール)とやがて結婚し彼女の連れ子サミールとも仲良く生活していた矢先、例の"9・11"が勃発する。マンディラと親しかった隣人の夫がアフガンで死に、その息子と同級のサミールとの仲も疎遠なってゆく。ある日、学校でサミールが同じ学校の生徒達に、名前のイスラム名"カーン"故にリンチを受け死んでしまう。隣人の息子も口止めされ、サミール殺害事件は迷宮入りになりかねなくなって、マンディラは一人孤軍奮闘する。リズワンは、彼女に 「あなたがカーンという名前だったから、サミールが殺されたのよ!!」
と罵られ家から叩き出されてしまう。リズワンは、
 「ぼくの名はカーン、だけどテロリストじゃない!」
と、米国大統領に直に言い理解して貰うことをマンディラに誓い、長い直訴の旅に出る。ある時漸く大統領歓迎の列に並ぶことができたにもかかわらず、迫ってくる大統領にそのフレーズを叫んだのが、周囲の参列人達に「テロリスト」の語だけが聞き取られ、大騒ぎになりあげく逮捕。何とか放免され旅をつづけている内、以前世話になった南部の町がハリケーンに見舞われたのを知り、持ち前の修理屋の腕を発揮し、ニュース種になる。リズワンが英雄となってしまい、情況も変わりだす。サミールの事件も殺人事件としては一件落着し、マンデイラの怒りも融け、新しく選出された米国大統領に直に会うことがかなう。そして件のフレーズがリズワンの口から明言される。
 「ほくの名はカーン、だけどテロリストじゃない!」

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 劇中、ある大きなモスクをリズワンがお祈りをするために立ち寄った際、ふと居合わせた十数人が輪となってある男の反米的なアジテーションを聴いているシーンがある。テロルへの決起を促していたのだ。確かに、世界中でありとあらゆる謀略・悪事に手を染め多くの人々達を悲惨の坩堝に叩き込んできた米国故に、世界の何処ででも起こりえる光景だ。たまたま、米国内のモスクでそんな光景にリズワンが出くわしたに過ぎない。
 男はイブラヒムつまり、旧約聖書に出てくるアブラハムがその一人子イサクを献供(いけにえ)として唯一神ヤハウェに捧げようとした故事を持ち出し、聖戦=犠牲を説いた。アブラハムはユダヤの旧約聖書の聖人であるとともに、イスラムでも信念の人として聖者として崇められていて、トルコ南部(同名の物がイラクにもあるらしい)にイブラヒムの生誕した岩窟が聖処として巡礼コースにもなっている。筆者が訪れた時には、イランからもオールド・ファッションなイラン・ベンツのバスに乗ったイラン人一行が訪れていた。

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 「アブラハムがその一人子(当時)イサクを、神ヤハウェに言われるがままに生贄として差し出したのは、自分の信仰心を証(あか)す犠牲として、ためらいもなく自身の子供の生命と肉体を投げ出したのではなく、神の慈悲を信じていたからこそ、言われるがままに生贄として差し出したに過ぎない」と、リズワンは自分の母親から教わったと反論する。
 しかし、これは些か唯一神ヤハウェを美化するためのこじつけに過ぎた解釈ではなかろうか。このアブラハムが息子イサクをモリヤの地で生贄として差し出す件(くだり)は、ヤハウェが全能の神のはずが、取るに足らない砂粒のような存在のはずの人間達相手にやたら猜疑に満ち、自己顕示欲に憑かれた小権力者の本性全開といったところ。
 アブラハムにヤハウェ自らが「イサクを生贄として差し出す」ことを求めたにもかかわらず、積まれた薪の上に縛られたイサクの頭上に高々と刀をかざし打ち下ろそうとした正にその瞬間、忽然と天使が現れ、イサクを屠るのを止めさせるのだけど、何故、その肝心の時に、ヤハウェ自身ではなく使いの天使なのだろうか。天使にアブラハムの従順さ忠実さを褒め称えさせたりして。人をしたり顔して「試し」たりするのがこの手の心性の持ち主達の特性だ。まわりくどく、得意気で、これ見よがしな割には、ドタキャンして代理を寄こすのだ。何ともさもしい。およそ誠実さというものがない。この聖書編纂者はどんな成り行きと利害で、神自身と使い走りの天使の不整合を正すこともなく並記したのだろう。神=天使なら成り立ち得ようが。

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 この故事を読む毎に、デンゼル・ワシントン主演の《悪魔を憐れむ歌》を想い出す。
人や動物にまで憑依してゆく悪魔アザゼル、悪魔界での序列は定かでないけど、場末の小便臭い殺人事件ばかり起こして得意気な、何ともさもしく貧乏たらしい存在で、生き残るためにはドブねずみにすら憑依してはばからない悪魔アザゼルと相補な同じ一枚のメタルの表裏の関係、つまり神ヤハウェは悪魔アザゼルと本来同一物というちょっと情けない結論が垣間見えてしまう。些か聖書と映画を短絡し過ぎているだろうか。アザゼルという矮小さを捨象して悪魔一般としても、神=悪魔の本来的同一性は同じはず。

 件のモスクを出た後、リズワンはFBIにその旨通報する。当局に逮捕されてしまった一味の生き残りにリズワンはナイフで刺されてしまうものの一命を取り留め、新大統領との面談という運びで、ヒンドゥー=イスラム、インド=パキスタンなんかのシリアスで複雑な一触即発的な難問を抱えたインドにあってみれば、穏健なコスモポリタン的位置づけってところに甘んずる他なかったのかも知れない。

 監督 カラン・ジョハール    
 脚本 シバニ・バティジャ
    カラン・ジョハール
 撮影 ラウィ・K・チャンドラン
 音楽 シャンカル・エサーン・ロイ
 制作 ダルマ・プロダクション、フォックス・スター・スタジオ、レッドチリ・エンタ    ーテイメント 2010年制作(インド/米国)

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