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2011年1月 3日 (月)

《ザ・ロード》 灰色のモノトーン世界は神の曠野

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 年末年始映画にこれといったものがなく、しょうがなしにレンタル・ビデオ屋で未見の作品をあれこれ借りてみた。総じて今一。《ハート・ロツカー》なんかは幾分の期待感をもって観たのが、確かに造りはしっかりしていて悪くはないものの、もはや一つのジャンルと化してしまった感のある"イラク戦争"ものの域を出るものではなかった。爆発物処理という地味だけどハラハラドキドキが面白さのミソなんだろうが、ふと、ベトナム映画《愈された地》を想い出した。ベトナム戦争時の残存地雷を、二人の嫁さん抱えて生きていくために、一つ一つ撤去しながら、地雷原を緑滴る畑に変えてゆく元ベトナム兵士の物語だった。並のハリウッド映画よりも遙かにスリリングで、あっちこっちで賞を取ったらしい《ハート・ロツカー》は又観たいとは思わないが、DVDにもなってない可能性もある《愈された地》は何度も観てみたい。

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 ホラー関係の「2」ものも相次いで出ているけど、大抵はコケてしまった中で、スパニッシュ・ホラー《REC 2》が一番面白かった。古めかしい螺旋階段ってのがヨーロッパ風味なのだろうし、流行の手持ちカメラがリアリティーというよりもむしろ脚枷になってしまっている感もあるが、それが又逆に物語展開における一種のハンディーとなってスリリングさにプラスに作用しているのも否めない。
 
 そんなレンタル・ビデオの中で、ちょっと毛色の違った《ザ・ロード》が興味をひいた。
映画《ノー・カントリー》の原作者でもあるコーマック・マッカーシーの小説がオリジナルで、回想場面は普通のカラー、進行的現実は殆ど灰色に近いモノトーン映像によって構成された荒廃しきった終末世界を一組の父子が南を目指して道沿いに進んで行く軌跡。
 笑わせるのは、父子が自分達の貴重な食料や寝具のを載せた手押し車=リヤカーを引いていた事だ。確かに舗装も朽ち燃料の類も底をついた文字通りの荒廃した世界であってみれば、人力で引っ張ったり押したりして使えるリヤカーが便利であろう。スーパーのカートはあくまで都市部でのみ利用できる代物。映画では二人が如何にも大事そうにリヤカーを扱っていたのが印象的。

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 理由はあかされない文明も他の動植物達も絶え荒廃しきった世界、時折突如として干涸らびた木立が倒れ、食べる物といえば、嘗てまだ文明が存在していた頃の残渣か人肉のみ。 主人公父子は人肉食を忌み嫌っていて、そんな連中を「悪い人」と呼ぶ。殺人を非難してそう呼ぶというよりも、宗教的な規範としての人肉食の忌避のようだ。死んだ人間の肉も、犬肉と同様場合によっては食物となりえようし、選択の余地も無い場合もあろう。食物がそれしか無ければ食べざるを得なくなる。洋の東西を問わず人肉食はそれほど我々人間と疎遠なものではないようだ。それに、終末的な情況に至って食糧事情が壊滅的に悪くなってしまえば、ハリウッド映画 《ソイレント・グリーン》のように、ある年齢に達した老人達の肉体を食素材として加工するという、決して「姥捨て山」が絵空事ではなくなっている現在の日本や世界の情況では。

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 人間社会も崩壊し心も荒廃してしまっていて、回想のシーンでも、男の嫁がやたら死にたがる。父親も自殺したがり、少年も2発しか実弾の残ってない拳銃で自殺したがる。生き残ることに何の価値も見出せず、もっぱらありとあらゆる災厄ばかりが脳裏に明滅するしかないとっくに希望も失せ果てた経験的現実故であろう。
 そして何処まで行っても灰色に閉ざされたモノトーン世界が続いている。稀に出遭う人間達は皆一様に希望を失い疲れ果てくすみきっていて、群れていれば大抵盗賊の類。まだまだ実弾が残っているらしく銃で武装していて、女子供だと強姦してから屠りそれから調理。実弾も払底すると弓矢の時代に落ちてしまうのだろう。

 父親は「心に火をもった」人間を良き人と息子に教える。
 火から文明が起こった故の火であろうか。モラルをも口にするからにはもっと宗教的なニュアンスなのであろう。この場合の宗教的とは、キリスト教的あるいは旧約聖書的ということであり、神ヤッウェの息子達、つまり神の子達が自分達が創り出した人間達の中の美娘達とまぐわったと旧約聖書に記されていて、何のことはない神(の子)にとって動物=獣でしかない人間との交接とは"獣姦"ソドミーのことであって、奢り頽廃し神の手によって滅ばされたと云われるソドムとは正に「神(の子)の都」というべきであった。
 父親の思いとはむしろ逆に、滅ぶべきして滅んだ現実=神(の子)の都=文明の後に、一体何を立てようとするのか?
 しかし、南へ、というのは象徴的だ。
 漸く辿り着いた海、そこは想っていた処とは相違していて、更に南へ、南の海を目指して歩き続けることを己が最期にまだ幼い息子に伝えるのだが・・・
 

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